590 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:02:52 ID:9JpUSvJ8
いったい何時からそうなっているのか分からない。
世界には、はるか昔から色々な種族が存在する。それは、大きく分けて三つの種族に分かれていた。
1つは人間。
およそ、世界人口の99.9%がこれにあたる。全ての種族の基本にあたる種族で、他二つの種族は人間の突然変異として生まれてくる。
2つ目は亜人。
アジン、とも、ビースト、とも呼ばれる種族。アジンは正式な学術名で、ビーストは偏見と悪意を持って付けられた蔑称にあたる。
彼ら、彼女らは、人間として生まれてくる赤ちゃんの中で、およそ2%~3%くらいの確立で生まれてくる亜種。
特徴としては、人間の姿に、動物か別の生物の特徴を併せ持っていること。それは動物の尻尾だったり、耳だったり、千姿万態。
人間と比べて身体能力と知能が高く、肉体の能力は人間より1.5~3倍以上ある。
そのため、一部の亜人は人間を見下している。
これは本当に一部で、ほとんどの亜人は基本的に社交的で、あまり攻撃性を持っていない。
この2つに入らないのが、別種。
彼ら、彼女らは、およそ0.000001%の確立で生まれてくる。そのため、ミリオン・チャイルド(100万に一人の子)とも呼ばれている。
世界でも数千人くらいしか確認されていないので、別種と呼ばれるようになった。
特徴としては人間とほとんど変わらないが、最大でも150cm以下(平均で140cm)という低い身長と、背中に生やした大きな翼と、外見が幼いという違いがある。
彼ら、彼女らは、純白の翼か、漆黒の翼かのどちらかを背中に生やし、日中のほとんどを、空中飛行して生活する。
かといって歩けないわけではない。だが、何故か彼ら彼女らは、長時間地上に足を付けていると徐々に体力を消耗してしまい、最悪の場合は命を落とす危険性が出てくる。
原因は不明。ただ分かっているのは、彼ら彼女らにとって、空中を漂う=人間が歩くということだけ。
そして、別種だけが持つある特殊な能力。
それは、自らの命を他人に注ぐことができるという奇跡の力であり、神の偉業である。
彼らは自分の体内に宿る生命エネルギー、あるいは命ともいえる何かを、他人に明け渡すことができるのだ。
それによって死の淵に立たされた人でも一瞬で治癒させ、寿命すら延ばすことができる。
これが彼らを別種というカテゴリーに分別される最大の要因になっているのだ。
進化の過程とか、突然変異とか、放射能の影響とか、数え上げればきりがない。なぜここまで違ってしまったのか、現在でも全く解明できていない。
けれども、始めからそうであったかのように、これら三つの種族は互いに協力しあって文明を築き、生物の頂点に立つことができた。
この話は、人間の春夏玉恵(しゅんか たまえ)と、玉恵の弟にあたる別種の春夏秋冬(しゅんか しゅうとう)の恋物語である。
592 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:13:43 ID:9JpUSvJ8
薄暗い部屋の中、背中に翼を生やした少年、春夏秋冬(しゅんか、しゅうとう)は、空中で丸まった姿勢で、眠りから目を覚ました。
手足と翼を折りたたむようにして丸くなっていた秋冬は、顔だけを上げて自分が今どこにいるかを確認する。
何度か瞬きを繰り返し、少しずつ意識を覚醒していく。ぼやけていた視界が、瞬きをするごとに鮮明になっていく。
それと同時に、深く深呼吸を行う。寝起きで動き回ると、すぐに貧血を起こしてしまうからだ。
だらりと手足を伸ばして、身体の力を抜く。けれど、けっして床には足を付けない。
秋冬にとって、床に足を付けているよりも、空中を漂っている方が身体にかかる負担が少ないからだ。
全身に酸素を溶け込ませると、秋冬は背中の翼を一度、強く羽ばたかせた。
それによって起きた突風が、窓のカーテンを揺さぶり、自分の身体の下にあるベッドのシーツを吹き飛ばした。
「あ、またやっちゃった」
空中に浮かんだまま、秋冬は小さく言葉をこぼした。
ふよふよと高度を下げていき、シーツを手に掴む。それを、さっとベッドに戻した。
うん、これでいい。秋冬は満足して頷いた。
