692
未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:07:31 ID:Q/D96k9j
コンコン
「どうぞ」
「失礼します」
「おや、誰かと思ったら優香君じゃないか。よく此処がわかったね」
「藍園さんに伺いました。こんにちは、片羽先輩。こちらお土産です」
「おっと、ありがとう。鉢植えだね、飾っておくよ」
「それにしても、変わった部屋ですね」
「ああ、僕の部屋に入る人は大抵そう言うんだ。ちょっと、らしくないからね」
「体に障ったりはしないんですか?」
「大丈夫。僕の問題は別のところにあるからね」
「なるほど。というと?」
「ふふん。恋することのできない病、さ」
「は?」
「ところで榊君は一緒ではないんだね」
「ええ、まあ。私も、帰る時に思いついただけで、兄さんは違う学校ですから」
「なるほど。特に一緒に来る理由はない、ということかい?」
「そうです」
「優香君は。お兄さんとは、あまり仲は良くないのかな」
「兄さんに聞いたんですか?」
「まあね。榊君は、自慢の妹だとベタ褒めだったよ」
「兄さんは兄さんで、私は私です。別に、わざわざ……仲良くする必要は、ないと思います……が」
「なにか苦しそうだけど大丈夫かい、優香君」
「問題ありません」
「つまり一般的な兄妹の距離感、ということだね。僕はてっきり、何か榊君を恨んでるのかと思ったよ」
「……何を根拠に」
「ああ、気分を害したなら謝るよ。わざわざ来てくれた客人に不躾過ぎたね。この通り」
「いえ、頭を下げられても困ります。それより何故、そう思ったんですか?」
「まあ、そこは環境と勘、さ」
693 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:08:33 ID:Q/D96k9j
片羽先輩が学校に来なくなって一週間が経った。
あの人とはまだ、連絡が取れない。
「はあ……」
「なんだなんだ榊。今日も冴えねーな」
「ああ……ん、まあな」
「あの先輩にフラれたのがそんなにショックなのかよ。もう一週間なんだし、いい加減吹っ切ったらどうだ?」
「フラれてねーよ!」
「どおお! 落ち着け榊! ギブギブ!」
「そんなんじゃなくて……連絡が取れないだけだよ」
「それをフラれたってーか自然消滅って言うんじゃね?」
「………」
「絞めんなって! わかった、なら会いに行けばいいじゃねーか!」
「先輩のクラスも見て来たんだけど、どうも休んでるみたいでさ……それも心配なんだよなあ……」
「風邪でもこじらせてんじゃね? まだ六月に入ったところだけどよ」
「かもしれないけどさ……だったらお見舞いぐらい行きたいよ」
「家、知ってんのか?」
「わからない……徒歩通学だから、学校の近くだとは思うんだけど……先輩のクラスに行っても教えてくれなかったし」
「あー、個人情報だから仕方ねーな。ていうか、上級生のクラスに毎日顔出してたのかよ。必死すぎ」
「美術部にも顔を出したけど、先輩の家は知らなかったし……あの人、友達いないみたいだ……」
「ふーん。人当たり良さそうな先輩だったけどなあ。美人だし」
「はあ……」
教室での昼休み。食事もそこそこに、机に突っ伏してため息をつく。
この一週間、ため息ばかりついている気がする。
ため息の原因を何とかしようと、できる限り動き回ってみたけど、結局手がかりは得られなかった。
最初は。部活を尋ねていけば、先輩の友達にでも住所を聞けるかと思ったけれど。柳沢の言うとおり、先輩に友達がいないのは誤算だった。
携帯は、やっぱりずっと電源が切れていて。それでも、毎日何回も短縮を押し、メールを打ってしまっている。
それでも諦められず、毎日先輩のクラスに顔を出したり、先輩と一緒に話した場所をうろついてるけど。傍から見ればストーカーなのかもしれない。
けれど……会いたかった。先輩に、会いたかった。
元々、連絡の途切れることが多い人だったけど。一週間も会えないというのは初めてだ。
いや……携帯番号を交換する前は、普通にそれくらいは開いていた。そのときは何てこともなかったけど、今はこんなにも、胸が掻き毟られる。
なんでだろう。
何度も、何度も。日曜日の最後、別れ際に笑った先輩の姿を思い出す。そのときの言葉を思い出す。
『それじゃ榊君。また会おう』
『はいっ。また明日』
あのときの俺は。なんの疑いもなく、次の日もまた片羽先輩に会えると思っていた。
けれど今思えば先輩は、また明日という約束に答えなかった。
あの人は、次の日に会えないと知っていたんだろうか。
けれど、また会おう、と言っていたじゃないか!
