傷(その5)

565 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 16:06:20 ID:AUz3kiXP

「兄さん……」
 葉月が兄に追いついたのは、寺の門からすぐの道端だった。
「兄さん……あの……」
 冬馬は振り向かない。
 妹の言葉を、意図的に無視しているようでさえない。まるで葉月の言葉が聞こえていないようだ。
 何かを言わねばならないのは分かっている。だが、何を言えばいいのか、葉月には分からない。しかし、彼を墓前から追い返した「おゆき」という女の子との間に何があったのか。その事情を知らぬ葉月には、まさしく為すすべがない。

「なさけない……と思うか?」

 肩を落として歩く冬馬が、ポツリと呟いた。
 だが、彼の視線はあくまで妹に向けられる事は無く、俯くままに地面に向けられていた。
(兄さん……)
 何があっても陽気で、溌剌さを失わないはずの兄。それでいて、運動部の助っ人などに請われた時でも「補欠ホケツと言われながら自分の出番を心待ちにしている者たちの晴れ舞台を、気安く奪う気にはなれない」といって拒絶する、優しさと思いやりを持つ兄。
 彼女が兄と呼ぶ柊木冬馬とは、そんな颯爽とした男のはずだった。エサにあぶれた野良犬のように、肩を落として俯いて歩くような男ではないはずだった。

「――はい。なさけない、と思います」

 葉月の言葉に、一瞬びくりとしたように振り向いた冬馬だったが、その目に宿っていたのは、妹の激しい言葉に対する驚きと、喧嘩に負けたあとのような悲しげな光だった。
「……そうか、なさけない、か」
 冬馬の、その瞳を見た瞬間、反射的に葉月は、彼を突き飛ばしていた。
 寺の練塀にあっさり背中をぶつける兄。そんな眼をした兄も、自分ごときに簡単に突き飛ばされるような兄も、葉月には気にいらなかった。とても気に入らなかった。だから葉月は、そんな情けない兄の胸元に飛び込み、子供のように彼に抱きついた。

「聞かせてください。何があったのかを」
「葉月」
「兄さんは今朝、最初の里親は無理心中で死んだ、と仰いました。でも、あの子供は兄さんを「人殺し」と呼びました。母を自殺に追いやったのは、兄さんだと」
「…………」
「わたしは妹です。でも、兄さんの事をほとんど知りません。だから、兄さんの事は兄さんに聞かない限り、分からないのです。いまの兄さんの気持ちを理解してあげる事が出来ないのです」

 冬馬を見上げる葉月の眼差しは真摯なものだった。
 そして、それ以上に優しい光に満ちていた。
 普段はクールな妹が、誰に見られるかも知らぬ路上で、こんな瞳をして情熱的な抱擁を自分にしてくれている。その事実が、古傷を抉られた兄の心を少なからず癒したのだろうか。――いつしか兄の目に、葉月の知る強い光が戻ってきていた。

「覚悟は……してたつもりだったんだ。おゆきがおれを許しちゃいない事は、事前に知っていたはずだったからな」
「ならどうして、一言も言い返さずに、あんなにすごすごと踵を返したのですか?」
 すごすごって……きついな。
 そう呟くと、冬馬は、いつものように葉月の頭を優しく撫でた。
「おれはどうやら……おれが考えていたより、弱い人間だったから、……かな?」
「兄さんは、弱くありません」
 訴えるように言う葉月の一言に、冬馬は苦笑する。
「それはお前の解釈だ。おれのことをよく知らないと自分で言ったお前が、そんなことを言っちゃいけないな。現におれは――」
 そこまで言って言葉を切ると、彼は優しく――だが、明確な意思を持って、葉月を引き離した。

「自分が自殺に追い込んだ義母を、『無理心中』だと解釈する事で、事件と向き合う事から逃げようとしている腰抜けだ」

 その言葉に葉月は絶句した。
「では兄さん……あの子が言っていたことは……本当なのですか……?」
 冬馬は、その問いには答えず、葉月に背を見せて傍らの自販機でホットの缶コーヒーを買うと、投げて寄越し、飲めといった。
「長い話になる。それも、どうしようもないほど救いのない話だ」
 だから、こんなものでも飲まないと、しゃべる気にもならないと言って、自分の分として買ったワンカップを悪戯っぽい笑顔で示し、くいっと一口あおった。



