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姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:18:57 ID:xarj/BbZ
楠家は村の中でも一番の名家だ。
四百坪の土地と三階建て豪邸。外から見ればまるで城で、周囲にある一軒家は楠家を讃えているように感じさせる。
宗佑は、玄関とは反対側の庭に出た。
庭は整理整頓された室内のようで、お茶が飲めるようにとテーブルがいくつか設置されていた。
テーブルには白いクロスがかかって、風が吹くと靡くように体を揺らしている。
珍しく母親が一番奥のテーブルで本を読んでいた。宗佑は一瞬顔をしかめたが、何事もなかったように通り過ぎることにした。
ここに来たのは、宗佑が無断で飼っている猫のためだった。
毎朝十時になるとこの屋敷では時計の音が鳴り、それにつられるように一匹白い猫がやってくる。宗佑はいつも猫に餌をやっているのだった。
「何か用」
視線は本に落としたまま、母親が宗佑に声をかけてくる。
無視してやろう、そう思ったが、そんなことをしても意味がなく、この女の機嫌を損ねるだけだと経験で分かっていたから、
なるべく平静を保ったまま答えた。
「物置で探しもの」
「何を探しているの」
即座に問い返してくる母親がさらに宗佑を苛立たせる。
「……小説。昔読んだやつが読みたくなったから」
「小説」
嘲笑が宗佑の耳に入る。
ぴくりと頬が歪んだが、すでに背を向けていたから気づかれることはなかった。
母親は宗佑の目的が分かったことで興味を失ったのか、もう何も言ってこなかった。
95 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:19:29 ID:xarj/BbZ
嘘ではないと証明するために、一度本当に物置まで足を運んだ。
錆びついた閂がある扉を開けて、物置に入る。
カビ臭いにおいが鼻についた。こもったような臭気が充満している。
窓はあるはずだったが、どうやら埃で窓本来の機能が停止しているようだ。
物置の中は二階建てになっている。八畳ほどの部屋に梯子が一つ。
一階にはすぐに運び出せるように、絨毯や小物を詰めた箱があり、軽い物が多かった。
対して二階には、もう使うことはないと判断されたものが乱雑に置かれている。表面に穴のあいたソファー、古ぼけた巻物や壺など、手で持ち運びにくいものがある。
宗佑はまず窓を開けるために二階に上がった。
けれど、しばらく開閉していないためか、なかなか開かない。思いきり手の甲に力を入れて吹き飛ばすようにすることでようやく開いた。
すると、木製の窓だったためか枠のところに亀裂が入ってしまう。
「まずい、か」
しかし、この窓のふちにある埃の量からしてここには殆ど人は来ないのだろう。ならばさほど心配することでもない。
「大体、掃除をしないのが悪い」
宗佑はひとり呟いて、物置に光を入れる。こうすると一回まで吹き抜けになっているのがよくわかった。
板張りの地面には、埃によって宗佑がやってきた足跡ができている。
簡単に掃除をすると、臭いが薄れていった。
一応、何か本を持っていないとおかしいと思ったので、本を探すことにする。
ならば、一度下に降りたほうがいいだろう。そう思って階段を下りると、ちょこんと宗佑を待っているかのように猫が鎮座していた。
最近餌をやっている、白い猫だった。
宗佑は腕時計を見る。針はすでに十時を過ぎていた。ここまでは時計の音は聞こえてこないようだ。
にゃあ、と一声鳴いて、宗佑のもとまでやってきた。足にすりすりと自分の臭いをこすりつけてくる姿が愛らしい。
「今日は早いんだな」
そう言って、頭を擦ってあげた。猫はゴロゴロと喉を鳴らして喜んでいる。
そして、ここならば母親にも見つからず丁度いいと思って、宗佑はポケットに忍ばせていたビニールのパックを取り出した。
中身は白身の魚と竹輪を宗佑自身が包丁で細かく刻んだものだった。
地面にそのまま落とすのも気がひけたので、近くを見回してみる。けれど皿の代わりになるものが見つからない。
仕方がないので掌にのせて、そっと猫のほうに差し出すことにした。
これでは無理があるかと思ったが、猫はクンクンと鼻をならし、大きく口を開けて食べ始める。
これが初めに出会ったころならば、考えられなかったものだが随分と慣れてくれたものだ。
宗佑は空いたもう一つの手で、背中を撫でる。
96 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:20:05 ID:xarj/BbZ
