183
未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:11:18 ID:ibxYxPc7
妹に告白されてから半月経った。
朝。
じりりりりりりり、と枕元でけたたましく騒ぎ出した目覚ましに、三分程抵抗してから手にとってスイッチを切る。上のボタンを叩いて止めても一分で再度鳴り出す仕組みになっているからだ。
二度寝の欲求と戦いながらアクビをしてのろのろと布団から降り、バランスを崩してどすんと床に転がり落ちた。あたた、と肩を押さえて立ち上がる。
目覚まし時計を確認するといつも通りの時間だった。カーテンを開けて、部屋に光を入れる。朝日が目に染みて、しぱしぱと瞬きした。
痛みで既に目は覚めている。ぼさぼさの髪を手で適当に押さえながら、俺は現実を直視して朝一番の大きな溜息をついた。
妹に告白されてから半月経っている。
とりあえずの目標は、現状維持。何事もなかったかのよう、普段通りに振る舞うことだった。
あれは夢だったんじゃないかと思う時がある。
いや、夢だと思いたい。
日射病で朦朧として、妹に好きだと告白される夢を見た。それだけだったらどれだけ良かっただろう。いや、そんな夢を見るにしても問題はあるけれど。
けれどあれは現実だ。あの時の、優香の、あまりにも必死な告白が、夢だと思いこむことを許さなかった。
とにかく、妄想でない現実には対応しなくちゃいけない。
幸いと言うべきか、あの黒白の直後に俺はあまりの衝撃に気絶した。無理もないと思う。
結局夜には思い出して一晩中悶々とする羽目になったけど、しばらくは記憶が飛んでいた。何の漫画だという感じだけど、事実なんだから仕方ない。
優香もきっと、俺が忘れたままだと思っているだろう。
考えが纏まっていない俺にとって、その誤解はありがたかった。しばらくは考えるための時間を稼げるからだ。
一体どう対応すればいいのか、俺にはさっぱりわからない。
そうして、少しでも時間を稼ぐには。優香に対して普段通りに接して、思い出していることを悟られてはいけなかった。
「おはようございます、兄さん」
「あ、おはよう」
朝食の席には既に優香と父さんが着いていて、妹と挨拶を軽く交わす。優香は既に洗顔その他を済ませている。父さんが挨拶を交わさないのは単にそういう性格だからだ。
母さんはいない。いつもの通り、朝食を用意した後二度寝したらしい。あの人朝弱いからなあ。
今日の朝食はご飯にみそ汁、シャケの切り身に漬け物だった。手を合わせて「いただきます」としてから箸を付ける。うん、美味しい。
美味しいんだけど、ついちらちらと隣の席の優香を伺ってしまう。箸を器用に使って切り身をほぐしている様子に、何も変なところはない。
しばらく無言の時間が続いた。父さんが一番早く食べ終わって、そのまま新聞を読み始めた。次に優香が食べ終わり、お茶を一杯飲んだ後に台所に立ってお弁当の準備を始める。
「兄さん」
「ごほっ。な、なんだ?」
「今日、雨が降りそうですから傘を持っていった方がいいですよ」
「お、おう」
突然声をかけられて、みそ汁を吹き出してしまうところだった。いや、優香としては普通に声をかけただけか。
溜息一つつき、食事を済ませてから歯を磨く。ついでに髪を濡らして寝癖を取るけど、ここで余り手間取ると歯を磨きに来た優香と鉢合わせるので急いで済ます。
顔も洗うと部屋に戻って制服に着替える。どうせ男の身支度なんだから気にすることは余り無い。時間割を見ながら教科書を鞄に詰めていく。時間が少し余ったけど、今日は早めに出ることにした。
空はどんよりと曇っていた。あれ、なにか優香に言われた気がするけど……何だったっけ。
まあいいか、と割切った。リビングに用意してあった弁当箱を鞄に詰め「いってきまーす」と家から少し離れたバス停に向かう。
時間的に一本早い便には乗れない、いつもより少し長く待つだけになるだろう。それでも早く出てきたのは、単に……
タタタ、と背後から軽快な足音が近づいてきた。追いついた足音は、そのまま無言で横に並ぶ。見なくてもわかる、優香だ。
鞄を両手で手にして、素知らぬ顔で前を見ている。少し走ってきたからだろう、うっすらと汗をかいていた。それでも息は乱していない。
先に出たことを非難するでもない。
こうして何となく並んで歩くのも、優香が部活を始めてからは毎朝のことだった。以前は歩きながら優香に他愛ないことで話しかけていたけれど、今日は無言だ。
184 未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:12:39 ID:ibxYxPc7
「…………」
「…………」
思えば
優香がこうして、登下校に付き合うのも、それは好意の現れだったのだろうか?
