325 __(仮) (1/14) sage 2008/03/21(金) 19:38:25 ID:0n5Kv67J
朝の涼やかな風が、開け放たれた窓から網戸越しに遮光カーテンを揺らし、その隙間を縫って、まだ穏やかな夏の陽が
ちらちらと差込む秋巳の部屋。
時刻は七時半。普段であれば、すでに秋巳は起きている時間であるが、いまは夏休み。
ベッドの上でタオルケットを抱え込むようにうずくまり、秋巳は静謐な朝の睡眠を気持ちよく貪っていた。
だから、秋巳の部屋のドアを叩くノックの音も、中に入ってきた人物にも気づかない。
その人物は、ノックに返事がないことを確認すると、音をほとんど立てずに部屋のドアを開き、
その足音すら敷かれている絨毯に染み込ませながら、静かに秋巳のベッドのもとへ近寄る。
「ねえ。兄さん、朝ですよ。そろそろ起きて、一緒に朝食を摂りませんか?」
ゆさゆさと、愛しい我が子のゆりかごでも揺らすかのごとく優しく秋巳の腕に手をかけ、そっと声をかけるのは、妹の椿。
「んぅ……」
わずかに意識が覚醒したのか、未だ夢うつつか、秋巳は息を洩らす。
無意識に心地良い睡眠から引き戻されまいとしたのか、寝返りを打つ。その結果、起こそうとしている椿の方へ
向くことになったのは、なんとも皮肉であったが。
「ほら。兄さん」
膝をつき、秋巳の枕もとに顔を近づけて、柔らかく、しとやかに、椿は囁く。
まるでゆっくりと秋巳を夢の世界から現実へと誘うように。
「天気も良いですよ。こんな日に、遅くまで寝ていたら、勿体無いです」
「んぁ……だれ?」
未だ半分眠った様子ではあったが、近くに人の気配を感じ取ったのか、秋巳は薄目を開き、反射的に呆けた声をあげる。
それもそうであろう。秋巳が誰かに起こされるなど、ずっとなかったのだから。少なくとも椿とこの家に再び戻ってきてから。
まだ半覚醒状態の秋巳の思考では、この家に自分を起こしに来られるものなど、ひとりしかいないという結論を
導き出せるはずもない。起こしにくるものなどいない、というのが秋巳の日常なのだ。
ゆっくり開いた瞳で、90度傾いた目の前の人物の顔を視認すると、秋巳の意識が一気に現実へ呼び戻されたのか、
二、三度おおきく瞬きをした。
それから、大分はっきりした感覚で、秋巳はまずこう思った。
(――あれ? まだ夢?)
「起きましたか。兄さん」
「……つ、椿?」
「ええ。おはようございます。兄さん」
その椿の挨拶に返事をすることもなく、秋巳はタオルケットを跳ね除けて上体を起こすと、椿に問いかける。
「ど、どど、どうしたの? なにかあった?」
火事? 泥棒? なんで椿がここにいるの? いまなん時? ここ自分の部屋だよね?
秋巳の頭は、ありえない朝の情景に混乱しきっていた。
「もう。まだ寝ぼけているんですか。兄さん。朝ですよ」
椿は立ち上がると窓際へ寄り、シャッと軽快な響きとともにカーテンを開き、秋巳の目を覚まさせるためか、
朝の陽と空気を窓枠一杯に取り入れる。
そうして、いまだ現状を理解しきれていない秋巳のもとにもう一度近づくと、少し腰を折り、再度秋巳に挨拶をする。
「おはようございます。兄さん」
「あ、ああ……。お、おはよう。だけど、どうしたの? きょうってなにかあったっけ?」
漸く異常事態などなく、通常どおりの夏休みの朝を迎えたことを把握した秋巳ではあったが、
椿が自分を起こしに来た理由など、ひとつも思い当たる節がなく、疑問を呈する。
「いえ。いまのところは。兄さんさえ宜しければ、なにかある日にでもしましょうか」
「え?」
「ほら。朝食の準備ができていますから、着替えたら階下(した)に下りてきてくださいね」
そう穏やかに笑みを浮かべると、踵を返し秋巳の部屋を出て行く椿。
「…………」
秋巳は、それから五分以上も固まったままであった。
326 __(仮) (2/14) sage 2008/03/21(金) 19:41:28 ID:0n5Kv67J
洗面所で顔を洗い、秋巳が居間へ入ると、珈琲の香りと、食欲をくすぐる焼いたパンとベーコンの匂いに包まれる。
「あらためて、おはようございます。兄さん。朝食の準備ができていますよ。
いま、珈琲を淹れますから、よければ一緒にいただきましょう」
台所で珈琲ドリップにお湯を注ぐ椿が、秋巳に食卓につくよう促す。
「う、うん。ありがとう」
なんとなく釈然としないまま、だがしかし、焦がれていた朝の家族風景という雰囲気に飲まれて、席に座する秋巳。
いったい椿は、どうしたのだろうか。
秋巳は、つけられたテレビから流れてくる朝のニュースの内容など全く頭に入らないまま、考える。
二日前の終業式の日に、一緒に登校しようと椿に誘われた。
そのときは、驚いたけれども、家に帰ってきてからの椿の態度は、それまでとあまり変わりなく見えたため、
椿の気まぐれだろうかと、秋巳は結論付けていた。
たとえ、一時の気まぐれだろうと、秋巳にとって椿のその行為は喜ばしいものではあったが。
また、秋巳は椿の態度が変わらないと結論付けたものの、それも他に明確な言動の変化がないからということで、
秋巳がそう己を信じ込ませたのに近かった。
椿の自分への接し方が、いままでよりちょっと柔らかくなったのではないか、物腰が優しくなったのではないか、
秋巳はなんとなくそう実感したが、期待して裏切られることへの恐怖からそれを否定した。
椿がたまたま学校に一緒に行こうと誘ってくれたから、浮かれていつもの仕種も自分には欲目でそう見えるだけなのだ。
ひょっとしたら椿が昔みたいに自分に徐々に心を開きつつあるのでは、というありえない夢を見たいがために、
そう感じるだけなのだろう。
秋巳は、そう考え、そのように納得し、自分を諌めようとしていた。