544 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 03:55:44 ID:AUz3kiXP

「……どこから話せばいいのか……とにかく、昔の話だからね……」
 そう言って、千夏はレモンティーを一口飲んだ。


 冬馬が去り、それを追って葉月が行き、墓地に残った弥生に千夏は訊いた。冬馬の過去が知りたいならば、なぜ冬馬を追って、彼本人から直接話を聞かないのかと。
 それに対しての弥生の答えは明確だった。
 弟が、過去の事情とやらを話す気になるかどうかは問題ではない。どういう形にせよ、彼の過去のトラウマに触れるような話柄を、姉の自分から振る気にはなれない。さらに弥生は真面目な顔でこう言った。
「それに、人間は自分のことを語るとき、自然と客観的な視点を失いがちになることが多いわ。だからこそ、貴女の口から聞きたいの。弟のことを“客観的に”ね」

 それに対し千夏は、その宝石のような瞳で数秒ほど弥生の顔を凝視していたが、やがてぽつりと言った。ただし、その言葉は弥生に対してのものではなかった。
「おゆき……私は……この人と話があるから……先に帰っていてくれないか……」
「お姉ちゃんっ!? そんな奴と何を喋ることがあるって言うのっ!!」
「…………」
 千夏は、妹のヒステリックな叫びに何も言葉を返さない。ただ、弥生にしたように、その美しい圧力を伴う眼差しを、妹に向けただけだ。そして、ランドセルが似合うような年頃の彼女に、この姉の視線をはねのける胆力は無かった。
「わかった、わよ……。帰ればいいんでしょう?」
 結局、おゆきは千夏の無言の圧力に屈し、そのまま背中を見せた。

「もう少し、言葉を選んであげた方が良かったんじゃないの?」
「なに……あの子はああ見えて利口な子だ……この程度で、いちいち動揺したりはしないさ……」
 千夏はそう言うが、家族思いの弥生としては、やはり鼻を鳴らすしかない。
 おゆきは、姉のその言葉に激昂したが、ある意味、それも無理はないかもしれない。
 さっき彼女が言った、母親を冬馬が自殺に追い込んだという発言が真実ならば、確かに自分は親の仇の仲間に過ぎない。そんな人間と話すから、オマエは席を外せと言われたら、やはり内心穏やかではいられないだろう。
 そう考えると、弥生は初めておゆきという少女に同情した。だが、だからと言って、激情の赴くままに弟を追い返したこの子供を、その因縁を冷静に説明しようという空間に同席させたいとはとても思わないが。


 そして数分後、墓地の裏手から寺を出た二人は、目の前にあった喫茶店に入り、紅茶を片手にボックス席を囲んでいるというわけだ。

「それと……キミは一つ、勘違いをしている……」
「え?」
「……キミは……事件を客観的に説明しろと言ったが……死んだのは私の両親で……冬馬は私の兄でもある。……どこまで冷静に語れるかは……私にも……分からない……」

 確かにそうだ。
 冬馬が当事者であるならば、必然的に、当時の家族であった千夏も部外者では在り得ない。
 弥生は自分の迂闊な言葉を詫びるべきであったろう。
 だが、どてっ腹をぶん殴られたような表情のまま、彼女は何も言えなかった。
 そして、強烈な一撃で弥生を黙らせた千夏も、弥生の無礼を咎めるでもなく、そのまま遠い目をして寂しそうに微笑んだ。

「……あれから……もう……10年になるのかな……母が父を……殺してから……」


546 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 03:57:01 ID:AUz3kiXP

 いまから12年前、僅か4歳であった冬馬を施設から引き取ったのは、景浦という夫妻であった。

 夫である景浦武彦は子供好きで、それも一際、男児を望んだが、彼は先天的に精子に異常があるらしく、受胎しても90%以上の確率で女児であろうという宣告を医師から受けていた。
 無論、すでに3歳を迎えていた千夏という愛娘に不満があるわけではない。
 いまは江戸時代ではないのだ。家督を継がせるための嫡男がいなければ、家門が廃絶するなどというバカな話は存在しない。だから子供が男であろうが女であろうが、親が気にしなければ気にならない。現に、世間には娘しか持たない家族などゲップが出るほどいるであろう。

 しかし、武彦はそうは考えなかった。
 そして、自分の精によって息子を得られぬならば、他人の子供でも構わない。構わないから男の子がほしい。彼は、そう妻に訴えるだけの頑固さを持った男であった。
 当然、妻――美也子は悩んだ。
 が、結局、彼らは育児施設から孤児を引き取るに至るのである。それが後の柊木冬馬――当時の景浦冬馬の不幸の始まりであった。

