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__(仮) (1/8) sage 2008/04/28(月) 22:41:04 ID:unK66Evu
柊神奈の消息が知れなくなってから六日目の夜。辺りの繁みからはコオロギの鳴き声が響き、付近の民家からは
夕餉の匂いが漂ってくる公園内。
園内に点在する街燈のひとつに照らされて、水無都冬真がその柱に背を預け立っていた。
手には携帯電話。画面に映し出されるは、三十分程まえに送られたメール。萩原睦月に宛てられたものである。
その内容は、自分がいま居るこの場所にて待つから、夜分に申し訳ないが来て欲しい、というもの。
できれば、いますぐ直接話したいことがあるから、と。
そのメールを受け取った萩原睦月の頭の中に、まず思い浮かんだのは、話というのは柊先輩のことだろうか、という推測。
ここ一週間近く、水無都冬真と萩原睦月が話すことといったら、ほぼそれともうひとつの話題のみであった。
日が経つにつれ、萩原睦月も不安が募っていったが、柊神奈のことを話す水無都冬真は、それ以上に鬼気迫る雰囲気があった。
それを萩原睦月は、柊神奈の身を案じているからだろうと察していたが、どこか腑に落ちないものも感じていた。
確かに水無都冬真の口から出る言葉は、柊神奈を気遣うものばかりであるし、その態度が醸しだす空気も至って真剣であるが、
なにか別のものに気を取られているような印象も受けていたのだ。
柊神奈の行方を調べるために、あれをしてみたら、これをしてみたらと彼女が提案しても、反応は鈍かったし、
自分が手伝いをすると言っても、まず萩原睦月自身の身を気をつけてという返答がくるばかりで、同意はされない。
萩原睦月は、それを、水無都冬真も動揺しているし、自分が嫉妬して穿った見方をしている所為じゃないかと、自分の中で結論付け、
思い違いだろうと考えていた。
そして、もうひとつの話題とは、水無都冬真に対する何者かの嫌がらせが、最近始まったこと。
萩原睦月は水無都冬真から伝え聞いただけであるが、無言電話やいたずら電話に始まり、夜道にひとりで歩いていると
背後からつける足音がする、また歩道を通っていたら後ろから何者かに車道側へ突き飛ばされるなど、
悪戯にしてはかなり悪質なものもあったらしいとのこと。
萩原睦月は、柊神奈の行方と同じくらい、いや、それ以上に、そのことについて心配していた。
柊神奈に続いて、水無都冬真にもなにかあったらと思うと、不安で碌に眠れない夜が続いていた。
そんなことが、ほぼこの一週間でのふたりのやり取りだったため、そのメールを受け取ったとき、彼女がまず思ったのは、
柊神奈の行方が判ったのではないか、というものだった。
次に思ったのが、水無都冬真に悪戯している人物の正体が判明したのではないか、ということ。
それをなぜ、自分にメールでも電話でもなく、直接呼び出して伝えるのかまでは判らなかったが、どちらであっても、
きっと要らぬ心配、取り越し苦労という結果になったことを期待して、萩原睦月は水無都冬真に呼び出された場所まで急いで赴いた。
公園の広場で佇む水無都冬真の元に駆け寄る萩原睦月。
「す、すみません。水無都先輩。お、お待たせしてしまいましたか」
走ってきたためか、荒い呼吸を整えるよう、腰を折って上半身を前に傾けながら膝に手をつき、水無都冬真に声をかける。
「いやいや。こっちこそ、急に呼び出してごめんね。しかも、もう夜時分に。
いくら夏とはいえ、この時間だともう暗いもんね」
そう返して、萩原睦月が落ち着くまでゆっくりと待つ水無都冬真。
その表情は非常に穏やかなものであり、優しげな視線を萩原睦月に送っていた。
(あれ――?)
