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ハルとちぃの夢 sage 2008/02/16(土) 13:12:28 ID:TTLJaW9a
街がお祭りで盛り上がる土曜、
そんなお祭りなど無関係に、普段と変わらない時間が流れている店がある。
喫茶店『無銘』
康彦と鈴のバイト先であるこの店は、年輩の客が中心であり、”カップル祭”と呼ばれる今回の祭とは無関係な店だ。
「今日は静かですね」
「この祭とウチの店は関係ないからな」
客足が途切れた時間に呟いた康彦に、マスターが焦る様子もなく答える。
60歳を幾つか越えたこのマスター、見た目は頑固で気難しい感じだが、
周囲に反対されていた康彦の両親にとっては恩人に当たり、
また、家計を少しでも助ける為に、バイトを探していた高校時代の康彦を、色々と優遇しながら働かせてくれたりと、
面倒見の良い人だ。
「ヤス君は良かったのか?」
「何がです?」
マスターの唐突な質問に、康彦が手を止めてそちらを見る。
「今日のお祭りに出れなくてさ」
「出るも何も…」
「俺は相手がいないですから」
苦笑混じりに答える康彦、
そんな康彦の眼を見ながら、マスターは何か言いたかったが、その言葉を慌てて飲み込んだ。
代わりに”まだ、時は流れていないか”と、康彦に聞こえない様に、嘆きの呟きを漏らした。
マスターは康彦の事を良く知っている。
当然、楓という恋人がいた事、その恋人が亡くなった事も知っている。
そして、その死が康彦に深い傷を与え、今も康彦を呪縛している事も気付いている。
この日に康彦をシフトに入れなかったのは、彼なりの不器用なメッセージを込めたつもりだったのだ。
218 ハルとちぃの夢 sage 2008/02/16(土) 13:14:22 ID:TTLJaW9a
「ヤス君、最近の調子はどうかな?」
話題を変える為に、マスターが聞く。
「最近…ですか?」
「何時もと変わらず、のんびりやってますよ」
康彦が笑顔で答える。
事実、ここしばらくの康彦は、その前までの慌ただしさが嘘の様に、平穏な日々を送っていた。
あの女子高生からの連絡が途切れる事はない。
だが、”もしもし”の代わりに言ってくる、”二人の邪魔をしていませんね”を除けば、回数も内容も控え目だ。
なにより、保護者代理を自認する康彦にとって、遥の学校での様子を窺い知れるのは有意義だ。
もっともそれを聞く為には、この女子高生の愚痴や不満から、その日に感じた事を事細かく聞かされないとイケないのだが。
それでも、前日に電話をした時は、今日にバイトがある事を伝えると、”それは…好都合です”と、早めに電話を切ってくれた。
妹達二人は、もっと静かだ。
時折、二人で話し合いをしている様子はあるが、
以前みたくに、バイトで遅くなった時に多くの文句を言われる事はなくなった。
”二人の仲が順調に進展していて、自分の必要性が無くなってきた”
康彦はそう思う。
それならば、自分自身の責任を果たせるその日も近いのではないか、
そう考えると、康彦の心は今まで以上に穏やかになる。
「ヤス君!」
康彦の思考を遮る様にマスターが声を上げる。
「は、はい」
「何ですか、マスター?」
「あまり馬鹿な事は考えない方がいい」
慌てる康彦に、マスターが静かに言う。
康彦はそんなマスターの言葉の真意が掴めず、その顔を見た。
マスターは完全にではないが、康彦の心を分かりかけている。
康彦が時折に見せる何かを悟った顔、何にも執着を見せない”無欲”な態度、
若くしてそんな境地を見せた友人達がどうしたかを、
マスターは経験をもって、思い知らされているから。
「そ、そうだ!今日は妹達が来るかも知れないんですよ」
今度は、康彦が慌てて話題を変える。
「ほー、それは楽しみだね」
二人の事も知るマスターは目を細めた。
マスターは願う。
人の死の悲しみを知り、妹達を大切に思う彼が、馬鹿な事を考えないように、と。
219 ハルとちぃの夢 sage 2008/02/16(土) 13:16:23 ID:TTLJaW9a