 冬馬は武彦になついた。
 そして、それ以上の愛情を、武彦は冬馬に注いだ。

 現職の刑事であった武彦の毎日は非常に多忙であり、帰宅時間は常に深夜、事件が発生すれば目処がつくまで、ほとんどロクに帰って来ない。家への連絡があるとしても、署に着替えを持って来てくれと電話がかかってくるだけだった。
 つまり景浦武彦は、子供と接触できるような時間をほとんど持っていないような、典型的な仕事人間だったわけだが、それでも幼い冬馬にとって義父は、街の悪人を捕まえる英雄であり、たくましく頼り甲斐のある、力強い父性の偶像であった。
 当時の彼に、尊敬という概念があったのかどうかは分からないが、いま問われても冬馬は躊躇無く答えるであろう。おれは義父を尊敬していたと。義父のような大人になりたいと思っていたと。
 だが、不在がちな夫と手のかかる二人の幼児を抱えた若妻に、今の生活へのストレスが溜まるのも、やはり必然であったと言うしかない。そして、武彦の非番の日――その日は偶然にも、彼の誕生日でもあった――悲劇は起こった。



 玄関先でチャイムが鳴った。
 その瞬間、美也子が露骨にびくりと震えたのが、武彦の目には見えた。
 が、すぐに、その反応をごまかすように、いそいそと立ち上がると、どなたかしらなどと言いながら、リビングから出て行く。
(一体、美也子はどうしたんだ?)
 その様子に、武彦はやはり首をひねらざるを得ない。
 今日の妻はどこかおかしい。まるで心ここにあらずといった感じだ。
 可愛い盛りの二人の子が、一生懸命バースデイソングを歌い、ケーキに舌鼓を打っている間も、美也子だけは妙に落ち着かない素振りでソワソワしている。
 はじめ、武彦は、何か妻からのサプライズでもあるのかと期待したのだが、そうではないらしい。なぜなら、刑事である自分には、妻の顔色が職業的に非常に見慣れたものであることに気付いたからだ。
 それは、取調室の容疑者たちが決まって浮かべる表情。
 何かを隠し、それが露見する事を怖れているとき、人間が浮かべる表情。

「ぱぱ、たべないなら、いちごちょうだい?」
 今年5歳になる娘の千夏が、にぱっと笑いかける。
「いいとも。おいしいぞ」
 ショートケーキを乗せた小皿を娘の方へ寄せ、器用にフォークを使って、イチゴを千夏のケーキの上に置いてやる。にこにこしていた千夏が、さらに輝かんばかりの表情で、ありがとう!! と言った。
 そんな二人の様子を見ていた息子も、
「……じゃあ、ちか、ぼくのぶんのイチゴもあげる」
 と言って、フォークで自分の分のイチゴを突き刺し、妹のケーキの小皿にそれを置いた。
「えっ、おにいさま、いいの?」
 喜ぶよりむしろ意外そうな表情で冬馬を見返す千夏だが、幼い兄は、決まりの悪い表情でケーキをバクついている。彼なりに照れているのだろう。そんな冬馬を見て、千夏は、先程以上に嬉しげな声で、
「おにいさま、だいすきっ!」
 と笑った。



547 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 03:58:48 ID:AUz3kiXP

 父親を見習って、ことさら兄貴ぶろうとする幼い息子と、そんな兄の好意を素直に喜ぶ幼い娘。
 そんな二人の子供たちを、満足げな顔で眺める武彦だったが、そんな彼の表情が、ふと曇った。

「お邪魔しまぁ~~す」
 美也子が玄関先で応対していたはずの訪問者が、間延びした声でそう言って、家に上がり込んできたのだ。
 見覚えはある。
 確か、隣に住んでいる一家の長男で、武彦の記憶に間違いなければ、たしか今年大学に入学したばかりの……どうも名前までは思い出せない。
 しかし、いずれにせよ、家族ぐるみの付き合いはない。したがって、こんな風に親しげに家に闖入されても、武彦の先立つ感情は困惑と不審しかなかった。
「いや、お久し振りです、どうも……何ですか? 今日はパパさんのお誕生日会だそうで。どうも、おめでとういございます~~」
「……ああ、これはわざわざどうも……」
 武彦も、社会人の端くれとして、礼に対しては礼を返さねばならない。自分の誕生日を「おめでとう」と言われた以上は、憮然とした顔で座りっぱなしというわけにはさすがにまずいので、一応は立ち上がって席を勧め、妻に茶を出すように言おうとしたのだが……。