空中を移動し、太陽の光を遮っているカーテンを、秋冬は一息に開いた。
その瞬間、まぶしい太陽の光が秋冬の身体を照らし、一瞬の間、秋冬の視力を奪った。
しかし、すぐに慣れると、秋冬はカーテンの隣に置いてあるクローゼットを開けた。
中には、背中の部分が大きく開いたワンピースと、半ズボンが入っていた。
秋冬は手早く半ズボンを手に取って履く。次にワンピースを取り出して、ワンピースの下から頭を突っ込む。
ワンピースといっても、秋冬は女性ではないし、女装趣味があるわけでもない。立派な男性である。
それでも彼がわざわざワンピースを着るのは、他の服では背中の翼が邪魔して着ることができないからだ。
クローゼットの横にある勉強机の上に置いてある手鏡を手に取り、身だしなみを確認する。
わざわざ自室でしなくても、洗面所などで行えばいいという人もいるだろう。しかし、秋冬の場合はそれを行うわけにはいかない事情があるのだ。
髪に乱れている部分がないのを確認してから、秋冬は自室のドアを開けた。
ふわり、と自身の身体を廊下に進ませる。秋冬は、視線を左に向ける。
左の部屋……秋冬の姉の自室である、その部屋は、ドアが開け放たれたままだった。
「また開けっ放し……ちゃんと閉めないといけないのに。……美味しそうな良い匂い」
春の陽気の暖かさを残した空気が、秋冬の身体をすり抜け、自室の部屋になだれ込んでくる。
それと一緒に、漂ってくる食欲を誘う魚の焼ける匂いと、味噌汁の匂い。
秋冬は後ろ手に自室のドアを閉めた。引き寄せられるように、階段を下りてリビングに向かった。
593 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:18:08 ID:9JpUSvJ8
「おはよう、シュウ。もう出来るから、早く席に座りなさい」
リビングに入った秋冬を出迎えてくれたのは、秋冬にとっての最愛の姉であり、家族でもある、春夏玉恵(しゅんか、たまえ)だった。
玉枝は、制服の上にエプロンを身に付けて、忙しそうに朝食の用意をしていた。
「うん、おはよう、お姉ちゃん」
無闇に話しかけて邪魔するのもよくない。そう思った秋冬は、挨拶だけ返して、さっさと椅子に腰を下ろした。といっても、高度を下げただけだが。
秋冬は、羽根がテーブルに入らないように、慎重に翼を折りたたんで小さくする。
その気になれば見た目では分からないくらいに、小さくすることもできるが、それをすると翌日筋肉痛になるので、多用はしない。
手持ち無沙汰になった秋冬は、魚をコンロの網から出している玉恵を見つめた。
秋冬の姉、春夏玉恵。歳は秋冬より一つ年上の18歳で、高校三年生。
背中に広がる豊かな黒髪が、蛍光灯の光に反射してきらめいていた。姉の美しい黒髪を眺めるのが、秋冬の毎朝の楽しみだ。
けれども、姉の美しさがそれだけでないことを、秋冬は知っていた。
テレビで見る美少女タレントも霞んで見える程に、玉枝は美しかったのだ。
目の形、眼球の黒目の大きさ、眉毛の濃さと位置、鼻の形と高さ、顎のライン、数えられないくらいの人体の細かいパーツ。
姉は、熟練の職人が、それら一つ一つのパーツを、人がもっとも美しく見えるように取り付けられたかのように、美しかった。
もちろん、それだけではないことも、秋冬は知っている。
姉に強制されて、一緒にお風呂に入ったときの出来事を思い出す。
髪を団子のように頭にまとめていたために見えた、細い首筋。
メロンのように大きい乳房に反して、小さく映る桃色の乳首。ただ大きいだけの乳房ではなく、ギリシアの彫刻のようにバランスが整っていた。
きゅっと締まった横腹に、大きく張り出した二つの桃尻。健康的に引き締まった太ももと、すらっと伸びた両足がそれらを支える。
神が丹精を込めて練り上げたかのように、きめ細かい柔肌。白金のようにきらめく白肌。
家族として長年一緒に暮らしていた秋冬でも、思わず見とれてしまうくらいだった。
さらには、全国でも上位に入る知能、日本記録にもレコードしてしまう身体能力、それらを鼻にかけずに、笑い飛ばす愛嬌。
だからだろう、いや、当然といってもいい。姉は非常に同姓からも異性から好かれているのだ。
けれども、どうしてか彼氏を作ろうとしない。秋冬にとって、どうしてもそこが分からなかった。
