635 キスプリ キモい×シスター×プリンセス sage 2008/05/12(月) 00:44:53 ID:deaaPdy2
陽の輝きの去った空に星々が上る刻限。
冷たさを増していく夜気と濃くなっていく闇が、人々に夢の中の安息を促し始める頃。
「お兄様」
キーモ帝国第一皇女フェリシア・シスタ・キーモは、遥か仰ぐ月へと憂鬱の吐息を紡いでいた。
高く遠い尖塔の頂からかけた呼びかけが、夜の帳を越えることなく溶けていく。
「お兄様・・・」
長く、膝の裏までドレスの上を流れる金糸の輝きの髪。
上等の翠玉を思わせる色と深さの、しかし無機の宝石にはない柔らかな潤みを湛えた瞳。
片頬に添えた手には絹糸の純白、余人には許さぬ高貴の肌には匠に織り上げられた銀の衣。
頭上には満ちた月の光に煌く、透き通った白の貴石を並べたティアラ。
国の内外にて『帝国の至宝』と謳われる皇女の、しかし一点だけ曇った美しさがそこにある。
二度、晴れぬ憂いを乗せたまま夜風にさらわれた声。
宮廷の楽士が揃って絶世と賛美するだろう調べを吹いた唇が、固く結ばれた。
「どうして」
月を射た視線が直下、塔より鳥が舞う距離を隔てた地上へと下ろされる。
星々だけでは拭いきれない闇の奥、狩人のように細められた翠の瞳が二つ、夜に踊る影を捉えた。
「ああっ」
喘ぎのように揺れる吐息。
だがフェリシアの体を振るわせるモノは歓喜とも快楽とも程遠く、
皇女は専用に用立てられた最高級の手袋が破れても構わぬと、強く手の平に爪を握った。
主の心に代わって絹糸が裂ける。
「どうしてなのですか・・・!」
透徹した月の光彩を浴びる顔貌へと更なる美を添える憂いから反転、
三日月の弧を描いた目が宿された熱に濁り、宵闇を刺し抜いた視線が影の片方を突く。
薄めたような黒の空間で双眸が閃いた。
フェリシアが見詰める先にある一組の影のうち、一つは背の高い男のもの。
残る一つは滑らかに、舞に似てくるくるとよく動く女のもの。
二つは時に近付き、時に僅かに離れ、また近付くのを先刻より繰り返していた。
立てられた小さな皇女の耳は、微かに聞こえてくる談笑の気配を帯びた言葉の交換も捉えている。
聞き紛うはずもない。
片方、凛として通る、涼やかな高さを備えた男の声は彼女の兄、
フェリシアより上にして最上の皇位継承権を持つエーロのもの。その事実が、姫の心を軋ませる。
「どうして、そのような女と・・・!」
普段ならば甘菓子を食み、或いは鳥の囀りのように心地良い言葉を紡ぐ口の奥がぎりぎりと音を立てる。
合わされた歯の間で噛まれた憤怒が弾け、唇の隙間から怨嗟となって漏れ出した。
「あの醜女っ!」
上げられた叫びの中、満ち満ちた憎悪に夜気が慄く。
「神代よりの血を継ぐ王族の、それも次の王位を約束された兄様に!
