フラクタル 第1話

8 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:13:14 ID:c1/KMPTw

 久しぶりの雨だった。
 もう梅雨に入っていてもおかしくないのに、最近はずっと太陽が地面を焦がしていて嫌になっていたから、今日は気分を変えて学校に行ける。
 梶原俊介は部屋を出る前に身だしなみを確認しておこうと思って、自室の鏡から少し離れて自分の姿を見た。
「ネクタイはよし。シャツもよし。オッケーだな」
 うんと、頷くと最後に自分の顔をぱん、と叩いた。やや童顔の顔が引き締まる。
 俊介は二階にある自室から出て、リビングに降りた。
 吹き抜けのキッチンという裕福な家庭特有の風景が広がっている。
 ソファーにはパンダのぬいぐるみがひとつとクッションが二つあり、持ち主がいないため僅かに寂寥感をたたえていた。
 よいしょとソファーに腰をかける。俊介は、朝の日課になっている新聞に目を通すところから始めた。
 十分、二十分と時間が過ぎていくが、かなり早起きのため時間には多分に余裕がある。
 二紙目の新聞を手に取ろうとすると、妹の舞が丁度パジャマのままやってきた。
「おはよう」
「……お兄ちゃん、いつからここにいるの?」
 舞は不機嫌そうに俊介を見やる。
 しかし、俊介はさして気にも留めずにそのまま新聞を読むことを続けた。
「んー? そうだなあ、三十分前ぐらいからかなあ」
「六時にはいたってこと? ……いつも早起きだけど、今日はちょっと早すぎない? 何かあるの」
「ああ」
 言って、今度は液晶テレビを点けた。
 朝のニュース番組が占いをやっている。丁度、俊介の牡羊座が十一位であることを告げた。次に最下位の蟹座が映し出される。
 俊介はいつも思うのだが、この最下位の星座というのは、いつも運勢の悪さをカバーするためにラッキーアイテム等が紹介されるが、
これでもしその運勢の悪さとやらが覆されるというのならば、実質悪いのは十一位である星座にならないのだろうか。 
「ちょっと、お兄ちゃん私が話してるの」
 舞はテレビを見ている兄が気に入らないのか、リモコンで電源を切った。仁王立ちで俊介の隣に佇んでいる。
「こら、何するんだよ。俺の日課だぞ。ニュースを見て気を引き締めて学校に行くのは」
「ニュース見て気を引き締めるって言うのもどうかと思うけど……それより何があるのよ」
「何がって」
「さっき言ってたじゃない。早起きしたのには理由があるって」
「え? ああ、今日は日直なんだよ。それだけ」


9 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:14:17 ID:c1/KMPTw

 言ったあと、俊介は舞の持っているリモコンを取ろうとしたが、舞はその手をひょいとかわしてさらに質問を重ねた。
 憤慨した声が俊介を責める。
「お兄ちゃん、朝早く起きるときは先に言っておいてくれないと困るんだけど?」
「あれ? 言わなかったか」
「言わないわよ。 私の記憶にないわ」
「そりゃ……すまん」
「誰が、お兄ちゃんのお弁当作ると思ってるの? 私の身にもなってほしいものね」
 舞はリモコンでこめかみをこつんこつんと叩いている。
 細められた眼は、怒っているということを容易に予想させるものだったが、俊介はその心配はないとばかりに笑顔になる。
「あ、今日は弁当はいらないから大丈夫だぞ。日野さんが作ってくれるらしいんだ」
 それを聞いた舞は一瞬目を見開いたが、その動作を俊介には見られないようにして後ろを向いた。
 リモコンをばしんとテーブルに叩きつけると、パンダの可愛らしい刺繍がされたエプロンを着ける。
「だから、弁当はいいって」
 俊介がそう言い終わる前に、舞は大声で告げた。
「これは朝ごはんよ!」
 金切り声は隣の家にも聞こえるかと思えるほどだったが、これは、俊介は自分に非があると思ってそれ以上何か言うことはしなかった。
 気を取り直して、ソファーから手を伸ばしてリモコンを取る。しかしなぜか咎められるような気がして、テレビをつけることができなかった。
 乱暴に炒められる食材の音が背中から聞こえてくる。
 後ろを見ると、躍起になって菜箸でベーコンをいためている姿が鬼のようだ。体にかけられたエプロンはもはやパンダではなく羊みたい。
 二紙目の新聞をもう一度読むことに決めて、半分ほどに目を通し終えたとき、舞から声がかかった。
「できたわよ」
「ああ、ありがとう」
 テーブルに腰をおろして、向かい合う。木製のテーブルは広いはずなのに朝には十分すぎるほどの料理が並んでいた。
 短時間でよくこんなにも、と思ったが、それを言うと舞はまた何か言われそうなので黙々と食べることにした。
 ちらりと前を見る。端正な舞の顔は長い黒髪とまつげで見えにくくなっているもののやはり怒っているようだった。
 そんなに怒ることか、と俊介は思ったが高校生というのはそんなものなのかもしれない。そっとしておくことにする。
 食べ終わって、朝の身支度が終わっているのを確認して鞄を持った。


