いもうとはオオカミ

648 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:31:05 ID:1ZM8wWcV
妹のチコが、オオカミになった。
例えの話ではない。本当に、オオカミになってしまった。

そのオオカミは、ぼくのそばで尻尾を振って、幸せそうにぼくを見つめている。
時折、ぼくの顔に近づき、くんかくんかと匂いをかいで安心する姿は、
かつてのチコを思い出すような仕草。そんなチコは今や、オオカミ。
ぼくは、オオカミに食べられるかもしれない。
ぼくの事が好きで好きで、オオカミはぼくを食べてしまうかもしれない。
病室の窓に映る桜が、ぼくらをあざ笑うように咲いている。
あんな桜、目障りだから早く散ってしまえ。



649 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:31:36 ID:1ZM8wWcV
まだ、風がぼくらの耳を切り裂くように冷たかった頃の事。
「お兄ちゃん!早く帰ろっ!」
高校からの帰り道の途中。ぼくより3つ下のチコがぼくを見つける。
仔犬のような円らな瞳を輝かせ、ぱたぱたと交差点の向こうからチコが走ってきた。
本当は「智世子」なんだが、周りのみんなは「チコ」と呼ぶ。
「わたしは、お兄ちゃんの匂いが解るんだよ」
「うそつけ」
くんかくんかと、ぼくの首筋を匂う様な格好をするチコをぼくは小突く。
それでも、チコは嬉しそうな顔をする。
小突かれた事が嬉しいのではない。ぼくといるだけで、チコは嬉しいのだ。

「ウソを突いてないかどうかって、目を見れば分かるんだよ。ほら!わたしの目を見て!」
ぼくの背筋が凍る。
チコの目は、さっきまでの子犬の瞳ではなく、まるで血を好む獣のような冷たい目に変わっていた。
しかし、チコは元気にぼくの周りを飛び跳ね、目だけがウソをついているような
そんな、不思議な錯覚に陥る。チコはそれでも、ニッと笑う。
「うー!がおー!」
ふざけて、チコはオオカミの真似をしているが、本気のようにも見えるのが恐ろしい。



650 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:32:03 ID:1ZM8wWcV
翌日の朝、チコがぼくを起こしに来る。
毎朝の事なのだが、にわとりのように律儀にチコはぼくを起こす。
「じりりりりり!朝ですよー!」
外は、まだ薄暗く息も白くなるほど寒い。そんな現実の朝へとチコからの誘い。
チコはぼくを布団ごとゆっさゆっさと揺らし、ぼくの目を覚まそうとする。
「あと、3分―」
「だめです。早く起きないと、わたしと一緒に学校に行けないでしょっ!」
チコのわがままの為だけに、ぼくは残酷な朝に突き落とされる。
「もー!早く起きなさい!」

かぷっ

「痛たたたたたっ!!」
ぼくはびっくり箱の人形ように飛び起きる。チコに噛まれた事は今までに何度かある。
ぼくが中学生の頃、クラスの女の子との交換日記をチコが見つけたときに、二の腕を噛まれた。
テレビで好みのアイドルが映って、ぼくがにやけた時にも首筋を噛まれた。
最近では、チコと話していて、クラスの女の子・太田さんの名前をポロっと出しただけでその日、虫の居所の悪かったチコに手を噛まれた。
が、今日はよく研がれた剣で突かれた様な異常なまでの痛さ。
手で噛まれた所を抑えると、指が赤く染まっていた。
無邪気なチコがニッと笑って立っている。チコの目は昨日の様に獣の目。
口元の歯は、もはや牙と呼ぶ方がふさわしいほどの鋭さだった。



651 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:32:43 ID:1ZM8wWcV
その日以降、チコのオオカミ化は顕著になる。
食事も、肉ばかり食べるようになる。スズメを追いかける。ネコを追いかける。
そんな姿にぼくの両親も心配するが、当の本人はどこ吹く風。
心配のあまり、外に出るなと母親がチコを戒める。

「そんなことしたら、お兄ちゃんと一緒に遊びにいけないじゃないの!」
母親は、何かを捲りながら、座ったまま首を振るだけ。
「もしかして、お兄ちゃんとわたしを切り裂こうとしてるでしょ!バカ!」
親に「バカ」と言い出す始末。その時の顔は、もはやオオカミ。
くるりと、ぼくの顔を見て、ナミダメのチコはぼくに救いを求める。
「お兄ちゃんは、わたしの味方なんでしょ?そうでしょ?」
ここで「違う」なんぞ言ったら…ああ、恐ろしい。

「う、うん。チコの味方だよ」
殆ど脅迫に近いチコの質問に、ぼくは答えると嬉しそうにチコは甘噛みをする。
あきれた母親は、どこかに出てしまった。

ぽつんとテーブルには古いアルバムが残されてあった。母が見ていたのだ。
母方の家のアルバム、幼い母の写真が並ぶ。
いかにも田舎の農村という感じの風景がバックに写し出されているのどかな風景。
母は、とある地方の庄屋の家系の娘。家はかなり大きい。
順々に見ているとふと、あることに気付く。
母がある年齢の頃から一緒に写っていた少女がいなくなっているのだ。
その少女が、家族の集合写真にいるということは、母の身内の誰かという事。
姉妹がいたという話は、母や親戚から聞いたことがない。いたとしたら、ぼくやチコの叔母にあたるこの子。

