未来のあなたへ6.5

380 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:42:31 ID:go0V6KJ3

「あ」

三月の中旬、日曜日。市内にある公立高校の校庭に、私服姿の人垣ができていた。その前には数個を連結された掲示板がそびえている。
人垣の構成人員は主に中学生の少年少女。付き添いらしき大人の姿もある。皆一様に期待と不安を抱きながら、立てられた掲示板の番号を目で追っていた。
結果を確認した人間から人垣から離れ、数人のグループがあちこちにできて雑談に興じたり、携帯電話で結果報告を行ったり、さっさと帰宅したりしている。
そんな光景の中、人垣からやや後ろに陣取っていた少女は小さな声を上げた。数字羅列の中に、あっさり自分の番号を発見したのだ。そのこと自体に、特に感慨はなかった。
隣で本人以上に緊張して掲示板を睨んでいる、付き添いの少年の袖を軽く引っ張る。
「兄さん、番号、ありましたよ」
「えっ!? 本当か優香、どこだ!?」
短髪でやんちゃそうな少年が、大声を上げて周囲の注目を浴びた。悲喜交々の溢れる場所だが、集中と緊張のために感情を露わにするのは控えられている。
少女はにこやかに微笑んで兄の足を踏んづけた。小さく悲鳴を上げる少年を尻目に小さく一礼、それで衆目の視線は掲示板に戻る。
抗議の視線を向けてくる兄に、少女は目線と人差し指で受験番号の一つを示した。その番号と記憶の一致を果たした少年は再度大声を上げながらあろう事か少女に抱きついた。
「やった、やったな優香!」
「きゃ……!」
周囲の人間も、事前の件で少年が感情的だとわかっていたので今度はそこまで注目しなかったのが、少女にとって不幸中の幸いだった。柄にもない悲鳴を上げてしまったことに焦る。後で説教一時間コース決定。
そうして榊優香は、兄こと榊健太と同じ高校に合格し、来年度から高校生になることが確定したのだった。



