未来のあなたへ10.5

215 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:00:10 ID:055kfvnu
人には誰しも触れられたくない過去がある。
それは熱意に任せた過ちだったり、若き日の考え方だったり、かつて受けた屈辱だったりする。
過去のことは変えようがなく、それを現在に対するバネにする人間もいるが、大多数は記憶の底に封印することで処理している。
けして忘れているわけではなく、ただ考えないようにしているだけのそれは、時々脳裏をよぎっては所有者を苦しめる。
そんなことばかり経験してきた彼女の、最大の黒歴史は、夫と結婚したことそのものだった。


榊太郎子の黒歴史な人生


さかき、たろうこ、と読む。
女性の名前である。
名前が既に黒歴史だった。
この奇天烈な名前を名付けたのは紛れもなく彼女の両親だが、そこにはちょっとした経緯がある。
太郎子を両親が授かったのは晩年になってからだった。母親が四十を超えていたのだから、立派な高齢出産である。
とはいえ、子供がいなかったわけではない。既に二人の娘がおり、当時既に中学生と小学生だった。
いや、だからこそ両親は喜んだ。二人はずっと息子を欲しがっており、そのことを口には出さないにも残念に思っていたのだ。
加えて、この時父親は胃ガンを患っていた。後年これが原因で命を落とすことになるが、どちらにしろこれ以上子供は望むべくもなかった。
だから三人目の娘が生まれた時、つい未練で、男っぽい名前を付けてしまったのだ。
聞くも涙、語るも涙である。
他人事なら笑い話で済むが、本人にとってはたまったものではない。
それでも幼稚園や小学校低学年の間は問題も少なかった。なにしろ漢字もわからない年代である。
精々が、経緯を知る身内から生暖かい目で見られたり、名前を知った教師にぎょっとされる程度だった。
太郎子が自分の名前の異常に気付いたのは小学三年生の時である。
「ねえねえちいねえちゃん。あたしの名前って、へんなの? だんしなの?」
「ぷ、気付くの遅すぎ、プギャー! どう見てもおかしいだろ、ゲラゲラ」
「うあーん!」
翌日から彼女のあだ名は『タロウ』に大決定した。ウルトラな兄弟の末っ子的ニュアンス。
「おーいタロウ」「タロウの奴どうしたんだ?」「タロウちゃん、給食係だよ」「タロウ、タロウ、タロウ~♪」
イジメというよりはナチュラルに定着しただけで、そもそも以前からタロウ呼ばわりは頻繁にされていたので、単に受け取る側の問題とも言えた。
とはいえ、気付いてしまえば太郎子という名前は女子にはあまりにも酷である。
彼女はいじけて、へそを曲げた。
『タロウ』と自分を呼ぶ相手を全て無視すると決めて、三日間誰とも話せなくて半泣きになったりした。
元々彼女はお転婆な少女で、日々を元気いっぱいに生きていた。人生の通過儀礼とも言える最初のワンパンチを食らっただけなのだが、それが思わぬ方向からのブローでどうすればいいのかさっぱりわからないのだった。名前は変えれない。
「セルフ無視乙。名前に合わせて男装キャラとして生きていけばいいんじゃね? ブプー!」
次女はさておき。



216 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:00:46 ID:055kfvnu
そんなある日、太郎子がとぼとぼと家に帰ってくると、玄関に見慣れない靴が大小一セットずつあった。居間を覗くと両親と見知らぬ女性が何かを話してる、客らしい。
そうっと居間を避けて自分の部屋に向かう。見つかって名前を紹介されるのは避けたかったのだ。しかし何故だか自室は次女と見知らぬ少年に占拠されていた。
「おー、帰ってきたか。この美少年は薫(かおる)。ウチの遠縁らしい。このちびっこいのは太郎子。ここ、笑うところな。うひゃひゃひゃひゃ」
「むきー!」
ぽかぽかと両手をぐるぐる回して殴りかかる太郎子だったが、次女は妹の頭を押しのけることで全ての攻撃を空転させた。小学生と高校生のリーチ差は絶望的だ。
この次女は、温厚誠実が基本路線の榊家に於いて血の繋がりを疑う程に意地と口が悪かった。太郎子にとっては天敵も良いところである。
しかし見知らぬ少年は、太郎子の名前に驚くでも馬鹿にするでもなく、ただ淡々としていた。
「岡本薫です。よろしくお願いします。今日は母の付き添いできました」
カーペットの上に正座し、まっすぐ背筋を伸ばして自己紹介する少年。その様は、太郎子のベッドに寝転がる次女よりも下手したら大人びて見えた。
太郎子よりも一つか二つは年上だろう。次女が美少年と評したように、顔立ちと体付きはスラリと整っていた。居間にいた女性の面影がある。カオルという名前もあり、黙っていたら少女でも通じる容姿だった。
そのまま薫はここにいる経緯を述べる。最近こちらに越してきたこと、親戚の家に挨拶に来たこと、居間で座っていたら次女に引きずられてきたこと、母親の話が終わったら暇すること。
そんな少年を前にして、太郎子はぽかんと口を半開きにしていた。戸惑っているのだ。
彼女の知る男子というのは、もっと短絡的で馬鹿で乱暴な口調だった。上級生となれば、体が大きくて怖いというイメージが付くぐらいだ。
なのだが、まるで様子が違う。これはいったい何なんだ、という感じである。
太郎子は知る由もないが、この年齢の男子ならば無理をしてしゃちほこばり、礼儀正しく振る舞うこともできる。
が、薫の態度には何一つとして不自然な部分はなかった。礼儀作法を習ってきたわけではない。子供特有の、有り余る元気というものが根こそぎ枯渇しているような落ち着き方なのだ。
太郎子が本能でうっすらと感じていたのは、そんな些細な違和感であり、彼を毛嫌いすることになる最初の種でもあった。
ともあれ、それが、榊太郎子の人生で最悪の出会いだった。



217 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:01:20 ID:055kfvnu

時は流れる。
彼女は結局、自分のあだ名を別のものにしてもらうように周囲に徹底し、若干の実力行使はあったものの、その提案は受け入れられた。
ちなみに次のあだ名はタロウコ→『タラコ』になった。彼女の唇は別に厚くなく、次女に腹を抱えて爆笑された太郎子は両手両足を振り回して床を転がったが、後の祭りである。
薫はちょくちょく榊家を訪ねるようになっていた。どうも両親や次女が何かと理由をつけては呼んでいるのだと、太郎子が知ったのは割と後のことである。
ちなみにこの時期、長女は東京の大学に上京している。榊家は両親と娘二人の四人暮らし。
岡本家は母子の二人暮らしで、住居も一軒家ではなくアパートのようだった。薫の母が若い頃に街を出ていき、子供を産んだ後に戻ってきたのだ。
太郎子と薫は年齢も近いので遊び相手として引き合わされることも多く、カードゲームやボードゲーム、テレビゲームや庭での遊びをよく一緒にやったが、それはまさしく一緒にやるだけだった。
太郎子も相当、付き合わされている感だったが。薫の作業的なところはある意味見事なものだった。しかもほぼ全戦全勝で、勝っても負けても嬉しそうでも悔しそうでもない。太郎子でなくても嫌になる。
ふたつもとしうえなのにずるいじゃない!
と幾度も文句を垂れたが、その大人げないというところこそが少年の本質なのだと思い知るようになるのはずっと後でのことだった。

