未来のあなたへ7

167 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:49:55 ID:DQUNgzRT

~柳沢浩一の受難~




俺の親父は馬鹿だし、お袋は輪をかけて馬鹿だった。

親父は事業を営んでいて、まあそれなりに成功しているようだ。
家は大きいし、昔から金に困った記憶はない。高級そうな車を何台も持ってるし、ハウスキーパーを雇う余裕もある。
だが家庭の方も成功したかと言えば、必ずしもそうは言えない。いや、はっきりと失敗したと言ってもいい。
親父とお袋のなれそめなど知らないし、知りたくもない。当初は愛情があったかもしれないし、そうしようという努力はしたのかもしれない。
だが親父は仕事にのめり込んでいき、家にもろくに帰らず口座に金だけを振り込んでいたし。お袋はお袋で、その金で放蕩に明け暮れていた。
後はお決まりのパターンで、お互いに浮気を繰り返して別居に至る。俺の物心が付いた頃には、既に家庭は崩壊していた。
面倒を見てくれたのは親父の雇ったハウスキーパーと、年の離れた姉貴だ。あんな親なんて知ったこっちゃない。
両親は顔を合わせるたびにお前が悪いと罵り合っているが、言わせてもらうならどっちも馬鹿だ。
中学の頃は随分荒れた。親父の振り込みで金だけは不自由しなかったから、派手にばらまくように使っていた。当たり前だが有象無象が近寄ってきて、毎日下らないことで遊び呆けていたが連帯感などまるでなかった。
どのみち、金蔓か財布代わりにしか見られていなかったからだろう。その延長で何人かの女と付き合ったりもしたが、それにも心動かされたことはない。大して興味もなかったし、すぐに別れた。
それで構わなかった。とにかく自分の中のもやもやを発散させたくて馬鹿をやっていたが、ある日突然気付いてやめた。
あの下らない母親と、まるきり同じことをやっているってことに、だ。
冷めてからは早かった。そういう連中との付き合いをやめ(殴られたりもした)金遣いも改めた。というか、親父の金には死んでも手を付けたくなくなった。
昔の連中や自分と縁を切りたくて、死ぬほど勉強して今の高校に入学した。案の定、学力の関係で同じ中学出身の知り合いはゼロだ。
ついでに人当たりも変えた。お調子者で女好きなキャラクター、これもいわゆる高校デビューになるのかね。
そういう努力の甲斐あって、友達も何人かできた。一番仲がいいのは同じクラスの榊で、あいつの(俺とは違う)天然は色々とほっとする。
バイトも始めた(ちなみに校則ではバイト禁止になっているが誰も守っちゃいない)。それまでお坊ちゃんだったせいで働くのは色々と大変だったが、自分の面倒を自分で見るというのはこれまでにない充実感があった。
なにより、それが俺の願望だったのだから、辛いのなんざ屁でもない。
俺が本当にしたかったのは、自立すること、縁を切ることだった。あの家から、あの両親から、金銭的にも生き方的にも。
姉貴は大学進学が決まるとすぐに上京してほとんど帰ってくることもないが、その気持ちはよく分かる。
今は俺もあの家に住んでいるが、自立できる時期になれば即座に家を出るだろうし、なんなら姉貴の部屋に転がり込んだっていい。
親父もお袋も家にはほとんど帰ってこないが、関係ない。とにかく縁を切りたいんだ。
下らない拘りだってことは自分でも分かっている。
自分のことを棚に上げ、大声を上げて相手を罵り合う、あの姿に生理的な嫌悪があった。小さな頃から刷り込まれた、トラウマといえばそうなんだろう。
自分が結局、親のすねをかじっていることも分かっているし、あの二人の血が流れていることも分かっている。どうしようもないからこそ腹が立つんじゃないか。
ああ、くっそ。俺はあんな人間にはならない、あんな人間にはならないぞ。
…………



168 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:50:56 ID:DQUNgzRT
女と付き合ったことは何度かある。けれどそれは、心動かされるような経験では全くなかった。性欲は処理できるかもしれないが、それだけだ。
どの道、俺のばらまく金目当ての下らない人種だ。金使いを改めてから、女とは全く縁がなくなった。別に後悔なんてない。
大体、両親の破綻した関係と、母親の男遊びを見てきて、男女の間柄に一体どんな希望を抱けというんだ。
姉貴はそのせいか極度の潔癖性だ。性に関するあらゆるものを、汚らわしいと断じて捨てている。無理もないとは思う。
俺もそうなっておかしくなかった。実際姉貴には、薄汚いものとは関わるなと教えられてきたが、それでも女と付き合ったのは男女の生理的な違いか。
いや……俺はきっと、まだ男女の関係に希望を抱いているんだろう。
世の中にいるのは下らない人間だけじゃない、自分の面倒は自分で見る人間もいるはずだ、と。
そういう人間となら、互いに尊重し合う関係を築けるんじゃないかと。
でなければ例えポーズでも女好きでなんていられない。
ほとんどの人間は、下らない周囲に惑わされて生きている。それは金だったり、風聞だったり、毎日の仕事だったり、色々、色々だ。
そういう自分に気付かず、大声を上げてヒステリックになって、他人を抑圧しなければ気が済まない馬鹿も大勢いる。
俺が見てきたのは、両親を含めそんな人間ばかりだった。
だが稀に
じっと静かに、誰にも迷惑をかけずに、自分で自分の面倒を見ている人間もいる。自立し、自律している人間もいる。
だから俺が惹かれるとしたら、それは年上の女性になるんだろうとずっと思っていた。
けれど、ある日。
知り合った友人の妹は、確かに美人だったがそれだけじゃなかった。
年に似合わない深い目、行動の端々に現れる余裕。家のような成金ではない、本物のお嬢様かと思ったが、そんなわけがない。
その年頃の人間が翻弄されてしかるべき日々の変化を、それどころじゃないと唾棄して片手間で行っている、そんな少女だった。
もちろん、それは根拠のない直感だ。だが、つまり、一目惚れに近かった。
ポーズとしても、本心としても、柳沢浩一は榊優香という少女に好意を抱いている。


「つーわけで榊、優香ちゃんをデートに誘わせてくれよ!」
「いや、なにが『というわけ』なんだ?」
昼休みの教室で、榊健太と柳沢浩一は向かい合って雑談しながら昼食を取っていた。席は健太を起点に、昼休みは無人になる前の席を柳沢がくっつけて向かい合っている。
今月彼等は一年生から二年生に進級したが、幸か不幸か二人は再び同じクラスだった。ある先輩が卒業して行ってから、再度昼食を共にしている。
健太の食事は妹手製の弁当で、内約は白米+海苔、唐揚げ(冷凍)、マッシュポテト(夕食の残り)、卵焼き、きんぴらごぼう。
対して柳沢は購買で勝ち取ってきたパン(カレーパン、ロールパン、百円サンドイッチ)とコーヒー(微糖)が昼食だった。
「うまそーだよなー。いーなーいーなー、優香ちゃんの手作り弁当」
「だから、他人に弁当分けると優香が死ぬほど怒るからダメだって」
「なんだろうな、手に入らないものほど欲しくなる、不倫が収まらないわけだよな」
「ちょっと優香との付き合いは考えさせてもらうぞ」
「冗談だよ冗談! 俺、これでも一途なタイプだからさ、な?」
「嘘つけ嘘をっ! 毎日違う女の子のことあーだーこーだ言ってるじゃないか」
「いやいや、優香ちゃんは別格だって、マジで」
はいはい、と健太はため息をついた。どうもこの友人は妹に気があるらしく、こういう話題になることは多い。
確かに優香は美人だけどさ、とぼやき混じりに考える。スラリとしてるし、勉強もできるし、運動も得意だし、真面目だし、料理もできるし、世話好きだし……あれ?
反論しようとして失点がないことに唸る健太。兄から妹への感情は、尊敬している守るべき存在という、やや複雑なものだった。
なんで反論しようと思ったのかは分からない。あるいは単に、色恋沙汰に忌避感があったのかもしれない。榊健太、現在絶好調失恋中。



