ちーちゃんのハサミ

649 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:17:36 ID:ylz6/SPo
人には、それぞれに大切にしている物がある。
それは何かのコレクションだったり記念品だったりと、人によって様々だ。
ある意味では持ち主の個性を現す物なのかもしれない。
私の場合、それは一丁のハサミになる。
造りはハサミと言えば一般に思い浮かべられる洋鋏と同じで、だけど市販品よりも短小な上に指で握る部分はハート型、
薄いピンクのカラーリングに安っぽいガラス玉がちりばめられた、どう見ても幼稚な、子供向けの一品だ。
それも当然。そのハサミは私の十数年の記憶の中で一番最初、子供の頃にお兄ちゃんにもらった思い出の品なんだから。
まだ思春期や男女の違いという言葉が遠くて、兄妹が二人で並んでアニメを見るのに抵抗がなかった昔、
当時流行った子供向けアニメの主人公(ヒロイン)が画面の中で使っていたハサミ。
今はもう廃刊になった雑誌の懸賞でそれを当てたお兄ちゃんは、うらやましがる私に笑って言った。

『これはちーちゃんのハサミだからな。ちーちゃんにやるよ』

私の名前は日向 千夏(ひなた ちなつ)。
お兄ちゃんが夢中になった画面の中の女の子も私も、その時はみんなに『ちーちゃん』と呼ばれていた。
誇らしかったと思う。
私にそのハサミをくれたお兄ちゃんは────やっぱり友達には頼みにくかったのか────その後、
よく私に『ちーちゃん』の真似をさせては、自分も『ちーちゃん』の好きな男の子の真似をして喜んでいた。
戦隊モノとかよりもヒーロー側の役が少ないからみんなでやるのには抵抗があって、
だけど自分達の家の中では思いっきり楽しめる、兄妹二人だけのごっこ遊び。
嬉しかった。
お兄ちゃんの外に出かける時間が減って、お兄ちゃんと一緒の時間が増えて、
お兄ちゃんと話せることや出来ることが沢山になって、お兄ちゃんのくれたハサミが繋いでくれた時間が、
友達が自慢する何よりも、私にとってはキレイな宝物だった。

あの頃、確かにあった兄妹の絆は今でも変わらずに結ばれている。
お兄ちゃんが『ちーちゃん』を忘れて私のことを千夏と呼ぶようになっても、
お風呂に一緒に入らなくなったり眠る部屋が別々になっても、学校で部活を始めたお兄ちゃんの帰りが遅くなっても、
最後の部活の大会が終わったお兄ちゃんが部屋に篭もって一人だけで勉強するようになっても、
私はお兄ちゃんが他の何より大事だし、お兄ちゃんも私を大切に思ってくれてる。
あのハサミが生んでくれた絆は今も切れずに繋がっていて、私とお兄ちゃんが離れ離れになることなんかない。

────────そう、思っていた。

薄々気付いてはいた、どんどん細く脆くなって行く、それでもまだ残っていた一本の糸が今日、
パチンと音を立てて切られるまでは。





雨が降っている。
轟々とうなる風は容赦なく窓をガタガタと怯えさせ、無数の雨粒がガラスの中を斜めに走り去っていた。
閉めにいくのが面倒なカーテン以外は全て締め切った薄暗い部屋の中に、時折悲鳴のような雷鳴が響く。
本日は土曜日。連休の初日は、だけど生憎と夕方から雷雨の予報。
ソトニデルノハキケンデスと、顔の見えない誰かが電子的に喋っている。
雨と、風と、雷と────────聞く価値もない他人の声。
出張中の両親もいない一人きりの家の中で、それらが私の邪魔をする。
無粋で、無遠慮で、不規則な音の群。苛立たしい雑音に囲まれて、手元が乱れそうになる。

しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・・・・

滑らかに砥石の上を走る、二枚合せの短い刃の片方。
お兄ちゃんからもらったハサミを丹念に、心をこめて研ぐ。


650 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:20:40 ID:ylz6/SPo
しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・・・・

