859
フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:07:20 ID:FZzF/XYw
臨時休校は一週間続いた。
俊介は、その間ずっと村田のことを気に病んでいた。
舞は気にすることはないと言っていたが、いきなりあんなことがあった後に自殺なんて自分が無関係とは思えない。
もちろん、俊介が悪いことなどしていない、というのはわかる。あんなことをした村田の自業自得だ。
しかし、それをわかっていても後味が悪いことには変わりがないのだった。
ヴー、ヴー、と携帯が震えた。
俊介はバイブレーターが完全に振動を終える前にメールを開く。
「……なるほどな」
文面には、俊介君は知りあいでもない犯罪者が死んだらいちいちそれに胸を痛めるの? と書かれている。
村田は知り合いと言うよりも担任だったが、相手の言いたいことは
なんとなくわかる。
いくら俊介が真面目とはいえ、そこまで気にすることはさすがになかった。
俊介は顔をほころばせて呟いた。
「気にしすぎなのかもしれないな……忘れることはできないけど、前を向かなくちゃ」
ありがとう、元気が出た。と返事を送り、メールを消してダイアルロックをかけてから、ベッドから立ち上がった。
俊介が部屋から出ていく。その数分後、俊介が風呂に入ったのを確認してから舞が俊介の部屋に入ってきた。
舞は部屋に入ると、当たり前のように俊介の携帯を取る。
開くと、ロックの文字が表示されていて舞には開けられなかった。
それでもいくつもの入力はしてみる。俊介の誕生日。名前。西暦。最初の暗証番号。
果ては、顔を赤くしながら自分の個人情報も入れてみた。
しかしやはりロックは解除されなくて、ベッドに携帯を叩きつけた。
「なんなの……いつもは忘れっぽいくせに、こんなことばかりちゃんとして……」
舞は親指の爪を噛んで唸った。がじがじと爪を噛むのは思い通りことが運ばない時にするくせだった。
仮に、ここで舞がロックを解除させていても、俊介はメール自体を消していたので、どちらにしても見ることはかなわなかったのだが、そんなことは知る由もない。
「あいつにまた手伝わせようかしら……でも、あの馬鹿がそんなにうまくやれるとは思わないし……」
いらいらとしているため、なかなか独り言が終わらない。
舞は気持ちを鎮めるために俊介のベッドに包まり、そこで考えることにした。
布団の中に兄の男の匂いが充満している。つんと鼻をくすぐるような甘美な香りが舞を抱いた。
「あれ? 舞、何してるんだ」
そこに俊介が戻ってきた。
舞は瞬間的に跳ね起きる。
860 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:08:04 ID:FZzF/XYw
「あ! え? お、お兄ちゃん?」
「何してるんだ。俺のベッドで寝転んで」
「あ、え、えっと、お兄ちゃんこそ、お風呂に入ったんじゃなかったの?」
「いや、風呂に入ろうとしたらシャツを忘れたから取りに来たんだけど」
俊介はいつも寝るとき、下はジャージで上はシャツの軽装だ。タオルに隠れて見えないが持っている着替えにシャツが入っていないのだろう。
俊介は持っていた着替えやタオルをベッドの横にある椅子の上に置き、舞の傍までやってくる。
「そうか……わかったぞ」
「な、なにが?」
「お前、もしかして……」
「な、なによ」
舞がどもりながら言ったのを聞くと、俊介はにやりと笑った。
舞は意味がわからなくて、俊介がベッドにどさりと腰をかけたとき、身を引いてしまう。
俊介はそれでもかまわず舞に手を伸ばした。
「寝られなくて、怖くなったんだろ?」
けれど俊介は舞の気持ちなど知る由もなく、頭をぐりぐりと撫でだした。
舞は一瞬ぽかんとして何を言われたのかわからなかったが、言葉を反芻させると見上げるようにして言った。
「そ、そんなわけないっ……こともないかもしれないけど、でもいや、そういうことじゃなくって……えっと……」
声はどんどん小さくなった。
反射的に、もう子供じゃないのよ、と口にしかけたが、怖くて思わず兄の部屋にきた、と思われた方が都合はいい。
しかしそこで、なんだか恥ずかしいような照れくさい気持ちも、同時に湧いてきた。
気持ちいいような安心な充足感に満たされ、動悸が速くなる。
舞は、顔を真っ赤にして明後日の方向を向くことで俊介の視線から逃げた。
「はは、可愛いところがあるじゃないか」
「そんなんじゃ、ないわよ……」
「うんうん。ま、たまにはいいよな。こういうのも」