そこへ来て、椿のこの行動である。甘い幻想を抱いている自分に、一滴一滴甘い汁を垂らされているかのごとく。
ただ、心内の葛藤とは別に、秋巳にはもうひとつ懸念が浮かびあがった。
自分の希望に引きずられた主観を抜いても、椿の態度は、客観的に見て、いままでと異なってきているのではないか。
変化してきているのではないか。特に今日のことを含めれば。
はっきりと表されたのは、先日の登校の誘いと、今日秋巳の部屋まで起こしに来たこと、
さらには朝食を準備して一緒に摂ろうと言っていること。
秋巳は、そう心の中でひとつひとつゆっくり吟味する。
普通の兄妹であれば、まったく疑問を挟む余地などない行動であろう。しかし、秋巳と椿の兄妹は、
いわゆる『普通』とは言えなかった。それを示すかのように、そんなこといままで一度もなかったのだ。
この一年間のふたりの生活の中で。
椿に心境の変化が起こったとして、それは、彼女にとって良い方なのか、悪い方なのか。
それが秋巳には心配であった。
椿になにか良くないことが起こって、その結果の『いま』なのだろうか。
確かに、いまの方向であるならば、椿の変化は秋巳にとって嬉しいことである。いままで望んでいたことなのだから。
しかし、それが椿の本意ではないなら――椿が望んでいることでないのなら――そんなことを椿にさせたくなかった。
秋巳は考える。
可能性としてはまずありえないだろうが、極端な話、椿が誰かに脅されて、そういう行動を取れと言われて、
嫌々やっているのなら、椿にそんなことをして欲しくない。させたくない。
あるいは、椿が失恋でもしてショックを受けて、その気晴らしとしてこんな言動に出ているのなら、
秋巳は二重の意味で悲しかった。
それでも後者であれば――椿の意志で行っているのなら――秋巳は、それを受け入れるであろう。
彼女の言行に一喜一憂している自分を見て、椿が癒されるなら、それは全然構わないことであった。
327 __(仮) (3/14) sage 2008/03/21(金) 19:43:58 ID:0n5Kv67J
(だが、椿に直接訊ねてもよいものだろうか――)
秋巳は悩む。
たとえ訊ねたとしても、その原因が椿や秋巳にとって良くないものであれば、彼女ははっきり表明しないであろう。
秋巳にとって、自分が椿に拒否されることが、最悪なのではない。椿が悩みを抱えてるかもしれないのに、
力になれない自分が最悪であった。
(椿の兄である資格など、疾うに失っているのにな……)
自嘲する秋巳。それでも、椿の力になってやりたい。椿の自分に対する認識が『どうでもいい人』であったとしても。
秋巳は頭を振って意を決する。
一度だけ椿本人に、訊こう。
それで、椿がなにも言ってくれないようであれば、それ以上深くは追求しない。椿が嫌がるだけだ。
その場合は、誰かに相談でもするしかないのかな。
秋巳の脳裏に真っ先に思い描く相談相手は、水無都冬真である。しかし、妹自身についての話を持ちかけるとなると、
同性のほうが適任ではないかと思える。自分が直接力になれなくても、椿がその人に相談等できれば、
間接的にでも助けられるのではないか。
ならば。
次に頼ることのできそうな相手として、秋巳のなかに浮かんだのは、葉槻透夏と柊神奈であった。
葉槻透夏は言うまでもない。椿にとって相談相手としては、この上なくベストではないか。むしろ、自分が動かなくても、
椿が相談したければ、椿自らの意思で彼女のもとへ向かうであろう。
そこで、ふと、秋巳は思考を止める。
柊神奈――。
自分は、なぜ、彼女を思い浮かべたのか。確かに、彼女も、椿とはすでに知り合いではある。
だが、特段椿と仲の良い相手というわけでもなく、彼女が椿の相談を受ける義理などないであろう。
ああ。そうか。
秋巳は得心する。自分が相談できる相手、として考えたからか。
そのことがなにを意味しているかまで、秋巳は深く考えなかった。
(――そうだ。あれこれ考えても、まだ椿が悩んでいると決まったわけじゃないし)
「はい。兄さん。珈琲がはいりましたよ」
秋巳の思索を打ち切るように、椿がカップを秋巳の前に用意された受け皿に置く。カップから立ち上る湯気とともに、
珈琲の芳ばしい香りが秋巳の鼻腔を擽る。
「うん。ありがとう」
「いいえ。それではいただきましょうか」
そう言って、自分の分のカップを置くと、椿は秋巳の向かいの席につく。
「うん。いただきます」
「はい」
テレビから流れてくる芸能ニュースを背景音楽に、ふたり銘々食事をしていると、椿が口を開く。
「ねえ。兄さん。先ほどの話ですが」
「さっきの?」
なんのことだか判らない秋巳。
「ああ。先ほどは、兄さん寝ぼけてましたから、覚えてないのも無理ないですね」
椿は、パンをちぎろうとしていた手を止めて、会話を続ける。
「兄さんを起こしたときに、問われましたよね。きょうなにかあるのって」
「え……、ああ」
そういえば、と秋巳は思い出す。椿が起こしに来るなんてなにかあったのかと思い込み、そう訊いたことを。
「なにも、ないんだよね?」
焼きたてでカリカリのベーコンを箸で抓みながら、念を押す秋巳。
「ええ。いまのところは。だから、なにかある日にしませんか?」
「え?」
328 __(仮) (4/14) sage 2008/03/21(金) 19:47:04 ID:0n5Kv67J
「兄さん、きょうのご予定は?」
「特には、ないけど……」
「私もです。でしたら、どこかへお出かけでもしましょうか?」
そう提案してくる椿。
その声色、口調、表情がいつもと同じかどうか、秋巳には判断つかなかった。
「その……、椿と僕で?」
「ええ。誰か他に誘いたい方がいますか?」
「ええ……と、さ。そのまえに、椿、ひとつ訊いていいかな」
