傷(その3)

925 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:11:29 ID:k/u7M/c0

「すごいのねえ冬馬くんって……。やっぱりモテモテなんだ」

 自室の学習机に座り、ノートパソコンの画面を見ながら、送られて来たデータに目を通す弥生。
 そこには、今日、弟に告白したという女子生徒の画像と、彼女の詳細な個人情報が記載されていた。
 そして、冬馬が、その告白を断ったという報告も。
「なかなか可愛い子に見えるけど……勿体無いことをするのね」
 口元の笑みを全く消さずに、心にもない事を姉は独り呟く。

 報告を寄越したのは、弟のクラスにいる情報提供者たち。
 弥生は、彼の周囲に数十人の“看視者”を配置し、リアルタイムで柊木冬馬に関する情報提供を受けていた。冬馬のクラスだけで、その数は6人。他の学年や教師も含めれば、彼を監視する者は、学校関係だけで20人以上を数える。
 報酬は、提供された情報の精度・重要度によって細かくランク分けされ、その都度、その“看視者”個人の口座に現金が振り込まれる事になっている。無論、彼らは情報提供者としての契約を結んだ時点で、高額の契約金を前払いで受け取っている。
 もっとも、その“看視者”たちは、自分たちが何のために柊木冬馬の監視を行っているのか、また、自分たちが一体誰に報告を行っているのかさえも知ってはいない。彼らが知っているのは、雇い主である弥生のハンドルネームだけだ。
 彼ら(あるいは彼女ら)は、自分の隣に座る級友が、あるいは授業を行う教師が、自分と同じ“看視者”であることも知らず、ただ、割のいい小遣い稼ぎに勤しんでいるに過ぎない。

 さらに、弥生が弟を監視するための手段は、それだけに留まらない。
 学校が契約している警備会社の回線にハッキングをかけ、校舎中の防犯カメラの映像を、リアルタイムで入手する事に彼女は成功している。つまり、たとえ授業中であろうと、携帯から、冬馬の教室の映像を覗き見る事が、弥生には可能なのだ。
 また、防犯カメラの設置されていない場所――男子トイレや男子更衣室、体育倉庫や校舎裏などには、自ら極小のカメラをセットし、冬馬が学校にいる限り、たとえ何処で何をしていようとすぐに見つけ出せるように、万全の監視網が敷かれているのだ。
 まさに本職のハッカー顔負けの所業ではあるが、初等部入学から現在に至るまで、十二年連続で学年総合成績一位の座を守り通している柊木弥生にとっては、この程度の仕事はそれほどの難事ではない。
 この監視システムを完成させるために、彼女は少なくとも数百万単位で資金をつぎ込んでいるが、当然、弥生はその巨費を惜しいとも思ってはいない。弱冠17歳にして、株式投資で8桁の個人資産を持つ柊木弥生の座右の銘は、『カネは使うためにある』だったからだ。

 弥生は、おもむろにパソコンの画面を切り替えた。
 ディスプレイ上には、入浴中の冬馬の映像が大写しになる。いい気持ちで鼻歌を歌っているようだ。――言うまでも無いが、柊木家には、弥生が学校に設置した倍以上の数のカメラとマイクが存在しており、冬馬の監視体制は、たとえ自宅でも万全を誇っていた。
 無論、この映像も後日編集され、校内での彼の画像記録と同じく『冬馬映像コレクション』の1シーンとして、彼女のパソコンのハードディスクに記録される事になる。