俊介は舞が照れているのがわかって、いつもとは違うギャップを感じながら、今日は一緒に寝てあげることにした。
同じベッドに入り、電気を消す。
「兄ちゃん、明日の朝に風呂に入るから汗臭いかもしれない。そうだったら言ってくれよ。床で寝るからな」
俊介はそう言って、真っ暗になった部屋でゆっくりと目をつぶった。
舞は、こうして手を伸ばせば触れられるほどの距離にいるのに、自分の豊かな胸や太股に全く反応しないでいられることや、
もう高校生なのに子供扱いされるのが嫌ではあった。
けれど、俊介が布団の上からぎゅっと包んでくれるのは、ただ嬉しく、そんなことを考える余裕を簡単に奪っていった。
「ふん……」
かろうじて、いつもの気丈な態度だけは見せようと思い、顔赤くさせながらも舞はそう言った。
861 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:08:35 ID:FZzF/XYw
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学校が再び始まった初日。
臨時休校明けということもあってか、昼までには授業が終わった。
俊介は帰る準備をして生徒玄関に行こうとすると、そういえば村田の件で呼び出されていたことを思い出した。
朝にも校長と話したのだが、放課後もう一度来てくれと言われたためだった。
「容疑者、みたいだな」
不意にそんな言葉が口から出る。
昨日気にしないことを決めたつもりだったが、やはり先生たちからの視線は昨日決めたことを簡単に揺るがすようなものだった。
言うまでもなく、校長や先生たちが俊介を疑っているということはない。
しかし、だからと言って、俊介のことが無関係だと思っているような人間も一人もいないのだった。
「きゃあ」
「うわっ」
俊介が角を曲がろうとすると、考え事をしていたためか前方から来た女の子と勢いよくぶつかってしまった。
見れば、その子と一緒にバレーボールが三つ四つと散乱している。
ブルマーを履いて、体育の後のようにも思えた。が、上にバレーボール部のシャツを着ているのを見る限り、部の人間なのだろう。
「いたたたた」
女の子は尻餅をついて足で三角形を作っている。
「ごめん、考え事をしてたもんだから。大丈夫?」
「あ、はい大丈夫です」
差し出された手に女の子が捕まった。
俊介はどこかに怪我をしていないか確かめるため、女の子の体を見回す。
顔は童顔で大人しそうな印象の子だ。どことなく小枝子と同じような雰囲気がある。
けれど、背は俊介よりも少し低いものの、起伏はメリハリがはっきりしていた。
「あ、やっぱり、やり直しましょう」
女の子は俊介の顔を見ると唐突にそう言った。
「やり直すって、何を」
「もう一度戻ってから、角まできてくれませんか」
「え? ああ、まあ、いいけど」
「じゃあ、お願いします」
俊介は言われるままに歩いてきたところに戻って、角まで歩いた。
「きゃあ!」
すると今度は、女の子が走ってきて俊介とぶつかる。さらに大きい声を出して盛大にこけた。
いつの間にか拾われたバレーボールは天井にバウンドする。
ぼん、と言う音が出るほどで、跳ね返ったボールは女の子の上に雨のように降り注いだ。
「えっと……」
俊介は意味がわからなくて、助けていいのかどうか迷う。
苦笑いしながら、女の子を見ていると彼女が勢いよく立ちあがった。
「ちょっと、どこ見てんのよ! 痛いじゃない!」
「え? ご、ごめん」
862 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:09:19 ID:FZzF/XYw
どこ見てるも何も、と俊介は思ったが、さっきぶつかったことには変わりなかったのでとりあえずもう一度謝った。すると、
「違います。そこは、お前がぶつかってきたんじゃないか、です」
女の子がさっと近づいてきて耳打ちをして言った。
「え」
「そう言ってください」
「お、お前がぶつかってきたんじゃないか」
「何よ、あんたが前を見ていないのが悪いんでしょう!」
「ごめん、考え事をしていたんだ。怪我とか、大丈夫?」
俊介の言葉に、女の子はまた声を小さくして言った。
「違います。そこは、何言ってんだよ! お前が悪いに決まってんだろ、です」
「何言ってんだよ。お前が悪いに決まってんだろ」
「ぶつかってきておいてよくそんなことが言えるわね! ……あ! あんた! あたしのパンツ覗いてる!」
「え、見てない。見てない。大体ブルマーじゃないか」
