未来のあなたへ10

429 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:25:00 ID:2CIwq8b8
トラ
トラ
トラ


起床。
ぱちりと目が覚める。手を伸ばして鳴る前の目覚まし時計を止める。寝起き直後にも関わらず、全身に気力が充実していた。
窓の前に立ち、カーテンを開ける。日も昇っていない住宅街。新聞配達のバイクと、それに吠える犬だけが音を立てている。
未だに眠る街と、今日という日の訪れを私は祝福してやった。ハレルヤ、ハレルヤ!
顔を拭き、髪を梳かし、身だしなみを整えてから部屋を出る。台所に行くと母が目をしょぼしょぼさせながら朝食を準備していた。
「おはようございます、母さん」
「ふあ、あ~あ~……んー、おはよう優香……ぐー」
「寝ながらキャベツの千切りをしないで下さい」
この人はいつか絶対に指を落とすと思っているが、それにしたって二十年も無傷でいるのは信じがたい。酔拳ならぬ睡剣でも会得しているのだろうか。
ともあれ、私も台所の一角を借りてお弁当の準備を始めた。基本として昨夜の残りに冷凍食品、卵焼き等の簡単な調理、それから御飯を冷ます作業だ。
下ごしらえを済ませ、後は詰め込むだけにしておく。ちなみに一切混入物は使っていない。正真正銘、ただのお弁当だ。

兄の食事に体液の類を混入する行為はあの日から全く行っていない。
それどころか、私はあれほど熱心に行っていた収集行為からも綺麗に足を洗っていた。分別した諸々の品も、そのうち処分する予定だ。
考えてみれば当然の帰結で、あれらは想いを相手に伝えられないことに対する代償行為だったのだから。もはや本人に想いをはばかる必要がないのなら、欲求が解消されて当然だった。
それにしても、カミングアウトした方がまともな趣味に戻るだなんて、皮肉もいいところだ。

兄の部屋に入る。既に日は昇っているが、カーテンは閉じており部屋は暗い。ベッドでは兄が手足を投げ出していびきをかいている。寝相は悪い方なのだ。
それなりに散らかった部屋を横断し、布団をはだけて大口をあけて眠る兄の横に潜り込む。好きな人の温かさと匂いに包まれた。ああ。
大の字になった兄の脇に、体を丸めた体勢。もぞもぞと位置を調節して、兄の腕を頭の下に持ってくる。腕枕万歳。
大きく息を吸い込む。少し汗くさくて、それから日向の匂いがする。私の好きな匂いだ。
ぐにぐにと腕に頭を押しつけると、鍛えられた筋肉が適度な弾力で押し返してくる。くすぐったいのか、兄が寝たまま呻き声を上げた。