あの人の声が、聞きたかった。片羽先輩らしく、また胸を張ってほしかった。
けれど、今の俺には待つことしかできなくて。ああ、先輩に会いに行きたい、会いに行ければいいのに。
「となると、後は夜中に職員室に忍び込んで名簿を盗み出す! とかどうだ?」
「するわけないだろ……」
「ホントにしおれてんなあ。そこはツッコめよ」
「はあ……」
「後はそーだな。あー、そういやボーリングのとき、あっちの方向って言ってたよな」
「そういえばそうだけど。方向だけわかっても仕方ないだろ、どれだけ行けばいいのかもわからないし……」
「いや、ほら。たしか優香ちゃんの友達が、一緒に帰ってたじゃん。途中の道順ぐらいならわかるんじゃね?」
「!」
694 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:08:59 ID:VA84KB75
そうだ……そうだ! あの日、晶ちゃんは先輩と一緒に帰ったんじゃないか!
もしも晶ちゃんの家のほうが遠かったなら、先輩の家まで付き添ったかもしれない!
そうだ、聞こう。今すぐ聞こう。落ち着け、俺。
晶ちゃんは携帯を持ってはいない。連絡を取るには放課後中学校に行くしか……いや、この時間なら!
自分の携帯を取り出し、アドレスから短縮を呼び出してプッシュする。
PRRRRRRR
PI
『もしもし。なんですか、兄さん』
「優香! 晶ちゃんに代わってくれないか!?」
「教えてよかったんですか?」
「不本意ですが、知らない場所で暴発されるより適度に発散した方がマシでしょう。私も放課後に向かいます」
「しっかし、榊先輩切羽詰ってましたよねー。アレはもう惚れてんじゃ?」
「……釣橋効果の一種かと思います。対象への不安を、恋愛感情と混同しているのではないでしょうか」
「なーるほどー。にしても、思い込んだら一直線なところに、ちょっと血の繋がりを感じましたよ」
「兄妹ですから」
「話は戻るんですが。榊先輩も物好きですよね。知り合って間もない先輩をそこまで気にかけるなんて、やっぱり外見は偉大だってことでしょうか」
「おそらく突然の不在期間で、幻想を膨らませてしまったのでしょう。実際に会えば幻滅しますよ。男女関係というのは、適度に離れた方がうまくいくものです」
「え、その発言は妹キャラ的にどうなんですか?」
「私が兄さんに与えるイメージは完璧です。幻滅だなんて、ボロを出すような真似はしませんよ」
「なんか色々墓穴を掘っている気がしないでもないですが。まあ、参考にさせてもらいますから、適度に頑張ってくださいねー」
695 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:09:51 ID:VA84KB75
先輩に会うため、早退した。
もちろん。本来なら、その日の放課後まで待って、晶ちゃんに教えてもらった住所に向かうべき、だということはわかっている。
けれど、居ても立ってもいられなかった。あと二時間、我慢するなんてとてもできなかったのだ。
柳沢には盛大に呆れられたけど、体調不良ということで口裏を合わせてくれた。感謝。
校門前で、ちょうど来ていたバスに飛び乗る。
自分でも。
自分でも、こんなに片羽先輩に会いたい気持ちが募っていたなんて、思いもしなかった。
教室からバス停まで走りきったせいだろうか、動悸が激しい。どきどき、どきどき。
けれど動悸が激しいのは、もしかしたら運動のせいだけではないのかもしれない。体温が高いのは、陽気のせいだけではないのかもしれない。
夕陽の中で交わされた、妹の会話を思い出す。
『それは、男女として、ですか?』
『んー、どうかな。それはまだわからないけど。今は、普通に話してるだけで十分かな』
あの時、何気なく口にした言葉は、本音だった。
先輩との会話が、勉強ばかりの日々をどれだけ潤してくれたことか。陳腐な物言いだけど、失って初めて気付いたんだ。
バスの停留所案内を見て、自分が何処で降りるべきか確認する。
市立病院。
それが、晶ちゃんから聞いた、先輩のいる場所だった。
うららかな初夏の日差し。
そよ風にはためく、クリーム色のカーテン。
窓から臨む青い空。ざあざあと伝わる、街の発するざわめき。
ある平日の昼間、市立病院の個室で。
片羽桜子はベッドに腰を降ろして、イーゼルに立てかけられたカンバスに筆を走らせていた。
服装は水色の入院着。膝の上には使い込まれたスケッチブック。窓際にはサフランの小さな鉢植え。
壁の一面には彩色の終わったカンバスが何枚も立てかけられ、反対の一面には画材が積まれている。その上には、ハンガーに掛けられた制服。
病室らしく清潔に保たれてはいるが、まるで画家のアトリエのような一室だった。
「ふう」
一息ついて、片羽桜子が筆を置く。小休止。
テーブルに置かれた水を飲み、自分で肩を揉みながら窓の外を見やる。
そのまましばらく病院の庭を眺めていた彼女は、おや、と目を丸くする。
見覚えのある後輩が正門に止まったバスから飛び出して、正面玄関に走っていくのを発見したのだった。
「おお、まだ授業中のはずなんだが……若いなあ、榊君」
696 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:10:44 ID:Q/D96k9j
「片羽先輩っ、大丈夫ですかっ!」
「やあ、いらっしゃい榊君。ひとまず水でも飲んで落ち着いたらどうかな、ほら」
「あ、はい」
ごくごくごく。
……あれ?