10 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:15:09 ID:c1/KMPTw

「それじゃあ、行こうと思うんだけど」
「……」
「一人で言った方がいいか」
 恐る恐るという風に俊介は言葉を重ねる。
 もはや確認などするまでもなく一人で行けと舞は眼で語っていると思ったが、
さらに勝手に勘違いして一人で登校するとさらに舞は怒ると思ったので、念のため聞いた。
 舞はきっとにらんで返してくる。
「十分、待ってて」
 しかし怒っていてもやっぱり一緒には行くようだった。俊介は、よくわからないな年頃の女の子っていうのは、とつぶやいた。
 舞を待っていると、ぶるぶると携帯が震えた。
 三回ほどで振動が止まったから、どうやらメールだ。もしや舞からじゃないだろうなと思って、携帯を開く。
 日野小枝子からだった。
「誰から?」
 文章を読んでいると階段から胸元を直している舞が下りてきた。
 胸がかなり大きいので、おそらく胸元のスカーフがなかなか閉められないのだろう。
「日野さんからだよ」
「見せて」
 乱暴に携帯をひったくろうとしてきたので俊介はさっと身を引いて手から逃れた。その動作を見た舞はますます不機嫌になる。
「何よ。やましい相談ってわけ」
「いや、そう言うことじゃないけどな。メールって一応俺にしか見られないと思って、送ってくれるわけだから、他人に見せるのは失礼だろ?」
「私とお兄ちゃんは家族じゃない」
「家族でも、違う人間ってことには変わりない」
 俊介はそう言って玄関を開けて外に出た。
 これで清々しい快晴でも広がっていればまた違った気分になったのかもしれないが、起きた時に確認した通り雨。
 久しぶりの雨だから、気分転換して学校に行けると思っていたがそうはいかないらしい。
 雨が嫌いではない俊介も、今は晴れの青空を見たかった。
「早く鍵閉めてよ」
 せかされ、俊介は溜息を吐きながらもポケットに入っている鍵を出してドアを閉めて、舞に渡した。
 鍵についた二つのパンダのキーホルダーが背をむきあって、まるで喧嘩しているようだった。
 家には二人しかいないため、仲良くあれるようにと願いを込めて買ったものだったが、今のこのパンダはまるで自分たちみたいだ、と俊介は感じる。
 舞もそう思っているのか、キーホルダーを見つめたまま止まっていた。
 俊介は、もう一度謝っておくかと思って口を開く。
 しかし、舞はその前に顔をあげて俊介を見た。
「言い忘れてたわ」
「何を?」
「おはよう、お兄ちゃん」
 俊介は僅かに戸惑いながら返した。
 通学路を、傘をさして二人で歩く。
 会話はなかったし重苦しい空気は変わらなかったが、朝の占いの順位を思いだして妙に納得した。