381 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:43:26 ID:go0V6KJ3

それからしばらくして、榊兄妹は高校と家を繋ぐ通学路を二人並んで歩いていた。八分咲きとなった桜の花が、あちこちで風に揺られている。
来る時はバスだったのだが妹の希望で、今日は徒歩で帰宅することになっていた。既に家には合格の旨を連絡しており、両親は小躍りしながら娘の帰宅を待っている。昼食は豪勢なものになりそうだ。
二人の格好は軽装で、兄がチェック柄のワイシャツにズボン、妹は厚手のワンピースにカーディガンを羽織っている。既に日は昇り、春も近い。
「全くもう。公衆の面前で女性に抱きつくなんて何を考えているんですか兄さんは。いえ何も考えていませんでしたね申し訳ありません。これが私でなければ痴漢扱いされて最悪逮捕、実刑です。そんなことで人生を棒に振りたいんですか」
「だから悪かったって。嬉しかったんだから仕方ないじゃないか。それにほら、家族のスキンシップだって」
「通報しますよ?」
「ごめんなさい」
がみがみとした説教は既に一時間に及んでいる。頭も下げて謝る健太だったが、結局商店街に寄ってアイスを奢ることになった。三月とはいえ昼間の陽気はやや汗ばむほどだ。
こういう態度の妹は珍しい、まあ長い長い受験戦争がやっと終わったのだから、しばらく羽目を外したいんだろう、と健太は考えて納得した。
それに勿論、兄として一足早いお祝いの意味もある。
「でもさ、優香だって嬉しいだろ?」
「いえ、別に。元々合格圏内でしたし、充分以上に勉強はしてきましたから、予想できる結果でしたよ」
「そうだよな、優香はずっと頑張ってきてたから、当たり前か。あ、けどそれなら推薦受けれたんじゃないのか?」
「そういう話もありましたね。ですがこの際、知識を深めておきたかったので勉強の時間を長く取らせてもらいました」
「とにかく、優香が頑張っていたことは俺が知ってるから、もっと自慢していいんだぞ」
「人の話を聞いていますか?」
推薦の中には県外の高偏差値校の話もあったのだが、優香はばっさり断っている。面倒なので兄には話していない。
実際のところ、ここ半年における榊優香の勉強は学力を伸ばすと言うよりひたすら知識を深めるためのものだった。彼女が求めるのは成績ではなく賢くあることなのだから。
とはいえ彼女は学力自体も同年代からは傑出した水準にある。進学先でもトップクラスの成績を維持することはほぼ間違いなかった。
そんな雑談をしている内にアーケードへたどり着く。表通りにあるアイスクリーム屋は、日曜日の昼前と言うこともあり短い行列ができていた。カップルの姿も多い。
二人並んで雑談の続きをしながら列が縮むのを待つ。
「優香は、また柔道部に入るんだろ?」
「はい、そのつもりです。兄さんは空手部ですから見る機会もありますよね。女子柔道部はどんな感じですか?」
「やっぱり男子柔道部の方がずっと大きいかな。女子の方の部員は十人ぐらいだと思う。けどかなり熱心にやってるよ」
「そうですか、特に問題はなさそうで何よりです」
部活動の細々としたことを話していると、行列が縮んで店員が現れた。
妹はさっさと抹茶のシングルに決めるが、兄は唸りに唸ってやっと新製品のパンプキンジェラートを買い求めた。この時決断に要した時間差は約二分、このカップルめと店員の笑顔をやや引きつらせることに成功。
店先を離れて、アイスを一舐めしてから早速妹が文句を付ける。
「兄さん、ああいう場所での注文は並んでる内に決めておくものですよ。恥ずかしい真似は辞めてください」
「いや、決めてたんだけど列で見えなかったところに新製品があってさ。両方頼もうかとも思ったけど、昼近いのにダブルは無理だろ? どうしようかなーって」
「ふう。言ってくれれば私が新製品の方を頼んで半分ずつ分けるということもできましたが」
「おお、頭いいな……ってダメだろっ! その、俺と優香は兄妹とはいえ男女なんだからさ」
「ああ、間接キスですか? そんなことをいちいち気にしてるから兄さんはガキなんですよ」
「とほほ……」
がっくりと肩を落としてパンプキンジェラートを舐める少年。彼からは見えない位置だったが、少女の首筋はその時真っ赤に染まっていた。



382 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:44:11 ID:go0V6KJ3

しばらく二人、アイスを舐めながら無言で歩く。やがてコーンまで囓り終えてから、そういえば、と優香は切り出した。
既にアーケードは抜けて、住宅街に向かう川に沿った道を歩いている。川沿いに植えられた桜の木が、ぱらぱらと桃色の花びらを散らしていた。
「桜、綺麗ですね。去年と違って今年は咲きが早いですから、入学式までには雨に打たれて散ってしまうでしょうね」
「ん……そうかもな」
声のトーンがダウンする。健太は目を細めて、桜の花とその向こうを眺めているようだった。おそらく、その花と同じ名前を持つ少女のことを。
つい二週間前に、榊健太は初恋の先輩と離別した。恋自体は片思いで、聖夜に告白して振られている。そしてその先輩は、卒業と同時に引っ越して行ってもう会えもしない。
どう考えても恋は終わっていて、吹っ切っていくしかない状況だった。
けれど、それでも二週間しか経っていないのだ。とても吹っ切れてはいない。
「なあ、優香。雨に打たれた花びらには意味がないのかな」
「は? いえ、率直に言わせてもらえばゴミかと思いますが」
「俺はそうは思わない。落ちた花びらは悲しいものだけど、そこにしかない悲しさがあるんだ。だったら、それはまっすぐに見れば価値があるものじゃないか」
「…………」
兄が桜を眺めながら口にする屁理屈に、妹はその背中を見ながら眉を寄せた。珍しく、はっきりと不機嫌な表情だった。
榊健太は物事を言語化するのが苦手で、更に詩的な表現を気恥かしがる。元々こういう表現をするような人間ではなく、明らかに誰かの影響、入れ知恵だ。
春という季節が嫌いになりそうだと優香は思った。この桃色の花びらを見るたびに、汚されたことを思い出す、そんな季節になりそうだと。
嘆息し、二度手を鳴らす。パンパンと乾いた音が響いて、健太は夢から覚めたようにはっと体を震わせた。どんな夢を見ていたのかは定かではない。
「行きましょう」
「……ああ」




