253
__(仮) (1/11) sage 2008/02/17(日) 14:03:46 ID:v8ohaAE0
その日。いまにも雨が降り出しそうな曇天の下。
椿と萩原睦月は、学校の中庭でふたり向かい合って座り、昼食をとっていた。
なぜこんな天気の悪い日に、外で食事をしているか。それは、人気のないところのが好都合だったから。
椿が萩原睦月に相談事を持ちかけるには。
ふたり以外誰も周囲に見受けられない昼食会にて、雨の到来を感じさせる重く湿った風がふたりの頬を撫でる。
椿と萩原睦月、お互い持参した弁当を手に、箸をつけながら。
「えーっ! あの宇津木(うづき)くんに、告白されたぁ!?」
相談事の内容を切り出した椿に対する萩原睦月の第一声が、それであった。
彼女の言う宇津木とは、椿たちと同じクラスの男子で、一年のなかで水無都冬真と似たようなポジション――いわゆる女子に
人気のある立場――にいる生徒であった。
そして、文化祭での演劇で椿の相方を務めた男子生徒。
「ちょっと、睦月。いくら、周りに人がいないからって大声だしすぎよ」
「あはは。ごめんごめん。ちょっと吃驚しちゃって」
箸から取り落としたおかずを、再度つまみあげながら萩原睦月が謝る。
「いや、それにしてもビックリ。……でもないかぁ。惚れた相手が椿なら」
「そんなお世辞はいらないわよ?」
「いやいや、でも、あの宇津木くんがねぇ」
萩原睦月は、感慨深げにほぅと息をつく。
彼女が、その台詞を口にするのも自然といえた。
宇津木は、女子から「格好良くて、運動もできて、頭も良い」と高い人気を誇る生徒だったにも関わらず、
浮いた噂ひとつなかった。
性格的には水無都冬真とは対照的で、宇津木本人の言動にちゃらちゃらしたところはなく、
女の娘にあまり興味がないようにみえた。そのため、一部女子の間では、オトコノコが好きなのでは、という噂が立ち、
密かに通常とは異なる意味での好評も博していた。
だからこそ、椿の相手役に選ばれたようなものだ。男子女子ともに、彼なら大丈夫だろう、と。
「あの、ってどういう意味なの? なにか問題のある人なの?」
椿が訊ねる。
「あ、ううん。そういう意味じゃないよ。って、まあ、あの噂が真実なら
ある意味問題かもしれないけど。椿に告白したってことは、
それはないってことだし」
ひとり納得したのか、うんうん、と頷く萩原睦月。
椿は知らない。宇津木の噂を。同性愛者なんじゃないかという。
椿の周りで女の娘たちは、異性がらみのそういう噂話をほとんどしなかった。椿自身がそういう話をしなかったし、
興味のある素振りも見せないので、必然的に周囲の女生徒と椿との間の話題には、あまり上らなかったのである。
ただ、彼女の得ている信頼感からか、萩原睦月も含めて、恋愛相談は時折持ちかけられていたが。
「それはないって、なにがないの?」
「ううん。別に椿が気にすることじゃないし。それよりもさ! どうするの?
付きあうの?」
萩原睦月は、まるではじめて雪を見た子供のように好奇心たっぷり興味津々といった様子で、訊いてくる。
「なんで、そんなに楽しそうなのかしら?」
「だって、ねぇ。椿が、あたしに恋愛相談してくれてるんだよ?
嬉しくないわけないじゃない!」
そう喜色満面の表情を見せる。
「あら。だったら、期待を裏切ることになって、ごめんなさい」
「え?」
「だって、恋愛相談じゃないもの」
「ど、どういうこと? だって、宇津木くんに告白されたんでしょ?
で、それについて、あたしに相談してるんでしょ?」
椿のいまの言葉の意味と、相談事の内容が噛みあわず、萩原睦月は戸惑う。
254 __(仮) (2/11) sage 2008/02/17(日) 14:06:53 ID:v8ohaAE0
「ええ」
椿は、睦月の質問の内容を肯定する。
「だったら、恋愛相談じゃない」
「まぁ、大枠で括ったらそうなるかもしれないけど。私が相談したいのは、断り方」
「えーっ! 断っちゃうの!?」
萩原睦月は、告白されたことを聞いたときより、一層声を張り上げる。
やっぱり、この場所にして正解だった、椿は改めてそう考える。
「ええ」
「なんでっ!? どうして!?」
「睦月、声のボリュームを落として」
「ごっ、ごめん。でもあの宇津木くんだよ? あれだけ女子に絶大な人気の!