これには俊介は顔を赤くして否定したが、女の子はその様子を見て顎に手を当てて、うんうん唸りだした。
そして、次にブルマーをつまんでパンツが見えるように生地をずらしたが、ちょっと! という俊介の声に制されてやめた。
「……やはり無理がありましたか。噛み合いませんね」
「もういい、かな?」
「はい。どうもありがとうございました」
ぺこりと勢いよく頭を下げる。
あげられた顔はさっきと同じなのに、出会った時とは印象が変わっていて、大人しさとは正反対になっていた。
でもそれは、一歩引いてしまうというのではなくて、親しみやすさが混じった柔らかいものだ。
「今のは?」
「いや、せっかく角でぶつかるというベタな展開になったので、これはお約束をしておかないとだめかなっと。先輩、怖い人じゃなさそうでしたし」
頭をかきながら言う姿はかなり様になっている。こういう茶目っ気はもしかしたら日常茶飯事なのかもしれない、と俊介は思った。
「私、菅野朋美っていいます。先輩は?」
朋美は、散らばったバレーボールを集めながら言った。
俊介も手伝いながら自己紹介し、最初にぶつかったときに怪我をしていないかどうかをもう一度確認した。
幸い、別に打ち身も外傷もなかったようで力瘤を作って、朋美はえへへと笑う。
「ボール、四つも一人で持ってるの?」
「ええ。ひどいと思いません?」
「……体育館までなら半分持つよ」
催促されたような気がしないでもなかったが、俊介にはそういうやり取りもなかなか新鮮で、笑って引き受けた。
二人で体育館まで歩く。
途中、校長室まで早く行かなければ、とも思ったが、どうせ同じことを聞かれるぐらいならばだれかの役に立っている方が建設的だと思って、後回しにした。
863 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:09:59 ID:FZzF/XYw
「先輩は三年生の人ですか」
「いや、二年だよ。二年二組」
「へー、それにしては雰囲気が大人っぽいですね」
「そうかな? ちょっと童顔とかいわれるけど」
「顔は別に関係ありませんよ。私のクラスにも、一年生で大人っぽい人いますし」
「へえ。菅野さんは何組なの」
「先輩と同じく二組ですが……菅野さんって言うのはやめてくださいよ」
「あ、ああ、ごめん。じゃあ……菅野、でいいかな」
俊介がそう言うと、朋美は上を見ながら口に人差し指を当てる。ちらりと視線をやると、その顔が悪戯小僧のようなった。
「私としては、朋美か、朋ちゃんか、……ハニーがいいですね」
「じゃあ、朋美ちゃんで」
俊介も多少は朋美のことがわかってきたのか、冗談には即答することで返した。
朋美が笑って、ちぇー、と口を尖らせる。
「でも……二組ってことは妹と一緒のクラスだね」
一年生ということで、もしかしたらと思ったが舞は二組なのでクラスメイトで間違いない。
舞からクラスの話が出ることはないが、朋美ほど面白い子なら舞も知っているだろう。
「あ、もしかして、梶原さんのお兄さん?」
朋美の方もやはり舞のことは知っていたようで、妹、という言葉にはすぐに反応して返してきた。
「私がさっき言った大人っぽい子、っていうのも梶原さんのことですよ」
「舞が?」
「ええ。凛としていて、美人で、スタイルも抜群。完璧じゃないですか。胸もおっきいですし」
朋美はボールを胸の前に持ってきて言う。
巨乳を表しているのだろうが、そんなことをしなくても舞ほどではないが朋美も十分に大きいふくらみが見て取れた。
不意に小枝子を思い出す。
俊介と同じ上級生なのに、こうも下級生にスタイルで負けている彼女。
少なくともいい子の度合いで測るならば、三人の中で間違いなく一番なのに、不憫じゃないだろうか。
俊介は一瞬そんなことが頭に浮かんだが、別に体は関係ないだろ、何を低俗なことを考えているんだ、と慌てて首を振って否定した。
864 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:10:34 ID:FZzF/XYw
「それでは」
気づけばもう、体育館の前まで来ている。
中からは、ボールの弾む音や専用のシューズで床を擦る音が聞こえてきていた。
「あ、ちょっと待って」
俊介は朋美を呼び止めた。
「はい?」
ボールを渡してもらった朋美は、こぼさないように走って行こうとしていたのだが、呼ばれたことによって体勢を崩してしまう。
俊介はボールをもう一度受け取り、肩に手を置くことで彼女を支えた。
「よかったら妹の、舞の友達になってくれないか? 朋美ちゃんも知ってると思うけど、あいつ友達いないからさ。君みたいな楽しい子が友達になってくれると嬉しい」
