886 ねえたんファッション9 sage 2008/10/26(日) 23:33:33 ID:A3nu4gw2
「たまには畳でお茶にしましょうか」との未来の案で、政人は和室にぽつんと正座していた。
自宅でかしこまって正座する必要はないが、人間は危機に直面すると筋肉が緊張するもの。足を伸ばす気にならなかった。
政人は、家に上がった時点で重大な事を思い出していたのだ。
本日両親は帰りが遅い。夜になるまであの黒髪未来と二人きりである。
(恐ろしい…)
机を挟んで両側に置かれた二つの座布団の、どちらが上座か分からなかった政人だが、とりあえず奥の壁側に座っていた。
すぐ逃げられる襖側の席をあえてキープしなかったのは、これからお茶を運んで来る未来を一応気遣ったのだ。この方がお盆や湯飲みが置きやすいだろう。
未来を待つ間、政人はチラチラ部屋を見渡す。
普段はあまり住人が出入りしない和室なのに、今日は政人を待ち受けるかのようにセッティングされている。それが余計に怖い。
机の端には、硝子の小さな一輪挿しに野の花が飾られ、ナチュラルライフとかロハスとか、インテリア雑誌で見る単語が頭に浮かんだ。
この家で唯一生花をいじりそうな人間は政人の母だが、この一輪挿しは多分、未来が用意したんだろうなーと思う。
(何だ…未来ちゃんに一体何が起きてるんだ…)
887 ねえたんファッション10 sage 2008/10/26(日) 23:34:26 ID:A3nu4gw2
やがて、襖の向こうからしずしずと進むほのかな足音が聞こえて来た。
(来た!)政人はビシッと背筋を伸ばす。
人の気配は襖の前でぴたりと止まった。しかしその後、襖が開かれるアクションが起こらない。
怪訝に思って耳をすませると襖の向こうから「どうしよう…」「開けられない…」と困った様に呟く声がする。
ああ、と政人は思い至った。
重いお盆で両手が塞がっているから襖を開けられない、と。
こちらから開けてやろうと政人は立ち上がるが、「あ、置けばいいのか」と納得する未来の独り言と共にガチャガチャとお盆を床に降ろす音が聞こえた。
政人も慌てて腰を降ろす。
ガサガサ。
おそらく身だしなみを今一度整えている布擦れの音がした後、未来から声が掛けられた。
「政人、入るわよ」
まあるく空気を温めるような穏やかな声。「は、はい」と政人は上擦った声で返事をする。
スーッと音を立てずに襖が開かれ、膝を揃えて廊下に座る彼女の姿が露になる。
お、絵になるぞ。旅館の仲居さんみたいだ。
未来は傍らに置いていたお盆を持つと、少々ぎこちない動作で立ち上がった。
そろそろと鴨居を跨ぎ、滑りやすいソックスで畳に軽く踏ん張るように、擦り足で机へ寄って来る。
888 ねえたんファッション11 sage 2008/10/26(日) 23:35:14 ID:A3nu4gw2
(う…不慣れだな)
そういえば未来がお茶を淹れている所など見た事がない。
毎日ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいる(どピンクのニットワンピでソファーの上であぐらをかいて)か、
政人の母が出したお茶をいただきまーすと飲んでいる(チュニックとショートパンツの下着みたいな姿で)かだ。
―これは、無理だろう。
お盆の上の茶器を凝視しプルプル歩く姿はとても危なっかしい。
穿き慣れぬロングスカートがバサバサ足にまとい付く様を見た瞬間、政人は思わず腰を浮かせた。
未来はそれに気付き、強ばった顔のまま微かに唇を動かした。
「大丈夫…」そう囁いて政人を制する。
これは女の戦いだから男は手出し無用よ。――多分、そんな感じ。
男子な政人はおずおずと正座に戻るしかない。
カタタカチャチャ…
震えるお盆の上で器が細かく踊り、緊張の張り巡らされた和室に微かな音が響く。
二人はゴクリと喉を鳴らし、息を止めた。
じわじわと腰を下ろして行く未来。カチャリと、無事お盆は机に接地された。
政人も未来もどっと安堵の息をつく。
「待たせてごめんね」
襖を閉めて仕切り直す未来に、既にクタッと気疲れしてしまった政人は曖昧に頷いた。
889 ねえたんファッション12 sage 2008/10/26(日) 23:35:58 ID:A3nu4gw2
「どうしたの、正座なんかして。楽にしたら?」
「や、その…ねえたんあのっ」
「あら、お姉さんだってば。ふふ」
嗚呼。最早未来はねえたんではなくなってしまったのだろうか。
異次元に旅立った姉に一抹の寂しさを覚えつつ、政人はあぐらの形に足を崩した。
お姉さん・未来はしゃなりと正座するとお盆の上から必要な物を机に広げ出す。
空の急須と二つの湯飲み。そして、中に熱湯が入っているらしい鉉の付いた重そうな鉄瓶。可愛い千代紙柄の小さな茶筒。
動く度に彼女の小さな顔に真っ直ぐな髪がサラサラと落ちる。
その様子は、清楚で綺麗な筈。
けれど黒髪好きの政人はその光景に反応できなかった。
(うう~ん…)
非常に残念な事に、未来は壊滅的にこの装いが似合っていなかった。
浅草に観光に来た外人さんがはっぴを羽織っているようなコスプレ感。
顔に出すのは憚られるため、政人は胸の中でウヌヌと首を捻った。
ハーフっぽい華やかな顔立ちに重い髪色が浮いてしまい、切って貼った感が否めない。
こういう髪型の女性アーティストも居るが、淡いメイクと古風な服はその流行り方面から逆走している。
清楚黒髪にもお洒落黒髪にもなれていない…不思議な未来さん。
890 ねえたんファッション13 sage 2008/10/26(日) 23:36:43 ID:A3nu4gw2
さらにCカップ弱で極スレンダーなボディは、ゆったりしたブラウスを着ると体の凹凸がすっぽり隠れてしまう。
つまり、胸がペッタンコ。
(嫌ぁあ…!)
