799 __(仮) (1/13) sage 2008/04/11(金) 18:07:51 ID:f8LJCZKw
そこは、秋巳たちの住む地元から電車で二時間、さらにバスと徒歩をあわせて一時間ほど離れた避暑地のログハウス。
避暑場といっても特段有名なところというわけでもなく、辺りは緑豊かな自然に囲まれ、
ポツンと一軒その建物が人工物として、その存在を主張しているだけである。
その邸宅のオーナーが小金稼ぎのために、自身が使用しない時期にだけ、一般客――ほぼ、そのオーナーの知り合い限られていたが――に
貸し出していた。そのオーナーもただ遊ばせておくくらいなら、といった具合で努めて商売熱心ではなかったため、
知る人ぞ知る隠れた穴場的なスポットといえた。
その場所を葉槻透夏が知ったのは、彼女の父親の縁を通してだった。
まだ彼女が小学生の頃、そのログハウスのオーナーと彼女の父親の葉槻栖一が知人を介して知り合い、
たまたまその場所を貸し出していることを聞き、家族旅行に、と葉槻栖一が借りたのが始まりだった。
秋巳の両親の件があってからは、葉槻家でそこへ旅行に赴くということもなくなったが、秋巳と椿が葉槻家を出た昨年夏に、
秋巳たちに戻ってきて欲しいとの思いも込めてか、葉槻夫妻が如月兄妹も誘って数年ぶりにそこへ訪れることを企画した。
結局は、秋巳たちが遠慮することで、葉槻夫婦と葉槻透夏の家族旅行となったが。
檜の香りの漂う屋内。周囲はセミの鳴き声と風が木々を揺らすさざめきのみに包まれる人工音の存在しない静かな領域で。
ふたりの少女が存在した。
ひとりは、木製の椅子に腰掛け眠っている。もうひとりは屹立し、テーブルに軽く腰を預けて冷ややかにそれを見下ろしながら。
前者は柊神奈、後者は葉槻透夏である。
「ん……。んぅ」
小さく呻く声をあげ、身体を捩る仕種をする柊神奈。目覚めのときが近いのだろう。
葉槻透夏は、その頬を引っ叩いて一気に覚醒させてやろうかとも思ったが、ぐっと堪えて思い直すと、自然に目を覚ますままに任せる。
うっすらと瞳を開いた柊神奈を見て、声をかける葉槻透夏。
「はい。お目覚め?」
「……ぅ、うん?」
柊神奈は、まだよく事情が飲み込めていないのか、二、三、瞬きをすると、目の前の人物に応じる。
「……あれ? 葉槻、さん?」
どうして、と問いたげな表情を浮かべる。それから、眠りに落ちる前の事情を思い出す。
そう。自分は、ここで、葉槻透夏と落ちあって、そしてお茶を飲みながら話していたら、急に眠くなって――。
そこまで考えてから、自分が椅子に座らされたまま、身動きが取れないことに気づく。
「え? あれ?」
立ち上がろうにも、腕が椅子の後ろ脚に沿う形で固定されて離れない。自分の脚が椅子の前脚に縛り付けられて動かない。
腰が格子状の背もたれに括りつけられている。
身体を動かそうした拍子に椅子がカタンと音を立てるのみであった。
「ああ。あんまり動かないでね。跡が残ると厄介だから」
その言葉どおり、葉槻透夏は、柊神奈の手足に縛られた跡が残らないよう、きつく縛り付けてはいなかった。
抜けないよう配慮しながらすこしだけ遊びを持たせて、解けないよう結び目だけは硬く締め付けて。
「は、葉槻さん……? こ、これは……?」
まったく事情の飲み込めない柊神奈は、眼前の食卓用テーブルに腰を凭れながら自分に哀れみと憎悪の混じった視線を向ける
葉槻透夏を見上げながら訊ねる。
「うん? どうしたの?」
「いえ、あの、私、なんか、縛られてるみたいなんですけど?」
理解できないまま、現在の自分の状況を、ただそのまま伝えるのみの柊神奈。
なんで、自分がこんな状態でいるの?
なぜ、葉槻さんはこの状況の中、平然としているの?
どうして、自分に親の敵でも見るような目を向けているの?
柊神奈は、全く判らなかった。
そんな彼女の動揺など微塵も気にとめずに、腕を組んだまま葉槻透夏は淡々と応える。
「うん。そうだね」
「え、えっと、その……」
この事態をまったく異常と捉えていない葉槻透夏の返答に、困惑する柊神奈。
そもそも、なんで、自分が椅子に縛られているのか。なんで、それを見て、葉槻透夏が平然と当たり前の態度をとっているのか。
単純に考えれば、眼前に立つ女が、自分を縛りつけたのだろうとの結論を得られるはずだが、まったく現実についていけず
混乱している柊神奈の頭では、それを導き出せない。
800 __(仮) (2/13) sage 2008/04/11(金) 18:10:35 ID:f8LJCZKw
「えっとね。柊さんと、ちょっとお話がしたいんだ」
柊神奈の困惑など気にも留めず、葉槻透夏はそう彼女に話し掛ける。
「あの……。そのまえに、これを」
「これ?」
「その、この紐を」
「紐を?」
「は、はずしてもらえませんか……?」
「あはは。ダメだよ。だって、それじゃ、柊さんと『お話』できないもん」
愉快そうなその言葉とは裏腹に、苛立ち紛れの表情を浮かべる葉槻透夏。
柊神奈には、彼女の論理が理解不能であった。
なんで、話をするのに、自分が縛られる必要があるのか。なんで、葉槻透夏が自分にこれほど忌々しげな顔をみせるのか。
あきらかに彼女の表情は、柊神奈に対して敵意を放っている。
「は、葉槻さん? どうしちゃったんですか?」
「うん? あたし? あたしはどうもしないよ?」
「…………」
柊神奈は、沈黙する。いまのこの葉槻透夏に、自分との意思疎通が図れる気がしなかった。
これまで葉槻透夏の害意を少しも疑ったことのない柊神奈にとって、いま自分を見下ろしているこの女の人は、
彼女の知る葉槻透夏とは、全く別人としか思えなかった。
「さて。それじゃあ、お話しようか。好きな男の子の話――」
葉槻透夏が、そう切り出す。
それは、彼女たちの間で何度か交わされた語らい。喫茶店での会話を契機に、それを共通事項として、何度か会い、
そして、親しくなっていたと思っていた。柊神奈の方は、と但し書きがつくが。
人の悪意を疑うことをあまりしない柊神奈にとって、葉槻透夏は、自分の相談に乗ってくれる良き姉のような存在であった。