萩原睦月は、違和感に気づく。
ここ最近、水無都冬真と会ったときに漂っていた雰囲気とは明らかに異なる。
口調や態度こそそれほど従来とは違わなかったものの、確かになにかに焦っている空気は伝わってきていたのだ。
最後に会ったのは、二日前の昼間。
そのときの水無都冬真は、なにかに思いつめて、ひょっとしたら危ないことでもしでかすんじゃないかと
萩原睦月は心配したくらいだった。
とすると、やっぱり、柊神奈の安全が確認されたのだろうか。
萩原睦月は思う。
223 __(仮) (2/8) sage 2008/04/28(月) 22:44:23 ID:unK66Evu
それが判れば、なによりだという気持ちを込めて、萩原睦月は水無都冬真に切り出す。
「はぁ。すみません。落ち着きました。あの、それで、今日は、どうしたんですか。
直接話したいことって? もしかして、柊先輩の行方が判ったんですか?」
「ん? あぁ、柊ちゃんね。うん。まだ、ちょっと判らないんだ。
あれこれツテを頼ってはいるんだけどね」
「あ……、そうなんですか……」
自分の予想が違ったことに、更なる疑問を覚える萩原睦月。
では、なぜ水無都冬真の様子がそこまで変わっているのだろうか。なにか、心配事が解消されたからではないのだろうか。
「じゃ、じゃあ、あの、水無都さんに悪質な悪戯してくる人の正体が、判ったんですか?」
「ん? あ、ああ。そっちもまだ、だね。うん。ほら、俺ってば、女の娘にモテるからねー。
いろいろなところで、逆恨みとかかっちゃってるかもしれないし。それに、もしかしたら、
内気で無口でシャイなかわいい女の娘が、俺に想いを伝えられなくて、
こんな捻じ曲がったアプローチをしてきてるのかもしれないし」
水無都冬真は、いつものごとく軽口で返答する。
「み、水無都先輩! もう! その言葉、冗談で言ってるんだとは思いますけど、
それにしても性質悪すぎますよ? 下手したら、水無都先輩の身の危険だって――!」
「ああ。うんそうだね。ところで、この話って、他に誰かにした?」
萩原睦月の意見を半ば遮る形で受け取ると、逆に質問をする。
「え?」
「あ、ほら。誰かに嫌がらせを受けてるとか、あんまりいい風評じゃないからね。
とくに秋巳とか椿ちゃんに伝わって、余計な心配をさせても、あれだし、ね」
「あ――!」
水無都冬真のその言葉に、萩原睦月はしまったという様子で慌てて口に手を当てる仕種をする。
「ん? どうしたの?」
「あの……。すみません。もう、喋っちゃってます、椿に……」
申し訳なさそうに首を垂れながら萩原睦月。
そんな彼女に対し、水無都冬真は腕組をし「うーん」と唸ると、
「そっか。いや、別に俺も、誰某に言わないでとか伝えなかったしね。うん。
まあ、伝わっちゃったんなら、いいよ。ごめん。気にしないで」
「あの、でも、なんで、私には?」
萩原睦月は、そう疑問を投げかける。
彼女の中で、自分だけには話してくれたという特別感とは全く逆の感情を抱きながら。
そう。水無都冬真が自分に話したのは、おそらく自分が特別だから、ではない。
秋巳と椿が特別だから話さないのだろう、と萩原睦月は思ったのだ。
そして、そんな心情を抱く自分を嫌悪した。
「萩原ちゃんは、吊り橋効果って知ってる?」
「え?」
質問に応えず、問い返してくる水無都冬真に戸惑う萩原睦月。
「あの、どういう……?」
「緊張状態での興奮を、恋愛感情のドキドキと取り違えちゃうっていう話」
「あ、いえ、その文句自体は、聞いたことありますけど……」
「つまり、だ。危機感を共有した男女は、恋に落ちやすい、と」
「はあ?」
「あれ? ここまで言って、気づかない? 結構、萩原ちゃんって鈍いとこあるのね」
「え……?」
萩原睦月は、刹那混乱する。
なぜ、自分に嫌がらせを受けていることを話したのかという問いに、吊り橋効果の話を持ち出すのか。
危機感の共有のため?