11 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:16:21 ID:c1/KMPTw

 学校に着く。
 生徒玄関で舞に別れを言おうとすると、忘れ物をしてきちゃったと言って、舞が来た道を引き返した。
 何を忘れたんだ、と聞くと大事なことと言われたので、あまり詮索するのも無粋だと思って放っておいた。
 教室にいくと、雨だからか室内が明度を下げてむっとしている。
 鞄を席に乗せると、日直の仕事をしなければならないと思って日誌をとりに職員室に行くことにする。見れば、まだ女子の日直は来ていないようだ。
「失礼します。二年二組の梶原ですが、日誌を取りに来ました」
 職員室に入ると朝のためか先生たちも朝の準備で忙しいのかせわしくなく動き回っている。
 俊介の声に反応している教師は少ない。
 俊介が廊下側の窓の傍に作られた棚から自分のクラスの日誌を取り出して職員室を出ようとすると、丁度入れ替わりに担任教師の村田が入ってきた。
 村田は俊介を視界に止めると、ぎょろぎょろした目で上から下まで俊介を観察した。
「……職員室に何の用だ」
「日直だったので日誌を取りに来ました」
「そんなもんホームルームが終わってから取りに来たらいいだろうが」
「……他の人も朝のホームルームの時間までには取りに来ている人が多いですから」
 村田はしかめた顔で鬱陶しそうに俊介の言葉を聞いている。朝特有の忙しさなど、この男には関係ないようだった。
 俊介が、他の人も、と言ったのは、村田は俊介のことを何かと鼻にかけてくるため、
他の人物もやっているという免罪符でもあげていればこの男も荒唐無稽なことは言えないと思ったからだった。
 先日などは、俊介が小枝子と一緒に下校しているのを学年の集会で言ったりして、一緒に帰ったというだけで、
このような不純異性行為はしないように、と呼びかけたりした。
 俊介は頭に来たが小枝子が、隣で苦笑いをしながら私のことはいいと言ってきたため、何か言うことはしなかった。
 けれど、小枝子が了解してくれるなら、去年教え子に手を出そうとして噂になったのはどこの誰だったかと言ってやりたかった。
「そんなこと言って、実は職員室にテストの答案でも盗みに来たんじゃないのか」
「そんなことあるわけないでしょう」
「はっ、どうだかな。お前みたいな善人顔したやつは何するかわからんからな」
「善人顔って……悪いことをしたらいけないのは当然のことでしょう。それは教師という立場の人間でも同じことです」
「おー、おー、青臭い正義感に燃えちゃってまあ……俺はそういうの、大嫌いなんだよな」
 村田は喋っているうちに気分が高揚でもしてきたのか、腕を組んで俊介を見下ろしている。
 ジャージを着こんだ体育教師がこうやっていると、俊介は別に何もしていないのに客観的にみるとあたかも説教をされているようだ。
 ふふん、と鼻をめいいっぱい鳴らして今度は肩幅に足を開く。


12 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:17:47 ID:c1/KMPTw

「いいか、梶原。生徒ってのはな、教師に逆らっちゃだめなんだ。お前みたいに中途半端に逆らって善人顔をするから、
世間は教師の教えがなってない、なんて現場のことを何も知らない発言するんだ」
「……別に逆らったつもりはありませんが」
「ほら、お前そこだよ。そういう態度がダメなんだ。そこは素直にはい、といやあいいんだ」
 俊介は瞬間的にかっとなりそうになるが、ここで怒ってはこの男の思うつぼだと思ってなんとか耐えた。
 どんどん時間が過ぎる。
 一人、また一人と職員室に入ってくる教師や他のクラスの日直が俊介を物珍しそうに見た。
 わかっている人間にはわかっているだろうが、やはり叱られている、と大半の人間が思うだろう。
 しかしそれよりも、俊介はこうしていることで女子の日直が登校してきて一人で仕事をしているのかと思うと、胸が痛んだ。
「大体お前見たいな正義面した奴ってのは将来、変な大人になるんだよ。余計なことをして上司に怒られる、とかな。
人間な、言われたことを確実にしておけばいいんだ。それが和の精神ってもんなんだ」
「……すみません、日直の仕事があるのでもう行っていいですか。説教なら休み時間に呼び出してくれてもいいですから」
「おい、俺の話を聞いていなかったのか」
「聞いていました。でもこうしている間にも、相手の日直の人には迷惑をかけることになってしまうんです。だから」
「おいおい、また女のことか。いい加減にしろよ、お前」
「いや、そうじゃなくって……」
「どうしたの、お兄ちゃん」
 俊介のイライラがいよいよ限界に近づいてきていたとき、窓を隔てて舞がそこにいた。
 さっき忘れ物を取って戻ってきたのだろう。なにも荷物は変わっていなかったが、服は少し雨でぬれていた。
「いや、舞には関係ないんだ。教室にいってくれ」
 俊介がそう言うと、村田は面白いものでも見つけたように、にやりと笑った。
「ほう、お前の妹か。お前に似て説教をしているときに声をかけるなんて非常識なことをする」
「説教? 兄が何かしたんですか」
「こいつが俺の言うことを素直に聞かないんだよ」
 舞が視線だけで俊介に本当かどうか聞いてきた。俊介は呆れたため息で返す。
「内容によっては、素直に聞くべきでないこともあると思いますが」
「おーっ、と。さすがは妹。兄に似て素直でない」
 わざと大げさに驚くようにして、村田は身振りまで加える。
 舞はその様子を、虫を見るような顰めた顔で受け取ったが、少し間をおいてから、笑った。
「私の言葉に素直にしゃべっていないのは先生の方じゃないですか?」