葉槻透夏自身が仕向けたとはいえ、彼女がどのような想いを抱いて柊神奈の話を聞いていたのかなど、柊神奈は露ほども気づかなかった。
思い至らなかった。
事実として、柊神奈の良く通う喫茶店で働く葉槻透夏と『たまたま』会って、柊神奈が己の想い人のことを告白してから、
喫茶店以外でもふたりで会うことがあった。その場所のひとつがこの別荘である。
柊神奈がこの場所を訪れるのは二回目。
葉槻透夏がいい場所を知っているんだ、と柊神奈を誘い、日帰りでこの場所を案内し、さらにその後オーナーに紹介したのである。
葉槻透夏が、彼女をこの場所に誘った名目は、秋巳との仲を深めるために遊びに行く場所としての紹介。
隠れ家的スポットで、オーナーに掛け合えば融通も利くから、秋巳たちと遊びにくるのに是非ここを利用したらどう、と提案し、
その下見もかねて、ふたりで遊びに来たのが一度目。
葉槻透夏の本来の目的は、最終的に柊神奈を始末する場合になったときに、都合のいい場所としてここを選出した。
彼女の亡骸が発見された場所に、自分の足跡を完璧に残さないようにすることは現実的に考えて、まず難しい。
自殺や事故として処理された場合であれば、まず問題ないだろうが、万が一にも事件として扱われた場合に、自分がそこにいた証跡を
どこから発見されるかわからない。だったら、はじめから自分がいた跡が残っていてもおかしくない場所にすればよい。
自分がいるはずのない場所に、自分がいた証拠が残れば、疑うに足る――さらに言えば確信に足る――材料であるが、
己のいたことのある場所で『事件』が起こったとしても、確信に至る証拠にはなりえない。
葉槻透夏はそう考えていた。
自分が紹介した場所を、柊神奈が『利用した』としてもらえれば良いのである。
だから、今回は、柊神奈自身にこの場所を用意させた。オーナーに連絡させ、このログハウスの鍵を借りさせ、
彼女ひとりでこの場所に向かわせた。そこに、『旅行中』の自分が落ち合ったのである。彼女に、内々に話があるから、と持ちかけて。
801 __(仮) (3/13) sage 2008/04/11(金) 18:13:49 ID:f8LJCZKw
葉槻透夏も喫茶店の邂逅から、いきなりこの結果を持ち出したわけではない。準備は怠らなかったが、
その過程で出来うる限りの回避策はとってきた。
葉槻透夏にはうざったいだけであったが、大学での『顔見知り』を通して、いわゆる女性に人気のある、
格好良くて、面白くて、女性の扱いに長けている男を偶然を装い紹介したこともあった。
勿論建前上は、柊神奈に男性との仲を取り持つなどという形は取らずに、たまたま会った知り合いに挨拶をする上で
礼儀上紹介するという体裁ではあったが。
葉槻透夏本人は、大学での人間関係などどうでもよいと思っていたこともあり、そのような策を取ること自体結構な労力を
費やす必要はあったが、それでも、柊神奈が秋巳から離れてくれるなら、とその苦労を惜しまなかった。
だが、柊神奈は、全く靡かなかった。
葉槻透夏は、その結論を元々ある程度想定はしていたが、
僅かでも――それこそ微々たる可能性であっても――それで解決するものならそうしたかった。
彼女は、柊神奈のことなどどうでもよかったが、だからこそどうでもよい存在のために、自分が危険を冒して、
秋巳との幸せを失うリスクを負うことまでは、できれば行いたくなかった。
しかし、柊神奈は、ひとつも葉槻透夏の思惑通りにはならなかった。
だからこその最終手段である。
それでも葉槻透夏は、まだ、その一手前の策を残していた。柊神奈自身の生命と引き換えに、秋巳を諦めさせる。選ばせる。
己の命と天秤にかければ、彼女は必ず身を引くだろう。誰だって自分の命は惜しいものだ。恋愛熱に浮かされただけの人間であれば、
我が身可愛さにさっさと退散するであろう。
もし、葉槻透夏が逆の立場であったら、絶対彼女は引かない確信があったが、自分の想いと比べて、
柊神奈のそれなど取るに足らないものだ、そう信念を持っていた。
その後の柊神奈の行動次第では、自分は脅迫罪に問われるかもしれない。だが、己の身可愛さに秋巳を切り捨てたという事実を
柊神奈に突きつければ、彼女は二度と秋巳には近づくまい。そう考えていた。
柊神奈を精神的に『殺す』ことにしたのである。二度と秋巳のことが好きだななどと口に出来ないよう。
「ほら。柊さん。いつもみたいに話そうよ。あなたの好きな男の子、秋くんの話を、さ」
柊神奈の顎に手を当て、自分を見つめるように顔を上げさせると、そのまま首筋にスライドさせ、そこを撫でながら話し掛ける。
「は、葉槻さん、お、おかしいですよ……。ど、どうしちゃったんですか……?」
まったく葉槻透夏についていけないまま、先ほどと同じ台詞を吐く柊神奈。
葉槻透夏の手から、指から、感じる冷たさが、柊神奈の中から生まれてくる得体の知れない恐怖を増幅させる。
柊神奈の心臓の動悸が、彼女自身に警鐘を鳴らす。
「あなたも大概くどいね。あたしは、どうもしないって言ってるじゃない。
それより、あたしの言葉が通じない? あなたは好きなんでしょう。
あたしの半身である秋くん――如月秋巳のことが」
「え?」
葉槻透夏の言葉が耳には入ってくるが、頭の中には入ってこない柊神奈。自分の半身とはどういう意味なのか。
「な、なにを――っ」
言っているんですか、その台詞の後半は柊神奈の口から紡がれることはなかった。
パァン、と鋭く差込む音を立てて、葉槻透夏が柊神奈の頬を叩いたからだ。
「――っ」
彼女の右腕の動きに合わせて、彼女の左手になぎ払われる柊神奈の頭部。
憎しみを持って本気で頬を叩かれる、という生まれて初めての痛みと畏怖で柊神奈の身が竦む。
葉槻透夏の目的は、彼女の頭の中を埋め尽くすこと。精神的な恐怖と、肉体的な苦痛をもって。
そうして己が身の可愛さを実感させる。自らの想いの弱さを痛感させる。それが、葉槻透夏の狙い。
「あはは。まだ、寝ぼけてるのかな? これで、目が醒めたかな?