それは、つまり――。
「あ――!」
漸くその結論に行き着いた。それから、その意味を理解すると萩原睦月は頬を赤らめる。
225 __(仮) (3/8) sage 2008/04/28(月) 22:47:36 ID:unK66Evu
「みっ、水無都先輩っ!」
「あはは。気づいた?」
「もっ、もう、あたしをからかっているんですね!」
半ば拗ねた声をあげる。
「いやいや」
「そ、それにもう……あたし、とっくに落ちてますけど?」
怒った勢いのまま、自分の感情を素直に吐露する萩原睦月。
「いや、これまた、随分と直球だね。うん、でも、そうだね。いまさらだけど、最初が最初だしね、
萩原ちゃんの気持ちはとっくに判ってたんだけどね」
「あたしだって、自分の気持ちがとっくに知られていることを知ってました!」
意地になって言い返す。
「うん。いままで、はっきりしなくて悪かったけど、このごたごたが片付いたら、
ちゃんと応えを出すから。どっちにしても、ね」
萩原睦月の瞳に映る自分の顔を覗き込むように水無都冬真。
「あっ、いえ、そんな! だって、あたしの方こそ、自分のこと全然水無都先輩に判ってもらえてない状態で、
そんな急かすようなことしたくないです。あたし、気は長いほうなんで」
それこそ、自分は何年も水無都冬真のことを想ってきたのだから、という自負を込めて言う。
「うーん。でもね、判ってもらう必要があるのは、俺のほうかもね」
そう寂しげな表情を浮かべて、水無都冬真は呟く。
「え?」
「萩原ちゃんが、俺にまだ自分のことを判ってもらえてないと思うのと同じくらい、
俺も萩原ちゃんには、まだ自分のことを理解してもらえてないって思ってるしね」
「そんな……」
「ほら、よく恋愛で重要な要素である価値観とかさ。たとえば、萩原ちゃんは、
自分の好きな人が自分を一番に想ってくれてなかったらどう思う?」
「それって、いきなり『あたしは二号さん』宣告ですか?」
萩原睦月は、半眼で、じと、と水無都冬真を睨みつける。
「あはは。事は、そんなに単純じゃないんだけどね」
「ふーん! いいですよーだ! いまに、あたしが一番って言わせてみせますから!」
「あはは。羨ましいね。その性格。いや、ほんとに。心底」
水無都冬真は、萩原睦月に微笑を向けながら思う。
(でもね。萩原ちゃん――)
君は、如月椿か自分のどちらかを取れって訊かれたら、答えられるのかな――?
街燈と周囲の家から洩れる照明の明かりのみの薄暗い公園内で、水無都冬真と萩原睦月がそんなやり取りをしている中、
暗がりに紛れるようにして近づいてくる足音に、ふたりは気づく。
おそらく単に通りがかった人だろうと、萩原睦月はそちらにちらと視線を向ける。
それに倣うかのごとく、同じ方に目線だけを向ける水無都冬真。
近づいてくるに従って、街燈に足元から照らされる人影。そのライトアップの部分が胸にまで差し掛かったとき、
そちらから声が洩れる。
「こんばんは。水無都先輩。こんな時間に、女の娘とデートとは、随分といいご身分ですね?」
「え……?」
萩原睦月の口から、驚愕の声が洩れる。
聞いたことある声。それもよく。一番その声を聞いたのはどこであったろうか。そう、あの文化祭での演劇の舞台。
「宇津木、くん……?」
まるで芝居の照明効果のごとく徐々に照らしあげられたその顔は。
如月椿に告白し、水無都冬真が好きだからという理由で拒絶された、椿と萩原睦月のクラスメートである宇津木であった。
226 __(仮) (4/8) sage 2008/04/28(月) 22:51:00 ID:unK66Evu
* * * * *
水無都冬真と萩原睦月が夜の公園で邂逅しているのと、ほぼ同時刻。秋巳の家では、椿が夕食の支度を終えて、
秋巳とふたり食卓につき食事を始めようとしていたところであった。
「兄さん、それではいただきましょうか」
「うんそうだね。いただきます」
ふたり向かい合って、食事の礼をする秋巳と椿。
「そういえば、兄さん、最近浮かない顔をしていますね。なにか心配事でも?」