「落ち着いたかな?」
「じゃなくて! その、先輩……」
「ん? ああ。季節の変わり目だから入院してたけど、体調については大分良くなったよ。あと二三日で登校できるんじゃないかな」
「そ、そうなんですか。よかったあ……」
先輩の無事を確認して、へなへなと力が抜けた。此処まで走ってきた疲労がもろに出て、自分の膝に両手をつく。がっくり。
なでなで、とベッドに半身を起こした先輩が手を伸ばして、俺の頭を撫でた。
「ふふん。榊君は可愛いな。よしよし」
「や、やめてくださいよぅ」
わたわたと先輩とじゃれつく。ああ、癒されるなあ……
いや、男としてどうなんだ榊健太、飼い犬みたいな扱いを受けるというのは。まあ心地よいしどうでもいいか。
けど自分で言うのもなんだけど、先輩はちょっと落ち着きすぎじゃないだろうか。俺は平日の昼間に、学校を早退していきなり訪ねてきたんだから、もうちょっと驚いてもいい気がする。
「なに。この窓から正面玄関に入る君が見えただけだよ。さっきは驚いたとも。授業はちゃんと受けないと損だよ」
「ご、ごめんなさい。けど、先輩が入院してるって聞いて。いても立ってもいられなくて」
「入院なんて僕にとっては実家帰りみたいなものさ。珍しい話でもなし、気にしないでいいよ」
「珍しくもないって……あ。もしかして、時々携帯が通じなかったのは」
「ああ。病院では通話禁止だからね。榊君も電源は切らないとダメだからね」
「あ、すみません」
あたふたと携帯電話を取り出して電源を切る。
けど、そうか。先輩が時々連絡途絶するのは、病院にいるから、だったのか。
けれど逆に考えるなら、電話が通じない間は。先輩は入院、もしくは通院していたことになる。
それは……かなりの頻度だ。
平均して、一週間に二日は連絡が取れない日があったのだから。下手をすれば、学校と同じぐらい病院にいることになる。
そんなに、悪いんだろうか。
改めて先輩を見る。白い肌、長い髪、痩せた体、細い指。水色の病院着を着た先輩は、確かに美人ではあるけれど、紛れもない病人だった。
ベッドの脇にはカンバスと三脚、壁際には先輩の描いたと思わしき色とりどりの絵や、画材。窓際には花の鉢植え。壁にかけられているのは、見慣れた高校の制服。
この部屋は確かに、先輩の帰るべき場所だった。けれど、ここは病室なのだ。
観察の中でふと、壁に立てかけられた一枚の絵が目に付いた。見覚えのある絵柄。
「あれ? 先輩。この絵って……もしかして、雨の日にスケッチした、桜の絵ですか」
その絵は間違いなく。桜の季節が終わる頃、あの雨の日に。先輩と一緒に見た、雨に打たれて花びらの散った桜だった。あの時感じた悲しさが蘇る。
「ああ。入院中は暇だからね。昔から、退院中に書き溜めたものに筆を入れて時間を潰してるんだよ」
「…………」
言われて見てみれば。
壁に立てかけてある絵は、みんな俺にも見覚えのある内容ばかりだった。
夕陽に染まる校舎、人の居ない教室、サッカーに励む生徒、桜が満開の公園、青い空と町並。
この人は。
この人は、昔から、ずっとそうやって生きてきたのか。
絵に書かれた内容は、なんてことはない日々の風景ばかりだった。町を歩けば、学校に通えば、当たり前に目にすることのできる風景。
俺にとっては、当たり前すぎて辟易するほどの、ありふれた景色でしかない。
けれど、この人にとっては。この人の生きてきた道程にとっては。
当たり前の風景は。体の弱さと戦って、退院して、薬を飲みながら日々を過ごして、やっと見られるものなんだ。
限られた、その時間に。この細い体で、この細い指で。できるだけ多く描くだけの価値があるものなんだ。
胸の中に、暖かいものと、冷たいものが、同時に満ちて溢れた。
ああ。
697 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:12:01 ID:VA84KB75