383 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:45:07 ID:go0V6KJ3

その日の榊家の昼食は寿司(松)の出前だった。言うまでもなく長女の合格祝いである。
両親は喜んでいたが、特に母親の小躍りっぷりは半端ではなかった。何か欲しいものがあったらなんでも言ってと、何度も聞き出そうとするくらいだった。娘からは特に希望もなかったが。
榊家では母親はどちらかといえば娘を、そして父親の方は息子を贔屓している。母親にとって(出来の悪い息子と違い)娘は自慢の種なのだった。とはいえ、娘がそれに感謝しているのかと言えばまた別の話となる。
さておき、一緒に出かけようとひっつく母親を振りきって、優香は午後から町にある喫茶店に来ていた。待ち合わせた相手は友人である。
「やほー、優香ちゃんお久しぶり。合格おめでとーございます」
「卒業式以来ですね、久しぶりです。ここは奢るから好きなもの頼んでいいですよ」
「え、いいんですか? っていうか、普通奢るのは逆じゃないんですかね、お祝い的に」
「そちらの金欠は理解してますし先程母からお祝いということで現金をもらいましたから問題ありません」
「ちーっす! それじゃ店員さん、えーと……オレンジジュースとイチゴショートお願いしまーす」
友人こと藍園晶は店員にいそいそと注文した。服装は短めのスカートに厚手のシャツ、その上にパーカーを羽織り足元はスニーカーで固めている。小さな体躯を活発的に飾っているが、実はほぼ一張羅に近い。
藍園晶と榊優香は、概ね親友と言っても良い間柄にある。中学では大体『つるんで』いたし、二人とも色々と猫を被っているので率直な物言いをできるのはお互いだけだ。
進路は完全に別れたのでこれからは疎遠になっていくだろうが、ささやかな祝いの席を開くぐらいの関係はこれからも維持していくつもりだった。
ちなみに公立高校に進学した優香とは対照的に、晶は若い身空でフリーターだった。今のところは近所の総菜店(コロッケ屋と言った方が正確)とカラオケボックスで働いている。
「藍園さん、仕事の方はどうですか?」
「いやー、立ちっぱなしで働くのはやっぱ辛いっすねー。仕事終わる頃にはもう脚がくがくですよ」
「お疲れさま。やっぱり大変そうですね」
「今更ですが、世の労働者は尊敬ものですね。最近の日課は彼氏にマッサージしてもらうことっすよ」
「ふうん……あれ、呼び方変えたんですか?」
「はい。何時までも先輩先輩って、学生気分じゃいられませんから。卒業を機会に義明さん呼ばわりにさせてもらいましたよ、えへへ」
「よかったですね」
ややげんなりとしながら優香は紅茶を啜る。晶は確かに数少ない友人ではあるのだが、恋人との惚気話を頻繁に持ち出すのが難点だった。
とはいえその方向での先達として実に頼りになるし、劣悪な環境で生きてきたせいか犯罪じみた思考にも柔軟だ。貧困であることも含めて欠点も色々あるが、基本的に自立した人間であることも大きい。
ついでに晶は妙な尊敬を優香に抱いているようで(報酬は必要だが)大抵の頼み事は引き受けてくれる。今の優香にとって重要な関係と言えた。
そして何より、彼女は現時点で唯一の協力者だった。