430 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:26:44 ID:2CIwq8b8
「う、うう~ん……」
「なーお」
おっといけない。発情期の猫のような声を出してしまった。はしたない。
御機嫌な私とは裏腹に、兄は割と寝苦しそうだった。まあ、それはそうだろう。
暦は既に6月後半に入っており、朝とはいえ人間二人が同じ布団に入っていれば暑苦しくて仕方がない。兄の首筋に浮かんだ汗を拭い、舐める。しょっぱい。
私自身は心頭滅却や脳内麻薬でどうにでもなるが、暑苦しそうな兄は可哀相だ。
すぐ側にある兄の脇腹をパジャマ越しにつつく。嫌がって身をよじる。つつく。よじる。つつく。よじる。つつく。よじる。兄さんきゅんきゅん。
調子にのっていたら肋骨の隙間に入ってしまった。げふっ、と兄が呻き声を上げる。いけない、流石に起きる。
うっすらと開く瞼を前にして、私の全身を甘い痺れが駆けめぐった。
想いを認識されてはいけないという体に染みついた習性と、もはや隠す必要はないのだという開放感がせめぎ合う。それは性的な快感にも似ていた。ふう、ふう。
兄の視界に収まった瞬間、イッた。
「ん……ふあーあ……え、優香?」
「あう、ん……」
びくびくと体が跳ねる。パジャマの一部と下着がぐしゃぐしゃになってしまった。着替える前でよかった。
兄は状況が把握できず、混乱しているようだった。
「ゆ、ゆゆゆゆゆゆ優香? なにやってんだお前」
「おはようございます、兄さん。良い朝ですよ」
「あ、おはよう……じゃないっ!」
腕枕を引っこ抜かれて、転がるようにベッドから降りてしまう。ああん。
それから部屋の真ん中に座らされ、しばらく説教を受けた。曰く、年頃の女の子が同衾なんてどうたら。大体お前はそんなキャラじゃないだろうんたら。真面目な表情萌え。
その説教も、私が一言「好きですから」と挟むと真っ赤になって黙ってしまった。ああ可愛い。
「可愛いですよ、兄さん」
「お、お前なあ。さっきから男、それも兄貴に向かっていうことじゃないだろ」
「いいえ、いいえ、これはある種の真理です。何故なら私は」
「わー、わー! わかった、わかったから!」
また赤面するようなことを言われると思ったのか、パタパタと腕を振って言葉を遮る兄。だからそういうところが可愛いんだっての。
それにしても、ああ、自分を隠さないで済むというのはなんて楽なんだろう。今まで水の中に潜っていたようなものだ。
もちろん節度は弁えている。ベッドに顔を埋めてくんかくんかしないし、愛液で濡れた股間は巧みに隠している。
そんなものを見せつけてはドン引きされるからだ。兄の中の私のイメージを崩さない範囲での立ち回りが要求される。
それが窮屈ではないかと聞かれれば、私はまさかと答えよう。今までに比べたら全然どうってことはない。



431 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:27:12 ID:2CIwq8b8

一度部屋に戻ってパジャマとパンツを替え、普段より遅れて食卓に着く。
父は私に一瞥もせず、兄は照れ臭そうに視線をそらした。母は例によって二度寝したので姿は見えない。
二人ともすでに朝食は進めていた。特に父は食後のお茶を淹れている段階だ。
私は遅れを取り戻すため、猛烈な早食いで朝食を終えた。年頃の乙女的に描写は控えさせてもらうが、兄より早く食べ終わった。手を合わせてのごちそうさまは忘れない。
目を丸くしている兄を尻目に食器を片付け、お弁当を詰める。今日は悪戯心を発揮して、ご飯の上に桜でんぶでハートマークを描いた。
箱を開けた時の兄の反応を想像して、くすりと笑う。
詰めたお弁当をテーブルに置いておき、兄と入れ替わりに歯を磨いて顔を洗う。部屋に戻って身だしなみを整える。
とはいえ私にとって最大限に魅力を発揮すべきなのは家庭内なのだから、兄の部屋に行く前に必要な分は済ませている。
制服に着替え、兄のベッドに転がることで乱れた髪を整える、程度。私がナチュラルなメイクを好むのも、それが家庭内でも維持できるからだ。
時間割の確認は前日に済ませているから、ここで兄に遅れた分を取り戻せる。
鞄を掴んで玄関に向かうと、兄が座って靴紐を結んでいるところだった。素知らぬ顔をして並ぶ。
「いってきまーす」
「行ってきます」
登校する。今日の天気は晴れだった。
家を出てしばらく二人で歩いていると、ふと兄が呟いた。咎めるような響き。
「優香、あのさ。さっきのことだけど。やっぱりああいうのはやめろよな」
「指示語ばかりで意味が不明瞭です」
「だからその……朝起きた時に布団の中に潜り込んでくるとかさ、父さんや母さんに見つかったらどうするんだよ」
「嫌でしたか?」
「いや、嫌っていうかそういう問題じゃ……」
「嫌でしたか?」
腕を組む。慌てて兄が体を暴れさせれるが、この身に培った技術を尽くして振り解かせない。
歯切れの悪い否定を繰り返す兄に、しばらく体を擦りつけて「嫌でしたか?」の質問攻めを繰り返して本音を引き出す。
「そ、そりゃ嫌じゃなかったけどさ……いい匂いがしたし」
「大丈夫ですよ。あの時間帯でしたら、ほぼ確実に父は朝食で母は二度寝。発見される可能性は極小です」
そんな言葉で安心させて
後は手を離し、雑談をしながら登校した。