「なんだ、おい?」
 この意図せぬ訪問客の後ろから顔を出した美也子は、彼が思わず声を出してしまうほどに顔色を失っていた。眼は見開き、唇は青くなり、頬は引きつり、呼吸まで荒く、まるで薬物中毒のように細かく全身を震わせている。
「なんだ? 一体どうしたんだ美也子」
 思わず、硬い声で尋ねた夫に向けた妻の瞳は、涙に潤んでいた。

「……あなた……ごめんなさい……」
「ごめんなさいって……なにが?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「落ち着きなさい美也子、お客様の前だぞ」
 思わず武彦は妻に駈け寄るが、美也子はいやいやをするように夫から目をそらす。
「――おんやぁ、奥さん?」
 その妙にわざとらしい声に振り向いた武彦は、青年の顔が、きゅっと醜く笑っているのが見えた。それは彼が過去、どんな犯罪者にも見たことのない、悪意に満ちた笑いであった。

「どうしたんです奥さん? そんなところに突っ立って?」
「あああああ……あああああ……」
「……僕の命令、聞こえたよね……?」

 謝罪を連呼していたわりには、まともに夫の顔さえ見ようとしなかった妻が、呆然と恐怖に顔を歪めている。彼女の見開いた瞳の先にあるのは、無論、武彦ではない。悪意そのものというような邪悪な笑みを浮かべる、この青年だ。
 事態がまるで読めない武彦も、半ば怒りを浮かべた目を青年に向けたが、しかし、青年も、その彼の眼差しをまるで歯牙にもかけぬ風で、にやにやと笑い続ける。
 そんな三人の様子に、冬馬と千夏は、目をぱちくりさせながら、それでも大人たちが生み出す、この異様な気配に声一つたてられない。

「奥さん、やるなら早くしてくれないと。僕だって忙しいんだよ?」

 その声に、美也子はその美貌を一層恐怖に歪ませ、弾かれたように夫の脇をすり抜けるとキッチンの奥に走り込んだ。
 その様子を唖然とした顔で見送った武彦だったが、やがて憤然と青年を振り返った。
 事態が読めないのは確かだが、それでも、彼にも一つだけ分かる事がある。さっきのやりとりからして、こいつと妻は少なくとも何らかの関係にある。ならば今日、美也子の様子がおかしかったのは、全てこの男が原因だということだ。

「――おい」
 もはや、この意図の分からぬ訪客への遠慮はない。武彦の物腰は、完全に容疑者に相対する刑事のものへと変化していた。妻を惑わせ、悩ませている下手人がこの若造だというなら、こいつは客でも何でもない。家族を脅かす単なる犯罪者だ。
「貴様、誰だ? 妻に一体何をした?」
 そのまま青年の胸倉を掴み上げ、力任せにぐいっと持ち上げる。幾多の現場で、凶悪犯をねじ伏せてきた逮捕術だ。その気になれば、こんなやせっぽちの大学生なぞ叩きのめすに雑作はない。
 さすがの青年も、その表情から笑みが消え、一滴の冷や汗が頬を伝う。現職刑事の眼光と腕力に抗えるだけの気力など、もとより持ち合わせてはいないようだ。
 そのときだった。

「あなた……その方を、放して下さい……っっ!!」



548 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 04:00:17 ID:AUz3kiXP

「まま……?」

 思わず首をかしげるような間の抜けた声を冬馬が上げた。
 だが、それも無理はない。
 そこに、景浦美也子がいた。だが、その震える手には何故か出刃包丁が握られ、血走った瞳をさらに見開かせ、その表情はまるで童話に登場する鬼女か、地獄の鬼婆のようだった。
「美也子……?」
 一方、放せと言われた武彦であったが、発言者のあまりの異様さに、逆に凍りついたように動けない。それもそうだろう。美也子と知り合って何年経つか数えてみねば分からないが、ここまで意味不明な興奮状態に陥った彼女を見たのは、初めてだったからだ。

「その方を放しなさいと言ってるんですっ!!」
 ヒステリックな叫び声に、さすがに武彦も、気付いたように青年を締め上げていた手を放す。ブザマにへたりこんで咳き込む青年を尻目に、武彦は、美也子を振り返った。
「どうしたんだ美也子……そんな危ないものを持って……いったい何の真似だ……?」
 両手を広げ、平静を失った妻に優しい声で語りかける。
 刑事が犯人を取り押さえるすべは、何も暴力だけには限らない。過去の現場で、凶器をその手に持つことで興奮した者たちを、何人も説得してきた武彦である。妻が何を興奮しているか分からないが、すぐに落ち着かせるくらいは――。