926 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:13:26 ID:k/u7M/c0

(これで、冬馬くんのバイト先まで網羅できたら完璧なんだけどなあ……)
 弥生にとっては、それは所詮困難な話ではない。
 学校中の防犯カメラの映像記録をリアルタイムで覗き見しているほどの彼女である。同じ事を、彼のバイト先でやれないという道理は無い。現に、冬馬の働く牛丼屋の店内映像に関して言えば、ハッキングは完了していた。
 が、肝心の事務所の中が覗けない。
 彼がバイト先のメンバーたちと、学校での友人たち同様に、プライベートで親しく交遊している事を、すでに弥生は知っている。そして彼のアルバイト先の友人たちは、級友同様、男だけとは限らない。
 ならば、休憩時間や引継ぎ時の私語が聞けるはずの――『悪い虫』が冬馬に取り付く機会が一番繁多な――事務所内の映像や音声が拾えないのは肩手落ちだと言うべきだろう。
 だが、店内ならば知らず、一般的に『関係者以外立ち入り禁止』の事務所に、防犯カメラを設置する警備会社はない。ならば、いかに弥生のハッキング技術といえど、監視カメラがない空間では、なすすべがない。
 ましてや、部外者が立ち寄れない空間である以上、学校や自宅のように、こっそりカメラやマイクを仕込むような芸当も、アルバイト店員の姉でしかない弥生にとっては、不可能と言っていいほどの難事であった。
――もとより冬馬の交友関係や行動範囲の全てを見張り切れるとは、いくら弥生でも考えてはいない。だが自宅・学校・職場といった、生活の拠点となるポイントだけでも、彼の動向を把握しておきたい。それが姉の本音だった。

(まあいい)
 無論、その牛丼屋のアルバイトメンバーの中にも、弥生と契約する“看視者”がいる。
 だから、そう焦る必要はない。何かあれば情報は耳に入るだろう。
 冬馬とて、永久にその店でアルバイトを続けるわけではないのだから。
「だいたい働く必要なんてないじゃないの。いざとなれば冬馬くんの面倒くらい、私が一生見てあげるんだから」
 湯舟に浸かり、のん気に中島みゆきを歌う傷だらけの胸。
 その画面に、弥生は尖った口調で囁いた。


 弥生が、冬馬にドラッグ入りのコーヒーを飲ませ、催眠術をかけてから、今宵で、すでに一週間が経過したが、当然のように術の効果は発現していなかった。弟が姉を見る視線や態度には、1mmの変化も無く、彼らは、変わらず仲のいい姉弟としての日々を過ごしている。
 それはいい。別に気にしてはいない。
 マニュアル通りにやったとはいえ、所詮、催眠術に関して自分は素人だ。一度や二度の暗示で効果を期待するほど、めでたくはない。
 むしろ、一時的とはいえ愛する弟をトランス状態に落とし、愛の言葉を囁かせたり、自分の股間を愛撫させたりと、弥生としては充分楽しめたと言えるので、7万円という高価格に見合った価値は確実にあったと思う。


 弥生は、机の引き出しから、手提げ金庫を取り出し、鍵を外す。
 金庫の中には、数種類の小瓶が入っていた。そのうちの一本を、おもむろに手に取る。
 コルク栓で封をしたガラス瓶の中には、小さく白い物体が半分ほど詰まっており、それがカサカサと軽い音を立てている。そして彼女はその中身を数粒、瓶を揺すって自分の掌の上に落とした。
 それは――爪、だった。
 冬馬が伸びた爪を切り、そのままゴミ箱に投棄したはずの物体。いや、爪だけではない。毛髪や陰毛、鼻をかんだティッシュなど、それら生活の痕跡を、弥生が彼の自室から逐一回収し、蒐集している事実は……当然の事ながら弟本人の知るところではない。
 弥生はうっとりとした眼で、その爪を見つめると、そのままそれを何の躊躇も無く――自分の口に入れた。