考えてみれば優香は(どちらかと言えば)孤独を好む性格だ。理由がなければ俺と一緒に登校しようとは思わないだろう。さっきの俺がやったように、登校する時間を少しずらせばいいのだ。
けれど優香は、むしろさっきのように積極的に時間を合わせている。今まで俺が気付かなかっただけだ。
妹が一緒に登下校してくれることを、俺は兄妹仲が改善した結果だと思っていた。それは違ったのか? 優香は俺を……男性として見ていたから、だからなのか?
それに優香は毎日俺の弁当を作ってくれている。本人は自分のついでだと言っていたけど、考えてみればそれははっきりとした好意の表れじゃないだろうか?
いや、おかしい。それじゃあむしろおかしい。優香は男を怖がっていた。俺を男として見ていたのなら、むしろ避けて遠ざけるのが自然じゃないのか?
「……はあ」
「……」
理解していたと思っていた妹が、急激に遠い存在になったような気がして。俺は深く溜息をついた。
結局その日も、登校中の会話はなかった。
高校に着いたら妹と別れて――正直、ホッとした――空手部の朝練に参加する。体を動かしている間だけは悶々とした悩みを忘れることをできて思い切り打ち込んだ。
敷地の周りをぐるりぐるりと回って、柔軟を行い、筋トレを何セットか。朝練はそれくらいだけど、それでも結構疲れる。汗をタオルで拭って、教室へ。
疲れもあって席に突っ伏していると、ばーんと背中を叩かれた。ぐえ。
「よう、榊」
「おはよう、柳沢……ふう」
「なんだ今日もしょぼくれてんな。犬のクソでも踏んだのか?」
「んなわけないだろ……」
「そうそう聞いてくれよ。昨日コンビニでバイトしてたんだけどよお」
柳沢の例によってハイテンションな会話を、適当に頷きながら聞き流す。
一応色恋のことに関しては長けていそうなこの友人に、相談したいのは山々だった。けれどできない、できるわけがない。
そもそも、きょうだいは結婚できないのだから。
きんしんそうかんだ、犯罪だ(と思ったが、後で知ったけど禁止されているだけで犯罪ではないらしい)。とてもじゃないけど公表できるような趣味じゃない。
しかも柳沢は優香に惚れていたのだ。そんな真相を言えるわけがない。
どうして優香は俺のことなんて好きになったんだろう。
好みのタイプとかそれ以前に、兄弟姉妹は恋愛対象にならないのが普通だろう。俺だって優香に言われるまで、そんなことを思いつきもしなかった。
確かに優香は美人だ。切れ長の瞳も薄い唇も長い黒髪も綺麗だと思うし、体つきも(胸は小さいけれど)細くしなやかだ。
料理も上手だし気遣いにも長けている。頭もいい。成績上位なだけでなく、物事の考え方に一本線が通っているのだ。だからこそ俺は優香を信頼できるし、尊敬している。
だけどそれが恋愛に結びつくかと言えば、また別の話だ。俺にとって優香はまず何よりも妹であり、異性であることは今まで意識もしてきたことがなかったんだから。
……いや、それは嘘か。
何度か、妹を女の子として意識したことはある。水着姿の時、お風呂上がりの時、汗を拭う時。そういう色気を感じた時に、こいつも女なんだなあ、と改めて意識したことはあった。
けれど、だからといって妹に恋愛感情を抱くわけがない。そういうことをしてはいけない相手なんだ。
だからこそ、きょうだいは結婚できない。
じゃあ、なんで優香は……と、結局その疑問に戻ってきてしまう。
「はあ……」
ぼんやりと、窓から外を眺める。
空はどんよりと曇っていた。
185 未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:13:31 ID:ibxYxPc7
どうして俺なんだろう。
ずっと前から思っていたことだけど、俺は――兄としても――優香に釣り合うような人間じゃない。
必死で毎日勉強しないと授業にもついて行けない程度の頭しかないし、運動だってそこまで秀でているわけじゃない。今となっては優香と取っ組みあっても勝てるかどうか怪しいところだ。
顔だって普通だ。生まれてこの方モテたことなんて一度もない。背は平均よりも低いし、髪だって短く切ったままほったらかしだ。
ついでに頭もよくない。学力や成績の問題とは別にして、物わかりが悪いのだ。実際この問題についていくら考えてもさっぱりわからない。
いや、別に自虐癖はない。ただ客観的に見て、優香よりは遥かに見劣りはするだろう。というか妹がすごいのだ。
どうして優香はよりにもよって、俺なんかを好きになったんだろう。
他に優香に相応しい男がいるはずだ。手近で済ませるにも程がある。
いいや、そういう問題じゃない。優香が一番選んじゃいけない人間が俺なんだ。
もしかしたら優香は男嫌いだからこそ、他の男を知ろうとせずに『俺にした』のかもしれない。