「……あなた……ごめんなさい……本当に……っっっ!!」

(ちがう)
 不意に、武彦は気付いた。
 妻はパニックになどなってはいない。
 美也子の瞳を支配していたのは、興奮などではない。――ただ一色の、漆黒の絶望。
 刑事である彼は知っていた。人に力を与えるのは安堵や安心、安寧ではない。むしろ絶望こそが、人間の魂にやぶれかぶれの行動力を与える、狂気の根源たりうるのだということを。
 その瞬間、武彦は自分の腹腔に、ぬるりと氷が突き入れられたような感覚を覚えた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいッッ!!」


 鳩尾に突き立てられた出刃包丁は、手首の回転によって一度えぐられ、引き抜かれる。たまらず身を捻った武彦の背に、ふたたび食い込んだ包丁は肺を貫き、夫の有酸素運動をすべて禁じてしまう。
「~~~~~~~~~~ッッッ!?」
 うつ伏せに床に倒れ込んだ夫を、妻の凶刃は逃がしはしない。
 武彦の臀部に馬乗りになるように腰掛け、何度も何度もその手の刃を振り下ろす。包丁という、幸福な家庭の台所を象徴する調理器具で、家族と家庭を身一つで守ってきた夫の肉を、彼女はひたすら突き刺し、貫き、抉り、切り裂く。
 武彦の意識はすでに消えていた。
 彼が、最後に耳にしたのは、愛妻の手によって“解体”される自分の肉の濡れたような音と、リビングに響き渡る隣家の大学生の嘲笑……。


 ワンピースを夫の返り血で真っ赤に染め、ゆらりと立ち上がった妻の顔は、――罪の意識どころか――うつろな笑みに包まれていた。
「御主人様……言いつけは、守りました……貴方の御命令どおり、“我が子の見ている前で”夫をこの手にかけましたわ……」
 腹を捩るような勢いで爆笑を続けていた青年は、涙を拭いながら胸をさする。笑いすぎて呼吸困難になってしまったと言わんばかりに、軽く咳払いで彼女に答えた。
「……すごい、すごいよ奥さん……まさか、本当にやるなんてね……」
「これで……わたしとおなかの赤ちゃんを……御主人様のものにして戴けますね……?」


550 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 04:02:41 ID:AUz3kiXP

「ごめんなさい、その、千夏さん、……私の理解が追いつかなくて申し訳ないんだけど、結局のところ、いったい何が起こったの? 何故あなたたちのママは、夫を殺さなくちゃいけなかったの?」

 ためらいがちに放たれた弥生の質問に、千夏は答えず、しばし視線を眼下の紅茶に落とす。すっかりぬるくなってしまったダージリンが、そこにはあった。
 弥生は焦れたような顔をしたが、それでも辛抱強く、千夏の口が開くのを待ち続ける。

「……母は……浮気をしていたんだよ……」
 やがて、数分ほどの沈黙を破り、千夏がポツリと言った。
 だが、そこまでは弥生にも分かる。訊きたいのはそこから先だ。
 浮気をしていたからといって、それを理由に亭主を殺すなどあまりに行動が飛躍しすぎている。離婚したいのなら、そこから先は法的な話になるはずだし、それで生じた修羅場の挙げ句、夫を殺したというならまだ解釈の仕様もあるが、どうやらそうではないらしい。
 つまりさっきの千夏の説明だけでは、彼女たちの母の犯行動機が、まるで異なる時代か文明圏の人間であるかのように、弥生にはまったく理解できないのだ。
 だが、そんな彼女に、千夏は答えた。

「そして母は……浮気相手の大学生に……完全に支配されていたのさ……それこそ身も心も、ね……」

 支配?
 どういうことだ? 
 仕事人間の夫の不在中に、浮気を楽しんでいたという雰囲気ではないというのは、話から大体察する事が出来たが、しかしそれでも“支配”という言葉は、相互理解を旨とする『恋愛』という共同作業から、余りに逸脱しているではないか?