927 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:15:57 ID:k/u7M/c0

(おいしい……)
 無論、それらの爪の残骸に、なんら味付けが為されているわけではない。
 だが、かつて冬馬の肉体の一部であった物質を口に入れているという感動が、彼女の快楽中枢を電撃のように刺激しているのだ。その証拠に、弥生がそっと手を伸ばすと、彼女のショーツはじっとりと湿り気を帯びていた。
「っっっ!!」
 思わず声が出そうになり、反射的に弥生は歯を食いしばる。
 喘ぎ声が部屋の外に洩れるのを怖れたから、というだけではない。声を立てると同時に、口中の爪が外に飛び出してしまう事態を怖れての反応だ。
 そして、声を抑えれば抑えるほど、股間から全身に響き渡る甘い痺れは威力を増し、そのエクスタシーは、口中で何度となく咀嚼され、既に原形を留めていない爪の旨みを、より一層引き出させる。
「~~~~ッッ!!」
 全身を蹂躙する甘い電撃。
 声を封じているおかげで口からの呼吸が、すこぶる困難だ。
 鼻息を必死に荒くして、空気を肺に補給するが、それでも足りない。酸欠で弥生の顔は真っ赤になっており、さらにその失神を催す感覚さえもが、彼女の意識をさらに雲上へと押しやる。

――そろそろ、かもね。
 脳髄を浸す快楽に没入しながら、それでも絶える事無く、ひっそりとタイミングを計り続けていた彼女の理性が、肉体と意識の限界点を弥生に示唆する。
 これ以上の快感は、おそらく彼女自身の境界線を超えると。これ以上続けるならば、声を上げずにはいられないと。そして多分、舌の上の貴重な咀嚼物も、口から飛び出してしまう可能性があると。
 弥生は、ほぼ液状になるまで噛み続けた、弟の爪を飲み込むと同時に、それまで一切手を触れなかった乳首を、服の上から思い切り摘み上げ、明確な意図を以って自身にとどめを刺した。勿論、彼女の視線は、ディスプレイ上の冬馬の裸身に釘付けだ。
「~~~~~~~~~~っっっっ!!!」
 神経を集中爆撃していた電流がさらに電圧を上げ、彼女の意識は、そのまま心地良い暗闇に包まれた。


――あの子には、女がいる。
 白い粘液にべとついた指先をティッシュで拭いながら、弥生は確信を持ってそう思う。
 体質的なものなのか、弥生の本気汁は妙に濃い。まるで精液のようだ。
 だが彼女は、いまだ本物の精液を見たことが無かった。
 参考資料としての精液ならば、AVやエロ写真集でいくらでも見られる。だがこの場合、弥生にとってのそれとは、そんな他人の排出した有機的廃棄物のことではない。ずばり柊木冬馬その人の生産する“生命のエキス”のことであった。
 頭からセックスの事を引き抜けば、ほぼ何も残らないはずの十代後半の健康的男子。冬馬といえども、その例外ではないはずだが、――実は弥生は、いまだ彼が、独り自分を慰める場面を見たことが無かったのだ。



928 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:18:04 ID:k/u7M/c0

 これは、かなり奇妙な事実と言わねばならない。
 未成年の男子が、己を慰めるとすれば、それが可能な空間は限定される。
 まずは自室。そしてトイレ。さらに言うなら浴室。――ぐらいであろうか。
 無論、そのいずれの空間にも、弥生は抜け目無くカメラとマイクを設置している。彼の自室に至っては、六台のカメラと三個の指向性マイクが、死角を作らぬように巧みに配置され、この家の他の空間同様、24時間365日単位で常時稼動している。
 つまり、冬馬が自宅でナニをしようとすれば、絶対に弥生の監視の目をくぐる事は不可能なはずなのだ。弟が切った爪さえも性愛の対象と見なす姉からすれば、当然、冬馬の自慰場面などという『お宝映像』を見過ごすはずもない。
 となれば結論は一つ。彼は、自宅で自慰をしていないことになる。
 標準的な少年が自宅で自らを慰めない。慰める必要がない。それはつまり、どこか自宅以外の場所で、その精を放出してきたという事だ。おそらくは、弥生がいまだ知らぬ牝猫を相手に。
(そんなこと、ゆるせない……っっ!!)