食事中にも関わらず若干乾いたようにぱさつく口内を湿らすために、秋巳は珈琲を一口啜ると、ゆっくりと食卓に置く。
わずかな右手の震えが伝わったのか、カップとソーサーが触れ合うときにカチンと音を鳴らした。
「はい。なんでしょうか?」
「椿は、いま、なにか悩んでることがある?」
秋巳の質問は端的であった。因果も理由も含めず、彼にとって大事なことだけ。
「兄さんには、私が悩んでいるように見えるのですか?」
そう訊ねられるのは心外だという意味も含めてだろうか、椿がその瞳を少し見開いて訊ね返す。
「ごめんね。僕には、椿のことがよく判らないんだ。
僕がなんでこんなことを訊くか椿が判らないのと同じに」
それは、秋巳が椿の兄という立場を捨てたから。自らの悲しみに呑まれて放棄したから。
自分が受けた仕打ちよりもさらに非道いことを椿に上乗せした結果だから。秋巳はそういう自虐を込めて応じる。
悲しそうな面持ちをその顔に滲ませる秋巳に対し、椿はまばたきをひとつすると、静かに首を振る。
「いいえ。兄さんが謝ることではありませんよ。それと、兄さんに私のことを
判っていただけていないのは、残念ですが、私は兄さんのことを判っているつもりですよ」
「え?」
「私のこの二、三日の言動、でしょう? 兄さんが、その疑問を抱くに至った原因は」
「あ、ああ……でも、なんで――」
その秋巳の疑問に被せて椿が発言する。
「そのくらいしか、思い当たりませんから」
事もなげに。
「それに、兄妹であっても、親子であっても、恋人同士であっても、
それこそ双子であったって、お互い相手のことで判らないことがあったり、
判りあえないことがあるのは当然ですよ。兄さんがそんなに気に病むことはありません。
だからこそ、ヒトは、言語という素晴らしい意志伝達ツールを発展させてきたのですから。
訊けばいいのです。伝えればいいのです」
秋巳は気づかなかった。彼の思いと、いまの状況が逆転していることに。
秋巳は、椿に悩みがあれば、それを解決してあげたかった。だが、椿に悩みがあるかどうかすら判らないことに苦慮している。
その秋巳の憂慮を、椿が払拭してあげているのだ。
「兄さんの質問に応えるなら、私に特別な悩みはありませんよ。それは、私も人間ですから、
全く悩みなしに生きているわけではありませんが、なにかに悩んでいるから、
兄さんに対する態度が変わったとか、そういうことはありません」
「そう、か。もうひとつ確認させてくれるかな」
椿のその台詞に背中を押されたのか、さらに真剣な顔で質問を投げかける秋巳。
「ええ。なんでしょうか」
「これは、椿の意に添わないことはない? これは椿の意思?」
「ええ。全く。そもそも、私が本意にそぐわない行動をしたりしたことは、ありませんよ。
特に兄さんに対して。いまも昔も。そして、これからも」
「そう。椿が不本意でなければ、僕はそれでいいよ。
椿の望んでいることをやれることが、僕の望みだから」
「と言うわりには、あまり納得された顔をしていませんね」
椿が、秋巳の面貌を覗き込んで、言う。
329 __(仮) (5/14) sage 2008/03/21(金) 19:50:23 ID:0n5Kv67J
その言葉は、確かに的を射ていた。秋巳の言に嘘はない。椿が望んでいるなら、秋巳にとってなんら不満はない。
だが、秋巳には椿がなぜそのような変化に至ったか理由が判らないから、もしかしたら、と考える。
良い方に考えれば、自分に気を使ってる。悪く取れば、自分には話すに値しない、と。
そんな秋巳の複雑な心情を、その浮かない憂色から感じ取ったのか、椿は、はあ、と息を吐くと、
少し躊躇った様子でゆっくりと瞳を閉じ言葉を紡ぐ。
「これは……、できれば、あまり言いたくなかったのですが、私も怖かったのです。
いいえ、おそらくいまでも少し」
「え? ど、どういう……?」
「兄さんは、私の態度が急に変わったことに対して、私がなにか悩みを持っているのかと
考えていらっしゃるかもしれませんが、逆なのです。
むしろ、時とともに不安が薄れてきたから、でしょうね。あえて、言語化して述べるなら」
椿は一息入れるためか、すでに温くなった珈琲の入ったカップに口をつけ、ひと含みする。
「普通の兄妹のように接して、兄さんに、また、その……、以前のような態度をとられるのが」
いままで怖かったのだ。畏怖していたのだ。だから、いままでのような言動をとっていたのだ。
椿はそう言う。
「あ……」
椿のその言葉に、秋巳は頭をガツンと殴られる。この上なく思い知らされる。
自分の犯した罪が、いかに妹の椿を傷つけたのか。どれほど彼女の心に消えない裂傷を抉ったのか。
彼女に不本意な態度を強いていたのは、他の誰より秋巳自身であったのだ。
(なにが、椿の悩みを解決してやりたい、だ……)
誰よりも椿を悩ませたのは、彼女を見捨てた自分なのに。彼女の存在を己の中から消し去った秋巳本人なのに。
「兄さん、勘違いしないでください。それも、私の意志なのです。
先ほどの言葉に、嘘はありません。私は常に自分が思ったとおりに行動してきました。
そこに不満はありません。誰に対しても。もちろん、兄さんに対しても」
「でもっ――!」
椿の台詞を否定して続けようとする秋巳に対し、なにも喋らないで、とばかりに椅子から腰を浮かすと
その冷たい人差し指で、秋巳の口を塞ぐ。
「そんな悲しそうな顔をしないでください。だから、言いたくなかったのです。
でも、それで黙ったまま兄さんを苛ませるのは、私の望むところではありません。
その私の気持ちを汲んでくれませんか?」
それに、と椿は続ける。
「私だって、兄さんを傷つけるような態度をとったこともあったでしょう?
私自身の意志で。だから、それはどちらが一方的に悪いとかではないはずです」
それは違う!