169 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:51:20 ID:DQUNgzRT
「ありがとな、柳沢」
「おいおい、湿気てんな。じゃあ俺は俺で勝手にやらせてもらうぜ? 先に彼女持ちになっても僻むんじゃねえぞ?」
「だからデートに誘いたいんなら優香に直接言えよ」
「いや、俺から何度アタックしてもけんもほろろに断られるんで、せめてきっかけぐらいは助けてくれって」
「だから、そんなことすると俺が優香に殺されるんだよ」
「なんだなんだ、兄貴なんだからこう、ビシって言ってやるとかないのか?」
「柳沢の家の姉弟関係はそうかもしれないけど、ウチはウチなんだ。今日はただでさえ機嫌が悪いのに……」
「ん? なんかあったのか?」
「あー」
聞き返されて、健太は眉をよせて考え込んだ。それは理由が分からないのではなく、言い方を探すような苦悩だった。
誰かに聞かれているわけではないが、何となく声をひそめる。男子にとっては触れづらい話題だ。
ちなみに健太が何故知っているのかというと、朝の食卓で見抜いた母がぶっちゃけたからだった。
「女の子はいろいろ大変なんだよ」
「あー……なるほど」



170 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:51:47 ID:DQUNgzRT
今月は生理痛が最悪だった。
その日、榊優香は部活に休む旨を伝えて放課後しばらく机に突っ伏し、生徒の波が一通り済んでから校門を出た。
重い体を引きずりながらバス停に向かう。朝からずっとしくしくと痛む腹部を、しかし矜持に賭けて抱えたりしなかった。時に女の見栄はなにより重い。
元々彼女は体が丈夫な方ではない。生理も重く、更に不順気味だった。ただし規則正しい鍛錬と自己管理によって体調を整えていれば、そこまで辛いものではない。
しかし今月は自己管理に失敗し、優香は体調不良が続いていた。中学から高校への進学という環境の激変によるのは明白だ。
生理が予定より遅れた時点で、かなり辛いものになるとは覚悟もしていた。しかし実際訪れてみれば、罵りの一つも口にしたくなる。
「ああ、ちくしょう、くそったれです……」
校門からすぐのバス停が、まるで無限の距離に感じた。それでも何とかたどり着き、どっかと腰をおろす。鞄も横に放り出した。
幸い、バスは先程出たばかりなのか、バス停にいる先客は一人のみ。女の子らしかぬ動作を見咎めたものはほとんどいない。
薬は飲んでいない。痛み止めの類は、体調が崩れている時の優香には効きすぎてしまい、意識が朦朧とするのだ。なので寝るまでお預けだ。
こんなことなら、今日は学校を休んで寝ていればよかった。後悔してももう遅いが。
ともあれ、ここまでくれば後はバスに乗って帰るだけとなる。念のためにメールでも打っておこうと携帯を手にしたところで、彼女に差す日光を人影が遮った。顔をあげる。
「……?」
女性だ。
年の頃は20前後。黒い髪を肩口で切り揃えた、いわゆるおかっぱな髪形をしている。顔立ちは整っており、たれ気味の目は細められていた。
フリルとレースがあしらわれたブラウスにスカート、つばの広い婦人帽という服装。右手にはやはりレースで飾られた日傘を手にしており、色合いは白と水色系統でまとめられている。
総じて、ドラマから抜け出してきたお嬢様のようだった。年齢と服装から、高校生ではない可能性が高い。
そんな女性が優香の前に立ち、座る彼女をじっと見下ろしていた。当然、知り合いではない。だが
「榊、優香さんですか?」
「は? はい、そうですが……」
見知らぬお嬢様から名前を呼ばれ、戸惑いながら答える優香。腹部の痛みは強まるばかりで、既に意識が半ば朦朧としていた。
女性が嬉しそうに微笑んだ。見る人間が釣られて笑みを浮かべるような、上品な笑い方だった。
そして片手に持った日傘の石突きを、優香の喉めがけて突き込んだ。
ひゅん。
「……あら」
「どういう、つもりですか」
優香は
日頃の鍛錬の賜物か、反射的に左手を動かして布の部分を掴んでいた。傘を突き付けられた体勢のまま、ぴたりと止まる。
彼我の距離は1m。女性は直立し優香は着座しているという不利だが、優香は勝てると判断した。
傘を伝わる手応えや体重の掛け方から判断して女性は素人だ。体調と体勢の不利を考慮しても、傘程度の得物ならば戦闘力の差を早々ひっくり返されはしない。
だが、ふと違和感に気づく。掴んだ傘の石突き部分に黒い穴が開いている。よく見れば先端は鉄製で、コーティングでプラスティックに偽装してあるだけだ。
構造的には銃口に似ていると、気付いた時には遅かった。あるいは体調不良がなければ反応はできたのかもしれない。
プシュッ。
「ぐっ!」
女性が柄のスイッチを押す。ガスの圧搾音が微かに響き、優香の肩に妙な形の注射器――麻酔弾が突き立っていた。隠し銃。
衝撃で優香の体がベンチに叩きつけられる。既に薬液は着弾の圧力で注入されていた。
この手の薬物は即効性だ、意識は持って数秒。咄嗟、優香は右手に持った携帯を操作して、僅か数文字のメールを打った。送信。
どんよりと意識に緞帳が落ちていく。女性が気楽に身を翻して近くに停車してあった軽自動車に向かうのを見ながら、榊優香は意識を失った。
(にい……さん……)


たすけて


171 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:52:33 ID:DQUNgzRT

その日のバイトが終わって家に帰ると、姉貴が居間で紅茶を飲んでいた。
「おかえり、浩ちゃん」
「姉貴? 何時帰ってきてたんだよ」
「お昼にね。その後もう一度出かけてたけど」
「それなら電話してくれりゃあよかったのに。いきなり来るから驚いたぜ」
「ああ、そのことなんだけど浩ちゃん。携帯電話の電源、切ってるでしょ?」
「ん? あ、やべ、ホントだ。わりいわりい」
バイト中は携帯の電源を切っている。多分、昨日あたりから切りっぱなしだったんだろう。軽く拝んで謝る。
久しぶりに会ったが、姉貴は相変わらず時代錯誤な格好をしていた。フリルとレースが山ほど付いた、お嬢様としかいえないブラウスとスカート。外に出る時は帽子と日傘まで付くんだから徹底している。
実家は金持ちではあるのだが成金の類だし、社交界なんてものに縁もない。姉貴がその手のファッションを好むのは単なる趣味だ。まあ、似合ってるから別にどうとは言わないけどな。
挨拶を終えた俺は、お嬢様趣味の一環である紅茶の相伴に預かる。俺自身はコーヒー党だが、目当ては姉貴が焼き上げたクッキーだ。相伴を想定していたんだろう、大量にある。
「ん、やっぱ姉貴のクッキーはうまいな。うまいうまい」
「焼きたてだし、今日は良いバターを使ったからね。でも夕飯前なんだから食べ過ぎちゃダメよ」
「へいへい。あ、そういや夕飯も姉貴が?」
「うん。あ、またこんなもの買ってきて。コンビニのお弁当ばっかりじゃ体壊しちゃうでしょ、浩ちゃん」
「あー、悪かったよ」
俺と姉貴の仲は、多分一般的な姉弟関係よりもかなり良い。
一例を挙げれば食事だ。上京するまで俺の食事は全て姉貴が作っていた。姉貴が中学一年の頃から、朝食弁当夕食全てだ。
おかげと言うべきか、不自由なく育った割には姉貴は料理が上手い。ついでに俺は料理ができず、毎日パンやコンビニ弁当で過ごしている。
というわけで、今日の夕食のつもりで買ってきた賞味期限ギリギリの弁当はあっという間に取り上げられ、やんわりと説教された。
食事の世話といえば榊と優香ちゃんもそうだが、俺達はあの二人みたいに言い争うこともない。姉貴の上位は確立されている。
「向こうに戻るのは何時なんだ?」
「明日の夜よ。今日は離れに泊まるからね」
「離れ? わざわざあんなところ使わなくても、姉貴の部屋でいいじゃねえか」
離れというのは庭の奥の方に立てられた、来客用の小さな建物だ。人間が一人二人は生活できるようになっている。
俺の住んでいる家はかなり広い。元は華族の屋敷だったとかで、装飾とかは全て取っ払ってあるが、離れを始め客を何人も呼べる構造になっているのだ。
とはいえ前述した通り、今この家に住むのは俺だけだ。ハウスキーパーは夜には帰るし、姉貴は東京だし、両親は例のごとし。
食事も全て自室で済ませてるのでがらんとしていることこの上ない。今日は久しぶりに、隣室に人の気配がありそうだと思ったんだが。
「あら、浩ちゃんが寂しいなら、久しぶりにお姉ちゃんと一緒にお風呂はいる?」
「い・つ・の・は・な・し・だ。俺だって何時までも子供じゃないんだぞ」
「ううん、浩ちゃんは何時までも私の弟だもの。甘えたっていいのよ」
「…………」
やっぱり姉貴にはかなわない。どこか人恋しいことを、きっちり見抜かれている。
とはいえ流石に、一緒に風呂など入れるわけがない。そんな真似をしてたのは小学生までだ。
その後は、姉貴が夕食の準備に席を立ったのをきっかけに茶会はお開きになった。




