313 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:51:17 ID:Ng41C3Ud
12/24 駅前広場 PM6:48
はあ、とお腹の底から息を吐く。
白くなった息が目の前にもわっと湧いて、ゆっくりと消えていく。
今日は一日快晴だった。昼間はとにかく、日が暮れると一気に寒くなる。手袋とジャンパーで防寒はしているけど、ちくちくと冷気が肌を刺す。
既に指先の感覚はなくなっていて、こんなことならホッカイロでも持ってくればよかったと後悔した。いや、一時間前から待っている俺もバカだけど。
暇つぶしにもう一度周囲を見回す。駅前にある広場で俺は、噴水の淵に一人座っていた。待ち合わせによく使われている場所で、俺の他にも人待ちの男女は大勢いる。
なんといっても今日はクリスマスイブだ。
月もよく見えるから残念ながらホワイトクリスマスはなさそうだけど、それでも一年に一度の大切な日には違いない。
時計をもう一度確認する。PM6:49。さっきよりは一分進んだ。待ち合わせは七時。
俺の待っている人は
片羽先輩だ。
片羽先輩のことを好きだと自覚してから半年が経っている。
まだ告白はしていない。
待ち合わせの時間五分前に、バス乗り場の方から歩いてくる片羽先輩を発見した。
冬に入ってからわかったことだけど、片羽先輩は寒さに弱い。コタツをこよなく愛している。まあ、普段からして体温の低い人だから当たり前か。
今日もベージュのコートはセーターで着膨れしている。他にもマフラー、毛糸の帽子、ミトン型の手袋と完全武装だ。履いているものもスカートじゃなく、暖かそうな綿のズボン。パンツが毛糸でも驚かない。
露出しているのは目の周りぐらいで、それでも寒いのか先輩は肘を抱えるようにして歩いてくる。俺は急いで立ち上がり、先輩の元に駆け寄った。
「こんばんは、先輩っ」
「こ、こ、こ、こ、こんばんは、榊君。さ、寒いねえ。バスの中は暖房が利いてたんだけど、一気に落差が来たよ」
「うわあ、大丈夫ですか先輩っ! と、とりあえずどこかに入りましょうよ」
「いやいや、僕が寒さに弱いだけだから気にしないでくれ」
飄々と答えながら、プルプルと小さく震える先輩。うわあ、不謹慎だけど可愛いなあ。抱き締めてあげたい。
と、と。妄想に浸ってる場合じゃなかった。とにかく今は、先輩を早く暖かい場所に入れないと。
今日は、俺が先輩をエスコートすると決めたんだ。
「それじゃ、先輩。立ち話もなんだし、行きましょうか」
「ああそうだね。今日はよろしく頼むよ、榊君」
今日こそ告白する。
今日こそ告白するんだ。
314 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:52:55 ID:Ng41C3Ud
俺はまだ、片羽先輩に告白していない。
もう十二月なのになんでだよ、といわれるかもしれない。自分でもそう思うし、実際もう言われた。
なにしろ先輩は三年生で、あと三カ月もしたら卒業してしまうのだから。
けど、言い訳も聞いてほしい。なんというか、毎日が忙しくて、ついずるずると現状維持を望んでしまい、こんな時期まで来てしまったというか。
夏休みに入ったころは、先輩への思いが溢れて空回りして仕方なかったけど、今はだいぶ落ち着いている。消えたわけじゃない、俺は間違いなく片羽先輩のことが好きだ。
あの夏から四か月。あの頃からいくつか変わったことがある。
一つは、空手部に入ったこと。
夏祭りの時に先輩からアドバイスを受けて、翌日入部届けを空手部の部室に持っていった(夏休みだけど練習はしていたから即入部)。
もちろん、空手なんてやったことはない。喧嘩だって小学校の時に取っ組み合いをしたぐらいだ。誰かを殴りたいなんて願望もない。
ならどうして空手かといえば、まあ妹が柔道だから、程度の理由でしかない。
ともあれその日から、俺は空手部として練習を開始した。最初は慣れないことばかりで辛かった(痛かった)けど、もともと体を動かすのは好きだから、毎日練習するのはすぐに慣れた。
全く新しく始めたことが数ヶ月でどれだけ身につくのかといえば、せいぜい構えができてきたぐらいだ。拳を出すともうへろへろってなる。全然まだまだで。
それは中学の時のように倒れるまで打ち込んでいないせいかもしれない。加えて、他にやることがある。
一つは当たり前だけど、成績が落ちないように毎日勉強を続けること。それからもう一つ、始めたことがある。
それは、優香の受験勉強に付き合うこと。
妹は中学三年生、受験を控えた年頃だ。受験生として一年先輩でもある俺は、勉強のやり方とか、苦手な分野とかを見ていたりする。
もちろん優香は優等生だ。間違いなく俺よりも頭はいい。教えることなんてほとんどない。
ただそれでも、受験勉強に対しては榊家の長男として一日の長があるし、優香だって完璧人間じゃないんだから毎日単調な勉強は苦痛だろう。
椅子を並べてあーだこーだと雑談混じりに勉強するのだって、立派なガス抜きになるはずだ。
そのおかげなのか、最近妹とは以前より打ち解けられたような気がする。
細かな気遣いをされたり、それにお礼をしたらそのまま受け入れられたり。不意に「兄さんは頑張ってますね」と褒められたり、部活の朝練に出る時間を合わせたり(妹はもう部活を引退したけど、毎朝自主的にランニングを行っている)。
優香は俺のことを嫌っているかと思ったけれど、そんなことはなくて、もしかしたらお互いに壁を張っていただけなのかもしれない。
俺にとって、妹とは放っておいても大丈夫な強い存在だったけど。優香もまた、守るべき存在なのかもしれないと、なんとなく思うようになった。