秋巳は否定したかった。
彼女自身が受けた迫害を考えれば、そんなこと非にもならない。
当然の帰結だ。
秋巳が椿のことを『存在しないもの』として扱ったことで、秋巳は彼女に対して莫大な負債を背負ったのだ。
椿が秋巳の心を蝕んだところで、その正当な貸し付けを返却してもらっているだけなのだ。
実際には、秋巳が椿から受けた傷など、椿のそれに比したらその利子にも値しない微々たるもの。
でも、椿は、自分の気持ちを汲んでくれ、と言った。
あくまで、椿自身のために、己を責めないでくれと秋巳にお願いした。
(――自分は、どこまで)
どこまで、椿に甘えれば気が済むのであろう。
ひょっとしたら、己の存在自身が椿にとっての『災厄』なのではなかろうか。
330 __(仮) (6/14) sage 2008/03/21(金) 19:52:56 ID:0n5Kv67J
「兄さん。これから、を考えてください。過ぎたことを、ああすればよかった、
こうすればよかったと後悔しても、なにも始まりません。これから、どうするか。
兄さんが以前のように接してもらうほうが落ち着くというなら、そうします。
私も正直なところ、すこし迷っていた部分もあるのです。
いまから、ありふれた仲の良い兄妹のように接するのは、どうすればいいのかな、と」
「そっ、そんなことない! そんなことないよっ!」
テーブルに手をつき椅子から立ち上がり、平静を失った様子で首を振ると、必死に否定する秋巳。
椿が望んでくれるのなら。秋巳と椿がありふれた仲の良い兄妹になることを期待してくれるのなら。秋巳にとって是非はない。
「そうですか。それは、良かったです。私も、少しずつ慣れていけばいいのかな、と思っていたので」
それまでの会話で積もった重苦しい雰囲気を取り払うかのように、にっこりと微笑むと、椿は、再び椅子に腰をおろす。
それから、なにかを思いついた様子で、たおやかに細めた瞳の奥から、視線を秋巳に真っ直ぐ向ける。
「そうですね。荒療治、というのもいいかもしれませんね」
「え?」
「ねえ。どう思う? 『おにいちゃん』」
「…………」
色々な意味で呆気に取られ、絶句する秋巳。
そんな秋巳の表情に、満足したのか、ふふ、と声を洩らす椿。
「やはり、私にはいまさら似合いませんね」
そうして、穏やかな空気を取り戻した朝食の時間が、過ぎていった。
* * *
「ねえ。ところで、兄さん。話は戻りますけど」
朝餉を終えた後、台所で食器を洗いながら、居間のソファに腰をかけテレビを見やる秋巳に、椿が話しかける。
「先ほども申しましたけど、今日は天気もいいですし、どちらかへ出かけませんか?」
「え、ああ、そうだね。つ、椿は、どこか、その、出かけたいところとか、あるのかな?」
椿の申し出に応える秋巳の口調はどこかぎこちなかった。
ふたりこの家で生活する中で、普通の兄妹、ありふれた家族のやり取りというものが、ずっとご無沙汰だったため、
秋巳としては、なんとなく変に意識してしまっていることの証左だったのかもしれない。
自分も迷っている、と先刻椿も言っていたが、妹も慣れないながらも、自分に合わせてくれているのだろうか。
秋巳は思う。
椿の言動に、違和感や変に力の入ったところなど見受けられない。とても自然に見える。
表に見せないだけなのだろうか、それとも、自分が椿のことをそこまで感じ取れるほど、理解していないのだろうか。
どちらにせよ、椿が希望していることであれば、それに応じたい。応えてあげたい。
「兄さんこそ、どこか行きたい場所、ありますか?」
「う、うん。僕は、椿と出かけられるなら、どこでもいいよ」
「ふふ。兄さん、そういう言葉は、妹でなく恋人に言ってあげてください」
「えっ? ええっ! いっ、いやっ! そういう意味で言ったんじゃ……」
「でしたら、どういう意味ですか?」
「いや、その、妹と出かけられるなら……、と」
「出かけられるなら?」
「……どこでもいいかな、と」
「すみません。さっきの言葉とどう違うのか、私には全然判りません」
意地悪げな笑みを浮かべて、秋巳に応じる椿。
「う……」
331 __(仮) (7/14) sage 2008/03/21(金) 19:55:27 ID:0n5Kv67J
「ふふ。世間一般的な妹だったら、こういうとき、なんて言うんでしょうかね。
『おにいちゃん、気持ちわるーい』とでも言うのでしょうか」
「え? あ……」
椿のその言葉にショックを受ける秋巳。
椿に対してごく普通に『兄』として『妹』に接するなど、自分にはやはり無理なのだろうか。
「兄さん、勘違いしないでくださいね。私は、私です。世間一般的な像で語られる『妹』ではありません。
如月秋巳のたったひとりの血を分けた肉親である如月椿なのです。
先ほどは言葉の綾で『ありふれた兄妹』などと申しましたが、私がなりたいのは、『如月兄妹』なのです。
社会通念に照らし合わせて、その枠組みで無理矢理振舞うようなことはしたくありません。
私も自分が思ったとおりに行動しますから、兄さんも兄さんの心のままに」
椿はそこまで一気に喋り、一息つくと、ですから、と続ける。
「ありがとうございます」
「え?」
「そのように言ってくれて、ありがとうございます」
それが私の応えです、と椿。
「あ……、その、別に、感謝されることじゃ――」
「だって、ご機嫌伺いなんかではなく、兄さんの本心なのでしょう? 先ほどの言葉は」
椿は、確かめたのだ。秋巳の言が本心からか、『妹』に対する接し方を意識するあまりに出た台詞なのかを。
だから、椿は、一度は「恋人に言ってあげたら」と返したのだ。妹に対して、機嫌を取るような言葉を選ばなくても良いですよ、と。
それでも、秋巳は、椿と一緒にいたいだけ、と返した。
それで椿は確信した。
ああ、本当に兄はそう思ってくれているのだ。
そして、それに満足すると、秋巳の反応を見越してわざわざ一般像を持ち出し、続けざまにそれ自体を否定してみせた。