至尊たる私の・・・私だけの兄様に、たかが伯爵家の子女の分際でよくもあのようなっ!」
月下、一組の男女の舞踏は尚も続いていた。込められた剣の鋭さが、皇女の瞳より月光を返す。
石欄を離れた手が左右へと伸ばされた。
636 キスプリ キモい×シスター×プリンセス sage 2008/05/12(月) 00:45:27 ID:deaaPdy2
「影、影はいますか!」
両の手の平に挟まれた夜気が鳴る。
冴え冴えとした月明かりの届かぬ背後へ投げた呼び声に、今度は応じる者があった。
「こちらに」
漆黒の帳に隠された姿は見えぬまま、確かについ先刻まではなかった気配が生じる。
闇が喋ったのだと余人に言えば信じよう。それ程に唐突であった。
「あの娘を連れて来ればよろしいのですね?」
風に似た声が響く。呼び声に現れた何者かは不思議、否、不気味に耳に残らぬ声音で問うた。
振り向きもせずに姫が応じる。
「投じる人員も方法も任せます。ですが、日を跨ぐまでには終えなさい。
今宵はあの醜女の上げる悲鳴を聞かねば眠ること叶いません。
明日、もし荒れた肌で兄様の前に立つようなことになれば、その時はお前の血を代わりの慰めとします」
仮にも皇女たる者の証か、フェリシアは空恐ろしい内容を些かの震えもなく言い終えた。
「御意」
影もまた抑揚なく返す。
「それと、行く前に香水を此処に。
お前がことを終えるまでに、私はあの下賎の匂いを兄様から落としておくことに────」
風が吹いた。夜気を揺らす夜風に攫われて、皇女の言葉が途切れる。
過ぎ去った無礼者に冷えた肌を揺らして、フェリシアが口を開いた。
「いいですね」
尋ねるのではなく、命じる。影からの答えはなかった。数秒、闇が静けさを取り戻す。
「────────影?」
振り向いた皇女に応じる気配はなく、塔の頂に差し込む月明りと闇の境界に小瓶が一つ置かれていた。
影の迅速さに置いて行かれた皇女はそれを確認すると、一度目を閉じてから歩き出す。
照らし出される彼女の影がゆらゆらと揺れ、その足元が小瓶にかかった所で止まった。
絹糸の裂け目から肌を除かせる手で取り、霧吹き音を二度。
ただの一吹きで庶民の日給に匹敵する香りを浴び、よく擦り付ける。
何度か鼻梁を震わせて兄との逢瀬に不足がないかを丹念に確かめると、漸く視線を頭上へと戻した。
塔の下の不快に代わり、瑕疵のない月の輪郭が幾らかの慰撫となる。薄く、吐息が紡がれた。
637 キスプリ キモい×シスター×プリンセス sage 2008/05/12(月) 00:45:57 ID:deaaPdy2
「兄様・・・」
何故こうも上手くいかないのか、とフェリシアは思う。
王族という地位、限りある自由と逢瀬の時間、王権を狙う簒奪者、王の意向に擦り寄ろうとする者。
たとえ何処だろうと誰かが、何時だろうと何かが彼女の邪魔をしていた。フェリシアは兄を愛している。
次期王に対する臣下として、生誕の時より溢れんばかりの愛を以って接されてきた妹として、一人の女として。
そして、それが故に苦悩していた。
兄と添い遂げるべく進む道には幾つもの障害が立ち塞がり、それらは何度取り除こうともなくならない。
まさしく下賎、雑草や害虫の類である。根絶し難く、殖え易い。これまで幾度、憂鬱の吐息を紡いだことか。
意識の端で、影にも苦労をかける、と思う。ただ愛を遂げるだけであるというのに、何と困難な道か。
命じて兄を攫えば追っ手がかかり、邪魔者は排すれば排しただけ現れる。
幼少より高等な教育を受けて育った皇女にも、憂鬱以外の言葉が見付からなかった。
「それでも」
踵を返す。
「私は諦めません」
彼女たっての希望で尖塔の先に設けられた皇女専用の私室。
迷いなく踏み込まれた足が、闇と光の境目の先に消えた。
「いずれ至高たる王位に就く兄様に相応しいのは、同じ血を分けた私のみ」
漆黒を肌に触れさせながら皇女が進む。
「兄様の邪魔となる者にも、私の邪魔をする者にも、等しく死を、死を、死を」
刻まれる足音は一定の調子を保ちつつ、
時折何かを爪先で蹴るような音を伴い、そしてある時からゆっくりと遠くなり始めた。
「たとえどれ程の時をかけようとも、兄様に相応しくない下賎は全て滅ぼしてご覧に入れます」
尖塔を下りてゆく皇女が尊顔に浮かべる表情は、闇の仮面に覆われて窺い知れない。
皇女自らを除けばほとんど訪れる者もいない塔の中に、ただ足音と独白だけが響いて行く。
「兄様。フェリシアは兄様を愛しております。
兄様を、兄様だけを。どうか、それをお忘れにならないで」
月下にて光の差さぬ螺旋の階段。その呟きもまた、底へ続く暗闇に吸い込まれて消えて行く。
後には、兄を目指すフェリシアの歩む音だけが、その長い長い時の終わりまで繰り返された。
それよりおよそ十刻を数えた頃、傾いた満月が尖塔の頂を横から照らす。
差し込む月明りに闇を取り払われた皇女専用の私室の中。
そこにはうず高く積み上げられた人骨の山と、散らばった幾本もの骨が物言わずに横たわっていた。
最終更新:2008年05月18日 18:38