そういえば、姉はどうしてか妙に過保護なところがある。
秋冬は昨日、下駄箱に入っていた手紙を思い出した。
中身は、姉と仲を取り持って欲しいという内容だったらしい。
らしいというのは、それを目ざとく見つけた姉に取り上げられてしまったからだ。
『シュウちゃん、その手紙、悪戯かもしれないから、私が確認するわ』
妙に片言で話す姉に首を傾げながらも、最初は断った。
内容がどうかという理由ではなく、自分の下駄箱に入っていた手紙を、無闇やたらに他人に見せるのは、出した相手に失礼だと思ったからだ。
それとなく渡せない趣旨を姉に伝えると、姉はさらに笑みを深めて、言った。
『渡せないの、渡せないのね、そうなの、そうなんだ、そういうこと、私よりもその手紙の相手が大事なんだ、大切なんだ、
うん、そうだよね、シュウちゃんも年頃よね、そういう手紙が来てもおかしくないよね、というかとうとう来たかってことだよね、
私が守ってきた宝物を奪い取る雌豚が、私の太陽を奪う泥棒猫が、ところかまわず発情している売女が、
大切に、大切に、大切に、大切に守ってきたシュウちゃんに目を付けてきたんだね、シュウちゃん優しいよね、
そんな汚らわしいメス豚にもちゃんと返事しようとするものね、そんなシュウちゃんが大好きだよ、
でもね、あいつらに話し合いなんて無駄だと思うな、きっと有無を言わさず押し倒されちゃうと思うの、
そうならないように私が話を付けておいたほうが良いと思う、大丈夫、私が全部話をまとめておくから、
もう二度とシュウちゃんにこんな手紙が来ることないから、だから安心して私に渡して』
優しく、朗らかに微笑んでいるいつもの姉の姿ではなかった。
ドロドロに濁った瞳を手紙に向けて、姉はゆっくり手を差し伸べてくる。
秋冬は逆らうことなく、手紙を姉に渡した。
いったい何が言いたいのか、さっぱり分からなかったが、とりあえずこの手紙は渡しておいた方がいい。そう思ったのだ。
594 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:20:06 ID:9JpUSvJ8
「どうしたの、シュウちゃん? もうご飯できたよ、早く食べよう」
突然自分の名前を呼ばれて、秋冬は我に返った。
目の前に、自分を心配げに見つめている姉の姿。記憶の姉とは全然違う。
あの後、姉は満面の笑顔でその手紙を読むと、心から安心した顔を見せて、手紙を破いて捨ててしまった。
秋冬は唖然としてその思いの成れの果てを見ていると、姉は再び笑顔を見せて手を繋いできた。
その手は陶磁器のように滑らかで、小さくて柔らかくて、暖かい手だった。
けれども秋冬にとっては、何故かその手は茨のように絡みつき、獣のように縛り付ける悪魔の手のように感じた。
そのときの秋冬にとって、なにが良かったのか皆目検討も付かないが、姉の怒りの琴線に触れずに済んだことだけは分かった。
「今日は鮭なんだよ。昨日、とっても生きの良いやつ買えたんだ。」
「へえ、とっても美味しそうだね。お姉ちゃん、ご飯頂戴」
「あわてなくたって大丈夫、ご飯は逃げたりしないから」
姉は口元に手を当てて笑った。秋冬も、思わず笑ってしまった。
姉は椅子から立ち上がり、炊飯器を開けてご飯を茶碗に盛り始めた。秋冬の分と、姉の分が盛り付けられていく。
二人分を炊飯器から移し終わると、姉は肘で炊飯器の蓋を閉じた。
片方を手元に、片方を秋冬に差し出してくる。
「はい、召し上がれ」
そのときの出来事はあまり思い出せない。元来忘れっぽい秋冬にとって、嫌なことはすぐに忘れてしまうからだ。
もしかしたら、忘れようとして忘れたのかもしれないが、今となっては何も分からない。
「よく噛んで食べてね……色々身体に良いものも入れているから……」
けれどもどんな姉でも、秋冬にとっては、大好きな姉だった。きっと、これからもずっと。
595 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:21:40 ID:9JpUSvJ8
いつも通り電車を乗り継ぎ、二人は学校に向かっていた。
秋冬は時々翼を羽ばたいて空中を漂い、その横を玉恵がピッタリと寄り添って歩く。
周りには人影はなく、ゆったりと静かな時間が流れる。その時間、とても穏やかに流れるこの一時。