それをそんなにあっさり袖にしちゃうの?」
「あら、睦月は、水無都さんが女子に人気だから好きなの?」
「あ……。そうだよね。別に他の人がどうだからって、関係ないよね」
椿の問いかけに、浮かれすぎた自己を反省したかのか、声のトーンがさがる。
頭を振って、気を取り直すと、萩原睦月は改めて言葉を紡ぐ。
「うん。ごめん。はしゃぎすぎたよね。でもさ、人気があるからってそれだけで
好きにならないのは判るけど、断る理由には直結しないんじゃない?
もうすでに好きな人がいるならともかく」
萩原睦月は、純粋な疑問から訊ねる。
また、言いながら思いついたのか、こう付け加えて。
「そういえば、椿から、誰某が好きとか、一度も聞いたことないよね。
親友としては、それが悲しいなぁ」
「別に、睦月を信頼してないから話さないわけじゃないわよ?
ただ、いまは、まだ、中々そんな気分には、ね」
語尾を濁すようにそう呟いた椿に、萩原睦月は、はっと思い当たる。
「あ……」
椿の過去のことを。
凄惨な出来事のことを。
この街に暮らしていたら、一度は耳にするあの事件を。
そして、仔細に渡ってではないが、一部始終を椿から直接伝え聞いた彼女自身の過去。
(踏んじゃった――)
萩原睦月は、己の頭を殴りつけてやりたくなった。
椿の親友を自負するなら、彼女ことを誰よりも思いやってやらなければならないのに。そう望んでいるくせに。
日頃の椿の態度は、そんな暗い過去を微塵も感じさせないもの故、ついつい頭の片隅に追いやってしまいがちである。
椿も普段からそんな風に気を遣われることを望みはしない。それこそ、そんなことをしたら本当に親友の資格を失ってしまう。
ただ、引かなければならない一線はある。親友として。
「…………」
黙りこんでしまった萩原睦月に対し、その内心を推し量ったのか、椿が彼女を思い遣る言葉をかける。
「もう。そんな、この空模様みたいに暗くならないでよ。睦月にだから言うけど、
私もいつまでも過去にとらわれていたりはしないわよ。これは、まだ、
なんとなくなんだけど、そうね、そう遠くない未来、ううん、
近い将来って言ったほうがいいかな。私も、しがらみを振り払って、
ひとりの女の娘として素直になれる――そんな気がするの」
「え?」
「そんな、予感が、ね」
萩原睦月を元気付けるためか、ゆっくりと瞬きをすると、椿は微笑んだ。
「あ、ああ! うん! うん! あたしも、そのときは椿に協力を惜しまないから!」
椿の言に背中を叩かれ励まされたかのごとく、おおきくこくこくと肯く萩原睦月。
「ええ。だから、頑張ってね」
「え?」
「早く水無都さんとラブラブになって、私も男の子と付き合いたいって羨ましがらせてね」
「あ、う……あぅ」
そう照れたように俯き、うめく萩原睦月であった。
255 __(仮) (3/11) sage 2008/02/17(日) 14:09:42 ID:v8ohaAE0
「でもさ。椿の相談ごとって、結局どう断ったらいいかっていうこと?」
頬にあたる雨粒を感じたため、ふたりは慌てて残りのお弁当を黙々とかきこみ、
体育館と校舎をつなぐ屋根のある渡り廊下に場所を移して立ちながら話す。
「うーん。結論から言うと、睦月の許可が欲しいの」
椿は、肩にかかった僅かな水滴を手で振り払いながら、萩原睦月の質問に答える。
「許可?」
まったく意味の判らない萩原睦月。
なぜ、告白を断るのに自分の許可が要るのだろう。
「実は、もう断っているのよ」
「えっ? じゃあ、事後報告?」
「それが、事後にならないの」
椿が憂鬱そうにおおきく溜息をつく。
「それって、つまり、相手が諦めてくれないってこと?」
「ええ、一言でいうと」
「それで、どう言って、諦めさせようかっていう相談?」
それでも萩原睦月の許可がいる、という結論に至る経緯が判らない。
「どう言って、っていうより、言うことは決めてるの。
好きな人がいるからってことにしたいのよ」
「ん? ……あ!」
萩原睦月は、漸く椿の言いたいことを理解する。
要するに、椿は、その『好きな人』を水無都冬真、ということにしたいのであろう。
かつて萩原睦月自身が言ったように、水無都冬真と如月椿は幼馴染である。その上、一般的な範疇でいうところの理想的な
お似合いの美男美女。日常での仲も悪くない、というより、客観的に見て良いであろう。椿が水無都冬真のことが好き、