384 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:45:43 ID:go0V6KJ3
「それで高校入学したらどうするんです?」
「何がですか」
「攻勢かけるにしても微妙ですよね。条件は中学までと一緒になっただけだし、それができるんだったらとっくにやってるって話です。もう一つくらいはプラスαが欲しいんじゃないですか?」
「……」
「ていうか、それが片羽先輩だったわけですけど。あれはぶっ飛びましたよね。考えてみれば充分有り得る話だったんですけど、なんとなく榊先輩は色恋に無縁な気がしてて」
「私もです。あの人が誰かに恋することを……想定はしていたはずですが、まるで実感がありませんでした」
「ですよねー。まあそれでも、惚れられるって展開はまるでなさそうなのが榊先輩らしいっていえばそうですが」
「それは私に対する侮辱か何かですか?」
「おっと失礼しました。約一名を除き、ですね」
仏頂面の優香に対して、にゃははと笑う晶。そこで注文したケーキとジュースが届き、晶は歓声を上げてスプーンを取った。一心不乱にクリームへ集中する姿に優香は嘆息する。
藍園晶が榊優香の特殊な嗜好を言い当てたのは中学二年の頃にまで遡る。教室で昼食後に雑談をしている最中、まるきり他愛ない話題のように言い出したのだ。
勿論優香は当初徹底的に否定したし、口封じも考えた。しかし晶はあっさりと白旗を振って、協力するから助けてと冗談交じりに頭を下げた。優香の思考を読み切った対応であり、彼女に取っては敗北に等しい。
とはいえ、敗北感だけで殺人に至るほど榊優香も愚かではない。いざというときの準備はしているが、利用できる相手であることは理解している。
勿論いくつか疑問もある。どうして異端視しないのか、どうして協力など申し出たのか、そして何よりどうして見抜けたのか。特に最後は、好いた相手にその事実を徹底的に秘匿している優香にとっては死活問題だ。
ちなみに訪ねてみた時の返答は『見る人が見れば一発っすよ。だって好き好きビーム発射してるし』という訳のわからないものだった。
動機は不明だし、手の内を全て明かしたりはしないが、こういったことを話題にできるガス抜きとしては藍園晶は極めて貴重な関係と言えた。
「同じ場所に通うわけですから、この一年間よりは遙かに状況の把握はできると思います。ただしリミットは二年間、その範囲内で攻勢は必要でしょうね」
「あまあま。大方針に変わりなしってところですか。まあ脅威は去ったし、性急に事を進める必要はないですからね」
「……いえ」
「そういえば、柳沢先輩どうするんですか? ぶっちゃけ、もう用済みっしょ?」
晶がさらりと話題に出したのは、健太の同級生にして友人のことだった。
柳沢浩一はやや長身に身だしなみを崩した少年で、性格は軽薄で積極的。そして榊優香に惚れていて、今まで何度もアプローチをかけている。
今まで優香はその好意を利用し雑談しながら健太の行動を逐一報告させ、アプローチは巧みにかわしていくという日々を送っていた。
しかし先程彼女自身が口にした通り、同じ学校に通うのなら状況の把握は容易になる。そういう意味では彼の利用価値は減少する。
「そうですね。身辺整理をして、それから……」
「あ、やるんですか? やっちゃうんですか? 経路は動機は日付は時間は現場は凶器は人数は始末はトリックはアリバイは?」
「突然生き生きしないでください。どうしてそこで刑事事件になるんですか。普通に交際の意思がないことを伝えるつもりですよ」
「えー、でもそれで諦めなかったらどうするんですか?」
「浅い付き合いですが、頭はおかしくないと思いますよ」
良くも悪くも常人だ。片羽桜子に振られて諦めた、榊健太と同じように。
それとは逆に榊優香は、何をどうしても諦められない、ある種おかしな人間だと自己評価している。そこに自嘲はない。
「でもあれですね、せっかく自分に惚れてる相手なんだし、普通に振るよりなんかに利用できないですかね」
「口元が邪悪な子鬼のように歪んでますよ、藍園さん」
「おっとと、えへへっ」
かくして藍園晶がもう一つケーキを完食し、別れの挨拶をかわして茶会は終わった。