お兄ちゃんんがくれた、子供向けで脆く欠け易い、決して実用的ではないハサミの手入れ。
もう何年もずっと繰り返してきた、兄さんが傍にいてくれる時の次に幸せで落ち着く、私の習慣の時間。
たとえ切れなくなってもいい、ただずっと使い続けられるように、二人の絆の証が壊れないように、
お兄ちゃんを想いながら手を動かす。そうして数年以上を共にしてきた刃はすっかりと磨り減って、
だけど細くなった刃の切れ味は包丁並だった。今となってはほとんど研ぐ必要なんかない。
いや。いつか壊れる心配をするなら、そもそも使わずに、単に肌身離さず持っていればいいのかもしれない。
そんなことはとっくの昔に分かっていて────────それでも、私はハサミを研いでいた。

しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・しゃーこ・・・

こうしていれば、私は落ち着けるはずだから。雨の日には夜が来るのが早くて、陽の光はもうない。
電気も付けていない部屋にいる私はたまに稲妻に照らされるだけで、その時に、細く薄くなったハサミの刃がきらっと光る。
どんなに強がってみても私は女の子で、子供の頃、そして今でも雷は得意ではない。
雷が振る時は雷神様がおへそを取りに来るとか、そんな話を昔に聞かされたからだろうか。
どこかぼやけた情景を憶えている。布団の中、まだ同じ部屋にいたお兄ちゃんに震える体でしがみ付きながら、
もし本当に雷神様が来た時は私がお兄ちゃんを守るんだと、このハサミを握り締めていた自分。
そんな私を、本当は自分も怖いのに、勇気を出して笑顔で慰めてくれたお兄ちゃん。

『ほんと、ちーちゃんは怖がりだな』

そう言って抱き締めてくれたお兄ちゃんの腕は今、この家のどこにもない。

「はは・・・あはは・・・」

しゃーこ・・・・・・しゃーこ・・・しゃーこ・・・しゃーこ・・・

外は雷雲が出来るくらい湿ってるのに、声が乾く。そのくせ砥石の上にも、雨が降っていた。止んで欲しいのに止まない。
止まって欲しいのに、お兄ちゃんのくれたハサミを研いでいてこんな気持ちになるはずがないのに、後から後から出てくる。
滑りすぎたハサミで、少しだけ指を切った。

「ねえ・・・お兄ちゃん・・・・・・知ってるよね・・・?」

怪我の心配をしてくれるお兄ちゃんも、いない。

「私もね・・・・・・・雷、苦手なんだよ・・・・・・?」

あの女の家に行っちゃったから。
雷が苦手らしいあの女のことが心配だって言ったお兄ちゃんは、危ないよって必死に止めた私を置いて、
雷が苦手なことを知っている私を放り出して、豪雨の中をあの女のところに行っちゃったから。だから────────いない。

「うふふ・・・ははは」

大好きなお兄ちゃん。『ちゃーちゃん』を好きだったお兄ちゃん。『ちーちゃん』って呼んでくれたお兄ちゃん。
ハサミをくれたお兄ちゃん。二人だけで遊んでくれたお兄ちゃん。『ちーちゃん』の真似をする私だけを見てくれたお兄ちゃん。
私を千夏って呼ぶようになったお兄ちゃん。お風呂が別々になったお兄ちゃん。一緒に眠らなくなったお兄ちゃん。
部活を始めたお兄ちゃん。帰りの遅くなったお兄ちゃん。部活が終わったのに今度は勉強をするようになったお兄ちゃん。
頼んでも遊んでくれなくなったお兄ちゃん。勉強を教えてくれなくなったお兄ちゃん。私を部屋にいれてくれなくなったお兄ちゃん。
部屋の前で呼んでも返事をしてくれなくなったお兄ちゃん。それでも同じ家で暮らして、傍じゃないけど私の近くにいてくれたお兄ちゃん。
そして────────私の近くに、この家のどこにもいないお兄ちゃん。

