506 名前:
未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:51:22 ID:c8Jl7Oam
その日、榊優香は部活を休んだ。
理由は、昼休みの終わりごろに母親から『お願いしたいことがあるんだけど、今日早目に帰ってきてくれないかしら』という電話を受けたからである。
兄と帰れないことに若干腹も立てた優香だったが、母との仲は良好なので申し出を受けることにした。機嫌がよかったこともある。
最近の彼女はとても充実していた。愛する男を起こし、お弁当を作り、一緒に登校し、昼食を一緒にしながらいちゃつき、部活に打ち込んだ後は手を繋いで下校する。
日々エスカレートする欲求は概ねのところで受け入れられており、相手も満更ではなさそうだった。非常に良い傾向である。
このまま行き着く所まで行けるだろうと、優香にしては珍しく事態を楽観していた。
それはもしかしたら、彼女が人生に希望を抱いた初めてなのかもしれなかった。
榊優香が部活を休んだのは、そんなある日のことである。六月の最後の日、本格的な夏が始まる季節のことだった。
薄く汗をかきながら帰宅した優香を出迎えたのは、リビングでぼんやりとテレビを見る母だった。
娘に気付くと慌てたように冷たい麦茶を入れたが、特に作業中というわけでもなさそうだ。わざわざ呼び出したにしては妙な様子だった。
「ごめんね、優香ちゃん」
「いえ。それでなんですか、母さん」
優香にとって、母親は『呑気な人』というイメージがある。
馬鹿正直で騙されやすく、忘れっぽくて能天気。のんびりした言動だが突発的な事態には感情的。
総じて夫とは正反対の性格としており、母らしい母であり人間らしい人間だった。
二人の子供の内、娘の方を特に可愛がっており。優秀な娘を自慢する姿は凡百の母親と何一つとして変わりはしない。
優香としてもそれらの要素は最愛の男との遺伝を強く感じさせるものであり、概ね好意的に受け入れていた。
母の提案に娘が付き合う形で両者は時々買い物に出かけたり、良く料理を一緒に作ったりしている。問題なく良好な親子関係と言えた。
優香にとっての母親は、徹頭徹尾普通の人間である。それはほとんど合っているが、侮っていないと言えば嘘になる。
「あの……その、ね」
「なんですか」
「優香ちゃんは、その…………健太と付き合ってるの?」
「――――――」
507 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:52:09 ID:c8Jl7Oam
油断していた。
この数週間は何もかもが上手く進み、天が味方しているのではないのかと楽観していた。
世界を敵に回すと決めた少女は、あらゆる全てに気を許せないはずだった。
けれど彼女は誰もがするように日々を満喫することを、この歳になってようやく許されていた。
しかし、それを油断と称するのは酷だろう。人生で初めて訪れた祭りのようなものだ。いずれ必ず終わる時間に、踊らないのは勿体なさ過ぎる。
それでも、榊優香は即答した。
「付き合う、ですか? よく意味がわからないのですが、時々は遊んでいますよ」
「その……男女として、よ」
「は? 私と兄は正真正銘の兄妹です。そのような関係はまず有り得ないかと思いますし、ついでに言うなら兄は大して魅力的な人間でもありませんよ」
「…………」
優香は母の問いを、馬鹿げているという口調と論理で否定した。
実の兄妹である。兄は大して魅力的な人間ではない。そのどちらも事実だが、恋人には成り得ないというのは彼女が全力を以て否定しようとしている論理だった。とはいえ一般の常識で計るのなら嘘ではない。
至極当たり前に反論された榊母は、杞憂だったと納得するのではなく、更に表情を暗くした。
脇に置いてあった封筒を手繰り寄せ、内容物をテーブルの上にバサバサと広げた。今度こそ完全に、ダイニングの空気が凍り付く。
テーブルの上に広げられたものの大部分は、榊健太の写真だった。色々なところからかき集めてきたのだろう。年代も服装もバラバラだった。ただしそれだけなら問題はない。
問題は、優香はそれらに見覚えがあることだった、見覚えのないわけがない。
それらの写真をかき集めてきたのは、他でもない榊優香自身なのだから!