さて、そうして太郎子が小学校を卒業して中学生になった頃、幾つか事件が起きる。
一つ目は、次女が大学進学を期に一人暮らしを始めたこと。長女は大学卒業後、現地で就職しているので家にいる娘は太郎子だけになった。
地元に近い大学なので次女は良く帰ってくるが、それでも天敵が去ったことに太郎子はこの上ない開放感を覚えていた。が、以後続く事件でそれも台無しになる。
二つ目は、中学進学を期にイジメを食らったこと。
発端は言うまでもなく本名の件で、本人が頑強に抵抗したので更に延焼した。
というか、タラコ呼ばわりも端から見れば普通にイジメであるので周囲も勘違いした面もある。
紆余曲折を経た結果、複数女子による髪の引っ張り合いが発生。教師にも双方注意され、太郎子は腫れ物のような扱いになる。
唯一喜ぶべきことは、タラコも廃止されて呼び名は名字で統一されたことだろうか。
ともあれ彼女の中学生活は、教室で一人ぽつんと過ごすことになる。
事件の三つ目は、岡本薫の母親が首を吊ったこと。
頸椎骨折、即死である。現場はアパートの自室。第一発見者は息子。動機は生活苦と見なされた。
息子の体には度重なる虐待の痕跡有り、習慣的なノイローゼに陥っていた模様。
多少の揉め事はあったものの、岡本薫は榊家に引き取られた。他にめぼしい血縁はいなかったし、榊家の夫妻がそれを強く望んだからだ。
それは同情と言うより、ずっと息子を欲しがっていたことの方が強いかもしれない。
ちなみに夫妻は副業で親の代から継いだ不動産を幾つか営んでおり、収入に問題はなかった。娘全員を大学に行かせるぐらいなのだから。
部屋は次女の使っていた部屋を片づけて使うことになり、それについては本人もわざわざ帰ってきて許可を出した。弟ができたと喜んでいたぐらいである。
寝耳に水なのは末っ子だった。
以前から反りの合わなかった相手が、今度は一緒に住むことになったのだから、快諾などできるわけがない。
学校で安らげる場所がなく、更に家での安らぎも奪われるとあっては、最近内弁慶外地蔵傾向にある彼女にとってはたまったものではなかった。
じたばたと暴れ、わめき、それでも両親と次女が断固として頷かないのを見て、とうとう太郎子は家出した。
もちろん行く当てなどあるわけがない。結局、彼女は身も心も子供だったのだ。黒歴史の一つである。




218 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:02:03 ID:055kfvnu

リュックにありったけのお菓子を詰めた太郎子は、とりあえず近くの公園に行くことにした。一人で遊ぶための道具は幾つも持っている。季節は春、時刻は夕方。
春の天気は変わりやすい。日暮れと共に天気は夕焼けから一転、豪雨になった。
傘や合羽の類をさっぱり忘れた彼女は、びしょびしょになって公衆トイレに逃げ込んだ。濡れるし寒いし臭いしでもう最悪である。
あまりに雨が強くて、帰るに帰れない。水をふんだんに含んだリュックと服はひどく重く、鍵をかけて閉じこもった個室の便器からは鼻の曲がりそうな悪臭が漂ってくる。お腹が減ったが、お菓子を食べる気にもなれない。
みじめだった。
みじめ、ということを認めそうになっていた。
自分の名前のおかしさに直面してから、これまで頑として認めようとしなかった事実に、打ちのめされそうになっていた。
だがその時
どんどんどん、と個室の薄っぺらい扉が乱暴に叩かれた。雨の降る夜中の公衆トイレ。人気は極限までない。
太郎子は恐怖と驚愕のあまり、ちびった。
じわりと股間に染みが広がり、湯気と共にちょろちょろと床を濡らす。場所がトイレであることは不幸中の幸いだった。ついでに腰を抜かしてぺたんと座り込む。
そうして、声も上げられない太郎子から見て、扉の上から人の頭が出て覗き込んできた。個室の扉に手をかけてよじ登ったのは、髪をくすんだ金髪に染めた女だった。
高校生前後と思わしき年齢の彼女は、腰を抜かしてちびった太郎子を一瞥して
「あのよお、こっちも漏れそうなんだけど、終わったんなら早く代わってくれねえ?」
運命の出会いだった。

女は割と面倒見が良く、ひょんなことから拾った太郎子を自分のねぐらに連れて行って一晩世話した。友達の家に泊まると連絡をさせてではあるが。
帰りたくないと喚いていた太郎子は、最初こそ怯えていたが生来の能天気さですぐに打ち解け、寝るころには家出した事情を話すようになっていた。
見た目通りレディースの一員でもあった女は、後日彼女を仲間に紹介する。チームの面子も(経過はともあれ)同じような境遇の人間は多く、太郎子を良く可愛がった。
思い思いに髪を染め、ピアスをつけ、二輪を乗り回す彼女等にやはり太郎子はかなりビビっていたが、そこを新たな居場所と見出すのに時間はかからなかった。
こうして太郎子は不良の道を歩んでいく。
髪を茶色に染め、長スカートを履き、はすっぱな言葉遣いになり、舐められないことに心血を注ぎ、外泊が多くなった。
当然、級友からは腫れ物扱いになり夫妻からは非難されたが、どうせ元から無視していた人間とこんな名前をつけた張本人である、聞く由縁もない。
結局「まあ反抗期だろう」ということで片付けられ、夫妻としては生暖かく見守るという方針で落ち着くことになった。岡本薫という新しい住人の世話もあったことだし。
その岡本薫だが、普通に生きていた。
榊家に入る時は一礼し、以後ずっと居候としての分をわきまえて生活している。
趣味も恋人も見当たらず、成績優秀で家事も積極的に手伝っていた。高校へは通っているが、金のかかる大学進学は辞退している。理想的な養子と言えた(実際は養子縁組は結んでいない)。
ただし、榊家の夫妻も薫のことを随分と可愛がったが、彼はただの一度も笑顔を見せることはなかった。
それは首を吊った母親の件が後を引いているのだと、身内は解釈していたが。約一名だけは、そんなものではないと直感していた。
そんなある日。
榊太郎子十五歳、岡本薫十七歳の夏。