これでもダメなら、もうちょっと手伝ってあげるね」
そう言うや否や、葉槻透夏はテーブルの上に置かれたナイフを取り持つと、柊神奈の頬にペタペタと音を立てながら、押し付ける。
「ひぅ――」
柊神奈は、目の前の葉槻透夏の異常な態度と、押し付けられているナイフの恐怖からか、口から悲鳴を含めた呻きを洩らす。
また、引っ叩かれた衝撃に対する体の反射反応だろうか、それとも戦慄からだろうか、彼女の瞳に涙が浮かぶ。
802 __(仮) (4/13) sage 2008/04/11(金) 18:16:40 ID:f8LJCZKw
「じゃあ、もう一回質問するね。あなたは、あたしが誰より愛おしい秋くんのことが、
好きなんだよね?」
「…………」
「うん? どうしたの? 口が利けなくなっちゃった? ああ。この状態だと喋りづらい?」
そう言って、柊神奈の頬に押し当てたナイフを離す。
「……は、葉槻さん、あなたは、如月くんのこと――」
「ええ。愛しているわよ。あなたみたいな、『恋愛ごっこ』の熱に浮かされたわけでもなく。
彼はあたしの全てなの。なににも変えられないあたしの全てなの。存在意義そのものなの」
いまさら隠すことなどなにもない。むしろ、この柊神奈に、自分が秋巳のためなら彼女を殺すことをも躊躇わないと
思わせることこそ、本望。
実際、それは演技でも偽りでもなんでもなく、葉槻透夏の素直な気持ちであった。
それをもって彼女を屈服させる。自らの想いの強さを知らしめると同時に、彼女の愛情とやらの脆弱さを露呈させる。
「で、でも前に――」
心の情動が怯え一色に包まれつつも、葉槻透夏に対して抗議の言葉が柊神奈の口からついてでる。
かつて葉槻透夏は、柊神奈に言った。自分は一途に想っている人がいる。それは、柊神奈の知らない人だ、と。
「ああ。誤解しないでね。嘘を言ったわけじゃないわ。あなたの知っている秋くんは、彼の一部なの。
あたしの愛している如月秋巳の一部なの。あなたは、あたしの存在意義である
如月秋巳は知らないもの。だから、嘘じゃない」
「それで、なんでこんなことを……」
「なんで? 決まっているじゃない。邪魔なの。あなたが」
葉槻透夏は、柊神奈の鼻先に、握ったナイフを突きつける。触れるか触れないかの位置まで。
その声色はあくまで冷酷に。その表情は冷徹に。葉槻透夏は、そのように努めているはずだった。
しかし、葉槻透夏のなかで、徐々にどちらの想いが強くなっているのか区別がつきにくくなってきていた。
脅して身を引かせるだけにするのか。
本当にこの目の前の女――柊神奈――を消すのか。
自分が誰より想う秋巳のためなら、ここは身を引かせるだけに留まるべきなのだ。
それは、判っている。
それでもなんとも言いようのない感情が彼女の心を支配しつつあったのだ。
それは、恐れにも似たもの。危惧であり脅威。
威圧している立場の葉槻透夏が、脅迫されている立場の柊神奈に、そのような感情を抱いているのは、なんとも皮肉といえるであろう。
だから、葉槻透夏の言葉には、若干の焦りの色がつく。
「ねえ? あなた、この状況見て、自分が置かれた立場がまだ判らないの?
自分が、いま、これからなにをされるか」
「こんな……、こんなことをして、如月くんが、喜ぶと思ってるんですか?」
「は! 恋に恋して、自分の恋愛感情を追いかけているあなたが、秋くんの幸せを語るわけ?
彼の喜びを語るわけ? 彼の『為』を想うわけ?」
「違う! 私は! 私は、自分のこの想いが彼に受け入れられないなら、
如月くんに押し付けようとは思わない。如月くんが望みもしないのに、
私と一緒になって欲しいなんて思わない。でも、あなたがこんなことをして、
如月くんが幸せになるなんて、到底思えない!」
その瞳に強い意志を宿して、葉槻透夏を睨みあげる柊神奈。それが葉槻透夏を逆上させる結果になろうとも。
「おためごかしを――。なら、なにが、彼の幸せだと言うわけ?
なにがあなたにできるわけ? まさか、一途に想っているだけで、
彼が振り向いてくれて、それで、彼も幸せになれるとでも?」
「判り、ません。でも、如月くんは、あなたがこんなことをしても喜びません。
きっと悲しみます! それだけは、判ります!」
「よく回る口だこと。それでなに? あなたが言いたいのは、あたしがあなたを殺しても、
秋くんは喜ばない。だから、己の命を助けろ、と?」
「ち、違います! どうして、判ってくれないんですか! 私が言いたいのはそんなことじゃ――」
柊神奈の台詞はそこまでだった。葉槻透夏が、ナイフを持つ手とは逆の手で、彼女の首を締め上げたからだ。
「ぁっ――。ぅぐ――」
803 __(仮) (5/13) sage 2008/04/11(金) 18:19:23 ID:f8LJCZKw
葉槻透夏は激昂していた。
柊神奈が、この女が、圧倒的弱者の立場にいるのにもかかわらず、自分に口答えしてくることが。
己に対し、秋巳のことを説くその言葉が。
自分の保身の懇願を一切吐かないその態度が。
すべてが葉槻透夏を苛立たせた。
首筋に手で締められた跡が残ると、後々困ることになるなんて打算は、葉槻透夏の頭から消し飛んでいた。
「ねえ? 苦しい? 辛い? 死にたくない?
