元気良くさえずる雀の声が、雲一つ無い早朝の空に心地良い。
季節柄、風はまだまだ冷たいが、ここまで空が高ければ降雪は無いだろう。気温がそれほど高くなるとは思えないが、それでも今日はいい天気になりそうだ。
お藤は水瓶から冷たい水を汲むと、鍋に移し、かまどの火をつける。
(そろそろ葵さんが降りてくる頃ね)
葵が嫁いできてからまだ三ヶ月。いかにも初々しい息子の新妻は、新谷家における「家庭の味」をかろうじて再現できるようになってきた。そこに喜びを覚えこそすれ、息子を取られてしまう寂しさなど感じたりはしない。
お藤にとって葵は、いまや息子本人よりもはるかに親しみを覚える存在であり、彼女と並んで台所に立つことは、お藤にとっての数少ない一日の娯楽であると言える時間でさえあったのだ。
かつん、かつん、と庭の隅で誰かが薪を割っている音がする。
家僕の弥八か――と思ったが、どうやら違うようだ。
楯山藩剣術指南役の家に嫁いで二十余年。剣をたしなむ者と不器用な弥八とでは、薪を割る音一つ取っても違う。かつては夫の源左衛門も、よく稽古代わりだと言って薪を割っていたものだったから、さすがに聞き分ける事くらいは彼女にもできる。
(桔梗ね、多分)
普段の又十郎なら、この時間は眠っている。だから脳中で消去法をするまでもない。
思わずお藤は溜め息をついた。
息子の又十郎がなんとか一人前に育ってくれたのは嬉しいが、まさか、いまさら娘の桔梗にここまで手を焼く事になるとは、お藤にも予想外だったと言うしかない。
幼い頃から竹刀を振り回し、炊事洗濯針仕事といった花嫁修業には見向きもしなかった一人娘。なまじ又十郎以上に恵まれた天分に、夫の源左衛門は子供のように喜んだが、それでもお藤は、そんな娘に心配以外の感情を抱けなかった。
そんな桔梗が嫁に行った時は、
(これで少しは肩の荷が下りた……)
とさえ思ったのだが、まさかその三年後、又十郎が祝言を挙げた直後に、婚家からいきなり出戻ってくるとは、いくら何でも想像の範疇外だ。こんな顛末を一体誰が想像しようか。
しかも噂によれば、何らかの不始末で婚家から追われたわけではなく、自分から無理やり去り状を書かせ、家を飛び出してきたらしい。
もはや桔梗が何を考えているのか、この小心な母親には見当もつかないと言っていい。
「お義母様、洗濯物を干し終わりました」
振り返ると、葵がにっこり微笑んでいた。
だが、その微笑に含まれている一分の翳りが、お藤の心を少なからず刺し貫く。
桔梗がこの家に帰ってくる前までは、葵は満開の花のような顔で笑う、可憐で素直な若妻だった。しかしそれが今では……。
「そろそろあの人を起こしてきますね」
そう言うと、葵はそのまま背を向けた。その背中も――お藤には小さく見えた。
無理もないと思う。
桔梗が葵に対し、又十郎のいないところでは白眼と冷笑と侮蔑を以って接していることも、そしてその事実を又十郎が気付いていないということも知っている。また、わざと葵に見せつけるように、桔梗はことさら兄に甘える態度を取っていることも。
そんな日常を送っていながら、以前のように笑えという方がムチャな話だ。
だが、そんな桔梗を母は叱れなかった。
お藤は恐ろしかったのだ――この自分の娘が。
婚家で何があったのか、お藤は知らない。桔梗は嫁入りしてから一度も実家に帰ってこなかったし、手紙一通寄越さなかったからだ。
まるで人変わりしたような――と言ったが、ならば、そもそも桔梗がどういう人間だったのかと問われれば、お藤は答えられない。娘時代の桔梗は、母とともに家事に勤しむよりも、道場で一日中でも竹刀を振り回しているような女の子だったからだ。
無論、お藤も母として、桔梗とコミュニケーションを取ろうと努力はしていた。実の娘が可愛くないはずが無い。一組の母娘として睦まじくありたいと欲するのは当然の心理だ。