朝は部活の朝練に行き、授業をきっちり受けて、放課後も部活で適度に体を動かし、家に帰ってから予習復習をして、優香の受験勉強に付き合う。思えばかなり忙しい。
けれど何故だか、一時期……片羽先輩と会った頃のように辛いという感じはあまりしない。充実している。毎日が充実している感じだ。
もちろん、先輩と会える時間は減っている。放課後が丸々潰れたんだから当たり前だ。
だけど逆にその分、合間を見つけて先輩に時間を見つけて能動的に会いに行くようになった。休みの日に遊んだり、天気のいい日はよく昼食も一緒にした。
先輩が病院にいない日は、寝る前にメールのやりとりをして、一日の出来事を報告するのも日課になった。
一時の燃えるような衝動はなくなったけど、片羽先輩のことは異性として、普通に好きだ。
朝起きて、顔を洗って、朝食を取って、歯を磨いて。身に染みついた動作と同じように、当たり前の好意に変化してきている。
顎を引いて、胸を張って、小さな体で堂々と立っている、そんな先輩を、俺は守りたいし好きだと思う。
思えば夏の自分は、やることがないという焦燥を先輩への感情にすり替えていただけなんだろう。
だから自分を鍛えているという実感がある限り、その欲求は満たされていた。
部活と勉強に打ち込んで、先輩と話をする。そんな日々に満足していて、そんな毎日がずっと続けばいいと思って、だからこそ……もう一歩が踏み出せなかったんだ。
柳沢からそんなところを注意されたのは、今から二週間前のことだ。
315 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:53:30 ID:Ng41C3Ud
「あーあ、クリスマス一緒に過ごして熱い夜にしてくれる女の子はいねーかなあ。一日でいいからさ」
「教室で堂々となに言ってんだよ柳沢。みんな慣れてるけど、そういうとこが駄目なんじゃないのか?」
「はー。優香ちゃんがOKしてくれればなあー。なあ榊、もう一回口利いてくれねえか?」
「もう断られただろ。それに、優香は受験生なんだから駄目だって」
「ちくしょう、お前はいいよなー、彼女いるしな。くそう、カップルなんて呪われろ!」
「え、いや、俺は別に彼女いないぞ」
「は? お前、あの先輩と付き合ってんだろ? よく一緒に飯食ってるし」
「ベ、別に付き合ってるわけじゃないよ。そりゃ、俺はごにょごにょ……だけど」
「……マジ?」
「マジだけど」
「おい榊。お前、どうすんだよ、これから」
「え、どうって?」
「バッカお前、もう十二月だってのに何やってたんだよ。しかもあの先輩、三年生じゃねえか。あと数ヶ月で卒業だろ」
「え……あ、そうだけど……」
「つーかお前は半年以上も何やってたんだ? 毎日一緒に飯食うだけで満足してたのか?」
「あ、ああ。まあ、うん……いてっ!」
「お前なあ、んなこと言ってて三月になったらどーすんだ? 土壇場で告ったって、何もできねーじゃんか」
「何もってなんだよ! ていうか、ほら。卒業しても縁が切れるわけじゃないし……」
「それマジで言ってんじゃないよな? ロクに会えもしなくなるだろ」
「う、そりゃ、そうかもしれないけど……」
「ほれ、悪いこと言わないからさっさと当たって砕けろって。もうすぐクリスマスだしよ」
「ん……わかった! じゃあ俺、クリスマスに告白する!」
「おー、頑張れよ。そしてフラれちまえ!」
「うおいっ!」
そんなわけで。柳沢から冗談混じりの叱咤激励を受けて、俺はクリスマスイブに先輩を誘ったのだった。
柄にもなく、勝率を考える。普段はそんなもの気にしないのに、どうしても考えてしまう。
片羽先輩は、俺のことをどう思っているんだろう。
嫌われてはいないと思う。それは、四月から先輩と話して来た俺の実感だ。
何気ない会話の中で、他愛ないじゃれあいの中で、さりげない助言の中で、先輩の好意を俺は受けてきたと思う。
けど、その好意が一体どういう種類のものなのか、それが大問題だ。ただの後輩と思われていたらどうしよう。
例えば(彼女は彼氏持ちだけど)俺が晶ちゃんから告白されたら「えっ!?」という感じになるだろう。そして困ってしまう。
ああ、今日俺が告白したとして、先輩が困った顔をしたらどうしよう。想像だけでのたうち回りたくなる。
前も思ったことだけど、俺と先輩の関係は、俺が頼って先輩が気遣うという構図にある。この半年努力してきたけど、構図は結局変わっていない。
俺も少しは強くなって、先輩との距離は縮まったと思うけど、まだまだ力関係が逆転するほどじゃない。
理想を言うなら、先輩に頼られるぐらい強くなってから告白したいところだけど、そんな暇はない。
まあ幸いというか、クリスマスイブに誘いを受けてくれたんだから、脈はあるんだと思いたい。
というか、そんな日に誘った時点で、先輩に気があるんだと大声で叫んだようなものかもしれない。
けど、それでも来てくれたということは、勝算があると考えていいんだろうか。
柄にもなく、勝算を考えてしまう。考えても仕方ないのに、考えてしまう。
失敗したくないから。
片羽先輩にいいところを見せたいから。
――――未来も、この人と歩いていきたいと想うから。
316 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:54:39 ID:Ng41C3Ud
12/23 市立病院個室 PM4:20
「こんにちは、片羽さん」
「やあ、いらっしゃい優香君。君が一人で来るなんて珍しいね。最近受験勉強を頑張っていると、榊君から聞いてたよ」