それでも、秋くんの、などと口走るわけ?」
「えっ、げほっ、ごほっ……ぅぐ、げほっ、はぁっ、はっ」
一旦、柊神奈を開放する葉槻透夏。眦に涙を浮かべ、苦痛にその端正な顔立ちを歪める柊神奈を見下ろしながら。
「どう? 痛みは、苦しみは。生への渇望を呼び起こすでしょう? 怖いでしょう?
死にたくないでしょう? あたしの気が変われば、あなたのことを生かしておいてもいいわよ?」
「なにを――」
「そうね。あたしを納得させたら助けてあげる。あなたが、秋くんのことなんて好きじゃないって。
あなたの貧困な語彙の限りを尽くして、あたしに、柊神奈が如月秋巳のことを嫌いであるって
納得させられたら、おうちへ返してあげる。もう、痛いのも苦しいのも怖いのも嫌でしょう?」
葉槻透夏は気づかなかった。自分が焦っていることに。本来であれば、柊神奈から自発的に己の助けを乞う言葉を吐かせるはずだった。
いまの台詞は彼女が「助けてくれ」といって初めて言い渡すはずだった。それを彼女自身が、自ら先出ししていることに。
自分でも気づかないその苛立ちを暴力に変換して紛らわすように、柊神奈の腹をナイフの柄で突き上げる。
「あぐっ――!」
「そうだ。このまえ、あなたに紹介した男どものなかで、結構あなたを気に入った人たちがいるのよ。
あなたにご執心でね。ねえ、あなた、処女なんでしょう?」
「げほっ、ぐぅっ」
さらに柄を押し込む。
「それとも、もう、男を知っているの?」
「はぁ、……はっ」
痛みと苦痛で息を切らす柊神奈。
「ほら、答えて」
その命令と同時に、ナイフを握った手とは逆の左手で彼女の頬をバチンという音とともに打ちつける。
さきほど彼女の首を締めたその手で。
「どうなの?」
「しっ、知りません」
「そう。じゃあ、男も知らないまま逝くなんて可哀想だから、
あたしが、『紹介』してあげましょうか。きっとあなたなら、大人気よ。
好き放題できる女がいると知ったら、彼らは喜び勇んで知り合いも呼んで、
集合してくれるでしょう。最後にきっと素敵な思い出をくれると思うわ。
ここなら、誰も来ないし、泣き叫んでも誰にも聞こえないから、安心できるわよ」
左手を柊神奈の胸に手をもっていき、強く揉みしだく葉槻透夏。
その葉槻透夏の脅迫は、あくまで脅しのための、柊神奈の恐怖を煽るためのそれであり、実際彼女にそれを実行する意志はない。
この目の前の柊神奈が、男どもに犯されようが、葉槻透夏の関知するところではないが、
自分の策略に他人を介入させるつもりは毛頭ない。
このことは、自分ひとりで全てカタをつけなければならない。葉槻透夏はそう考えていた。
「や、やめて、くだ……さい」
痛みと苦痛で顔をしかめる柊神奈。
徐々に柊神奈の心が恐怖心に覆い尽くされていくのを感じながら、葉槻透夏は、もう一度先ほどの言葉を繰り返す。
彼女に絶対的な絶望感を植え付けるために。二度と消えない諦念の楔を打ち込むために。
「じゃあ、もう一度訊ねるわ。あたしを納得させてみて。あなたが、如月秋巳のことを嫌っていて、
そして、二度と彼に近づかないと信じるに足りうるだけの言葉を。ほら! 心から気持ちを込めて。
じゃないとあたしは、納得しないから」
葉槻透夏は、柊神奈の頭髪をつかみ、自分の顔に向き合わせる。
804 __(仮) (6/13) sage 2008/04/11(金) 18:21:27 ID:f8LJCZKw
実際、彼女が心から、秋巳を否定する言葉を吐くかどうか、それはどうでもよかった。
己の苦痛から逃れるために、恐怖から逃れるために、安寧を得るために、秋巳を否定する言葉を口にした時点で、
この女は絶対秋巳に心からの笑顔を向けられない、葉槻透夏はそう確信していた。
己が助かりたいために、自分の安息を得たいがために、たとえ一時的にでも――それが演技だとしても――葉槻透夏に迎合した柊神奈は、
この先二度と如月秋巳に純粋な気持ちを向けられない。葉槻透夏はそれで満足だった。
それで、この女を排除したことになる。そのはずだった。
「ほら。どうしたの? 考える時間が要る? 言葉を選ぶ猶予が要るの?」
「…………」
「悩むことはないわよ? これからの人生は長いの。
あなたは、これから様々な男の人に会うでしょう。
その中に、きっとあなたに合う人がいるはず。でも、それは生きていればこそ。
このまま、ここで終わってしまうほど、あなたの人生は無意味な、
無味乾燥なものなの?」
その口から、柊神奈を堕落させるための甘言をもたらす葉槻透夏。
ここで、恐怖に屈してもそれは恥ではない。これが最後ではない。まだまだ、あなたには機会があるのだと。これから先があるのだと。
秋巳に拘る必要はないのだ、と。
「私は――」
葉槻透夏に顔を叩かれたことで口内を切ったのだろうか、口の端から血を垂らしながら、柊神奈が言葉を紡ぐ。
「私は?」
葉槻透夏は先を促す。彼女の口から吐き出されるその先の台詞を想像して。
秋巳のことが嫌い。秋巳のことなんか愛していない。彼なんかどうなっても良い。彼がどうなろうと私は知らない。だろうか。
「私は、如月秋巳のことを愛しています!」
「なっ――!」
「この世で誰より、如月秋巳のことが好きです! 大好きです。愛しています!」
「なにをっ――!」
「たとえ、私がどうなろうとも、恐怖に屈して、如月くんのことを否定した時点で、
私は終わりだから。私は、この先誰も好きになる資格はなくなるから!