もちろんリスクはある。
兄の布団に潜り込んだ時は部屋の鍵をかけたし、お弁当を詰める時も父の視線には注意を払った。
けれどリスクは消えない。ああいうことを続けていけば、露見する可能性は飛躍的に高まるだろう。
リスクの管理をすべきだが、もっと大事なこともある。それは兄にこのリスクを感じさせないことで、それは詐欺に等しい。
そもそもリスクとリターンという観点から見るならば、妹など無意味に巨大なリスクが付随する相手でしかない。まず、真っ先に恋愛対象から外れるはずだ。
それを覆すには、魅力というメリットを最大限にアピールしつつ、リスクを隠蔽しなければならない。でなければ勝ち目はない。
あんな風に兄の布団に潜り込んだのも、気楽を装うことで近親相姦のリスクを軽く感じさせるためだ。詐欺に等しい。
私は……まだ揺れている。
こうして状況をコントロールしようとするのは、結局恐ろしいからだ。兄に全てを委ねる覚悟で、あんな告白をしたのではなかったのか。自分の軟弱さに嫌気がさす。
私は、人の思いが移り変わるものであるということを知っている。私にとってそれが希望であり、最大の恐怖でもある。
何故なら。兄の思いが私に移り変わる可能性があるのならば、私の思いが兄から移り変わる可能性もあるのだから!
その二つに価値の差がないのだとしたら、どちらが建設的かは自明の理だ。私はそれに対して、一切論理的な反論はできない。


432 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:28:20 ID:2CIwq8b8

高校に着いて兄と別れた後、着替えて朝練に参加する。脳裏に充満するネガティブな思考を昇華するように、打ち込む。
体の切れは良い。一つ二つ格上の相手にも勝てそうだった。兄に告白してからずっとこんな調子だ。今までどれだけ鬱屈していたのだろう。
朝練が終わった後は汗を拭って制服に着替え、近しい年齢の部員で渡り廊下に集まっておしゃべりに興ずる。私にとっては息抜きではない、実用だ。
話題はおおむね下らない。練習の辛さ、先輩方への文句、顧問への苦情、格技場の臭い、肌の荒れ方、痛めた背中、男っ気の無さ。そんな程度だ。
話題そのものに大して意味はなく、親睦を深めるためのツールに過ぎない。
「けど榊さん、最近機嫌いいよね」
「そうそう、だよねー」
「そうですか?」
「だって榊さん、走り込みしてる時に鼻歌唄ってるじゃない。あれはびっくりしたわ」
「それは……気付きませんでしたね」
雑談を終えて解散すると教室に向かう。席に着けばすぐにチャイムが鳴った。今日も兄に会えない時間が始まる。