13 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:18:58 ID:c1/KMPTw

 それを聞いた村田は、態度を豹変させ、自身のことを何か言われるのは腹が立つのか、怯ませるように窓に一歩近づいて組んだ腕を解いた。
 女だろうが気に入らなければ拳で殴る、と公言しているような人物だ。それを匂わせるような行動なのだろう。
「なんだと? お前、一年何組だ」
「それは何か私がさっき言った、素直に聞くべきでないこともある、という発言に関係あるんですか」
「いいから答えろ」
「……私の組を教えるのは構いませんが、理不尽なことで兄を縛っているなら開放してあげてくれませんか」
 舞が無表情にそういうと、村田はしてやったりとばかりにほくそ笑んだ。
「ほほう、お兄ちゃんがそんなに大事か」
「ええ、もちろん」
 しかし舞は挑発を受け流すように満面の笑みで告げる。
 村田は、片目だけ妖怪のように細めて窓の淵に乗り出した。
 その様子を見て俊介は、これはまずいとばかりに、舞をいさめた。
 村田に何か言おうとしなかったのは、これでは舞まで目をつけられてしまうと思ったからだった。
「舞、もういい。お前は教室に戻ってくれ」
「あら、お兄ちゃんこそ、さっさと教室に戻ればいいのよ。こんなさっき自分で言った言葉も忘れちゃうような原始人に付き合うことはないわ」
「何だと、糞餓鬼が」
「ふふ、村田教員はこんな安い挑発にも耐えられないのね」
「舞、本当にもうやめろ。お願いだ」
 俊介が声をかけるが村田はぴくぴくとこめかみを震わせている。あたりを見れば、何人かの教師が横目で俊介たちを観察していた。
 何で誰も声をかけてこないんだ、俊介は毒づいたがそんなことをしている場合ではない。
 自分ならまだしも、こういうことで妹にまで悪態をとるようになったら確実に兄に責任がある。
「先生、妹は関係ないでしょう。俺に腹が立つのなら俺に言ってください」
「今はこいつに腹が立つんだよ」
「仮にも教師でしょう? そんなことを」
 どす、という音が俊介の腹から生まれた。
 言い終わる前に、村田が拳で殴ってきたのだった。
 たまらず俊介は前かがみになるが、村田は追い打ちをかけるように左足で踏みつける。
「うるせえんだよ」
 熱くなるような感覚が腹から生まれ、次に七十キロはある男の足の裏が俊介の重力を増やした。
 さすがに見かねたのか、他の教師が声をかけてくる。
 どうしたのですか、という村田にかける声が俊介の頭の上から聞こえてくるが、顔をあげると思いきり村田を睨んでしまいそうだったので、それはやめた。
「大丈夫です。なんでもありません」
「でも村田先生、こんなの教育委員会に言われたら」
「言われるわけねえだろ、こいつらの両親ずっと家にいねえんだから」
 そのときだった。


14 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:19:59 ID:c1/KMPTw

 じりりりりりり、と火災報知機が鳴った。
 うるさいぐらいの責め立てる音が学校中に響き出す。俊介はびっくりして腹を押さえながら立ち上がった。
 村田は火事か、と呟いて鼻を鳴らしたが、もう一人の教師は確かめてきますとその場を離れていった。
 職員室にいた教師たちも、各地に散らばって今の火災報知機が嘘か本当か確かめるように出て行く。
 全員が出て行って、室内に俊介と村田だけになると、彼らから離れた反対側の中庭に面する硝子が、いきなり割れた。
 俊介と村田が揃えてそちらを見る。
 すると、ばりばりになった硝子が一枚あった。
 まだかろうじて窓に入れられているがこれでは買い替えないと使えないほどだ。
 俊介はそれを見て、もしかしたら地震かもしれないと思った。
 自分自身では感じなかったが、先ほど殴られていたから感覚が麻痺して気付かなかったのでは、と考えたのだ。
 そうすれば火事も地震によるものだと納得がいく。
 しかし、よく見ると硝子の破片が室内には落ちていなかった。
 俊介は変に思って、窓際まで行くと破片は全部中庭の方にある。
 たまたま、か……? 
 そう思ってさらに中庭に視線を向けたが、対面する公舎では生徒と教師たちがせわしなく動き回っていて、こちらには全く関心がないようだ。
「う」
 急に息が詰まるような声が聞こえて、俊介は振り返った。
 すると、村田が仰向けに倒れている。
「せ、先生?」
 近づくと白目をむいて気絶していた。
 一瞬死んでいるのかと思ったが、胸の上下を見る限りそうではないとわかった。
「お兄ちゃん」
 俊介が放心していると、職員室に入ってきた舞が足早に駆け寄ってきた。
「早く逃げないと、火事かもしれないわよ」
「あ、ああ。でも先生が」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ。ほら早く」
「いや、さすがに放っておくのは」
 そう言って舞が引っ張るのに抵抗していると、騒音が止まった。
 続いて校内放送が入る。
 どうやら誰かがやったいたずらのようだった。