「……警察の事情聴取で分かったらしいけど……母は……薬物や催眠術……さらにSM的な心理操作のあらゆるテクニックで……その大学生に一方的に依存するように……「調教」されていたらしい……精神的にも……肉体的にも、ね……」
「じゃあ、あなたたちのママは……!?」
「その大学生に……ただ“命令された”んだそうだ……そうしなければ、二人の関係もこれまでだと言われて……」

 その言葉に、弥生は息を呑まざるを得なかった。
 そんな事が可能だというのか。
 どこにでもいる人妻を、我が子の前で夫を殺させることができるほどに、完全に支配する事ができるというのか。人間は人間の魂を、そこまで完璧にコントロールする事が出来るというのか。

「無論……誰にでも出来ることじゃない。……その男は……心理学を専攻する医大生で……薬物も、同期の友人から簡単に入手可能だったらしい……」

 そんな男に目をつけられた母こそ哀れだ。
 そう言わんばかりの千夏の瞳であったが、しかし、弥生は容赦しなかった。なにより、肝心な事をまだ弥生は聞いていないのだ。つまり、冬馬が母を自殺に追いやったと言う、おゆきの言葉の真実を。
「それで、どうなったの?」
「…………」
「教えなさい。あなたの母親が父親を殺した。それで、そこからどうなったの?」



「その野郎は調子に乗ったんだろうな。またまた、とんでもない命令をお袋に出しやがったんだ」
「とんでもない命令?」

 遠い目をしながら語りつづける冬馬に、葉月は尋ねた。
 無論、兄の瞳には、過去を懐かしむ光は一分もない。己の闇の深淵を覗き込むような、彼女が初めて見る暝(くら)い眼差しだった。

「今度は、おれたちを指差して、ついでだからその子供たちも殺してみてくれって言いやがったのさ。その間男野郎が、さ」



551 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 04:04:03 ID:AUz3kiXP

 さすがに葉月も唖然となった。
 その男は、本当に人なのか。人間はそこまで他者に残忍になれるものなのか。
 だが、兄は生きている。千夏という少女も生きている。つまり美也子は、その男の命令に逆らったという事になる。しかし、自分の夫さえ殺してしまうほどに意思を奪われた女が、我が子に対する母性本能が残っていたとは、葉月には到底思えないのだが……。
「さすがにお袋といえども、我が子は殺せなかったんだろうさ。心理学専攻だか何だか知らねえが、あいつはお袋を追い詰めすぎた事に気付いていなかった。結局、お袋は――」
 そこで冬馬はワンカップをぐいっとあおると、
「逆ギレのあげく、今度は、野郎を刺し殺しちまった。親父を殺った包丁でな」


「それから……どうなったのですか……?」
「どうもしやしねえ」
 苦虫を噛み潰したような顔で冬馬は言った。
「お袋はそのまま逮捕されちまったが、心神喪失状態の犯行ってことで、裁判でも無期や死刑は食らわなった。確か、懲役10年か15年ってところだったかな……」
 軽い――と、さすがに葉月も思った。
 二人も殺して、その程度の刑期で済んだというなら、よほど腕利きの弁護士か、よほど人がいい裁判官が事件を担当したのでなければ考えられない判決だ。

「むしろ、すべての責任は死んだ大学生に押し付けられた形になっちまった。現役の医大生が薬物まで使って、一人の女の理性を奪い、現職警官の夫を殺させたってな」

 なるほど。たしかに分からない話ではない。
 現職警官の家族が絡んでいるなら、美也子を起訴した検察も随分悩んだ事であろう。
 浮気女房が、トチ狂って亭主を刺した――というだけの単純な事件ではない。彼女に夫を殺すように示唆したのは、その大学生であるし、そもそも美也子は彼の命令に逆らえないように正気を奪われていた。
 なにより、刑事の妻が夫を殺したなど、警察にとっては醜聞もいいところだ。死んだのを幸い、全ての責任をその大学生になすりつけ、可能な限り、美也子の立場を哀れな被害者にとどめた方が、まだ世間的にも聞こえはいい。
 警官の身内が不祥事を起こしたというスキャンダルを避けるためにも、当時の検察としては、そうするしかなかったのだろう。
――そう葉月は推測した。

「結局、お袋がムショにぶちこまれてからしばらくして、おれと千夏は、親父の……景浦の遠縁の親戚とやらに引き取られたんだが……」
 そこで言葉を切ると、冬馬は重い視線で葉月を一瞥し、まあ、その話は今度でいいか、と溜め息をつくと、言った。
「それから何年か経って、お袋が、あの大学生のガキを獄中で出産したって聞いて、――まあ当然、その子は施設に送られたらしいが――おれと千夏がその子に会いに行ったら、その赤ん坊に妙に懐かれちまってな。時間が空き次第、何度もおしめを換えに行ったものさ」
「じゃあ、それが……」
「ああ、さっきの“おゆき”だ。今でこそ、あんなだけど、昔は可愛かったんだぜ?」
 冬馬は、そこまで言って、初めて過去を懐かしむような瞳をした。