そばから見れば、誤解を受けそうな態勢になっていることにも気付かず、俊介はそう言った。どこからか、うわ、という声が聞こえる。
朋美は、不思議なものでも見るようにじっとしていた。
俊介の言うとおり、舞には友達がいない。
中学校まではそうだったし、高校でも舞が誰かと一緒にいるところを見たことがないから、おそらく間違いないだろう。
中学では、いじめられそうになったことさえあった。
未遂に終わったのは、いじめられそうになったけれど仕返しをしたからで、
どんなことをしたのかは、俊介は知らないが、複数の家がなぜか破産して家々全員で夜逃げしたというのは聞いていた。
俊介が身を犠牲にしてでも助けようとする頃には、すべてが終わっていたが、舞がいじめられそうになった、というのは今でも彼の胸を締め付ける。
当然、そんなことがあったからか舞への妬みの視線はそれからぱったりとなくなった。
けれど、そのためクラスメイトは舞のことを敬遠するようになり、何かされることはなくなったが、代わりに舞の一人ぼっちを余計に決定づけることになったのだった。
「先輩、珍しい人ですね」
「そう、かな」
「ええ、普通いませんよ。先輩みたいな人」
「え? 俺おかしなこと言った?」
「……いえいえ」
朋美が手を振って苦笑する。
俊介は、彼女はもしかしたら舞が嫌いなのかもと思ったが、朋美は、持ったボールを全部落として、俊介の手を握った。
「わかりました。妹さんさえよければ、友達にならせてもらいますね」
だから、朋美がそう言ってくれたのに俊介は心から喜んで、どうかよろしく頼む、と頭まで下げた。
865 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:11:07 ID:FZzF/XYw
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舞は体育館裏に小枝子を呼び出していた。
手元には彼女の携帯が握られている。
「はい、もういいわよ」
小枝子は舞から携帯を返してもらうと、おずおずと鞄にしまう。
そんな様子を見て舞は一瞬何か言ってやろうとしたが、また泣き出されても困ると思ってやめた。
「あの……どうかしたんですか」
「何がよ」
「いえ、その……何か今日はいつもより機嫌が悪そうだなと思って……」
舞はそれを聞いて、へえ、と感心したが顔には出さなかった。
ただの大人しいだけで何のとりえもない女かと思ったが、どうやら臆病な分だけ他人の感情の変化には敏感らしい。
「昨日、せっかくいい気分で寝てたのに夜中にお兄ちゃんにメールが来て……ってあんたには関係ないわよ」
「す、すみません」
「それより、確認しておくけど、お兄ちゃんはただのメル友っていったのよね」
「はい。……それが何か?」
「……別に」
小枝子に確認すると舞は爪を噛んで考え出した。
やっぱり、こいつの言ってることは嘘じゃない……でも、だったら誰が?
舞が気にしているのは、一か月ほど前から現れた俊介のメール友達のことだった。
ある日、俊介がメールをしていたのを見て不審に思った舞は、さりげなく兄に誰とメールをしているのか聞いてみた。
けれど、兄は答えをはぐらかすばかりで答えず、舞が携帯を覗こうとするとさっと隠してきたのだ。
まあ今チェックすることもないかと思って、舞はその夜いつものように携帯を盗んで確認すると、携帯にはロックがかかっていて中を見ることができなくなっていた。
舞は最初、相手が小枝子だと思った。
このような小細工をするのは意外ではあったが、もしかしたら急に兄に何か良からぬことを考え始めたのではないかと思って、次の日にすぐに呼び出した。
メールで聞いてもよかったが、そんなことをするよりは会って脅して確認したほうが、よほど信憑性がある。
けれど、実際会って確認して、失禁させるほどに脅しても知らない知らないと言い張る様子を見て、小枝子ではないとわかった。
だが、舞が確認する限り俊介は、親しい女が小枝子以外いなかったし、他の女とも別にクラスメイトという枠を出て仲よくしている、というわけではないようだった。
もちろん、クラスメイトでもアドレスを交換することぐらいあるだろう。
しかし、そこまで仲が進んでいるならばクラスでもっと話をしているはずだ。
小枝子に確認させても、俊介は何か理由があるのか相手の名前を言わなかった。
「でも……あの」
小枝子がおずおずと身を小さくして言う。
「何よ」