15 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:21:35 ID:c1/KMPTw

 しかし村田はまだ気絶している。彼には本当に何かあったようだ。
 だが、俊介には全く意味がわからなかったし、このままここにいるとまるで自分が村田に何かしたように思われてもしかたない。
「お兄ちゃん、ここにいるとやばいんじゃない?」
 舞もそれを察したのか、真剣な顔で言ってくる。
 でも、ここで村田を放置していくのもさすがに良心が痛むし、村田に悪いことはいけないといった手前、
放っておくのはさすがにひどい気がした。
「……仕方ない、他の先生がくるまで待つよ」
「そんなことしたら、お兄ちゃんが怒られちゃうわよ」
「正直に言ったら、誰かは信じてくれるさ」
 ため息はこれからの俊介を暗示するかのようだったが、舞は、私は、お兄ちゃんは何もしていないって言うつもりだから、といってくれた。
 身内の証言なんて、何も証拠にはなりをしないとわかっていたが、心の支えにはなると思って、舞の頭を撫でる。
「ありがとうな」
 髪はシルクのように滑らかで、手触りがとてもよかった、そのためやわりやわりと撫でることをやめることができない。
 すると、気のせいか舞が体を寄せてくる。
 やりすぎたかな、と俊介が思ったら、舞が悲しそうに言った。
「……お兄ちゃん、ごめんね」
 一瞬何を謝っているのかわからなかったが、俊介は自分の言うことをきかず村田に反抗したことを言っているのだろうと思って、
心配ないと肩をやさしく叩いて安心させた。
 だから、俊介は窓の外の中庭に自分の家の鍵が落ちていることなど、考えもしなかった。
 当然、舞が胸にしていたスカーフがなくなっていて、村田の首に赤い跡が付いているのにも気付かなかった。



16 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:22:22 ID:c1/KMPTw

   /


 平常通りに授業が進んでいく。
 朝の騒動があって何か日程が変わるかと思ったが、それは杞憂のようで、いつもと日程は全く変わらなかった。
 俊介も村田のことで何か言われると思っていたが、本人が気絶している以上、起きてからでないと話にならないといわれて、
ひとまず教室に戻されたのだった。
 昼休みに入る。
 俊介は、小枝子のところに行こうと思って席を立った。
 昨日来たメールを思い浮かべる。
 よかったら、お弁当を作りましょうか。
 文面を見た時には、思わず片手で拳をぷるぷると震わせてしまい、舞に怪訝な顔をされたが、それだけ嬉しいものだった。
 高校生たるもの一度は女の子の手作り弁当を食べてみたいのは、なにも俊介だけではないだろう。
 最も、俊介は毎日女の子の手料理を食べていたが、さすがに妹のものではいささか色気がない。
 廊下の一番端にある、八組に行く。
 すると、教室の中央の席でショートカットの女の子が自分の机をじっと見つめていた。
 大人しそうな垂れ目は庇護欲をそそり、守ってあげたくなる。体の起伏のなさも、それに拍車をかけていた。
 日野小枝子だ。
 俊介は、ざわざわと喧騒になりつつある教室に入り小枝子の元まで行く。
 他人の教室に入るというのは多少嫌な気分になるというが、俊介も例に漏れない。
 しかし、わざわざ弁当を作ってきてくれた彼女を待たすのは失礼だと思って、小枝子のもとへと急いだ。
「おはよう」
「あ……おはよう、ございます」
 小枝子は俊介を見ると、申し訳なさそうに肩を落とした。
「どうしたんだ?」
「あ、あの……お弁当、のことなんですが」
「ああ、大丈夫。今日は妹の弁当はないからさ」
「いえ、そうではなくて……」
 俊介へと向き直った小枝子は立ち上がって、正面から見つめる。そして深々と頭を下げた。