「それなりには。兄さんが手伝ってくれますから」
「いや、榊君が誰かに勉強を教える段階になるとは感慨深いものだよ。それも優香君が教え子とは、やればできる子だったんだね」
「自分が育てた的な物言いはやめてください。自助努力の賜物ですし、それを言うなら私の方が兄さんの学力には貢献しているはずです」
「底上げしたのは君のスパルタだしね。にしても実際のところ、榊君の指導って優香君にとって意味あるのかい?」
「内容的にはほぼ無意味ですが、気力的にはオールオーケイです」
「ああ、やっぱり。そういえばお茶も出さないで済まないね。今入れるよ」
「いえ、自分で入れますからどうかお構いなく」
「ありがとう。それで今日はなんの用だい?」
「釘を刺しに来ました」
こぽこぽこぽ。
「一応確認するけど、それにハンマーとネイルは関係ないよね?」
「ええ、まあ、おそらく」
「そこは断言して欲しかったよ。おっと、お茶ありがとう」
「礼をしつつ一口も飲まないのは混入物を警戒しているからですか」
「単なる猫舌だから気にしないでくれ。で、釘刺しってなんだい?」
「兄さんからクリスマスのデートに誘われたらしいですね」
「うん、まあね」
…………………………
「ふむ、少し意外だったかな。それこそ釘とハンマーで襲いかかって来るかと思ったのに、殺気一つ漏らさないなんて」
「両指の第一関節から順に釘を打って欲しいならそうしますが、まずは握りしめたナースコールを降ろしたらどうですか」
「まあ僕もまだ命が惜しいからねえ。それにしても優香君、前々から思っていたけど、少し雰囲気が変わったかな」
「成長期ですから。それで、明日は?」
「野暮なことを聞かないでくれ。榊君は大切な後輩だし、断る理由なんてありはしないさ。寒そうだけど行くよ、勿論」
「片羽さんは兄さんと交際、及び性交するつもりはないと明言してましたね」
「……ん、ああ、まあね」
「何故口籠もるのですか」
「いやあ、ちょっとした乙女の恥じらいだよ。気にしないでくれ」
「私は兄さんが幸福なら、兄さんが女性と交際するのもやぶさかではありませんが……」
「ぶっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ優香君。今なんて言った?」
「兄さんが幸せであるなら、女性と交際するのもやぶさかではないと」
「え、ええーと。でも君はなんというか、榊君に対してアレなんだろ? しかも相当なレベルで」
「自分のことよりその人の幸せを思いやるのが、愛しているということではないのですか?」
「ま、まあそうかもしれないけれど、ちょっとその手の話に遠い人生だったんでね。にしても、何か悪いものでも食べたのかい?」
「どういう意味ですか。私が私利私欲で兄さんを不幸にして、何ら省みない人間とでも思っていたのですか」
「いやあ、そのなんというかねえ。腰を折って悪かったね、話を続けてくれ」
「しかしそれは、兄さんが幸福ならば、という条件が前提です。片羽さん、貴女がその条件を満たすとは思えない」
「…………。なるほど、そう繋げるわけかい?」
「別に結論ありきで喋っているわけではないので、そのような言い方は心外です」
「けど、それなら榊君を幸福にできる相手というのは、どういう基準で選ぶんだい? そこに君の私情が絡まないと言えるのかな」
「少なくとも、貴女自身は兄さんを不幸にすると思ったから、交際しないのでしょう?」
「……ん、そうなんだけど」
「片羽さん、先ほどからどうも一部分で歯切れが悪いんですが」
「いやいや、わかってるよ。僕は何時死ぬかもわからないし、女としての役割も果たせない。そんなものに榊君を付き合わせるわけにはいかない、以前に言った通りだよ」
「貴女が賢明で助かります。兄さんを思いやるという点では私達は同士なのですから、明日もきっぱり兄さんを振ってくださいね」
…………
317 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:55:54 ID:Ng41C3Ud
「お茶、美味しいね」
「ありがとうございます」
「……」
「片羽さん、たとえば」
「うん?」
「誰かと出会って、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?」
「絵に描いたような平凡だね。望みたいのは山々だけど、僕は以前話した通り恋愛は無理だからね」
「仮に、貴女の病が治癒したとしても?」
「言ったはずだよ、難病だと。それとも優香君は僕に合う心臓のあてでもあるのかい?」
「いえ、まさか。ですが、そういう問題ですか?」
「……どういう意味だい?」
「気にしないでください、ただの言葉遊びです」
12/24 ファミリーレストラン PM7:34
太い釘を刺されたような気分だった。
「先輩? どうしたんですか?」
「ん、ああ、なんでもない。ちょっとうとうとしてたよ。調子に乗って食べ過ぎたかな」
「大丈夫ですか? 今日はもう帰ります?」
「大丈夫。外に出れば目も覚めると思うよ、そろそろ行こうか」
「はいっ。ここ、俺が奢りますね」
「おっと。それこそ大丈夫かい、榊君? 自分で払うつもりだったから、結構高めのものを頼んでしまったよ」
「あはは、平気ですよファミレスですし。それにいつもお世話になっているんですから、こういう日ぐらい俺に奢らせてくださいよ」
「そうか。では甘えさせてもらおうかな。ありがとう、榊君」
榊君に会計を任せ、一足先にファミレスを出る。暖房の効いた店内から外に出るのは、冷水に入るような思い切りが必要だった。息を吸うと刺すような冷気が体の隅々まで行き渡り、思わずぶるりと身震いした。