しかし結論から言えば、それでも桔梗は、お藤にはあまり懐かなかった。
そんな娘に一抹の寂しさを覚えても、しかしお藤が、自分たちの関係を不審に思ったことも無い。こういう母と娘も世間には決して珍しくないと聞いていたからだ。
だから嫁入りした桔梗から、手紙一通届かない現実に、お藤は何も不審を覚えなかった。
つまり、お藤という一個の母親が、桔梗という娘はこういう人間だったのかと思い知ったのは、彼女が新谷家に舞い戻り、やりたい放題に振舞い始めてからであった。
又十郎のことはいい。
三日に一度は稽古と称して、深夜の道場で桔梗にぶちのめされていることも当然知っているが、その件に関してお藤は特に意見は無い。むしろ源左衛門から皆伝まで許されておきながら、以前と変わらず妹に打ち勝てない長男には、失望さえ感じるくらいだ。
だが、葵に対してお藤は、言い尽くせない後ろめたさと罪悪感を覚える。そして桔梗に対し、叱るどころか逆に怯え、説教一つできない脆弱な自分自身に、お藤は羞恥さえ伴う深い絶望を覚えるのだ。
(せめて、あの人がいてくれたら……)
だが、源左衛門はいま、この新谷家から数百里離れた江戸にいる。
葵はよく出来た嫁だと思う。
正直言って、又十郎には勿体無いくらいの嫁だとさえ思う瞬間が、お藤にはある。
実を言うと、お藤は最初、この葵――というより葵の実家の大杉家――との縁談に懐疑的だった。
大杉家はこの楯山藩屈指の名門であり、葵の父である大杉忠兵衛は、国家老の筆頭として、執政――と呼ばれる藩政府の首脳閣僚たち――を牛耳る、藩内随一の有力者である。
禄高は千石。この数字は三万石の小藩でしかない楯山藩においては、藩主一門やその御連枝に次ぐものであり、いわば彼らは藩における歴然たる上流階級であった。本来ならば家格でも家禄においても新谷家などと釣り合う家ではない。
そんな堂々たる藩貴族の御令嬢に、藩主の指南役とはいえ、経済的には禄高百石の“中流”でしかない新谷家の嫁御寮人が勤まるかどうか、お藤には疑問だったのだ。だが、葵はあらゆる意味でお藤の悪い予感を裏切った。
葵は、文字通り清純無垢な女性だった。
セレブにありがちな、やたらと他人を見下したり無意味な浪費をしたりという悪癖を、葵はほとんど持ち合わせておらず、その気性も、鷹揚どころか天然に近い程にゆったりとした、接する者の心を温かくできる人間だった。
そんな葵なればこそ、彼女自身にまったく縁の無い「剣」という地平に生きる又十郎を素直に慕い、愛する事も出来たのだろう。三年間の婚約期間のうち、むしろ新谷家に祝言を一番せっついたのは、他でもない葵だったとさえ言える。
そして、葵は正式に輿入れしてからも、可能な限り新谷家のよき嫁たらんとし、源左衛門やお藤のことも、夫の両親として何の疑いもなく尊敬してくれた。
炊事洗濯もヘタクソで、家計簿の計算も頻繁にミスを繰り返し、一家の嫁としては、まだまだ頼りないのも事実だが、それでもお藤にとって葵は、道場にいりびたりだった実の娘よりも遥かに身近な存在だったのだ。
それだけに、この縁談をまとめた夫に、お藤は感謝さえしていた。家格の違いから、本来ならば成立しないはずの新谷家との縁組み――それを葵の実父である大杉忠兵衛が申し込んできたのも、それこそ相手が新谷源左衛門の嫡男なればこその話だからだ。
―――――
いつもは鐘と同時に起きる。いや、葵に起こされる。
だが、目覚めた時、又十郎は反射的に明け六つ(午前六時)の鐘は鳴っていないと判断していた。
根拠は特に無い。
しいて言えば腹時計とでも言うべきか。
階下から味噌汁のいい匂いが漂ってくる。それと一緒に響く、薪を割る小気味のいい音も。
(――桔梗、か)
眠気が一瞬のうちに消し飛ぶ。
昨日やった妹との仕合内容は、一部始終思い出せる。