172 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:53:55 ID:DQUNgzRT

俺と姉貴は仲がいい。
それは小さい頃から、お互いしか味方がいなかったからだ。
父親は仕事にしか興味がなく、家に帰ってくることもほとんどなかった。いや、ある意味で正直とも言えるか。あんな家に帰りたがるわけがない。
母親は家事の類は一切使用人に任せ、夫の金で遊び歩いていた。ある意味正直とも言える。あんな夫に義理立てする意味はない。
どっちが先か、どっちが悪かったか、なんてことに本人以外興味はない。
親類の類に縁はない。金目当てに近寄ってくる輩ばかりで、そのことだけは両親は一致団結して遠ざけていた。縄張りを荒らされたくはないんだろう。
使用人は数年ごとに入れ替わっていった。中には親身になってくれる使用人もいたが、そういう人に限ってすぐ辞めていった。今のハウスキーパーも、親父の差し向けた監視のようなものだ。
そうして、たまに顔を合わせる両親は、こんな家庭になったのはお前が悪いと怒鳴り合い、罵り合う。
俺達はずっと孤立していたし、お互いだけが味方だった。
姉貴は
昔から優しい人だった。俺に取っては親代わりのような人だ。少し過保護気味ではあるんだが、時に烈火のごとく怒り狂った。
姉貴は普通の人だ。
容姿は優れてるが、運動も勉強もそこそこだし、習い事も色々やっていたが傑出したものはない。料理の腕だって努力すれば誰だってできる程度だ。
ただ、姉貴は思いきりだけが突出していた。普段は穏やかな人なんだが、一度何かを行う時は捨て身としか思えない行動をする。
言い争う両親の矛先が、そして比較的家にいることの多い母親の鬱憤が俺に向けられそうになった時、姉貴は両手を広げて俺を庇い、時に噛みついてまで俺を守った。
俺もまた姉貴に頼り切っていた。いや逆だ。姉貴がいたからこそ、俺はまともな人間になれた。
だから姉貴が上京してからは、捨てられたように思って随分荒れた。まあ、その話は前述した通りだ。
思えば、俺が心底異性に、人間に絶望しないで済んだのは、姉貴の存在が大きいのだろう。
こんな人間がいるのだから、捨てたものではないはずだ、と。
だが、姉貴自身は異性に絶望してしまっている節がある。
姉貴は美人だ。肩で切り揃えた髪に小さな顔、服装の趣味で浮くこともあるが、その分浮世離れした人形のような可愛さがある。
そのうえ人当たり良く穏やかな性格、ついでにプロポーションも良い(胸も大きい)ので、その気になれば男なんて選取見取だったんだろう。
だが実際は、彼氏なんぞ一人も作ったことがないし、そういう話題を出されるのも嫌がる。それは上京してからも変わっていないようだった。
俺がもっとしっかりしていれば、そんな風に絶望させないで済んだのかもしれないが……後の祭りだ。
結局、姉貴と恋愛話なんてできない。今、好意を抱いている少女――――優香ちゃんのことを話せないのは残念だった。
姉貴にも誰かそういう相手ができてくれればいいんだが。まあ、当分無理かな……




173 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:54:28 ID:DQUNgzRT

「ふ~ふふ~ふ~ん」
その日の夕方、藍園晶は鼻歌を歌いながらフライパンを操って野菜炒めを作っていた。
彼女がいるのは自宅のアパート(六畳一間)ではなく、恋人である雨宮義明の家である。
以前から食事を中心に頻繁に通ってはいたが、卒業を機に寝泊まりもこちらで行うようになっていた。
既にアパートに戻るのは一日一度、父親の食事の支度と部屋の掃除をする時だけだ。私物の類も運び出してあるし、元の部屋への思い入れなど何もない。
雨宮家の家長である雨宮秋菜は仕事で帰りは遅いし、恋人の義明はまだ高校から帰ってきていない。今この家にいるのは彼女一人だけだった。勿論、合鍵は持っている。
朝三人で食事を取り、後片づけをしてから洗濯物を干し、九時頃からバイト先の総菜店に出て三時頃まで働き、帰ってきてから家の掃除と洗濯物の取り込み。
それが終わったらアパートに戻って掃除と父親の食事を適当に行い、帰りがてら買い物してから雨宮家で食事の準備に取りかかる。
部活動を終えて帰ってきた恋人と二人で夕食をとり、その後しばらく話をしてからカラオケ店のバイトに出向き、深夜ほぼ同時に帰宅する姑と皮肉を交わしてから眠りにつく。
そんな日々のパターン(同棲)に晶は概ね満足していた。父親の存在や姑からの些細な嫌がらせは鬱陶しいが、これはそのうち処理すればいい問題だ。
そうして鼻で歌いながら食事の準備をしていると、玄関に備え付けられた電話が鳴った。おっとと、とコンロの火を消しエプロンで手を拭いながら玄関に向かう。とととと、がちゃ。
「はーい雨宮で」
『優香知らないか晶ちゃん!?』
きーん。
受話器から響いた怒鳴り声に、晶の耳と脳が数秒麻痺した。くわんくわんと揺れる意識を何とか落ち着けて、電話の主に文句を付ける。
「いきなり大声出さないでください榊先輩、頭がきーんってなりましたよ、きーんって」
『ご、ごめん。けど優香が……』
「優香ちゃんですか? まあ知ってますけど」
『ホントっ!?』
「榊優香高校一年生容姿端麗成績優秀精神武士(もののふ)のパーフェクトガール。玉に疵なのが常軌を逸したブラ」
『そういうのじゃなくてっ! 優香がさらわれたかもしれないんだっ!』
「はあ?」
その時晶が思い浮かべたのは、のしのしと進むライオン(♂)に襟元を銜えられた親友の姿だった。ぶらぶら。
何故そんな連想かと言えば、彼女にとって榊優香が誘拐されるのに必要なのはそういうレベルの脅威らしい。
晶が空想に浸っている間にも、健太は自分がそんな結論に至った経緯をまくしたてている。
曰く。部活が終わって着替えている最中、携帯のメールを確認してみたら妹からSOSのメールが来ていた。
不審に思って確認してみれば、本人には通話もメールも通じず、部活は休んでいるし家にもまだ帰ってきていない。体調が悪いのは顔色から判断できていたから、帰りに寄り道しているとも思えない。
この時点で健太はパニックに陥っていた。
電話を受けた母親は(早すぎるかとも思ったが一応)警察に届け出ることにした。父親はまだ帰ってきていない。
一方、榊健太は毎日使う通学路を、妹の名前を呼びながら走破するという暴挙に出た。ゆうかー、ゆうかー。
日が暮れた後の薄暗い道を、女性の名前を呼びながら走り抜ける男。逮捕されなかったのは幸いである。晶的には『うわー、もううわー』としか言いようがない。
しかしそれでも見つからず、藁にもすがる思いで知人に電話をかけて回っているという。真っ先にかけた親友には繋がらなかったらしいので、まさか犯人!と晶は一応ボケておいた。
さておき
「んー、わかりました。仕事始まるまでならお付き合いしますよ。二十分以内にそっち行きます」
『あ、ありがとう!』
電話を切った晶は手際よく料理を仕上げ、ラップをかけてテーブルの上に書き置きと共に載せておいた。
『ラブダーリンへ、ちょっと友達を救出しに行って来ますので今日の夕飯は一人でお願いします。帰ってきたら結婚しましょう』
雨宮家を出て榊家に向かう。移動手段は中学卒業に際して彼氏からプレゼントされたマウンテンバイクである。
ペダルを漕ぎながら晶は思索にふける。
榊優香が兄の主張通り拉致されたとは考えにくい。なんらかの事情で寄り道をしている可能性の方がずっと高い。
それに優香自身、並の災難を退けるだけの腕も、避けるだけの判断力もある(ただし体調不良がどれだけのものだったかは不確定要素)。
彼女だけをピンポイントで狙ってきたのなら話は別だが、今度はそんなことをされる理由が必要になる。今のところ、榊優香は特殊な嗜好を持っただけの小娘だ。