秋冬はこの時間が大好きだった。誰にも邪魔されることなく、誰にも見下された視線が向けられない、この一瞬が。
チラリと、秋冬は横を歩いている玉恵に視線を向ける。秋冬の身長は140cm程度、玉恵の身長は167cm程度と、身長差が大きい。
けれども、秋冬は玉恵に合わせて浮遊する高さを決めているため、彼女と目線の高さは同じだ。
「どうかした?」
偶然にも、タイミング悪く玉恵と視線が合った。その瞳は嬉しさに溢れ、光り輝いているように見えた。
「なんでもない」
それだけを言うと、玉恵は、そう……、と寂しそうに言葉を飲み込んだ。
秋冬は困ってしまった。ここまで落ち込むとは思っていなかったからだ。
しかたなく、秋冬は左手を玉恵差し出した。大抵、姉が落ち込んだとき、これをすれば機嫌が良くなることを、今までの付き合いで知っているから。
案の定、玉恵は先ほどまで寂しそうにしていたのに、こちらまで笑顔が出てしまうくらいの晴々とした笑顔を見せて、秋冬の左手を右手で掴んだ。
いわゆる握手というやつだ。
秋冬にとって、握手というものがそんなに嬉しく感じるものなのか、よく分からない。
(僕はこれでも17歳なんだよ……けっこう恥ずかしいんだから)
しかし、姉である玉恵がとても嬉しそうにするので、求められれば断りづらいのが弟の性。
今でも他人から見られない所でならば、なるべく自分から手を繋ごうと心がけている。
横を歩く玉恵に視線を向けることなく、握られた左手に軽く力を込める。
すると玉恵の方からも握り返され、指と指の間に僅かに出来ていた隙間がピッタリと塞がった。
結局、秋冬にとっても、大好きな姉と手を繋ぐのは嫌いな訳ではないのだ。
596 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:24:29 ID:9JpUSvJ8
けれども、穏やかな一時というものは、案外あっさり終わりを告げるものだ。
それは、秋冬と玉恵の二人にも例外ではなかった。
「やあ、偶然だね、玉恵ちゃん」
突如、前の電柱の陰から男が歩み出た。秋冬と同じデザインで、それより大分大きなサイズの、学校指定の制服を着た男だ。
男はうっすら眼鏡を光らせ、悠然と秋冬と玉恵に視線を向ける……というより、玉恵に視線を向ける。
可愛らしい眼鏡に整った顔立ち。優しそうで温和な顔立ちをしている男だった。
眼鏡の位置を直し、悠然と秋冬と玉恵の進行方向に立塞がると、男は二人に近づいてきた。
「こんなところで会えるなんて奇遇だな……良かったら、一緒に学校に行かないかい? 一人で学校に行くのも寂しいと思っていたんだ」
歯をキラリと光らせ、男は朗らかに笑った。夢見がちな少女なら一発で恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。
それに対して、玉恵はにっこり笑って返事をした。
「ストーカーは、黙って寂しく学校に行きなさい」
全てが凍りついた。
玉恵のあまりの言葉に、秋冬は驚いて姉を見た。同性の秋冬から見ても、目の前の男は美人であり、頭も良さそうだったからだ。
もしかして、自分がいるからなのだろうか。秋冬はふとそう考えた。長年、弟として過ごした秋冬は、だいたい玉恵の考えを読めるのだ。
秋冬の知っている玉恵は、とても家族思いで、とても心優しい性格の女性だ。
しばしば、姉は自分のことより弟である秋冬のことを優先し、損をしてしまうことがあるくらいだ。
そんなことを考えている内に、男はすぐに復活して引きつった笑顔でさらに続けた。
「は…ははは……や、やだな……玉恵ちゃん、何もそこまで嫌がらなくても……」
「嫌なものは嫌と申しただけです。あと、気安く名前を呼ばないでください。虫唾が走ります」
秋冬は、みるみる引きつっていく男と、にこやかに笑顔を見せて毒舌を吐く姉を交互に見つめる。
男の話しぶりからして、姉とは随分親しそうだけど、秋冬の記憶には無い、知らない男性だった。
秋冬は、疑問の眼差しで玉恵を見つめた。
その視線に、玉恵は溢れんばかりの笑顔で答えた。
「紹介するね。シュウちゃんの目の前にいるストーカー男の名前は、木森正一(きもりしょういち)。クラスメイトなのよ……それじゃ、行きましょう」
そう言うと、玉恵は秋冬を引っ張って先に急いだ。その横を木森が、若干引きつりながらも、さわやかな笑みを浮かべて付いてくる。