だが、そこから先の記憶は無い。
どうやら、またぶちのめされた挙げ句失神して、この部屋に担ぎ込まれたらしい。
知らず知らずの内に眉間が険しくなるのをこらえ、耳を澄ます。
かつん、かつんと一定のリズムが刻まれる。たかが薪割りではあるが、音を聞けばそのナタさばきの手際くらいは又十郎にも見当がつく。
――いい腕だ。俺でもこんないい音は出せねえ。
若干の苦さを噛みしめ、蒲団の中から上体を起こす。
「んっ!?」
胸の筋肉がぎしりと悲鳴をあげる。昨日、桔梗の二段突きを喰らった箇所だ。いや、そこだけではない。身体中の筋肉や関節が軋むような痛みを発している。
(あいつに勝てる日が果たしてくるのだろうか)
今まで何度となく感じていた疑問が、また疼く。
だが、それ以上は考えない。考え始めると止まらなくなるからだ。
立ち上がると、又十郎はそこで初めて自分が下帯一丁の裸身であった事に気付いた。
(ブザマすぎる……)
寝床に横たえられ、服まで剥かれ、それでも前後不覚になったまま眼を覚まさなかったというのか。これで一藩の剣術指南役になろうと言うのだからお笑い草だ。
だが、反省と違って自嘲は何も生み出さない。
又十郎は自分の両頬をぱんと叩くと、そのまま部屋を出る。井戸端で水でも浴びて、気持ちを切り替えねばならない。こんな心持ちでは、桔梗の顔どころか葵の顔さえもまともに見られないだろう。
そう思った矢先だった。
「あっ、あなっ、たっ……!?」
そんな又十郎を、頬を真っ赤に染めながら葵が見つめ上げていた。
「お、おはよう」
思わず間抜けな声を又十郎が出す。
おそらく彼を起こしにきたところだったのだろう。
結婚してもう三ヶ月。
初夜以来、何度となく寝床を共にしてきた若夫婦であるはずなのに、それでも彼女は夫の裸身をまともに見ることに、まだまだ羞恥を覚えるらしい。
井戸端で水でも浴びて気持ちを切り替えようなどと――そんな不安もどこへやらだ。
まるで子供のように初心なことを言うな妻女に、知らずして又十郎は頬を緩めた。
「いまさら恥ずかしがる事もないだろう。そろそろ慣れたらどうだ」
「でも……その……あなたの体をまともに陽の下で見るのは……やっぱり恥かしいです」
又十郎は笑う。
こんなかわいい言葉を吐く葵が、寝室の灯りを吹き消した瞬間に、どれほどいやらしい女に変貌するか、夫として思い知っているからだ。
「とりあえず……その……お召し物を着て下さいません? いますぐ御用意いたしますから」
消え入りそうに呟きつつ、衣紋掛けからいつもの着物を下ろそうとする葵に、又十郎は背後から優しい声を掛けた。
「葵、今日はお城に上る日だから、あとで裃も出しておいてくれ」
そう言った瞬間、早朝の空に鳴り響く明け六つの鐘の音が、夫婦の耳に届いた。
(まるでママゴトだな)
そう思いながらも、しかし又十郎は心中温かいものが込み上げてくる。
だが、あまりボヤボヤもしていられない。
今日は五日に一度の出仕の日。
登城して、源左衛門の代行として、藩主家の若君に新谷一刀流の稽古をつけねばならないのだ。
若君といっても嫡男ではなく、山城守が国許にいる側室に産ませた妾腹の子である。だが、それでも藩主家の令息には違いない。だから、その少年相手の稽古――とは名ばかりの竹刀遊び――の監督官でしかない自分に、又十郎はさほどジレンマを覚える事もない。
剣技の教授こそ自分の役目であるが、それでも若君をただの門下生と一緒には出来ない。その少年に剣を教える目的は一個の剣客を作り上げる事ではないのだから。彼の心身を適度に鍛え、必要最低限の自己防衛技術を覚えてもらえば、一藩の指南役としては事が足りるのだ。
だが、――それでも、時に一抹の空しさが胸中を走るのを止められない。
特に、妹と意識を失うまで打ち合うような稽古をした翌朝は。