174 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:54:54 ID:DQUNgzRT
とはいえ……とはいえ。
この件を覆う、ちりちりとした悪意のようなものを、日々のサバイバルで培われた藍園晶の直感は察知していた。
だからこそ榊健太の過剰な心配も一蹴せず、こうして彼氏との時間を潰してまで付き合っているのだ。
ふと思いついて、晶は自転車を一旦止めて健太にメールを打った。すぐに返信が返ってくる。頼んだのは、唯一手がかりと言える優香からのメール内容。

件名:FW:RE:今日は
本文:
SOS
GPS

はて、と晶は首を傾げた。たったこれだけ? 確かに家族が通報を渋るのも無理はない。
とりあえず件名に意味はないだろう。多分適当な返信としてメールを作成しただけだ。
SOS、これもいい。優香がラノベの愛読者でない限り、助けを求める一番シンプルな打ち込みに違いはない。
とはいえ日本語ではないせいか、今一緊張感に欠けるところはあった。悪戯のような安っぽさをどうしても感じてしまう。
問題はその次、GPS。おそらくこれが、優香が用意した手がかりなのだろう。
真っ先に思い当たるのが優香の携帯に搭載されたGPS機能で、これを追跡すれば一発で居場所は判明する。しかし電源が切れていれば意味はないし、実際携帯は繋がらない。
例えば、榊優香が常に意味もなく電池式の発信器を持ち歩いているようなキチガイなら可能性はあるのだが――――
「あ」
可能性があった。
確かに彼女は発信器を常備している可能性が高い。それはこんなメールを送ってきた以上、ほぼ確実のはず。
つまり榊優香は間違いなくキチガイだ。しかし今はそのキチガイに感謝すべきだろう。
後は受信機を探さなければいけないが、以前に優香からキチガイ話を聞いていた晶でも、流石にその場所までは分からない。
まあおそらくは優香の部屋だろう。厳重に施錠されているはずだからバールのようなものでも借りて破るしかない。
ただし健太の前での行動になる。何故そんなことをするのか、何故受信機などというものがあるのか、説明には苦慮しそうだが晶は全て本人に丸投げすることに決めた。これで勘違いなら盛大に恨まれるだろう。
「うーん、キチガイで良かったですねえ、優香ちゃん」
全くもって人生は分からない。
実兄に仕掛けるため発信器を常備しているのが、まさかこんなところで役に立つとは。



175 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:55:56 ID:DQUNgzRT

「う……」
血生臭さと体の痛みで榊優香は目を覚ました。
朦朧とした意識で彼女が最初に認識したのは、目の前のテーブルに置いてある電気スタンドの灯りだった。
木製の一本脚に支えられた白熱電球が、レース状の覆いで弱められながら、黄色がかった光を発している。
灯りは部屋の隅々までを照らす程ではないが、それでも唯一の光源だった。スタンドからはコードが伸び、コンクリートの床に垂れて部屋の奥に消えている。その先にあるのはどうやら上り階段のようだった。
窓が一つもないこと、コンクリートの床と壁であること、部屋にこもる湿気と冷気から、どうやら地下室のようだと優香は判断した。ただし天井は木製なので、床下部屋と言った方がよいのかもしれない。
部屋の大きさは六畳程度。天井までの高さは2m弱。決して広くはないが、家具が何も置いていないせいで、ひどくがらんとしている。
そして何か血生臭い。
「…………」
優香自身は椅子に縛られていた。
椅子はアンティーク調の木製で、ひどく頑丈な年代物だった。いくつかの難点を除けば古風な屋敷に置いてあったとしても違和感はない。
椅子に縛り付けられているのは四肢と肩で、目を覚ました痛みは細い紐が体に食い込むことで発生していた。
服装は下校時に着ていたセーラー服のままだが、携帯電話と鞄とポシェットはどこかに消えている。
動けない。
縛られた上に薬物による手足の痺れが抜けず、更に紐を切るための道具の一切が見当たらない。体を揺らしたとしても椅子ごと倒れるだけだ。
現状、脱出は極めて困難だった。不幸中の幸いとでも言うべきなのは、薬のせいで生理の痛みがほぼ消えていることぐらいだろう。
そして血の臭い。
当初優香は自分の径血かとうんざりしていたが、よく見てみればそれどころではなかった。
床に、壁に、そして彼女の座る椅子に。洗い流され、しかしこびりついた鉄の残滓を、優香は確かにかぎ取った。
部屋の隅に設けられた排水口には、黒い固まりがべっとりとこびりついている。
ここは……ここは、屠殺場だ。
今まで何人もの血が流され、そして死んでいった、怨念とでも言うべき空気がこの場所には充満していた。
脱出しなければならない。一刻も早く脱出しなければ、ここで果てた犠牲者と同じ運命を――――
薬物のせいで上手く回らない頭でようやくそこまで思い至った時、彼女が目覚めてからかなりの時間が経っていた。
そして、ぎい、と
階段の方から優香の元まで、蛍光灯の目映い光が差し込んだ。
「!」
スタンドの寂光に慣れていた優香は刺すような痛みを感じて思わず目を瞑る。それでも聴覚は、短い階段を下りる硬質の足音を聞き取っていた。
涙に滲んだ視界を必死に開いて、現状を確認しようとする彼女の前にいたのは
「あら、目が覚めたんですね。おはようございます」
フリルで彩られた水色のブラウスにスカート、切り揃えられた髪。日傘と帽子は身につけていないが、間違いなく優香を拉致した女だった。
手にはイギリスの紳士が持つような、木製のステッキが握られている。
表情は、拉致監禁した人間の前とは思えない、場違いな程自然な笑顔のままだった。