という『事実』はこれ以上無い説得力があるだろう。普段誰某が好きと吹聴していない椿にとって。
だから、萩原睦月に許可を取りたいと椿は言っているのだ。
(なんて、律儀な……)
萩原睦月は思う。
わざわざこんなことでも、自分に配慮してくれるなんて。
椿が黙っていたとしても、たとえ、それが万が一真実であったとしても、萩原睦月はそれを責めない。責めるつもりなど毛頭ない。
そもそも自分に責める資格など無いのだ。
もし、椿が水無都冬真のことを密かに想っていたとしたのなら、その想いを踏みにじっているのは自分なのだ。
だから、椿がそこまで自分の思慕を尊重してくれる――わずかでも自分の誤解を得たくないと思ってくれている――ということは、
己に対する好意の多寡に比例しているのだと感じ、萩原睦月は嬉しかった。
「ふーん。あたしが嫌って言ったら?」
萩原睦月は、心から湧き上がる感悦を抑えきれずに、軽快な声のリズムに乗せ、それが冗談だと伝えるため
意地悪な笑みを浮かべながら問う。
「そうね。別の手を考えるわよ。私は、同性愛者ですってカミングアウトするとか。
そのときの相手は当然言わなくても判るでしょうけど」
「あははっ。嬉しいね」
「よく考えれば、そちらのほうが私の本意に近いのよね。
信じてもらえるかは別として」
腕を胸の下で交差させながら、こくんとひとつ首を傾けると、どこまでが冗談か判らないことを口にする椿。
「目の前でキスのひとつでもすれば、信じるんじゃない?」
「じゃあ、不自然にならないよう、予行演習でもしときましょうか」
そう言って、組んでいた手を解くと、萩原睦月の肩に手を乗せ、瞳を閉じて顔を彼女に近づける。
「えっ! ちょ、ちょっと、本気?」
「なわけないでしょ。睦月の『初めて』は、水無都さんのもの、だものね」
椿は、いつのまにか姿勢を戻し、動揺した萩原睦月に、目を細めじとっとした視線を向けている。
微かに口の端をつり上げ、からかう様子で。
「あぅ……」
彼女には勝てないと思い知らされる萩原睦月。
256 __(仮) (4/11) sage 2008/02/17(日) 14:12:35 ID:v8ohaAE0
結局、萩原睦月は、椿の提案を了承した。というよりは、彼女自身は、そもそも自分が了承するような立場には
ないと自覚していた。いまだ水無都冬真の彼女でもないので。
「あ、でも。私なんかより、直接、水無都さんに了解を取っとかなくていいの?」
「大丈夫でしょう。宇津木くんが言いふらしたりしない限り、
誰にも伝わらないでしょうし」
「もし、宇津木くんが言いふらしたら?」
「睦月、貴方だったら言いふらす? 自分が断られた相手の好きな人を?」
「うーん。あたしだったら、そんな惨めなことはしないけど」
ぽつぽつと地面に作られる水玉を見つめながら、腕組をし唸る萩原睦月。その表情に若干影が差しているのは、
水無都冬真に断られたときのことを考えているのであろうか。そして、その『好きな人』まで思いを馳せているのだろうか。
「でも、恋愛は人を狂わせるからねぇ。可愛さ余って――、でどんな行動に出るか」
萩原睦月は、そう首を振る。
「そうね」
頷きながら思う椿。
確かに、恋愛は人を狂わせるのだろう。
でも、彼――宇津木くん――は、狂ってなどいないでしょう。少なくとも狂うような恋愛はしていない。
だって――。
だって、彼はなにもしていないじゃない――。
椿はそう理解していた。ある種の信念をもって。
「万が一、そうなった場合には、水無都さんにフォロー宜しくね、睦月」
にっこりとそう萩原睦月に微笑みかける。
「ええ? あたしが?」
「ええ。水無都さんとの仲を深めるチャンスをあげる親友に感謝してね」
「あーもう! 椿の意地悪!」
「ふふ」
ぷぅとふくれる萩原睦月を見て、椿は、鈴の音を洩らす。
「ところでさ、興味本位で訊くんだけど、椿はなんて言って断ったの?
宇津木くんの告白」
渡り廊下の屋根を支える柱のひとつに寄りかかりながら、いよいよ本降りなってきた雨を横目に、
萩原睦月は椿に問いかける。
「『ごめんなさい。いまは、そんな気分になれないので』」
「うわ。教科書に載ってるような定型どおりの断り文句だね。
それで、宇津木くんはなんて?」
「『如月さんをそんな気分にさせたいから、友達からとしてでもどうかな?』」
「うーわ! くっさー! まじで? ねえ? ほんとに?