えもいえぬ喪失感に政人は嘆いた。
普段の未来の美貌は、静寂を切り裂いて走る暴走族のように派手で、ある種威圧的な所が有った。
それが、無理矢理更生させられたように大人しくこぢんまりとしてしまっている。
これは良いのか、悪いのか。
政人はモゴモゴと心配そうに未来を見守った。
しかし、しばらくもしない内、政人の表情は変わっていった。
未来の四本の指が揃えられ、鉄瓶の鉉にゆるりと絡まる。
手は鉄の黒に添えれば懍と眩しく、白玉のようだ。
もう片手の指先が鉉を持つ手の甲に置かれると、重く熱した瓶は静かに吊るし上げられた。
たったそれだけの所作に政人は目を奪われる。
綺麗だ。
あえか、と言うのかもしれない。
夫婦茶碗のような二つの湯呑みにまっさらな湯がトクトクと注がれ、柔らかに茶器の温度を暖める。
木製の茶匙が鶯色の葉を急須の茶漉しに落としてゆく。
手捌きは先程とは一変して危なげない。
ただ、動作の所々に緊張や固さが見られ、練習した動きを必死でなぞっているような初々しさがある。
891 ねえたんファッション14 sage 2008/10/26(日) 23:40:01 ID:A3nu4gw2
政人は自室に籠りっきりだった未来を思い出した。
(もしかして…部屋でお茶の練習してた?)
くらり。急須から上がる湯気に当てられたのか胸の奥が熱くなる。
何でこんな事をと未来に聞きたいが、聞いたら未来の努力が台無しになってしまう気がする。
未来は今この和室を舞台に、大和撫子のお姉さんを演じているのだ。
この髪も服も全て、たった一人の観客に見てもらうために用意して。
―これが本当の茶番劇。
いやいやそんな風に言ったら悪いので、ショーだと思う事にしよう。
赤い顔の政人は、頑張る姉を黙って見つめた。
日替わりで指先を飾るネイルチップを脱いだ裸の爪。
ブレスレットもお気に入りの指輪も無いただの手。
クリアマスカラの長い睫毛は雨垂れを受けたような艶を持ち、頬に細く影を落とす。
睫毛に触れたら柔らかそうだなんて妙な考えが唐突に浮かぶ、政人は慌てて未来の手元に目を反らした。
トポトポトポ…
しんと静まり帰った部屋の中、透き通る淡い翠がキラキラと湯呑みに注がれた。
最後の一雫まできっちり注ぎ込み、未来はホッと力を抜く。
「…っ!お疲れさま!」
万感の思いでパチパチと拍手する政人にピースで応えかけ、未来はハッと手を引っ込めた。
892 ねえたんファッション15 sage 2008/10/26(日) 23:40:59 ID:A3nu4gw2
「大袈裟ね」
そう言うが、ここまで大袈裟にお茶をする人間もそうそう居ない。
徐々に出て来たボロには突っ込まず、政人は勧められた湯呑みに手を伸ばした。
「いただきます」
一口含めばふくよかな香りと甘味が一杯に広がる。苦味やエグさは一切ない。
高級な茶葉?
いや、未来が丁寧に出してくれたお茶なら百円均一のティーバックでも絶対美味だ。
少なくとも自分はそう感じると、政人は思う。
「オイシイです」
「本当?」
「うん。すっごい美味しい」
素直に告げると、未来はふわっと満面の笑みになる。
(あ、いつものねえたんの顔)
その笑顔につられて浮かんだ疑問を、政人はついそのまま口にした。
「お姉さん、さ」
「うん?」
「明日からのモデルの仕事どうするの」
微かに、未来の笑顔が凍る。
ほんの一呼吸の間を置いた後、未来は目を反らして答えた。
「仕事は続けるわよ」
「でもその頭じゃ…」
「ヘアメイクをすればいいし、ウィッグがあるわ」
―あれ。
政人は頭の奥が冷えていった。手に持った湯呑みの熱もスウと消えていく。
微かに眉を寄せ、政人は未来の顔をしっかり見た。
「ギャル、辞めるの?」
黒髪の彼女から、完全に笑顔が消えた。
続く
最終更新:2008年11月02日 23:37