歩道では数日前から飾り付けられた街路樹のイルミネーションが、きらきらと夜闇を照らしている。カップルらしき男女が店内に入るのを、入り口からどいて道を譲る。流石に今日はと言うべきか、店内の席はいっぱいだった。
駅前で合流した僕たちは、暖を取るのも兼ねて近くのファミレスで食事をした。今日の予定は榊君に一任していたから、あらかじめ店は決めていたんだろう。まあ榊君のことだし、この後の予定も大体想像は付く。
道行く時も食事中も他愛ない話を続けてはいたけれど、榊君は少し緊張しているようだった。僕にはよくわからないが、それは好意から来る緊張なのだろう。頬を僅かに紅潮させて幾度もつっかえるのは、まあ正直可愛かった。
もちろん人の好意はありがたくはあるけれど、種類によっては困ったことになる。そしてこんな日に女性を誘うこと自体が、好意の種類をはっきりと示している。そうでなくても仕草、言質、行動、その他。榊君はとても隠し事ができるタイプじゃない。
榊君が会計をすませてくるまでの僅かな間、入り口脇の暗がりに立って、夜空を見上げながら物思いにふける。
318 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:56:57 ID:Ng41C3Ud
さて困った。
優香君に恨まれる、ことじゃない。確かに彼女の行動力は物理的な脅威ではあるけれど、ひとまず僕は安全牌として見逃されている。これ以上の進展さえなければ、優香君の堪忍袋が切れるまでは大丈夫だろう。
深夜に押さえ込まれた日、彼女に白状した事情は概ね事実だ。重度の心臓病であること、治る見込みはほぼないこと、両親は既に死んでいること、性交と興奮は死に繋がること、遺書代わりに絵を描いていること、命はまだ惜しいこと……
話さなかったのは二つ。両親の素性と、予想される余命だ。
両親の素性は……まあ、わかるだろう? 姉弟でもそういう関係が『あり』なんだと、優香君に吹き込むことは後輩の人生に多大な影響を与えかねない。いくらなんでも目覚めが悪すぎる。
予想される余命のことを優香君に話さなかったのは、自身の保身のためだ。僕は最大限命は惜しむつもりだが、優香君の思考パターンはいまいち掴み切れていない。『あと数年で死ぬなら何をするかわからない』と思われて念のために殺されるなんてことは避けたかったわけだ。
両親のことはさておき、余命のことを話さなかったのは詐欺に近い。ただし僕の行動パターンを分析すれば想像できる事実だし、優香君も薄々気付いている節もある。確信した彼女が逆上するかどうかはガクブルだ。
ただまあ前述した通り、それはそこまでせっぱ詰まったことじゃない。本当に困っているのは兄の方だ。
その、なんだ。あれだよ……有り体に言って、落ちそうだ。
このところ、榊君の好意がまんざらでもなくなってきた。それが現時点での最大の問題だ。
でも言い訳させてくれ。憎からず思う相手に、八ヶ月も一緒にいて好き好きビームを照射されたら、誰だって心が動くに決まっているじゃないか。いや、一般論をよくは知らないんだけどね。
それに僕は恋愛に関しては(優香君や榊君のように)『この人がいい』と常に求め続けてきたわけじゃない。恋愛対象を選ぶとしても『この人でいい』という消極的な選択になる。ある意味無防備だったんだよ。
とはいえ、僕にとって恋愛が天敵という認識と事実は消えたわけじゃない。今は二つの気持ちが拮抗している。
一つは以前の通り、榊君の好意に甘えることはできないという気持ちだ。彼のためを思えばそれが当たり前だし、今まで通りアプローチをかわし続けて卒業まで漕ぎ着ければよい。
更に目指すなら、それまでに榊君が好きになれる別の人を探してあげるか、あるいは優香君の牙を何とか抜いてしまえば上々か。正直、そのあたりは榊君が自力でどうにかしろと言いたくもあるけれど。
そしてもう一つ、拮抗してるのは……そこまで言うなら、いっそ道連れにしてやろうかという濁った気持ちだ。
この僕に訪れる死をその能天気な精神に焼き付けてやろうか、なに遠慮することはない、本人がそれを望んでいるんだ、と。
気持ちが拮抗するに至ったのは、ことさら特別なことがあったわけじゃない。全ては他愛ない日々の積み重ねだ。例えるなら日焼けのようなもので、僕は強い日差しにも弱い。
純粋な好意で(まあ榊君の場合は年相応に不純もある)話しかけられ、じゃれ合い、からかって、褒めてけなして、共に過ごすのは楽しかった。一人ではけして得られない、人生に対する張り合いというものを僕は知った。
こんなに長く、誰か一人と楽しく過ごしたのは初めてだったんだ。ああ、楽しかったさ。
母は父のみを愛していた。父は僕も愛してくれたけど、僕は生まれ持った病によって捻れていた。
目が覚めた時、側には誰もいなかった。余命は決まっていて、入退院と留年を重ねることで親しい友人を作ることもできなかった。
僕は教室の隅で、景色の影で、人目に触れない場所で一人、絵を描いていた。
後悔しているわけじゃない、後悔しているような余命はない。
僕は死と隣り合わせになることで、死を乗り越えた。生まれ持った蝋燭が、他人よりも短いものだったという、ただそれだけだと受け入れた。その蝋燭で何をするかは、完全に僕の自由だと。
そう……死は乗り越えたと思っていたのに。
319 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:57:29 ID:Ng41C3Ud
「先輩、寒くないですか?」