「う、う、う、う、う……」
「な、待て。ちょっと待て榊君。何故、突然泣き出すんだ」
「ご、ごめんなさい。でも……」
「え、えーと。そうだな、とりあえずほら、落ち着きたまえ」
あたふたと先輩の渡してくれたハンカチを受け取り、ぐしぐしと顔を拭う。なんてみっともない、なんてみっともない。この人の前で泣き出すのは二度目だ。
けれど、胸に満ちた感情はなかなか収まらず、しばらくしてようやく衝動は引いていった。消えるのではなく、胸のどこかに、収まる。
珍しく慌てていた先輩も、目に見えてほっとしたようで。
「やれやれ。体に悪いんだから、あまり驚かせないでほしいな。全く、榊君は泣き虫だなあ」
「ご、ごめんなさい……」
「よくわからないが。僕の絵で泣くほど感動してくれたのかな? もしそうなら、端くれとはいえ絵描き冥利に尽きるけどね」
自分で言っておきながら、先輩はあまりそうとは思っていないようだった。どちらかといえば冗談の調子だ。
俺には絵の善し悪しはよくわからないけれど、先輩の絵は普通に上手だと思う。
俺が泣いてしまったのは、絵の内容そのもののせいじゃない。これらの絵が示す、片羽桜子という人の生き方に、だ。
「いえ。先輩の絵はすごく上手だと思いますよ。なんというか、先輩らしくて」
「ふふん、ありがとう。一応、昔からの趣味だからね。褒められると嬉しいよ」
華奢な胸を張って、片羽先輩が笑う。
気付く。
俺は、先輩と話したくて。学校を早退してまでここに来たと思っていたけれど。
俺がこの人から貰っていたのは、言葉だけじゃなかった。
日々の生活は手応えがなくて。未来のことを考えると、辛いことがいくらでも思い浮かんで挫けそうになるけれど。
片羽先輩の。胸を張って、軽く笑って、この世の全てに相対しているその空元気に。俺は、何度も勇気付けられてきたんだ。
空元気だ。
片羽先輩は、優香のような完璧人間じゃない。俺と同じかそれ以上に、弱い部分を抱えた人だ。未来に対して、不安を抱かないわけがない。
それでも、この人は胸を張って笑っている。それなら、俺だって笑っていられるかもしれない。
人間は。どんなに不完全でも笑ってさえいられるなら、人生に堂々と相対できるということを。片羽先輩は、自らの生き方で教えてくれている。
この人に会えて良かった。
「先輩」
「なんだい、榊君」
「俺、先輩に会えて良かったです」
「なんだい、その唐突に死にフラグな台詞は。まあ、僕も榊君に会えて良かったと思ってるよ」
「そのうちでいいですけど。迷惑でなければ、俺も描いてくれませんか?」
「それは……悪くないね。うん、悪くない。いや、喜んで描かせて貰うよ」
698 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:13:06 ID:VA84KB75
放課後。
榊優香が藍園晶と別れて柔道部に休む旨を伝え、下駄箱で靴を履き替えたところ。
ぶつんとスニーカーの紐が切れた。
「…………」
しばし沈黙してから、榊優香は鞄からGPS受信機を取り出した。兄の鞄に仕込んだ発信器の電波を受信するもので、携帯よりもかなりごつい。
起動。発信器の座標確認……榊健太の公立高校。
確認を終えた彼女は受信機を鞄にしまい、紐はそのままにして靴を履いた。
目的地である病院へのルートを思い浮かべながら、校門を抜けたところで。
しゅたた、と。電柱の陰から飛び出してきた黒猫が目の前を横切った。
「…………」
しばしの沈黙後、榊優香は携帯を取り出して一番上の短縮を押す。
『お客様のお掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っておりません……』
榊優香は携帯を耳に当てたまま硬直した。
仮説1
榊健太は何らかの事情で高校に残っており、携帯は偶然電池切れ。
仮説2
榊健太は発信機の入った鞄を学校に置いて病院にいる。
「!」