「とはいえ今はもう夜ですけどね。貴女が意識を失ってから四時間程は経っていますよ。
 随分と良くお眠りでしたけど、何かお疲れだったのでしょうか。
 ああ、この杖は気にしないでいいですよ。あの傘のように仕込んでいるわけではありませんから、正真正銘ただの杖です。
 さて改めて。お名前は伺っているので今度はこちらから名乗らせていただきますわね。
 ええ。私と貴女は確かに初対面ですし、優香さんのことを知っていたのはこちらで調べさせていただいたからです。
 榊優香さん、高校一年生。家族構成は父、母、兄の四人家族。学業は幼い頃から極めて優秀、素晴らしいですね。高校では柔道部に所属、こちらもそれなりの成績を残していらっしゃるようで。
 ですが、まず何者でもなさそうなので安心いたしました。例えば名家の御息女でしたら、いささか面倒なことになりますから。
 そうそう、自己紹介がすっかり遅れてしまいましたね、申し訳ありません。
 私は、柳沢紫織と申します。貴女の好いている柳沢浩一の、妻です」

豊かな胸に片手を当てて、女は穏やかに微笑んだ。
狂人対決



176 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:56:56 ID:DQUNgzRT

長々とした口上には無数のおかしい点があったが、まず優香は一番最後の決して譲れない点からツッコんだ
「人違いです。私が柳沢先輩を好きなのではなくむしろ逆で、柳沢先輩が私を……ぐっ!」
ら、顔を殴られた。
杖の腹で優香の横顔を張った紫織は、戻すついでに反対側の側頭部を杖で殴る。優香の頭が横倒しになり、がくりとうなだれた。
先端の石突き部分は当たらなかったものの、それは紫織が素人だったからに過ぎない。手加減なく振るわれた遠心力は、優香を容赦なく打ちのめしていた。
衝撃が頬と頭を襲い、じんじんと熱を持って痛み始める。口の中を切ったせいでぬるりと鉄の味が充満する。
対して紫織は何事もなかったかのように優香の言葉を訂正した。
「浩ちゃんが好きなのは私なんです。ですから、貴女のことを好きだなんて有り得ません。けれど浩ちゃんは魅力的な男性ですから、そう勘違いしたくなるのも仕方ないかもしれませんね」
「……他人の趣味に口を挟む気はありませんが、私としては彼に異性としての魅力は全く感じません……っ!」
ばしばし。
よけようがない。
今度は目の上と側頭部を、紫織はやはり無造作に杖で叩いた。優香のこめかみから、たらりと血が流れて顎を伝う。
そのまま、今度は杖の石突で優香の腹部を二度、三度突く。がふ、と空気が押し出されて優香の口から血の混じった唾液が飛び散った。
水色のスカートに付着した赤色を、紫織が「あら、いやですわ」と眉をひそめてハンカチで拭う。それで一応、拷問はストップした。
一方、流石にダメージを受けてぐったりと息を荒くする優香は、今更ながら一つの結論に至っていた。
頭がおかしい。
柳沢紫織(自称)というこの女は、何か一つの確固とした認識が脳内に存在し、それが現実を凌駕している。
現実と認識が食い違えば、現実の解釈をねじ曲げて認識に合わせてしまう。本人の態度が至って普通なのもそのためだ。彼女の認識では全て当たり前のことなのだから。
元々、人間は直接外界を認識しているわけではないと言うが、この女は特にそれが酷い人種なのかもしれない。
「もう。みなさん、こういう時は同じ嘘を仰るのですね。嘘はいけないと先生に習わなかったんですか?」
「…………」
それはそうだろう。普通、拉致監禁されて暴行を受ければ、自分は関係ないとも言いたくなるだろうし、実際心変わりもするだろう。優香の場合はまるきりの本心なのだが。
柳沢紫織の望む認識はひどく屈折していた。『浩ちゃん』が自分を何より愛しており、男性として魅力的でなければいけない。そして女子から好かれるとしたら、それが全く許せないというのだ。
矛盾しているが、頭がおかしいのだからそんなものだろう、と優香は思っていた。
それにしても柳沢からの好意を引き延ばしていたことに対して、まさかこんな形で報いを受けるとは思いも寄らなかった。勿論、こんなストーカーがいることを想定する方が無理もあるが。
腹の中で少し笑ってから、優香は顔を上げた。どんな弁明をしたところで聞くとは思えない。それより今は、他に聞いておきたいことがいくつかあった。
日本語が通じることを祈りながら、口を開く。
「すみません、私の鞄が見当たらないんですが……」
「それでしたら、こちらで預からせていただいています」
「上の部屋ですか?」
「ええ、そうですよ。後でお返ししますね」
「ところでこうやって何人殺しましたか?」
「三人程ですわ」
優香は数秒、目を閉じて冥福を祈った。
それらの犠牲者は赤の他人だし一片たりとも思い入れはない。殺人行為そのものも、優香は手段として無味乾燥に認めている。
しかし流石に、これから自分が同じ運命を辿るかもしれないと思うと、僅かに同情せざるを得なかった。
「さて、優香さん。申し訳ありませんが、今後二度と浩ちゃんに近づかないでくれませんか?」
「……わかりました」
「本当ですか?」
びしん、ばしんと杖で足と肩を叩かれる。鋭く、ひりつくような痛み。
「ぐ……本当です」
「本当ですか?」
びしん、ばしんと杖で頭と脇腹を叩かれる。
「こほ…………本当です」
「本当ですか?」
どすん、どすんと杖で腹部を突かれる。
げぼ、と優香が前のめりになって胃液を吐いた。黄色がかった液体が紫織のスリッパを汚す。
「はーっ、はーっ…………本当です」
「本当ですか?」
びしん、ばしんと杖で首と頭を叩かれる。
繰り返し。
繰り返し。


177 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:57:25 ID:DQUNgzRT



脱出しなければならない。
何がなんでも生き延びなければならない。
かつて死を肯定する生き方に殉じた敵がいたし、彼女もそれを否定するつもりはない。だが榊優香が選んだのは生きること、生きて添い遂げることなのだ。
一応、鞄の中の発信器は地下ではなく地上にある。助けが来る可能性があった。
しかし可能性は高くない。まずメールを送った相手が短い文を真に受けないといけないし、その相手は優香が貯金をはたいて買い込んだGPS受信機のことを知らない。
それを知っている藍園晶に連絡を取り、彼女が気付かなければいけないが、正直そこまで至る可能性は低い。
だから基本、自力での脱出を想定しなければならない。
時間の経過と共に薬の痺れは取れつつある。ついでに生理痛も再開してきたが、どうせ腹部を突かれた痛みもあるので大差ない。
取っ組み合いで負けるつもりはなかった。この殴打も素人が適当に叩いているだけだ。この程度の得物の差なら埋められる。
本人もそれは分かっているからこそ、扱いの難しい刃物ではなく杖なのだろう。紐をわざと切らせることもできない。
いくら素人の殴打とはいえ、あまりにも続けば脱出のための体力すら奪われてしまうし――――死にも、至る。



三十分後。
頭から血を流し、体のあちこちに青痣をつけた優香が、椅子に縛り付けられたままぐったりと頭を垂れていた。
ぬるぬるとした血にまみれた杖を手にして、小休止を挟んだ紫織が何度目かの問いかけをする。
「本当ですか?」
「…………」
「どうなんですか? 優香さん。浩ちゃんから身を引いてくれませんか?」
「…………」
「仕方ないですねえ。そこまで強情なら、申し訳ありませんけど貴女には消えてもらうしかありません」
「…………」
優香は答えない。
殺すと言われても、椅子に縛られたまま項垂れて無言でいる。いや、何かを小さく呟いている。
不審に思った紫織が耳を寄せて、小さく眉を潜めた。
「負けない……負けるもんか……私には……好きな人がいるんだ……」
「――――困った人ですねえ。そんなに浩ちゃんが好きなんですか?」
「私は負けない……現実になんて負けない……」
聞き返しても、優香は同じようなことをぶつぶつと呟き続けるだけだった。
紫織は僅かに首を傾げたが、追いつめられると支離滅裂なことを言い出すのが人間であると知っていたので、いつのものように気にしないでぶっ殺すことにする。
杖を手放し、懐中から鞘に入った包丁を取り出す。抜かれた包丁の刀身が、白色電球の明かりを浴びて冷たく輝いた。
その時