219 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:03:43 ID:055kfvnu

その頃太郎子は金に困っていた。
チームの一員として来年、姉御(太郎子を拾った女子高生。現在チームのヘッド)からバイクのお古を譲ってもらえることになったのだが。
誕生日に合わせて二輪免許を取るための金が、どうしても足りないのだった。
彼女たちは万引きやカツアゲをするようなチームではなかったため、仲間内で物のやりとりをするくらいで金はない。かといって両親に無心など不良としては死んでも避けたい。
となれば後は両親以外の身内だが、上の姉はこの時既に東京で結婚しているので無心に出向くのは難がある。次女にはダメ元で頼んでみたが
「不良のくせに姉のすねかじりに来るなんてどんな気持ち? 働きゃ良いじゃないか。ん? 厨房が雇ってくれないならパンツでも売ればいいんじゃね。大体金貯めてないお前が悪いだろ、プギャー!」
マジ喧嘩になった。太郎子はチームでは舎弟兼鉄砲玉のような位置にあり、気性の荒さは有名だ。殴り合いも随分強くなった。特攻隊の狼女と言えば少しは知られている。
別に嘘ばかり付くからではない。周囲には『ロウコ』と呼ばせているのも一因かもしれない。たぬき。
それもまた、後年の彼女にとっては拭いがたい黒歴史ではあるのだが。
さておき太郎子はどうしてもお金が必要であり、恥を忍んで両親に頭を下げたり御法度のカツアゲなどをする前に、もう一人だけ心当たりがあった。
彼女が声をかけたのは、両親は近所の集まりで出かけた夏休みのある日。障子を開け放った居間で薫がノートと教科書を積んで夏休みの課題をしている時だった。
「おい、お前」
「なんですか」
太郎子は薫の名前を呼ばない。用事がある時は常に「おい」で済ませている。対して薫も、家主はともかく年下にさえ常に敬語で接していた。
そのため二人は、親戚であり、同年代であり、同じ屋根の下に住む幼馴染みでありながら、妙な余所余所しさがあった。
薫は美しい少年に成長していた。
背はスラリと高く、野暮ったい黒縁メガネをかけてはいるが顔立ちは女性のように整っている。態度は常に礼儀正しく、こうして一人で書き物をしている時も正座を崩さない。
運動能力は並よりやや上程度だが、学力に於いては中学高校とトップレベルにあった。中学三年生で生徒会長を務めたこともあり、女生徒からの人気はかなりのレベルにある。
それでいて不思議なことに恋人はいない。太郎子はその理由について聞かれると、性格が最悪だからすぐ別れるんだと吹聴していた。
実のところ太郎子が中学入学して即いじめられたのは、当時生徒会長だった薫と同居していることに対するやっかみも含まれていたりする。
しかしそんなこととは全く関係なく、太郎子は薫を毛嫌いしていた。そもそも小さい頃から見知った間柄として、容姿などどうでも良い要素に過ぎないのだ。
それでも、そんな相手にすら頭を下げなければいけないのが今の太郎子の辛いところだった。
「あのよ、金貸してくれねえか?」
「幾らですか」
「十万」
「いいですよ」
あっさりと薫は頷いた。
びり、とノートを一枚綺麗に破き、ボールペンで何かを書き込んでいく。貸付人、借受人、金額、日時、返済期限。それは見る間に契約書の体裁を整えていった。
その様子を、太郎子はイライラとしながら見ていた。がしがしと爪を噛む。姉御にはやめろと言われている癖だった。
これについて紙に残すこと自体は、まあ良い。十万は大金だ。太郎子としても踏み倒すつもりもないが、不安に思うのも仕方ないだろう。
しかし薫は、これが百円だろうと同じことをしただろうという確信が彼女にはある。というか、実際やられたことがある。
ただのケチなら我慢もするが、太郎子が抱いている不快感はそういった物ではない。つまり
岡本薫は、榊家の人間に対して、何一つとして信頼や特別を抱いていないのでは?という疑惑である。
もっと言うならば隣人に対する最低限の思いやりすらなく、路傍の石ころのように見ているのではないのだろうか。
そんな風に感じてしまう以上、家族と言われても反発するのが当然だった。



220 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:04:16 ID:055kfvnu
「ところで、太郎子さん」
「あたしをその名前で呼ぶんじゃねえ!」
拳が飛んだ、体を倒してかわす薫。
彼はお互いの署名が終わった後、珍しく自分から切り出したのだった。
「進学はするつもりですか」
「ん、ああ、そりゃまあな。姉御の高校に行くつもりだけどな」
「準備はできているのでしょうか」
太郎子が挙げたのは地元にある女子校だった。偏差値は低く、彼女が慕う姉御を含むチーム面子の半数近くが在籍している。
とはいえ、幾ら偏差値が低いとは言っても受験勉強は必要だった。なにしろ太郎子は不良らしく授業サボりの常習犯である。成績は極限の低空飛行を描いている。
しかし身に染みついた勉強蔑視は拭いがたく、受験勉強など冬に入ってからで良いと侮っていた。彼女自身は知る由もないが、このままではまず落ちる。
「んなもんなんとかなるだろ」
「受験勉強は遅くとも既に始める時期に入っていますよ。良ければ僕が教えましょうか?」
「は……?」
間の抜けた声を挙げて、反射的に幼馴染みを睨め付けるヤンキー少女。ぎろりと、それなり以上の年季の入った眼光だったが薫は何処吹く風だった。
たしかに借りを返すのならこのいけ好かない男のために(主に暴力的な面で)一肌脱いでも構わないとは思っていたが、話の順序が逆だ。
「おい、あたしがお前を手伝うならともかく、なんで逆なんだよ」
「君の手助けが必要な事柄はさしあたって存在しませんが」
「ああ、そうかもしれねえな。けどそれなら何でだよ。お前はあたしに借りなんてない、わざわざあたしを手助けする理由もないだろうがよ」
ここで『家族だから』『知人として心配だから』という返答が返ってきたのなら、ツンデレ的な展開もあったかもしれない。
しかし岡本薫という少年に、そういうことを期待するにはあまりにも酷すぎた。
「いえ、ただ叔父さんと叔母さんに頼まれていますから」
「ああん?」
薫が言っているのは太郎子の両親のことである。血縁はもっと遠いが、便宜的に叔父叔母と呼称しているのだ。
直後
太郎子は、居間の真ん中にある低くて広い机を思い切り蹴り上げた。
ぐらり、と机が半ばまで持ち上がり、その後重力に従ってどすんと畳を叩いた。上に乗っていた教科書ノートやコップはばさばさがしゃんとまとめて落下する。
それが収まると太郎子は机の反対側に回って、麦茶で濡れた紙束の中から先刻の契約書を拾い上げてびりりと破り捨てた。
薫は無反応。
そうして、太郎子は激高した。
「っざけんじゃねえ! あのクソ親父どもが、あたしにこんな名前を付けておいて一体今更何様のつもりなんだ! あんまり舐めた真似してると、お前もろともバイクで引きずり回すぞ!」
「いや、君は自動二輪も免許も持っていないから無理でしょう」
ボディに一発。
物理的にうずくまった幼馴染を尻目に、太郎子は怒髪天を突いたままのしのしと居間を後にした。
庭の蝉が五月蠅い、ある夏の出来事だった。