だから、私は自分の気持ちに嘘はつかない! 好き! 大好き!
狂おしいほど、如月秋巳を愛しています!」
瞳からは涙が零れて。それでも、葉槻透夏から視線をはずさずに。柊神奈は、そう言いきった。
「あはっ! あはははっ! あはははははっ! そう! そうなの!
なんでっ! なんでなのよっ!」
葉槻透夏は両拳を握り締めて、テーブルを叩く。それから、その拳が緩むと、手にしていた刃物がその手からカランと音を立てて滑り落ちる。
葉槻透夏は身を引き裂かれそうな思いだった。
どうして! どうして!! どうして!!!
この女はことごとく自分の予想を裏切る!
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ど う し て 自 分 と 同 じ 行 動 を と る の だ!
それは、葉槻透夏が逆の立場だったらとる応え。もし、自分が誰かに脅され、同様の行為を強いられたときに対する返答。
自分が誰よりも秋巳を愛し、誰よりも秋巳のことを考え、どんな人間よりも秋巳のことを想っているからと自負するからこその回答。
それをなぜ、この降って湧いた女がとるのだ。己の命を危険に晒されながら。自身の純潔を風前の灯としながら。
それでも自分の尊厳を守り抜くというのか。
805 __(仮) (7/13) sage 2008/04/11(金) 18:23:17 ID:f8LJCZKw
「そう! そうなの! それが、おまえの応えってわけ! いいわ! 確かに受け取った。
おまえの意思を! 大したものね。ある意味尊敬するわ。
だから、あなたの想いに応えてあげる。確かにあなたの想いは本物よ!
そんじょそこらの浮かれた感情とは違う!」
それは、自分と同じ高みまで、彼女の想いが上ってきていることを認める言葉。
許容したくはないが、本気で柊神奈が如月秋巳のことを想い、自分の計略には動じないことの証左。
葉槻透夏は思いつめる。
――だったら、もういい。
この女を消すまでだ。自分の秋巳に対する情意は誰にも負けない。そのためにも、この女は排除すべきである。
テーブルに横たわるナイフを再び拾い上げると、空いたほうの手で柊神奈の襟元を掴みあげ、半ば椅子ごと自らの元に引き寄せると、
葉槻透夏は、彼女に最後通告をする。
「おめでとう。あなたの想いは、本物よ。でも、悲しいかな、それを別の誰かに向けるべきだったわね。
あたしと如月秋巳の間を脅かすものは誰もいない。そう誰もね!」
そのまま、柊神奈の頭へ、握ったナイフの柄を振り下ろした。
* * *
柊神奈が、頭部に受けた衝撃から、気を失って、再び目を覚ましたのは、約三十分後。
彼女が気を失う直前と、なんら状況が変わっていない――彼女は相変わらず椅子に縛り付けられたまま――ことを
理解すると同時に先ほどと僅かに異なる違和感に気づく。
(下着を穿いていない――)
下半身に感じる涼しさから、彼女は実感する。柊神奈はミニのスカートを着けているが、その中で直接陰部に感じる空気に、
自分が下着を脱がされていることを悟り、戸惑った。
「ああ。おはよう。柊さん。二度目だけど、目覚めはどう?」
柊神奈の背後から、部屋の扉を開け、彼女の前に回りこんだ葉槻透夏が、彼女が目を覚ましたことに気づき、声をかける。
手には制汗剤のスプレーとコンドームを持って。
「…………」
沈黙を守る柊神奈。いまの葉槻透夏には、なにを言っても通じないだろうという思いを込めて。
「そうそう。あなた、これでもかっていうくらい、模範的ないい子ちゃんだから、
本当に困ったわ。自殺の理由が見つからなくて」
「なにを――?」
「だからね、こっちで理由まででっち上げなくちゃいけなくなっちゃったのよ。
ひとりの女の娘が自殺に至るまでの、ね」
葉槻透夏はそう愉快そうに声をあげ、コンドームの袋を破る。ビニール手袋をしたその手で。
「ねえ。好きでもない、見ず知らずの男にレイプされて、それを写真にとられて脅されて、
それを悲観して自殺するっていうストーリーはどう思う?
