双璧 第1回

775 名前:双璧 ◆Z.OmhTbrSo :2007/08/08(水) 00:47:49 ID:gpyZgAvT
 哲明の腹には、傷の跡が残っている。
 かなりの古傷だから、上半身裸になってもほぼ目立たない。
 大きさは、せいぜい1センチ程度しかない。だが、決して軽い傷だったわけではない。
 この傷を負ったとき、哲明の腹には深々と刃物が突き刺さっていたからだ。

 話は7年前に遡る。
 双子の兄妹の哲明と明菜が10歳、2人の姉が16歳の頃。
 哲明は、年の離れた姉とも、顔のそっくりな妹とも仲が良かった。
 3人はいつも一緒に遊んでいた。
 両親が家を留守にしていても、姉が一緒にいれば双子の兄妹はどこにでも遊びに行けた。
 遊園地、海水浴、外食、祖父母の家。
 哲明は両親がいなくても、姉と妹がいれば寂しくなかった。

 だが、哲明のいないとき、年の離れた姉妹は険悪な空気になった。
 姉は双子の兄妹の面倒を見ていたせいで、小さなストレスをよく受けていた。
 そんなストレスだらけの日々を救ってくれたのは、愛しい弟の存在。
 どんな小さなことでも頼ってくる弟を見ていると、くじけそうな時でも力が湧いてきた。
 対照的に、妹のことは可愛いとは思わなかった。
 小学校を進級していくごとに生意気になっていくのも、妹が弟と同じ顔をしているのも、姉は気に入らなかった。

 そんな姉の態度を察したわけではないだろうが、妹も段々姉に反抗的になっていった。
 言うことを聞かない、悪口を吐く、わざと家を汚す。
 妹は両親がいないストレスを姉にぶつけていたのだ。
 だが妹が姉に意地悪をするのは、両親が留守にしているストレスだけではなかった。
 双子の兄が、同性から見ても綺麗な姉に懐いているのが気に入らなかった。
 妹は小学4年生の頃から、家族の一員である姉に嫉妬していた。
 姉妹がどうにか共同生活を送れていたのは、哲明がクッションになっていたからだった。

 だがある日、どうにか保ってきたバランスが崩れた。
 それは、哲明が地元の小学生と一緒に泊まりでキャンプに行ったことが発端だった。
 哲明が留守にしていたのは、たったの一晩だけ。
 しかし、その短い間に、姉妹の仲はそれまでにないほど険悪になった。
 姉妹はお互いに、今まで溜めてきたストレスを全てぶつけ合った。
 それで膿がとれればよかったのだが、実際にはより深い溝が生まれてしまった。

 事件が起こったのは、翌日の昼に哲明が帰ってきたとき。
 姉妹は哲明が帰ってきた途端、玄関へ出迎えにいった。
 この時、哲明は姉の懐に最初に飛び込んだ。お姉ちゃん、お姉ちゃん、と言いながら。
 妹は当然腹を立てた。昨晩あれだけ口論しても姉に負けたとは思わなかった。
 だが、兄の行為によって明確に勝敗が分かれた。
 妹はその頃から芽生え始めていた小さなプライドをずたずたにされた。
 それだけなら、まだよかった。
 姉が、弟を胸に抱きながら勝ち誇った笑みを浮かべたのだ。
 何も言わずとも、姉の言いたいことは知れた。
 あなたがどれだけ哲明を好きでも、哲明はあなたに抱きついたりしない。
 所詮あなたは、ただの生意気な妹に過ぎないのよ。