秋巳の気色を伺う仕種で、訊ねる椿。
それは、もうこの一月で大分当たり前の光景になった食卓での兄妹ふたりの会話。家族の光景。
「う、うん。ちょっとね」
秋巳は歯切れの悪い返事をする
「柊さんのことでしょうか?」
椿は、兄の
悩みの種を追求する。そこには、自分が取り除いてあげたいという思いが込められているのだろうか。
「え? あ、ああ、うん。それも、なんだけど、ね。椿はそのこと知っているの?」
「ええ。睦月から聞きました。睦月は、水無都さんが大分心配しているって言ってました」
「え、ん。あ、そうなんだ」
少し挙動不審ぎみな秋巳の様子をじっと見詰める椿。
「兄さん、こんなときに、というか、さらに、兄さんの悩みを増やすようなことを言って申し訳ないのですが、
私もちょっと心配事があるのです。柊さんのことに加えてさらに」
「え?」
「透夏さんのことです」
「透夏さん?」
「ええ。いま、透夏さん旅行に出かけているでしょう。予定だと明日戻ってくるみたいですけど、
いま、連絡が取れないのです」
「透夏さんと?」
「はい。最初は、メールを送っても返ってこなかっただけなので、見落としてるのかな、
くらいに思っていたのですが、柊さんの話を聞いて、ちょっと心配になって
連絡を携帯に直接してみたのですが、繋がらないのです。何度かけても」
「ええっ? と、透夏さんまで音信不通になってるの?」
初めて聞いたことに驚きの表情を浮かべる秋巳。
それまで秋巳の気分を表すかのごとく、もそもそと動いていた箸が止まる。
「メールを何度送ってみても、返信は一向に返ってきません。それで、心配になって、
伯父さんたちに連絡しようかどうか迷ってるんです。あまり、大ごとにするのもどうかと思いますし、
もしかしたら、どこかで携帯をなくして、家にはちゃんと連絡を入れているかもしれませんけど」
「どのくらい連絡がとれないの?」
「最初に送ったメールは五日前ぐらいでしたけど、何度かけても連絡が取れなかったのは今日だけです。
それより前は連絡してないので」
「そうか」
そう頷くと、秋巳はなにかを考え込むように目を閉じ、しばし沈黙する。
「そう、だね。明日になっても連絡取れなかったら、ちょっと相談はしたほうがいいね。
僕からも透夏さんに直接連絡をとってみるよ」
「ええ。お願いします」
椿がそう返事をしたところで、居間のテーブルの上に置いてあった椿の携帯電話が着信を知らせる。
もともとその機種に設定されているなんの色気もないピピピという呼出音が、居間から食卓へ響く。
「あら? もしかしたら、噂をすれば、とかですかね。きっと、
携帯電話を宿に置きっ放しにしてたとかのオチかもしれません」
椿は、そう言って席を立つと、リビングの卓の上へ向かう。
椿が席を立つと同時に、着信音が鳴り止み、その回数からおそらくメールだろう考えながら、
椿は携帯電話を手にとり、確認する。
227 __(仮) (5/8) sage 2008/04/28(月) 22:53:16 ID:unK66Evu
「兄さん――!」
画面を見た椿が叫ぶような声で秋巳を呼ぶと、なにかあったのかと慌てて秋巳も椿の元へ向かい、彼女が見ている画面を確認する。
「ど、どうしたの!」
椿の画面を見ると、送信者は、萩原睦月になっていた。
その内容は。
『たすけてこうえんで』
漢字変換もされず、おそらく途中で送信したであろうそれは、その内容も相まって明らかに萩原睦月の異常事態を示していた。
秋巳は、椿の手から携帯を引っ手繰るようにして奪うと、すぐさま、萩原睦月をコールする。
『この携帯は電波が――』
と、不通を告げるメッセージが流れるのみ。
「兄さん! 睦月が! 睦月が!」
しゃがみ込んだ秋巳に縋りつき、その肩をがくがくと揺する椿。
「落ち着いて! 椿」
秋巳はポケットから自分の携帯電話を取り出すと、水無都冬真にコールする。
果たして返ってくるはずの呼出音は、期待を裏切られる。
『この携帯は電波が――』
(どういうことだ――!?)