2
「ちぃちゃん、早くしないと置いていくよ」
佐々木家の自宅、遥の明るい声が響く。
「ハル姉、ちょっと待って!」
智佳が慌てながら、自室から駆け降りてきた。
「ハル姉だけに行かせないから!」
「一人で行かないって!約束でしょ?」
頬を膨らませて抗議する智佳に、遥が笑いながら答えた。
二人とも、自分自身でもっとも気に入っている、”勝負服”に身を包んでいる。
「今日は兄貴を私達だけの物にしていく日、何だから…」
「抜け駆けなんか、しないって!」
遥が笑顔で智佳に、自分に言う。
「そうだよね!その為に今日まで我慢したんだもんね!」
智佳が感慨深く遥に答えた。
縁結びのお祭り、
この日に焦点を合わせた遥は、この日まで兄を疎外する事を決めた。
それは、押して駄目なら引いて見ろ、とでも言うべき作戦で、
それまで淋しがらせる事で兄の気を自分達に向け、当日に一変する事で、兄を自分に向かせようと考ええたのだ。
無論、この作戦は一人では意味がない。
だから遥は智佳に相談し、その協力を仰いだ。
話を聞いた智佳は、最初こそは遥を信用仕切れずに渋っていたが、
兄を独占する為にもっとも効率が良い、と説得されて、ようやく話に乗り始めた。
それから二人は、この日の為に様々な話し合いをした。
兄に、”妹として”だけでなく、”女として”見られなくてはイケないのだから。
その結果、今日に実行するべき、幾つかのハプニングも決まり、
二人は意気揚々と今日と言う日を迎えたのだ。
ただ、二人は気付いていない。
今回に実行してきた作戦は兄にたいした影響を与えず、
むしろ、自分達が兄に関われずにいた、欲求不満に陥ってしまっている事に。
220 ハルとちぃの夢 sage 2008/02/16(土) 13:17:48 ID:TTLJaW9a
「窓、ちゃんと閉めたよね?」
「大丈夫!戸締まりは万全にしたから」
「じゃあ、早く行こうか!」
遥と智佳は、そう言って家に鍵を閉めると、焦る様にして道を急いだ。
「やはり、智佳ちゃんと参加されるおつもりだったんですね」
二人を遠目に見送りながら、嬉しそうな呟きを漏らした人物がいる。
言うまでもなく、遠藤久美だ。
昨日に二人の兄から、この日はバイトだと聞かされていたが、
多少の不安があり、家の近くで様子を窺っていたのだ。
「幸せそうですね、二人とも…」
久美が安心して呟く。
このまま、二人を見守っていけば、自分にとっての”美しい絵”が見れるかも知れない、
そう考えたが、その前にやらなくてはならない事がある、と思い出し、
二人を追跡する事を断念した。
あの”兄”にこの身を捧げる、
そうする事で二人から切り離し、二人を幸せにする、
躊躇もしたが、幾度もあの”兄”と会話する内に、久美の決意は強固な物へと変わっていた。
”男を受け入れるなど苦しいだけ、と聞きますが…”
身を震わせながら、久美が思う。
”ですが、それだけの効果は上げてくれるでしょう”
そう考えると、自分の恐怖が和らぐ。
男など肉欲だけ、この身を使えば簡単に自分の言いなりになる、
久美の基本理念には常にその発想がある。
自分が決意と覚悟さえ決めれば良いだけの話。
その決意と覚悟を実行するのが、今日という日だ、
暗く燃える瞳で久美は歩き出した。
221 ハルとちぃの夢 sage 2008/02/16(土) 13:18:46 ID:TTLJaW9a
3
喫茶『無銘』
今のところ、何人かの常連客だけの、静かな時間が流れる。
「少ししたら忙しくなるから、今の内に休んどきな」
マスターのそんな言葉に、康彦は素直に従って店の休憩室に向かった。
少し経てば、娘を盗られた父親達が、マスターに愚痴る為に押し寄せてくるだろう、
そう思うと、その時のマスターの苦労を考え、康彦は苦笑してしまう。
それ以外は特に変わりのない、自分にとっては平穏な一日になるだろう、
せめて、マスターの気苦労だけでもサポート出来れば、
康彦はそんな風に、のんびりと考えていた。
二人が来たとしても、奢る物を奢れば帰るだろうから。
最終更新:2008年02月24日 18:48