(おれが血反吐を吐きながら剣を学んだのは、子供のお守りをするためではないはずだ)
そう思う自分を制止できない。
「あなた?」
着替えを手伝いながら、葵が不安げに又十郎を見ている。
またしても気付かぬうちに険しい目をしていたらしい。
「なんでもないよ」
優しく言って妻の頭を撫でる。恥かしそうに、けれども嬉しそうに葵がむずがる。
(親父なら何と言うだろうか)
江戸にいるはずの父に思いを馳せる。
かつて源左衛門は、剣の稽古は踊りではないと主張して、前藩主に門弟同様のハードトレーニングを強要した挙げ句、しばらくお召しをホサれていた時期があったという――まさに指南役としては前代未聞の経歴を持っていた。
しかし、それも過去の話だ。
新谷源左衛門はこれまで何度も既述したとおり、楯山藩における現役の武芸指南役であるが、いまやそれだけの人物ではない。むしろ彼は現在、指南役としてよりも、現藩主・久世山城守の寵臣として藩内に知られていた。
無論、剣客としての父は高名である。
新谷源左衛門は若き日に藩を離れて武者修行に出ており、その剣名は数十年前に楯山藩で開催された諸流大試合(おおよせ)に、圧倒的な強さで優勝することで頂点を極めた。
そのまま源左衛門は父――又十郎にとっては祖父だが――の後を継いで指南役に就く。
前藩主――久世政綱は、藩政・学問・武芸のいずれにも関心を持たず、酒と女のみを楽しみに生きるという、きわめて典型的な「お殿様」であったが、源左衛門はこの主君にかなり不満であったらしい。彼が藩主に不興を買ったのはこの当時の話だ。
そして、そのまま彼は政綱に遠ざけられたが、その後にお家騒動が起こり、世子(将来その大名家を相続する事を公式に認められた嫡男)が藩主を強引に隠居させて久世家を継ぐに当たり、源左衛門もふたたび登用された。
――その世子こそが現藩主・山城守為綱である。
つまり源左衛門は指南役というよりも、当時お家騒動の余燼納まりきらぬ山城守の“護衛”として君側に配されたといってもいい。
しかし、これこそが源左衛門の出世の糸口になった。
主君のセキュリティを守る者なれば、当然彼は日常的に山城守の傍らに侍り、行住坐臥に注意を怠らず、剣を手放さない。だが、源左衛門の仕事はそれで終わらない。
常に身近に居るということは、つまり藩主の格好の話し相手にもなる場合があるということだ。そして、そういう意味でも、源左衛門は剣と同じく達者だった。
若き日の彼とは違う。早い話が、源左衛門も歳を取って丸くなっていた。
一派一門を率いる剣客らしい剛直さと、趣味人独特の洒脱さを併せ持つ彼は、山城守にとって側役や小姓以上にウマの合う、いわゆる「話の分かるジジイ」だったのだ。
気がつけば、彼は主君のお気に入りとして、山城守から公私の区別なく相談を受ける立場になっていた。――つまりそれは、藩主に対して発言力・影響力を発揮できる立場にあるとも言える。
又十郎には俄かに信じがたいが、現に、山城守が源左衛門の助言を受けて決断したと言われる藩政上の重要案件が、これまでいくつも存在したと世の噂に聞いた事があるのだ。
普通、そこまでの信頼を主君から得たならば、間違いなく生活環境は変化する。それも確実にプラスの方向に。
新たなる有力者の周りに人が群がるのは世の常だし、主君にしても、自分の友人の待遇をよくしたいと考えるのは当然の人間心理であるからだ。
だが、源左衛門の生活は何も変わらない。
実際、話はあった。
山城守は、新谷家の禄高加増や藩政府上の高職就任を源左衛門に持ちかけたし、源左衛門に賄賂を贈ろうとする人間はどこにでもいた。だが、父はことごとくそんな栄達を辞し、あるいは突っ返し、清廉潔白な剣人の一分を守り通した。
そして、彼のそんな一面をますます気に入った山城守は、以前にも増して源左衛門を重用するようになっていった。
山城守はまだ若い。