 彼の話によれば、事件が起こったのは十年前だというから、あの少女が“浮気相手”の娘だとすれば、いまは10歳か9歳ということになる。
「なるほど……」
 葉月は、家に来たばかりの兄を徹底的に無視していた自分を思い出す。なるほど確かに、思春期に入りたての女の子というものは、おしなべて態度が鋭くなるものであろう。
 だが、兄の話は、いまだに“本題”に入ってはいない。
 その“おゆき”が、彼に決定的な感情を持つに至る発端となったエピソードを、彼はまだ語ってはいないのだ。


「で、それからまたしばらく経って――あれは、おゆきが6歳になった誕生日だったか――、ム所のお袋から手紙が来たんだ。逢いたいってな」




552 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 04:05:51 ID:AUz3kiXP

「……面会室で、母は言ったよ……いまの自分は模範囚で、あと二年も経てば仮釈放になるらしい……だから……そうなったら……親子四人、一緒に暮らそうって……」
 そこで、千夏はしばし言葉を切り、瞑目した。

「それで?」
 とは弥生は言わなかった。
 眼前の少女が、ようやく本題――彼の過去にまつわる暗部の一幕――を語ろうとしている。そういうときには、何気ない合いの手さえも、話の腰を折る雑音となりかねないということを、この利口な娘は知っている。
 どれだけ焦れようが、こっちが沈黙を守ってさえいれば、千夏は全てを語ってくれるだろう。

「おゆきは飛び上がって喜んだよ……。なにせ、私たちがよく会いに行ってたと言っても……あの子はまだ施設にいて……生まれてこの方、母の愛をついぞ知らずに育ってきた……不憫な子だからね……」

 その言葉から察するに、どうやら冬馬と千夏やおゆきのもとには、美也子から手紙などのやりとりがあったようだ。少なくとも、おゆきは、その獄中の女を自分の母親として認めていたらしい。
 まあ、いい。そんな事はしょせん重要ではない。少なくとも自分にはどうでもいい事だ。
――弥生は、心中でそこまで思考を巡らしながら、千夏の話を聞き続けた。

「でも、お兄様は……兄は、その瞬間、席を立って言ったよ……『お断りだ』とね……」
「…………」
「あなたは、すでにおれたちの母ではない……父を殺した犯罪者に過ぎない。親の仇と一緒に暮らすくらいなら……死んだ方がマシだ……」
 千夏は、そこで紅茶を一口含み、喉を潤すと、
「……そう、言ったんだよ」
 と言って、カップを置いた。

 弥生はそこまで聞いて、しばし違和感に首をひねらざるを得なかった。
 冬馬の言い分も分かる。分かるが、……あの冷静な弟が、場の空気もわきまえずに、そんな事を言うだろうか? たしかに冬馬は、その内心に火のような激しい気性を秘めているが、その攻撃性を簡単に表に出すほど迂闊な性格ではない。
 たとえ美也子という女性が何をしたとしても、仮にも孤児であった自分を引き取り、愛してくれた“育ての母”には違いないのだ。しかも彼女が不貞を働いた裏には、相手の医大生が薬物を利用し、理性を失わせていたという事実も発覚している。
 そんな女性に対して、しかも欣喜雀躍していたらしいおゆきの眼前で、そんな雑言を吐くだろうか?

「……兄がそう言うのも、まあ当然なのさ……。逮捕された母から私たちを引き取った遠戚は……それこそ、人の顔を被った悪魔のような……そんな夫婦だったからね……」

 その一言に、弥生は目を細めた。
 ならば、冬馬の身体中に刻まれた、あの傷痕も、その新しい“両親”の仕業であるに違いない。そこまで分析して、しかし弥生はたまらず口を挟んでしまう。
「そんなにひどい親戚なら、なぜ二人で逃げなかったの?」
 だが、千夏はその質問を冷笑した。
「……逃げて、どこへ行くというんだい……?」
「どこって……」
「私たちの帰るべき場所は……もうとっくの昔にこの世から無くなっている。……木っ端微塵にしたのは……他ならぬ私たちの母だ。そんな母を……兄は……それこそ心の底から憎み抜いていたのさ……」

