姉ぎらい 第2話

211 姉ぎらい sage 2008/02/16(土) 11:20:03 ID:bGppsMxG
 善良すぎたために厭世主義に染まった男と潔癖でいささか小説趣味の女の夫婦は、生まれた子供たちを善良で幸福な人間に育て上げたいと思いました。彼らにはどのような教育でも実現できる富と地位がありました。
夫は、寄宿学校時代に友人たちから悪い遊びと上手に人を傷つける手管を学んだから、学校には行かせないことにしようと提案しました。
妻は、修道院に入れられていた頃お祈りの楽な仕方と折檻を耐え易くするこつの他に何ひとつ学べることが無かったので、修道院もよろしくありませんと答えました。
二人は悩みに悩んだ挙句子供たちをどこにもやらないで自分たちの手のみで教育することに決めました。そうして子供たちは誰にも知られず、また何ひとつ知らされずに、清らかな、しかし狭く薄暗い世界で育てられたのでした。
 マジェーネは静かに目覚めました。悪い夢を見ていた心地がしました。薄ぼやけていた視界が晴れて未だ見慣れない天蓋の刺繍がくっきり現れると、冷え切った瞼がじわりと熱を持ちました。
マジェーネは跳ね起きてクローゼットに駆け出しました。中に掛けられている衣装を掻き抱いて目一杯その匂いを吸い込みました。が、感じたのは自分の香水の匂いばかりでした。
マジェーネは深い嘆息をもらして呼び鈴を鳴らしました。自室にある着替えを持って来させるためです。
 朝食はしめやかに行われました。給仕の老僕が無口なのは相変わらずですが、今ではおしゃべりだった母も、口うるさかった父も、食事中朗らかに笑うことが多かったマジェーネでさえ黙々と食べ続けるだけでだれ一人としてものを言う人間はありません。
マジェーネの正面席にはナプキンの掛かった椅子がありました。両親は努めてそれを見まいとしています。
 マジェーネは泣きました。この日は物置部屋の柱に傷があるのを見つけたからでした。柱には三本線が目盛のように一定の間隔を空けていくつか刻まれています。
一番下の三本線には上からN、M、Sの順でそれぞれ端に印されています。高くなるにつれてMとSの間が狭まり、真ん中あたりではN、S、Mの順番に変わって、目線ほどの高さになるとS、N、Mの順になっています。そこから上は何も刻まれていません。


212 姉ぎらい sage 2008/02/16(土) 11:22:28 ID:bGppsMxG
 マジェーネは身分の差というものをよく理解しています。彼女にはもう一人の家族ともいえる少女がいました。少女とは十四のころから食卓を共にすることがなくなりました。
一緒に遊ぶことさえ禁じられて始めは歯がゆい思いをしましたが、書斎で外国語の書き取りをしていて気晴らしに窓に目をやったとき、少女が洗濯物を抱えて歩いているのを見て、こういうものだと納得したのです。
人間というものは皆同じでないことを知っているマジェーネでしたけれども、また同時にその垣根を越えることは偉業ともてはやされるのをこのごろ見知りました。今日では、弟と少女の二人は使用人たちの英雄です。
 歴史学を教える年寄り家庭教師と中年の料理番はこそこそ話し合います。
「わしゃ常々あのサディック坊ちゃんにゃ見所があると思ってたんじゃ。あのお方は昔の豪傑と同じ才気がありよる。旧きよき貴族的風格ってやつよ。あんな思い切りのよさは今時の若いもんにゃ無い」
「ネトリーナ嬢ちゃんもなかなかどうして負けておらん。思い返せば立ち振る舞いにどこか貴婦人然としたとこがあった。あの顔立ちはどっかのお貴族様の血を引いとるやもしれん」
 小間使いの女たちはもっとあけすけに物を言います。
「駆け落ちですよ駆け落ち。内気な女中とお堅い坊ちゃんが愛の逃避行ですって」
「ネトリーナも上手くやったわよね。あたしももっと媚売っとけば良かったわ」
「年考えなさい年を。でもこうなっちゃうとわたしらもそのうちネトリーナを様付けしなきゃいけなくなるのかしら」
「さすがにあの子はそこまであつかましくないでしょ」
「いえいえ、ああいった手合いが一番あぶないのよ。もしかしたら初めから」
「ああいやだいやだ。止しなさいよそんなこと。小説で終らせとくのが一番。それにしてもマジェーネ様よ」
「今ではお食事もほとんどお残しになられます。あんなにお痩せになられて、おいたわしや」
「大切な弟様が御逐電なされてしまったんですものね。そういえば、昔からあのお方はサディック様にべったりでしたわ」
「奥様もそれを御心配なされておられましたけれど、今度のことが良い機会かもしれません。そろそろお輿入れなされてもよいお年頃ですし」
 屋敷のどこもかしこもそうしたささやきが溢れていますから、いたたまれないマジェーネは屋敷の裏にある人気の無い庭で日中を過ごします。


213 姉ぎらい sage 2008/02/16(土) 11:24:07 ID:bGppsMxG
客間の窓からは影となって見えない場所に植えられた菩提樹の下には一脚のぐあいが良い田舎風の腰掛が置かれています。マジェーネは独りそこに座り、本を読むでもまどろむでもなく、小さな写真を眺めて物思いに耽ります。
父は写真というものが嫌いでそういった類の品は屋敷に一つも置かないようにされているのですが、この色あせた写真はマジェーネがまだ小さなころ若い庭師がこっそり撮ってくれたもので、数少ない宝物の一つでした。
写真には、彼女とサディック、ネトリーナの三人が並んで写っています。小さなマジェーネは両手を後ろに組んで立っています。ネトリーナは愛らしい顔をかちんかちんに固めています。
サディックは不機嫌そうにそっぽを向いていますが、勇気付けるためでしょうか、緊張する隣の少女と手を握り合っています。マジェーネは写真を右手に持ち替えて、空いた左手をスカートの上に乗せました。
 つるつるした表面を、親指がなぞります。ほんのり白くかすれて、幾度も擦られたのでしょうある部分は白地がむきだしになるほど薄れています。左手に力が入ります。
 かくれんぼの鬼をすると夕暮れまで二人を見つけられないことがたびたびありました。お開きになるのはきまって泣きじゃくる彼女の前に手を繋いだ二人がいそいそ現れたときで、どこに隠れていたのか尋ねても二人は教えてくれませんでした。
 熱を持つほど力を込めて指が往復します。白い部分は少しずつ広がって、とうとう亜麻色の髪までぼやけ始めます。左手はスカートをぎゅうぎゅう押さえつけます。
 彼女の見ていないところで二人は微笑みあっていました。二人は寄り添って歩き、一度立ち止まって、どこか遠くの国の人と声を交わし、手を繋いでまた歩き出しました。
二人は宿に入って行きました。二人は亭主のからかいに赤らめた顔を見合わせました。二人は床に着き、しばらく黙ってじっとしていたかと思うと、ごそごそ衣擦れの音を響かせ始めました。
 マジェーネの脳裏にその場面が現れたとき、澄んだ日差しが菩提樹の葉の隙間から差し込んで手首を照らしました。さっと温かみが差した弾みでマジェーネは自らを汚し終えました。
くたりと垂れた手からこぼれた写真には、手を繋いだ少年と少女のほかに、のっぺらぼうが写っていました。
サディックが危篤に陥ったという手紙が届けられたのは、マジェーネがこの自虐的できちがいじみた一人遊びを覚えてひと月ほど経ったときです。

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最終更新:2008年02月24日 18:47
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