「おーい、姉貴ー」

やや遠くから誰かの声が聞こえ、女の動きがぴたりと止まった。



178 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:58:10 ID:DQUNgzRT

「おーい、姉貴ー」
離れの玄関に立ち、奥の方に向けて適当に声をかける。
姉貴は夕飯が済んだらすぐに離れに戻ってしまい、久しぶりに話でもしようとしていた俺はいささか拍子抜けしていた。
大体にして姉貴は構いたがりで、家にいる時はあれこれと世話を焼いてくる。食事の支度から部屋の掃除、洗濯物の整理に服装のコーディネイト、そして何かにつけての他愛ないおしゃべり。
だから今日も当然、食事の後は居間でくつろぎながら話に付き合おうと覚悟してたんだが。
まあ、結局はこうして俺の方から訪れているんだから、俺も姉貴との会話を心待ちにしているんだろう。以前から少しだけ話していた優香ちゃんのことについて相談もしたかった。
声をかけてしばらく待つと、とてとてと奥の方から姉貴が出てきた。のんびりした声。
「なあに、浩ちゃん? 何か困ったことでもあった?」
「いや、んなこたないんだけどよ。せっかく帰ってきたんだし、たまには少し話さねえか?」
「わあ、わざわざお姉ちゃんを誘いに来てくれたの? ありがとう、浩ちゃん」
本当に嬉しそうに、姉貴が両手を自分の頬に当ててほんわりと笑う。この程度でそこまで喜ばれるとこっちの方が照れくさかった。
やっぱり姉貴は幸せになるべき人間だな、と再確認する。
……ん?
ふと、生臭い臭いが鼻を突いた。なんというかその、ゲロを吐いた後のような酸っぱい臭いだ。どう考えても姉貴に合うようなものじゃない。
「なあ姉貴、なんか変な臭いがするんだけど……」
「あ、ごめんね浩ちゃん。ちょっと掃除してたの」
「なんだ、生ゴミでも片づけてたのか?」
「うん、そう。そうだよ」
我が意を得たりとばかりに手を合わせる姉貴。
離れは洋風の小さな建物で、普段は大体鍵をかけて物置代わりに使っている。
とはいえ、小さいながらも台所も風呂もついているので一応ここにも住めるようにはなっている。
けど夕食は本館で一緒に食ったし、何か夜食でも作ってたんだろうか。姉貴はどちらかといえば小食な方だ。ま、痩せているっていうよりはふくよかタイプ(口に出すと怒られる)だけどな
「ごめんね浩ちゃん、今からシャワー浴びるから。本館で待っててね」
「ん……ああ、わかった。んじゃ居間にいるわ」
心底申し訳なさそうに眉を下げる姉貴。少し違和感はあったが、そんな顔をされて折れないわけにはいかなかった。
んじゃ、と踵を返して離れを出た。そのまま本館に向かって小道を歩いていく。
本館と離れを繋ぐ砂利道は、左右に藪が茂っていて暗いが、勝手知ったる文字通り自分の庭だ。苦もなく進んでいく。
姉貴がシャワーを浴びてくるまでに数分は時間が空くだろう。柄にもなく茶でも用意しておくかな、と考えながら歩いていた、その時。
がさり。
「ん?」
少し先の茂みで生き物の立てる音がした。若干驚くが、また猫でも入り込んだのかと、無造作に近づいて覗き込んだ。
それが油断だった。
胸に衝撃。
「がっ!?」
茂みの中にしゃがみ込んでいた誰かに、立ち上がりざま殴られた。
そう理解したのは数歩たたらを踏んで後ろに下がってからで、その時には更に蹴り掛かられていた。
よける暇もなく、今度は左膝に衝撃、激痛。よろめいた。
明かりが不足していて目の前に立つ人影の正体は分からない。せいぜいが輪郭が分かる程度だ。多分、男。
もちろんハウスキーパーは既に帰ったし、この屋敷にいるのは俺と姉貴だけだ。
強盗か何か知らないが、とにかくその手合いに間違いない。
人影が更に畳みかけようとするのを、無我夢中で腕を振り回して牽制する。人影が怯んだ一瞬、俺は大きく息を吸い込んだ。
――――姉貴、強盗だ!
俺がすべきことは自分の身を守ることじゃない。それより優先すべきなのは、姉貴が逃げる時間を稼ぐことだ。
離れにまで届くよう、ありったけの大声をあげようとした、その時。
がつん、と
ひどく固いもので後頭部を殴られ、俺の意識はブチ切れた。
あ……ね……き……



179 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:59:07 ID:DQUNgzRT

一方。
本館に向かう弟を見送った紫織はそのまま自然体で踵を返して、離れの奥に向かった。
離れの奥にある一室はごちゃごちゃした物置に使われているが、そのカーペットをめくると地下室への入口があるのは紫織しか知らない秘密だった。
とはいえ今はそのまま出てきたので、部屋に入れば開いた床から地下室が、そして紫織の拉致してきた少女が一瞥できるはずだ。

柳沢紫織は頭がおかしい。
元々、彼女は寂しがりやなただの少女で、決して強い人間ではなかった。
しかし彼女にとって最も身近な敵は両親だった。毎日のようにいがみ合う彼等の、とばっちりを受けるのはいつでも子供だった。
そんな家族を前にして、紫織は必死で弟を守った。自分だけを守るなら逃げてしまえば良かったが、寂しがりやな彼女には、弟を見捨てて逃げることはできなかった。
そうして少女の世界は閉じていく。
紫織が刷り込みにも近い強度で学習したのは、家族を第一とする外部の環境というものが、自分たちを傷つける棘だということ。
彼女にとって不幸なのは、外部の環境全てを害するものと定義付け、そしてそれを是正するような機会が何もなかったことだろう。
紫織は外の世界から弟を守り、姉弟二人だけしか存在しない内面を作り上げていった。
そうして姉に守ってもらった弟は至極まともに育ち、外の世界に向かおうとして、彼女の世界は壊れた。
今まで自分の存在意義だった弟が自立したのなら、自分はいったいどうすればいいのか。外の世界そのものを棘と定義づけてきた彼女には想像すらつかなかった。
それは半身をもぎ取られる行為に等しい。本当に依存していたのは姉の方だったのだ。
柳沢紫織は恋を抱いたわけではない。
彼女を衝き動かすのは強烈な独占欲だ。対象の一から十までを全て支配しなければ気が済まないという衝動。
その根底にあるのは、物心ついてから初めて、真に一人ぼっちになりかけたという恐怖だった。
自らを正当化するために彼女はあらゆる認識を歪めて対処した。姉弟でありながら内縁の妻であり、夫がモテるのを許すのは妻の甲斐性であり、そういう相手には穏便に引き取ってもらうしかない。それが無理なら死んでもらうのもまあ、仕方ない。
彼女の中ではそういうことになっている。
殺人ですら、ゴミのポイ捨てと同程度の罪悪感に倫理が歪められている。そうして紫織は、弟と交際した女性を残らず血祭りに上げてきた。
元々、彼女は寂しがりやなただの少女で、決して強い人間ではなかった。だからこそ、彼女は居場所を求めて頭がおかしくなったと言える。
柳沢紫織は恋と自称するが、それは執着であり、独占欲であり、恐怖であり、故に揺るぎなく強固なものだった。

