375
淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:27:48 ID:D8b/QqQN
「ねえ、あの……母君さま、どうしてこんなに突然帰ってらしたんですか?」
一瞥して不機嫌と分かる母……道子に、おそるおそる春菜が尋ねる。
「――ふう、まったく……!」
普段は、“兄”と“妹”七人で仲良く食卓を囲む六畳の居間に、座布団を枕代わりに、だらしなくテレビを観ている一人の女性。――外貌を一瞥しただけでは、とても六人もの娘を産んだ四十過ぎの中年女性に見えない。それほど彼女は若々しかった。
その母が、溜め息と共にジロリと鋭い目を向けると、正座をした薙刀部副主将の春菜がびくりと怯んだ。
「春菜ちゃん、あなたで三人目よ。その質問を母さんにしてきたのは」
「え、あの、そうなのですか……?」
「なんなの一体? 母さんが帰ってきたのがそんなに嫌なの、あなたたちは?」
「でっ、でもっ、やっぱり気になるじゃないですか。――博多で、何かあったのかなって」
「その件に関しては、夕食時に家族全員揃ってから言います! あんまり思い出させないで、不愉快なんだからっ」
「は、はい……」
久しぶりに会ったはずの娘に、ひとしきり怒りをぶつけた後、道子は、ぐびりと卓上の麦茶を飲み、再び寝そべった。
――いや、違う。
「母君さま、これ、まさかお酒ですか……?」
「そうよ。春菜ちゃんも飲む?」
「何を言われるんですっ! まだ、日も沈んでない時刻なのに!」
春菜は、そう言うが早いか、テーブルからグラスを取ろうとする。
しかし、母は春菜より早くグラスを取り、舞うような動きでひょいひょいと娘の手を躱すと、一気にグラスを空けてしまった。
「ああああっ、母君さまっ!」
「あんたに日舞を教えたのは母さんなのよ。まだまだ見くびっちゃダメよ」
「でもそんな、はしたない……」
「大丈夫よぉ、この程度の量じゃ、まだ酔わないわ」
そう言ってけらけら笑う母親に、春菜は複雑な表情を見せる。
(一体、母君さまに何があったのかしら……?)
いくら何でも、娘の眼前で昼間から酒を飲んで、それを恥じないような母ではなかった。
長姉・桜の独特の気位の高さは、この母親譲りなのだと知人全てが納得する――少なくとも自分の知る母は、そういう女性だったはずだ。
春菜は、博多で何があったのかを聞くことに、とてつもなく嫌な予感を覚えていた。
376 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:29:17 ID:D8b/QqQN
「そんな事より、あの子はどう?」
けらけら笑いから、にやにや笑いへと表情を変化させ、道子は傍らのスルメをかじる。
「あの子?」
「とぼけないで。あなた達の新しい“お兄ちゃん”よ」
「あ、あにぎみ、さま……?」
「そう、その兄君さまよ。仲良くやってる?」
「え、――ええ。それはもう、力の限り」
「ふ~~ん。“力の限り”ねえ?」
マンガの中の酔っ払いのように、道子はスルメを咥えたまま、春菜の隣ににじり寄ってくる。
「深雪も真理も桜も、母さんが不機嫌そうな顔をすると、途端に質問攻めの口を閉ざしたけれど、……“お兄ちゃん”の事を訊いた瞬間に揃って、同じ反応をしたわ……」
「同じ、反応、でございますか……?」
「そう、目を白黒させて、耳まで赤くしてそっぽ向いて、……深雪なんか汗までかいてたし」
「はぁ……」
「いまの春菜と全然おんなじ」
「――っ!」
「好きなの?」
その瞬間、春菜は何も言えなかった。何も言えないという事が、どれほど母に、雄弁に解答を語る事になるか理解していてなお、それでも春菜は何も言えなかった。
「くすくすくす……ほんと、姉妹ねえアンタたち」
母は、何もかも分かったような表情でスルメを噛み千切ると、
「そうやって、何も言えなくなっちゃうとこまで、全部一緒だなんてね」
「……あまり、いじめないでくださいまし……」
首まで紅潮させて俯く春菜を、意地悪な母は心底楽しそうにからかい続ける。
「そうねえ、この詳細は、喜十郎君本人から聞いた方が面白そうだもんねえ」
「はっ、母君さまっ、それは――!」
「ただいま……」
その時だった。姉妹の四女・詩穂が帰って来たのは。
これ以上、この話題を続けたくなかった春菜は、思わずホッとして、玄関先まで迎えに出る。
「おかえりなさい詩穂ちゃん。冷蔵庫にプリンがあるわよ」
「――いらない」
377 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:30:56 ID:D8b/QqQN
「何か、久しぶりだな」
相変わらず、妙な振動がするエレベーターで六階まで昇る。
箱の中に漂う薄いカレー臭も、あの頃のままだ。
――可苗は、さっきまでの詩穂以上に喜十郎にべったりくっつき、下手をすればカップルというより、容疑者を連行する婦人警官のような体勢にすら見える。
当然、可苗にしても喜十郎にしても、そんな警官と容疑者のような暗い顔はしていない。
むしろ逆だ。
可苗は、ここ数日の陰鬱感がウソのようなあどけなさで兄を見上げ、喜十郎も、そんな妹を笑顔で見下ろしている。
……しかし、彼女には分かっていた。
(お兄ちゃんの身体、すっごく緊張してる。全然リラックスしてない……!)