776 名前:双璧 ◆Z.OmhTbrSo :2007/08/08(水) 00:49:11 ID:gpyZgAvT
 妹は怒りで我を忘れた。姉への憎しみに、心を支配されたのだ。
 部屋に戻って彫刻刀を掴み、玄関にいる姉に向けて刃を向けた。
 哲明は突然のことに呆然としていたが、姉は冷静だった。
 力の勝負になれば、高校生にとって小学生をねじ伏せるなど簡単なこと。
 姉は、妹が近づいた途端に蹴り飛ばそうとして待ち構えた。
 妹は彫刻刀を振りかざして、襲い掛かった。
 哲明はその時、姉妹を止めようとして2人の間に飛び込んだ。
 あまりにも絶妙のタイミングだった。姉妹は動きを止められなかった。
 結果、哲明は妹に腹を刺され、姉に背中を蹴られた。
 浅く刺さっていた彫刻刀が、背中を蹴られることで、より深く突き刺さった。
 妹も姉も、何が起こったのか理解できなかった。自分達のしたことの結果も理解できなかった。
 哲明は腹から血を流したまま、妹に向かってのしかかるように倒れた。
 押し倒された妹は、両手を顔の前にかざした。
 妹の手には、真っ赤な鮮血に濡れていて、紅い手袋をしているようだった。

 哲明はその後すぐに病院に運び込まれた。
 すでにその時点で、哲明の顔からは血の気が失せ始めていた。
 手術室の外で、姉妹はお互いの手を握り締めていた。
 そうしなければ、とても耐えられるものではなかった。
 愛しい弟が、大好きな兄が、自分のせいで死んでしまうかもしれない。
 ごめんなさい、ごめんなさい。もう喧嘩なんかしないから。

 哲明は翌日の昼には意識を回復した。連絡が早かったおかげで、出血多量死を免れた。
 涙で頬を濡らし、目を赤くした姉妹に、哲明は言った。もう喧嘩なんかしないで。僕は2人とも好きなんだ。
 姉兄妹(きょうだい)3人で、ずっと一緒にいたい。
 姉妹は、首を何度も縦に振った。もう、2人の間の溝は埋まったのだ。

 それ以来、姉妹の間に共通意識が生まれた。
 哲明は私達がずっと守る。ずっと私達と一緒に暮らすんだ。他の誰にも渡さない。
 姉妹はもう、哲明から離れられなくなった。哲明にブラザーコンプレックスを抱いてしまったのだ。


 夜の帳が落ち、明かりの灯っていない部屋の中。
 明菜は、腹を出して眠る兄の姿を眺めていた。

「テツ兄の傷、まだ残ってるね」

 眠る兄を起こさないよう、軽く腹の傷に触れる。
 肌触りは変わらない。だが、うっすらと浮かぶ傷に指を這わせるだけで胸が痛む。
 この傷は哲明の体にいつまでも残る。成人しても、初老を迎えても、死の目前の時になっても。
 傷をつけてしまったのは、明菜と姉。
 あの事件を思い出さない日など、一日たりとてない。
 明菜は一生かけて兄を守ろうと誓っている。おそらく姉もそうだろう。

「私達で傷の責任は取るからね、テツ兄」

 明菜は舌の先で、哲明の腹の傷を舐めた。哲明は体をぴくりと動かすが、起きようとはしない。

「また明日ね。おやすみなさい」

 明菜は二段ベッドの上、自分用のベッドにもぐりこんだ。


777 名前:双璧 ◆Z.OmhTbrSo :2007/08/08(水) 00:50:43 ID:gpyZgAvT

 8月30日、木曜日の午前8時。
 哲明、明菜、そして2人の姉が同居する家にて。
 ダイニングキッチンの中では、明菜が朝食を作っていた。
 ガスコンロの火を止め、おたまでお椀に味噌汁をそそぐ。
 炊きあがっている米の表面をすくい、ご飯茶碗によそう。
 ご飯と味噌汁、卵焼きを乗せた小皿をお盆に乗せると、明菜はテーブルの前に歩いていく。
 テーブルの席についているのは、新聞を読む姉の姿。
 明菜は茶碗をテーブルの上、自分と姉の席の前に置いていく。
 そして、口を開く。