ヒキコモリは良くない。もしそうなら、兄として俺がすべきなのは優香を真っ当な道に戻してやることなんだろう。
そんなことを考えながら
全然頭に入ってこない授業を受けて、俺は深くため息をついた。
ふう。
授業が終わり次第友達に挨拶して部活に向かう。
敷地の周りをぐるぐると走り込んで、ストレッチをして、筋トレをして、型稽古をして、サンドバッグを叩いて、乱取をして……
例によって悩みを振り払うように打ち込んでいたら、最近熱心だなと部長に褒められた。
そんな褒められるようなことじゃないのに……最近隠しごとが増えてばかりだ。
ざあざあと。
雨足は強く、校庭のあちこちに水たまりができている。陸上部やサッカー部の連中はとっくに退散している。
俺は昇降口に一人立ち尽くして空を眺めていた。色合いは灰色を通り越して黒く、バケツをひっくり返したみたいに雨が降っている。
降り出したのは部活の途中からだった。
傘はない。
こんな天気になるとわかっていれば折畳傘の一つも鞄に入れておいたのに、今更後悔しても後の祭りだ。
そういえば優香が天気について、朝言っていた気もするけど。俺は完全に聞き逃していた。
どちらにしろ最近の悩みのせいだ。とはいえ原因がわかって、自分を殴りたくもなったけど、雨は止まない。
ため息一つ。
雨足は強い。門の向こうにあるバス停に着くまでに濡れねずみになるだろう。バスから降りた後の家路はもっと遠い。
少し考え事をしていたせいで、部活のみんなはもう帰ってしまっていた。傘に入れてもらうこともできず、しばらく待っても雨は弱くなる気配も見せない。
ここは覚悟を決めてバス停まで走っていくしかないようだった。ずぶ濡れになってしまうが、まあ仕方ない。一度濡れれば後は同じだ。早く帰って風呂に入ろう。
気休めに鞄を雨除けにかざす。濡れてはまずい中身は下駄箱に無理矢理詰め込んである。後は覚悟を決めればいいだけだ。
せーの、と走りだそうとしたその時。
「兄さん? まだ残ってたんですか」
「あ……優香」
何の偶然か。
折畳傘を手にした妹が、昇降口から出てきて声をかけられた。
186 未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:15:44 ID:ibxYxPc7
折畳傘は小さく、狭かった。
二人で入るなら、なおさら。
妹と相合傘なんて、何年振りだろう。
「…………」
「…………」
あれから俺は優香の傘に入れてもらってバス停に辿り着いた。バスの時間に間に合うように小走りで、一分あったかなかったかの距離。
すぐにバスが来て、並んで座る。車内は暗く、湿っていて、時間帯がずれたせいで人気もなかった。まるで怪談みたいな雰囲気。
ほとんど会話もなかったけど、バスの中で少し言い争いをした。俺は途中で降りてコンビニの傘を買おうかと言ったのだが、優香にきっぱりと却下された。
傘は買えば割と高く付くし、家に帰れば自前がある。それならバスから降りて家まで歩く間は自分の傘に入ればいい。反論のしようがなかった。
そうして俺は、妹と相合傘で住宅地を歩いている。
雨足は弱くなる気配もなく、人気は全くない。折畳傘は小さく、お互いの肩が少し濡れている。体をぴったりと寄せ合ってそれだから、離れることなんてできそうにない。
優香の右肩と俺の左肩が重なり合っていて、その部分だけひどく熱い気がする。
ある種の密室のようなものだ。
お互いに会話はない。ざあざあという雨の音と、ぼたぼたという傘の音だけが響いている。
「…………」
「…………」
こうしていると、どうしても思い出してしまう。
半月前にこうして二人で家路を辿った時のことを。
雨も降っていなかったし、こんなふうに触れあってもいなかったけれど。
その時の出来事を、俺は一生忘れないだろう。
あの時から今までのことを思うのなら、今すぐ離れるべきなんだろう。
けれど雨は止む気配もないし、傘は一本しかないし、俺は倒れて忘れたことになっているからそれも駄目だ。
どうしてなんだろう。
優香は冷静だし、頭がいい。そのことを俺はよく知っているし、信じられた。だから俺は、優香が誰を好きになろうと応援しようと決めたのに。
これまでの人生で、そんなに悪いことをした覚えはない。どうして神様は、俺達をこんな目に遭わせるんだろう。
そんな風に、埒もないものに文句をつけさえした。
187 未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:16:22 ID:ibxYxPc7
「兄さんは」
ふと
優香が、独り言のように何かを呟いた。
落ち着いていて、聞き慣れていて、空気よりも少し冷たい、普段の妹の声だった。
「兄さんは、私が怖いですか?」
「……え?」
優香が、怖い?