不測の事態なのか。
秋巳の中に焦燥が湧き上がり、溢れ出す水のごとく心を浸食していく。
「兄さん? 水無都さんにも連絡が取れないんですか」
不安をさらに積み上げた顔を見せる椿。
「あ、ああ。とにかく、公園に行ってみよう!」
それしか手がかりはないのだから。
秋巳はそう提案すると立ち上がり、椿の手を引きながら玄関へ向かう。
「で、でも、このあたりには、公園はいくつかありますよ。ど、どうするんですか?」
「全部回るしかないだろう」
半ばやけ気味の声をあげると、秋巳と椿のふたりは家を出る。
夜も大分回り、元々人口の多い街ではないが、さらに人通りの少なくなった住宅街を、秋巳と椿のふたりが疾走する。
まだ昼間の熱気冷めやらぬ気温の中、噴出した汗により胸にへばりつくシャツの感触が、秋巳の焦りをなお一層増幅させる。
「兄さん、睦月に、睦月になにがあったんですか?」
そんなことは秋巳に聞かれても当然判らないのだが、秋巳の後ろを走る椿は動揺しているためか、息切れ切れに秋巳に問う。
「いや。判らない。判らないけど、良くない予感がする」
「良くない予感って、睦月になにかあったってことですか? それに、水無都さんも」
「判らない! 判らないよ!」
水無都冬真にも連絡が取れない。
それがなにより秋巳を混乱させた。
それからふたりは無言のまま、いちばん近い公園へと到着する。
それほど広くない、子供の遊び場のための遊技場。明かりに乏しいこの暗闇の中でも、ほぼ一目で誰もいないと判るほどの。
それでも、秋巳と椿のふたりは、周囲も含めてひととおりぐるぐる回り、呼びかけにも誰も応じないことを理解すると、
ここは違ったのであろうと悟る。
228 __(仮) (6/8) sage 2008/04/28(月) 22:55:30 ID:unK66Evu
「ねえ、兄さん。ひょっとしたら、もう、睦月は公園にはいないんじゃ……」
「まだだ。まだ、ひとつしか回ってないだろう。そうだ、二手に――」
「いやっ!」
二手に分かれて探そう。そう提案しようとした秋巳の言葉を遮り、悲鳴としかいえない声をあげて拒絶すると、
椿は秋巳の腕の裾を強く掴む。
「おねがいです。ひとりにしないで――!」
「つ、椿……」
椿の見せた心からの叫びに、僅かに呆然とする秋巳。
そして、これは違う、違うはずだと慌てて頭を振ると、椿に応える。
「判った。一緒に回ろう。でも、急がなきゃ。早く次のところへ」
「ええ……」
力なく頷くと、椿は秋巳に付き従う。
その後心当たりのある公園をすべて回ってみたが、水無都冬真はおろか、萩原睦月の影さえ見つけることは出来なかった。
「ねえ。兄さん。睦月、睦月の家に行ってみたら……」
途方に暮れそうになった秋巳に対して、椿がそう提案する。
その提案を受けて、秋巳の頭にもうひとつの行き先が思い浮かぶ。
水無都冬真の住居。
「椿。萩原さんの家の場所は知っているの?」
「はい」
「ここから、どのくらい?」
「多分、走っても三十分ぐらいだと。でもタクシーを使えば……」
いまいる辺りは住宅街のため、タクシーはそう通らない。捕まえるためには、一旦駅前まで出なければならないだろう。
それを考えたら、あまり時間差はない。
「椿。萩原さんの家の番号は、知ってる?」
「え、ええ。携帯に入っているはずだけれど」
「じゃあ、萩原さんの家に連絡しながら、冬真の家に向かおう」