「ガリ姉、ご飯できたよ」

 途端、ギリッ、という歯軋りの音が部屋に響く。
 新聞がゆっくりと下りていき、姉の憤怒の表情があらわれる。

「今、なんと言った」
「聞こえなかった、ガリ姉? ご飯できたよ、って言ったの」
「そのガリ姉というのはなんだ! リカ姉と呼べ、と言っただろう!」
「昨日、冷凍庫の中に入ってたアイス全部食べたじゃん。テツ兄の分も」
「くっ……しかし、昨日テツと交渉してリカ姉と呼ぶことに決まったはずだ」
「えー。リカ姉って普通すぎじゃん。ガリ姉のほうがいいって」
「いいわけがあるか! それじゃ私の体に骨と皮だけしかないみたいに聞こえるぞ!」
「違うの?」
「違う! 少なくともお前よりは胸も尻も大きいんだ!」
「太ってるだけじゃないの、それ」
「口の減らない妹だな……まあいい。いただきます!」

 ぱん、と手を叩いて、ガリ姉――もとい、リカは朝食に手をつけた。明菜もそれに続く。
 朝食を食べているとき、2人の間に会話が起こることは少ない。
 哲明と明菜の通う高校の教師であるリカから、学校についての話題を振る程度のものだ。
 もちろん、哲明がいれば状況は全く変わる。
 リカと明菜は哲明の両サイドに椅子を持ってきて、肩をくっつけるようにして食事をする。
 会話は途絶えないし、哲明にあーん、と言いながらおかずを差し出す動きも止まらない。
 今そうしていないということは、つまり哲明がいないということに他ならない。
 哲明は朝から友達と遊びに行っているのだ。

「まったく、ゆっくりできるのは今日と明日だけだというのに、テツの奴……」
「あーあ、今日こそはデートしようと思ったのにな」
「待て。明菜は一昨日テツと買い物に行っただろう。私を差し置いて」
「ガ――リカ姉は月曜日、私に黙ってテツ兄と図書館に行ったじゃん」
「それの何が悪い。私の本職は教師だぞ。夏休みの間に勉強を教えるのは当然だ」
「テツ兄、先月で宿題終わらしてたのに、無理矢理勉強させられて可哀相」
「お前はそのテツに無理矢理宿題を手伝わせていただろうが!」
「なによ、それが悪いっての?!」
「宿題ぐらい自分でやれ! 何のための学生生活だ!」

 決してこの姉妹の仲が悪いわけではない。今日はたまたま2人の機嫌が悪いだけなのだ。

「この無い乳! スポンジ頭! いまだにブラしなくても平気なくせに!」
「うっさい、見た目だけ大人の中身はお子様ヤブ教師! 糖尿病でダウンしちまいな!」

 哲明の住む家は、いつだってにぎやかだ。
 違いがあるとすれば、女性二人の声がピンク色であるのか、そうでないのか。その一点だけだ。


778 名前:双璧 ◆Z.OmhTbrSo :2007/08/08(水) 00:52:14 ID:gpyZgAvT


 夕方の7時、哲明は家に帰ってきた。玄関を開けると、姉妹の姿が目に入った。
 明菜は寝そべりながら宿題をしていた。リカは爪をやすりで整えているところだった。
 思わず哲明が後ずさると、姉妹は同時に顔を向けた。2人とも満面の笑みだ。

「おかえりテツ兄! もう、どこに行ってたの!」
「遅いぞ、テツ。外出したときは1時間おきに連絡しろと言っていただろう」
「ただいま。ちょっと勉強に付き合わされててさ。あと、ガリね――じゃない、リカ姉。そんなこと聞いてないから」

 哲明が靴を脱ごうとすると、2人は同時に腕を掴んだ。

「今日何が食べたい? ハンバーグがいい? それともテツ兄の好きな海老ドリア?」
「テツ、今から食事に行かないか? この間いい雰囲気のバーを見つけたんだ」
「あー、その……実は、もう食べてきたんだ。だから夕食はいらない」
「へ?」
「なんだと?」