あの宇津木くんがそんな台詞を?」
「ええ」
「はー。人は見かけに寄らないねぇ。あの宇津木くんにそんなこと言わせるなんて、
この男殺し! それでそれで? 椿はそれになんて応えたの?」
「『ごめんなさい。友達として配慮してくれるなら、
そっとしておいてもらえるとありがたいのだけど』」
「くわー! クールだねぇ! っていうか、椿、鬼だよ。情け容赦ないね」
萩原睦月は、自分の太ももをパンと軽く叩き、そう感想を述べる。
「変に期待を持たせる答えをするより、親切だと思うけれど」
「まーそれもそうだけど。それでも、宇津木くんは諦めないわけだ。椿には悪いけど、
なんか、あたし、ちょっと宇津木くんを応援したくなってきちゃったよ。
難攻不落の城塞に竹やり持ってひとりで突入するみたいな」
冗談めかしていったが、萩原睦月のその言葉は、多少本音も混じっていたのだろう。
自らも恋する女の娘なのだから。
257 __(仮) (5/11) sage 2008/02/17(日) 14:14:31 ID:v8ohaAE0
「あら。それじゃあ、睦月は、私がいやいや彼と付き合ったらいいと思うの?
それを望むの? 水無都さんに?」
「もう! あたしまで攻撃しないでよぅ。判ってますよ、自分だってそんなことは望まない。
でも、割り切れない気持ちってのもあるんだよ?」
「ええ。重々承知しているわよ。でも、自分を好きになってくれた人の幸せを考えるなら、
次にいけるようするべきだと思うけど。もし、告白されたのが睦月だったら、
どうするの?」
「うーん。椿を好きになるような人が、あたしなんかに告白してくれるとは、
思わないけど。もしっていう仮定の話なら、確かに、あたしも頷くことはできないよ」
そう萩原睦月が椿に同意したところで、予鈴のチャイムが鳴り響く。
「そうでしょう。私も貴方と同じ気持ちよ。さ、戻りましょうか」
そうして、ぴちゃぴちゃとトタン屋根からひっきりなしに滴りおちる雫のなかを、教室へと引き返すふたり。
通用口から校舎内に潜ろうとしている椿を、後を歩く萩原睦月が呼び止める。
「あ。ねえ。椿」
「ん?」
振り返る椿。
「さっき言ってた予感って……、そこには、……水無都先輩が含まれる?」
萩原睦月は恐る恐る訊ねる。
それは、彼女の漠然とした胸裏。
椿がもし恋愛感情を抱くなら――。
「そうね」
椿は即答する。
「そうなんだ……」
「さっきも言ったでしょう。そこには水無都さんも貴方も含まれるわよ。
幸せそうな貴方たちふたりの姿が、ね」
「あ……」
そう呆ける萩原睦月を現実に引きもどすかのごとく、椿は扉を開け、彼女を先に通した。
258 __(仮) (6/11) sage 2008/02/17(日) 14:17:45 ID:v8ohaAE0
* * * * *
その日の授業が引けて放課後。日課を終えた生徒たちの開放感に包まれる教室にて、
椿が帰り支度をしていると、声がかかる。
「如月さん」
宇津木であった。
数名の女子がそちらを見てざわつく。
「あのさ。途中まで帰らない?」
そう誘いをかける宇津木。周囲は遠巻きに眺めるだけで、事情を含み知っている萩原睦月も含めて誰も寄ってこない。
「ええ。ちょうど良かった。貴方にお話があったから。すこしお時間いただける?」
教科書をすべて鞄に仕舞い終え、その蓋を閉じると応じる椿。
「あ、ああ! うん。大丈夫だよ」
その椿の言葉をどう受け取ったのか、宇津木の様子からは僅かに喜びが洩れる。
「ええ。行きましょうか」
椿は、萩原睦月に一瞬目配せすると、後ろを見ることなく先に教室を出る。
萩原睦月は複雑な心持だった。
判っている。
恋する人が、誰も彼も幸せになれるわけではないのだ。
だったら、自分は、己の好きな人の幸せを願うのみだ。椿のそれを――。
椿と宇津木が向かった先は、屋上に出るための階段の踊り場。
昼過ぎから降り始めた雨は、梅雨がその存在を知らしめるよう未だ止むことなく、むしろ激しさを増していた。
ざあ、という雨音が、屋上に出るための扉の向こうから伝わってくる。
「あの、少しは考えてくれたと思っていいのかな?」
扉のほうを向いたまま、宇津木に背を向け話を切り出さない椿に、彼が口を開く。
「ええ。いろいろ考えましたよ。どうやったら、貴方に私の思いが伝わるのか」
「はは……。その分だと、君の応えは全く変わらないってことなのかな?」