「嘘だよ・・・・・・こんなの」

お兄ちゃんがいない、私の傍にいない、横を見ても後ろに振り返ってもいない、私の部屋にいない、
家の電話を鳴らしても出ない、お兄ちゃんのケータイにかけても繋がらない、この家のどこを探しても、
お兄ちゃんの部屋にも居間にもキッチンにもお風呂場にもトイレにもお父さん達の部屋にも
クローゼットの中にもベッドの下にもベランダにも庭にも車庫にも屋上にもこの家のどこにも、お兄ちゃんがいない。

「お兄ちゃん・・・・・・」


651 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:23:18 ID:ylz6/SPo

雷が鳴る。気が付いたら、お兄ちゃんの部屋の扉が前にあった。ドアノブを左に捻る。

「お兄ちゃぁん」

ぼやけた視界に入る、見慣れた家具達。
勉強に邪魔なものは全部捨てられたり片付けられたりして、もうお兄ちゃんの部屋にはない。
お兄ちゃんが私と一緒に遊んでくれた道具やゲームも、どこか私の知らない場所に仕舞われている。
昔を思い出してもらおうと思って買って来た『ちーちゃん』のDVD-BOXは、
お兄ちゃんが時間がないって言って、結局一度も日の目を見なかった。

「ぐすっ」

目を擦ってから、『ちーちゃん』も私もない部屋を見渡す。カーテンまで締め切られたお兄ちゃんの部屋は本当に暗い。
毎日お兄ちゃんが触ってる明かりのスイッチを押す。
指先に感じる温度は冷たくて、電気を点けると、やっぱり殺風景な部屋が照らし出された。
ふらふらと、お兄ちゃんのベッドに倒れ込む。

「あは・・・・・・お兄ちゃんの匂いだぁ」

思いっきり鼻から息を吸う。
ベッドに倒れた時に舞ったお兄ちゃんの残り香に包まれて、体の中も外もお兄ちゃんで満たされる。
お兄ちゃんのくれたハサミを研いでた時に比べて、ちょっとだけ落ち着いた。
でも足りない。だからお兄ちゃんの枕を掴もうとして、顔を上げてベッドの上の方に手を伸ばす。

枕元に、私の知らない物が置かれていた。

「・・・なに、これ」

曲げられた金属の足がついた、長方形のガラスの板。その中に写真が一枚、入っている。

「こんなの、昨日までなかったのに」

起き上がって、枕の替わりにそれを掴んで引き寄せる。ガラスに挟まれた写真の中で、お兄ちゃんが嬉しそうに笑っていた。
その隣で、あの女も笑っている。明かりの点いたお兄ちゃんの部屋に、ゴロゴロと音が響く。

「────────ッ、お前があっ!!」

雷が落ちたのが、音で分かった。砕け散ったガラスの欠片が電灯に照らされてきらきらと光る。

「よくもお兄ちゃんを・・・私のお兄ちゃんをっ・・・・!」

立ち上がった足でガラス片まみれの写真を踏みつけなかったのは、お兄ちゃんの笑顔が写っていたからだ。
左手でその写真を拾い上げる。

私の右手には、ずっとお兄ちゃんのくれたハサミが握られていた。

「お前なんか・・・・・・お前なんか!!」

あの女の顔に、縦にハサミを入れる。
じょきんと音が鳴って気持ちの悪い笑顔が真っ二つになって、化物みたいに左右に開いた。
引き千切りたいのを我慢して、お兄ちゃんを切らないように横からハサミを入れる。
同じ音を立てて、あの女の首から上がなくなった。

「お兄ちゃんに触るな!」

今度は縦に、体の左半分を切り捨てる。それから、お兄ちゃんの肩と胸に触れている手と腕を。
じょきじょきと、ゆっくりと気を付けながら、それでも出来るだけ早くあの女の全身を切り刻む。
お兄ちゃんに触れている部分を切り落として、お兄ちゃんの傍から切り離す。
すぐに、バラバラになった女のゴミが床の上に散らかった。


652 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:25:29 ID:ylz6/SPo
「はあ・・・はあ・・・」