「ん、慣れてきたし大丈夫だよ。ところで何処に向かっているんだい?」
「はい。せっかく飾り付けられてるんだし、アーケードでも一緒に回ろうかと思って」
「なるほど、ウインドウショッピングか。それにしても、絵に描いたようにクリスマスイブのデートだね」
「そ、そうですか? その、つまらなかったらごめんなさい」
「いや、別に責めてるわけじゃない、むしろ逆だよ。こういう経験はなかなかないからね」
「ありがとうございます。ふう、よかった」
「それにしても手慣れてるよね。榊君はこういう経験豊富なのかな」
「えええ、いえいえいえ。そんなことないですよ。クリスマスにデートなんて、先輩が初めてです」
「ふふん、そうか。まあ初めて同士よろしく頼むよ」
可哀相に、優香君。なんだかんだと毎年のように共に聖夜を祝ったであろう彼女に同情する。
まあ、榊君が気付かないのは鈍感と言うよりも思いつきもしないんだろう。妹と二人でクリスマスを過ごしても、家族仲としか感じないに決まってるし、それが正しい。
けれど優香君の行動原理も、今一わからないことがある。なりふり構わないのなら、一服盛って強姦に至っても不思議じゃない。
何しろ元々からして不義の恋だ。今更不義を重ねたところでなんだというんだろう。チャンスはいくらでもあったはずだ。それこそ、僕の母のように。
勿論、そんなことをしている気配はない。榊君の能天気は、そんな関係の元で維持できるものじゃない。
もしかしたら優香君は、榊君のそんな純粋にこそ惚れたんだろうか。だとしたらあまりに難儀すぎる。素直に想いを発露することこそが、相手の魅力を破壊するなんて。
まあ……それでも相手を気遣っているだけ、僕よりはマシかな。
「流石に少し寒くなってきたね。そろそろどこかに入ろうか?」
「あ、そうだ先輩。せっかくクリスマスなんだし、何かプレゼントしますから、そのお店で」
「ほほう。それじゃあ宝石店にでも入ろうかな」
「ひい! 調子に乗ってごめんなさい!」
「ふふ、冗談さ。そうだな、こんな時まで画材というのも難だし、服でも見ようか」
「はいっ」
それからしばらく、衣料品店でやいのやいのと着せ替えを楽しむ。結局、榊君はセーターとマフラーを、僕はジーンズとベルトをお互いにプレゼントした。
榊君の好意を受け入れる気持ちが強くなってきたと言っても、それは優香君のような激しい感情ではなく、ぬるま湯に浸かるような穏やかな感覚だった。
春眠暁を覚えず。心地よい空間から寒い外へ、出たくないとむずがる子供のような我が侭だ。
そう。予想の外であることに、それは僕の天敵である興奮を伴うものではなかった。この僕のひ弱な心臓にも受け入れられる感情だった。
果たしてこの気持ちは、愛や恋と呼ぶべきものなのだろうか。少なくとも、僕の知る限りではそうではない。
もちろん、受け入れ可能といってもそんな真似をすれば、榊君の人生を少なからず奪い取ることになる。死という絶望に付き合わせ、子供もできず、残るのは骨壺だけだ。性交すら不可能なのは、取引としてあまりに不公平だろう。詐欺とも言う。
道義的に許されないのはわかっている。けれどその倫理と拮抗するほどに、まどろみに心惹かれる自分もいる。
言い換えるなら
榊君を思いやるか、自分の都合を押しつけるか。僕が今陥ってるのはそんな葛藤だ。
まどろみの中で死ねたならどんなに楽だろう。看取る相手がいてくれたらどんなに楽だろう。無理をして胸を張らなくて良いのなら、どんなに楽だろう。
320 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 00:59:20 ID:Ng41C3Ud
「少し、座ろうか」
「あ、はい。でもここじゃ寒くないですか?」
「なあに、さっきコンビニでカイロを補充したから大丈夫さ。むしろ熱いぐらいだよ、ちち」
「あはは。それじゃ先輩、ここどうぞ」
榊君の払ってくれたベンチに座る。冷え切った木材が布地越しでお尻に当たってひんやりと冷たい。隣に座った榊君との距離は微妙な感覚だ。
目の前には針金と電線と光電で構成された人造のクリスマスツリー。アーケードの広場には、僕たちの他にもカップルが大勢いた。都合良くベンチが空いていたのは非常に運が良いのかもしれない。
マスクを外し、息を吐くと、白く染まる。
「綺麗ですね」
「ありがとう、僕は確かに美人だけどね、ふふん」
「ツリーのことですから。いや、先輩もその、ごにょごにょ……」
「確かに見事なものだね。スケッチブックを持ってこなかったこと、少し後悔したよ。瞼に焼き付けておこう」
「先輩は本当に絵が好きなんですね」
「ライフワークを好きと言うべきかどうか、少々疑問だね。あれは暇つぶしの手段として選択しなければいけなかった結果だし」
それに僕がこの世界に残す遺言も兼ねている。
「そんなことないですよ。俺は、先輩は絵が好きなんだと思いますよ」
「ほほう、なんでだい」
「だって先輩、絵を描いてる時、すごく楽しそうだから」
「……なるほど。それは気付かなかったな」
それこそ、無邪気な夢を見た子供のように、とても楽しそうに笑う榊君。
そのシンプルな情動の美しさに、僕も釣られて微笑んだ。本当に、スケッチブックを持ってくれば良かったな
こんな榊君の純粋さも、想いを受け入れれば破壊することになる。死という絶望で穢すことになる。
優香君ならばここで踏みとどまるのだろう。彼女は彼の、こんなところに惚れたのだろうから。
けれど僕はきっと踏みとどまらない。僕は榊君に惚れたのではなく、ただ死への道連れが欲しいだけだから。
言ってしまえば、誰でも良かった。僕の都合で利用しようというだけなんだ。