(……なるほど)
 そんな事情があったのなら、あるいは弥生も、冬馬の暴言を納得できる。
 自分たちを地獄に追いやった原因を作った女性から、『一緒に暮らそう』などと言われたら、いかに彼といえども平静ではいられないはずだ。第一、その当時まだ冬馬は年端も行かぬ中学生でしかないはずではないか。


「そしてその夜……母は自殺したよ……遺書に『ごめんなさい』と一言残してね……」



553 傷 (その5) sage New! 2008/11/19(水) 04:09:04 ID:AUz3kiXP

「……兄も相当のショックを受けていたけど……やはり、一番衝撃を受けていたのが……おゆきさ。……あの子はそれ以来……兄を『人殺し』と呼んで……会おうともしなくなったからね……」

 弥生は、しばし絶句していたが、しかし搾り出すように口を開いた。
「その子は……おゆきちゃんは知っているの? 冬馬くんと貴女が、その親戚のもとで、どんな苦労をしたのか?」
「……そりゃ、知っているよ……ニュース種にもなったくらいだからね……」
「ニュース?」
 思わぬ単語に、弥生も目を細める。
 ニュース種というからには、TVや新聞で報道された事件に関わっている、という事になるが、実子を虐待の余り死に至らしめたというならともかく、単に継子イジメ程度の話では、近年のニュースはさほど大きく取り上げないはずだ。
 ならば、冬馬と千夏に直接関わる虐待以外の何らかの事件を、その“親戚”とやらが起こしたということか?


「貴女も知っているだろう……芹沢家強制売春事件を……? あの一家こそが、私と兄を引き取った“親戚”なのさ……」


 弥生は、あっと声を立てそうになった。
 芹沢家強制売春事件――。
 日本全国の育児施設から20人近くの孤児を引き取り、一代の慈善活動家として名を馳せた芹沢孝之夫妻が、そのウラで、ノーマルな性行為に飽きた政財界の変態どもを相手に、養子の少年少女たちを抱かせ、多額の報酬を受け取っていたという、あの事件。
 強制売春の元締たる芹沢孝之は「平成のジル・ド・レー伯爵」と謳われ、連日連夜TVをにぎわせたが、政財界の大物たちを顧客として巻き込んでいることから、いまだに事件の全貌が明らかになったとは言い難く、現在でもなお公判が続いている大事件である。
 千夏ならば、その幼少期も輝くばかりの美貌を誇っていた事であろう。芹沢のごとき鬼畜が親戚にいたならば、千夏を引き取るために「冬馬を含めて兄妹まとめて面倒を見る」くらいは言うであろうし、何も知らない幼い兄妹なら、その“親戚”を喜んで頼ったはずだ。

「芹沢が逮捕されて……おゆきは初めて……私たちの“里親”が誰だったのかを知った……それで……あの子も少しは……あのときの兄を理解したはずだが……だからと言って……それで丸く収まるほど……人の心は簡単じゃない……」
 そう言って千夏はふたたび俯いた。

「…………」

 弥生は、いかにも傷ましいものを見る視線で千夏を見つめていたが、その内心では、実はまったく別の事を考えていた。
(冬馬くんが芹沢事件の関係者ならば、この娘と同じく、変態どもに身体を売らされていたって事よね。なら、冬馬くんの深層心理には、やはりセックスに対する多大なトラウマが眠っている……?)
 ならば、24時間体制で監視しているはずの弟が、いまだに自室で自慰一つしようとしないのも、もしかしたら“浮気”ではなく、そのトラウマが原因なのかも知れない。
(ならば、それを利用しない手はない)
 そのトラウマこそが、愛する弟を自分に振り向かせるための鍵となるはずだ。
 なら、この女は――まだ利用価値がある。

「ありがとう、千夏さん。……つらい話を無理にさせてごめんね」

 そう言いながら、テーブルに載せられた請求書を取り上げ、ここは私が払っておくとポーズを示し、
「今後とも“お友達”として、弟の話を聞かせて欲しいから……連絡先だけでも教えてくれる?」
 そう囁く弥生の穏やかな瞳に、内心の黒い計算はまったく感じ取れない。
 その笑顔に応えるように、千夏は、神々しいばかりの微笑を浮かべた。
(でも、……仲良くしてあげるのは、仲良くする必要がなくなるまでよ、お嬢ちゃん)

 千夏の、その美しい笑顔に、あらためて弥生は心に誓った。

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最終更新:2008年11月23日 22:29
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