たとえバラバラでも写真でも、こいつがお兄ちゃんの部屋にいるのは許せない。
後で焼き捨てるためにも拾い集めなくちゃいけない。
そう思って、万に一つも残すことがないように一つ一つ拾い集める。
幾つかは落ちる途中でベッドの下に逃げ込んだみたいだった。
それも取ろうとして、しゃがみこんでお兄ちゃんのベッドの下を覗く。

何かがあった。

「・・・え?」

お兄ちゃんの部屋は、もう何年も、私が毎日掃除している。
お兄ちゃんが勉強で部屋にこもるようになってからは毎日は無理だったけど、
それでも出来るだけ、心を込めてきちんと掃除をしている。
当然、エッチな本とか私以外の女の子の写真とか、そういう、お兄ちゃんには必要ない物もちゃんと捨ててる。
お兄ちゃんの部屋に何があるのか、要らない物は置いてないかのチェックは怠ってない。
なのにこんな、私の知らない物が幾つもお兄ちゃんの部屋にあるのはおかしい。
何個か重なってるみたいなそれを一つ、引っ張り出して見る。
プラスチックのカバーの、バインダーみたいな物だった。

「まさか」

カバーを開いて中身を見る。入っている物を確認してから、ページをめくった。
そこにある物も確かめる。ページをめくる。また見る。ページをめくる。
見てページをめくる。その次も同じことをしてページをめくる。その次も同じ。
その次もその次もその次もその次もその次もその次もその次も。

そのアルバムの中には沢山のお兄ちゃんと一緒に、数え切れないくらいのあの女の姿が映っていた。

「────────────────」

思わず顔を押さえた時、部屋に響いたのが雷の音だったのか私の叫び声だったのかは、自分でも分からない。
ただ、私はその大きさに負けないくらい強く、お兄ちゃんのくれたハサミを握った。





お兄ちゃんの部屋の床の上に、ちょっとしたゴミの山が出来ていた。
全部がバラバラにしてやったあの女の破片だ。
それなりの厚さのアルバムでだいたい三冊分収まっていた写真から、私はあの女を切り落とした。
思ったより時間がかかったのは、あの女がお兄ちゃんに絡みついている写真が多かったせい。
あの女だけの写真なら百分割するのにも時間はかからないけれど、
たとえ写真でもお兄ちゃんを傷付けるわけにはいかないから大変だった。
だけど、おかげで今、私は沢山のお兄ちゃんの写真に囲まれている。

でも、本物のお兄ちゃんはここにいない。

あの女の場所にいるから。

「許さない・・・・・・」

さっきの写真立てやこのアルバムを、お兄ちゃんがずっと私に隠してたとは思わない。
お兄ちゃんの部屋やこの家の中にあったなら絶対に気付く。
お兄ちゃんの動きを追ってれば分かるから、見逃すはずがない。
それに、勉強の邪魔になる物は片付けると言ったお兄ちゃんがこんな物を隠していたはずもない。
お兄ちゃんはそういう人だ。やると言ったらやるし、徹底する。私には分かる。
だからこのアルバムも写真も、昨日までは他の場所────多分あの女の家か部屋────にあった物だ。
今までは勉強の邪魔になるからそこに置いてあった。そしてその必要がなくなったから、お兄ちゃんの部屋に移した。


653 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:29:44 ID:ylz6/SPo
『やったぞ千夏!』

昨日、本当に久し振りに笑顔を見せてくれたお兄ちゃんを思い出す。
試験に合格したって大喜びだった。そう、受験じゃなくて、試験。
大学の受験じゃなくて、就職するための資格の試験。お兄ちゃんが勉強していたのはそのためだった。
そんなことも、私は知らなかった。そんなことを教えてくれないくらい、お兄ちゃんは私から離れていた。
私が気付かなかっただけで。だから────────。

『千夏、よく聞け。オレな・・・・・・結婚する予定なんだ、来年くらいに』

お兄ちゃんが一度だけ家に連れて来た、部活の関係で知り合ったらしいあの女と秘密で付き合っていたことも、
あいつのために早く独り立ちしようと進学より就職を取ったことも、
そのために必要な資格の勉強をしていることも、全部、お兄ちゃんが話してくれなかった何もかも全て、知らなかった。
お兄ちゃんがあの女と結婚するつもりであることも、その証明のために『婚姻届』を書いたことさえも。