「今日の晩御飯どうしようか、シュウちゃん? また大好きなハンバーグにしようか?」
木森の存在に気づいていないかのように、秋冬の方を向いて話し続ける玉恵。
玉恵を挟み、秋冬から一番遠い場所にいる木森は、玉恵に話しかける。
「それにしても今日は良い天気だね……こんな日はのんびりショッピングでも楽しみたいよね?」
木森も、秋冬の存在に気づいていないかのように玉恵に視線を向ける。
秋冬は背中に冷や汗を掻いて、事の成り行きを見ていた。
「そういえば、シュウちゃん髪伸びたね。また私が切ってあげようか?」
サラリと、ごく自然に玉恵は秋冬の髪を掬った。あまりに突然の行動に、秋冬は首を竦めて嫌がった。
「あはは、ごめん。シュウちゃんの髪があんまり綺麗だったから、触ってみたくてつい……」
姉である玉恵の髪のほうが、100倍美しい髪だ。
秋冬は反射的に言い返してしまいそうになったが、止めた。言ったらややこしい事態になりそうな気がしたからだ。
「ところで、先日コンサートのチケットが手に入ったんだけど、どうかな? 一緒に行かないかい?」
木森は制服のポケットから二枚のチケットを取り出して、玉恵に見せようとしたが、玉恵は全くチケットに視線を向けなかった。
597 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:25:24 ID:9JpUSvJ8
「なんなら私の髪も触る、シュウちゃん」
「あの人の生ライブのチケット手に入れるの、苦労したんだ~。玉恵ちゃん、一緒に行こうよ?」
あまりに気持ちのいい無視。姉はもしかしてスルー検定1級の資格を持っているのだろうか?
秋冬はそんなバカみたいなことを思い、おずおずと木森に視線を向け、次に姉に視線を向けた。
「……ね、ねえ、お姉ちゃん……木森さんが……」
耐え切れなくなった秋冬が、ついに木森の存在を玉恵に教えた。
「…………………………」
しかし、玉恵は無言の笑みを浮かべて秋冬の言葉を聞かなかったことにした。
どうしたものか。
秋冬は本気で途方にくれた。
「……君、弟の秋冬君だよね?」
秋冬が頭を悩ませているときに、突如、木森は秋冬に話しかけてきた。
このとき、初めて玉恵は木森に不審そうな眼差しを向けた。
「はい……そうですけど」
「君、高校生だよね?」
秋冬はパチクリ目を瞬かせた。顎を下げて、今の自分の服装を確認する。
視界にワンピースが映った。翼がジャマで学校指定の制服は別種である秋冬は着ることができないので、いつもこの格好。
でも、だからといって高校生かどうか尋ねるだろうか? 尋ねるとしたら、男性か女性か、というくらいだろう。
秋冬は木森の質問に内心首を傾げながらも、頷いて答えた。
「高校生にもなって姉にいつまでもベッタリ甘えるのはよくないと思うよ。見ていて気色悪いし、気持ち悪い」
木森はそう言い放つと、秋冬へ嘲笑を向けた。そこには悪意が込められていた。
秋冬はこのとき、自分の心臓が一際高く鼓動を上げたことを、はっきりと感じた。
「玉恵ちゃんもいい迷惑だよ。こんな手のかかる弟がいるんじゃ、いつまで経っても自分の時間が持てないからね」
「――っ!! 何言っているの!」
玉恵は木森へ怒鳴った。だが、木森は全て分かっている、そんな表情で玉恵を制止した。
「玉恵ちゃんは黙っていて、僕は弟君に言っているんだ。秋冬君、君はもう高校生だ、そうだろ?」
再度の問いかけに、秋冬は俯いた。かまわず、木森は話を続ける。
「もういい加減、玉恵ちゃんを解放したらどうだい? いつまでもおんぶに抱っこじゃ、玉恵ちゃんも内心辛いと思っていると思うよ」
秋冬は弾かれたように顔を上げて、玉恵を見た。
玉恵は見ているこっちが不安になるくらい、必死に首と手を横に振っていた。
けれども、秋冬にはそれが自分を思って嘘を付いているように見えた。
598 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:26:33 ID:9JpUSvJ8
そうだ、そうだよ。
秋冬は再び俯き、考え始めた。
お姉ちゃんって美人だし、スタイル良いし、性格も申し分なしだ。
そんな自慢の姉が、いつまでも特定の恋人も作らず、ボーイフレンドすら作らないのは何故?