385 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:47:25 ID:go0V6KJ3

その日の夜。
夕食(洋食レストランで家族揃って外食)が終わり、榊優香は部屋で一人、日課の採集物整理を行っていた。
概ね整理が終わった頃にきっちり二度、部屋のドアがノックされる。彼女は即座に収集物を机に仕舞い鍵をかけ、席を立ってゆっくりと部屋の鍵を開けた。
部屋の前に立っていたのは彼女の父親である。手には小さな紙袋を携えていた。
「いいか?」
「何の用でしょう」
「たまには親子の語らいでもしようかと思ってな」
「とってつけたような理由で不自然なのですが断る理由もありませんね、どうぞ」
招かれ、榊父が部屋にあがる。ひょろりとした長身に黒縁メガネ。ゴルフシャツに綿ズボンと、あたりさわりのない格好をしている。
まだ四十に届くかどうかといったところだが、きっかりとした立ち居振る舞いのせいでいくつか老けて見える。表情に乏しく、冗談が下手で、雰囲気自体も薄い。それでよく商社に勤めているものだと、家族は常々感心している。
部屋に入った榊父は椅子が一つしかないと見るや、さっさと壁に背中を預けた。いい年をした男性が娘のベッドに腰掛けるもどうかという判断らしい。優香は椅子に腰掛けて向き合った。
「それで、なんでしょう」
「まずは改めて、合格おめでとう」
「ありがとうございます」
「これは僕からの合格祝いだ」
ぽん、と紙袋が渡される。軽い。優香が中身を確認したところ、見慣れない医薬品の箱が入っていた。軽量薄型十二回分。
「説明を求めます」
「コンドーム。男性用避妊具だ。使用方法は取扱説明書を参考にすれば良い。箱を持ち歩くのが嵩張るなら、一回分だけを財布に入れるのが一般的な携帯方法だろう」
「ぶっ殺しますよ父さん。私が聞きたいのは用語説明ではなく、どうしてこんなものを渡すのかという動機です」
「お前も来年度から高校生だ。責任能力としては望ましくないが、可能性がある以上は事態の悪化を回避するために適度な予防策を講じるのは当然だろう」
とりあえず優香は紙袋を力の限り、父親に向かって投げつけた。空気抵抗で減速したそれは、ぱしりと簡単に受け止められる。
ふむ、と紙袋を一瞥して榊父は頷いた。その動作に多分意味はない。
「不必要か?」
「不必要です」
「なるほど、わかった。必要になった際はコンビニエンスストアか薬局で買い求めるように」
「二つよろしいですか」
「ああ」
「嫌がらせですか?」
「いや、そのような意図はない」
「ではもう一つ……兄にも渡したんですか?」
「ああ、去年に」
返答を耳にするや否や、榊優香は自室を飛び出して隣室に突入した。娘の部屋に残った父親からは、どたんばたんと物音及び悲鳴、聞き苦しいやりとりが続き、しばらく後に着衣を乱した優香が意気揚々と凱旋した。
手にはティッシュに包んだ未使用のゴム製品。それがゴミ箱に捨てられるのを見届けてから、榊父は口を開いた。
「言い忘れたが、去年の健太も受け取りを拒否したぞ」
「ああ、では兄さんの言い訳は本当だったんですね。なら柳沢さん経由でしょうか……まあ結果オーライです」
「優香よ、なにやら男の尊厳が打ち砕かれたような気がするのだが」
「だからなんですか」
特に弊害はないと判断したのか、榊父は軽く首肯した。この場に榊母か息子がいれば、盛大に非難の声が上がっていただろう。
昔からそうなのだが、この父娘は思考形態が似通っていた。性格が似ているわけではない。優香はかなりの潔癖性だし実のところ沸点も低いが、榊父にはそういったところはない。
共通しているのは、まず論理を組立てることを何より優先する点だった。感情すらも論理に組み込み、なんとなくという概念を嫌う、言ってしまえば学者バカ的なところが二人にはあった。
そのため二人で会話をする時は、ほぼかみ合う。そういう会話はストレスが溜まりにくいものだし、優香は父親に対してそれなりに敬意と気安さを感じていた。反面、母親との会話はかみ合わないこと夥しい。
「ところで優香」
「はい」
「健太に思うところでもあるのか?」
「いえ、別に」
「そうか」