自分がなりたいのは、ごくありふれた妹などではなく、如月秋巳の妹である、と伝えた。
秋巳の真意を問う椿の質問に、こくんと頷き肯定する秋巳。
「ああ。うん」
「ですから、私も思ったことを兄さんに言うだけです。ありがとうございます。
私も同じ気持ちです、と」
「あ、いや、なんか、照れるね」
秋巳は人差し指で、頬をかく仕種をすると、椿から目を逸らす。
あまりにもギャップが大きすぎて。
秋巳はいままでずっと思っていた。椿には恨まれているんじゃないか。疎まれているんじゃないか。
どうでもよい存在と思われているんじゃないか、と。
でも、そんなことない、と椿は、秋巳の不安を払拭してくれている。
秋巳が椿のことを大事に思っているのと同様に、自分も秋巳のことを思っていると陽に暗に伝えてくれている。
「兄さんは、恥ずかしいですか? 私には、これっぽっちも恥じ入るところなどないですけど」
「いや、その、誤解しないで欲しいけど、嬉しいんだ。嬉しすぎて、
その、なんか、舞い上がっちゃうというか」
「ふふ。判っています。私も、同じですから。さて、片付けも終わったことですし、
出かける準備をしましょうか。どこへ、とも決めずに散策するのも、結構楽しいと思いますよ」
椿は、最後に洗っていたカップを軽く振って水を切ると、網籠に入れる。
「ああ。そうだね」
秋巳は、そのとき信じていた。椿とふたり、かつてのような兄妹にまた戻れるのではないか。
秋巳が切望して、でも叶わないと半ば諦めていた、『家族』が戻ってくるんではないか、と。
ここが通過点だと気づかずに――。
332 __(仮) (8/14) sage 2008/03/21(金) 19:58:17 ID:0n5Kv67J
* * *
それから秋巳と椿、ふたり街に繰り出し、特に当ても持たずに、夏の日差しが照りつけて汗ばむ陽気のなか、
様々なところを巡っていた。
秋巳の住むところから三駅ほど離れた駅ビル構内の百貨店でのウィンドウショッピング。
「ほら。兄さん、こういう服なんてどうですか。兄さんが恋人に着てもらいたいとしたら
どれを選びます?」
「え? それは、うーん。ごめん。よく判らないかな」
「ふふ。兄さんらしい答えですね。でも、折角だから、選んでください」
「椿なら、なにを着ても似合うんじゃない?」
「もう。恋人ならそれで誤魔化されてくれるかもしれませんが、妹はそうはいきませんよ」
「はは……。手厳しいね」
「ええ。それはもう。兄さんの妹ですから。直感だとどれですか」
「うーん。これかな。でも、椿がいま着てるのが一番合ってるよ」
「ふふ。兄さんは、天性の女たらしですかね」
「ええっ!?」
お昼のきつい日差しを避けて、涼むために入った大型書店。
「そういえば、このまえ、睦月がお勧めだって言っていた本がありましたね」
「へえ。どんなの」
「なんでも、女性の品格を説いたものらしいですけど」
「努力家の萩原さんらしいね」
「ええ。彼女はいつも頑張っていますから」
「椿は、どうなの?」
「私も頑張ってはいますよ。いろいろとね」
「そうか。僕も頑張らなくちゃね」
「兄さんは、いまのままでいてくれればいいですよ」
「そうもいかないよ。椿の兄として、あまり恥じないように、ね」
「そうですか。ところで、兄さんは、普段どんな本を読まれるのですか。
ああ、水無都さんから渡されるような、ひどく嗜好の偏った娯楽品は別ですよ」
「な……! つ、椿がなにを言っているのかよく判らないのだけど」
午後になって、遅い昼食を取るために入った庶民的な定食屋。
「落ち着いてて、雰囲気のいいところですね」
「ああ。でも、デートとかでは、来るような場所じゃないかもね」
「あら。デートでこそ、使ってみたらいかがですか? 兄さん」
「え?」
「こういうとこに連れてこられて、それだけで興冷めして離れていくような人であれば、
さっさと離れていったほうがお互いのためでは?」
「うわ。きついね。そういう椿は、どうなの? もし、恋人にこういうところに
連れてこられたら?」
「帰りますね」
「あの? 言ってることが矛盾してるんだけど?」
「いいえ。全然、矛盾してませんよ」
「ひょっとして、椿って、ものすごく我侭?」
「あら。いまごろ気づきました? ものすごく我侭で自己中心的ですよ?」
「椿と付き合う男の人は大変だね」
「ええ。それはもう。ものすごく苦労してますよ」
「え? もうすでにいるの?」
「はい。目の前に」
「あ……。あはは。確かに苦労してるね」
「もう。そこは否定してください」
「でも、椿もいつか本当にそういう人とめぐり合えたらいいね」
「……そうですね」
333 __(仮) (9/14) sage 2008/03/21(金) 20:00:13 ID:0n5Kv67J
いい加減歩き疲れて、ひと休みのために入った喫茶店。
「ふぅ。流石に疲れましたね」
「うん。そうだね。今日はよく歩いたよね」
「今日の夕食は、どうします? 兄さん確か当番でしたよね。どこかで食べて帰りましょうか?」
「そうだね。どうしようか」
「そういえば、今日はお祭りでしたね。近所の神社で」
「そうだっけ?」
「ええ。一度家に帰って、軽くなにか食事して休んでから、また、出かけましょうか。
兄さんがお疲れでなければ」
「うん。僕は構わないけど。椿は大丈夫なの? 疲れてるみたいだけど」
「遊ぶ元気は別腹ですから。そうと決まれば、なにか軽くつまめるものでも買って戻りましょうか」
「うんそうだね」
* * *
そうして戻ってきた如月家。
日も落ちて漸く涼しくなってきた風を、リビングの窓際にぶら下げられた風鈴のちりんちりんという音色とともに、
秋巳が感じている。そこへ、お祭りに行く準備をしますから、と自室へ引き上げて行った椿が、再び居間に姿を見せる。
「お待たせしました。兄さん」
現れた椿は浴衣を身に纏っていた。椿の肌よりもさらに白い色を基調に、涼しげな藍色と水色の草模様をあしらい、