 鼻歌を歌いながら、脱衣場でバスタオルを使う弟。
 彼が自分以外の見知らぬ女と、互いの体をまさぐりあう“絵”が脳裡に浮かぶ。
 真っ白いシーツの海で、豊かな乳房に顔を埋める弟と、その首に両手を回す女の姿。二人は見つめあい、やがてゆっくりと唇を重ね合わせる。
――ぎりっ。
 噛みしめた奥歯が無意識に音を立てる。
 そこにあるのは、嫉妬などという生ぬるい感情ではない。自分を裏切った男に対する、一人の女としての明確な殺意。
 画面の中の男に、姉は語りかける。
 ねえ冬馬くん。貴方は私のものになるんだよ? 私のものにならなきゃいけないんだよ? そうなる事は、どうしようもない必然の運命なんだよ? 
 なのに、私のものでありながら、なぜ貴方は私以外の女に、そんな真似をするの? 貴方が愛を囁いていいのは、葉月ちゃんの他は、この私だけなのよ? 何故そんなことが分からないの?

 画面の中の弟は、当然の事だが、姉の視線に何も気付かない。
 鼻歌は、いつの間にか中島みゆきから、石川さゆりに変わっていた。



 一目惚れ、なるものが世界に本当に実在しているなど、その日まで弥生は信じていなかった。
 完璧超人と謳われた頭脳はダテではない。
 弥生は、自分を明確なリアリストだと定義していたつもりだった。
 だが、そうではない。
 そうではなかった。
 それに気が付いたのは、両親に手を引かれた二歳年下の少年と、初めて顔を合わせた瞬間。柊木弥生は、これまでの自分の人生は、まさに、この少年に出会うための準備期間でしかなかった、という事実を知ったのである。
(きっと私は、この瞬間のために生まれてきたんだわ……)
 さっきまでの自分ならば、おそらく一笑に付したであろうロマンチックな――というより、およそバカげた――思考。だが弥生は、そう考えている自分に全く違和感を覚えなかった。
 柊木冬馬。
 それが、この日より新たに家族となったという少年の名前だった。



929 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:21:19 ID:k/u7M/c0

 両親は彼を、生き別れになった長男だと紹介したが、親がそう言ったからという理由だけで鵜呑みにするほど、当時中学二年生だった弥生は、可憐な少女ではなかった。
 もっとも、その疑り深さを、いやみにならないように、巧妙に隠蔽する腹芸も身に付けていたところが、葉月とは違い、弥生の食えないところであると言える。
 まあ、その程度の慎重さが無ければ、並み居るライバルを蹴散らし、それでもなお周囲の人間関係に敵を作らず、首席を守り通すことなど出来はしない。
 当時小学生だった葉月にしても、直感的に『生き別れの兄弟説』を疑ってはいたようだが、弥生は葉月とは違い、彼への拒絶反応から両親の話を疑ったわけではない。むしろ逆だ。
『血が繋がってさえいなければ、私はこの弟と結婚できる』
 弥生の脳裡を占めていたのは、まさにこの一事のみであったといってもいい。

 その後、両親は姉妹に、こう説明した。
 弥生が三歳の夏(つまり、冬馬が一歳の時)、夫妻が乳児だった彼を連れて、博多にある父の実家に帰省しようとした時だった。空港で旅客機が大爆発する事故が起こり、発生した火災による大混乱のさなか、うっかり両親は冬馬を見失ってしまったと言うのだ。
 勿論、“うっかり”で済まされる話ではない。父も母も、狂ったように我が子を捜し求めたが、結局、冬馬は見つからなかったらしい。――その、幼い死体さえも。
 遺体さえ発見できなかったという事実が、両親にとって最後の希望となったのは事実であろうが、それでもわずか一歳の赤子である。常識で考えれば、そんな大混乱の中、生きていられるはずがない。
 現に、その大事故では、冬馬を含めて3桁の行方不明者が出ており、その大半が、識別不明の遺体のどれかであろうことは、誰の目にも明らかだった。