『いや、だってなあ。恥ずかしいじゃん? 彼女が出来たとか家族に報告するの。
 資格も、取れなきゃ進学に切り替えてバイトとかするつもりだったし。
 でもま、どうにかなったからな。親父達にも安心して報告出来たぜ』

お兄ちゃんは笑っていた。私が真似た『ちーちゃん』と一緒にいた時よりも、嬉しそうに笑っていた。

『まあ惚れた女のためにって言っても、オレの我儘でアイツにも随分我慢させちまったからな。
 これだってどうなるかはわからねーけど、一応のケジメ、決意表明ってやつだ』

私に『婚姻届』と書かれた紙を見せた後でそう言ったお兄ちゃん。
私の知らない場所に就職して、私以外の女と結婚して、私から離れることを幸せそうに話したお兄ちゃん。
今はここにいない、これからもこの家には『帰って』来ないお兄ちゃん。私の傍には戻らないお兄ちゃん。
その原因を作った、あの女。

「ズタズタにしてやる・・・・・・」

お兄ちゃんのアルバムの最後の1ページ。
そこには、お兄ちゃんとあの女の『婚姻届』が挟まれていた。
ページをめくる度に段々と現在に近付いていく写真の中のお兄ちゃんとあの女の、まるで二人のゴールとでも言うみたいに。
目を通すと、細かいことはよく知らないけれど、必要な部分はしっかりと書き込まれてる。
あの女の名前も、知りたくもない個人情報も埋められていた。

「お前がお兄ちゃんの傍にいるなんて許さない・・・・・・お兄ちゃんを連れて行くなんて許さない」

写真よりも脆そうな紙に、ハサミの刃をかける。簡単に切れそうだった。
きっと気持ちのいい音が鳴るに違いない。
私が、お兄ちゃんの妹がこれを切り刻んだことを知ったら、あの女はどんな顔をするだろうか。
想像する。すぐに頭の中に浮かんだ気持ちの悪い顔は、縦に切り割られて消えていった。
愉快だ。きっと、実行したらもっと楽しいに違いない。

「あははははは」

笑ってハサミを構え直し、狙いを定める。最初に切る部分は決まっていた。
強く、一息で断ち切れるように指に力をこめる。


654 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:32:07 ID:ylz6/SPo



しばらく止んでいた雷鳴が、これまでで一番の強さで鳴り響いた。



「あ」

その雷のように閃いた。

「ああ!」

ターンしてお兄ちゃんの机の引き出しを開ける。記憶通り一段目に筆記用具、二段目に定規やノリが入っていた。
『婚姻届』を机の上に広げて取り出した道具を広げ、先ず定規を当てる。
次にシャーペンで定規に沿って直線を引くこと四回で、あの女の名前を囲む長方形が出来た。
ハサミを限界まで開いて、重なった刃を留める蝶番の部分を持つ。これで即席カッターの完成。
挟まずにハサミの刃の先端だけを当てて、定規を添えた線に合わせて引く。すっと音も立てずに切れた。
繰り返す。四回目で、あの女の名前だけが切り取れた。
切り取った部分をひっくり返して、白紙になってる裏面に私の名前を書く。
それから縁にノリを塗って『婚姻届』の切り取られた空白の部分に貼り付けて、終了。
ある程度ノリが乾くまで少し待ってからそれを見てみる。見事に、あの女の名前が私のものに代わっていた。
同じことを他の記入されてる場所でも繰り返す。