気骨もあり、学問に優れ、なにより藩主として現実に対する明快な理想を持っている。
それだけに領内の政治責任をすべて執政に投げ渡して、退屈を満喫しようとする、前藩主のような太平楽な殿様ではない。
家臣団のトップとして、大杉忠兵衛はこのアクティブな藩主を多少持て余していたらしい。果てしない討論を連日繰り返して、または長年の経験則に基づいてようやく決定した執政たちの政策を、藩主はあっさり覆すことが出来るのだから。
だから――藩主の私設相談役というべきポジションに存在する新谷源左衛門に、娘を嫁がせて縁を繋ごうとしたのも、政治的寝技に長じた大杉忠兵衛らしいと言えないことも無い。
だが、そんなことは又十郎にとってはどうでもいい。
過程はともあれ、忠兵衛の娘である葵は、自分にとってよき妻である。この事実の前には、そんな藩内のきな臭い政治情勢など、何の意味も持たないからだ。
又十郎は妻の頭を撫でながら、もう一度、自分に言い聞かせるように言った。
「なんでもないよ」
と。
―――――
かつん――。
乾いた音を立てて最後の薪が割れた。
これで、少なくとも今日一日分の燃料には事欠かないはずだ。
桔梗は、手の甲で額の汗を拭った。
あまり切れ味の良くないナタではあるが、手首の返しと刃の立て具合でかなり作業能率を高めることが出来る。
かつて父もよく薪割りに勤しんでいたが、いまにして桔梗には理解できる。竹刀木剣での打ち合いにいくら長じても、刃物の扱いに習熟できるわけではない。そして刃物の扱いに慣れぬ者に“刀”という凶器を使いこなすことは出来ないのだ。
――ふふん。
桔梗の口元にしぶい笑いが浮かぶ。
かつて四隣に知られた名剣士・新谷源左衛門はもう「いない」。
今の父など、歳とともに急速に老け込み、兄にさえ三本に二本を取られる“元”名剣士に過ぎない。
(まあ、それでも殿様の護衛くらいは、どうにかこうにか勤まる程度の体力はあるようだけどね……)
だが、技の衰えた現在の父など、桔梗にとっては所詮、恐れるに足る存在ではない
全盛時の父と今の自分とならばどっちが上であろうか――これまで何度となく頭に浮かんだ疑問が、ふたたび頭を掠める。
まあ、その頃には彼女など生まれてもいないので、それこそ勝負の行方など想像のしようがないが。だが桔梗としてもむざむざ負ける気はしない。
彼女は立ち上がり、ナタを鞘に収め、散らばった薪を拾い集めた。
馬蹄の音とともに、騎乗の使者の声が新谷家の玄関先に鳴り響いたのは、まさにその時だった。
「新谷さま! どうか御開門下さいませ! 城からの早馬でございますぞ!!」
「江戸表からの火急の御下知だそうじゃ。新谷流の手練れ十名を選りすぐり、急ぎ江戸に下れと」
「えっ、江戸に!?」
厳しい声で発される兄の言葉に、反射的に母が声を上げた。
何が起こったのかは分からないが、よほどの緊急事態が江戸で起こったらしい。
ちょうど葵が用意できた朝餉を台所から運んできたところであったが、又十郎はもはや食膳に見向きもしない。そのまま厳しい目付きで家族を見回した。
「城の御使者の方が申されるには、本日は出仕するには及ばぬと。準備が整い次第、楯山を発てとの仰せだ。とりあえず一刻も早く江戸に参着せよ、と」
「でっ、でもあなた……」
何か言おうとした妻を制するように、又十郎は言う。
「葵、新しい草鞋(わらじ)と手甲脚半を用意してくれ。あと、今朝の炊き残しの米で握り飯を頼む。出来る限り多くだ。それと――」
「待ってよお兄様、手練れ十名って、いったい誰を連れて行くつもりなんだい」
その桔梗の一言に、又十郎の視線がさらに険しくなった。
それは彼としても痛いところを突かれた、という思いがあったからだろう。
だが、無視するでもなく黙れと叫ぶでもなく、又十郎は沈鬱な表情で口を開いた。