 そして、その記憶は、弥生にはない。
 両親によると、その頃の弥生は、ちょうど風邪を引いて熱を出しており、お隣さんに預けられていたらしい。だから、空港火災の記憶がないのは当然だ、というのだ。
 だが違う。
 弥生が言いたいのは、そこではない。
 彼女には、“かつて弟がいた”という記憶自体がないのだ。
 三歳といえば、すでに物心がついていてもおかしくない時期であり、そして弥生はその当時すでに自意識を覚醒させていた自信があるが、それでも、そんな弟の記憶など持ち合わせていないのだ。

 無論、弥生は両親の話のウラを取った。
 彼らが言う空港火災の事実は間違いなく存在したし、役所に出向いて、柊木家の戸籍謄本も調べた。両親が冬馬と“再会”したという孤児収容施設も当たってみたし、彼の血液を持って、とある大学病院に出向き、DNA鑑定の依頼もしてみた。
 はっきり言えば、弥生にとっては、弟と血が繋がっていようがいまいが、それはもう問題ではない。
 両親が、いくら彼が実子であると主張しようが、科学的に非血縁である事を証明するか、もしくは血縁であっても、記録上での彼の存在に何か不備があれば、法的に自分が弟と結ばれる事は可能だ。――弥生が知りたい真実とは、まさにそれ以外にはなかった。

 しかし結果は、はかばかしくない。
 駆け落ち同然の“出来ちゃった婚”で結ばれたという両親は、母方のほとんどの縁戚から断絶されており、弥生が弟の存在を確認できるような親戚はいない。かといって、唯一の例外と呼ぶべき博多在住の父方の祖父母は、すでに二人とも他界している。
 また、かつて冬馬がいたらしい孤児院は、彼が柊木家に引き取られた直後に閉鎖され、当時の責任者に連絡がつかなかったし、DNA鑑定にいたっては、本人か保護者の同意が無ければ鑑定は出来ないと、取り付く島もなく追い返されてしまった。




930 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:23:18 ID:k/u7M/c0

 だが、全く何も分からなかったわけではない。
 役所に行って調べた結果、驚くべき事に、戸籍上には、「長男:冬馬」の名が厳然と存在していた。
 つまり、戸籍に名が記入されている以上、柊木家長男の出生届が公的に提出されていたのは――たとえ弥生に弟の記憶が無かったとしても――間違いないようだが、問題はそこではない。
 弥生にとって重要なのは、書類上の“長男”と、いま現在、我が家にいる弟とが同一人物であるか否かだからだ。
 そして、役所の記録からは、科学的に冬馬が“彼”であるかどうかまでは証明できない。両親が言い含めて、どこか見知らぬ場所から連れてきた馬の骨であるかも知れないのだ。



 電話が鳴った。
 自分の携帯ではない。着信があったのは冬馬の携帯だ。
 無論、弥生のやる事だ。彼のパソコンと同様に、携帯の傍受も完璧である。メールのみならず電話の送受信まで、弥生は自在に内容をチェックできる。
 姉は、急ぎ相手を確認する。
<着信・千夏>
 の文字がディスプレイに出ていた。
「っ!?」
 いまだに弥生の体内で燻っていた自慰の火照りと、――確認が取れたわけではないが――予想される弟の不実に対しての怒りが、一瞬で冷めた。
(……こいつだ。これでやっと、この女の正体がつかめる)


 携帯やパソコンをモニタリングするようになって、初めて弥生は知ったのだが、冬馬という少年は、あまり他人の存在に頓着するタチではないらしい。
 彼の携帯のアドレス帳に記載された名前を見れば、それが分かる。
 交友範囲の広い冬馬のアドレス帳には、おびただしい数の名前が登録されていたが、本名をフルネームで記載されている者は一人もいない。その大半が苗字のみであり、一見した限りでは性別さえも判然としない。
 また、そのアドレス帳の個人データも、住所や誕生日といった情報は皆無で、すべて電話番号とメールアドレスのみ。級友とか仕事仲間といったグループ別の分類もなく、登録は全て一括なので、どういう知り合いなのかもまるで読み取れない。