自殺の理由としては、それなりのものだと思わない。それにしても便利な時代になったものね。
いちいち写真をプリントアウトなんかせずに、相手の携帯にでも送ればいいのだから」
そう言いながら、スプレー缶にコンドームを被せる葉槻透夏。
807 __(仮) (8/13) sage 2008/04/11(金) 18:25:08 ID:f8LJCZKw
「あはははっ! このときばかりは、自分が男じゃないのが残念ね。まあ、いいわ。
あなたの『初めて』を奪うこれをじっくりと見せてあげる。どう? 感慨深いでしょ?」
そう彼女の頬に、その物体をこすりつける。その冷たさと鼻につくゴムの匂いが柊神奈の悲しみを呼び起こし、絶望へと誘う。
「それが……、それが、あなたの望みなんですか?」
葉槻透夏は、右拳を握り締め、彼女の腹を穿つことでその質問に応える。
「あぐっ――!」
「ええ。そうよ。あたしの望み。おまえが絶望して、この世を去ることが、葉槻透夏の望み」
「はぁっ……! どうしてっ! どうして気づかないんですか。
あなたは自分で放棄している――」
葉槻透夏が、片手で柊神奈の両頬を掴みあげる。渾身の力を込めて。
「ぐふっ――っ」
「ああ。もういいのよ。あなたは喋らなくて。『お話』の時間は終わったのだから。
あとは、ただ、ひたすら受け入れれればいい。すべての結果を。大丈夫。
秋くんは、あなたが消えたところで大してショックを受けない。安心しなさい」
まだ、いまならね。と言う言葉は彼女に伝えない。いや、葉槻透夏自身が認めない。
スプレー缶を脇に置くと、テーブルの上に置かれた錠剤を掴み取り、鼻を摘み上げ無理矢理こじ開けた柊神奈の口に押し込む。
「ほら。これを飲み込んで」
その錠剤を彼女の口に押し込むと、さきほど傍らに置いた水の入ったペットボトルを手に取り、
柊神奈の口に流し込むために無理矢理差し入れる。
「さあ、飲んで。次にあなたが目覚めることはおそらくないだろうけど、
そのときは、きっと秋くんが幸せになっているから。
あなたは、なんの心置きなく旅立つといいわ」
「えほっ……、ごほっ!」
咳き込む柊神奈が、その薬を戻さないよう口を押さえて、嚥下するよう促す。
「はい。よくできました。さあ、ゆっくりお休みなさい」
赤子になにも心配することはないのよ、と語りかけるかのごとく柊神奈の頭を抱き、その人生の終焉を迎えるよう促す。
頭を優しく撫で、ひたすらに穏やかに。
それから、葉槻透夏は思い出したように、脇に置かれた――テーブルの上の――スプレー缶を手にとる。
「そうそう。折角だから、あなたの『初めて』くらい、まだ意識のあるときに、奪ってあげるね」
そう柊神奈の下半身に――愛撫もなにもなくさらさらに乾いた彼女の陰唇に――コンドームを被せたスプレー缶を押し当てる葉槻透夏。
「ひぅっ――」
「ねえ。どんな気分? やっぱり、せめて本当の男の人のほうがいいのかな?
あたしだったら、秋くん以外のはごめんだけど」
そう言って、柊神奈の股間に押し当てる物体に力を込める葉槻透夏。
徐々にぼんやりしていく柊神奈の意識。
ぼやけていく視界。遠くなる音。薄れていく痛み。
柊神奈が最後に聞いた葉槻透夏の声がそれだった――。
808 __(仮) (9/13) sage 2008/04/11(金) 18:26:54 ID:f8LJCZKw
* * * * * * * *
夏休みも中盤を迎え、いまだ強い日差しを避けるように冷房の効いた図書館の机の一角で、椿と萩原睦月は向かい合って座っていた。
夏休みの終盤を憂いなく過ごすために、学校で出された夏休みの課題を片付けようと、椿が萩原睦月を誘ったのがきっかけだった。
教科書と問題集、それにノートを広げながら、時々お互いの判らないところや疑問点を確認しあいながら、淡々と問題を解いていくふたり。
そんななか、ふと思い出したのか、それとも問題に詰まってひと休み入れようとしたのか、萩原睦月が椿に話し掛ける。
「ねえ。そういえば、椿のお兄さんのクラスの、柊先輩のことって聞いてる?」
「いえ? 柊さんがどうかしたの?」
萩原睦月に倣ってノートに走らせる筆を止め、彼女に訊ねかえす椿。
「なんか、家出しちゃったみたいなんだって。水無都先輩が、連絡取れなくなったーって、
言ってて。話を聞いてみたら、家にはしばらく空けるから心配しないでって連絡が
あったみたいなんだけど、どこに行ってるのかは判らないらしいの」
「へえ。そんな人には、見えなかったけれど」
「うん。あたしも。だから、水無都先輩なんて、かなり心配しているっぽい」
「そう。こちらも、透夏さんが旅行に行ってから、ちょっと連絡が取れなくなってるから、
少し心配なのだけれど」
「えっ?」
初めて聞いた話に、驚きの声をあげる萩原睦月。
「ああ。睦月は直接会ったことなかったかしら。前に何度か話したことがあると思うけど、
私と兄さんの従妹で、葉槻透夏さんって人がいるのだけれど、いま旅行に行ってるのよ」
そう言いながら、椿は、手にしていたペンをノートの上に置く。
「葉槻さんって、椿がお世話になってた人だよね?」
「ええ。それはもう。ものすごく」
様々な思いを込めて言葉を紡ぐ椿。
「その人が、旅行中に連絡取れなくなちゃったの? もしかしたら、
事故なのかもしれないじゃない」
「そんなことはないと思いたいけれど。多分、いつもと違う気分で楽しんでいるところを、
私という日常に邪魔されたくないだけじゃないかしら。
まあ、私もしつこく連絡したわけじゃなくて、一回メールして、
返信がこないだけだから、もしかしたら、見落としているだけかもしれないしね。
元々、それほど気にしていなかったんだけれど、睦月のいまの話を聞いたら、
少し心配になっただけ」
「まぁ、そうだよね。そうそうそんなことが重なるわけないよね」
そう軽く頷いたあと、ペンを弄ぶかのごとく手の上でくるくると回しながら、萩原睦月は、はぁーと深い溜息をつく。
「どうしたの? 睦月。柊さんのことが心配?」
若干俯いた萩原睦月のその浮かない表情を、覗きこみながら訊ねる椿。
809 __(仮) (10/13) sage 2008/04/11(金) 18:28:43 ID:f8LJCZKw