そんな風にして、彼等の中学高校時代は過ぎていった。
結局、免許のための金はあちこちに借りて工面した。返却は高校生になってからのバイトと、腕力沙汰への助っ人行為によって賄った。
親から小遣いはもらっていたが、それを不良としての行動にはできる限り使わない、というのが太郎子の小さな意地だったのだ。
彼女があの時、あれほどまでに激高したのは何故か。
それは薫がはっきりと、両親の側に立っていると明言したからだった。
元々、自分にふざけた名前を付けた両親に反発するために不良をやっているような物なのだ(と、後になって彼女は分析している)
そんな身内が敵という状況で、心の何処かで(たとえいがみあう相手だとしても)薫には味方であって欲しいと願っていたのだった。
だから、両親の側だと明言したことで裏切られたと感じ、ヤンキー的に裏切りに対して激高したのだ。勝手な話である。
そうして、二人の間はいっそう疎遠になり。結局、十代の間にはほとんど話すこともなかった。




221 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:05:26 ID:055kfvnu

日々は過ぎていく。
姉御本人から諭された太郎子は受験勉強に奮起して、なんとか女子校に進学した。半年の鬱憤を晴らすために派手に暴れて補導されたりもした。
高校生になっても、太郎子は不良としての立ち位置を崩すことはなかった。
けれどその間も、彼女の周りの環境は大なり小なりゆっくりと変わっていく。
一つは(中学の時の話だが)上の姉が大学時代から付き合っていた恋人と結婚し、東京の方で新居を構えて子供を産んだこと。
太郎子も何度か、挨拶に来た相手を見たことがある。外見は悪くないが、若干心が捻くれていそうな青年だった。上の姉はほんわかとした母性の塊のような女性なので、相性は悪くなさそうだった。子供は猿みたいだと思った。
一つは、下の姉が地元の大学を卒業し、そのまま院生として留まったこと。
彼女は榊家においては例外的に理系方面で有能だった。それは大学でも貴重なレベルの才能だったらしく、将来は研究員を嘱望されているという。本人も研究というライフワークには乗り気で、滅多に実家に帰ってくることはなくなっていた。
一つは、岡本薫が高校を卒業し、榊家の両親の伝手を辿って隣町の商社に就職したこと。
あの慇懃無礼で営業なんて勤まるのかと太郎子は不審に思っていたが、実際に勤めてみれば飲み込みの異様に早い薫は社会人としてすぐに適応していた。所詮社会は仕事ができるかできないかである。
一つは、太郎子の慕う姉御が卒業を機にすっぱりと不良から足を洗い、チームを後任に任せたこと。
太郎子は現役メンバーでは最古参だが、ヘッドを譲られたのは別の少女だった。それが不満でないとなれば嘘になるし、実際にチームを割りかける騒ぎにすらなった。
そうして、それから。榊太郎子が高校三年生の秋。
両親が死んだ。

深夜の榊家。
夕方から夜にかけてひっきりなしに訪れていた弔問客も、すっかり途絶えた頃だった。その人数は、故人が生前に慕われていたことを示している。
軒先には赤々と提灯がともり、家にはまだ灯りがついているが、人の気配はまるでなかった。窓から路上に照らされる光が、ひどく空しい。
そんな榊家に、髪を染めた少女が玄関から入っていった。がらがらと戸を開け、勝手知ったるとばかりに玄関で靴を脱ぎ捨てて居間に向かう。
居間は調度品や机の類が片づけられ、白木の棺と焼香台、それから大量の座布団がしつらえられていた。棺は顔の部分が開いており、女性の顔が覗いている。
初老にさしかかってはいるが、まだ死ぬような年ではない。彼女は先月、夫の葬式をしたばかりだった。榊家の居間にこういうものが揃えられるのは二ヶ月連続となる。
夫は十年前から胃ガンを患っており、闘病生活の末に先週没した。延命治療は本人の希望で行われず、彼女は夫を支え続けて、最後は喪主を務めた。そうして納骨さえ済ませる前に、風邪を拗らせて後を追うようにあっさり逝ってしまったのだった。
棺から覗く死に顔は、化粧もあってまるで眠っているだけのようだった。
悄然と居間で立ちつくす太郎子に、背後から声が掛かる。
「やっと帰ってきやがったか、一番忙しいところを押しつけやがって。仮でも喪主なんぞやるもんじゃないな。さっさと焼香して私と番を代われよ」
「ちい姉……」
振り向けば、次女がアクビをしながら台所から出てくるところだった。喪服姿で夜食のカップヌードルを手にしている。右手には割り箸。
母が死んでいるのを見つけたのは太郎子だった。
父の葬式が終わってから、長女と次女が子供の世話と研究のために帰った後。母はここ数日、体調が悪いと臥せっていた。
薫も仕事があり、太郎子も(一応)学校がある。そうしてその日、太郎子が帰ってくると母が布団の中で冷たくなっていた。
死に顔は安らかだったと彼女は記憶している。それ以上はわからない。薫に電話してすぐ、逃げ出したからだ。
「薫だったら寝てるぜ。医者に連絡に手続きに業者の手配、全部こなして流石に疲れたみたいだな。姉貴は旦那と一緒に明日の朝には着くとよ」
「んだよ……じゃあちい姉何もしてねえじゃんか」
「ふああ……馬鹿妹、客の相手でどれだけ頭を下げたと思ってるんだ。しかもこっちはレポートの提出で徹夜明けだったんだぞ」
「ああそうかい」
のろのろと正座して、太郎子は香を摘んで香炉に撒く。つんと、線香の臭いが鼻を突いた。
手を合わせて黙祷。
沈黙。
「で、お前は一体何をしたかったんだ?」
「……わりい」



222 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:06:25 ID:055kfvnu
「ああ、いや、勘違いするんじゃないぞ。別に今日トンズラこいたことじゃあない。私だって母が死んでればビビるだろうさ。
 そんな風に親父とお袋に意地を張って、一体何をしたかったんだってことだ。
 名前なんて今更だろ。慣れる奴は慣れるし、それを理由に弾圧してくるのは元から下衆なだけだ。それ以上でも以下でもない。
 そういう連中に対してDQNになって対抗するってなら、まあ正当防衛かもしれないな。
 けど、その責任が本当に、親父やお袋にあると思ってたのか? お前はただ責任を転嫁したかっただけじゃないのか?
 まあ、お前が何を訴えたかったのかは知らんがな、どっちにしろもう伝わらん。墓に布団は着せられぬ だ。
 で、太郎子。お前は一体何がしたかったんだ?」
「……説教かよ」
「説教さ。現状、不本意ながら私に役が回ってきたんでね。それにしても幾らおしどり夫婦でも、仲良く逝かれると本人は良くても残された方は迷惑だな」
ずるずる、と次女が麺を啜った。それを食べ終わるまで、太郎子はじっと手を合わせて黙祷している。
この時、彼女は既に不良から足を洗うことを決めていた。
次女の言う通り、名前に対する劣等感はほぼ消えている。それは気にせず付き合ってくれた、チームの仲間のおかげだった。
そのチームでも、現在の太郎子は外れたところにいた。元々太郎子を可愛がっていたのは姉御を中心とした先代のグループであり、彼女の帰属意識もそちらにあった。チームを割りかけたのもいわゆる派閥の問題だ。
抗争のようなものも当分なさそうで。現状、特攻隊長的な太郎子が必要かと言えば、そうではないのだ。むしろ邪魔ですらある。