 誰からの連絡なのか。そして、誰に送る連絡なのか。
 それさえ分かれば冬馬にとっては充分なのだろう。彼にとって人名とは他人を区別するシリアルナンバーと同義であり、それ以上の意味を持たない。極論すれば登録名が本名である必要さえないのかも知れない。それが誰であるか彼本人に分かれば事は足りるのだから。 
 この自分や葉月でさえ、フルネームではなく、単に<姉><妹>という単語で登録されているのだ。親しい友人や家族であっても、彼が自分以外の余人を、そういう記号として捉えようとしているのは、やはり肌に刻まれた虐待の過去が影響しているのだろうか。
――そういう想像は、弥生にとって決して愉快なものではない。
 もっとも<ゾンビ>とか、<ヅラ>などといった、どう考えても人名にあらざる名で登録をされている者もいたので、<姉>の自分は、少しはマシな扱いと言えるのだろうが。

 だが、そんな寒々しいアドレス帳の中で、一見して女性と分かる名前が一つだけあった。
 自分や葉月といった家族でさえ、関係性を表す単語一言で括られているにもかかわらず、400件を超える冬馬の携帯アドレス帳の中で、唯一苗字ではなく、親しげに名前で登録されている人物。弥生が、冬馬の“浮気相手”の最右翼候補として睨んでいる人物。
 それが、登録名<千夏>と呼ばれる、謎の女だった。



931 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:26:06 ID:k/u7M/c0


「……もしもし……しばらく振りだね、お兄様」

――『おにいさま』!? 
 その女からイキナリ飛び出したギャルゲー用語に、弥生はちょっと度肝を抜かれた。

「千夏か? 久し振りだな、元気だったか?」
「ああ……お蔭様でね……おゆきも元気だよ」

『オユキ』? またもや知らない名前が出てきた。しかも女のようだ。まあ、それはいい。この女の名が『チナツ』ではなく『チカ』であったということが分かっただけでも収穫はある。
 冬馬はかなり馴れ馴れしい口を利いているが、どうやら、かなり旧い知り合いのようだ。
 いや、むしろこの場合、口調的に奇異なのは相手の方だ。『お兄様』と呼ぶからには、少なくとも冬馬よりは年少なのだろうが、そうなると、いま冬馬が16歳の高校一年生だから、この『チカ』は中学生という事になる。
 だが、彼女の声や口調に年齢相応の子供っぽさは皆無だった。

「そっか。――それでオマエ、明日はどうする? 来るんだろ?」
「相変わらず性急だね……二ヶ月ぶりの電話だというのに……。少しはゆっくり世間話を楽しんでもいいんじゃないか……?」
「ははっ、そいつは済まねえなと言いたいが、お前も知ってるだろう?」
「『おれは長電話が苦手なんだ』……かい?」
「おう。どうも性分でな。コイツばかりは仕方がねえ」
「ふふっ……本当にキミは変わらないねえ……」

 冬馬が女を誘っている!?
 あの“不沈艦”と言われて、女教師から告白されても応じなかったアイツが!?

「……じゃあ、明日は午後一時に。……それでいいね?」
「分かった。なら明日、お寺でな」
「うん、……では楽しみにしているよ。おやすみ……お兄様……」

 どうやら冬馬の“相手”はコイツではないらしい。
 内容的に、どう判断しても日常的に逢瀬を楽しんでいる者たちの会話ではない。
 その点では安心できる。
 だが、この元カレと元カノのごとき会話は、弥生にとって耳に心地良いものでは断じてない。
 一体、この二人はどういう関係なのだろうか?
 そして、冬馬が言う明日の約束とは何だ? 『お寺』での待ち合わせと言うからには、少なくとも一般的に言うところのデートではないようだが、……いやいやいやいや、観光という線も考えられる。油断は禁物だ。

「あっ!! ちょっと待ってくれ千夏」
「……なんだい」
「おゆきは、――まだ、おれを恨んでるのか……?」

 恨む?
 それはどういう事だ!?
 やり過ぎるほどに周囲に気を使うあの弟が、恨まれている!?

