【世界の黄昏に愛する人と】(1)

492 【世界の黄昏に愛する人と】(1) 1/4 sage 2009/01/02(金) 03:21:18 ID:3B1y5CUw
 黄金色をした金属製の球体だった。
 地球儀をかたどっているのだろうか、表面には各大陸の輪郭と経緯線が彫り込んである。
 それに加えて太平洋に相当する部分には人間の眼のかたちが彫られている。
 地球儀に描かれた眼。
 美術品として作られたとすれば、さほど優れた作品とはいえない。
 奇妙なデザインではあるが強く印象に残るものではない。
 素材が純金であるとすれば、その重量分の経済価値しかないであろう。
 そして――それが、たとえば駐輪場に停めた自転車のカゴの中に入っていたとすれば。
 本物の金で作られたものだとは誰も考えまい。ただのガラクタとしか思わないであろう。
 外見的には。
 手を触れてみるまでは――
 自分の自転車のカゴの中に、いつの間にかそのようなものが入っていれば、誰でも手を触れてしまうだろう。
 その場に捨てていくか、他人の自転車のカゴに黙って移し替えるか。
 あるいは落とし物として駐輪場の管理人に預けるかは、人それぞれとしても。
 だが。
 手を触れた途端、彼あるいは彼女は、知ってしまうのだ。
 それの、真の価値を。
 それが持つ、力を――


   【世界の黄昏に愛する人と   第一章 陽祐】


「ふぁ……、あ……」
 校門からバス停までの坂道を下りながら、陽祐(ようすけ)は、あくびした。
 授業中ほとんど寝ていたのに、まだ眠い。予備校で寝るわけにはいかないけど。
「――セ・ン・パイッ!」
 肩を叩かれ、振り向いた。
 麻生夏花(あそう・なつか)が微笑んでいた。陽祐に追いついて隣に並び、
「陽祐センパイ、朝も帰りも一日中、眠そうですねぇー?」
「朝なんか会ったか?」
「駅で見かけたんですよぉ。でも声かける前にセンパイ、電車に乗っちゃって。あたしは乗り遅れて次の電車」
「……はーん」
 陽祐は曖昧にうなずく。
 電車に乗ったというから地元の駅のことだろうが、陽祐にとっては、どうでもいいことだ。
 陽祐は私立高校の三年生で、夏花は二年下の後輩だった。
 地元が一緒で同じ中学の出身である。
 並んで歩けば、陽祐と夏花は絵になるコンビだ。
 白いシャツと紺のネクタイという夏の制服が二人ともよく似合う。
 陽祐は先月の県総体を最後に引退するまでは水泳部員で、肩幅があって引き締まった体つき。
 端正な顔が日に焼けていないのは学校のプールが屋内にあるからだ。
 一方、夏花は現役の水泳部員である。
 セミロングの艶やかな黒髪に、かたちのいい眉と涼しげな眼。通った鼻筋に、ぷっくりした唇。
 体つきはスレンダーで、きわどく丈を詰めたスカートから伸びた脚が周囲の視線を惹きつけずにおかない。
 もっとも陽祐は、あえて眼を向けないようにしていたが……