「ううん。ちょっとそのことで自己嫌悪」
「自己嫌悪?」
「うん。柊先輩のことは、知らない人じゃないし、本当なら第一に心配するべきで、
確かに気がかりなんだけど、ものすごく心配している水無都先輩を見てると、
自分でも嫌な気持ちが浮かんできちゃんだよね。
あたしが、同じ立場でも水無都先輩はこんなに心配してくれるのかな、とか。
ほんと醜くて嫌な感情だよね。嫉妬って」
「あら。それは、仕方がないんじゃないのかしら。確かに、柊さんは知らない仲じゃないし、
なにより兄さんの友達だから、私も心配だけど、その睦月の気持ちは、
人としてごく自然のことだと思うわよ。でも、あなたの中で、それを良しとしないことこそが、
むしろ睦月の感情が醜いどころか、誠実な証だと思うけれど」
「あ、はは。ありがとう。椿。慰めてくれて。ごめんね、愚痴っちゃって」
「謝ることないわよ。むしろ、私から見たら、睦月はもっと素直に自分の気持ちを出していいと思うけど。
水無都さんに対してとか、遠慮してない?」
先日の夏祭りのときの秋巳と似たことを椿は言う。
あのとき、秋巳は、睦月の相談に対して、自分の想いを素直に追いかけていい、椿に遠慮して、自分の気持ちを殺すことない、と言った。
ああ、やっぱりこのふたりは兄妹なのかな。改めてそう実感する萩原睦月。
「そんなことないよ。あたしは、いまは水無都先輩の傍にいられるだけで充分だから」
「そう。欲がないのね」
「それを言ったら、椿こそ、じゃない?」
「私が?」
「椿こそ、誰かに遠慮したりとかしてない?」
「私が? いいえ。自分で言うのもなんだけど、私は欲深いわよ?」
「あはは。またまた。椿のなにがなんでもっていう執着心は、あたし見たことないよ」
「欲しい欲しいと子供のように駄々こねて手に入るなら、そうするけれど」
「うわ。もう。クールでいらっしゃるんだから」
「ふふ。それはともかくとして、柊さんのことだけど、やっぱり心配よね」
一旦ふたりのあいだで和んだ雰囲気から、話を戻すためか、椿は一転真顔になる。
それに伴い、萩原睦月の顔からも笑みが消える。
確かに、萩原睦月自身が言っていたように、柊神奈に対するわずかな嫉妬はあるものの、彼女のことが心配と述べた萩原睦月の言に嘘はない。
「高校生くらいの女の娘なら、一時そういうはじけ方をしてもおかしくはないとは思うけど。
特に、柊さんは、あまり我を出すタイプには見えないから、
もしかしたら、内々に鬱屈を溜め込んでいたのかもしれないし」
胸の前で腕を組むように椿。
「うん。まあ、特に危ないことがなければ良いけど。
でも、椿、その台詞を同じ高校生である女の娘で、しかも当人より年下が言う?」
椿のあまりにも冷静な判断に、つっこみをいれる萩原睦月。
「あら、失礼ね。誰よりも高校生の女の娘らしい、私に向かって。まあ、それはいいとして、
水無都さんは、なにか対応しているの? 柊さんの心当たりを探しているとか?」
「うん。柊先輩の友達とかをあたっているらしいんだけど、
まだ、行き先とかは判っていないみたい」
「そう。早く見つかると良いわね」
「うん。なにもなければ、なによりだよね。まあ、杞憂に終わるとは、思うけど」
そう不安げな面持ちを掲げるふたり。
それぞれ違う意味で――。
810 __(仮) (11/13) sage 2008/04/11(金) 18:30:32 ID:f8LJCZKw
* * * * * * * *
夕陽に赤く染まる学校の屋上。昼間の熱気を充分吸収したコンクリートは日が傾いてもいまだその熱を失わず、
ヒグラシの鳴き声を遠くに、一帯に黄昏の空気が漂っている。
そんななか、屋上のドアノブを、その熱さを手に感じながら、秋巳は押し開ける。
ぎぃぃと錆付いた蝶番の響きとともにドアを開ききると、落陽を背負い、屋上に設置されたフェンスに背を預けながら待ち受ける人物がいた。
水無都冬真である。
一瞬そこに立つ人物が、逆光のため判別がつかなかった秋巳ではあったが、目の上に手をかざして、
五、六メートルほど離れた場所に佇む影の正体を視認すると、その歩みを進めた。
彼のもとへとゆっくりと歩み寄る秋巳に、水無都冬真は、片手を挙げて応じる。
そうして交じる二つの影法師。
「よう。秋巳。悪かったな。夏休みなのに急に学校に呼び出して」
そう爽やかな笑顔を浮かべる水無都冬真の表情には、しかし、どこか寂しげなものが漂っていた。
「ううん。いや、別にいいよ。冬真の頼みだからね」
彼の前に立ち、そう応える秋巳。そんな秋巳の穏やかな反応に、はは、と乾いた笑い声をあげると、水無都冬真は小さく呟く。
「俺が、話し終わっても、その台詞を言ってくれることを願うよ」
「え?」
「いいや。なんでも。ところで、最近、椿ちゃんとの仲は、どうなのよ?
一時の気まぐれでやっぱり冷たくされてるか?」
そうなにげない世間話でも始めるかのように水無都冬真。
「え? いや。前からじゃ考えられないくらい、普通の兄妹をしてるよ。
一緒に買い物に行ったり、その日一日あった出来事を夕飯のときに話し合ったり」
幸せそうにはにかむ秋巳。それもそうであろう。それこそが、彼が望んでいた生活なのだから。椿とのたったふたりの家族風景なのだから。
「でもね、自分は、椿にあんな仕打ちをしたのに、こんなに幸せでいいのかなって、
ちょっと後ろめたく思うんだ。椿は、気にしないって言ってくれてるけど、
それで、僕の罪が消えるわけじゃないからね。でも、自分の罪悪感だけで、
もう、椿の望まないことはしたくはないと思ってる」
「そう、か」
納得したのか、とりあえずといった感じで頷く水無都冬真。その心中は複雑ではあったが。
「なあ、俺が椿ちゃんを奪っていったら、おまえはどう思う?」
その水無都冬真の台詞に、秋巳は、真っ直ぐに彼を見つめ返す。
「冬真は、椿のことが好きなの?」
「だとしたら?」
「冬真が、椿のことを幸せにしてくれるなら、僕にはなにも言うことはないよ。
むしろ、こちらからお願いしたいくらいだから」
「じゃあ、だとしなかったら?」
「…………」
秋巳は沈黙する。そして疑問に思う。
水無都冬真の質問の意味はどういうことだろう。
水無都冬真が椿のことを好きでなかったとしたら。
好きでない上で、椿を奪っていく?
