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姿見村 sage 2008/07/01(火) 00:24:04 ID:vpnLq+ua
こつ、こつ、こつ。
規則的に刻まれていく音が耳に響いてくる。
寒い。
もうすでに夏といっていい時期なのに、肌にのっぺりとまとわりつく風。体に這いまわるように体温を下げて、ここではやっぱり風すらも異質だ。
でこぼことした足のみで踏みならされた道を、楠宗佑は歩いている。
左手には乱雑に生えた木々が自分こそが一番だとでも言うように体を押し出してきて、道に侵食している。
逆手には海。オレンジ色の水がこれでもかというぐらいに広がる。
太陽は水平線に食べられていて、もう一時間もすれば無くなってしまうだろう。
宗佑はテトラポッドで遮られた砂浜へと降りることにした。急に海をもっと近くで見たくなったのだ。
乱暴に砂浜まで降りると、しゃり、と海の砂特有の音が足元から聞こえてくる。踏むたびに鳴らされる音と無遠慮に生まれた自分の足跡がここは海なのだと一層感じさせた。
見渡せば少し朱に染まった地面がカーペットを敷いたみたいに周囲全体に広がっている。
砂浜から海のほうへと下る。すると、掌よりも一回り小さな石が宗佑の目に入った。
拾って、幼いころ何度もやったように水きりと呼ばれる石で水面を作る遊びをしてみると、思いのほか自分は運動不足になっていると知らされた。
一回、二回、三回、四回。
最後には、ぽちゃんと水に沈んでいく。
もう昔のように九回も十回することは到底出来なくなっているのが少し寂しい。よく近所の友達とここにきて誰が一番水切りをできるか競ったものだった。
生まれた水泡が弾けて海面になくなるのを待って、腰を落とす。
潮が引く音だけが聞こえてくる。陽はもう、半分に分かれていて、蜜柑のような円だけが宗佑を見守っている。
ゆらゆらと形を崩しながら消えていく姿はとても儚くて、宗佑をなんだか感傷的な気分にさせた。
「あなた」
振り向けば、妻の園子がよたよたとテトラポッドから降りてきている。宗佑は立ち上がって助けに行こうとしたが、大丈夫だからという妻の声で押しとどまった。
「大丈夫か」
なんとか砂浜に降りた彼女は、左手がだらんと、下がっていて痛々しく、その姿が宗佑の思考を一瞬奪ったが彼女は気づいていないようだった。
「何をしていたの」
「海を見ていた」
園子は僅かに宗佑の顔を見てから横に座った。
80 名無しさん@ピンキー sage 2008/07/01(火) 00:31:39 ID:vpnLq+ua
「ここからしか見えないものね」
白いワンピースの肩紐が風に舞った髪の下から姿を現している。
華奢な彼女が薄手のもの着ていると物語に出てくる少女のようだけれど、年齢からすれば不格好にも見えてしまう。
そしてよく見れば、凪いだ風に髪を押さえる彼女は顔が薄く上気しているようだった。
宗佑は走ってきたわけではないとわかっていたから指摘することはせず、黙ったままもう一度近くに落ちてあった石を拾って、今度は手触りを確かめてから投げた。
「園子は後悔していないのか」
しばらくしてから宗佑がそう言うと、足だけでも水に入ろうとサンダルを脱ぎ始めた園子が彼を見て笑った。
裸足になり、海へとゆっくりと歩く。
女優のようではなく、半人前のバレリーナのよう。宗佑は彼女が脱いだサンダルを持って後を追う。
「村から出られないこと、結婚すること、どっちのことを言ってるの」
「両方だ」
足首まで水面に浸けて、妻は振り返りながら夫を見つめた。
宗佑はその姿を眩しそうに記憶に刻むことにする。きっと、俺がここに帰ってきたのは彼女がいるからなんだと強く思うために。
村から出られないこと。
そう。ここから――――姿見村から出ることはできない。
地図にすら記されないことが多い辺境。
村は海を支点にした扇形に森が広がっており異空間とすら呼ばれている。
歩いて来る以外の交通手段はなく、訪れる人は年に何人か。最低限の買いだしは村の人々もやっているけれど、自給自足が基本の村ではその機会すら少ない。
そして、この村は最大の特異は門。特殊な条件を持った鋼の砦。
これを宗佑はもう二度と通ることができない。
だから、不安だった。
帰ってきたのは園子のためだったが、自分と結婚するということは、姿見村に縛るということにつながる。
園子には多少の障害はあれど、もっと羽を伸ばしてほしいと宗佑はずっと思っていたから。
それ故、園子が拒否するならば、たとえ取り返しがつかないことになろうとも彼女だけは助ける、そう心に誓っていた。
「そうね。村のことは……仕方ないわ。こういう場所だって割り切るしかないじゃない」