493 【世界の黄昏に愛する人と】(1) 2/4 sage 2009/01/02(金) 03:22:10 ID:3B1y5CUw
「……おまえ、部活はどうした?」
 陽祐はたずねた。
 たとえサボりでも夏花自身の競技成績が落ちるだけで知ったことではないが、ほかに話題がない。
 すると夏花は、くすくす笑い、
「やだなぁ、きょうはサボりじゃですよぉ。テスト前だからお休みでぇす」
「ああ、そっか……」
 苦い顔でうなずく陽祐に、夏花は屈託のない様子で、
「陽祐センパイもテスト勉強で眠いんじゃないんですかぁ?」
「学校のテストなんか無視だよ。こっちは受験で手一杯だ」
「そっかぁ、受験生だから。そうでしたよねぇー……」
 ふむふむと夏花はうなずくと、ちらりと上目遣いに陽祐の顔を見た。
「じ・つ・はぁ、クラスの子に、陽祐センパイを紹介してくれって頼まれたんですけどぉ?」
「……あ?」
 眉をひそめる陽祐に、夏花は、にんまりと笑い、
「可愛い子ですよぉ? ほら、こないだ学食でセンパイと会ったとき、一緒にいた子ですけどぉ」
「ンなの、相手してる暇ねーよ」
 さらに渋い顔になる陽祐に、夏花は笑顔のままで、
「もちろん受験生だし答えはそうでしょうけど、いまフリーかどうかだけ確かめてくれって頼まれちゃってぇ」
「聞いても答えなかったと言っておけ」
「うーん、そうですかぁ」
 夏花は両手を広げて肩をすくめる芝居じみた仕草をした。
「彼女、センパイの趣味とか好きな歌手は誰かとか、しつこく聞いてくるんですよねぇ」
「…………」
 陽祐が仏頂面のまま答えずにいると、夏花は、ふふっと悪戯っぽく笑い、
「まぁ、あたしも中学のとき、美沙(みさ)に同じことしたから文句言えないですけどぉ……」
 美沙は陽祐の妹で、夏花とは中学の同級生だった。いまは県立の女子高に通っている。
「……でも、元カノのあたしにそんなこと聞くなんて、遠慮ないですよねぇー?」
 陽祐は返事をしなかった。
 一方的にフラれた元カノに、いま彼女がいるのかと訊かれても答える気になれない。
 坂の下の停留所にバスが着くのが見えた。並んでいた生徒たちが乗り込み始める。
「……俺、予備校急ぐけど、おまえは?」
 たずねる陽祐に、夏花は微笑み、
「どうぞぉ、行っちゃってくださぁい」
「わりーな」
 陽祐は駆け出した。
 ぎりぎりでバスに乗り込み、吊り革につかまって窓の外を見ると、夏花がこちらに手を振っていた。
 だが、すぐにバスは角を曲がり、夏花の姿は見えなくなった。


 陽祐が予備校から家に帰り着いたのは夜の九時半過ぎだった。
 ドアの鍵を開けて玄関に入る。
「……たでーまー」
「おかえりー」
 奥から美沙の声がして、パタパタとスリッパで駆けて来た。
「ネギは?」


494 【世界の黄昏に愛する人と】(1) 3/4 sage 2009/01/02(金) 03:22:55 ID:3B1y5CUw
「……え?」
 通学靴を脱ぎながら陽祐はきき返す。
 何故だかエプロン姿の美沙は、腰に手を当てて口をとがらせ、
「メールしたじゃない、買って来てって」
「わりー、読んでねーよ。オフクロは?」
 たずねながらスリッパを履く。
 美沙がエプロンなど着けて主婦の真似をしているのは母親が風邪でもひいたのかと思ったのだが、
「まだ帰ってない」
「まだ? どこか出かけてんの?」
 美沙の横を抜けて陽祐は居間へ向かう。美沙はあとを追って来て、
「なに言ってんの、クラス会でしょ。きのうも今朝もママが言ってたじゃない」
「そうだったか?」
「だから晩ごはんは美沙が作るって。もうっ、お兄ちゃんってば、いつも人の話を聞いてない!」
 ふくれ面をする美沙に、陽祐は気まずく口をつぐむ。
 美沙は陽祐から見ても、よくできた妹だった。家の手伝いは当然のようにやるし、学校の成績も優秀だ。
 おまけに見映えも悪くなかった。
 生まれつき栗色のふわふわした髪に、くりくりと表情豊かな眼に、人形みたいに整った小作りな鼻と口。
 中学時代はよくモテて、複数の男子から告白されたが全て断っていたとは夏花からの情報だった。
「なんだか美沙ってぇ、男嫌いじゃないかと思ってぇ……」
 実際、美沙は県立を含めて女子校ばかり受験していたから、夏花の分析も当たっているのかもしれない。
 とはいえ、妹の恋愛事情など兄が心配することでもないと陽祐は思っている。
 つまらない男に遊ばれて泣かされるようでは困るが、しっかり者の美沙にはその心配もないだろう。
 居間にはソファにテレビ、AVラックにパソコン一式などが揃えてある。
 美沙はアニメのDVDを観ていたようだ。
 一時停止された画面には虎縞のビキニを着た鬼娘のキャラクターが映っている。
 アニメに興味がない陽祐はソファに通学鞄を放り投げ、続き部屋のダイニングキッチンへ向かう。
 だがテーブルに夕食が並べてあるのかと思ったら、箸しか用意されていなかった。
「冷蔵庫に冷しゃぶサラダが入ってるから出して。お皿二つに分けてあって、一つはパパの分だから」
 美沙が種明かしのように言いながらキッチンに立った。
「いまお素麺、茹でるから。ネギがないから薬味は生姜だけで我慢してね」
「ああ……」
 言われた通りに冷蔵庫を開けると、きちんと皿に盛りつけてラップをかけられた料理が作り置いてあった。
 見た目は母親の料理と遜色ない。
 美沙が水を張った鍋を火にかけて、振り向き、
「あと麦茶も冷やしてあるけど、それとも温かいお茶がいい?」
「とりあえず、ビールにするわ」
 陽祐が缶ビールを冷蔵庫から引っぱり出すと、美沙は眉を吊り上げた。
「ばか、なに言ってんの。ちょっと、やめて!」
「いいじゃん。オフクロもオヤジもいねーんだから、飲ませろよ」
「だめ、絶対だめ! どうしても飲みたいなら美沙が見てないところで独りで飲んで!」
 本気で怒りだした美沙に、陽祐は苦笑いして、
「ほんと優等生だな、おまえ。クラス委員長向きだよ、来年こそ立候補しろ」
「ほんっと、頭にくる! お兄ちゃんには二度とごはん作ってあげない!」
「じゃあ、これが最後の晩餐か。じっくり味わって食うとするか」
 陽祐はビールを冷蔵庫に戻し、自分の分の料理をテーブルに並べた。