223 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:06:47 ID:055kfvnu
ところで次女との姉妹話はもう少し続きがあった。
焼香を終えた太郎子がカップラーメンで軽く食事をとっていると、ふと次女が切り出した。
「ああ、そういえば薫をくれ」
「はあ?」
「親父とお袋が死んで姉貴は嫁入りとなれば、資産の管理は私に来る。相続税で大分減るが、それでも結構なもんだ。
 しかし私は研究に専念したいんで、そんな面倒ごとはごめんなんだ。だから管理と運用は奴に丸投げしようと思ってな」
「ああ……まあ、よくわからんがいいんじゃね?」
あまり興味もなさそうに太郎子が生返事を返す。母親が死んだ後に遺産の話をする姉に若干腹が立っていた。
榊家は幾つか不動産を所有しており、両親は副業としてその運用でそれなりの収入を得ていた。生活は標準だが小金持ちの部類に入るだろう。
とはいえ榊家の人間は金銭欲が薄いらしく、遺産を巡って骨肉の争いなどにはならなかった。父親が死んだ時点で、各自相談して権利の大部分は次女が相続している。
長女が他家に嫁入りしたので、次女が婿を取って榊家を継ぐという約束をしていた。資産の運用は当分母が行うはずだったが、それだけは予定がずれている。そこで次女が白羽の矢を立てたのが薫だった。
「ただ、家族同然とは言え奴はただの居候だからな。あまり大金を預けるのも問題がある。大体どこかに婿入りでもされたら、また一から選び直しだ」
「はあ……で?」
「ならば簡単だ。薫を、正式に榊家の人間にしてしまえばいい。幸い、親父と養子縁組は結んでいないからな。結婚は可能だ」
「は……はあっ!? け、結婚て、誰がだよ!」
「当年とって二十五歳。何ら問題のない適齢期だろう」
次女の年齢である。ちなみに長女が三十一、薫が二十、太郎子が十八となる。
その時、太郎子の胸中に沸き上がったものは嫉妬――――などでは、断じてなかった。
何よりも彼女が強く感じたのは『正気か!?』という驚愕である。それだけ、太郎子にとって薫は恋愛対象として有り得なかった。
兄弟同然に過ごしてきたから、ではない。一度たりとて兄と呼んだことも思ったこともない。
単純に女として『いくら顔がよくてもこいつだけはない』と評価しているだけだ。
太郎子とて年頃の女子である。仲間内で少女漫画の回し読みはよくやった。異性に縁などなかったが、恋に憧れる気持ちはある。
それでも太郎子にとって岡本薫は有り得ない。故に姉の言い出したことに正気かと問うたのである。
「お、おいおい正気か? 奴だけは有り得ないだろ。そんなに男に飢えてるのかよ?」
「理系の研究職など男社会の最たるものだ、言い寄ってくる輩などいくらでもいる。お前と一緒にするんじゃない」
「んじゃ、あいつのことが好きなのかよ?」
「んー、それなりの親しみはあるが恋愛感情まではいってないな。まあお互い静かなものだからな、それなりに相性はいいだろう」
「静かっておい、あれはそういうのとは違うんじゃね?」
薫があまり喋らないのは静寂を好むというわけではなく、言うべきことがあるときにしか喋らないだけだと太郎子は見抜いていた。
しかも話す時は結論から口にするから他人にとってはわけがわからなくなる。
ただし偏屈な部分は次女もまたお互い様だ。というか、口を開けば長広毒舌ばかりで太郎子としては『静かとかギャグで言ってんのか』と言いたい。
大体、とてもではないが恋愛沙汰に向いているとは思えない二人だ。割とうまくいくか、即倦怠期のどちらかだろう。
「なんだ嫉妬か? 姉妹から同時に迫られるなんてどんなギャルゲーという感じだが、それならそれで堂々と……」
「んなわけがあるか馬鹿姉が! 勝手に結婚でも何でもしてやがれ!」



224 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:07:22 ID:055kfvnu
この時、本当に
榊太郎子は、岡本薫に一片たりとも恋愛感情はなかったし、嫉妬があるとしたら『幸せになりやがって』という薄暗いものでしかない。
むしろ彼女にとっては姉のほうが好敵手とでも言える存在だったため『おいおい、あんな相手で大丈夫かよ』という妹心的心配のほうが大きかった。
とはいえ本人の自由なのだから、と太郎子は距離を置くことにする。
葬式が終わった後、太郎子はきっぱりと不良から足を洗った。
筋金入りの硬派だった太郎子の変遷にメンバーは戸惑い、いくらか波風は立ったが特に問題もなく抜けることができた。自発的にけじめをつけようとする太郎子の方が止められたぐらいである。
そうしていささか時期は遅かったが彼女は受験勉強に入り、東京の方の短大を受けて合格した。
大してレベルは高くない。上京するためだけのような進学だ。下宿先を引き払って実家に戻ってきた次女に気を利かせたということもあるが、何より過去の自分を知る人間がいない場所で、一から出直したかった。
名前のことは何とか克服した太郎子だったが、両親が死ぬまで突っ張ったことに対する後悔から、今度は不良の過去が触れられたくない黒歴史となったのだ。
上京した彼女は髪を黒く染めなおし、言葉遣いもヤンキー言葉から改めた。家事にはまったく自信がなかったので長女の家庭に居候したが、逆にみっちりと家事を仕込まれた。とはいえ、この経験は主婦となってから生きることになる。
ついでに、喋りがうつった。
「は~い、太郎子ちゃん。今日もご飯の支度手伝ってね~」
「おう、しゃーねえ……じゃない。うん、わかったわ」
榊太郎子という人間は
良く言えば一本気だし、悪く言えば騙されやすい人間だった。何かに影響を受けた時、疑いもせずに染まってしまう性質がある。
だからこそ、後で目が覚めた時にやってきたことに丸ごと後悔するのだが。彼女は黒歴史として封印してしまうので、全く改善されずに繰り返すのだ。
ところで、更生した太郎子だが。短大に通う内に、当たり前のようにまたハマったものがあった。
同人誌である。