他にも封筒の中から出てきたのは箱状の盗聴器の写真。
それから以前に作成した行動計画書と、最悪なことに(捨てるつもりだった)収集物を納めた写真もある。
それらの現物は全て、優香の部屋で厳重に隠匿、保管してあったものだ。もちろん部屋の扉を初め、全てに錠をかけて。つまり
「あの人がね、優香ちゃんの部屋を破って、探してきたの。そういうことをしたのは謝るわ。けど、けどね」
「…………」
「優香ちゃん。貴女は本当に、健太のことが好きなの……?」
榊母の口元が引きつっている。信じられなく、信じたくもない事実を前にして。それから、はっきりとした嫌悪感によって。
両親に自分の禁忌が知られる。それは彼女のような人間にとって、最大級の破滅ともいえる事態だった。
優香は少しの間目を閉じて、全てをひっくるめて思索した。この何週間の充実感を、愛する人間と共に培った暖かさを。
それらに一体何の意味があったのか、死を前にするような人間が考えることを整理していた。
一つだけ確かなことは
今、それが、終わったということだ。
そうして榊優香の地獄が口を開ける。否。彼女は本来いるべき場所に戻ってきただけだった。
「父さんは……どうしたんですか?」
「いないわ。あの人は、その……すぐ、貴方達を引き離した方が良いって言うんだけど……」
そのための手段として離婚という結論から話し出した榊父は、コーヒーまみれになった上に盛大な平手を食らった。
端から見れば痴情の縺れだったことだろう。
榊母としてはそんな極論はくそくらえであり、それがこの単独無断会見に繋がっているのだった。
話せばわかるという、家族に対する信頼が彼女の根底にはある。
「ね、優香ちゃん。そんなの止めよう? そうすればあの人も私も、これ以上は何も言わないわ。大体、兄妹を好きになるなんておかしなことなのよ?」
「そうですね」
野良猫を撫でるような説得に、答えた優香の声音は思いの外平静だった。
目を開けた彼女が母に向ける眼差しも、声音も、表情も、普段のものと何一つとして変わりない。
優香と榊母は、それなりに仲の良い母娘だった。たまには一緒に買い物もするし、良く一緒に食事も作る。
母は娘を特別可愛がったし、娘もそれなりの親しみを母親に感じていた。
その普段通りの態度で、優香は
「ところで母さん。常々思っていたのですが。貴女は呑気な人ですね」
「え?」
攻撃に移った。
508 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:52:37 ID:c8Jl7Oam
優香がやったのは。脚を伸ばして母の座る椅子の足を甲で引っかけ、テーブルの端を掴んで思い切り前に押しつけることだった。
ズズズズッとテーブルと床がこすれて音を立てる。
対面の椅子に座る榊母は当然胸をテーブルに押しつけられ、呼吸を圧迫しながら下がろうとする。
しかし椅子は優香によって引っかけられており、移動しようとする上半身と留まろうとする下半身でモーメントが発生。
ぐらりと椅子ごと榊母は転倒した。
「きゃっ………あぐっ!」
椅子の凹凸で背中を強く打ち付けて榊母が悲鳴を上げる。
テーブルの下に転倒した榊母に向かって、優香は今度は立ち上がりながらテーブルを傾けた。
木製の中型テーブルである。重量は人間が一人でなんとか持ち上げられる程度。
とはいえそれを女子の身で自由に動かせるのは、優香が普段から体を鍛えている賜物だった。
引きつけられながら片方を持ち上げることで、テーブルが垂直に立てられようとする。
優香は引きつける腕に込める力で、天板の角度を調整した。狙うは榊母の首の位置。ギロチンのように、天板が床に立とうとする。
死の予感が榊母の脳裏を支配した。
「ひっ!」
「おや」
小さく悲鳴を上げながら、転がることでテーブルのギロチンから榊母が逃れる。
がたんとテーブルが床に立ち、勢い余って向こう側にゆっくりと倒れていく。
意外と機敏に動いた母親に感心しながら、優香はテーブルから手を離して、転がる体に対して無造作に蹴りを入れた。
脇腹に入る。柔らかい感触。
呻き声を漏らしながら、榊母は更に横転して優香に対し膝立ちになった。右の脇腹を左手で押さえている。
その表情は、痛みよりも驚愕が充ち満ちていた。
ばたんと、ひどく大きな音を立ててテーブルが床に倒れる。
「ごほっ……ゆ、優香ちゃん、なんで……!?」
「意外と痛みには強いんですね。動きも実践慣れたものですし、昔なにかやっていましたか?