ある程度予想はしていたのだろう、それでも失望の感情をその声色に隠し切れず、問う宇津木。
「ええ。というより、私が正直に話さなかったのが、原因だと思っているから。
だから、ね。貴方の想いに応えられない本当の理由を伝えるわ」
「……そう。やっぱり、君には好きな人がいるんだね?」
半ば判っていたことであるかのように、宇津木は返す。
「いいえ」
「え?」
「好き、などという言葉では、括れないのです。私のその人に対する想いは」
「そう……か。正直妬ましいな、その人が。君にそれほど想われるなんて」
「貴方も、それほどの想いを誰かに抱けば、いまの私の気持ちは判ってもらえると思うわ」
「それほどの想いを抱いている――つもりなんだけどな。
だから、こんな惨めったらしいことをしてるんだし」
259 __(仮) (7/11) sage 2008/02/17(日) 14:19:47 ID:v8ohaAE0
椿は、右足のつま先だけ上げ、リノリウムの床を叩き、たん、と音を鳴らす。
そうして漸く振り向く。
「できれば、私は、貴方のことを嫌いになりたくないのだけど」
椿にしては珍しく苛立った様子を、微かに見せながら。
「これ以上しつこくしたら――ってこと?」
とぼけたような顔でそう訊ねる宇津木に対し、椿は思う。
この男はなにも判っていない――。
私が『なにに』苛立っているのか。この男のしつこさに、ではない。
ただ、この男の執着心、それだけは認めてあげても良い。
ならば――。
「ねえ、宇津木くんは、どうしてここまで冷たくしているのに、めげないの?」
「君が、その想い人に冷たくされたら、それだけで諦められるの?」
「それで、私が貴方のことを好きになる、と?」
「いつかそうなる可能性は、否定できないよね」
「ねぇ。貴方には、邪魔者を排除してでも、手に入れたいと思うものがある?
――あの劇の婚約者のように」
椿は文化祭で演じた芝居のことを持ち出す。奇しくもこのふたりが主役を張ったあの劇の。
「ああ」
宇津木は、迷うところなど一点もなく首肯する。
「そう。それで、貴方はなにをするの?」
「それは――」
宇津木は答えられない。
彼がしているのは、愚直なまでに自分の想いの丈を、その相手にぶつけているということだけなのだから。
「宇津木くんに、ひとつ、訊きたいことがあるわ」
「え?」
「あの婚約者、その後、幸せになったと思う?」
「あ、ああ……。いつかは幸せになると思ってる。少なくともその可能性は」
「彼女ひとり?」
「いいや。あの弟も」
「そう」
それだけ呟くと、話はこれで終わりとばかりに、なんの感慨も見せずに宇津木と擦れ違うように階段を下りる椿。
「こちらも、ひとつだけ、いいかな?」
宇津木の呼び止めに、椿はその足を停める。
「如月さんに、そこまで想われているその幸せな男の名前、
教えてもらうことってできるのかな?」
「二年の水無都冬真さん、よ」
そうしてふたりはいつもの日常に戻った。
宇津木が椿に告白する前の。
260 __(仮) (8/11) sage 2008/02/17(日) 14:22:25 ID:v8ohaAE0
* * * * * * * *
「ういーす! 秋みん、椿ちゃん、ご無沙汰ー!
愛しのおねえちゃんが家庭訪問にやって参りましたよー!」
如月家の玄関。
最近、以前にも増して訪れる頻度の高い葉槻透夏が、家のなか全体に響き渡るんじゃないかというほど元気一杯、
活力満載で挨拶をする。
「ええ。透夏さん。いらっしゃい。ご無沙汰してます」
実際、葉槻透夏は三日前にも訪れたばかりなのだが、彼女に倣い挨拶をする椿。
天気予報では、そろそろ梅雨明けの時期の話題が連日上る七月。
葉槻透夏の心を反映したかのように、抜けるような青空が広がった日の午後。
例によって、訪れることをメールで伝えてきた彼女に対して、椿は「お待ちしてます」と返信し。
その約十分後に如月家の呼び鈴を鳴らした葉槻透夏を迎えた。
「あれ? 秋みんは? 愛しのおねえちゃんが両手を広げながらやってきましたよー?」
秋巳が嬉しさのあまり彼女に飛びついてくることでも想像したのか、その言葉どおり両腕を広げて家のなかに呼びかける。
「すみません。透夏さん。今日は、兄さんは、遊びに行くとかで、遅くなるそうです」
椿は、前日に秋巳から聞いていた予定を彼女に伝える。
「え? ど、どいうこと? 遊びに行くって、誰と? 女の娘? そんな!
秋くんが女遊びするような子だったなんて!