愛とは何だろう。
僕の母は二親等を異性として求め、添い遂げ、最後は無理心中した。他一切に価値を求めず認めず、その生き方ははっきりと毒だった。
僕の父は自分の姉兼妻に、自らの人生も命も奪われた。そこには選択肢などなかったはずなのに、父は母を恨まなかったし、その毒を受け入れていた。
死んでしまった両親の、血を継いでいることをはっきりと感じる。
受け入れるだけの人生と、触れるものを破滅させる毒としての生き方。
父よ、母よ、どうして僕を産んだのですか。
アーケードの広場で、針金作りのイルミネーションツリーに照らされながら、その向こう、星の見えない空を見上げる。
息も白くなるような寒さの中、隣には温もりが一つ。
失いたくはなかった。両親が死んで以来、自らの運命を悟って以来、ずっと感じていた孤独に戻りたくなかった。
「あ、あの……先輩っ! 俺っ」
「うん」
「俺……先輩のこと、好きです。付き合ってください!」
「……ありがとう、嬉しいよ」
死は乗り越えたと思っていた。けれど今更になって膝が震える。それは冬の寒さからくるものではない。
まどろみの中で死ねたらどれだけ楽だろう。今更抱いたその欲求が、死への恐怖をぶり返していた。
希望があるからこそ人は恐れる。絶望を受け入れてしまえば自由が手に入る。人とは難儀なものだ。
僕は……
僕は自由などいらなかった。本当に欲しいのは希望だった。けれどそんなものはどこにもなくて、だから恐怖を克服するために死を受け入れた。でなければ生きていられなかった。
愛や恋など、僕は知らない。ただ一人は嫌だった。一人で恐怖に震えながら死にたくはなかった。
『誰かと出会って、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?』
『仮に貴女の病が治癒したとしても?』
だから、僕は
「すまない、榊君。僕は君とは付き合えない」
321 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01:00:36 ID:Ng41C3Ud
そうして、終わった。
僕の人生に於ける、きっと最後の、転機と言えるものは無為に終わった。
あと数年、僕は一人で生きて、そして死ぬ。
死ぬ時は一人だ。きっと怖いだろう。けれどわかってさえれば、希望さえなければ、耐えられる。
後悔はするだろう。あのとき、どうして彼を受け入れなかったのか。後悔し続けるに違いない。
だけど……それでも……
12/24 アーケード広場 PM9:02
片羽桜子が、一人広場に残ってからしばらく経った。
幾度か彼が送ると誘ったけれど、片羽桜子は頑として断った。一人で帰る彼は、泣いていたのかしれない。いや、多分泣いていただろう。
ベンチに座った片羽桜子が、夜空を見上げるようにして投げやりに声をあげた。
「……あーあ、なんでだろうね」
「何故ですか」
呼びかけられ、答えて、ついでに立ちあがる。
私が潜んでいたのはベンチの後ろにある植え込みの陰、跳躍すれば届く程度の距離だ。万が一の時に阻止行動が可能な間合いだが、気付かれる可能性も比例して高い。
「気付いていたのですか?」
「いいや、さっぱり。大したスキルだ。声をかけたのは純粋な推測だよ、君がいないとおかしいからね」
「なるほど」
ベンチの前までぐるりと回り、服の汚れを払って彼女の隣に座る。私の服装は作業着にも似た上着とズボン、髪は帽子の中にまとめてマスクで口元を覆っている。
あまりにもあまりな格好だが、日付が日付だ。万が一にも尾行中にナンパ目的で声など掛けられたくはなかった。
マスクと帽子を外す、息が白い。彼女の隣に座る。
「それで、何故ですか」
「何がだい?」
「何故、兄を」
「おいおい、榊君を振ってくれと言ったのは君じゃないか。僕たちは目的が一致しているんじゃなかったのかい」
「そうです。ですが片羽さん。貴女は、兄のことを憎からず思っていたでしょう。異性として」
片羽桜子が目を丸くして、隣の私をまじまじと見た。オーバーアクションは抜きにしても、よほど意外だったらしい。
「根拠は?」
「論理的帰結です。それに、兄ですから」
「僕が言うのも難だけど、彼は魅力で見るならば、典型的な良い人で終わる人種だと思うんだが」
「でしょうね」
兄のことを思う。確かに兄は、世間一般に見て魅力に溢れた人間ではない。人より多少純粋で、人より多少情が深いだけだ。
それならどうして私は兄を選んだのだろう。そこには様々な要素があるように思えたけど、わざわざ言葉にしたくはなかった。
「けれど兄個人に対して思うところがなければ、そんなにも迷いはしないでしょう。感情を読んだわけではなく、ただの論理的帰結です」
「それはこじつけな逆説だよ。僕は別に、榊君個人に対して恋愛感情を抱いていたわけじゃない。身勝手な事情さ」
「なんですか」
「今更だよ。今更、一人で死ぬのが怖くなったんだ」
ミトン形の手袋で頬を支えながら、何故か恥ずかしそうに片羽桜子が呟く。
彼女は以前、自分は死を恐れないと言っていた。不治の病で余命は数年、けれどその絶望を受け入れたからこそ、命は惜しくても死は恐れない、と。
ならばその恥ずかしさとはつまり。
「格好悪いですね」
「ああ、格好悪いね。これでも一応、若いなりに悟りの一つも開いたつもりだったけど、なかなか上手くはいかないものだよ」
一度決めたことを、淡々と死ぬ間際まで貫くことができたのならば楽なのだろう。
けれど実際のところ、人間はそんなに都合良くはできていない。それを貫くには歯を食いしばって迷いと戦い続けなければならない。