225 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:08:04 ID:055kfvnu

切っ掛けは、短大でできた最初の友人が弱小サークルの同人作家だったことである。運の尽きともいう。
仮に友人Aと呼称しよう。ぐるぐるメガネと野暮ったい三つ編みがチャームポイントの女史は、それなりに仲良くなってから太郎子にアシスタントの要請をし、彼女は快く了承した。
内容がハードなエログロ触手ものだと知ったのは部屋に招かれてからである。悲鳴を上げた。新世界へようこそ。
それまでその手の文化にさっぱり無縁だった太郎子だが、友人Aが頻繁に鑑賞会を開催したりBOXを貸し出され、また女史のサークルアシスタントを繰り返す内に急速に洗脳、もとい理解が進んでいった。
短大二年目に入る頃には正式なサークルメンバーとなり、榊太郎子の同人阿修羅生活が幕を開ける。
もちろん、彼女は絵心など持ち合わせていない。短期集中で仕込まれたのはベタやトーン、せいぜいが背景の書き込みである。請け負ったのは主に雑務で、買い出しや掃除に炊き出し、書類の申請や印刷所への連絡などである。
それからもう一つ。同人誌などよほどの大手でなければ赤字決済が当たり前で、損失を埋めるために太郎子は居酒屋でバイトを始めていた。
もちろん他のメンバーも補填は行っていたが、太郎子が半分近くの貢献をしている。そのことについて、友人Aと少し揉めたこともある。
「太郎子ちゃん……そんなにお金入れてくれなくても……ていうか、悪いよ……」
「大丈夫よ、他に趣味なんてないし。それに私は絵を描いてないんだからその分貢献しないとね」
「でも、太郎子ちゃんが一番後に入ってきたのにどうしてそこまで……えっ、もしかして……好きな人がいる、とか?」
「いやいやいやいや~、サークルメンバー全員女じゃない。レズとかないから、ね? ね?」
「そうなんだ、よかった……」
太郎子の感覚からすれば、それは大しておかしなことでもなかった。
元々彼女は(いくら黒歴史として言葉遣いを改めようと)ヤンキーである。犬の群のように、自分の事情よりも所属する社会を優先する傾向が強かった。
居心地の良い場所というものがどれだけ貴重で心休まるものか思い知っている太郎子にとって、金や労働を納めることは義務ですらあったのだ。実際、彼女は喜んでそうしてきた。
実のところ太郎子は、不良であることや同人活動そのものに対しては、強い思い入れがあるわけではない。それが居場所を提供してくれるルールであるからこそ従事してきたのであり、だから割と簡単に足を洗うこともできるのだ。
太郎子の貢献もあり、サークルは弱小と中堅の境目位までは成り上がった。太郎子が友人Aと揃って留年してしまい、長女に懇々と諭されたりもしたが。
サークル同士の交流が増え、合併という形で規模も拡大した。活動三年目を迎えた頃、太郎子にとってショッキングな出来事が起きる。
友人Aに恋人ができたのだ。
相手は、以前から交流があり、合併相手ともなったサークルの美大生。どうしてこんな世界にいるのかよくわからない好青年だった。
正直、一体いつからアプローチがあったのか、太郎子は全く気付かなかった。それどころか青年に淡い好意を抱いていたぐらいだ。卒業したら結婚するとのことだから、相当進んでいたのは間違いない。
太郎子は不意に、猛烈な危機感を覚えた。はっきり言って友人Aは冴えない女である。外見も性格も、地味という表現がそのまま当てはまる。心の何処かで、自分は彼女よりはマシだと安心していたのは否めない。
それが女として後れをとった。もしかしたら自分はこの先結婚できないのではないのか、こんなことをしていて良いのか、という危機感である。
太郎子が初めて抱く、将来への不安だった。この時二十一歳。焦るにはまだ早すぎたが思いこんだら一直線である。
ちなみに。後日、飲み会の際に件の青年に友人Aを選んだ理由を聞いてみたところ曰く「いやあ、俺ってメガネッ娘萌えなんで」とのことだった。



226 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:08:36 ID:055kfvnu

短大卒業と同時に太郎子は同人活動からも足を洗った。当初は卒業後も何年かはフリーターをしながらサークル活動を支えるつもりだったが、最早自体は緊急を要する(と思いこんでいた)
友人Aは家庭に入っても同人活動を続けるそうで、既に筋金入りだった。女としての勝ち負けはともあれ、太郎子と友人Aの間には以後長きに渡る友情が続いている。
結婚に向けて行動すると決めた太郎子は、まず身の回りを綺麗にした。具体的には、同人活動の痕跡を全て黒歴史に放り込んだ。その世界で三年生き、一般人にはとても受け入れられない趣味だと理解している故である。
とはいえ、意中の男性がいるわけでもない。さしあたりの行動に困った太郎子は、卒業したことだし一度実家に帰ることにした。長女とその家族に丁寧にお礼をし、三年世話になった家を後にする。
そういえばあれから連絡はなかったが、次女は予定通りに薫をコマしたのだろうか。あいつを義兄さんとか呼ぶのは嫌だなあ。
そんなことを思い出しながら帰省した太郎子を待っていたのは、榊家で一人暮らしをする薫だった。
「へ?」
「お帰りなさい、太郎子ちゃん」
「い、一体どうしたの?」
「貴女が一体どうしたんですか」
上京する前後の太郎子のビフォーアフターぶりは、薫を以てして戸惑わせるのに充分だった。すぐに慣れたが。
対して岡本薫は三年前とほとんど全く変わっていなかった。貫禄というものが着いてきたぐらいである。病は気からというか、この影響されにくい青年は他人よりも老化が遅い傾向にある。
さておき、次女は一体どうしたのかといえば一年前に、どこかにある研究所に勤めるために家を出ていったとのことだった。早速電話をしてみると、例によって毒舌の次女が出た。
『ああ、なんだ誰かと思えば太郎子か。ということはあの話だな』
「わかってるなら話が早いわ。婿入りの話はどうなったのか教えてよ」
『誰だ貴様。というか、姉の喋りがうつってるぞ、気持ち悪いな』
「よけいなお世話よ」
ヤンキーな過去など黒歴史である。
三年ぶりの心温まる姉妹の会話は結局大して実りもなく終わった。婿入り云々の話になると、次女が異常に不機嫌になるのだ。終いには『本人に聞け』と電話を切ってしまった。
しかしそれだけでも、今の太郎子にはぴんと来た。今の太郎子自身が直面している問題でもある。
つまり次女は振られたのだ。それも他の女性がいるという、極めて屈辱的な理由だろう。なにしろ自分を全否定されたに等しいのだから、それは不機嫌にもなる。
太郎子は心底次女に同情した。今度酒でも一緒に飲もうと心に決める。いがみ合ってばかりの相手だったが、初めて肩を組めそうだった。
同時に、薫が選んだ相手というのも気になった。なにしろ木の股から生まれてきたんじゃないかと(母親を目にしているにも関わらず)思う程に朴念仁な男である。そもそも岡本薫に物理的に可能なのか、という次元だ。
聞いてみる。
「確かに婿入りの申し入れはありましたが、辞退させてもらいました。資産の管理は行わせてもらっています」
「それって、もう決めた人がいるからでしょ?」
「そうですね。約束した人がいますから」
「へえ~。それってどんな人なの?」
「貴女です」
「――――は?」
榊太郎子、生涯最大の衝撃だった。
ショックと黒歴史の繰り返しだった彼女の人生だが、以前にも以後にも、これ以上の衝撃はなかった(黒歴史なら最大がある)
繰り返しになるが、太郎子は薫に一片たりとも恋愛感情など抱いていない。また、薫に物理的にそういったアクションが可能だとも思っていなかった。
それが一体どうして、そういう話になるのか。
続く会話でその疑問は氷解する。
「え、あ、いや、で、でも、だって、や、約束なんて、してない……よね?」
動揺しすぎである。
小さな頃に結婚の約束をしたというのは、少し前まで太郎子のいた世界では鉄板とも言えるパターンだったが、覚えている限りそんな記憶はない。
しかし憶えていないと言うのもパターンの一つである以上、断言できずに不安な言い回しになるのは仕方がなかった。
とはいえ実際のところ、太郎子と薫の仲は出会った当初から全く変わっておらず、そんな約束は交わす余地が存在しない。
「はい。約束をしたのは貴女ではありません」
「え、じゃあ、え、ど、どういうこと?」
「約束したのは叔父さんと叔母さんです。太郎子をよろしく頼む、と」
「ああ~、なるほど~」
三年の封印を破って太郎子アッパーが炸裂した。