「べ、別に女の人とは限らないんじゃないですか? 男友達かもしれないですよ」
「……あんた、将来結婚したら真っ先に浮気されるタイプね」
小枝子の言葉に舞は馬鹿にするようにして言った。
866 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:11:49 ID:FZzF/XYw
舞は、俊介のメールをしている相手は女だと確信している。
男ならば用もない限り連日にかけてメールをしないし、第一メールをしたとしても用件だけ伝えて終わってしまう。
何より、ロックをかけるように促した、というのが怪しいのだ。
しかも警戒しているのか、一度運よくメールのやり取りの途中で俊介が寝てしまった時に、携帯を取るとメール自体が消去されているのがわかった。
俊介はどこか抜けているところがあるため、もしやメールが残っているかもしれないと思って、
携帯を盗み見ることを舞はやめなかったが、やはりロックは、暗証番号が一週間おきに変えられたりして、どうしても外せないのだった。
「でも、その、例え女の人でもやましいことはないと思いますよ」
「そんなこと、わかってるわよ。そのためにあんたがいるんじゃない」
「……」
「これからもよろしく頼むわよ、お兄ちゃんの彼女さん」
言われずとも、舞とて、俊介に女ができたとは思っていない。
俊介には小枝子という立派な彼女がいるのだし、兄は浮気をするような人間ではないからだ。
そのような器用さなどあるならば舞のことに気付かないはずがない。
「そう言う意味では、日野小枝子っていう彼女がいて助かってるわ。あんたは変わり身としては最高だものね」
舞は、俊介に女が寄り付かせないようにするため、日野小枝子という彼女を用意している。
告白させ、友達からでいいから、という条件ではあるが、一緒にいさせているのだ。
ある意味浮気を防止するには最高の盾。
俊介のメール相手が誰だか知らないが、俊介自身に彼女がいるという意識がある以上、下手な進展はしないだろう。
舞はほくそ笑む。
「言っておくけど、彼女だからってお兄ちゃんに余計なことしたら許さないわよ」
そう言ったのを最後に、舞はもう話すことはないとその場を後にした。
小枝子も舞が歩いて行くのを見て、踵を返す。
そこで舞は、充分に離れたのを見計らって、頭だけ振り返った。
ちらりと小枝子の様子を窺うためだ。
小枝子は背中を向けて反対方向にとぼとぼと歩いて行く。
やたら全身が小さかった。
「……もっと、しゃきっとしなさいよ」
舞の呟きは風と一緒にかき消えた。
代わりに体育館の中のボールの弾む音が、はっきりと聞こえてきて少し嫌だった。
舞はなんだかその場に一人でいたくなくて、走り出す。
何を今更、と自分の心は言っていたが、拳を握り締めることはやめられなかった。
一人で浴びる風は走っているのに冷たい。
867 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:14:05 ID:FZzF/XYw
「きゃあ」
そのまま体育館前までくると、舞はボールを持った女の子にぶつかった。
目の前の人物は、尻餅をついて、ボールを散乱させている。
「あ、ごめんなさい」
舞は謝って、散らばったボールを集めた。すると、相手がいきなりくすくすと笑いだした。
「うわー、今日は梶原家に縁があるなあ」
「……どういう意味?」
「あ、ごめんごめん。怒らないで。別に馬鹿にしたわけじゃないよ」
舞が顔をしかめたのを見て女の子は慌ててとりなす。
「私、同じクラスの菅野朋美だけど、知ってるかな」
「……覚えてはいるわ」
「あっはっは。そっか。まあ、覚えていてくれるだけでも光栄だよ」
朋美は朗らかに笑った。
俊介と会った時より磊落なのは、朋美なりに俊介は上級生ということを考慮したからだったのだろう。
舞は、相手の性格に多少の不快感は抱きつつも、これはこの人の地なんだろうと思って気にしないことにした。
ボールを二つ渡す。
「あれ? もう一つは?」
「……体育館の中に持って行くんでしょう? それぐらいなら手伝うわよ」
「……へー、やっぱり兄妹だね」
朋美が嬉しそうに手を口元に当ててにやりとする。しかし、ボールを持っているのにそうしたため、また地面に落としてしまった。
「あなた、馬鹿?」
「えへへ、失敗失敗」
「それより、兄妹ってどういうこと?」
「ん? ああ、さっきそこで梶原さんのお兄さんに会ったから」
「兄に?」
「うん。同じようにボールを運んでもらってたんだ」
「……ふーん」
「お兄さんにさ、梶原さんと友達になってくれって言われちゃったよ」