「美人だな、お前は」
流麗に整えられた毛は野良猫とは想像しがたい、捨て猫なのだろうか。
それにしては鼻筋が通っていて凛々しく、汚れなどほとんど付いていない。
これほどにきれいだと猫なのに美人という形容が似合っている気がした。
掌がくすぐったくなったので見ると、掌を舐められているようだ。食べ終えたらしい。
「まだあるから、ちょっと待ってろよ」
パックに入っている残りの分を全部、掌にのせる。量が多かったので両手の指をお椀のようにして差し出した。
猫はまた嬉しそうに食べ始めた。
そして半分ほど食べた頃だろうか、猫の耳がぴくぴくと震えだした。顔をあげて、物置の出口のへ顔を向ける。
そこには、先ほど本を読んでいた母親が面白いものを見つけたとでも言うように、ニタニタと笑いながら立っていた。
「宗佑、アンタいつもこの下手物に餌をやっているの」
どかどかと乱暴に近づいてくる。
「下手物?」
「こいつのことよ」
とん、とつま先で猫の尻を小突く。しかしそれぐらいでは人に慣れてしまった猫は逃げ出そうとはしなかった。
「おい」
宗佑が凄んでも母親は意に反さない。それどころか一層いやらしい顔をして、猫の背中をやんわりと蹴りつける。
すぐに止めさせようとしたが、両手が塞がっているので一瞬躊躇してしまった。
そしてそれが仇になり母親は計算していたかのように、今度は思いきり尻尾を踏みつけた。
猫は物置いっぱいに広がる叫び声をあげて物置の奥に入ってしまう。
「おいっ」
宗佑は堪らず、服を締め上げて母親に迫った。残っていた餌のかけらが、母の服にべたりとつく。
「汚い手で触るんじゃないわよ」
「お前の性根よりはよっぽどきれいだ」
「それでも、お前の性根よりはきれいさ」
母親が足の裏で宗佑の腹をえぐる。さっきの言葉で動揺した宗佑はそのまま溝に入ってしまい顔を呻かせた。
けれど、まだ締め上げた手は放さない。
蹴られたことで宗佑自身の中の何かが敵と判断したかのようで、まるで万力のようになる。
母親もどんどん蹴りを繰り出してきた。細いくせにどこにこんな力があるのかと思うほどだ。
痛みは多分にある。だから、宗佑も手を挙げてやろう思った。でも、わずかに何かがちらついて、そうさせてくれない。
97 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:20:40 ID:xarj/BbZ
肉をえぐる音だけが物置に響いた。
五分ほど蹴られ続け、機械のようになっていた動作がやっと止まった。
母親がわずかに息を荒げている。もしかしたら、締め上げていることで、呼吸がしにくかったのかもしれない。
だから、これ以上は攻撃できなかったのであろう。
宗佑はやっと手を離した。
ちらりと視線を猫のほうに向ける。
どうやら人間同士の諍いには関わりたくないとでも言うように姿を消したようだ。
……これで、ひとまず今日は母親が猫を目につけることはないだろう。
「薄汚い畜生なんかに餌をあげて、気持ち悪い」
そう言って、母親は去っていく。宗佑は念のため、声をかけた。
「追い払うとか、変なことはするなよ」
「そうしたとしても、お前のしたことに比べれば可愛いもんさ」
宗佑の手から、餌の塊がぼとりと地面に落ちた。
母親の笑い声だけが耳に届いてくる。
98 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:21:04 ID:xarj/BbZ
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自室に戻ると、園子が宗佑のベッドに腰を掛けて右手で左腕を抱えながらアルバムを見ていた。
部屋に宗佑が入ってくると、ページをめくりながら左手を離す。
「あなた、どこに行っていたの」
庭、とぶっきらぼう答えると、園子は顔をあげて宗佑を見た。彼にはわからない程度に目を細めた。
「あら、あそこにはお母さんがいなかったかしら」
宗佑は答えない。だから園子は当たりだとわかった。
アルバムを閉じて本棚まで持っていき、今度は椅子に座りなおした。
宗佑はじっと窓の外を見ていたが、こんな風に黙っていてはまるで園子に対して怒っているかのようだと思った。ベッドに向かう。
「お母さん、本を読んでいたでしょう? 昨日私が貸してあげた本に夢中になっちゃって」
探りの意味も込めた園子の言葉が室内に充満したが、他には溜息が聞こえてくるばかりで反応はない。
宗佑がベッドに腰かけると園子のほうが椅子に座っているため見上げる形になっている。
なんだか俺が謝っているみたいだな、と思ったが口にすることはなかった。
「何かあったの」
園子からしてみれば、確認のようなものだった。