そんなことはない、そんなわけがない。
だって榊優香は俺の妹だ。いや、優香は優香だ。
頭がよくて努力家で、可愛いと言うより美人で、料理も気遣いも上手くできて、冷静だけど男が苦手で、たとえ何があろうと俺の妹で。
だからこそ問題なんじゃないか。
口には出せないけれどそんな風に思う。顔には出ていたのかもしれない。優香がそんな俺を見て小さく息を付いた。
「だって私は兄さんを好きだなんて言いだしたんです。そんな妹は兄さんの中にはいなかったでしょう」
「いや、まあそりゃそうだけど……げっ!?」
「思い出してますよね。バレバレ&挙動不審です」
ぎょっとして思わず一歩離れてしまう。頭に何粒か水滴を感じるや否や、ほぼ即座に優香は俺に体を寄せた。再び傘が俺達を守る。
俺のリアクションを読んでいたんだろう、少し得意げに口の端を綻ばせる妹。
けど……そうか、気付いてたのか。つくづく俺は隠し事が下手だ。
考えてみれば今日だけでも、態度が不自然すぎた。無言同士がやけに不自然だったのも、普段は俺の方から下らないお喋りをするからだ。
優香はとっくに気付いていたんだろう。俺が一人で隠しているつもりで、延々と考え込んでいて……とんだピエロだ。
そうして、俺も気付いた。どうして優香がその指摘を、今この時までしなかったのか。
普通の話だ。笑ってしまう程普通の話だ。
「その……今まで黙ってたのは、考える時間をくれたってことなのか?」
「それが段取りというものでしょう。兄さんの経験がどんなものかは知りませんが」
先輩に告白して即座に振られた思い出が胸に突き刺さる。ぐふう、と呻き声を漏らしてしまった。
兄としての威厳を取り繕うべく、慌てて反論する。優香のことは尊敬しているけれど、たまに兄として振舞ってみたくなるのだ。
「そ、そんなこと言ったって。優香だって告白されたらすぐに返事するじゃないか」
「あれは考える必要がないからです。私はずっと……兄さんが好きですから」
「あ……う……」
藪蛇だった。
すっと、優香が傘を少しだけ前に傾ける。歩きながら話そうという合図だった。
今さらだけど、その傘をとる。力は俺の方が強いんだし借りている身分なんだから、こういう時は俺が持つべきだろう。変な隠しごとがなくなればその動作は自然にできた。
濡れた道路を、二人で並んでゆっくりと歩く。人気はない。雨の密室。
考えてみれば妙な話だった。
生まれて初めて告白された女の子と、相合傘で肩を重ねて歩いているのに、それが妹だったり。
世間的にはとても許されない告白だというのに、考えるための時間をくれたりと妙に普通だったり。
関係が劇的に変化してもおかしくない出来事があったのに、こうして前のままの気遣いを行ったり。
どうしてなんだろうな。
優香が、傘を持つ俺の手に右手を重ねた。ひんやりと冷たく、細かく震えている。それは寒さのせいではなかった。
「私は……私は怖かった、です」
「優香が?」
「兄さんに突き飛ばされて、
気持ち悪い妹だって罵られたらどうしようって……すごく、すごく怖かったんです」
「そ、そんなこと言うわけないだろっ!」
「いいえ、あったんです。私だって近親相姦を是としない常識というものは知っています。そして兄さんは、そういう世界に生きている人ですから」
「そ、それは、まあそうだけどさ」
「だから、嬉しいんです。兄さんが私を受け入れてくれて。こういう私を生理で拒否せず、真剣に考えてくれて……」
「いや、だからって優香と付き合うとか決めたわけじゃないからな」
わかっています、と妹は頷いた。その目元が濡れている。雨じゃない。優香は静かに泣いていた。
しゃくり上げるでも、喚くでもなく、ただ溢れたものが静かに流れ出すような泣き方だった。
つう、と顎からしたたり落ちた涙が地面に落ちて雨と混ざる。
綺麗だ、と思った。
榊優香は、俺の妹は。
本当に綺麗だったのだ。
188 未来のあなたへ9 sage 2009/07/01(水) 08:17:02 ID:ibxYxPc7