「とうちゃ~~く」
「何か妙な感じだな。自分の家が懐かしいなんて」
「んふふふ……なんならもう一回帰っといでよ、お兄ちゃん。可苗は大歓迎しますよ?」
「そうだな。もし、あの家追い出されたら、また厄介になるか」
もしもの話ではない。
最悪そういう事態が、普通に起こりかねない現状に、喜十郎は非常に困惑していた。
(桜のばかたれが……)
いや、もう、本家のことなど考えている余裕は無い。
そんな事は、無事あの家に帰りつけてから考えればいい話に過ぎない。
しかし、今もってなお、喜十郎の心中にあるのが、この妹に対する恐怖感のみであるかというと、そんな事は無い。
その点、まだ喜十郎は少しは楽観的であった。
いくら何でも今日イキナリ可苗が凶刃を繰り出すとは、さすがに思っていない。
それに、夕方も六時を過ぎれば母が仕事から帰ってくる。そうなれば、狭い公団住宅の中で、妹が騒ぎを起こす事は不可能だ。この団地の壁の薄さは喜十郎もよく知っていた。
何より、未だに喜十郎は、この妹に対する兄妹愛を持ち続けていた。
確かに飼い猫ヴァニラの殺害シーンを目撃した時は、それなりに衝撃を受けたし、身の危険を覚えもした。だがそれでも、――それだけで、永年生活を共にした“綾瀬可苗”という一人の人間に、憎悪や嫌悪感を抱けるかと問われれば、それはまた別の話だった。
378 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:33:41 ID:D8b/QqQN
鍵を開けて、団地独特の重い鉄のドアを開ける。
そのまま懐かしの自室に入る。
可苗と二人で使っていた、六畳間。
「やっと一人部屋が出来て、お前も嬉しいだろう?」
そう言って、キャスターつきのイスに座り、かつて勉強に使った学習机に向かってみる。
ちなみに、この机は本家の一戸建てには持って行けなかった。
一軒家とはいえ、娘が六人もいる本家では、喜十郎に個室を与えるほどの空間的余裕は持ち合わせていなかったからだ。
わざわざ養子として呼んでおきながら、部屋一つもらえない待遇に、
(バカにしてやがる)
と思わぬでも無かったが、無論そんな事はおくびにも出さない。
何しろ部屋割り的には、娘六人が四畳半二部屋に押し込められているような実態だ。個室を寄越せなどと、そんな図々しい事を、とても言えるわけは無い。
だから彼は、必要最低限の荷物しか、本家に持って行かなかった。
そのため、机のみならず、本棚やCDボックス、コンポ、パソコンなど、自費で買った家具のほとんどを妹にくれてやり(もっとも彼が、所有権を手放す前からパソコンやコンポなどは共有扱いではあった)、冬物衣服なども大半が置きっ放しであった。
「嬉しいくないって言えば、嘘になるけど……お兄ちゃんがいなくて、可苗やっぱり寂しいです」
そう言いながら、可苗はキッチンから二人分の紅茶とクッキーを運んできた。
トレイからそれらを兄の机に下ろし、自分の学習机からキャスター椅子を持ち出し、兄の隣に座った。
「お兄ちゃんは、可苗がいなくて寂しくないんですか?」
この瞬間、喜十郎は正直、やられた――と思った。