榊優香は即座に、目標地点に向けて駆け出した。
途中、通りがかったアパートの脇に止めてある自転車の鍵がちゃちと見るや、ドライバー(マイナス)を鍵穴に突っ込んで鞄で一撃。がしゃんと鍵が外れた自転車に盗み乗った。この間僅か五秒。
目撃者は幸運にも居なかったが、居ても同様の行動を取らなかったかどうかは定かではない。最短ルートを検索し、しゃかしゃかと立ち漕ぎをする。
激しい運動に息を弾ませながら、彼女は一人呟いていた。
「っ……どうして……!」
どうして。
既に病院にいるとしたら、時間的に榊健太が放課後になってから病院行きのバスに乗ったとは考えにくい。ならば授業を早退したのだろう。この論理は明解だ。
その理由は、それだけ片羽桜子が心配だったからだろう。他に動機などありはしない。この論理もまた明解。
彼女が納得できないのは。どうして、そこまで、片羽桜子を大事に思っているのか、という点だった。
自分が、榊優香がいるというのに。
確かに片羽桜子と、容姿に於いては同レベル……いや、百歩譲って僅かに劣っているかもしれない。けれど他のあらゆるスペックに於いて、上回っているという自負が彼女にはあった。
頭脳も、運動能力も、戦闘能力も、性的魅力も、胸囲も、精神力も、社会性も、耐久力も、全て。勝っているはずなのだ。
全く違うタイプだというのなら比べようがないかもしれないが、この目で見るに二人の持つ方向性は同じのはずだ。
なのにどうして、劣った方を大事にするのか。
「どうしてっ……!」
その時道半ばで。向かい側から歩いてくる榊健太を発見。
急ブレーキしながらハンドルを切った。道路を横断。途中で迫る障害物を回避回避。
甲高いブレーキ音とクラクションを尻目に、榊優香は目を丸くした兄の元に到着した。
「にい……はーっ、はーっ……さん」
「ななななな、なにやってんだよ優香! 大丈夫か危ないじゃないか!?」
「問題、ありません……ふぅ」
ハンドルに体を預けて肩で息をする榊優香。優等生のイメージなど、どこかに飛んでいってしまっていた。
とはいえ、外面を取り繕うことに関しては年季が違う。深呼吸数回とハンカチで、普段の落ち着きを取り戻した。今更かどうかはさておき。
「兄さん。病院は?」
「あ、ああ。もう行って来た。さっきまで先輩と話してたんだけど、診察の時間になったから帰ることにしたんだ」
「授業を早退して、ですか」
「う」
「兄さん。兄さんは私が今まで散々言ってきた、学生の本分というものを理解しているんですか。放課後に何をしようが勝手ですが、学生として授業を無断で欠席するなどと……」
がみがみ。
以後五分にわたり説教タイム。
あーあーあー、と耳を押さえながら榊健太は自宅に向かって歩き出す。後ろからきこきこと自転車を引きながら、妹が続く。
699 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:13:52 ID:VA84KB75
しばらくして、ようやくS気を満足させた榊優香が一息をつく。それを見計らって、兄は話題を変えようと話しかけた。
「そういえば。その自転車、どうしたんだ?」
「急いでいたので。一日だけ友達から借りました」
「へえー。そうだ、どうせなら二人乗りで帰るか? 俺が漕ぐからさ」
「ん……危なっかしいですね。体力も衰えてるでしょうし、大丈夫ですか?」
「んなおじいさんみたいに扱うなって。大丈夫だよ、ほら。どいたどいた」
ひょい、と榊健太が妹を押しのけてサドルにまたがる。榊優香はやれやれ、という顔だけして喜び勇んで荷台に腰掛けた。横座りである、無論。
「まあ、私も少々疲れましたから利用させてもらいますが。転倒したら迷わず逃げますからね」
「はいはい」
妹が兄の原に両腕を回す。落ちないようにという名目で強く、広い背中に上半身を押し付ける。計算。以前よりも胸は大きくなっているはず。いや、胸筋だから硬いのか?