そうだ、昼食を一緒にしよう。



433 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:29:22 ID:2CIwq8b8


昼休みのチャイムが鳴った瞬間、授業中にずっと考えていたことを実行する。
携帯の短縮一番をコール、しながら鞄を持って歩き出す。食事に適した場所は既に割り出してある。
『もしもし?』
「兄さん。たまには一緒に昼食を摂りませんか」
『え、いや。まあいいけど……』
「では旧校舎のあたりで合流しましょう」
『あ、柳沢も一緒でいいか?』
「ダメです」
通話を切る。昇降口で靴を履き替え、旧校舎に向かう。気付けば私は鼻歌交じりに歩いていた。なるほど、たしかに。
途中、昼食に適した場所を探す。日は既に天頂にあり、気温はかなり高い。日陰で、湿気が少なく、そして校舎から視線の届かない場所。余り遠くに行くのも面倒だ。あった。
旧校舎の影に隠れていると、のこのことお弁当を片手にぶら下げた兄が来た。まるきりの無警戒。微笑ましい馬鹿だ。
さっと飛び出して、腕を引っ張る。面食らった兄は訳もわからずに付いてきた。
「こんにちは、兄さん」
「お、おお。どうしたんだ、優香」
「ああ本当に、お馬鹿さんですね兄さんは」
「いきなりひどっ!」
仲が良すぎる兄妹だなんて噂されたくないからに決まっている。それ自体は下卑た憶測に過ぎなくても、間違いなく正鵠だ。
私が目星をつけたのはプールの影だった。校舎から死角となる、コンクリートの基礎部分。プールによって日陰ができているし、何より風通しが素晴らしい。
地面が固いのと敷物の類を用意していなかったのが難点だが仕方ない。ぱっぱと砂を払って座る。兄もぺたんとあぐらをかいた。
「おお、涼しいな」
「ですね。思いつきの割には上手くいきました」
「思いつきかよ! なら、優香がこっちの教室に来ても良かったんじゃないか? そうすれば柳沢も一緒だったのにさ」
「私が二年のクラスで食事などしたら一瞬で噂になります。それに二人きりになりたかったですから」
「あう……」
兄で遊ぶ。ああ可愛いああ可愛いああ可愛い。
赤面して俯いた兄の可愛さが酷かった。ヤバい。もうダメだ、もう戻れない。好きな人に好きと言うことの喜びを知ってしまった今、もう以前の私には戻れない。
それほど、嬉しいし楽しい。ああ、本当に私はルビコン川を渡ってしまったのだなと、そんなことで実感した。
空気を誤魔化すようにお弁当を開けた兄が盛大に吹き出したのはもはや様式美ですらある。
当然のようにご飯に描かれたハートマークについて泡を食って問い質されるが、私の返答はとっくの昔から決まっている。
「どうもうこうも、そのままの意味ですよ。私は、貴方が好きなんです」
「う、うぐう……て、ていうか。こんなの人前で開けたらどうなるんだよ、それこそ目立つじゃないかっ」
「ですからこうして、人目のない場所に来ているではないですか。織り込み済みですよ」
「嘘つけ、さっき思いつきって言っただろ」
「兄さんのくせに一々生意気ですね」
「じゃいあん!?」
どうでもいい話をしながら昼食を共にする
その中で六度ほど兄を赤面させながら、私はどうにかして毎日昼食を共にする算段を練っていた。
お互いの教室に出向くのは当然不可。こうして二人での逢引きも、毎日続けていれば発見される可能性は飛躍的に高くなっていく。
それなら、見つかっても問題のない形態をとるべきだが、それが今一思いつかない。
危惧すべきは関係を類推されることで、それを避けるには第三者を入れるのが手っ取り早い。しかしそうなれば二人きりではなくなってしまい、本音で語り合えなくなる。本末転倒だ。
藍園さんのように事情を知る人間ならちょうどいい隠れ蓑になったのだが。残念ながら彼女は社会人だ。今から作るのも非現実的。
結局、リスクを取るか欲求を取るかの話になる。それなら私は
「兄さん。これからもたまには一緒に食べませんか?」
「え、別にいいけど……どうせ家で一緒に食べてるだろ? 別に学校でまで」
「そんなものは兄さんとイチャらぶしたいからに決まっているでしょう」
赤面七回目。
そんな風にして、昼食は終わった。大満足と言える時間だった。
これで午後も授業と部活に集中できる。