17 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:23:12 ID:c1/KMPTw

「ご、ごめんなさい! お弁当は作ってこられませんでした!」
 あまりの声量に教室内が鎮まった。
 少しして、俊介たちへと好奇の視線が集まる。そして繋がるようにひそひそと話声が聞こえだした。
「あ、あー、そ、そうなんだ。その、気にしないで」
「ごめん……なさい。ごめんなさい」
 ひたすら謝る姿はさらに教室の注目を集めた。
 俊介は必死で言葉を探したが、ぽつぽつとタイルに涙を落とす小枝子は俊介の声を聞いていない。
「い、いいって。じゃあ、学食にでも行って一緒に何か食べようよ」
 仕方がないので、両手で頬を挟んで強引に顔を持ち上げ、まるでキスするようにしていった。
 すると、ひっくひっくと嗚咽を含みながらも小枝子は頷く。
 しかし周りは、はやし立てるように、おー、とか、うわー、とか明らかに俊介たちに聞こえるように声を出す。
 俊介も自分のしていることが恥ずかしくなったので、小枝子の手を乱暴に握りつつも食堂に向かうことにした。
 食堂では、昼と言うこともあって学生たちで壁の端から端が見えないほどに埋まっていた。
 雨で湿気を含んだ熱気がぶわっと俊介たちを迎える。
 どこか座れればいいと思っていたが、これでは座ることなど到底できそうもないので、小枝子にここで待っているように伝えた。
 ついでに何が食べたいかと聞くと、何でもいいと言ってきたので、とりあえずどこかほかの場所でも食べられるパン類を買うことにした。
 がやがやとお互いの声もある程度大きくなければ聞こえないのではないかという中、俊介は白いカウンターまで目指した。
 ぶつかってぶつかって、上級生にも睨まれながらもなんとか販売員のおばさんのところまでやってくる。
「メロンパンとあんパンとクリームパン……とバームクーヘン」
「はいよ」
 そして、お金を叩くように置いてその場から離れた。
 小枝子は食堂の入口で膝を抱えるように座っていた。
 あれでは、他の人の邪魔になるのではと思ったが、小枝子自身はそんなことには気づいていないようだった。
「おまたせ」
「あ……はい。ありがとうございます」
「人がいっぱいだから外で待っていてくれたらよかったのに」
「でも……ここで待ってろって言いましたから」


18 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:24:38 ID:c1/KMPTw

 小枝子は申し訳なさそうにうつむく。
 俊介は、悪いのは自分かと考えて謝った。
 二人は食堂の外に出て、どこかに行こうかと考えたが、もうそんなに時間がないことを携帯で確認すると、入口の反対側の段差をベンチ代りにして座った。
 見れば、食堂にはいりきれなかった人はほかにもいるようで、すでに先客も多数いた。
 どうやらここは食堂の一部、として生徒たちには認識されているようだ。
 何がいい、と聞くと、おずおずと人差し指でメロンパンを指差した。
 俊介は小枝子にパンを渡し、四つあるからもう一つどうか、と聞いたがそれには首をふるふると振って断った。
「いいの?」
「そこまで……迷惑はかけられないですから。それより、あの、お金」
「いいって、奢りにしとくよ」
「そんな、いけません。ちゃんと返します」
 小枝子はスカートのポケットに入っていた猫の財布を取り出すと千円札を取り出した。
「これで足りますか」
「本当にいいって」
 俊介は断るが、小枝子は受け取ってくれないとわかると目に涙を浮かべた。
 いくらなんでも泣きそうにまでなるとは思わなかったので、慌てて言った。
「じゃ、じゃあこうしよう。お金はいいから明日お弁当を作ってきてくれないかな」
 俊介がそう言うと小枝子はびくんと背筋を伸ばした。
 そしてついに目から涙を流し、声を掠らせる。
「ごめんなさい……それはできません。お弁当を作ることはできないんです」
「あ……ごめん。迷惑だったのかな?」
「いえ! そんな! 迷惑だなんて……でも、ごめんなさい、作れないんです」
 俊介は迷った挙句、自分の財布を取り出して、八百円を渡した。
「これは……?」
「おつりだよ、いくらなんでもメロンパン一つで千円って言うのはおかしいだろ?」
「あ、はい」
 小枝子はそれで納得したのか俊介にお金を渡して、息をつく。そしてもうあまり時間もないとメロンパンの包みを破った。
 俊介はそれを見ながら、微妙な空気になっちゃったな、と思った。
 いつも小枝子と一緒にいるときは楽しく笑いあう、ということは少なかったもののそれでも俊介自身、
小枝子には癒されるような気分になっていたのだが、今日はそれも望めないようだ。
 それに、と俊介は思う。
 小枝子は料理が不得意、ということではなかった。
 それなのに作ることができない、とはどういうことなのだろう。
 もちろん時間的な関係で作ることができない、ということも考えられるが、それならば昨日あんなメールを送ってこなければいいのに。
 俊介は肩で息を吐いて、もくもくとパンを食べた。
 そして最後にバームクーヘンを食べようとしたとき、飲み物を買ってこなかったことに気づいた自分に悪態をついた。