「機会を下さい」
優香がぽつりとそう言ったのは、そろそろ我が家が見えて来る頃だった。
それまで俺は、静かに涙を流す優香の雰囲気に圧倒されてしまい、何も喋れなかった。
妹からもそれ以上は言い募ることもなかったらしく、相合傘をしながら無言で歩く。
その間の空気は、気まずいような、ムズムズするような、ジリジリするような、奇妙な感じだった。
胸の中がなんだか焼ける。
結局雨は止む気配もなく、ずっと相合傘で。肩も、手も、重ねたままだった。
そうして、家が近づいて。流石に傘はともかく手は離した方がいいぞ、と思った頃。優香がぽつりと呟いた。
「え、機会って……」
「機会を下さい。私が努力する機会を。兄さんを振り向かせる機会を」
「あ、あああおうっ」
「奇声を上げないでください。そこらの飼い犬が飛びかかってきますよ」
いや、だってお前、いきなり何を言い出すんだ。ものすごく焦って変な声を上げてしまった。
振り向かせる云々って、本人に堂々と言うようなことじゃあないと思う。
と思ったら、そんなものは序の口に過ぎなかった。
「私は今まで妹だった。兄さんの中で妹だったんです。けれどそれは不公平じゃないですか。私はずっと兄さんが好きだったのに、そんな基準で決められてはたまらない」
「そ、そうか、うん。それは悪かったと思うけど……」
「不公平じゃないですか。私の他のあらゆる女は、兄さんに女として意識してもらえる。血が繋がってはいないというただそれだけで」
「い、いや、別に俺はそんな風に女の人を見ていない……」
「だからせめて機会を下さい。女として意識してくれとは言いません。女として意識してくれるように努力します。選ぶのならば、せめてそれからにしてくれませんか」
「え、いや、それは」
「どうなんですか兄さんはっきりしてください!」
「ひいっ! わ、わかったよ」
胸倉を右手で掴まれてがくがくと揺さぶられた。あまりの気迫と脅迫につい頷いてしまう。それを聞いて妹は満足そうに手を離す。
なんだこれ、今まで猫被ってたのか、と一瞬思ったけど。時々物理的な強硬手段に出るのは俺のよく知る優香だったことに気付いて少し落ち込んだ。とほほ。
優香は優香だった。
もしもあの日を境に妹の様子ががらりと変わってしまったら、俺は(情けない話だけど)優香の言う通りに突き飛ばしてしまったかもしれない。
自分の良く知っているはずのものが、実は皮を被っただけの全く違うものだったら、気持ち悪いと感じてしまったかもしれない。
だけど、優香は俺の知っている優香のままでいてくれた。
態度も、行動も、言葉も、振る舞いも、雰囲気も。こうして几帳面に(社会的には全く認められていないのに)恋愛の段取りを踏むのも、俺の知る優香っぽさにぴったりと収まるのだ。
だから、納得する。
俺への好意も、まぎれもなく榊優香の一部なんだと。
変わったことなんて何もなかった。怖がることなんて何もなかった。
どうして俺なんかを、という部分はやっぱりわからないけれど。
ため息一つ。
「はあ。全く、こんな厄介な奴に好かれるなんてなあ……」
「何をさり気なく失礼極まることをほざいてるんですか兄さん」
「痛い痛い痛い痛い」
左手首を妙な掴み方で思い切り握られて
痛みが走ったところを傘を取り返されて
胸を突き飛ばされる
直前に
――――ふわりと
優香の顔が大きく迫って、いい匂いがして、頬に何か濡れたものが押し付けられたような気がした。
一瞬硬直し、そのせいで踏ん張ることもできず。結果、水のたまったアスファルトに尻もちをついた。
ばしゃんと尻に染み渡る冷たい感触。ざあざあと降りしきる雨が俺を包み、結局ここまで来たにもかかわらず水浸しになる。
その時には、薄情な妹は一人で傘を差して家に向かうところだった。
俺が目にしたのは、その背中と髪と耳ぐらいで、表情なんて全く伺えなかった。
ただ
優香の耳は、真っ赤に染まっていた。
最終更新:2009年07月05日 20:57