227 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:09:09 ID:055kfvnu

既に夫妻が死んでいる以上、確認すべくもない話だが
岡本薫という少年は榊家に買われてきた、ということなのかもしれない。
衣食住と進学の世話を受ける代わりに、榊家の礎となるという未来を強制させられたのかもしれない。
であれば、引き取りながら養子縁組を結ばなかった理由もつく。そうすれば、榊家の娘とも婚姻が可能なのだから。
そうして、何故夫妻がそこまでしたのかといえば。
彼等が出来心で奇天烈な名前を付けてしまった娘に対する、人生の補償だったのかもしれない。
普通に考えて。太郎子、等という女性は結婚相手として名前の時点ではねられる。ならば手前で用意してしまえば確実だ。
そのために、岡本薫は榊家に買われてきた。
そういう考え方もある。
既に夫妻が死んでいる以上、確認すべくもないことだが
少なくとも、薫本人はそのように判断していた。

揉めた。
これほど揉めたことも、彼女の人生で初めてである。
両親が薫を引き取ったり、不良としての道を邁進したり、同人活動について長女に怒られたり、彼女の人生は身内との揉め事が多かったが。それらのレコードを軽々と塗り替えた。
将来に直接関わる重要事だと言うこともあるが、何よりの原因は太郎子が極度に感情的になり、薫が全く退かないことにあった。
それでいいのか。
いいですよ。
なにがいいのか。
質問の意味がわかりません。
だから、その、それでいいのか。
質問の意味がわかりません。
そんな、そんな人生で良いのか。
構いません。
どうして。
別に。
別に!?
いえ。

いい加減、太郎子も気付いていた。
この男は物事を極めて客観的に見ることができるが、それはつまり、自分を含む全てのものに全く価値を見出していないからなのだということを。
石ころを見るような目で見られたとしても、それに腹を立てるのは筋違いだ。
何故なら、薫は自分を含めたあらゆるものに、石ころ以上の価値を見出してはいないのだから。ここまで平等な人間はそうもいない。
端的に言うと頭がおかしい。
どうして薫がそんな人間になったのかは既に知る由もない。元々生まれつきだったのか。母親から虐待を受ける内に自己防衛のためにそういう精神になったのか。
どちらにしろ、この青年は既に石より固まってしまっている。それを溶かす方法など見当も付かない。
それに、理性でのみ判断して結婚を主張すると言うことは、太郎子にはこの先恋人はできないと判断しているに等しい。冗談ではなかった。
(とはいえ実際、太郎子には異性と知り合う繋がりはともかく、積極的にアプローチをかける勇気などなかった。所詮女社会で生きてきた箱入りである)
また、この頭のおかしい男を押しつけられてはたまらない、という生臭い気持ちも当然ある。適当な担当先としては次女がいるのだ。気分はババ抜きである。
ただし身勝手な話だが、心揺れる気持ちも確かにあった。薫に対する恋愛感情などでは断じて、ないが。
なんだかんだ言ってもこの青年は美形である。収入も安定しているし将来も有望だ。スペックだけなら太郎子が今まで会った人間の中でも屈指を誇る。
しかし、なにより太郎子を揺さぶったのは。もしかしたらこの機会を逃したら、金輪際結婚などできないのではないのかという思いこみである。その不安が時間を経るにつれ徐々に太郎子を蝕んでいく。
悪いことにこの件については誰にも相談できなかった。長女は「薫ちゃんは太郎子ちゃんのことが好きなのね~」と話にならない誤解をしているし、次女に至っては「知るか、氏ねっ!」と罵倒が帰ってくる。
友人Aはこの件については最大のライバルであり完全結婚肯定派に転向している。結局太郎子が『そんなに焦る必要はなかった』と気付くのは結婚後だった。まさに死ぬ程後悔したが後の祭りである。



228 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:09:53 ID:055kfvnu
結論から言えば、太郎子は折れた。
トドメとなったのは友人Aの結婚式で。一張羅を着て東京にまで出向き、嫌になる程仲睦まじいところを見せつけられ、ブーケまで頂戴した彼女は独身仲間としこたま呑んだ。
ぐでんぐでんに酔っぱらった太郎子が、タクシーと新幹線を駆使して榊家に帰ってきたのは深夜である。おぼつかない足取りで家に入り、ぐっすりと寝ている薫にエルボードロップをかまして叩き起こした。
開口一番、近所迷惑にも叫ぶ。
「結婚したいーー!」
「はあ。ではしましょうか?」
「仕方ねえな、結婚してやるよ。けど勘違いするなよ、別にお前のことが好きでもなんでもないんだからねっ!」
「そうですか」
薫にツンデレネタなど通じるわけもなかった。
ともあれそんなわけで、榊太郎子二十一歳と岡本薫二十三歳は結婚することと相成る。思いっきり酒の勢いである。
もちろん翌日の太郎子は二日酔いの頭を抱えながら盛大に後悔したが、結局訂正はしなかった。頭痛で気力が沸かなかったせいもあるが、幸せそうな友人Aの姿に心底打ちのめされたのが最大の原因である。
一度決まってしまえば、式の段取りはとんとん拍子に進んだ。この手の段取りにおいてもやはり薫は有能だった。片方の親族が全くいなかったのも話の早かった一因である。
その間、太郎子には全く自覚もなかった。彼女のやっていたことといえば、花嫁修業と称して家事をしながらバイト情報誌をゴロ見するという、それまでとあまり変わらない日々ものだった。未だに処女である。
そうして、結婚式の日取りになった。
式は神前式で行われた。出席は身内のみで、長女夫婦に次女、それから親戚が幾人か。新郎側の親族は一人もいない。
白無垢に身を包んだ太郎子は、この期に及んでぽかーんとしていた。なんで自分がこんなところにいるのか、考え直してみてもさっぱり分からないのだった。実際、必然性も愛もなく、ただの惰性と妥協である。
新婦の魂が抜けていても式は粛々と進み、人生で最大の晴れ舞台ともいえる時間は何の感慨もなくあっさりと終わった。薫は榊家に婿入りし、榊薫となる。
そうして
榊太郎子にとって、それまで黒歴史に放り込んできたツケをまとめて支払わなければならない最悪の時間が幕を開けた。
披露宴である。