「……仕方がないよ。事情が事情なんだしね。……それに、あの子はまだ……子供だ」
「…………」
「でも、勘違いはしない方がいい……。おゆきは、確かにキミを恨んでるかも知れないが……それでも……決してキミを嫌っちゃいない……」
「そう、願いたいな」
「……じゃあ、また明日」



932 傷 (その3) sage 2008/10/28(火) 17:28:23 ID:k/u7M/c0

 ここで通話は切れた。
 恨んじゃいても嫌っちゃいない。
 聞きようによっては痴情のもつれにしか聞こえないが、それでも、そんな単純な話ではないらしい、ということくらいは弥生にも想像がつく。
 自分の知らない因縁を、冬馬と共有する女。
 おそらくは、彼が柊木家に来る前――施設にいた時の話なのだろうが。
(気になるわね……)

 弥生は、自分の携帯を手に取った。
 やるべき事は決まっている。
 まずは、弟が、この女と出かける日――明日の、自分の予定を全てキャンセルする。
 彼らを追跡し、調査の手を広げれば、弟の過去を探る手がかりになるかも知れない。
 そして、この女――千夏という女を徹底的に洗う。
 苗字こそ分からないが、名前と連絡先、そして家族に「おゆき」と呼ばれる者がいる。おそらくは妹かと思われるが、そこまで分かれば、そこを足がかりに、人間一人の身元や過去を調べるくらい、弥生には雑作もない。

「冬馬くん……家族に隠し事はしちゃダメよ」

 そうなのだ。
 自分はまだまだ、彼について知らない事が多すぎる。
 現にいま、この少年が、書類に記載された「長男」と同一人物なのかさえ、自分は把握していない。
 彼のことが知りたければ、彼に直接問えばいい。
 そうも思う。
 おそらく冬馬は、忌憚無く話を聞かせてくれるだろう。
 だが、それではだめなのだ。
 肉体に傷を負わされた者が、心に傷を負っていないわけがない。興味本位で彼の過去を追求して、冬馬のトラウマを刺激したくはない。そこまで無神経な女だと、弥生は思われたくは無かった。
 知らない素振りで、全てを知る者のごとく気を遣ってあげる。それでこそ、彼の中での弥生の評価も上がろうというものである。

 そして、自分の知らない時代の冬馬を知る、この千夏という女――。
「今はまだいい。泳がせてあげる。でも……」
 この女が“敵性人物”かどうかは、これからの調査でハッキリするだろう。
(この女は、危険だわ)
 有象無象の学校の女や、仕事先の女なら、存在を見過ごすにやぶさかではない。何を告白されようが、どうせ冬馬が受諾しないだろう。彼はダテに『不沈艦』と呼ばれているわけではない。
 だが、弥生は女としての直感で、千夏と冬馬の関係に危惧を抱いていた。
 この女は、そんな雑魚どもとは何かが違う。コイツならあるいは、冬馬と互いを選びあう関係になるかも知れない。

 ぎりっ。
 何度目か知らない音が、彼女の噛みしめた奥歯から発生する。

 そのままメールをチェックし、携帯を片手にぶら下げて脱衣場を出てゆく弟の背中が、画面に映った。
 問題はいまだ山積みだ。
 いずれ自分のものになるはずの男。彼の射精の面倒を見ているはずの、憎むべき“浮気相手”も、早急に炙り出さねばならない。
(お姉ちゃんを裏切った冬馬くんも、いつかキツイおしおきをしなきゃねぇ……)

 その弟は、自分の背中に熱い視線を投げかけている姉の想いに、いまだ気付いてはいない。

(とりあえず集中すべきは、明日のことよね)
 姉は、心中に呟いた。

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最終更新:2008年11月03日 00:06
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