私と兄の格闘趣味は貴女の影響だったのかもしれませんね」
対して優香は全く平静な表情だった。怒っているわけでも、冷酷なわけですらない。普段、娘が母に声をかける時の調子そのままだった。
ポシェットからスタンガンを取り出す様も自然なものだ。
彼女は別に、キレているわけでもハイになっているわけでもない。普段の榊優香そのままだった。
普段のままで、それなりに親しみを保つ母を切り捨てるのが榊優香という人間なのだ。彼女の中の天秤はとうの昔に定まっている。
相手が膝立ちと混乱から立ち直る前に、優香が素早く足を踏み出した。両者の距離は近い。それだけで間合いに入る。
同時に肩に向けてスタンガンを突き出す。それを、榊母は後転して間合いから逃れた。
追うように足を進める優香。狭いダイニングだ、逃げ場はない。すぐに榊母の背中が壁に付き――――その手には、途中で拾った麦茶の容器があった。
「っ」
「ふうっ!」
肩口を狙ったスタンガンの一撃を、プラスチックの容器で弾く。
盾を手にした榊母だが、そんなものはお世辞にも有効な近接武器とは言えない。しかし彼女の目的は別にあった。
蓋を開いてその中身を、二撃目を繰り出そうとしていた娘にぶちまける。ばしゃりと、麦茶がスタンガンを握る腕にまともにかかった。
高度差で顔を狙えなかった、のではない。あえて腕を狙ったのだ。
不純物の混じった水は導電体である。スイッチを入れていたなら、スタンガンの電撃が麦茶を伝って腕に感電する。
この状況下で機転を効かせた、榊母渾身の一手だった。
「惜しい」
「っ!?」
そして優香はスイッチを入れていなかった。
正確には、母が麦茶の容器を手にした瞬間に狙いを看破して切っていた。この期に及んで平静な、優香の判断力の勝利である。
スタンガンを囮にして、先程と同じ箇所に蹴りを入れる。兄のように正式に打撃を習ったわけではない、いわゆる素人の蹴りである。
それでもまともに入れば効く。「あぐっ」という嗚咽と共にうずくまった榊母を、またいで優香は後ろに回った。
母の背中に覆い被さりながら、両腕を首に回して手を組む。スリーパーホールド、あるいは裸締めが完全に極まった。
「……! ……!」
じたばたと魚のように暴れだした母親の、胴体に両足を回してロックする。十数秒で彼女は意識を失い、ぐったりと娘に寄りかかった。
脳への血流を阻害されて意識が落ちたのだ。
母親が完全に意識を失っているのを確認してから、優香は立ち上がって時計を確認した。
兄が帰ってくるまではもう少しあるが、証拠隠滅と人間一人の処理を考えるとあまり時間はない。
平静な思考のまま、彼女は作業に取りかかろうとして
ふと、立ち止まって呟いた。
「終わり、か……」
509 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:53:53 ID:c8Jl7Oam
今日の優香は部活を休んだらしい。
そのことと一緒に帰れないことを謝るメールが、昼休みの終わりごろに入っていた。
妹が部活を休むなんて珍しい。なんだかんだ言ってあいつは柔道が好きだと思う。
そういう俺も、ふとした理由で始めたけれど空手は好きだ。今日も部活に打ち込んで、日が暮れかけた道を今日は一人で帰る。
ここしばらくは優香と一緒に帰っていた。それも手を繋いで帰ることが多かったから、少し寂しい……いや、正直かなり寂しい。
女の子と手を繋いで帰るだなんて長年の憧れだ。たとえそれが妹だとしても、柔らかい手の感触はドキドキした。
考えてみればおかしな話だなあと、てくてくと歩きながら考える。
普通、妹の手を握ったってドキドキなんてしないと思う。
俺が小さい女の子や母さんに触ってもドキドキしないのと同じことだ。家族なんだから。
だけど俺は優香の手を握るとドキドキする。それはつまり、妹のことを女の子として意識しているってことだ。
……それって人間としてどうなんだろうって思う。
けど、事実は変わらない。どうやっても優香は俺にとって妹であり、同時に女の子なんだ。
そうしてきっと優香にとっても、俺は兄であり男であるんだろうと、最近気付き始めていた。