離れの廊下を歩きながら、紫織は手順を確認する。
地下室に戻って包丁(そういえばその場に放り出してしまっていた)で優香の腹を2~3回刺す。しかし紫織の技能で即死させるのは難しいので失血死を狙う。
大量の出血を確認したら、地下室を出て入り口を閉じ、シャワーで返り血を洗い流す。着替えて弟の待つ本館に向かい、夜が更けるまで話をする。今日はそのまま本館で寝ればいい。
翌日弟が学校に行ってからハウスキーパーと庭師に休みを取らせ、失血死した死体を地下室から運び出す。
物置のリヤカーで死体を庭内の雑木林まで運び、そこからは重労働だが小休止を挟みながらスコップで穴を掘って死体を埋める。
終わったらシャワーを浴びてさっぱりしてから、モップで離れの痕跡を消し、ホースを地下室まで引っ張って水流で血臭を洗い流す。
それから茶菓子の一つでも用意して、愛する弟が帰ってくるのを迎えよう。思い切って抱擁の一つでもしていいかもしれない。
紫織は弟をできるだけ待たせないよう、これからの手順を確認しながら地下室のある部屋に入り
開けっ放しになっていた入り口から階段を見下ろして――――眉をひそめた。
「……あら?」
優香が消えていた。
廊下の蛍光灯とスタンドの白熱電球に照らされた地下室には、倒れた椅子と切れた紐が散乱しているだけで、捕らえていたはずの少女は何処にもいない。
それからもう一つ。床に放り出してあった包丁が血に濡れている。
紫織がそこまで確認した時、どん!と背後から突き飛ばされた。
「きゃ……!?」
一瞬の浮遊感。そして体のあちこちに連続した衝撃と痛み。天地が回転する。前屈みになって地下室を覗き込んでいた彼女は、ひとたまりもなく階段を転げ落ちていた。
入れ替わり。向かいの部屋から飛び出してきた優香が、右手と肩から血を流しながらそこにいた。



180 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 07:59:58 ID:DQUNgzRT

どうして逃げなかったのか。
紫織が弟に呼ばれてすっ飛んでいった直後。優香は椅子ごと倒れて、放り出してあった包丁を口でくわえ、体に刺さるのも厭わない勢いで肩と右手の紐を擦り切った。
案の定自分で体を幾度も斬りつけることになったが、優香はその痛みと恐怖に勝った。もしも慎重にやっていたら、自由になる前に紫織は戻ってきただろう。
そして優香は逃げるのではなく、出血を服で押さえて待ち伏せた。
逃げ出そうと思えば逃げられたはずだったし、リスク的にはそれが最善だったはずだ。既に優香自身が満身創痍なのだから。
しかし優香は逆襲を選択した。それをさせたのは、彼女の闘争者としての本能だった。
負けるものか。
このまま逃げ出したのでは気が済まない。
散々いたぶってくれた仕返しをしなければ、相手は再びかさに掛かってやってくる……!

「あぐっ……!」
階段を転がり落ちた紫織は肩を強く床に打ち付けて強くうめいた。痛みで全身が痺れ、目に涙が浮かぶ。水色のフリルは埃にまみれて見る影もない。
それでも彼女は、優香が何をするために残っていたか、本能的に理解していた。
生来備えた思い切りのよさ――言い換えるならばとてつもない短絡思考――で、うつ伏せの状態から迷うことなく床の包丁に手を伸ばす。
その腕を、階段を素早く下りてきた優香がぱしりと取った。
「聞け、私が」
紫織の右腕をひねり上げながら、優香が体を落として床に腰を着ける。完全に脇固めが極まった。
その状態から、優香は躊躇なく更に体をひねる。
「私が好きなのは榊健太だ!」
ごきり、と鈍い手応え。
「~~~~~~!」
絹を裂くような悲鳴がその場を支配した。




181 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 08:00:46 ID:DQUNgzRT






それから。
手早く止血をしてから、建物の外に出た時は流石にふらふらだった。そのままだったら家に辿り着けるかどうかも怪しかっただろう。
そこで驚いたことに兄と鉢合わせた。なんと助けに来てくれたらしい。
嬉しかった。普段は今一冴えない兄が、まるで白馬の王子のように見えて、思わず泣きながら抱きついてしまった。兄も抱き返してくれた。
約一名お邪魔虫というか藍園さんがいたけれど、仕事を休んでまで兄を案内してくれたのだから感謝しよう。
ただ、私が貯金をはたいて購入したGPS受信機を誰か(暗くて顔は見えなかったらしい)に叩きつけて派手に壊してしまったのは泣きたくなったけど。
三人で塀を乗り越えて屋敷を出たけど、追跡の類はなかった。そのまま町医者に直行して治療を受ける。
怪我の理由に関して、私は『帰りに公園で木刀とナイフを持った不良と喧嘩した』と言い張った。父と母にも同じ言い訳で通し、捜索願を取り下げてもらう。
通報すればあの女は逮捕されるかもしれないが、警察には頼りたくなかった。自分自身がインモラルに生きる身だ、今からマークされたくない。
そういう意図を隠して兄を納得させるのが一番難航したが、結局作り話半分で乗り切った。
『友達の家に呼ばれてたんだけど勘違いから喧嘩になって、棒術で殴られたので利き腕を折ってしまったの。もう十分仕返しはしたから警察沙汰にはしたくない』
半分は事実なのだが、我ながらかなり苦しい。兄はかなり渋ったが、私が強引に頼み込むことで何とか納得してくれた。
それから壊れたGPS受信機の説明にも苦慮したが。ウチの猫が割とよくいなくなるので首輪につけようと思ってた、と話すと簡単に納得した。ふう、馬鹿で良かった。
藍園さんがそれを探し出すために、私の部屋の鍵を片っ端からバールのようなもので壊して回ってくれたので、とりあえず南京錠を片っ端からつけておいた。やけにごつい内装になってしまう。
怪我を治すためにしばらく学校を休んだ。
私は柔道を始めた頃のように湿布と包帯まみれになり、日がな一日ベッドに寝ていた。鍛錬も勉強もしない日々というのは体が疼いて仕方がない。
不幸中の幸いだったのは、傷の痛みを押さえるために痛み止めを飲んでいたため、生理痛もほとんど感じずに過ぎていったことだ。どうせ寝ているのだから多少朦朧としても問題ない。
それよりショックだったのは、顔に青痣を発見した時だった。痕が残って兄に嫌われたらどうしようかと真剣に悩んだ。私は意外と、自分の容姿を当てにしていたらしい。
結局、兄は嫌うどころか私以上に心配し憤慨してくれたし、医者に相談したら痕も残らないと太鼓判を押してもらった。
それから。あの日から数日して、私に宅配便が届いた。
差出人は柳沢紫織。中身は私の鞄とポーチと携帯電話。拉致された際、回収しきれなかったものだ。
そして今日、私はメールで柳沢先輩を呼びだしていた。
用件は、お話ししたいことがあるんですがお見舞いに来てくれませんか。