それは私がこの上なく実感していることだし、だからこそ尊いものだとされるのだろう。
けれど今回、彼女が転んだ理由は何となく見当が付いている。以前マウントを取っておきなが圧倒された件の意趣返しを、今ここでしても良い。
322 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01:02:03 ID:Ng41C3Ud
「片羽さん、貴女は」
「うん?」
「確かに、死という絶望は克服していたと思います。それについては驚嘆しました。しかし絶望とはそれだけではありません。世の中には、生きることに対する絶望もあるんです」
「……ああ、なるほどね」
生きている限り、何とかなると人は言う。
けれど……けれど、なんともならない希望を鼻先にぶら下げられて、走り続けなければいけないのなら、それもまた絶望ではないだろうか。
諦めればいいのかもしれない。けれど諦めたとしても後悔は続く、生きている限り後悔は続く。
ならば忘れればいいのかもしれない。けれど忘れられるくらいなら、そもそも希望になりはしない。
愛した人が兄だった。
その絶望こそ、私が慣れ親しみ、そして乗り越えてきたものだった。
「はは、そうか……僕は、生きたかったのか。誰かと一緒に、生きたかったのか」
「そうです」
「なるほど、なるほどね。僕は死に向かうことに関してはベテランだ。けれど生きること関して素人同然。手近にいた榊君を、見苦しく道連れにしようとしたいと思ったのも……生きたかったからか」
「生きるというのは、人を求めるということ。私にはそちらの境地はよくわかりませんが」
「ああ、死ぬ時は一人だ。死ぬというのは一人になることだよ」
片方は笑いをこらえながら、片方はくすりとも笑わず、女二人がベンチに並んで聖夜の星空を見上げる。加えて話題が生死だなんて色気のない話だ。
……
今まで私の越えてきた、多くの絶望。兄妹は結婚できないと知った時、それでも兄を嫌いになれなかった時、兄が藍園晶を好きなのだと勘違いした時、片羽桜子が現れた時、兄の思慕を知った時。
たくさんの絶望を味わって、それでも乗り越えてこれたのは。この人と一緒に生きたいという、ただそれだけの理由だった。
人は一人では生きていけない。ならば私はこの人がいい。
それだけだし、それが私の自由だ。
そのことを再度自覚できただけでも……片羽桜子との邂逅は、私にとって有意義なものだったのだろう。
そして
「どうして僕は榊君を振ったんだろう」
「自明でしょう」
生きることが人を求めることであり、死ぬことが一人でいることならば。
「ああ、そうか、そうだね。僕は死ぬことを選んだんだ。今まで通り、死ぬために生きることを選んだんだ。
もしも僕が榊君を受け入れたなら、それは二人で生きていくということだ。けれど僕は怖かった、恐ろしくてたまらなかった。
かつて両親がそうだったように、この手に得たものが失われることが、信じたものに裏切られることが。
何より僕は榊君を信じられそうになかった。だって僕は僕の事情を何一つとして話していない、隠してきたんだ。
寿命のこと、病のこと、恋愛感情がないこと。どれか一つでも知られれば愛想を尽かされるんじゃないかと、どうしても思ってしまったんだ。
榊君の中の僕は張りぼてだ、実際の姿とはほど遠い。打ち明ける勇気がなかったから、僕は榊君を騙してここまで来た。そのツケがとうとう襲ってきた。
僕はこの人生で、生きるために生きることを諦めたんだ。つい、先刻、ここで」
くくく、ははは、とついに腹を抱えて片羽桜子は笑い出した。少し長くなりそうだったので、広場の隅にある自販機まで歩いていってホットのコーヒー(微糖)を購入する。
缶の熱さで指を暖めながら戻ると、彼女は片腹を押さえながら息を整えているところだった。笑いすぎてお腹が痛いらしい。
既に九時を大分回っている、あたりに人気はないため注視されることもなかった。コーヒーを一口、啜る。
「ふー、はー……優香君はこうなることを予測してたのかい? どうも動きが鈍いとは思っていたんだけど」
「まさか、そんな予測が立てられるほど万能ではありません。そもそも私が尾けてきたのは、キスでもしそうなら物理的に割り込むためです。見抜いていたならそんな保険ははいらないでしょう」
誘導があるとしたらその前日、病室でほのめかした方がまだ影響があるはずだ。
『誰かと出会い、付き合って、一緒に住んで、結婚して、子供を産んで、育てて、年を取っていく……片羽さんはそういう人生を望みますか?』
『仮に貴女の病が治癒したとしても?』
けどそれより、彼女は元々一人でいるべき人間だった。生まれついた環境と体質により確固とした自我になったのかもしれない。榊優香がこういう生物であるように、片羽桜子はああいう生物なのだろう。
蔑視するでも誇張するでもなく、あの女は死に一人向かう人間だった。
それだけだ。
323 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01:03:51 ID:Ng41C3Ud
「夢を見ていた気がするんだ。暖かい布団の中で微睡むように」
「幸せでしたか?」
「僕にはそういうのはわからない。でも、良い夢だった」
道が別れる。
「それでは」
「ああ」
「さようなら、片羽さん。頑張って死んでください」
「さよなら、優香君。頑張って生きてくれ」
3/1 公立高校校門 PM12:10
早咲きの桜がちらほらと芽吹いて通学路が色付いている。
その花と同じ名前を持つ人が、校門の前で黒い筒を『どうだ』と掲げて微笑んだ。
・
・
・