知ってか知らずか。兄はよいしょと声をかけて、自転車を漕ぎ出した。
日は傾き始めていたが、まだ夕方には遠い。青空の下、二人乗りの自転車は家路を辿る。
「そういえば。お見舞いに行かなくてもいいのか? わざわざ自転車まで借りたのに」
「また後日にしておきます。ここで兄さんと別れて病院に行くというのも、非効率的ですし」
「んじゃ、また明日にでも一緒に行くか」
「明日ですか? 病人に対して、毎日押しかけるのも迷惑ですよ」
「う、そうかな」
ぐい、と角を曲がるときは二人一緒に体を傾ける。押しa付けられる体と体。
制服に包まれた兄の背中は、彼女が普段妄想する通りの広さと暖かさがあった。
地面をかむ車輪と、ゆっくりと漕がれるペダルの、一定のリズム。
穏やかな気分で、目を閉じる。久しぶりに、本当に久しぶりに、彼女は一切の計算をやめた。
頬を撫でる風さえも、自分達を祝福しているような気分。
「こうして二人乗りなんて、初めてじゃないでしょうか」
「んー、そうかもな。小学校の頃が一番自転車使ってたけど、昔から優香はなんていうか大人びてたしな」
「老けていた、と言いたげですね」
「ああ、そうかも」
「そういう兄さんは、昔からガキッぽいところが抜けませんね」
「ひでえ! ……ってまあ、お互い様か。考えてみれば俺たち、正反対な性格してるよな」
「それは私が心から感謝することの一つですね」
「うおい!」
その言葉に嘘はない。榊優香は心から感謝している。
比翼連理。
互いに互いを補い合う在り方の形。榊健太とそのような形で生まれてきたことに、榊優香は心の底から感謝する。
欠けた自分を補う欠片を持つのが、この榊健太であることに。榊優香は心の底から感謝している。
そんな妹の心を、兄は知らず。
そして妹もまた、兄の心を知らなかった。
「……なあ、優香」
「はい。なんですか、兄さん」
「俺……好きな人ができたよ」
『もしも兄さんに好きな人ができたら、私に―――――
700 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:15:02 ID:VA84KB75
その日の夜。
僕……片羽桜子は、市立病院の個室にて午後九時に就寝した。
早すぎると言うなかれ。今日は榊君の相手もしたし、何よりずっと絵を描いていた。
休憩を挟みながらとはいえ、結構集中力を使うんだよ、創作活動というのは。
そもそも消灯時間が午後九時だし、入院しているなら体力の回復が優先されるべきじゃないか。
入院中に趣味に熱中しすぎで倒れたなんて、本末転倒の見本にされてしまうよ。
まあとにかく。僕は午後九時に就寝したわけだ。ぐう、とね。
そして、ふと深夜――おそらくは午前一時頃に目を覚ました。
何故か? トイレ……おっと失敬。花摘みは就寝前に行っていたので、それは肉体的欲求ではなく精神的欲求だったのだろう。
もっと言えば虫の知らせ、第六感、そんなものの仕業と思われる。さておき。
目を覚ました僕は、ベッドの上で覆い被さる人影に押さえつけられていた。
「――――!」
驚いたよ、そりゃ驚いたさ。
思わず心臓が止まってしまいそうになるほどだった。悲鳴を上げようにも、口元は手で塞がれていたけどね。
だって想像してみなよ。何事もなく一日が終わって、夜中にふと目が覚めたら。真っ暗な病室で、誰かに押さえ込まれてるんだよ。
しかもその上
「助けを呼んだら殺す。抵抗したら殺す」
こんなことを言われてみなよ。これはもう凄まじい恐怖だね。
ただ、その声を聞いて更なる驚愕が僕を襲ったんだ。やれやれ、強すぎる感情は体に毒なんだけどね。
なにしろ、その声には聞き覚えがあったんだから。
折り良く、雲が流れて月光がカーテンの間から差し込んだ。闇に慣れていた僕の目に映ったのは
榊優香君だった。
「…………」
「――――」