そうした上で、優香はどちらの俺も想ってくれている。
俺は……
考えているうちに、自宅に着く。お腹がぺこぺこだ。家に入りながら、今日の晩御飯は何だろうかと大きく鼻で息を吸う。
「ただいまー……あれ?」
匂いがしない。カレーの香ばしい匂いや、味噌汁のだしの匂いや、焼き魚の焦げた匂い。そういうものが何もないんだ。
夕食の準備はできていない。そう思うしかなかった。
けど、この時間なら母さんは夕食を用意してくれているはずだし、両親が外食に行く日じゃないはずだ。それに優香はもう帰ってきているはず。
不思議に思って声をかけながら台所を覗く。
「おーい、かあさーん、ゆうかー……あ、いるじゃん」
「お帰りなさい、兄さん」
ダイニングでは妹が一人、テーブルにぽつんと肘を付けて座っていた。
何かを考えていたらしく、じっと下を向いていたけど俺の呼びかけに答えて顔を上げる。
テーブルの上には夕食も何も用意されていなくて、やけに綺麗に拭かれていた。
ちなみに優香は飾り気のない水色のワンピースに着替えている。いつものポシェットは身につけていない。
「母は出かけたみたいですよ。なんでも知人に不幸があったとかで、父もそちらに行くそうです」
あれ、母さんの車はなかっただろうか。後でちらりと確認してみると、ガレージはシャッターが閉まっていた。
一旦車を出した後に閉めたんだろう。いつもは開けっ放しにしてるくせに珍しい。
「ああ、そうなのか。じゃあ御飯どうする?」
「何か作ろうかと思いましたが、ちょうど食材もなかったので何か食べに行きましょう。食費も貰っています」
ひらりと優香が二本指で五千円札を取り出した。おお、母さん太っ腹だなあ。
「それじゃどっか食べに行くか。優香はどこがいい?」
「どこでもいいです」
どこでもいいということなので夕食はハンバーガーになった。俺はビッグマックで妹はチキンタッタセット。味は普通。
優香は少し、暗い雰囲気で。俺も釣られて黙々と食べるだけだった。普段から無口な奴ではあるんだけど、なんだろう。
何かを思い詰めているようだった。
そうして適当に夕食を済ませた後、家に帰る途中。
道端で、服の袖を引かれた。
「ん、どした優香」
「少し、そこで話しませんか」
優香が示したのは、帰り道の横にある小さな公園だった。
榊家ガレージ
「ん~~! んん~! ん~んん~!」
「ただいま」
「んん~!!」
「優香か?」
「(こくこく)」
「率直に言うとあれだ、君は呑気だったな」
「んんんー! んんー! んー!」
「幸いなのは生死のやり取りを行うまでに彼女を追い詰めてはいなかったことか。ところで二人は?」
「んんんん~~!」
「ああ、すまない。猿轡をされたままでは明瞭に発言できないな。外そう」
「ぷはっ……いいから早く解いてって言ってるのよ馬鹿旦那!!」
510 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:55:10 ID:c8Jl7Oam
夏夜の公園は静かだった。
銀灯の周りに虫がたかっているけれど、それ以外に音はない。虫が鳴くような茂みが少ないからだろうか。
月明かりに照らされて、遊具と柵がぽつりぽつりと暗闇に浮かび上がっている。俺たちはベンチに腰掛けた。
この前、優香に膝枕をしてもらった場所だ。
周囲に人気はない。隣にいる人の気配を除いて。
優香は俺にぴったりと肩を寄せるようにして座った。その距離は友人よりも家族よりも近い。
「……」
沈黙。
普段なら俺の方から軽口の一つも叩くところだけど、今の優香は何かをひどく思い詰めているようだった。
とはいえ、優香は何かを思い詰めることが多い。明晰な頭脳と責任感の強さがそうさせるんだろう。
それからもちろん、不道徳な想いをずっと抱えてきたことも、妹の自立をずっと促してきたのだと思う。
優香のことを思う。
この数週間で、優香はずっと俺のことを好きだったのだと言ってくれた。
その言葉を、今までずっと俺の知っていた優香に重ね合わせてみる。