19 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:25:41 ID:c1/KMPTw

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 帰りのホームルームが始まる時間になると座りながらも談笑が続けられていた。
 帰る準備がすべて整い、先生が来るのを待っているのだった。
 俊介は、胸を締め付けられるような気分になりながらも最後に日誌を担任に届けるために、今日の感想、という欄にペンを走らせていた。
 気になっているのは、担任の村田のことだった。
 気絶していたが、どうやらついさっき目を覚ましたらしい。
 どうして病院に行っていないんだ、と思ったが外傷もないのに気絶した教師を運ぶと何かと噂になるからかもしれない。
 聞くところによると、喉が少し痛むらしいがもう元気なようだった。
 ばあん、とドアが壊れるかと思うほどにスライドさせて村田が入ってくる、クラスが一斉に静まり、皆は嫌な顔をしながらも姿勢を正した。
「……梶原、あとでちょっとこい。以上」
 慌てて委員長が号令を取る。
 おそらく、また生徒を早く帰らせないためにわざと長い無駄話をすると思っていたため予想外だったのだろう。
 こんなに早く終わるなんて初めてだ。
 しかし裏を返せば、それだけ村田が怒っているということだ。
 朝の件、思い起こして腹が煮えくりかえっていることぐらいは容易に想像がつく。
 俊介は鞄を持って、舌打ちしたい心を必死に抑えて村田のもとにいった。
 村田は俊介に顔を接近させながら、怒気を思い切り含ませて、こい、とだけ言った。
 後ろから、怒ってんねー黒光り(村田は外で授業が多いためか日焼けしていて黒光りというあだ名が付けられている)と聞こえてくる。
 村田は教室を出て、一階まで降りると生徒玄関をまたいで進路指導室のところまで来た。
 途中、舞を見かけ、向こうもこちらに気づいてやってこようとしたが首を振って制した。
 俊介はこれ以上話をこじらせたくはなかったし、妹に目が行くよりは自分に腹を立てている方がまだましだと思ったからだった。
 進路指導室の扉を開けた村田は、顎でしゃくって入れという合図を出す。
 顔を見れば額に油が乗っているのか、さらに黒く光っていて本当に黒光りだな、と俊介の思考を僅かに楽にした。
 進路指導室、というのは基本的に人が来ない。
 進路を相談する、ということは教師と生徒の一種の信頼関係あってこそできるもので、これがやすやすと聞こえるような場所や、
例え偶然でも他の人間が間違えてはいってくるような場所だとすると、生徒も相談などできないだろう配慮がされてのことだ。


20 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:26:43 ID:c1/KMPTw

 つまり、ここでは村田と二人きり。
 村田の拳が飛んでくる。
 俊介はある程度予想していたため右腕で受け止めた。
 しかしやはり、相手が体育教師と言うこともあって、懐に入られて投げ飛ばされた。
 テーブルの上にあった花瓶が盛大な音を立てて俊介とともに地面に落ちる。簡単に割れてしまい、活けられていた花が地面に転がった。
 植物特有の青い匂いが俊介の鼻につく。
「よくもやってくれたな」
「知りませんよ、俺じゃない」
「お前以外に誰がいるって言うんだ、ああ!」
 倒れた俊介の腹につま先で蹴りを入れる。
 左手でクッションにして衝撃を和らげたが、村田はそれがさらに癇に障ったのか、上から反対の足で思いきり踏みつけた。
「あ、あんた……いい加減に」
「黙れや、こらあ!」
 一方的な暴力が続く。
 俊介とて決して小柄というわけではなったが、いささか武芸をやっているわけでもなく、相手が悪かった。
 どんどんと上から降ってくる重さは、外で降っている雨なんかよりも数倍重く、痛い。
 俊介は、俺は間違っていない、嘘は言っていない、と心で叫んで睨んだ。
 そうすることで、村田が更に激昂するのはわかっていたが、こうでもしないとやりきれなかった。
 村田は案の定、こめかみをひきつらせて、さらに怒りに身を任せた。
 俊介の上にのり、拳を顔の横に置いて、今から俺はお前を殴る、屈服させる、と言っているかのような態勢になる。
「何を、しているんです」
 その時、ガチャリと音をたてて扉が開いた。
 立っていたのは、校長だった。
 校長は俊介たちを見ると目を見開いてその状態を見た。
 慌てて村田が俊介から離れるが、すでに遅く、見れば校長の後ろには教頭も他の教員もいた。
 これが、村田の教師生活の最後、だった。