182 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 08:01:12 ID:DQUNgzRT

「よ、優香ちゃん。調子はどうだい?」
「おかげさまで経過は順調です」
柳沢先輩がこの部屋に来るのは二度目だ。一度目は、私が怪我をした翌日に見舞いに来てくれた時。
あの時は随分憔悴していたようだけど、立て続けに何かあったのだろうか。今は普段の調子を取り戻している。
学校帰りに買ったのだろう、見舞い品の果物を受け取る。しばらく雑談に興じた。
「にしても優香ちゃんが喧嘩したって聞いた時は驚いたぜ。しかも相手は武器持ってたんだろ?」
「はい。逃げた方がよかったのですが、なまじ腕に自信があったので応戦してしまいました。生兵法は怪我の元とはこのことですね」
「しっかし物騒だよな。これから帰りが一人な時は、遠慮なく声かけてくれていいんだぜ?」
「いえ、怪我が治れば兄と帰宅の時間帯が合いますからあちらに頼みますよ。どうせ帰路は同じですし」
「んー、そっか。いやー、毎日優香ちゃんと一緒に帰れるかと期待したんだけどなあ~」
「柳沢先輩」
彼の軽薄な口調の下には、本当に残念そうな気配が見て取れた。かすかな好意をそこには感じる。
そういえば、私の部屋に家族でない男性が入るのは柳沢先輩が初めてだ。
だからどうしたというわけでもない。私にとって特別な人は家族だったのだから。
「私は柳沢先輩とは交際できません」
「…………」
固まった。
床の上に胡坐をかいた状態で、目を丸くして固まった柳沢先輩を見ながら。そういえば兄抜きで誰かを振るのは随分久しぶりだな、と思う。
容姿のせいか、昔から私は好意を寄せられることが多かった。私の本性を考えれば一種の詐欺のようなもので、断るたびに申し訳なく感じる。
しばらく沈黙が続いてから、柳沢先輩がようやく言葉を絞り出した。
「あ、え、えーと……」
「はい」
「あ、ああ、わかった。残念だけど仕方ないな。けど、その……なんでだ?」
「…………」
驚いたことに柳沢先輩は、私の突然の発言を、驚きながらも受け入れた。これが交際経験の差というものだろうか。
理由を聞いたのは単に、よければ教えてくれ、程度の意味だろう。もちろん、今まで私が断ってきた相手に対したように、適当な言い分を伝えてもいいのだけれど。
だけれども、今日に限れば私は本音を伝える気でいた。彼が心底納得することが、私の身の安全を図ることにも繋がるのだから。
それに、敬意もあった。兄の親友であり、思ったよりもずっとましな人間であった彼に対する敬意。
息を吸う。

「好きな人が、いるんです」



183 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 08:03:05 ID:DQUNgzRT

振られた。
その時の、彼女の表情は。頬は紅潮し、目は潤み、息は湿り……要するに完璧に、恋する乙女の顔だった。
納得したくなかったのに、一瞬で納得しちまった。
ああ、俺じゃあダメなんだな、と……
もちろん、振られる可能性は考えていた。けれどそれは、俺が彼女にコクってからだと思っていた。まさか先に振られるなんて、これじゃ不意打ちもいいところだ。
その後、何言か話して帰ることになり、優香ちゃんの部屋を出た。正直なにを話したかは覚えていない。「また学校で」とか、そんなことだろう。
榊家の一階に下りると、何故か部活中のはずの榊がいて居たたまれなさそうにしていた。
「榊?」
「え、えーと。優香のクラスの子から授業のノートを預けられたんで、看病ついでに早めに届けようと思って今日は部活休んだんだけど……」
「おま……まさか、さっきの聞いてたのか?」
「いや、聞く気はなかったんだ! その……ごめん」
最悪だった。
惚れた相手に振られたシーンを、友人に見られてたとか一体どういう罰ゲームなんだ。
榊も気まずさで何も言えなかったようで「帰るわ……」「ああ……その、じゃあな」というやりとりだけをして榊家を出た。
帰路を辿る。
バイトが休みなのは不幸中の幸いだった、こんな気持ちで働けるわけがない。
優香ちゃんのことを思い返す。
俺は確かに、彼女に惹かれていた。
両親のせいで馴れ合うような男女関係に失望していた俺は、お互いに尊重できるような自立した人間を求めていた。俺はそれを優香ちゃんに感じたし、それは間違いではなかったと思う。
彼女は周囲に流されるんじゃなく、自分で立とうと戦っていた。俺のように、反抗期じみた反発のための自立じゃない。何かの目的のために自立しようとしていた。
それは……それが、今思えば。彼女が言った『好きな人がいる』ということなんだろう。
惚れた相手のために立派な人間になりたいという気持ちだ。
そういう意味では、俺は彼女に好意を抱いてはいたが、恋にまでは至ってなかったんだろう。彼女が惚れるような人間になろうとはしなかった。振られるのも当然だ。
石ころを蹴飛ばしながら、家路を辿る。ふと、夕陽に向かって大声で叫んだ。
「あああああああ、ちっくしょおおおー!」
それでも悔しいことには代わりはない。俺が彼女に惹かれていたのは事実なんだから。


184 未来のあなたへ7 sage 2009/05/25(月) 08:04:06 ID:DQUNgzRT
叫んだことで何かが一気に抜けたようで、後はとぼとぼと歩いて自宅にたどり着いた。何故か、門のところに姉貴がいた。
「あ、浩ちゃん」
「あー……姉貴? こんなところでなにやってんだ?」
姉貴は黄緑のワンピースに麦わら帽子をかぶり、右腕を三角巾で吊っている。
ウチに強盗が入ってから数日経つ。不甲斐ないことに俺はノックアウトされ、姉貴は怪我をした。死にたくなる。
取られたものはなかったし、姉貴は人影に驚いて転んで怪我をしただけだというが、それでも俺が不甲斐なかったことには変わりない。
一応姉貴が警察には届けたらしいが、目撃証言もはっきりしないんじゃ捕まえるのは難しいだろう。
……にしてもあの強盗、強盗の割には妙に丁寧な攻撃だった。あの状況でローキックなんて聞いたことがない。まあ、トドメは後ろから殴られたんで二人組だったんだろうが。
姉貴の怪我は右肩を脱臼するというもので、骨が折れてるわけじゃないし、もう関節は治っている。
ただし靱帯を痛めたらしく、腕を使うと猛烈に痛いらしい。それが治るまでは大学を休んでこちらで休養することになっていた。
俺もあの日の詫びを込めて、しばらくバイトを休んで姉貴の世話をすることにしている。
「浩ちゃん、あのね。お菓子を買ってきたんだけど一緒に食べよ」
「ああ…………ん、わかった。一緒に食うか」
「うん、あーん、ってしてね」
「へいへい」
利き腕が使えないと食事もままならない。だから食事の度に『あーん』という例の奴をやることになる。
昼間はハウスキーパーの人にお願いしてるが、朝と夕は俺の担当だ。あと、三時のおやつも。照れくさいったらありゃしない。
玄関に向かうと俺の腕に、姉貴が左腕で抱きついてきた。『あーん』もそうだが、姉貴は最近やけに甘えたがる。やっぱ怖かったんだろうか。
……思えば、俺は今まで姉貴に守られてきた。だから今度は、俺が姉貴を守る番なんだろう。
それが何時までか、といえば。
「なあ。姉貴は好きな奴とかいるのか?」
「ん?」
「もしできたら、遠慮なく相談してくれよな。できるだけ応援するからさ」
姉貴はきっと、男女の関係に絶望している。
けれどやっぱり、男女の関係だって捨てたものじゃあないと思う。
なんといっても――――好きな人がいると言った優香ちゃんは、とてつもなく、可愛かったのだから。

「私はね、浩ちゃんが一番好きだよ」
「あー、へいへい。俺も姉貴のことは好きだよ」
「ほんと? ふふ、嬉しいな」
「なんか機嫌いいよな、姉貴。いいことでもあったのか?」
「ううん、お姉ちゃん勘違いしちゃったことがあって、それで失敗しちゃった」
けれど
「本当に大切なことは間違ってなかったから、それが嬉しいの」

だから
浩ちゃんが卒業したら東京で一緒に暮らそう
お父さんのせいで、私はあんな所に行かされて
浩ちゃんに余り会えなくなっちゃったけれど
そこなら、お父さんもお母さんも関係ない
ずっと二人でいられるよ
やっと二人になれるんだよ
ねえ、浩ちゃん……
ねえ、浩ちゃん……




~柳沢浩一の受難~ 完

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最終更新:2009年05月31日 23:04
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