434 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:29:57 ID:2CIwq8b8

特筆することもなく午後の授業とHRが終わる。
鞄を掴んで教室を後にしようとした私に、割と軽めのクラスメイト(男子)が声をかけた。
「榊さん。今度の日曜、クラスのみんなで遊びに行くつもりなんだけど、榊さんもどう?」
「……」
日曜日に部活はない。彼の後ろを見ると、期待した顔の男子が三人、女子が一人。
このクラスになってから二か月。まだお互いを知りたがる期間は終わっていないようだった。そこには男女としての意味も多分に含まれる。
はっきり言ってこんな時期にくそくらえだが、バッサリ断るのではなく、高校に入ってから私はもう少し器用なやり方を覚えていた。
「すみません、家族と約束があるんです。もしよければ友達を紹介しましょうか?」
「え、榊さんの友達?」
「はい、部活の関係で。今日相談すれば、明日にでもわかると思いますが」
それで話はついた。あとは部活の同輩にお願いすれば、一人か二人は釣れるだろう。資料用に彼等の携帯写真を撮っておく。
結局、彼等も彼女等も、異性と仲良くなりたいだけなのだ。それを軽蔑などしない。私だって行動原理は全く同じなのだから。
中学までは、この手の誘いは全て一刀両断にして高根の花と揶揄された。それよりはこうして仲を取り持って、自然に興味から外れる方がいい。
誰とて高根の花より路傍のタンポポを選ぶものだが、中には興味半分に摘みに来る輩がいて、それが非常に鬱陶しいのだ。
もっとも、私の趣味は高嶺のタンポポとでも言うべきものだけれど。

格技場に赴き、更衣室で柔道着に着替えてから部活に参加する。
走り込みで校舎を回る際、ペースを落として知人の何人かで固まり、例の話を切り出した。
途端、顎を上げて走っていた彼女達が凄い勢いで食いついてくる。なんだろう、異性の話をすると体力が向上するのだろうか。
話の焦点となったのは、彼等の容姿レベルだった。更衣室に戻ってから写真を見せることは約束したのだが、ああだこうだと益体もない品評会が始まってしまった。
資料もない状況で話がまとまるわけもなく、個人的見解の言い合いになったところで先輩に見つかり怒られる。
ちなみにその後、更衣室で固まって写真を品評した結果は『中の中』とのことだった。
二人希望者が残ったので、明日にでも伝えておこう。それなりに可愛いので文句も出まい。
やれやれ、疲れた。
ちなみに、こういうやり方を教わったのは柳沢先輩からだった。人間関係とはつまるところ技術とノウハウだ。次はもう少し上手くやろう。

先輩から格技場の掃除を命令されたせいで、いつもより下校時刻が遅れてしまった。理由はもちろん品評会の件だ。
兄はもう行ってしまっただろうな、とトボトボと校門を目指す。こんなことなら教室での誘いなどバッサリと断っておくべきだったかもしれない。
けれど、校門の脇で、ぽつんと兄が待っていた。
「兄さん」
「ああ、優香。帰ろっか」
そのまま、なにも聞かずに連れ立ってバス停に向かう。部活から帰る自転車の生徒が、何人か横を通り過ぎて行った。
兄は待っていてくれた。
今日は朝からずっとこの人にちょっかいをかけていた。布団にもぐりこみ、通学路では腕を組んで、昼休みには七度赤面させ。
これで放課後も捕まったら、どういう目に遭うかは馬鹿でなければ想像もつくはずだ。
正直、最近の攻勢はかなり強引なアプローチだった。避けられても無理はないだろう。
それでも兄は待っていてくれた。
そうして胸がいっぱいになり、言葉が詰まる。せっかくの下校なのに、兄も黙認していたのに、何も手出しできなかった。
ただ、兄の話すことに小さく頷いて、その指先と右手を繋いで歩くだけだった。



435 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:30:43 ID:2CIwq8b8


――――私は兄を信仰している。
勿論、私は兄が完全とは程遠い存在であることを理解している。私は兄の正しさを信仰しているのではない。だから口出しもするし手出しもする。
もっと根深く、もっと単純なことだ。
私は、この人がいるから生きてこれたのだと。この人の優しさがなければ、私は生きてはいられないのだと。
太古の人々が天と地を崇拝したように、私はこの人の慈悲を乞う。荒削りで、原始的な、私だけの信仰だ。
表面的にはどうあれ、兄が上位であり私が下位にある。私はあの人には絶対に勝てない。そういうふうにできている。
歪みだ。個人が個人に向ける感情として、これほど歪んでいるものはない。
けれど私は、そんな現状に満足している。兄のためなら、微笑んで人を殺せるし、命を投げ出せる。
私は狂信者(Fanatic)でもあるのだから。