片羽先輩に振られてから二ヶ月と少し経つ。
アレから俺は泣いた。しばらく、家にこもってずっと泣いていた。一応空手部の練習には出てたけど、ほとんど屍のような状態だったと思う。何度も休んだ。
片羽先輩に会って、八か月。積もりに積もった想いが、水になってそのまま溢れ出たみたいだった。
あるいは……単に、先輩と歩いて行きたいと思った未来が閉ざされて、悲しかったのかもしれない。
いいや、今も。
俺は……まだ割り切れていない、割り切れるわけがない。
涙が枯れた後、胸の中に固いしこりが残ったようだった。
冬休みが明けて学校に通い始めて、片羽先輩は何事もなかったように接してくれてるけど、俺は先輩の笑顔を見る度に胸のしこりを意識する。
うまく笑えない。もう二ヶ月も経つのにあの日からずっと、俺はうまく笑えないでいる。
……けど、今日は笑わないと。笑わないといけない。
今日は卒業式で、別れの日なのだから。
暖かい春の陽気が訪れようとしていた。空は青く日は穏やかで、文句の付けようのない門出の日。
校門から出ればすぐにバス停がある。普段はそこでお別れだけど、今日は先輩の家まで送ることになっていた。
それでも距離は近い、ほんの百mほどだ。先輩は近くにあるからこの高校を選んだと言っていたけど、それだけで合格できるんだから本当は頭がいいんだと思う。
僅かな距離で、最後に何を話すべきか、迷いに迷う。今日が最後、今日が最後だ。
「もう、荷物は纏めたんですか?」
「ああ、朝方業者がきていたからね。もう家には何も残ってない。一度家には寄るけれど、このまま向かう予定だよ」
片羽先輩が卒業と同時に引っ越すと知ったのは年が明けてからだった。
ここよりずっと田舎のもっと空気の綺麗な場所に引っ越すらしい。写真を見せてもらったけど、緑が豊富で民家が点在しているようなところだった。
もちろん、毎日のように会えることはなくなる。いや、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
先輩自身からも、引っ越し先は凄い田舎だから来なくてもいいと言われているし、俺もまたそこまでするような熱意を(少なくとも今は)失ってしまっていた。
もしかしたら……先輩は、このことがあるから、俺を振ったのかもしれない。そう思いたい自分がいる。
「向こうに着いたら手紙を出すよ。いや、それより景色を描いて送った方が僕らしいかな」
「いいですね、それ。楽しみにしてます。それなら俺も何か送らないと」
「ふふん、期待してるよ」
道の脇に植えられた桜の下を、先輩と二人並んで歩く。これが最後だ、何か言わないと、何を言おう。
俺が先輩に伝えたいこと。
『俺……先輩のこと、好きです。付き合ってください!』
それはもう、あの日に終わってしまっている。そのことを思うと、胸がひどく痛い。
胸のしこりはひどく硬く、それが溶けるにはどれだけの時間が掛かるのか想像も付かない。けれどそれを待っている余裕はない。
それでも言うべきことが見つからなくて、あるいは言うべきことを言えなくて
324 未来のあなたへ6.0 sage 2009/04/16(木) 01:04:25 ID:Ng41C3Ud
「……」
「……あ」
無言で歩くうち、迷っているうちに、とうとう時間が切れた。
何度か来たことのある先輩の家。小振りな一戸建てだけど、住んでいるのは先輩だけだ。招待されたこともあって、やけにがらんとした内装だったことを覚えている。
今は門の横に引っ越し会社のトラックが止まっている。家の中には何もないはずだ。ここでもう、俺は最後の挨拶をして、さよならしないといけない。
先輩が俺に向き直る。ふわりと、綺麗な髪が風を含んで広がり、収まった。
「ここまでありがとう、榊君」
「……先輩」
不意に、走馬燈のように今までの思い出が溢れかえった。旧校舎の脇で出会ったこと、桜の公園に案内してくれたこと、雨の中で絵を描くのを手伝った、みんなで一緒に出かけたこと、病院にお見舞いに行ったこと、初めて好きだと自覚したこと。
恋は破れたけれど、最初の気持ちを思い出す。
細い体で、胸を張って、空元気だけを頼りに、なんでもないことのように笑うこの人を、俺は。
ああ、思えば俺は自分の気持ちを押しつけようとするだけだった。一緒に生きていくことは無理だったけど、この人を支えたいという気持ちには変わりないと、今わかった。
遅すぎたけど、伝えよう。
「片羽先輩。なにか辛いことがあったら、俺でよければ相談してくださいね」
「ん……立派になったね、榊君」
先輩が僅かに目を丸くして、それからかすかに口の端をつり上げた。成長した弟を見るように、あるいは自分を笑い飛ばすように。
「大丈夫。僕は一人でも大丈夫だし、そういう生き方を選んだんだ。後悔を残さないように生きてるさ。けど」
腰に手を当てて、僅かに顎を上げて、俺の目をまっすぐ見つめる。
「前にも言ったけど、君に会えて良かったよ、榊君」
そうして、ふふん、と。胸を張って、先輩は笑った。
それは空元気だけを頼りに世界に対してまっすぐに立つ、あの笑い方だった。
そして、俺は
「はい。俺も、先輩に会えて良かったです」
今日、初めて。年が明けてから、初めて。先輩に振られてから、初めて。
笑うことができた。
そうして、俺の初恋は終わった。
高校にもなって初恋なんて、ずいぶん遅かったと思う。けれど決して恥じるような恋じゃなかったと、胸を張って言える。
残念ながら恋破れたけれど、この人には幸せになって欲しいと、今も変わらず願っている。
「さよなら、榊君」
「はい。先輩も、元気で」
最終更新:2009年04月20日 19:44