信じられるかい? 僕はまた大声を上げそうになったよ。まあ、口元は押さえられていたけどね。
優香君は中学校のセーラー服を着ていた。まあ、紺一色は夜中での迷彩効果は高いかもしれない。
僕を押さえつけている体勢は、布団の上からお腹に乗り、両膝で僕の両腕を押さえ、左手で口を押さえている。
柔道の技なんだろうか。とにかく、僕の四肢は布団と膝に押さえられて、とても満足な動きはできそうになかった。
優香君は、空いた右手でベッドの脇にあるスイッチ……ナースコールを手にとって、そっと手の届かない場所に置いた。さっき自分で言った通り、まず助けを呼ぶ手段から潰していくらしい。
僕はといえばその間、なんとか興奮と驚愕を落ち着かせようと努力していた。
クールになれ、片羽桜子。落ち着いて素数を数えるんだ。素数は孤独な数字。この僕に勇気を与えてくれる。
2、3、5、7、11、13、17,19、23、28、いや違う29だ……ふう。落ち着いて状況を整理してみよう。
状況から判断するに。優香君が病院に忍び込み、消灯後まで人目をやり過ごし、その上で僕の部屋に押し入ってきた、ということになる。正気だろうか。
僕の記憶が確かなら、看護婦の見回りは三時間ごと。そして午前一時という時間感覚が確かなら、後二時間は見回りは来ない。
おっと、今は看護師と言うんだったね。失敬。
具体的な危険についてだが、警告を受けたということは下手を打たなければ殺されることはなさそうだ。僕もまだ命は惜しいんで、これは非常に助かる。
では彼女の目的は何なのか、というと。これが全く謎なのだった。まあ、優香君が話してくれるだろう。
「…………」
す、と。試すように僕の口元から手が離され、喉に当てられる。軽く絞められた。ぐえ。いつでも絞め殺せるというパフォーマンスらしい。
僕が叫びださないのを確認してから、彼女はこの場に来た目的を、口にした。
「兄さんに……これ以上、近づくな。でなければ……殺す。このことを誰かに話しても、殺す」
……ああ。
「なるほど。つまり君は、榊君のことを異性として愛してる、ということか」
701 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:16:58 ID:Q/D96k9j
驚きではなかった。
何故かって? まあ、それは環境と勘、さ。
榊君から話を聞いていて、どうも彼の人生に優香君が何かと働きかけているようだ、ということはわかっていた。進学とか勉強法とかね。
わからないのは動機だが、あんな働きかけは並大抵の労力じゃできやしない。しかも本人には気付かれずに、だ。執念としか言いようがない。
であるなら、考えられる動機は二つ。榊君にとてつもない恨みを抱いていて、その復讐だという線。
榊君の人生に影を落とす以上、僕としてはこの線だと疑っていたが。どうもこんな風に脅迫にかかるのでは、もう一つの可能性のほうが高そうだ。
即ち、愛ゆえに。
「どうしてそれが、榊君の人生に影を落とすような真似をするのかわからないが。今こうしてるのは、どう考えても嫉妬に狂った末の行動だからね」
「……っ! 私は、兄さんの人生に、影など落としていない……っ!」
「ああ。そういえば愛とは独占欲を伴うものだったね。となると、榊君を進学校に入れさせた理由も説明がつく。いや、すっきりしたよ」
「……今となっては、後悔していますよ」
「榊君と会えたんだ。僕は感謝しないとね」
僕が答えると、優香君の目付きが一際暗く、沈んだ。
腰につけたポシェットを後ろ手で開くと、凶器の柄が幾本も飛び出す。小型ハンマー、ドライバー、ペンチ、ナイフ、釘。
あ、あれ、柔道って素手でやるんじゃなかったっけ……?
右手を宙に浮かせ、指を鉤爪のように曲げて、優香君が言葉を搾り出す。
「片羽先輩も……兄さんが好きなんですか」
……おや?