「水無都さん?」
「ああ。冬真はひとり暮しだから。家に電話を引いてない。だから、直接向かおうと思う。
萩原さんのほうは、家族に訊けばいるかいないかは、判るはずだ」
「で、でも、どうして、水無都さんに」
「冬真にも連絡がつかない。おそらく、冬真なら、なにか知っているんじゃないかと思うんだ」
ある種の確信を込めて、秋巳は椿に述べる。
「あまり考えている時間はない。急ごう! それと、萩原さんの家族には、いまの段階では、
あまり心配させるようなことは言わないでおいて」
もしかしたら、を考えている秋巳は、そう椿に念を押す。
それから椿の手を引いて再び走り出す秋巳。その秋巳の後姿を見つめながら、椿はもう片方の手に握った携帯電話を開く。
秋巳とはまた別のもしかしたら、を考えながら。
229 __(仮) (7/8) sage 2008/04/28(月) 22:58:48 ID:unK66Evu
* * *
「はあぁっ――! どういうことだ!?」
秋巳は自宅の玄関口に凭れかかって、切れた息を整えながらずりずりとしゃがみ込む。
結局、萩原睦月の家に本人はいない上、水無都冬真の住むアパートの電気も真っ暗であり、
呼び鈴を押しても誰も出ない状態であった。
なすすべなく途方に暮れた秋巳たちは、いまさらのように交番に駆け込んだが、その反応は想像どおりであった。
悪い意味で。
メールが一通来たのみで、かつ本人に連絡がとれないだけだと、警察としては直接動きようがない。
まず、友達同士の悪戯なんじゃないのという怪しい目で見られ。秋巳たちの真剣さを感じると、それから慌てて取り繕い、
勿論この街の公園を中心に周囲の警戒は強めるし、パトロールの数も増やす、と述べた。
だが、それ以上の手はいまの段階では打ちようがない。なにかあったらすぐに連絡を欲しい。
そう言って、秋巳と椿ふたりの連絡先その他情報を幾つか調べられただけで、直接的な進展はやはりなかった。
まるで、死体でも出てきたら動いてやるよ、と言わんばかりに。
それは、若干秋巳の穿った見方を含んでいたが、椿も似たような印象を抱いた。
だからこそ、いの一番で警察に駆け込んでも無駄であるどころか、あれこれ調べ上げられて時間を浪費すると思ったから、
まず自分たちで探し回ったのだ。
それでも、その場で、所轄署に対してすぐさまパトロールの増援依頼を出してくれたことを考えただけでも、
御の字だったのかもしれない。
家の玄関前でへたれこむ秋巳と、その隣に幽鬼のごとくぼうっと立ち尽くす椿。
(そうだ――! 透夏さん)
失望と困惑で染まった秋巳の中に思い浮かんだ人物。
水無都冬真や柊神奈、萩原睦月と同様に連絡が取れなくなっている人。
関係ないとは思ったが、こう立て続けに消息が判らなくなる事象から、もしかしたら、誰かに連絡がつけば連鎖的に
みんなの居場所が判明するんじゃないかと、なんの根拠もなしに夢想し、秋巳は携帯電話を取り出して呼び出す。
果たして、携帯電話の向こうから聞こえる音は。
今日三度目の繰り返し。
『この携帯は電波が届かないところ――』
(なんで――!)
秋巳は力なくオンフックボタンを押すと、玄関脇の草むらにそれを放る。
秋巳はいま自分たちを取り巻くこの現象に、頭がどうにかなりそうだった。
(なんなんだ! これは一体。どうしてこう誰も彼も消えてゆく――!)