「出来た」

すぐに、目的の物が出来上がった。

「お兄ちゃんと私の────────婚姻届」

あの女の書いた部分が全部、一つ残らず私の内容になった婚姻届。
それを見てさっきよりも静かに、でもずっと深い所で納得しながら、ふと思い付く。

「ああそっか、こうすればよかったんだ」

すとん、と自分の中に何かが入ったのを、私がそれを受け入れたのを実感した。

「そうだよ・・・・・・『切り替え』ちゃえばいいんだ。あの女を切り■して、私がそこに納まればいいんだ」

この婚姻届みたいに、あの女さえいなくなればその空白に私が納まることが出来る。
お兄ちゃんの近くに、お兄ちゃんの傍に、またお兄ちゃんと触れ合える位置に。

「あははは、何で気付かなかったんだろ」

こんな簡単なことに。
そうだ。邪魔者はなくしてしまえばよかったんだ。
あの写真だって、あそこに写っているのが私なら何の問題ない。同じことなんだ。
あの女が空白になれば、私はまたお兄ちゃんの傍に戻れる。お兄ちゃんが戻って来てくれる場所に行ける。

「うふ、は、あははははは!」

嬉しいな。また『ちーちゃん』の頃に戻れるんだ。あの女さえいなくなれば、またあの頃が帰って来るんだ。
だってそうだよね。そうだよ。お兄ちゃんが私から離れて行ったのはあの女のせいなんだから。


655 ちーちゃんのハサミ sage 2008/08/06(水) 03:35:25 ID:ylz6/SPo

「────────じゃあ、■さなきゃ」

早く、少しでも一分でも一秒でも一瞬でもいいから早く、あの女と切り替わらなきゃ。
急いだ分だけ早くお兄ちゃんは帰って来てくれるんだから。
■す。あの女を■す。切り■す。
お兄ちゃんのくれたハサミで『ちーちゃん』のハサミで顔を切り下ろして目玉を切り潰して首と体を切り離して
腕を切り落として足を切り裂いてお腹を切り開いて内臓を切り出して全身バラバラに切り刻んで骨を切り砕いて
一通り出来損ないの切絵みたいにズタズタにしたら、さっさと切り上げてあの女と切り替わる。
あの女さえ切り終われば私は、私とお兄ちゃんはまた幸せにやり直せる。

「カット、カット、カット────────リテイク♪」

必要な情報はさっき切り貼りした物に書いてある。あの女の住処を見付けるのもすぐだ。
そこに着けば探すまでよりも切り■す時間の方が早い。手早くやろう。
お兄ちゃんもそこにいるんだから、迎えに行くと思えば手間も省けるし。

「待っててお兄ちゃん。すぐ行くからね」

お兄ちゃんの部屋を出ようとして、ドアノブを握ってから引き返す。
そうだ。折角作ったんだから、お兄ちゃんと私の婚姻届も持って行こう。
考えたら工作なんて久し振りだったけど、見せたら喜んでくれるかな。それも楽しみだ。

「わ、凄い風」

一階に下りてさっと準備を済ませてから玄関を出る。
傘じゃあ折れるから、少し古いレインコートを着ることにした。何年か前までお気に入りだった黄色いレインコート。
何だか嬉しくなって、右手に持ったハサミをチョキチョキと鳴らす。
雨に濡らしたら錆びるかもしれないけど、どうせあの女を切り刻んだらボロボロになるんだから構わない。
お兄ちゃんがくれた大事な大事なハサミだけど、それでもお兄ちゃん自身に比べたらどうでもいい。
これでお兄ちゃんが帰って来てくれるなら惜しくない。

「楽しみだね、お兄ちゃん」

お兄ちゃんが戻って来てくれたら、一緒にやりたいことがいっぱいある。
教えて欲しい勉強も、聞いて欲しいことも、聞きたいことも、
一緒に遊びたいことも、兄妹で行きたい場所も、二人で試してみたいことも色々ある。

「『ちーちゃん』のDVD-BOXもあるしね」

あの女を■せば。
また、兄妹で並んでテレビを見ることも出来るんだ。

「その時はゆっくりしていってね、お兄ちゃん」

レインコートの内側に仕舞った婚姻届に上から手を当てる。
ゆっくり息を吐いて真っ暗な空を見ると、ごろごろと雷雲が鳴った。

「私達の家で、私の部屋で────────私の、傍で。ふふっ、うふふっ、ははあはははははははははははっ!」

雨の中、風を浴びて駆け出す。雷に照らされたハサミは、ジャキジャキと気持ちのいい音を立てていた。

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最終更新:2008年08月10日 19:50
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