そんなに遊びたいならここに相手がいるのに!」
「兄さんは、水無都さんと遊びに行くって言ってましたけどね」
その他に誰がいるかとは聞いてませんけど、椿はそう心の中で付け加える。
「水無都さん? あ、ああ。秋くんの友達だっけ?」
「ええ」
頷く椿。
葉槻透夏は、水無都冬真と直接面識はない。
秋巳と椿が伯父の葉槻栖一の家に世話になっているときに、水無都冬真がそこを訪れたことはなかった。
また、葉槻透夏の方も、秋巳との接触は主に家であったため、水無都冬真と知り合う機会はなかった。
正直なところ、秋巳の親友など気にも留める存在ではなかった、ということもあるが。
彼には自分だけがいれば良いのだ、と思っていたのだから。
ただ、話には何度か聞いていた。それは秋巳の口から直接のこともあったし、いまのように椿から伝え聞くこともあった。
「うーん。秋くんは、友達づきあい中かー」
それでも自分は、秋巳にメールを送っているのだ。いまから行くから、と。
だったら、帰ってきてくれてもいいのに――。
ふるふると首を振り、彼女のなかに刹那駆け巡った良くない考えを払うと、また笑顔に戻る。
「そっかー。秋くんも、お年頃だもんね。友達づきあいはやっぱり大事だよね」
葉槻透夏は、自分を納得させるようにそう呟く。
「ごめんなさい。私だけで」
「ううん。椿ちゃんが謝ることないよ。椿ちゃんに会えただけでも嬉しいしね」
そう言って、つつ、と椿に寄ると彼女を抱きしめる。玄関の段差から、頭ひとつ分高い椿を。
「うん。椿ちゃんは相変わらずいい匂いがするね。その名前に相応しく」
「あら。椿は、ほとんど香りのない花なんですよ」
「ふーん。見た目が麗しいから、香りで鳥とか虫を呼び寄せる必要がないのかな?」
「ふふ。さあ、どうでしょう。でも、私からしたら、そういう透夏さんの方が、ですよ。
私が男だったら、きっとめろめろになってますね」
「うん? そっかなー? 秋くんもめろめろになってくれるかな?」
「ええ。きっと」
きっと――。
なにかを確信するように。透夏の頬をなでる。
261 __(仮) (9/11) sage 2008/02/17(日) 14:24:51 ID:v8ohaAE0
「ちょ、ちょっと。椿ちゃん。なんか私たち、百合ユリな雰囲気が漂ってない?」
そんな椿の仕種に、少しあたふたした様子を見せる葉槻透夏。
「そうですか? きっと嫉妬しているのかもしれませんね」
「え?」
「――透夏さんにあまりにも愛されている兄さんに」
ゆっくりと彼女から離れる椿。その香りを彼女に残すように。
「あー……。あ、あのね、つ、椿ちゃんも愛しているよ?」
「そんな女たらしのような言葉は要りません」
「うわ。椿ちゃんがぐれた!」
「ふふ。冗談です。それにしても、透夏さん、最近は随分とご機嫌ですね」
「え? そっかな? そう見える? いやー。そんなことないんだけどなー」
頬を赤らめながら否定しつつも、葉槻透夏は満更ではなさそうだ。
それもそのはずだ。彼女は最近実感してきているのだから。秋巳との仲が、いままでよりも近づいてきている、と。
ただ、それに比例して彼女の心の均衡も、危うさを増していた。
以前は我慢できていたことが、だんだん辛抱ならなくなってきている。
以前なら、満足できていたことでも、徐々にそれだけでは満ち足りなくなってきている。
だから、それまでより強い自制心が必要になってきていた。
彼女自身、それを実感していた。
そして、そのフラストレーションのはけ口は、判りやすい方向にむいていた。人間の三大欲求のうちのひとつ。性欲。
葉槻透夏が、秋巳のことを想い自らの手で、秋巳のものを――後にも先にも、秋巳のものだけを――受け入れるための、
その淫らにぬめる場所を慰める頻度も上がっていた。
自分の手は秋巳の手だ。この指は秋巳の指だ。そう思い込むたびに身体を駆け抜ける痺れが強さを増した。
――今日は、七回彼に触れた手。一昨日は六回触れた指。
自らの手に移った彼の残り香を惜しむかのごとく、ひとり享楽に耽る葉槻透夏。
ここのところそんな淫靡な夜が続いていた。
当然そんなことを秋巳や、椿にも告げることはなかったが。
「ま。椿ちゃんも恋をすれば、判るんじゃないかな? 命短し恋せよ乙女――ってね」
そんな葉槻透夏の心を見透かすかのように、椿はじっとその恋する乙女の瞳を見つめながら。
「そうですね。私にも、いつかそんな日が来ることを、透夏さんも祈っててくれますか?」