21 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:27:32 ID:c1/KMPTw

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 次の日の朝。
 俊介は昨日よりももっと早く目を覚ました。時計を見れば、まだ六時にすらなっていない。
 何とか眠ろうとするが、体が痛んで眠ることができなかった。
「体鍛えないといけないかな……」
 仕方がないので、眠ることを諦めて自室から出た。朝だが十分に時間があるためシャワーでも浴びてから学校に行こうと思ったからだった。
 脱衣所にいって服を脱ぐ。
 それから浴室へと入ると鉄分のようなにおいがぐっと鼻をついた。
「何だ、この匂い」
 俊介は窓を開けて喚起をする。しかしまだ空が曇っているためかなかなか空気を変えるができなかった。
 もういいやと思ってシャワーをさっさと浴びることにする。
 適温にされた水が俊介の肉体を打った。体を見れば腹の所にあざができている。言わずとも、昨日の件のせいだろう。
 口の中も多少切れているためか、血の味がした。舌でなめとって飲み込むが味が不快で、顔をしかめた。
「あれ……」
 そこで俊介は、浴室にたまった空気が口の中にある血の味と似ていたため、口から血が多量に出ているかのような錯覚に襲われた。
 試しにぺ、っと唾を吐き出してみる。
 が、そんなことはなく、俊介は不思議そうに首をひねった。
 風呂から出て髪を乾かし、リビングに行く。
 日課の新聞でも読もうとすると、舞がやってきた。
「おはよう」
「ちょっとお兄ちゃん、何で今日も早いのよ」
 朝の開口一番はそれだった。
 昨日のしかめた顔より今日は幾許かの驚きが見て取れる。しかし、すぐに嫌そうに目を細めて、まさかまたお弁当が、と言った。
「いや、今日は弁当はいるんだ」
「じゃあ、何でこんなに早いのよ」
「別に意味はないけど……なんだよ、俺の方が早かったら何か問題があるのか」


22 : フラクタル 2008/10/22(水) 01:28:21 ID:c1/KMPTw

 俊介がそう言うと、何を思ったのか舞は顔を赤くしてそっぽを向いた。
 乱暴にエプロンを取る。刺繍のパンダが今日もくしゃくしゃにされて、可哀相だった。
「お兄ちゃんが先に起きちゃったら、私はもっとお兄ちゃんといられたってことじゃない……今日も、もしかしたらと思って早く起きたのに、さらに早いなんて……」
 舞がブツブツと何か言っているが俊介には聞こえることがなく、それが余計、舞はもどかしかった。
 もちろん聞こえてしまったら聞こえてしまったで、顔から火が出るほど恥ずかしくはあるのだが。
「え!」
 そんなことを舞が思っていると、俊介が座りかけたソファーから立ちあがった。
 新聞を見てぶるぶると震えている。
「どうしたの」
 舞が呼びかけるが、俊介は答えることはせず一心不乱にリモコンを取った。そして乱暴にスイッチを押してニュースに変える。
「おいおい……」
 液晶の画面には俊介たちの学校が写されていた。
 画面の下には体育教師の飛び降り自殺、と綴られている。
「あら、死んじゃったんだ」
「自殺……俺の……せいか?」
「そんなわけないじゃない。むしろ学校の人があんなこと公表させたくないって言うので殺したのかもしれないわよ」
 舞はそう言うが、俊介は口をあけて唖然とニュースを見ている。
 しばらく見ていると、電話のコール音が鳴った。
 ぷるるるる、という電子音に俊介は意味もなく、びくりとしてしまった。舞はそんなことお構いなく受話器をとって応対している。
「誰から?」
「学校からよ。今日は臨時休校だって」
「あ、ああ。そうだよな」
 俊介がほっとして、どさりという音とともに腰をおろした。近くにあったクッションを膝の上まで持ってくる。
 手を組んで顎に乗せるが、歯が噛み合わなくて変な音が出た。
 ニュースが占いに切り替わる。
「そういえば、昨日は蟹座が最下位だったわね。この占い当たるじゃない」
 舞がおかしそうにころころ笑った。
「お兄ちゃん、言い忘れてたわ」
 そして、そばに来て俊介の隣に座った。
 ゆっくりとそうすることが自然なように頭を兄に預ける。
 瞬間、俊介は鼻に、浴室の中に充満していた空気が蘇ったのだが、動揺していたため気づかなかった。
「おはよう、お兄ちゃん」
 舞が、三日月のような口をして笑いかけてくる。

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最終更新:2008年10月26日 20:47
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