「待ってくれ、優香君。『も』ということはつまり、榊君は僕のことが好きだと言うのか?」
「……っ!」
ザン!と
優香君がポシェットから抜き出したドライバー(マイナス)が、僕の顔の真横、枕に突き刺さった。
……や、薮蛇だった。今更ながら、ものすごく怖かった。落ち着け、素数を数えるんだ。
運動能力の圧倒的な差で、反応すらできなかったのだが。それが優香君には余裕と取れたようだった。
呟く。
「夜中に押さえ込まれて、殺すと脅されて、随分余裕があるのですね」
「いや、怖がってるよ。けどまあ、常に平静であらんとするのが僕の信念でね」
「……どうして、兄さんは、貴女のような人を……」
ふむ。
どうやら、榊君が僕のことを好きだというのは、ガセネタではないようだった。だからこそ、こうして今日忍び込んできたのだろうし。
まあ、言われてみれば榊君の態度に思い当たる節もないではない。また泣き出したり、絵を描いてくれと頼まれたりね。
ただ、それがどうしてなのか。
どうして、榊君は僕のことを好きになったのか。
そんなものは弓を持った天使でなければわからない……と言いたい所だが。実は推測がないわけでもなかった。
「前にも言ったが。性的魅力では僕よりも君のほうが遥かに上だよ」
「っざけ……!」
「いや、落ち着きたまえ。侮辱してるわけじゃないんだ、ただの事実だからね」
今度はペンチを抜いて振りかざした優香君を必死で止める。日曜大工用具の、そんな斬新な使い方は絶対体験したくない。
それにしても普段の優等生振りとは掛け離れた激情だ。ぱっと見の方向性は似ていても、中身は僕とは正反対だな。
「逆に言えば、僕と君とは外見の方向性は似ている……それが問題だったんだろうね」
「なにを……」
「まあ推測だよ。君のことだから、日々弛まず気づかれないよう榊君にアプローチしてきたんだろう」
間違った勉強の方法論を教え込んだのと同じように。正しいかはさておき、優香君は日々の努力を怠らないタイプだな。
「そしてその効果は出ていたはずだ。君は客観的に見ても、魅力的だからね」
「嘘をつくな! なら、兄さんは、どうして、私でなく、貴女なんかを……!」
「代償行為だよ」
ぴたりと。
優香君が動きを止めた。
頭のいい彼女のことだ。今の言葉で、どういうことか、完全に理解したのだろう。
「欲しいものが手に入らない時。代わりに似たものを手に入れることで欲求を満たす心理的防衛機能。それが代償だ」
「私が……妹だから……」
「そう。榊君は優香君に強い魅力を感じていた。だが優香君は榊君にとって妹であり、恋愛対象にはできなかった。そこで榊君は」
「無意識に。タイプが似ている貴女を……好きになった、ということですか」
「推測だがね」
「…………!」
702 未来のあなたへ5 sage 2009/01/11(日) 02:18:07 ID:VA84KB75
優香君が天井を仰いで絶叫した。声を出すわけにも行かず、音はすべて胸の中で噛み殺し、ただ無言で。
まあ……この推測が正しいなら。思いっきり優香君の自爆だからね。彼女は彼女なりにプライドがあるようだし、衝撃も大きいだろう。
そして。
しばらくして、優香君はまた僕を見下ろし……ペンチを構えなおした。
「……みんな殺す」
おいおいおいおいおい。
「私が妹である限り、代わりを求めるというのなら……兄さんに近付く女は、みんな殺してやる」
そう断言した彼女の瞳は。
僕から見ても……ああ。君も、か。
「絶望の向こうには何がある?」
「自由です」
そうだ。
絶望とは何処にも行き場のないということ。行くべき道全てが、閉ざされているということ。
だからこそ、それを乗り越えたとき。その絶望を受け入れたとき、人は自由になれる。
その境地は、無敵だ。
たが、まあ……だとしても。僕もまだ、命が惜しいんだ。
「待ってくれ、優香君」
「待ちません」
だよね。
優香君がペンチを振り上げる。どうも狙いは喉のようだ。まずは助けを呼ばれないように声を潰すというわけか。この期に及んで冷静だね。
だが。冷静だというのは良いことだ。まだ、僕の言葉で止まる余地はある。さて、もったいぶっている暇はないようだ。言ってしまおう。
「僕は榊君と恋人同士になるつもりはないよ」
ぴたりと、優香君の動きが止まった。
後はもう、賭けだ。これを侮辱か嘘か出任せと受け取り、激情と狂気に身を任せるなら僕はまあ高い確率で殺される。
だが。優香君とは、多少なりとも話はした。僕がどういう人間か、僅かなりとも見抜くかどうか。彼女の知性を信じるしかない。
そうして。
「……何故、ですか」
勝った。
「僕は重度の心臓病でね。過度の興奮は心臓に負担をかけ、死を招く。ホラー映画も、過度の運動も、過激なアトラクションも、そして性的興奮……性交も、全て医者に禁じられているんだ」
「言っただろう。僕は恋することのできない病にかかってる」
最終更新:2009年01月11日 20:00