「一刻も早くということなれば、残念ながら席次の順に上から十人というわけにも行くまい。関口や興津はともかく、小和田や牧では今日いきなり出立すると言っても無理な話だろうしな……」
部屋住みの若者ならともかく、皆それぞれ遊んで日を過ごしているわけではない。勤めもあれば都合もある。それは桔梗にも分かっている。
たとえば――新谷道場の首席剣士である小和田逸平は、現在、城下町から遠く離れた農村に郡奉行の書役として出向しているし、席次二番の島崎与之助は現役の勘定奉行であるため、業務の引継ぎに最低三日はかかるであろう。
席次三番の牧文四郎は、家禄わずか五石の極貧足軽であるために、急な出立ではとても路銀を用意できまい。他にも冷静に考えてみると、新谷一門の高弟たちは――奇妙なほどに――緊急の出府という条件を満たせない者が多い。
結局、腕の順ではなく、即時出立という条件を満たせる者たちの中から十人選ぶか、もしくは出発できない使い手たちを後発組にまわすという形で、時間を与えるかのどちらかしかない。
だが、桔梗の言いたいことは、当然そんな“どうでもいい連中”のことではない。
「桔梗も連れて行ってよお兄様。絶対に役に立つからさ」
母と兄嫁の顔色が真っ青になる。
だが又十郎は驚きもしない。太い溜め息をつき、何かを諦めたようにゴリゴリと頭を掻くだけだ。
どうやら桔梗が何を言いたいか、うすうす感付いていたのだろうか。いや、兄はそんな目から鼻へ抜けるような勘働きの鋭い男ではない。
つまり――。
「親父殿からも伝言だそうだ。その十人とは別に、桔梗を必ず同道せよ、とな」
(やっぱり)
桔梗は、我が意を得たりとばかりにニタリと笑った。
別式女(べつしきめ)で有名な仙台藩伊達家ならともかく、普通の大名家には、男並みに腕の立つ女武芸者という人材はあまりいない。
無論、そういう女性の需要はある。大名屋敷には普通の武士が入れないエリアが厳然と存在するからだ。
すなわち上屋敷の“奥”に存在するハーレム区画――藩主の正室側室が住まうプライベート空間――などは当然男子禁制なわけだが、普段は薙刀などで武装した奥女中が警備の任に当たっている。だが、しょせん彼女たちは戦闘の専門職ではない。
つまり藩主のセキュリティを万全にしようとするなら、並みの剣客と同レベルで腕が立ち、なおかつ目端の利く女がどうしても不可欠になる。
桔梗の知る源左衛門ならば、そんな局面で桔梗という駒を遊ばせておくはずがない。何といっても父は、より素質に優れた者の血を残すためだと言って、桔梗に婿養子を取って家を継がせ、一人息子の又十郎を廃嫡しようとしたほどの機能主義者なのだから。
「お兄様が呼ばれた御役目に桔梗が必要だと……お父様は仰せなんだね?」
「らしい」
「わかった」
桔梗は頷いた。
兄とともに働くことが出来る。
兄のために働くことが出来る。
これ以上の喜びがあるだろうか。
いや、それよりも――、
桔梗は立ち上がり、葵に向かって高らかに言った。
「そういうわけで桔梗はお兄様と一緒に行くことになりました。お義姉様はお母様と一緒に、この家の留守をお願いします」
大きく見開かれた葵の瞳が、きゅっと揺れた。
日が暮れた。
国境を越えて、もうかなり経つ。
結局、又十郎は時間を優先した。
本来ならば、命令どおり十人の精鋭を揃えて城下を出発したかったのだが、そうも言ってはいられない。腕利きの剣士が一刻も早く必要だ、ということならば、まずは又十郎と桔梗だけでも江戸に入府しておく方がいいだろう。
とりあえずリストアップした面々に文をしたため、城からの使者が持参した道中手形を一枚ずつ添えて彼らの家に届ける。それが済み次第、又十郎は妹を伴い出発した。
メンツは――かなり迷ったが――やはり席次の順に上から十人。今日いきなりの出国は無理でも、彼らも武士だ。主君の意思以上に優先すべきものは何もない。二・三日中、遅くとも四・五日中には必ずや国許を出て、三々五々、江戸に向かうだろう。