495 【世界の黄昏に愛する人と】(1) 4/4 sage 2009/01/02(金) 03:23:43 ID:3B1y5CUw
 美沙は、くすくす笑いだす。
「……まったく、お兄ちゃんってば悪い冗談ばっかり」
 どうやら冗談だと思ってくれたらしい。ビールを出したのは本気だったけど、機嫌が直ったのはありがたい。
 素麺が茹で上がる前に、陽祐は冷しゃぶサラダから食べ始めた。
 味は母親と遜色ない。妹の手料理を口にする機会は多くはないが、なかなかの腕前と認めていい。
 やがて出てきた素麺の茹で具合も問題なしだった。
 美沙は父親の分も一緒に茹でて水にさらしてから、ざるに移しラップをかけて冷蔵庫にしまった。
 食後は皿洗いをしようと陽祐は申し出たが、それより風呂に入るよう勧められた。
「このあとも勉強するんでしょ、お兄ちゃん?」
 にっこり笑顔で言われると、やらざるを得ない気分になる。
 きょうは眠いから自宅学習はナシにしようと思ったのだけど。


 二階の自室で陽祐が勉強しているうちに、母親が帰って来たらしい。
 玄関まで迎えに出た美沙と話す声が聞こえてきた。十一時過ぎのことだ。
 やがて、零時を回って父親が帰宅した。美沙はまだ起きていたようで、母親と三人で話す声がした。
 陽祐は机に広げていた勉強道具を片づけてダイニングへ降りていった。
 父親と母親がテーブルについてビールを飲んでいた。
 母親は風呂を済ませたらしくパジャマ姿で、父親は背広の上着だけ脱いでいる。
 キッチンで素麺を茹でていた美沙が、陽祐に気づいて振り返り、
「お兄ちゃんも、お素麺食べる? ママが夜食にするって」
「素麺はいいや」
 陽祐は食器棚からグラスを出して、テーブルについた。父親にグラスを突き出して、
「俺も、いい?」
「まあ」
 クラス会帰りでテンションが上がっているらしい母親は、おどけるように眼を丸くした。
「オヤジと酒を酌み交わそうなんて、一年早いぞ」
 言いながらも父親はまんざらでもない顔で、陽祐のグラスにビールを注ぐ。
 陽祐は美沙の顔を見て、にやりと笑ってみせた。
 美沙は口をとがらせながら、皿に盛りつけたキュウリの糠漬けを運んで来て、
「一年じゃ、まだお兄ちゃん十九じゃないの」
「大学生になれば酒と煙草と賭け麻雀は解禁だよ。なあ、陽祐?」
 父親が言って、母親が、
「あら、賭け麻雀はまずいでしょ。せめてパチンコじゃないの?」
「やだもう、この家のオトナ。つき合いきれない。先に寝ちゃえばよかった」
 美沙はあきれた顔で、火にかけた素麺の鍋の前に戻る。
 その背に向かって母親が、
「美沙ちゃんも一杯やる? 仲間にお入りなさいな」
「結構です!」
 美沙は振り返らずに答えた。
 本気で怒っているような口ぶりだったが、母親も父親も笑うばかりだった。


 ――そして翌朝、陽祐は異変を知った。
【第一章 幕】

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最終更新:2009年01月06日 20:43
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