「もっちろん! っていうか、椿ちゃんは、いま、好きな男の子とかいないの?」
「ええ。いままでの事情が事情でしたので」
椿と秋巳の事情をこれ以上ないくらい知る葉槻透夏には、萩原睦月と違って、動揺など微塵もない。いやな思いを
掘り起こさせて椿を傷つけてしまったという。全て判っているから。その懐で全てを受け入れているから。
少なくとも彼女はそう信じている。
「うん。秋くんも含めて、ね。でもね。あたしは恋愛だけが人生の幸せだなんて
言うつもりはないし、幸せは人それぞれだって考えてるけど、
それが選択肢にすらあがらないのは、幸福な人生だとは思えないんだ。
だからね、あたしは、ずっと願っているよ。椿ちゃんと秋くんの幸せを」
「ええ。私も同じですよ」
全く同じです――。
椿はその感謝の気持ちを表すかのごとく、穏やかに目を細めた。
263 __(仮) (10/11) sage 2008/02/17(日) 14:28:14 ID:v8ohaAE0
その後、葉槻透夏に紅茶を振舞いながら、椿は買い物に一緒に行かないかと提案した。
秋巳も夕飯はいらないと言ってはなかったので、彼に手料理を振舞いませんか、と。
ここ最近、彼女が葉槻透夏をそのように誘うことが多々あった。
特に秋巳が外出して、不在のときに。
葉槻透夏が秋巳を置いては外出しないだろう、と椿は思っていた。葉槻透夏の方も、秋巳がいるのにふたりだけで、
というのは椿が誘いにくいのだろう、ましてや秋巳と三人でというのは椿のなかでありえないのだろう、そう認識していた。
椿の申し出に、葉槻透夏は一も二もなく賛成すると、ふたり一緒に如月家を出て商店街へと向かう。
そこで出会った。
秋巳と水無都冬真、柊神奈、春日弥生の四人組に。
夕刻時を迎え、次第に赤みを滲ませていく天陽に、道路も店も街路樹も赤く染めあげられていき、
買い物に向かう主婦や帰宅する学生で賑わうなか。
最初に声をあげたのは、椿であった。
「あれ? 兄さんじゃありませんか、透夏さん」
車道を挟んで向かいの歩道をあるく、制服に身を包んだ四人組を指さす椿。
「え? どれどれ? あ! ほんとだ! おーい! あっきくーん!」
椿の言葉に、秋巳の姿を認めると、迷うところなどなく頭の上で大きく両手を振って、秋巳に呼びかける葉槻透夏。
一方呼ばれた秋巳は、街中で突然大声をかけられて驚いたのか、ビクッと立ち止まり、声のした方を向く。
「あ……」
自分を呼び止めた人物を視認する。そもそも秋巳のことを『秋くん』と呼ぶ人はひとりしかいないのだが。
「お。あれ、椿ちゃんじゃん? 一緒にいる美人は誰だよ。
おい秋巳、おまえのことを呼んでるぞ?」
水無都冬真も秋巳に倣って声の方に振り向き、彼に話し掛ける。
「あ、ああ。じゃあ、きょうはここまでってことでいいかな?」
そう言ってそそくさと退場しようとする秋巳。
「おい! ちょっと待て! まずは、おまえを『秋くん』と呼ぶあの美人を紹介しろよ。
誰だよ? 俺は知らないぞ」
「あんた……、女の娘と遊びに来ているのに、他の女を紹介しろとかよく言えるわね」
水無都冬真の態度を見て、呆れたきった様子で溜息を洩らす春日弥生。
「じゃあ、今日はここで解散としますか!」
「つまり、帰れ、と? あんた、人を苛立たせる術に関しては、超一流ね」
「まぁまぁ。弥生、そう目くじら立てないでも。
私たちは、友達として遊びにきてるだけなんだし」
柊神奈はそう言いつつも、水無都冬真とは違う意味で元気よく秋巳に呼びかける女性が気になって仕方がない。
心中穏やかでない気持ちを、温和な笑みで無理矢理隠す。
「神奈はどうするの? もう、ここで帰る?」
「え……? 折角だし、その、椿ちゃんに挨拶して行こうよ」
「よっし。じゃあ、全員の合意も取れたところで、あっちに渡るか」
そうして合流する四人と、ふたり。
「はい! 秋くん。こんなところで、会うなんて奇遇よね!」
「透夏さん、できれば、街中であんな大声で呼ばないでいただけると、
ありがたいんですけど」
普段、葉槻透夏のやることにあまり口を出さない、文句を言わない秋巳であったが、このときばかりは、
こう言わずにはいられなかった。口調は丁寧で、下手に出たお願いという形だが。
「あはは。ごめんねー。うん。次からは気をつけるよ」
次回からはそっと忍び寄って、後ろから抱きしめようかな、と考えている葉槻透夏。
「ばっか! 秋巳、おまえ、美人のやることは全部正義なんだよ! 美人に間違いはない!