「寂しいよ。決まってるだろ?」
そう問われれば、こう答えるしかない。綾瀬喜十郎という人間は、そんな質問を、適当に茶を濁して返答できるほど器用ではない。何より、茶を濁した返事で、可苗の機嫌を損なう事こそ最も避けねばならない。
しかし、こう答えれば、可苗がその言葉にどう反応するかも、喜十郎には分かっている。
「じゃあ、もっともっと遊びに来て下さいっ、お兄ちゃんっ!!」
「……ああ、そうだな」
「それなら今週のいつなら空いてますか? 可苗、何曜日でもいいですよっ!」
やっぱり、予想通りになった。こういう具体的な問い方をされてしまうと、
『また今度』とか、
『次に空いてる日』とかいった、ぼやかした言い方が出来なくなってしまう。
そして結果は明白だ。
「じゃあ、今度の……火曜でどうだ?」
この約束が成立すれば、取り合えず火曜日までは生き延びれる。少なくとも今日は無事に帰してもらえる。そう考えれば少しは救いになる。
「はいっ、じゃあ月曜の夜にまたメールしますねっ!」
「ああ……うん」
これで忘れたフリをしてすっぽかす事も、出来なくなった。
379 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:35:09 ID:D8b/QqQN
「可苗、スッゴク楽しみにして待ってますからねっ」
「いや、待て。どうせなら」
――外で会おう。今度オープンした水族館に一緒に行こう。
と、喜十郎は約束した。
親すらいない密室の団地の中で逢うよりは、まだ野外の方が安全であろう。そう思った彼の、せめてもの抵抗だった。しかし可苗は、喜十郎の本心を知ってか知らずか、あっさり、その提案をはねつける。
「だって、友達の噂じゃあ、あそこ、あんまり面白くないらしいんですもの」
――だから可苗、クッキーとお紅茶淹れて待ってます。……ううん、やっぱりそれよりも、
どうせなら自分が、迎えに行く。その方が少しでも長く喜十郎といられるから、という内容の台詞を、可苗は嬉々として喋った。――底意の全く見えない、天使のような笑顔のままで。
(冗談じゃない)
そんなマネをされたら、本家の姉妹たちに何をされるか分からない。
何しろ彼女たちは、姉妹間においてこそ争いもせず彼を共有財産扱いにしているが、それ以外のいわば共通の敵に関しては、絶対に退かず、容赦もない。
……あるいは可苗ならば、あの六人を向こうに回して戦えるかも知れない。
だが、どちらが勝つにしろ、喜十郎がタダで済むはずはない。下手をすれば、七人が一致団結して、彼を“飼い”にかかる可能性すらある。――そうなれば、もう確実に助からない。
「いや、いいよ。お前の学校からだと遠回りになるだけだし、それだったら家で待っててくれた方がいい。そっちの方が――」
家に帰ったとき、『ただいま』って言えるだろ? と、喜十郎は媚びるような目線で言う。
「わあああっ、いい! お兄ちゃん、それってすっごく素敵ですっ!!」
可苗の無邪気な喜びっぷりを見て、内心あれだけ彼女を警戒していた喜十郎も、妙に嬉しくなった。
(と言うより、こんなに素直で可愛い妹の一体何を、オレはビビってたんだろう?)