「……そう」
舞が苦笑する。
「本当は、ちょっと難しいかなって思ってたんだけど、うん、この分だと大丈夫そうだね。私と友達になってくれないかな?」
朋美はそう言って、舞の肩に自分の肩をくっつけた。
「……いいけど」
「じゃあ、後でアドレス教えてよ。早速今日メールするからさ」
メール。
朋美がそう言った瞬間、舞は、ぴくりと体を震わせた。
立ち止まって、ゆっくりと朋美を見る。
そして、にこやかに笑って言った。
「そうね。お願いするわ」
さっきとは違った態度で、今度は自分から朋美に体を寄せる。
朋美は、柔らかーい、と言って喜んだ。
舞の顔は、余所行きとしては最高の笑顔だった。
朋美はそれを見て、猫のように笑う。
反対に、舞は猫のように目を細めた。
868 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:14:43 ID:FZzF/XYw
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夕飯が終わった。
俊介は、御馳走様、といって使った食器を流し台に置くと、自室に行こうかどうか迷った末、リビングにいることにした。
舞は兄と同じようにご飯を食べ終えるが、流し台にはまだ食器は持っていかず、そのまま俊介を見て言った。
「菅野朋美に私の友達になってくれって頼んだんだって?」
俊介は舞の言葉を聞いて、ばつが悪そうに頬をかく。
さらに話を和らげるためにテレビをつけた。
「あー、……うん」
歯切れが悪そうに俊介が答える。
背中を向けているため、舞の表情はわからない。
「余計なことしないでよね」
「余計なことってお前……友達は大事なものだぞ?」
「頼まれてできる友達なんか、私はどうかと思うわ」
舞の言うことも一理ある。が、やはり舞には友達をたくさん持ってほしいと思ったので、その言葉には賛同せず、あいまいに濁した。
頼まれてできる友達でも、一人もいないよりはいいと、俊介は思うのだ。
「ま、心配してくれるのは嬉しいけどね」
「え?」
「何でもないわ」
俊介が振り返ると、丁度舞が流し台に食器を持っていく姿が見えた。
そのまま洗い物を始めるのかと思ったが、俊介のところまで戻ってくる。
これ幸い、とばかりに俊介は言葉を重ねた。
「で、その話が出るってことは朋美ちゃんに会ったんだな?」
「朋美ちゃん?」
舞が訝しがるように眉を歪ませる。
「菅野朋美ちゃんだろ?」
「そうだけど。何でそんなになれなれしいのよ」
「あ、いや。朋美ちゃんがそう言えって言ったから」
「……ふーん」
869 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:15:18 ID:FZzF/XYw
舞の細められた視線から逃げるように、俊介は再びテレビの方に向く。
画面では、バラエティ番組で芸人たちが奇抜なことをやっては周囲の笑いを誘っていたけれど、リビングにその声が感化されることはなかった。
舞がまだ終わりでないと声を紡ぐ。
「言われたからっていきなりなれなれしくするなんて、私なら引いちゃうわ」
「そ、……そうか?」
「もし、年上の先輩だから悪い印象を抱かれないようにしようと思って言ってきただけだったらどうするの?」
「……そうなのかな?」
「そうよ」
舞が言うことは、俊介にはあまり理解できなかったが女の子の気持ちは男の自分よりも、
舞の方が遥かに熟知しているだろうと思い、何も言わなかった。
「ま、それはいいとして……友達にはなったのか」
「……ま、アドレスは交換したわ」
「お、そっかそっか」
それを聞いて、嬉しそうに頷く俊介。
舞も笑って言った。
「お兄ちゃんのアドレスと交換したんだけどね」
俊介が思わず立ち上がる。
「ええ?! なんで!」
「私の携帯どこかにいっちゃったから」
「ど、どこかにいった……? 無くしたのか?」
「そういってるじゃない」
髪をいじりながら舞は俊介の前まで移動する。
そして、手を差し出して微笑んだ。
「だからお兄ちゃん、携帯貸してくれない?」
「いいけど……どうしてだ?」
「菅野さんにメール送らなきゃならないのよ。友達になったんだから当然でしょう?」
しかし俊介は、舞の差し出した手を見ずに、彼女の顔を見た。
真剣な顔になって、テレビを後ろ手で消す。
急に、外の道路を走る車の音が室内にまで響いた。
「……本当になくしたのか?」
「え?」
「携帯だよ。なんか、嫌がらせされたとかじゃないよな。もしそうだったら」