彼らとの合流を焦るあまり無駄に時間を浪費し、江戸の殿を待たせることこそ避けねばならない。
そう思った上での又十郎での判断だった。
次の宿場までそろそろだ。そこで宿を取るかとも思ったが、又十郎はそれほど下半身に疲労を覚えてはいなかった。
だが、まだ初日だ。
江戸まであと何里歩き続けねばならないかは分からないが、ペースを上げすぎた挙げ句、疲れを明日に残しては話にならない。一定の歩速で確実に距離を稼ぐことこそ、結果として一番早く目的地に着くことに繋がるからだ。
しかも自分だけならばともかく女連れときては、そうそう無理は出来ない。
そう思って、ちらりと背後の桔梗を振り返った瞬間だった。
「お兄様、桔梗に遠慮することはないよ。今宵は行けるところまで行こうよ」
又十郎が振り返ろうとするのを待っていたように、桔梗が微笑する。
バカ言え、と又十郎は返す。
「行けるところまでも何も、次の宿場で泊まらなきゃ、もう今晩は屋根の下では寝られないぞ」
「野宿すればいいじゃないか」
「いいわけあるか。おれ一人ならともかく、こんな季節にオマエに野宿なんかさせられるものかよ」
「怖いの?」
その瞬間、又十郎はぽかんとなった。
桔梗が何を言い出したのか、よく分からなかったのだ。
「怖いって何が? ……追い剥ぎとかのことか?」
又十郎の言葉に、妹はぷっと吹き出した。
――まさか、何言ってるんだよお兄様。桔梗とお兄様が二人並んで歩いてるんだよ。そんな連中何人いても斬り捨てれば済む話じゃない。
そう言うと、妹は又十郎にずいっと体を寄せた。
反射的に又十郎は後ずさって距離を取ろうとするが、桔梗は彼の反応を見越していたかのように、さらに一歩大股で踏み込んで間合いを詰め、彼の頬に唇が触れそうになるギリギリまで接近する。
剣の勝負であったなら、確実にこのまま一本取られていたところだ。
「もう一度訊くよ。……怖いの?」
そんな―― 子供相手に怪談話をするように声を潜める桔梗に、又十郎は少し苛ついていた。大人気ないとは思いながらも、眉をしかめる。
「だから怖いって、何が!?」
「――桔梗が、だよ」
又十郎はその一言に反応しなかった。
むしろ一切の表情を意図的に消した、と言ってもよかった。
だが、又十郎は動揺していなかったかと言えばそんなことはない。
手の平に粘つく汗の感触がある。
顔に出さないだけで精一杯だったのだ。
その数瞬後、自分が迂闊だったと又十郎は気付く。
――何を言ってるんだ、兄が妹の何を怖がる?
どこにでもいる当然の兄妹のように、そう言って一睨みすればよかったのだ。
だが、もう遅い。敢えて無表情を装い、無難にやり過ごそうとした自分の不自然な反応に、この妹は気付いてしまっているだろう。
そう、言われて初めて気付いたが、確かに又十郎は、この妹に怯えていた。
もしいま現在、第三者の存在があれば、こんな奇妙な感情を桔梗に抱きはしなかっただろう。
だが、いま兄妹は二人きり。そしてこの妹は又十郎と二人になった瞬間に人格が変わる。とんでもなく傲慢で凶暴で理不尽な、一匹の暴君に変貌するのだ。
月も星も出ているとはいえ、こんな薄闇の中、そんな何を言い出すかも分からない妹と連れ立って歩く道中に、何ら不安を覚えていないと言えば……やはり嘘に近い。
そのまま妹は又十郎の頬にそっと指を伸ばした。
「大丈夫だよ、お兄様」
なにが?
「桔梗はお兄様に何もしない。というか、お兄様は桔梗が守ってあげる。誰にも指一本触れさせないよ。だからさ……」
だから?
「お兄様も、あまり下らないこと言って桔梗を苛つかせたりしちゃダメだよ?」
その瞬間、優しく触れるだけだった桔梗の爪が、がりっと又十郎の頬を引っ掻いた。
最終更新:2010年08月04日 18:10