今日の夕食は一家揃ってのビーフシチューだった。付け合わせはポテトサラダ。それから野菜ジュースがたっぷり。割と豪勢な食卓だ。
何やら母の機嫌が良かったので、聞いてみたらパート先で若い社員(男性)に親切にされたのこと。
いや、夫の前でそういうことを言うのはどうなんだ?(少なくとも私なら怒り狂う)と思ったが、父は当たり前のようにシチューを啜っていた。
私は毎日、兄に気持ちを伝えようと心に決める。
まあ、母の容姿ははっきり言って年相応の十人並みだ。この年なのだから舞い上がってしまっても無理はないかもしれない。
ちなみに私の顔立ちは父譲りで、若い頃は相当モテたとか聞いたことがある。性格が致命的だったらしいが。
さておきそんな機嫌のいい母の話に対して、私と父は内心はどうあれ流すだけなので、相手をするのは兄の役目になる。
「ええー、でも母さん。浮気とかはダメだからね」
「そんなのじゃないわよー。健太より少し年上ぐらいの子なんだし」
「ていうか、父さんもさー。たまには母さんのこと褒めてあげなよ~」
「そうなのよねー。この人、全然そういうこと言ってくれないのよね~」
「……」
なんだろう、このテンションは。話を振られた父に心底同情する。
とはいえ、私もスイッチが入った時のテンションについては、後で頭を打ちつけたくなることも多い。自戒が必要だ。
それにしても、この二人はどうして夫婦などになったのだろう。昔から何度も考えてはいたけれど、あまりにも相性が悪い。
いや、この二人でなければ私達が生まれてこないのだから感謝はしているのだけれど。
「そういえば、なんで母さんは父さんと結婚したんだっけ?」
「……聞かないで」
しかも、禁句らしかった。なんでだ。



436 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:32:27 ID:2CIwq8b8

夕食の後はそれぞれ自由時間になる。空いた順に風呂に入るが、それぞれの行動はまちまちだ。
統計的には、私と兄が自室で予習復習自主トレ、母が居間でテレビや雑誌を見て、父が自室で調べものをしていることが多い。が、ばらつきもある。
つまり、この時間帯は兄といちゃついてはいられない。例えば部屋で行為に及んでいたとして、何かの気まぐれで父か母が訪ねてこないとも限らないのだ。
もちろん部屋に鍵をかけられるが、そうなれば兄妹二人で鍵をかけた部屋の中で何をしていたんだということになる。結論するなら何もしないのが上策だ。
と、私が部屋でこれからの計画を立てていると兄が来た。
話したいことがあるらしい。何を考えているんだろう、この人は。論理的思考をして欲しい。
もちろん喜んで受け入れる。部屋に鍵をかけた。下着を確認、色気のないスポーツブラに縞パンだ、しまった。いや、ここは前向きに考えるべきだ。こういうのが趣味かもしれない。
瞬間的にかなり迷ったが、私がベッドに座り、兄には椅子に座ってもらう。その気になれば即座に私を押し倒せる位置関係だ。ああ処女膜よ、どうか激しい運動で破れていませんように。
私が益体も無いものに祈っているうちに、とりあえず、といった感じで兄が話し出した。あまり緊張している風ではない。
「いきなりごめんな。なんかしてたか?」
「いえ、明日の計画を立てていただけですから。それで何の用でしょうか」
「うん」
私をじっと見る、真剣な目つき。思わず濡れ……じゃない、緊張した。状況に即応できるように脱力する。
と思ったら、兄はふにっとどこか照れくさそうに頬をかいた。何なんだ一体。
「優香は、その……なんで、俺なんだ?」
「は」
「ほら、だって優香は美人だし、よく気が付くし、頭もいいし、料理もできるし。俺よりもずっといい男と付き合えると思うんだけど、どうしてその……俺なんだ?」
それは今日の夕食にも出た話題だった。そうか、兄が本当に聞きたかったのは母にではなく私にだったのか。
顔を赤くしながら、けれど真面目な視線で兄が聞く。ずっと疑問に思っていたことなのか、質問の仕方は兄にしては纏まっていた。
というか、今更過ぎた。
本来ならもっと事前、告白のときに聞いてしかるべき話題だと思うのだが。いや、そもそもこんなことを聞くほうが男として間違っているか。
とはいえ兄としては、まず兄妹間での恋愛感情というものが理解し難いのだから、理由の追求は分からないでもない。
私としては兄への好意は当たり前のことで、そういう意味でも今更だった。とはいえ性格柄、一応の分析は済ませてある。それを伝えればいいだろう。
「兄さん。私は」