 明菜とリカは、まったく同時に顔を歪めた。そして同時に哲明の腕を掴む手に力を込めた。

「……ねえ、そんなこと聞いてないんだけど。それこそ連絡の一つぐらいしてくれてもいいでしょ」
「まったくだ。私はそんな子に育てた覚えは無いぞ。誰にそそのかされた?」
「そそのかされたって……いや、電話しなかったのは悪いと思うけどさ。携帯失くしちゃったからできなかったんだよ」
「え……それで遅くなったの?」
「ああ、友達の家で勉強してたら、なんでかどこかいっちゃって」

 哲明は嘘を言っていない。午前中から友人の家で宿題を手伝わされていたのだ。
 連絡をしようと思ってポケットを探っても、携帯電話は入っていなかった。
 家を出るとき、哲明は必ず携帯電話を持っていく。今日も持って行ったはずだった。

「で、見つかったの?」
「いいや。もしかしたら家に置いてきてたかもしれないと思ったから」
「それは無いぞ、テツ。私は何度もテツの携帯電話に連絡を入れた。しかし、テツの部屋から着信音は鳴らなかった。
 やはりその友達の家に忘れてきたんじゃないか?」
「やっぱそうかな……」

 哲明は肩を落として嘆息した。そして、こう言った。

「よりによって、女の子の家に忘れてくるなんて」

 女の子の家。忘れてきた。この二つの言葉から導き出されるもの。
 姉妹は同時にそれを悟った。



779 名前:双璧 ◆Z.OmhTbrSo :2007/08/08(水) 00:54:35 ID:gpyZgAvT
「テツ、まさか……」
「女の家に、行ってた、の……?」

 リカと明菜は、体を震わせている。もちろん、怒りで震えているのだ。
 なぜ怒っているのか、という問いは愚問であろう。
 哲明が明菜でもリカでもない、女の元にいく。それは、姉妹にとって何よりも許せないもの。
 さらに、哲明が女の家に行くと言わなかった事実も怒りを濃くさせていた。

「誰、相手は」
「どこの不届き者だ、その女は。私のテツに手を出すなどと」
「あの……明菜? リカ姉? 腕が痛いから、離してくれないか?」
「正直に答えたら離してあげるよ」
「ああ。だが答えなければ、このまま握りつぶす。すぐ言え、早く言え、嘘偽り無い答えを返せ」

 誰の家に行っていたのか。
 哲明はわけのわからない展開に不機嫌になりながらも、問いの答えを返した。

「クラスメイトの朝倉さんのところ。夕食もご馳走になってきた」
「朝倉? 朝倉というと、私の受け持つクラスで成績トップでついでに学年トップ。
 机や下駄箱やロッカーなどのパーソナルスペースにラブレターが大量に入っているというあの朝倉か?」
「まあ、そうだけど。なんでそんなに詳しいんだよ」
「なーるーほーど。とうとう要注意人物が動き出したってわけね」
「あ、明菜? なんだよ、要注意人物って」
「そのまんまの意味よ」
「はあ?」

 なんで朝倉さんが要注意人物? なんかおかしいぞ、2人とも。
 頭を捻る哲明をよそに、明菜とリカは顔を見合わせた。

「明菜」
「うん、わかってる」

 それだけ言うと、2人は哲明の腕を離し、家の奥へと向かっていった。
 哲明は肩を並べて廊下を歩いていく姉妹の背中を見送った。
 2人がここまで協調性を発揮することはあまりない。
 もしかして今日は何かいいことでもあったのだろうか、と哲明は思った。

 ――姉妹がこのときが来るのを待っていたことなど、哲明は知るよしもない。


次回へ続きます。
流血は(たぶん)ないですが、修羅場は作る予定です。

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最終更新:2008年02月12日 23:46
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