「あー、大丈夫、そんなんじゃないから」
870 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:15:56 ID:FZzF/XYw
手を振って遮ると、舞は俊介のズボンに手を入れた。
強引に携帯を引き抜く。
俊介はふー、と溜息をついた後、どうしてポケットにあるとわかったんだと何気なく聞いた。
すると、僅かに目を見開いた舞は慌てながら、
「男ってそういうもんでしょ」
と言った。
舞が携帯を開く。付けられたパンダのキーホルダーがかちゃりと揺れた。
これは舞の携帯にもつけられているもので、家の鍵に着いてあるものと同じ簡易のぬいぐるみだ。
俊介は、ちょっと恥ずかしいな、なんて言っているのだが、舞はその都度そんなことをいちいち気にする方が恥ずかしいと反撃している。
「あれ、お兄ちゃん。ロックがかかってるわよ」
「あ、そうだった。えっと……一、六を四回繰り返して、その後で九だ」
「……長いわね」
「俺もそう思うんだけどな」
溜息をついた俊介は、自室で本でも読もうとその場を立ち上がる。
携帯は後で部屋に持ってきてくれ、と言い残すとリビングから出て行った。
舞は自分ひとりなると、自分の携帯をポケットから取り出して、さっき俊介が言った暗証番号をメモした。
九桁というあまりの長さに舌打ちしながら、これは時間がかかるかもしれないと爪を噛んだ。
洗い物をする気には中々なれず、しぶしぶ俊介の携帯から朋美にメールを送った。
871 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:17:37 ID:FZzF/XYw
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そうして一週間がたった。
舞は最近、イライラしながら日々を過ごしているため、あまりのストレスに親指の爪が変形してしまっていた。
軽度のものだが、それでも人差し指の腹で爪の歪んだ形を触る癖まで付いてしまって、それが一層不快感を増加させた。
朋美とはあれから毎朝一緒に学校へ通うようになっている。
驚いたことに朋美とは家がごく近所で、俊介との通学中に出会い、それから一週間ずっと一緒に学校に行っているのだった。
きっかけは朋美の、これからは一緒に学校行こうか、という発言だった。
舞は断りたくても断れない理由があるため、必然的に俊介も一緒になるのはわかっていたが、渋々頷く他なかった。
朋美は当然、俊介ともどんどん仲良くなる。
一昨日などは、携帯を俊介に借りたとき、その後朋美と俊介がメールをしていたことがわかって、
あまりのイライラに自分のベッドの枕をズタズタに引き裂いてしまったほどだった。
「お兄ちゃん、今日も携帯貸してほしいんだけど」
「ん」
この一週間、舞は毎日朋美にメールしているため、俊介は慣れたように携帯を渡した。
リビングには、テレビの音声が適量で流されている。
しかし俊介は夕食の後だということもあり、いささか眠気もあるようだった。時々船をこいでは、クッションに頭を押し付けている。
「暗証番号は同じ?」
舞が電話の横にあるメモ帳の前で、問いかけた。
俊介は頷こうとして、けれど首を捻って答えた。
「いや……今日はちょっと違うんだ」
舞はその言葉を聞いて、心の中で拳を握る。
「そう。それじゃ番号は?」
「えっと……二、七……」
口にしだした数字を、舞は俊介からは見えないように体で隠してメモした。
しかし、二、七、の後で急に言いよどんだ俊介は、手のひらに何か指で書いて確認している。
舞はすぐに俊介の指の動きを見ようと近づくが、それではメモができなくなってしまうので、必死で目をこらした。
そんな舞に、眠気もあったのか俊介がぽつりと漏らす。
「いきしちに、だから……二、七を三回繰り返した後に」
「…………もう一度だけ、二、ね?」
「おお、よくわかったな」
872 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:18:11 ID:FZzF/XYw
相槌に俊介はクッションから顔をあげてこたえる。
舞はそんな俊介を見つつも、素早くメモを千切ってポケットに入れた。
勘に決まってるじゃない、という言葉を付け加えて。
それから、舞は洗い物のことは後回しにして、足早に自室に行った。
部屋に入ると一目散に机に向かった。棚からノートを一冊取り出す。
白紙の所にまず、前の暗証番号を左から順番に書き込んだ。
その後、さっきのメモを取り出して、すぐ下に加える。