家事全般を引き受け、いつも、いつも僕の身の回りの世話をしているのは何のため?
答えは簡単。
僕が姉に甘えているからだ。
「僕の……僕が……」
言葉が出なかった。
ぐるぐると今までの姉との生活が頭の中を回り、姉に対する申し訳なさで目の前が真っ暗になる。
「いつまでも甘えるのはよくぶぎぇ」
だからだろう。途中で不自然に終わった木森の口上に、俯いていた秋冬は気づかなかった。
「さっきから黙って聞いていれば、気森君、シュウちゃんに随分言いたい放題じゃない」
せめて姉の口から聞きたい。ふと、秋冬の脳裏にその考えが過ぎった。
「その減らず口でどれだけシュウちゃんを苦しめたか分かっている? ……こら、何しているの、最後の歯が蹴れないじゃない」
姉がとても自分を大切に思ってくれているのは知っている。けれども、それ以上に秋冬が姉を思っているのも事実。
「静かにしなさい……後、ちょっと……これをこうして、あれをこうして」
ならば、どう思っているのか姉に聞こう。秋冬はその考えに思い至った。
「最後に何か言い残しておくことある? 多分もう会うこともないから、遺言くらいは聞いておくわ」
「た……たふ……た」
「時間切れ、バイバイ」
結果、秋冬自身がどれだけ傷つこうとも、姉が自分から解放されるならそれでいい。もし、姉が喜んでやってくれいるのなら、もう少しこの生活を楽しみたい。
秋冬の気持ちは固まった。
姉に自分の気持ちを伝えようと、秋冬は顔を上げた。
「ちゅ~」
同時に、玉恵が秋冬の唇を、自らの唇で塞いだ。
秋冬は、時間が止まった世界を体感した。
一秒…三秒…五秒……。秋冬は目を見開いて玉恵から離れた。
「お、お姉ちゃん!?」
「えへへ、シュウちゃんの唇、美味しゅうございました」
向日葵のような朗らかな笑顔を見せる玉恵。秋冬は木森の姿を探して、辺りを見回した。
599 秋冬to玉恵 sage 2008/08/01(金) 23:27:24 ID:9JpUSvJ8
玉恵は秋冬の手を掴んで、引っ張った。
「木森なら、もう帰っちゃったわよ」
「え、そうなの?」
秋冬は促されるまま、玉恵に手を引っ張られた。学校への方向へ。
「なんか急にお腹痛くなったんだって。シュウちゃんが俯いているとき、走ってどっか行っちゃった」
「そうなんだ……」
「シュウちゃん、考え込むと周りが見えなくなるものね」
秋冬は恥ずかしくなった。
わずか十数秒という時間ではあるが、確かに玉恵の言うとおり、秋冬にはそんな癖がある。
ところ構わず、一度考え込むと周りが全く目に入らなくなるという、なかなかに危険な癖が。
今までそれで何度か危険な目に合ったらしい。らしいというのも、全て姉が未然に防いでくれていたらしいのだ。
「……ねえ、お姉ちゃん…」
今回は姉に迷惑をかけずに済んだので、ホッとした秋冬は、姉に話を切り出す。
「ん、なに?」
玉恵は、そんな秋冬に全く気づいていないかのように、嬉しそうな笑顔を見せた。
その笑顔を見て、秋冬は次に言う言葉が言い出せなかった。
「……なんでもない」
せめて今だけは、今だけは幼子のように甘えよう。
たとえそれが姉の負担になると分かっていても、秋冬にはその選択しか選べなかった。
姉の手から離れ、秋冬は正面からそっと抱きつく。秋冬の顔が制服の胸元に埋もれて隠れる。
制服の上でもはっきりわかるくらい大きい乳房を持つ玉恵だからこそできる行為だ。玉恵も慣れたように優しく背中に手を回して、背中を擦る。
いつか、姉に恋人ができるその日まで、今だけは、幼子のように甘えたい。
秋冬は、姉の温もりを感じることに意識を集中させた。
だから、秋冬は気づけなかった。
秋冬を抱きしめた玉恵の表情は、言葉に出来ないくらい凄絶なものだということに。
玉恵の体は小刻みに震え、体から薄っすらと独特の体臭を放ったことに。
それが女性の膣分泌液である、愛液の匂いであることに、秋冬は最後まで気づけなかった。
最終更新:2008年10月20日 01:16