さらに紺地に白抜き模様の帯で締めた艶姿。
秋巳は、普段見慣れない妹の晴れ姿に一瞬言葉を失った。
「それは……」
「ええ。お母さんのものです。私のは、子供のときに着たもの以外に買っていませんから」
「とても――。とても、良く似合ってる」
なんの衒いも気負いもなく、率直な感想を述べる秋巳。
「ええ。ありがとうございます。私も一応女の娘なので、こういうハレの日くらいは
お洒落をしてみようかと思いまして」
「そういえば、履物はあるの?」
「はい。これも、押入れの奥に眠ってたのを引っ張り出しました。
きれいに拭いて玄関に用意してます。兄さんはその格好で行かれます?」
「うーん。合わせたほうがいいのかな?」
そもそも自分も浴衣など持っていないことを思い出し、果たしてこの家に自分の着られる浴衣なんかあったかな、
と考えながら秋巳は返す。
「いえ。気にすることないと思いますよ。兄さんさえよければ、このまま出かけましょうか」
「うん。そうだね」
このままふたりで歩けば、自分が色々な意味で不釣合いだとは思ったが、あまり気にすることを止め、秋巳は椿の言葉につき従う。
334 __(仮) (10/14) sage 2008/03/21(金) 20:02:51 ID:0n5Kv67J
決して広いといえない神社の、あまり規模の大きくないお祭りだというのにも関わらず、人の賑わいに溢れ返り、
夜の気温を低下させまいとばかりに熱気に包まれる境内。
盛況のなか、どこからともなく鳴り響くお囃子の音。呼び込みをかける屋台の人の元気の良い声と、
小さな子供のはしゃぐ甲高い声が木霊する。
そんな雰囲気の中、人ごみの間をゆっくりと練り歩く秋巳と椿。
時折、屋台のおじさんからかけられる「おお! 兄ちゃん、別嬪さん連れてるね。どうだい、ひとつ買ってかないか!
彼女の手前気風のいいとこ見せなきゃな!」という謳い文句も半ば苦笑いで躱しつつ。
「あれ? 椿? 椿じゃない?」
「お? 椿ちゃん? どこどこ?」
ふたりの背後から声がかかる。
その呼び止めに、椿より先に反応した秋巳が振り返ると、水無都冬真と萩原睦月がふたり立っていた。
「あー! やっぱり椿だ! それと、お兄さんも! うわー椿どうしたの?
そんな浴衣まで着て粧し込んじゃって。っていうかすっごく綺麗!」
「こんばんは。睦月。それと、水無都さんも」
椿の姿を見て、普段よりさらに一層テンションをあげて、彼女に向かっていまにも飛びかからんとばかりに
はしゃぐ萩原睦月とは対照的に、落ち着いて挨拶を交わす椿。
それに、萩原睦月の隣に立つ水無都冬真が片手を挙げて応じる。
「おお! 秋巳、椿ちゃん、こんなとこでふたりに会うなんて」
「奇遇だね。冬真。それと、萩原さんも」
「はい! でも、今日はおふたりですか?」
「ええ。一緒に行ってくれるような異性がいない寂しい兄妹ですので」
「またまたぁ!」
「そういうおふたりは、デートですか」
「えっ! い、いや、デ、デートってわけじゃ……」
「えっ!? デートじゃなかったの? ひょっとして俺勘違いヤロー?」
「あああ! 違います違います! そんなつもりじゃ!」
椿と水無都冬真の間で、あたふたとする萩原睦月。
「水無都さん、睦月をいじめないでくれますか」
「お? 萩原ちゃんをいじめていいのは、椿ちゃんだけって?」
「はい。そうです」
即答する椿。
「ちょ、ちょっと椿!」
「なるほど。それにしても、今日はまたどうして? おふたりさん」
そう水無都冬真が話題を変えるためか水を向ける。椿ではなく、秋巳に。
「あ、いや。折角お祭りやってるから、出かけようかなって」
「椿ちゃんが?」
「え? あ、そうだけど」
「ふーん、ほー」
なにを納得したのか秋巳には判らなかったが、水無都冬真は腕を組みうんうんと首肯する。
「なるほど。なるほど」
判ったぞ、と水無都冬真は呟く。
「どうしたの? なにが?」
「椿ちゃんが、今日お洒落をしてきているわけさ!」
「え? 水無都先輩判るんですか?」
「ああ。椿ちゃん、君は今日俺がこのお祭りに来ることを知っていたな?
そんで、愛しの先輩に自分の晴れ姿を見せようと、精一杯お洒落して兄貴を出汁に
俺に会いにきたってわけだ?」
そう椿に人差し指を突きつけ、犯人はおまえだ! とばかりに豪語する。
「…………」
「…………」
沈黙する秋巳と萩原睦月。
336 __(仮) (11/14) sage 2008/03/21(金) 20:06:23 ID:0n5Kv67J
「ふふ。流石ですね。水無都さん。なんでもお見通しってわけですか」
「ええっ! ほんとなの!? 椿!」
「勘違いしないでね。睦月。いまのは、水無都さん流の意地悪な言い方なの。
あの台詞はね、本当は私に自分が来ることを知らなかっただろうって言いたかったのよ」
「え? ど、どういうこと?」
「簡単な論理よ。水無都さんは判っているのよ。水無都さんが来ることを私が知っていたら、
ここに来るはずないって。ましてやお洒落なんかするはずないってね。
それが、お洒落してここにいるってことは、逆説的に、私は知らなかったってことになるのよ。
水無都さん意地悪だから、ああいう言い方をするのね」
「あの? そんな意味はこれっぽっちも込めてないんだけど。
っていうか、そこまで言われると流石の俺でも傷ついちゃうよ?」
その言葉どおり水無都冬真は落ち込んだ表情を見せる。暗にどころか、これ以上ないくらい陽に、
貴方の前でお洒落などしない、貴方になど会いに行きたくないと言っているようなものだからその反応も自然であろう。
「あら。違いました? 残念。私には、推理の才能がないみたいですね」
そう言って、ふふ、と微笑む椿。
「ふぇー。椿にかかったら、水無都先輩でもたじたじなんだ」
萩原睦月は、なにに感心したのか、大きく開いた手を口に当てて、そう感嘆を洩らす。
「お? 萩原ちゃん、言ってくれるね。まだまだ判らないよー!