386 未来のあなたへ6.5 sage 2009/04/21(火) 23:47:57 ID:go0V6KJ3
用は済んだとばかり榊父が壁から背を離すのを、優香が片手を上げて押しとどめた。もう片方の手は呆れたとばかりこめかみに当てられている。
目を閉じて小さくため息をつき、彼女は父親を非難した。
「父さん。自分の中の結論から話す癖をやめてください」
「ふむ……優香、受験に当たって県外高校への推薦をいくつか断ったようだが」
「今更ですね。はい、断りましたよ」
「それは家から離れたくなかったからか?」
「ある意味では。一人暮らしや遠距離通学までして進学する必要を感じなかったからです」
「だとして、進学先が健太と同じ高校なのは何故だ?」
「何故も何も、市内で最も偏差値の高い公立高校はあそこだけでしょう。私なりに我が家の財政を考慮したつもりですが」
「うむ、一見不自然ではないな。それでは何故、健太があの高校にいる?」
「進学したからでしょう。そんなことは本人に聞いてください」
「しかし息子の学力は、中学三年に進級時点で、とても合格ラインには届かなかった。それを監督し懲罰し指導したのはお前だ」
「まあそうですね」
「であるなら逆説的に、お前は健太と同じ高校に通うために、健太を監督したのではないか?」
論理の筋道を説明し終え、人差し指を立てて確認する榊父。優香は即座に否定した。
「そんな意図はありません。私は最低限、兄さんが落伍者になるのを阻止しただけです。そういう意味で心配だったのかと聞かれれば、その通りですが」
「なるほどな」
「そもそも、父さんの言う『思うところ』とはどういう意味合いですか?」
「いわゆるブラザーコンプレックスを想定していた」
「範囲が曖昧すぎますね。いえ、それでも私が兄さんに対してコンプレックスを抱くどんな由縁があるというのですか?」
「ないな、お前は優秀だ。母さんも優香の方を可愛がっている。健太がお前にコンプレックスを抱くというのなら理解もできるのだが」
「兄さんのコンプレックスなんて背丈ぐらいのものでしょう。あんな能天気な人間はそうそういませんよ」
実際は、片羽桜子に盛大に振られた後なので女性コンプレックス気味だが、そのことを優香は飲み込んでおく。
榊父の方も、能天気具合では息子と妻のどっちが上かと思案し、更に娘の胸に対する偏った拘りについても考えたが、本筋に関係ないので捨て置いた。
「確かに由縁は何もないが、しかし優香の行動がそう見えたのでな」
「だから私に確認してみたということですか。相も変わらずストレートですね」
「褒めるな」
「褒めてません」
そうして榊父は、後は雑談も交わさず娘の部屋を後にした。優香が食い下がらなければ質問に答えた時点で退室していただろう。
他人の話を聞かない、というわけではない。無駄と判断したことは徹底的に省いているだけで、聞かれない限り自分の意見を口に出すことも滅多にない。
自分とまるで違う息子にはかなり甘かったりもするが、分かりづらいし誤解を解く努力もしないし、冷血と言われても仕方のない人間ではあった。
さておき父親が出て行ってから、優香は深刻な顔になって手帳を取り出し、何ページかを修正した。
熟考。

「もう……あまり時間はなさそうですね」

「……終わり、か」



かくして、年は進み

榊優香の地獄が、口を開く。

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最終更新:2009年04月27日 18:48
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