「ねえ、兄さん」
玄関の扉に背を預け尻餅をついている秋巳の前を塞ぐかの様子で、いつのまにか屹立している椿。
その声は夜の帳が落ちた静かな街の空気の中に、染み入るように冷たく、それこそ夏の陽気に似合わず凛と低く冷たく響く。
俯いたその表情は、玄関灯の逆光になり、よく伺えない。
「椿……?」
「ねえ。兄さん。皆いなくなってしまうんですね。私の前から」
「ど、どうしたの。椿!」
慌てて立ち上がると、椿の肩を掴む。
「透夏さんも、睦月も、水無都さんも、それから、柊さんも。
ねえ、皆、私の前からいなくなってしまうんですね。兄さんも、ですか?」
「な、なにを――」
秋巳が抗議しようとしたその刹那。その一瞬。
「んっ――」
秋巳の口を、椿が塞ぐ。その自身の唇を以って。
それは、どのくらいの時間だったろうか。一瞬だったかもしれないし、一分だったかもしれないし、十分だったかもしれない。
驚愕の感情が秋巳から時間の感覚を奪う。
その口付けた部分から、椿の熱が吐息とともに秋巳に伝わる。まるで秋巳の心を焼き尽くすかのごとく。
さらに、椿の汗の匂いと、やわらかな椿自身の匂いが、秋巳のそれと混じりあい、秋巳の世界を侵食する。
秋巳は信じられなかった。いま、自分がなにをやっているのか。
口付けをしている? 実の妹と?
230 __(仮) (8/8) sage 2008/04/28(月) 23:01:47 ID:unK66Evu
秋巳は力任せに椿の肩を押し、無理矢理引き離す。
「椿、おまえは――っ!」
「ねえ。兄さん。兄さんもまた私を捨てるのですか。あのときのように」
あのとき。
父と母が相次いで亡くなり、悲しみに打ちひしがれた秋巳は、椿を捨てた。その存在を消した。
その事実が秋巳の心に深く突き刺さる。いや、もともと秋巳の心の奥深くに突き刺さっていたのだ。
それがさらにぐりぐりと捻りこまれる。
一生消えることのない杭を刺したまま塞がりつつあった傷口は、再びばっくりと開き、そこから血が溢れ出す。
「兄さん。私がただの妹だから、ですか。私が、単に如月秋巳の妹という存在に過ぎないから、ですか。
だったら――。だったら、私は、あなたの親にも姉にも恋人にも親友にも妻にもなりましょう。
だから、私を捨てないで。私は、あなたの望むものなんにでもなります。あなただけがいればいい。
あなただけが欲しいのです。だから、あなたも私だけを受け入れて」
そう言って、秋巳に再び飛びかかる形で接吻をする。
「やめ――っ!」
秋巳が紡ごうとした言葉は、椿の口内に呑まれる。反抗は許さないとばかりに。
それから、口を離すと、椿は双眸を細め、口の端を少しつり上げる。
「ふふ。ねえ。ほら。私は、あなたが失ってしまった全ての人間になります。
だから、あなたも私の全てになって」
それは微笑み。秋巳が初めて見る椿の微笑み。
見るものが見れば、虜にされるであろうその笑顔。
しかし、秋巳が感じたのは心の奥底からの恐怖であった。
傍から見れば、椿はおかしくなってしまったのだろう、狂ってしまったのだろうと受け取れる。
立て続けに、親戚が、親友が、幼馴染が行方知れずになり、その安否も判らない状態で、指数関数的に膨らんでいく不安に押しつぶされ。
かつての両親を失い兄に見捨てられたときの忌まわしい記憶と相乗効果を引き起こしてしまったのだろう。そう思える。
秋巳が誰より肉親として愛している妹が、そうなってしまったら。それも、その素地を作り上げたのが他ならない自分であったのなら。
秋巳は、一生かけても椿に尽くしたであろう。椿の望むままに。それが秋巳自身の幸せだと信じていたのだから。
誰よりも愛していて、信じている妹なのだから。
だが、秋巳にはもうひとつ信じている人があった。
夕焼けの屋上での会話。真剣に射抜く眼差し。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .・ ・ ・ ・
お か し く な っ て し ま っ た の で は な く、 も と か ら そ う だ っ た と し た ら。
だから、秋巳は言葉を紡ぐ。決定的な最後の一擲を。その言は、この上ない力を以って夏の夜空に吸い込まれる。
「椿。これが――! これが、椿の望んでいた結末なのか――!」
最終更新:2008年05月04日 22:25