この子は誰だろう。そして、今何をしているんだろう。心なしか、チコに似ている。



652 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:33:51 ID:1ZM8wWcV
「お兄ちゃん!買い物に付き合ってよ」
よそ行きの服に身を包んだチコが、ぼくの背中にのしかかる。
「智世子!もう、外に出るのは、やめなさいって言ったでしょ!」
母の言葉がチコを凍りつかせる。

「やだ!お兄ちゃんと一緒に出かけたいもん!」
背中にのしかかったままのチコ。
チコの涙がぼくの肩を濡らす。ぼくを後ろから抱くチコの手もまたオオカミのもの。
爪がぼくに優しく食い込む。
「わたしの邪魔をする人は、みんな死んじゃえ!!オオカミに噛まれて死んじゃえ!!」
この日から両親は、チコは長期療養の名目で学校を休ませる事にした。

寒さが和らいできた春分過ぎの朝。
ぼくと一緒に通学できなくなったチコは、一人くらい自分の部屋に閉じこもっている。
チコは、ぼくを起こしに来る日がなくなった。
「チコ、いるのか?」
心配になったぼくは、チコの部屋を覗いてみると、チコはベッドの上にちょこんと座っている。
頭から獣の耳が生えたチコの姿が、未だか弱い朝日の逆光でシルエットになっていた。
「どうして、わたしは…。生まれたんだろう…。お兄ちゃん…」
チコの泣き声が聞こえてきた。

そんなチコにとってはゆううつな日々が続く。
午前中は母親の話によると、どんよりと暗く沈んでいるらしい。
話しかけても、チコは取り憑かれたように、ぼくの事ばかり話しているらしい。
そして夕方、ぼくが帰ってくると、ぱあっと向日葵のように明るくなるとの事。
「わたしの人生は、夕方から始まり朝に終わる」
とまで、チコは言い出す始末。
また驚いた事に、ぼくが玄関の扉を開ける前に、ぼくの足音だけでぼくだとわかるのだという。
事実、玄関を開けると同時に廊下の奥からチコが走ってきた事がある。
「お兄ちゃんの音は、ぜーんぶ分かるんだから、逃げちゃだめだよ」
脅しとも受け取れる、恐ろしいチコの台詞。
家から出なくなった事により、チコはいっそうぼくに構いだす。
生まれたてのヒナが、親鳥についていくようだ。着いて来るのは妹だが。
そのため、家で一緒にいる時間が長くなった気がする。



653 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:34:16 ID:1ZM8wWcV
ぼくの安息の時間は、学校だけなのだろうか。
学校での安息は短い。この短い時間は、太田さんと過ごす。
太田さんは、身内と比べるのもなんだが、チコとはまた違うタイプの女の子。
大人しいめがねっ娘で、よく言えば優等生、悪く言えばガリベンなオタクさん。
人付き合いの苦手な太田さん。ぼくは、彼女と隣同士の席になってから、太田さんにずっと話しかけている。
できる事なら、彼女の心の扉を開けてあげたい。

「チコちゃん、大丈夫?」
「う、うん。ちょとね、ぼくも心配なんだけど、太田さんも気を使ってくれてありがと」
太田さんのほうから、人に話しかけることはない。いわんや男子においてをや。
ぼくは、ずっとチコのことを話していたので、太田さんは興味を持ったらしい。
この間、チコが長く学校を休んでいる、と太田さんに話したばかりだ。
しかし、チコはあの状態。無論、会わせる空気は家にはない。

チコは、野生の感が利く様になってきたのか、ぼくが話してない事まで気付くようになっている。
「お兄ちゃん。女の子の匂いがする!」
チコの牙がぼくを襲う。
たしかに、ぼくは今日、太田さんからハンカチを借り、
今度、洗って返すと言った。それで、今ぼくは太田さんのハンカチを持っている。
むりやり、ぼくのポケットからハンカチを引きずり出しチコは匂いを嗅ぐ。
ハンカチには「OHTA」と刺繍が。
「お・お・た?」
ああ南無三!
もちろん、チコは太田さんの事を知っている。しかし、会った事はない。
「わたしをのけ者にしちゃうと、お兄ちゃんを食べちゃうんだから!」
チコの牙は、もはやぼくを傷付ける為だけにしか意味を成さない。
「太田、待ってろよお!」
突然、チコがハンカチを持って家を飛び出した。
外には、満月が浮かんでいる。不気味な月光の浴びながら、ぼくはチコを追いかける。