野球は九回ツーアウトからって言うし」
「頑張ってくださいね。先攻の水無都さん」
「ちょ! それじゃ俺、逆転できないじゃん!」
「大量リードで逃げ切ればいいんですよ」
「無理! 柄じゃないし」
「あははは」
椿と水無都冬真の会話の応酬に、萩原睦月は愉快そうに笑い声をあげる。
そして、思う。
(ああ、本当に――)
本当に、このふたりはお似合いなんだな、と。
(――もしかしたら、椿は自覚していないのかもしれない。水無都先輩も、
はっきりとは認識していないのかもしれない)
ただ、もしそうだとして、自分はどうする。
萩原睦月は、かつて椿に言った。
相手が椿であれば、水無都冬真のことを諦められるかもしれない。
それがいま、現実のものとなるかもしれない。たとえ、真実は全然違っていたものだとしても、
萩原睦月の世界ではそう見えている。そう認識している。
自分は水無都冬真のことを諦められるのだろうか。椿を応援できるのだろうか。
萩原睦月は、漠然として答えの出ない自問を繰り返す。
迷ってても仕方ない。なにかしら動かなければ、なにも進まない。真実も。自分の気持ちも。
だったら、吉と出るか凶と出るかは判らないが、前に進むべきなのではないか。
萩原睦月は、頭の中に渦巻くもやもやを振り払うかのごとく首を振ると、椿に提案する。
「ね、ねえ! 椿、お兄さん、ちょっとお借りしてもいいかな?」
「え?」
「どうしたの? 睦月?」
「うん。ちょっとね。お兄さんに訊きたいことがあって」
「およ? 秋巳のおしめが取れた歳なら、三歳だよ?」
「あはは。そんなことじゃないです」
「私は構わないけれど……、兄さんは?」
「お兄さん、いいですか?」
「え? ああ、別にいいけど……」
果たして、椿の親友が自分にいったいなんの用事なのだろうか。
「それじゃ、すみませんけど、お付合いもらえます?」
そう言って、神社脇の林の方に歩き出す萩原睦月。
「おい、秋巳! 人気のないところに行ったからって、襲いかかるなよ!」
「かからないよ」
それだけ答えて萩原睦月の後ろにつき従う秋巳。
337 __(仮) (12/14) sage 2008/03/21(金) 20:09:13 ID:0n5Kv67J
人の群れを抜けて、お祭りの雰囲気からは若干外れた神社脇にそびえる林の手前で立ち止まる萩原睦月。
「すみません。お兄さん。急に」
後から付いてきた秋巳に振り返ると、まずは頭を下げる。
「いや、別に構わないけど、どうしたの?」
「えっとですね、椿と水無都先輩のことなんですけど」
「椿と、冬真の?」
「はい」
そうして萩原睦月は自分の思いを語った。
もしかしたら、椿は水無都冬真に惹かれているのかもしれない。それはまだはっきり恋心と気づいているものではないかもしれないけれど、
かつて椿が男性に恋愛感情を抱けるかもしれないと言っていたことと照らし合わせると、そんな予感がする、と。
秋巳には、椿の言の部分を省いて伝えたが。
そんなところにおいて、自分がどうしたらよいか正直判らない。
性質は違えど、自分は椿も好きだし、水無都冬真のことも好きである。だが、もし、そのふたりが想い合っていたときに、
負の感情を抱かずに応援できるかどうか、自信がない。
こんなことを秋巳に相談するのは、筋違いかもしれないが、椿と水無都冬真をよく知る人物として、頼ってしまった。
それが内容だった。
「そうか……」
萩原睦月の相談内容を訊いて、秋巳は呟く。
「萩原さんは、冬真のことが好きなんだもんね」
「はい……」
「僕もね、正直言うと、椿はひょっとしたら、冬真のことが好きなんじゃないかと思ってたんだ。
萩原さんと同じように、はっきりとは自覚していないだろうけどってね」
「や、やっぱり!」
「うん。でもね。それは、椿が冬真に萩原さんのことを紹介する前にそう思ってたんだけどね」
「え?」
「でも、椿は、親友である萩原さんを冬真に紹介した。それが、椿の結論なんだと思うよ」
「でも! それは自覚していないから」
「じゃあ、椿が自覚したらどうすると思う? 君から、冬真を取り上げると思う?」
「椿はそんなことしないです! そんなことしないからこそ悩んでるんです。
きっと、椿は自分の想いに気づいたとしても身を引いちゃう」
「萩原さんは、それが不満?」
「…………」
「さっき言ってたよね。しこりが無く応援する自信がないって」
「はい……」
「萩原さんは、身を引く前提なの?」
「だって……、自分の所為で、椿の想いを踏みにじりたくない!」
「萩原さんは、本当に椿のことが好きなんだね。ありがとう」
「そんな、お礼を言われることじゃ……」
「まあ。それはいいとして。これは僕の個人的な意見だけど聞いてもらえるかな?」
秋巳のその言葉にゆっくりと頷く萩原睦月。もともと、秋巳に相談をしたくて呼び出したのだから、
それは願ってもないところだ。
「僕はね、椿には幸せになってもらいたいと思っている。椿が冬真と一緒になることで、
幸せになれるならそうなって欲しいと思っている」
「ああ――」
萩原睦月は実感する。自分はこの言葉を言ってもらいたかったのかもしれない。椿を想うもうひとりの人間にも、
椿のためにも引いてくれと宣告してもらって、踏ん切りをつけたかったのかもしれない。
「でもね――」
秋巳は、そんな彼女の内心など気づく素振りも見せず、続ける。
「冬真もね、僕の友達なんだ。それこそ、萩原さんが椿のことを大事に思っているように、
僕も冬真のことが好きなんだ。親友としてね。冬真にも幸せになってもらいたいと思っている。
だから、椿の気持ちを優先して、冬真が椿のことを好きでもないのに