「先週は一、六を四回繰り返した後に九が一つ……今日は二、七を三回繰り返してから、二……」
見れば、まず桁数が違った。
前回は九桁で今回は七桁。これだけで何かわかることは至難の業だ。
「でも……やっぱりお兄ちゃんよね。九桁の時点で法則があることはわかってたのよ」
いきしちに、というのが最大のヒントになった。
舞はまず、その横の白紙のページに五十音をすべて書き込んだ。
それから、あいうえお、に一から五の数字をあてる。あ、が一に。い、が二になるということだ。
それと同じようにして、五十音すべてに数字を入れていく。
一から九。九の次は零、零の次は戻って一だ。
「や行とわ行は……三字でいいみたいね」
つまり、やいゆえよ、ではなく、やゆよ、と考える。
「なるほどね。……あかさたな、か。表にすれば一目瞭然だわ」
舞がすべての五十音に数字を入れた表を、あかさたな、の順に左から読んでいく。
すると、あ、が一に変換され、か、が六に変わった。
あ、の行と、い、の行を読む。
一、六、一、六、一、六、一、六、九。
二、七、二、七、二、七、二。
「やってくれるじゃない……これならや行で数字がずれて一定にはならないし、何より忘れても大丈夫だものね」
舞はノートを千切った。
これならば暗証番号が変えられようと、自動的に推し量ることができるだろう。
「さあ、チェックメイトよ」
唐突に、舞の肩がふるふると震えだす。
さらりと垂れた前髪が左右に揺れた。
舞は、スーッと今まで体にたまっていた何かがなくなっていくような感覚に包まれた。
とうとう我慢ができなくなって、リビングにいる俊介に聞こえてしまうかもしれないと思いつつも、笑った。
あまりに大きな声を出してしまいそうになったので、まだ中の羽毛が飛び出している枕をとっさに口に押し当てる。
ある程度、声が抑えられることを知った舞は、それからひとしきり笑った。
しばらくして携帯を取りに来た俊介に、俊介お兄ちゃん、と甘えた声で言ってしまうほどだった。
873 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage New! 2008/10/25(土) 19:18:48 ID:FZzF/XYw
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翌日。
俊介はいつもより少し遅く起床した。
時間を見ると、家を出るまでには充分に余裕はあるが、二紙も三紙も新聞を読むことは無理だった。
洗面所で顔を洗ってからリビングに行くと、扉を開いたとたんコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。
「早いな、おはよう」
「もう朝ごはんできてるわよ」
舞はかなり前からここにいたみたいだった。
量こそ朝だから少ないものの、白身魚のムニエルを中心に手の込んだ料理がテーブルに並んでいる。
すでにテレビも付けられていた。番組もニュースに固定されている。
「今日は何か……機嫌いいな」
「そう?」
「ああ、なんか柔らかい感じがする」
「ふーん」
やはり何年も同じように生活していると微細な変化でもわかってしまうものだった。
もっとも、俊介からいわせれば、舞は口ではなく行動で示すタイプだと思っているので今朝の料理など、わかりやすくはある。
「そろそろ行こうか。朋美ちゃんも、もうすぐ来るころだし」
朝食を食べ終え、ネクタイを直し締め終わると、携帯の時計を見て俊介は言った。
時間はまだある。が、朋美のことを考えると玄関までは出ておいた方がいいだろう。
しかし、舞は鞄から何かを探しながら俊介の言葉に平坦に返す。
「来ないわよ」
朝だからか、声がよく聞こえた。
「あの子、引っ越したから」
「え?」
「引っ越したの。家の都合で、急に。何回も言わせないで」
「……俺、何も聞いてないぞ」
「わざわざお兄ちゃんに言うわけないでしょ」
「いや、そりゃ……そうかもしれないけど……」
俊介は、舞の堂々とした口調に尻込みしてしまう。
そして、あ、あった、と言って舞が鞄から何かを出した。
見れば、無くなっていたはずの携帯電話だった。
「ほら、今日からまた二人で登校なんだから、しゃきっとしてよね」
舞が玄関を開け、まるで外の世界へ誘うように手を伸ばしてくる。
「あ、忘れてたわ」
俊介が靴を履いた時、舞は言った。
「おはよう、お兄ちゃん」
できるなら、今ここで笑いながら俊介に抱きついてしまいたかった。
最終更新:2008年10月26日 20:51