宗佑の視界を中心の光を背にして苦笑する。波が彼女の細い足を叩く。
「割り切れるのか」
こう聞いたのは、
なんとなく寂しそうに見えたからだ。
81 名無しさん@ピンキー sage 2008/07/01(火) 00:32:20 ID:vpnLq+ua
園子はいつも自分に心配させまいとするから、今回も宗佑を思ってのことかもしれない。
「都会に生まれた人は、そこでなきゃいけない理由がある。私たちも、ここでなきゃいけない理由がある。だからここにいる。そう考えてるわ」
「……都会で生きたいと思ったことは、ないのか」
今度は純粋な疑問だったが、彼女はずっと宗佑を見つめ、それから背を向けた。
「あるわ。女ですもの」
安心したのはどちらだろうか。本音を言った彼女か。過去にここを出た自分か。
「結婚については、よくわからない」
潮がさらに上がってくる。まるで自分を責めているかのように宗佑には思えた。海の中に溶け込んでいる彼女と、まだ海に入れない自分。水だけが嘲笑っている。
「そうか」
自分はこういうときなんと言葉をかければいいのか。聞いた自分がこういうことを言うのは傲慢なのだが、
彼女の答えは何となくわかっていたような気がしたから、それ以上の言葉が浮かばない。
すると園子は、それすらもわかっていたかのように宗佑の目の前までやってきて言った。
「あなたが嫌だと言っているわけじゃないわ。あなたのことは昔から好きだったし、好きな人と結婚できるんだもの、私は幸せよ」
真摯な瞳が宗佑を捉えて離さなかった。園子の髪が波のように揺れる。
そして今度は、園子は宗佑を水の中まで連れて行く。彼がやっていたように石を拾って投げる。壊れた人形のように使ってもいない左手が、ぐるんと回った。
石が水を切ることはなかった。すぐに海に沈んでしまった。
けれど宗佑はそれをなんとも言えない気持ちでずっと見ていた。
「マリッジブルー、か」
ぼそりと呟く。
自分も水面に手を突っ込んでサンダル脱ぎ、そして石を拾った。
投げると、やはり昔のような回数は出なかったけれど、さっきよりは多く水切りができた。
「あら、あなたにしては珍しい言葉を言うのね」
「お前だって、なんだかいつもと違うじゃないか。普段はもっと上品なのに」
「今は二人きりだもの」
そして、馬鹿みたいにそろって海に向かって石を投げた。
手頃な石がなくなるほどやりすぎてしまい、砂浜に戻って調達してこようという頃には、
もう日は十分に沈んでしまっていて辺りも闇がペタリと張り付いてきていた。
82 名無しさん@ピンキー sage 2008/07/01(火) 00:33:03 ID:vpnLq+ua
園子の声とともに帰路につくことにした。
一度、横からこほんと咳をする音が聞こえてきたので、宗佑は一瞬はっとして彼女の顔を伺う。
しかし、園子にはこれといって変化はない。
逆に宗佑にどうしたのかと尋ねてきた。それに、よく考えずに言葉を返してしまう。
「俺も正直、複雑だよ」
適当に言った言葉だったが、瞬間的なことだからこそ本音が出た自分に驚く。不快にさせたか、と思ったが園子は言葉を口に乗せて意味を図っているようだった。
「複雑?」
「結婚のこと」
ああ、といって彼女は宗佑の手を包んだ。
人肌の体温がゆっくりと、海の風で冷えてしまっていた手に馴染んでいくのがわかる。肌が溶けて相手の心臓の動悸までわかるような錯覚がした。
「それでいいのよ。ここで正直に言ってくれることが私には一番うれしいんだから」
そう言って、園子が顔を寄せてくる。
薄い唇が微かに震えていて、迷いそうになった宗佑は考えることをやめた。自分もやんわりと身を寄せて、それに答える。
二人の影が一つになる。
見ているのは、満月だけだ。
そう思って宗佑は重なる唇に一層力を込めた。園子も片腕を宗佑の背中にまわしてきつく抱きしめてくる。
――泰山鴻毛の時は過ぎた。俺はその結果、彼女を選んだんだ。
ぷはっと息をつく。
そして過去を切り捨てるように彼女に告げた。
「幸せにするよ」
すると、これ以上にない顔で園子は微笑む。先ほどのマリッジブルーなどと言っていた時とはまた違った顔で。
それが、宗佑にはまた違う感情を思い起こさせた。
「ありがとう」
謝辞にも近い声が空間に劈いた。
でも、宗佑は意味を図ることができなくて、とりあえず園子の肩を抱く。そうすることが、今は最良の方法だと思ったから。
知れず拳を握っていたのには誰も気づかず、ただの一枚の絵が瞬間的に作り出された。
それは、禁忌の絵だった。
「――もう、兄さんとは呼べなくなっちゃったわね」
残りの太陽が彼らを嫌うように、海に消えた。
最終更新:2008年07月06日 18:04