654 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:34:38 ID:1ZM8wWcV
ハンカチを持って飛び出したという事は…。
考えると恐ろしい。早くチコを捕まえなければ。
ぼくは妹をさがす。そう遠くに言っていない筈だ。
心当たりを走り回ってさがす。必死にさがす。

しばらく探していると、耳が生え、尻尾のある見覚えのあるシルエットが目に入る。
チコが車道に居るようだ。遠くから車が近づいてきた。危ない。
「チコ!待て!」
チコは反射的に遠くに駆け出してしまった。姿がもう見えない。
ぼくは、咄嗟に車道に出る。さらに車が近づく。
気付いた時には、運転手の顔がはっきり見えるくらいぼくは車に近づいていた。

なんだろう…。ゆっくり、周りが動いているな。あまりにもまわりがノロマすぎて笑っちゃうくらい。

そう思っていると、ぼくは、赤く染まったアスファルトの上に寝転んでいた。
深夜ながら周りが騒々しかった。
遠くからぼくを迎えに、救急車が来る。そして、目の前が暗くなった。



655 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:35:13 ID:1ZM8wWcV
ぼくは、病院の庭に居る。
庭には、桜が悲しくなるくらい咲いている。
ここに運ばれてから、病院での暮らしが続く。松葉杖には、もう慣れた。
そういえば、ずいぶんとチコとは会っていない。チコはどこに行ったんだろう。
見舞いに来た両親もチコに会っていないと、心配している。
ぼくらはバカな兄妹だ。親が来ると説教ばかりでウンザリ。
太田さんにでも、見舞いに来て欲しい。

そんな中、思いもよらない来客があった。
ぼくの目の前には、オオカミがいた。
いや、違う。9割方オオカミになったチコがやって来たのだ。
チコの毛皮に覆われた体は血だらけで、着るものは着ていなかった。
「わたしの邪魔をする泥棒猫は、わたしが始末したよ」
チコに付いている血は、泥棒猫の血だと言う。
「太田…さん?だっけ?わたし、必死に太田…さんの家、見つけたんだからお兄ちゃん誉めてよね」



656 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:35:37 ID:1ZM8wWcV
まさか。
チコはにやりと笑っていた。
「でも太田さん、ちょっとお人よし過ぎるよね。『お兄ちゃんから預かった、ハンカチ返しに来ました』って言ったら
すぐ玄関開けるし…。ガブって手に噛み付いちゃったよ。アハハ。でも、番犬が騒いだのは誤算だったなあ」

このときのチコは、心なしか寂しげだった。
もう、人の心を持てる時間はあとわずか。獣の血に逆らえない。
「わたしがオオカミになってしまう前に、喋っちゃお…。
わたしね、聞いたんだ。お母さんに聞いたんだよ。お母さんに妹がいたって事。
その子ね、わたしと同じようにオオカミになっちゃったんだって。
ある日突然、目が変わって、牙が生えて、耳が生え、尻尾が伸び、オオカミに変わってしまったんだって」

チコが力を振り絞って話す。
「でも、お母さんは田舎の人でしょ。田舎ってびっくりするくらい体裁を気にするから
その妹を土蔵に閉じ込めて『居なかった事』にしたんだ。ひいおじいちゃんがそうしろって。
だから、アルバムは途中から居なくなってるの。初めに残ってた写真は、お母さんが必死に隠していたらしいよ。
『見つかったら捨てられるから』必死に隠したんだって。なんだか、さみしいね」
一言一言喋る度に、残酷にもチコのオオカミ化は加速する。四本の脚でないと、もう体を支えられない。
もはや、人間の面影もなくなり、話す声も声帯の変化でかすれてきている。
チコの目から涙が一粒。涙は、ヒトもオオカミも同じ。

「わたしの写真が残っていも、捨てないでね…。いつでも居られる様にね。
いつもちゃんと、お兄ちゃんの側に居てあげるから。お兄ちゃんのこと、わたし…」

とうとう、チコは完全なオオカミになった。今までのように喋る事は二度と出来ない。
チコは何を伝えたかったんだろう。もはや、確かめる事は出来ない。
一匹のただ生きているだけのオオカミが、ぼくの周りでうろうろしていた。



657 いもうとはオオカミ sage 2008/04/02(水) 23:36:38 ID:1ZM8wWcV
後日、院内でぼくは太田さんに会った。
見舞いに来たのではない。太田さんは、ここの外来患者だった。

「わたし、びっくりしちゃった…。家でオオカミに襲われるなんて。
オオカミって日本には居ないと思ったのになあ。あれは何だったんだろう」
手に包帯を巻いた太田さんは、不思議な体験をしたらしい。
きっと、あの事だろう。犯人の兄として申し訳ない。
「ところで、チコちゃん。大丈夫?」
「う、うん。きょうも元気みたい」

うん。ウソではないよな。
そんなチコは病院の庭で、ぼくがこっそり抜け出すのを尻尾を振って待っている。
もうすぐ、桜が散りだす。


おしまい。

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最終更新:2008年04月06日 21:40
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