付き合ってくれなんて頼むつもりは毛頭ないよ」
「え?」
萩原睦月は、秋巳の言いたいことを図りかねて疑問を挟む。
338 __(仮) (13/14) sage 2008/03/21(金) 20:11:36 ID:0n5Kv67J
「冬真が好きな人は、冬真が選ぶんだ。だから、いいじゃない。
ふたりとも冬真のことが好きになったとして、その瞬間に諦めることはないと思うよ。
萩原さんも椿もね。結局冬真が好きな人と一緒になれなければ、それは、僕の望むところじゃない。
身を引いたほうが、冬真の好きな人だったとしたら、それじゃ、冬真が可哀想だよ」
「あ……」
萩原睦月は天啓を得たとばかりに、大きく目を見開く。
それもそうだ。ふたりの人間が同じ人を好きになったといって、その好きな人の気持ちを無視して、
お互いのことを考えて身を引いたりなんだりと、確かにある意味身勝手と言えよう。
「冬真もこういうことに関しては、結構飄々としてて、僕もその本心までは窺い知れないところがあるけど、
でも、こうやって、萩原さんとふたりでお祭りとかに来るってことは、満更でないと思うよ。
冬真って、ああ見えて結構女の娘とふたりで出かけたりとか、あんまりしないから」
だからね、と秋巳はさらに言葉を紡ぐ。
「萩原さんは、もっと素直に自分の想いを追いかけていいと思うよ。
椿が気づいたときには手遅れだったとしても、それこそ、さっきの話じゃないけど、
試合が終わった後に打席に立ったって、試合に勝つどころか、点すら入らない。
打つことすら出来ないんだ。それはそれで、椿の人生なんだから」
萩原睦月は、じっと瞳を閉じて、耳に染み入るような秋巳の言葉を、頭の中で反芻する。
自分が素直であれば、きっと椿もそれに応えてくれるんではないか。
密かに自分の想いを仕舞いこんで、影で偲ぶなんてことせずに、正々堂々自分に宣言してくれるのではないか。
それこそが彼女の望みであり、秋巳の言葉はそんな希望を萩原睦月に抱かせた。
「はは……。ありがとうございます。お兄さん」
「いや。別に。これは、僕の個人的な考えだし」
萩原睦月の真っ直ぐな視線を受けて、照れた様子で頭をかく秋巳。
萩原睦月の相談内容が、秋巳が誰より大事な椿と水無都冬真のことでなければ、基本的に他人に関心を抱かない秋巳は
ここまで真剣に考えて本心を話さなかっただろう。
そのふたりに対して彼女がここまで真摯でなければ、秋巳は、当り障りのないことを言って、煙に巻いていたかもしれない。
でも、秋巳はそのふたりが大好きで、そして、萩原睦月も愚直なまでに誠実だった。
だから、秋巳は応えた。萩原睦月の期待以上に。
「はー。でも悔しいですねぇ」
「え? なにが」
「だって、水無都先輩に対する想いで、お兄さんに負けてる気がするんですもん!」
「ちょ、ちょっと……」
「あはは。でも、お兄さんも結構女殺しなタイプですね?
あんな真剣に想われたら、大体の女の娘は一発ですよ?」
「あはは。妹と同性の親友だけどね」
「だからこそ、女殺しなんですよ」
そう言って秋巳の肩を軽く叩いた萩原睦月に、その意味するところをよく理解できずに、秋巳はつられて曖昧に笑った。
339 __(仮) (14/14) sage 2008/03/21(金) 20:14:03 ID:0n5Kv67J
* * *
時間は少し遡って。秋巳と萩原睦月を見送った椿と水無都冬真は、人の流れの邪魔にならないよう御影石の敷き詰められた参拝道脇に寄り、
そこに設置されたベンチに腰をかけていた。といっても、腰を下ろしていたのは水無都冬真ひとりであり、
椿は、水無都冬真が座るよう勧めてもそれを遠慮し、その傍に屹立していたが。
「萩原ちゃん、秋巳になんの話だろうね?」
「さあ、私には判りかねます」
「心配じゃない?」
「なにが、でしょうか」
「いまごろ、自分の兄が自分の親友に襲いかかってるかもしれないって」
「いいえ。全然。むしろ、我が身が心配ですね。水無都さんに襲いかかられないかって」
「おりょ? 心外だね。俺は紳士よ。決して、暴力的な手段には訴えないさ!
ましてや、人を使ってなんてね」
そう自分の胸を硬く握った拳で、ドンと叩く水無都冬真。
そんな彼を半眼でねめつけるように椿。
「どういう意味でしょうか?」
「ん? ああ、だから、人に頼んで椿ちゃんを襲わせて、
そこに颯爽と自分が助けに入って椿ちゃんを惚れさせるなんて、小賢しいことはしないさ」
「どうでしょう。そんなことを思いつく人の言葉を、そのまま鵜呑みにはできませんけど?」
「もう。信用ないなあ。秋巳が悲しむようなことはしないよ? できるかぎりね」
「そう願います」
「ところでさ、話はちょっと戻るけど」
座った位置から、椿を見上げる様子で声をかける水無都冬真。
「なんでしょう」
「野球の話。九回裏ツーアウトから、実際何点取れると思う? 一般的な話」
「理論的には、何点でも可能なのでは?」
「じゃあ、椿ちゃんが守り側で、九回裏ツーアウトまでとった状態でマウンドにいたとしたら、
何点あったら、このまま逃げ切れると思う?」
「私は、野球のことよく判らないのですけど」
「勘で良いからさ」
ほらほら、とばかりに、水無都冬真は椿に回答を促す。
椿は、秋巳たちの消えた方角を見やりながら、水無都冬真の質問に考え込む仕種をする。
そして、そのまま、彼のほうに振り向くことなく答える。
「――1点差、満塁、カウントノースリー、ですかね」
「ヒュゥ! かっこいー!」
水無都冬真の囃す声が、欠けた月の肩に薄雲がかかる夏の夜空に吸い込まれた。
最終更新:2008年03月23日 21:38