わけが判らない。
「仮定の話じゃ、応えられないよ」
「そうか。俺はね、おまえには感謝しているよ。正直いまの俺があるのは、秋巳、
おまえのおかげだと思ってる。おまえと俺が初めて会ったとき……、
いや、その言い方は適切じゃないか。初めて会話したとき……、
いいや、これもおかしいか。そうだな、初めて遊んだときのことを憶えているか?」
「どうしたの? 冬真?」
急に語り始めた水無都冬真についていけずに、秋巳は質問に問い返す。
811 __(仮) (12/13) sage 2008/04/11(金) 18:32:08 ID:f8LJCZKw
「いいから。俺の昔話に付き合ってくれよ。どうだ、秋巳、おまえは憶えているか?
おまえと俺が初めて一緒に遊んだとき」
そう懇願する水無都冬真の雰囲気に飲まれ、いや、正確にはそれに逆らいたくないという秋巳の自発的な意思により、その質問に応える秋巳。
「うん。憶えているよ。小学校三年のときだよね。僕が、冬真を誘ったんだよ。
一緒に遊ぼうって」
「ああ。そのとき、おまえ、俺のことどう思った? というか、なんで俺を誘ったんだ?」
「うーん。よく覚えてないけど。確か、新しい遊び教えてもらって、
早く遊びたいってわくわくしてたんだ。
それで、いままで話したことなかった冬真を見かけたからさ、
ちょうどいいやって巻き込んじゃったような気がする。あはは、冬真からしたら怒るよね」
頬を掻きながら、後半は後ろめたそうに語る秋巳。
ようするに、遊んでくれる人なら誰でもよかった、と半ば言っているようなものだから、秋巳としては言い難いのは当たり前であった。
ただ、綺麗な言葉で取り繕ろうなどとは露ほども考えなかった。
相手が水無都冬真だからこそ。いまでは、誰よりも親友であるといえる彼に対してだから。
「あははっ! そう、そうなんだよな。だからだよ。だからこそ、なんだ。
俺がおまえのことを好きになったのは」
秋巳のその応えに満足げに、水無都冬真は笑った。
あのころ水無都冬真の周囲の環境は最悪であった。
家に帰れば親は別れるだの別れないだの終始喧嘩し、言いあい、罵りあい。
お互い愛はなく憎しみあっているのにおまえが生まれたからだの、嫌いあっているのにおまえがいるからだの、
水無都冬真に向かって残酷な言葉を吐き。
学校では、あそこは悪い家庭だからその子供と付き合うな、などと言い含められた子供たちが、水無都冬真を差別し、敬遠し、無視をし。
たまにあるのは、からかいと嘲笑だけ。
そんな境遇において、偏見も穿ちも持たずに接してきてくれたのは秋巳だけであった。他の誰とも変わらず、その他ひとりとして、
構ってくれたのは秋巳だけであった。
そこに同情も憐憫も優越感もなく。
そんな秋巳だったからこそ、水無都冬真の唯一の親友になったのだ。
そんな秋巳だったからこそ、逆に秋巳が両親の件で周囲から浮いたときであっても、水無都冬真はなんら変わらなかったのだ。
そんな秋巳だったからこそ、水無都冬真は他の誰よりも秋巳の幸せを願っているのだ。
「ほんとに、今日はどうしたの? 冬真?」
愉快そうに笑い声を上げる水無都冬真に、不審げな顔を浮かべる秋巳。
ひとしきり声をあげて、それから落ち着くと、水無都冬真は秋巳の両肩に手を置き、一旦俯いた後、再び面を上げた。
その顔は、なにかを決意したように。
812 __(仮) (13/13) sage 2008/04/11(金) 18:33:40 ID:f8LJCZKw
「さて、秋巳。そろそろ本題に入っていこうと思うが、
おまえ、最近、柊ちゃんと連絡取ったか?」
急に話題が変わり秋巳は戸惑う。
「え? 柊さん? いや、連絡とかはしてないけど。どうしたの? なにかあったの?」
「ああ。柊ちゃんが家出しているらしい。もう四日ほどかな。
一応、家には連絡が入っているらしいんだけどな」
その水無都冬真の話の内容に、秋巳はわずかに衝撃を受ける。
あの柊さんが、家出?
そういうタイプには全然見えなかったが。
しかし、連絡が入っている以上、事故とかに巻き込まれたわけではないのだろう。
「そ、そうなんだ。まあ、無事ならなりよりだよ」
「本当にそう思うか? 家への連絡は、メールでされているらしい。
メールなんて、柊ちゃんの携帯があれば、誰でもできるんだぞ?」
「え? えっ!? 冬真は、柊さんがなにかに巻き込まれたと思ってるの?」
水無都冬真の台詞から、推測すれば、それは、もう事故の可能性はありえないと言うことになる。
意図的に、柊神奈の無事を装っている人間がいるということになるのだから。
「さあな。あくまで可能性だからな」
「その可能性を考えるよりは、柊さんが自分でメールを送っていると思うほうが自然だけど?」
「だから、あくまで可能性、だ。もしかしたら、俺が柊ちゃんを監禁して、
勝手にメールを打っているだけかもしれないぞ?」
「あ、はは。冬真、冗談が過ぎるよ」
乾いた声をあげる秋巳。完全に冗談と受け取れなかったのは、水無都冬真の表情が真剣だったから。
「冗談じゃないけどな。それぐらい、疑えってことだ」
その声色に、鉛のような重厚さをのせる水無都冬真。秋巳の肩を掴む手に力が入る。
「冬真……?」
やはり、いつもと雰囲気の異なる水無都冬真に対し、秋巳は心配げな視線を向ける。
「それで、いまから言うことが、俺が今日、おまえを呼んだわけだ。いいか――」
その秋巳の瞳を、水無都冬真は真っ直ぐ射抜く。
「――いつぞやの貸し。今日これから返してもらうぞ」
水無都冬真の覚悟を決めた言の葉が、秋巳の耳朶に深く突き刺さった。
最終更新:2008年04月13日 23:02