思わず、そう感じてしまったのだ。
永年、彼女と過ごした“兄”としての、無意識に身内を庇う習性が出てしまった、というべきか。
――ヴァニラの件は、あれはやっぱり何かの間違いじゃないのか? 少なくとも、やっぱり可苗が意味もなく、あんな気違いじみたマネをするわけがない……。
とにかく、喜十郎はそのまま眼前の紅茶を手に取った。
その瞬間、可苗の瞳が目ざとく光ったのを、喜十郎は気付かない。
380 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:36:46 ID:D8b/QqQN
「どうしたの詩穂ちゃん。何かあったの?」
詩穂は、登校時のはしゃぎっぷりからすれば、まるで別人のような意気消沈ぷりだった。
どんなに部活でドジをしても、おやつがある、と聞かされれば、たちまちの内に元気を取り戻すのが、詩穂という少女のはずなのだ。
「そういえば詩穂ちゃん、今日はやけに帰りが早いけど、チアリーダー部は?」
「……」
詩穂はうつむき加減のまま、無言で春菜の隣を通り過ぎる。
「――詩穂ちゃん……?」
「今日は詩穂の部活はお休みよ」
その声を聞いた途端、びくんと詩穂が動きを止める。
そう言いながら階段を下りてきたのは、桜だった。
「私が竜崎に連絡したの。今日の詩穂は二日目で調子が悪いから欠席させてあげてって」
竜崎とは、中等部チアリーダー部のキャプテンであるが、演劇部部長である桜の大ファンであり、チア部員である詩穂を通じて、姉を紹介させたという経緯があった。――そのため、桜の名を持ち出されると、竜崎は詩穂に何も言えなくなってしまうのだ。
「どういうことですの、桜ちゃん?」
いまいち事態が把握できない春菜に、今度は階段から、また違う声が聞こえてきた。
「――つまり今日、詩穂ちゃんは、桜ちゃんの協力の下、部活をサボって今までどこかに行っていたわけですね? 今朝の朝食時のはしゃぎっぷりからして、おそらく兄上様がらみではないかと思われますが。いかがですか……?」
声とともに、真理がホームズよろしく顎に手を当てて階段を下りてくる。
「まっ、真理ちゃん?」
「すごい真理、大正解よ。――さすがに文型科目学年一位だけのことはあるわね」
ぱちぱちぱちと拍手をする桜。しかし、詩穂の顔色はさらに暗くなるばかりだ。
「そう言えば詩穂ちゃん、兄君さまは? 真理ちゃんの推理通りなら、一緒に帰ってきてもよさそうなものだけど……」
この一言が引き金になった。
ぱんぱんに膨らんだ水風船は、針の一刺しでたやすく破裂する。
「ふえええええんっっっ!!!」
「どっ、どうしたのっ、詩穂っ!?」
「しっ、詩穂ちゃんっ!?」
「あのっ、詩穂ちゃんっ、私、何かまずいこと言いましたっ!?」
三人の姉はおろおろして、詩穂の周囲をくるくる回るが、悲しいかな、何の慰めにもなっていない。
「――お兄ちゃまが、お兄ちゃまが……」
「お兄様が!? お兄様がどうかしたのっ!?」
「もしや兄君さまの御身に何か危険が!?」
「桜ちゃんっ、春菜ちゃんっ、いけませんわ、落ち着いてくださいっ!」
「詩穂っ、お兄ちゃまに、見捨てられちゃったよぉぉぉっ!!」
381 淫獣の群れ(その7) sage 2007/10/15(月) 22:38:43 ID:D8b/QqQN
夕日の逆光で真っ赤に染まった一室で、少女が西日に劣らぬ真っ赤な携帯で、話をしていた。
「――ええ、そうですママ、いま言った通りです。――はい、パパには私から連絡しておきます」
「――ですから今日は、帰ってこないで下さい」
「――だから、だから言ってるでしょっ! これ以上、可苗とお兄ちゃんの邪魔をしないでっ!!」
「――ヴァニラみたいになりたくないでしょ? ……ねえママ?」
「はい。――ありがとう。……ごめんねママ……こんな娘で……」
いま、可苗の眼前に、愛しくてたまらない一人の男が座っている。
眠っているわけではない。かといって起きているわけでも無さそうだ。
さっき飲ませた紅茶に、――いや、それだけではない。クッキーの一個一個にも、薬は盛っておいた。
ただの睡眠導入剤ではない。
心を静め、筋肉の緊張をほぐし、意識を保ったまま、それでいて記憶には残させない。
――いわゆる『催眠術』というべきものを、非常にかかりやすくするための薬剤。いわば、催眠誘導剤とでもよぶべき薬。
もちろん、そこいらの薬局で売っているブツではない。
もちろん、誰もが簡単に買える値段ではない。
(でも、その価値はありました。……お兄ちゃんが、ここにいてくれる……)
「――さあ、お兄ちゃん。ここはお風呂です。早く、その着ているものを全て脱いでしまいましょう」
うつろな表情で、フラフラと立ち上がる兄を見て、早くも実の妹は、軽い絶頂を迎えていた。
最終更新:2007年10月21日 02:13