昔から、感情の起伏が少ない人間だったこと。
それは性格というよりも障害のレベルで、そのままならば他人の痛みが分からない人間になっていただろうこと。
それでも私がこの場所にいられるのは、兄が私の分まで泣いて笑ってくれたから。
私の自我にぽっかりと空いた、良心や倫理のあるべき欠落。兄の存在だけが、その空虚を満たしてくれること。
私は、私に欠けている全てを持った兄を想うことで、ようやく普通の人間になれるのだと信じている。



437 未来のあなたへ10 sage 2009/07/14(火) 12:33:22 ID:2CIwq8b8

そんなことを、ありのままに伝えて
「以上です」
「……」
部屋を沈黙が支配した。
私は、もはや言うべきこと全てを言い終えた故の沈黙。
兄は、言うべき事を失った故の沈黙。はっきり言って、引いていた。
重い。
空気が、重い。それは、私が兄に背負わせようとしているものの重さなのかもしれない。
私が、兄に背負わせようとしているものは、私だ。
愛した相手がたまたま兄だった、とか、そういう次元ではないのだ。私は、兄を愛するしかない生物なのだ。
心変わりは、無い。今までも、そしてこれからも、私は貴方の後ろにいて、貴方を見ている。私が私である限り。
それを受け止めようとするのなら、近親相姦の禁忌と共に、一生背負っていかなければいけない。
二重の地雷だ。引くのも当然だろう。
だけどそれでも、私は自身の根っこに関することで、兄に対して、嘘をつきたくは無かった。
小細工ならばいくらでも行おう。性癖やアピール、そんなものは枝葉末節に過ぎない。
だけど嘘をつけないものがある。他でもないこの人にだけは、本当にわかってほしいものがある。受け止めてほしいものがある。
私は貴方のためなら誰でも殺せるし、命も投げ出せる。それは喜びなのです、それは歓びなのです。
だから私の全てを、貴方に託します。どうか裁いてください、どうか赦してください。それが私の信仰です。
それは、ああ、兄さん。それが何より重い、私の罪なのでしょう。
兄を好きになったことではなく、兄の人生に私を背負わせようとすること、こそが。
そうして、貴方はもう二度と笑えない。
そんなものを背負ってしまったのなら。あの、日向のような無邪気な笑いは、もう二度と綻ぶことは無いのだ。
「……」
「その……優香」
「返事は、まだでいいですから。よく考えて、後悔の無いようにしてください」
「ん……そう、だな。それじゃ」
「はい」
どんよりとした空気を引きずって、兄が私の部屋を去る。
一人残された部屋で私は、少しだけ自己嫌悪して、少しだけ天罰を祈って、少しだけ笑って、両手を組み、膝をつき

「ああ……兄さん」

笑顔を失った今の兄でさえ、私はこの上も無く愛していることに、深く深く感謝した。

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最終更新:2009年07月21日 18:37
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