麗人に過失はない。責めたらいけない。で、椿ちゃん、こちらの方はどちら様?
――っていうか、こちらから名乗らなきゃ失礼ですよね。おれ……あ、いや、ボクは、
水無都冬真。秋巳の無二の親友です。そして、こちらは、ボクの嫁の柊神奈ちゃんと、
友人そのいち、です」
水無都冬真は、自分も含めて柊神奈、春日弥生と順に紹介した。
264 __(仮) (11/11) sage 2008/02/17(日) 14:31:42 ID:v8ohaAE0
「…………」
「…………」
柊神奈と春日弥生は、水無都冬真の紹介に、なにもつっこまない。前者は目の前の女の人が気になっていたため、
上の空だったし、後者は、呆れきって喋る気にもならなかった。
「これはこれは。ご丁寧に。うん。あたしはね、葉槻透夏、秋くんのお嫁さん。
いつも主人がお世話になっています」
「ええっ!」
その葉槻透夏の自己紹介に息を呑んだのは、柊神奈だった。
冷静に考えて客観的に判断すれば、水無都冬真が柊神奈を『嫁』と紹介したのにあわせただけなのだと理解できたであろう。
葉槻透夏自身は、冗談のつもりでもなんでもなく本心からの言葉を『冗談』に見せているだけだったが。
だが、柊神奈には、そのときあまり心に余裕がなかったため、純粋に驚いてしまった。
そして、その態度に、葉槻透夏が視線を向けたことも気づかなかった。
「ハイハイ! しつもーん! なんで夫婦なのに、姓が違うんですか?」
必死になって授業中に先生に質問しようとする小学生のような水無都冬真。
「うん。いいところに気づきましたね。水無都くん。あたしたちは、夫婦別姓なの」
「なるほど。ってことは、ボクと柊ちゃんと一緒ってことですね」
「うん。奇遇だねー」
「ねー」
仲良く頷きあう水無都冬真と葉槻透夏。
「ね、ねえ、如月くん……」
そんなふたりを尻目に、秋巳の制服の袖を引っ張る柊神奈。
「こらー! 秋巳。俺の柊ちゃんに、なにを触っとるかー!」
水無都冬真が慌てて秋巳と柊神奈の間に割り込む。彼女を守るように。
「え……? 冬真?」
突然いままでと態度の異なる水無都冬真に若干戸惑う秋巳。普段は、ここまであからさまなそれはとらないのに。
「おまえ、嫁がいるってのに、人妻にまで手を出すつも――っでぃあだ!」
後半声が潰れる。春日弥生が彼の頭の上へ拳骨を落としたからだ。
「で、いつまでこの茶番を続けるわけ。この阿呆は?」
「透夏さんも。そのくらいにしておきましょうよ」
悪ノリした葉槻透夏を嗜める椿。それから改めて話を進める。
「先輩がた。こんにちは。こちらは、私と兄の従姉弟で葉槻透夏さんです。
普段から私たち兄妹が色々とお世話になっている方なんです。
あと、そちらは私も初めてですよね。如月秋巳の妹で、如月椿と申します。
いつも兄がお世話になっています」
そう葉槻透夏を紹介し、春日弥生に挨拶をする。
「はー。こりゃ、よく出来た妹さんだね。私は、春日弥生。で、こっちは、柊神奈です。
当然この娘は、この阿呆の嫁でも彼女でもありませんから」
「あっ、あのっ! 柊神奈です。よろしくおねがいします」
「うん。よろしくね。春日さん、柊さん。秋くんがいつもお世話になってます。
ほら、秋くんも頭を下げて」
そう言って秋巳に並ぶと、肩を抱く葉槻透夏。
「ちょ、ちょっと。透夏さん……」
それを見た柊神奈が、ぴくりと微少に反応する。
それで葉槻透夏は確信した。
ああ、この女は――。
その後、その集団でのおしゃべりがひと段落したところで、銘々分かれることとなった。
秋巳は、椿、葉槻透夏と一緒に買い物へ。
柊神奈と春日弥生は、ともに家路へ。また、別方向である水無都冬真も帰宅の途に。
ひとり分かれることとなった水無都冬真は、秋巳の家の方角へ向かいながらひとりごちる。
「あーあ。柊ちゃんも、あからさまなんだから……」
最終更新:2008年02月24日 18:52