229 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:10:23 ID:055kfvnu
披露宴は婚礼会社のホールを貸しきって行われ、それなりに盛況だった。
まず客層がおかしい。
新郎の勤め先の上司や同僚、姉夫婦に次女と親類、友人Aとその夫はともかく。
妙に貫禄のある女性を筆頭に、目つきの悪い明らかに元レディースと思わしき集団が会場の一角を占拠していた。会場にバイクで乗りつけたのは、中学高校時代の新婦の『友人』である。高校の制服姿を着た少女までいる。現ヘッドらしい。
かと思えば、反対側に固まっている妙に統一感のない同年代の男女は「義理の美形メガネ兄と結婚とかなん乙女ゲー? 兄妹もの?」「幼馴染キャラ隠しておくなんて太郎子ひどいよねー」等と一般人には意味不明な会話をしている。百戦錬磨の同人作家たちである。
浮いた空気が混ざり合い、ひどいことになっている。太郎子の経歴のカオスさを示す良い指針といえた。
友人Aと姉御は別格として、どちらの方々も太郎子にとっては黒歴史に封印したまま二度と出てきてほしくなくなかった人種である。
事前に太郎子は式場案内を用意する薫を殴ってでも止めるべきだったのだが。魂が抜けていたせいでそんなことすら思いつかなかったのだ。後悔先に立たずとはまさにこのことだと新婦は影でのた打ち回った。
そうしていよいよ地獄が幕を開ける。
口火を切ったのは次女だった。両翼を警戒していた新婦にとっては後ろから撃たれたに等しい。最初の一撃がすでに致命傷だった。
何をしたのかといえば、新婦の半生を写真入りで振り返るドキュメンタリーを上映したのだ。結婚式の常套であり普通の人間にとっては気恥ずかしい程度でも、黒歴史の塊である太郎子にとってはそれどころでは済まない。
『両親は男の子のように元気に育って欲しいという願いを込めて、太郎子と名付け――――』
『友達の少なかった新婦ですが、中学に入って流行のイメチェンをしてからはこのようにたくさんのお友達が――――』
『短大では一転して文系活動に取り組み、同人もとい自費出版の様々な創作物を即売会で販売し――――』
爆笑の渦である。
ちなみにナレーションを行っているのは次女本人。自分に恥をかかせた弟妹に復讐するために、実に一年も前から調査編集してきていたのだった。非常に楽しそうである。
会場が程良く暖まったところで、打ち合わせをしていたとしか思えないように来賓が一斉に動き出す。
当時の太郎子の武勇伝を、元レディース達が次々と語ったり(最後は現ヘッドが特攻隊長称えて締め)
友人Aが太郎子をモデルにした同人誌をプレゼントしたり(曰く「大丈夫……触手は浮気じゃないから……」)
オタク連中が太郎子のためと称してアニメソングをデュエットで延々と歌ったり(「私の彼~は、パイロット~」)
今はミュージシャンを志しているという姉御が、ギター一本でバラードを唄ってくれたり(これには太郎子も普通に涙ぐんだ)
気が緩んだところで、長女が懇切丁寧に高校当時の思い出を振り返って(無自覚に)閉じかけていた傷口を更に抉ったり。
太郎子は信号機のように赤くなったり青くなったり白くなったりし、終いには拳を振りかざして切れかかったが「お色直しでござる、お色直しでござる」とその度によってたかって押さえつけられては休憩となった。
この日の出来事は、結婚したこと自体も含めて、彼女の中で最大の黒歴史となる。
最悪も良いところだった。



230 未来のあなたへ10.5 sage 2009/08/06(木) 01:11:51 ID:055kfvnu

榊太郎子の最初の二十年はそんな風にして過ぎていき、恐るべきことに後の十数年も似たような調子で過ぎていった。何かの星を背負ってるとしか思えない。
問題が山積みのままで結婚した夫婦であり、それを乗り越えていくための愛すらなかった。
ただしお互いのことは嫌と言う程に理解しており、幻想などは欠片も存在しなかったために現状維持は容易く続いた。元々家族同然の関係だったのだ。
それでも少しずつ変化は訪れていった。
「最初に約束して欲しいことがあるんだけど」
「なんでしょう」
「そう、それよそれ。あのね、身内では敬語はやめて」
「そうですか、わかりました…………いや、わかった」
「(あら、結構新鮮かも)」
「それでは今日はもう寝ようか。明日から旅行だから早く休んだ方がいいだろう」
「新婚初夜よーっ!」
とにかく、彼女の夫は何かが欠落しているとしか思えない朴念仁で、その度に太郎子は躾に忙殺された。
子供の世話などその最たるもので、幸せな子供時代も父親も知らない薫は「子供の世話は君に任せる」とテンプレ通りの発言をしてしばかれたこともある。
愛想が尽きかけたのも一度や二度ではない。というか、尽きたとしても何も変わらない。最初から倦怠期が続いていたようなものだ。
それでも
息子と娘を産み、育てていく内に家庭は紛れもなく彼等の居場所となっていった。
太郎子はいい加減この夫に対して悟りを開いて丸くなっていたし、その性質を発揮して居場所を守るための努力を惜しまなかった。
薫も当初と比べれば段違いにマシになっていき、特に息子に対しては愛情めいたものを示すようになるまで変化していた。
後に娘が、父と自分を同類だと評しているが。太郎子に言わせれば娘の性格など(多少ブラコン気味ではあるが)全然普通の範囲である。麻痺している。
ともあれ
夫の奇行もマシになったし、息子も娘も恋人の影すらないが、非行に走るでもオタク趣味に精を出しているわけでもない。
結婚して十数年。ここ数年は大きな事件もなく、彼女はそれなりに幸せな家庭を手に入れようとしていた。
燃えるような恋は知らないが、夫と家族を含めた居場所というものを愛している。それで良いと納得できていた。諦めとも言う。


だが運命は非情である。少なくとも、榊太郎子の頭上に輝く星はかなり残酷なタチをしている。
ある夜。週に一度、夫婦で外食をする日。レストランで食事をした後の雑談にて
「ところで君に提案したいことがある」
「はいはい、なあに?」
「離婚しないか」
「ぶーーーっ!?」
啜っていた食後のアイスコーヒーを盛大に吹き出す妻。夫の美形が台無しになる。
もう何度目かは忘れたが、榊太郎子の人生は再び風雲急を告げつつあった。

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最終更新:2009年08月10日 21:28
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