長年の付き合いだということもあって宗佑の機嫌が悪いことなど、たとえ皆からは仏頂面と呼ばれていてもすぐにわかる。
原因もおおよその推測が可能だった。だからもしかしたら、どうやって今日はお母さんと喧嘩したの、こう聞いたほうが良かったかもしれない。
「何もないよ」
ぎしりとベッドのスプリングだけが木霊した。まるで宗佑の大人に見える部分と子供心を混ぜ合わせたような音だった。
園子は宗佑をどこかの奇妙な絵画のように見つめ、それから立ち上がる。
「そう」
こういうとき、園子は他の女のように、嘘、何か隠しているでしょう? とか、私を頼ってよ、などと無遠慮に追求してこない。
何もいわないのなら、私のする義務はそれで終わりとばかりに無関心になる。
宗佑がちらりと園子の顔を見ると、さっきの続きを見たいのか、またアルバムを引っぱり出していた。
「あら」
すると、声とともにアルバムが地面に落ちた。
園子は左腕が使えないので、右手だけ力任せに本棚から引いた結果だった。
宗佑が慌てて駆け寄ると、何事もなかったかのように通り過ぎてまたベッドに座る。言いようもない静寂が立ち込めた。
99 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:21:34 ID:xarj/BbZ
「どうしたの」
「……何がだ」
聞かれながら宗佑は、俺はなんでこんなにもこの女の掌に踊らされているような気分になるんだろうと思う。
今だって自分は怒っていたはずなのに、もう気分が切り替わりつつあることに一瞬嫌悪感が襲う。
しかしそれでも、園子の体を見ればそれは自分の身勝手な感情なのだろう。
「さっきからちらちらと私を見てるでしょう」
「ああ、いや……余計な事をしてしまったなと思って」
「余計なこと?」
「……」
「左腕のこと?」
そう。園子の左腕は、動かない。
脊髄損傷をしたわけでも神経症の病気でもないのに。何かを握ることや触ることから拒絶されているように脳の制御から外れた。
生まれた時から、動かなかったわけではない。宗佑の記憶の幼いころでは、園子は自由に左手を使っていたし、
ピアノも弾いていたくらいだから健康の面では何も心配はなかった。
では、なぜ動かなくなったのか。こんな折れた枯れ木のようにみっともなくぶら下がってしまうようになったのか。
原因は宗佑――らしかった。
らしい、というのは誰に聞いても正確な答えが返ってきたことがないからだ。
従者に聞いても、あの母親に聞いても、本人に聞いても。皆不幸なことがあったからとしか言ってくれない。
そんな調子だから、初めは何か事故にでもあったのだろうと思っていた。
けれど、周りからの視線やこそこそと聞こえてくる話にはどうにも宗佑の存在があるようで、気になって仕方がない。
しかしそれでも、家にいる使用人に強く問い詰めても決して口を割ることはなかった。
100 姿見村 sage 2008/07/02(水) 01:22:10 ID:xarj/BbZ
ある時、ここまで隠しているのだからもう無理に詮索すまいと宗佑が決断した時、母親が朝食の席で唐突に言った。
「宗佑、お前のせいで、園子の腕は動かなくなったんだよ」
驚愕してすぐに横にいた園子に真偽を確認したが、刹那だけ母を見て何も言わず席を立ってしまった。
その後は聞いても、以前のように言葉を濁すだけで本当のことは分からなかった。
だから、母の言葉を真に受けるならば宗佑のせい、ということになっている。
「別に気にしていないわ」
しかし宗佑は、気にしていた。
いきなり自分が原因で他者の大事なものを壊してしまったと言われたのだ。これを気にするなというということに無理がある。
あの母親が言ったことだから本当ではないのかもしれないけれど、全く関わっていないという自信は……ない。
そしてなぜか宗佑には、園子の腕が動かないことと自分が姿見村を一度出たこと、二つが関係しているように思えた。
「ねえ、もし用がないなら一緒に昔の写真でも見ましょうよ」
言葉につられて園子の隣に行く。
それからアルバムは二人の間に挟んで眺めた。
園子はゆるりゆるりとまるで赤子をあやすように捲っていく。まるでアルバムそのものに命が吹き込まれているとでも言うように。
「もうすぐ結婚式ね」
最後のページを捲り終えた園子が顔をあげる。
宗佑は僅かばかり間をおいて、ああ、とそれだけ答えた。
「これで、あなた、って呼ぶのに意味ができる気がするわ」
園子が唇を寄せてくる。
「楽しみね、兄さん」
「そうだな」
言い終わると同時に宗佑は考えることを嫌うように園子を押し倒して抱くことにする。
最終更新:2008年07月06日 18:06