勤勉で、文武両道で、冷静で、可愛いというよりも美人で、料理が上手くて、努力家で、年齢の割にしっかりし過ぎるほどしっかりしていて。
けれどそれは必然だった。優香は誰にも相談できない想いをずっと抱えていたのだから、全て自分で解決できるような人間になったのだ。
ぴったり、合う。優香に対して燻っていた、長年の疑問が氷解した気分だった。
けれど入れ替わりに、沸きあがってくる疑問がある。
どうして俺なんだろう、ということだ。
「……」
はっきり言えば俺は大した人間じゃない。
運動は何とか優香と同レベルだけど、勉強は完全に苦手な部類に入る。顔だって大雑把な作りだし、髪質は針金みたいにつんつんだ。
モテたことなんて生まれてこの方一度もない。
家事も母親や妹に任せきりで、自立しているとはとても言えないのんべんだらりとした性格をしている。
子供っぽいと言われるし、実際妹にも言われまくっていた。
どうして優香は、俺だったんだろう。優香なら他に、いくらでもよい男を選ぶことができるはずなのに。
俺は優香に釣り合うような人間じゃない。
それがどうしても納得できなかった。
妹が口を開く。
「……兄さん」
「うん」
「答えを」
「え……」
「答えを……ください」
優香が口にしたそれは
数週間前に約束したことだった。
『機会を下さい。私が努力する機会を。兄さんを振り向かせる機会を』
『私は今まで妹だった。兄さんの中で妹だったんです。けれどそれは不公平じゃないですか。私はずっと兄さんが好きだったのに、そんな基準で決められてはたまらない』
『だからせめて機会を下さい。女として意識してくれとは言いません。女として意識してくれるように努力します。選ぶのならば、せめてそれからにしてくれませんか』
妹ではなく女として見てもらうために
家族ではなく恋愛対象としてみてもらうために、努力する期間を要請し
朝甘えながら起こして、お弁当を作って、一緒に登校して、一緒にお昼を食べて、手を繋いで帰って。
そうした、まるでお互いが恋人のように振舞う日々が、今この瞬間に終わったのだということだった。
「え……今、なのか?」
「今、です」
わずかに優香を見下ろして、戸惑った声を上げる俺に
わずかに俺を見上げて、じっと強い視線をぶつけてくる優香。
その目はこの上もなく真剣だった。
夜の公園で、ベンチで座り隣り合って、じっと見詰め合う。
……俺は
なんとなく、こうした日々がずっと続くように思っていた。
優香との新しい毎日が日常の一部に溶け込んでいって、同棲したカップルのように何もかもが今更になってから、なんとなく俺の方から切り出す、のだと予感していた。
実際そんな風になりかけていたと思う。優香も、そんな流れを望んでいたように思う。
だって優香はとてもとても楽しそうだったから。
遊園地で目一杯遊ぶ子供のように、今までずっと憧れていたことをついに満喫できる。そんな嬉しさに満ちていたのだ。
だから俺は、そんな毎日がずっと――――続くと
けれどそれは幻想だったのだろうか。ただの思い込みだったのだろうか。
考えてみれば、兄妹で恋愛ごっこだなんてそれだけで
歪な関係だ。ずっと続くわけがない。
だけど俺は、優香に答えるための、何の準備もしていなかった。
だから俺は、優香に答えるための、最後の疑問を。
511 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:55:59 ID:c8Jl7Oam
「優香は……なんで俺なんだ?」
しばしの沈黙。
夏夜の公園で優香と寄り添い、銀灯の下の人気がないベンチで、お互いにじっと視線を重ねる。
優香は少し、何かを思い返すように目を閉じて。ポツリと呟いた。
「私は昔から……感情の起伏の少ない人間でした」
他の人が怒ったり泣いたりするような場面でも「ふうん」と流すだけだったこと。
それは私自分自身に危害が及んでも同じことで、転んでも叩かれても怒られても、泣いた覚えはないこと。
物事に対する態度も同じで、定められた水準を淡々とこなしていくだけだったこと。
そこには達成感などなく、挫折感もありはしないこと。
喜怒哀楽、快楽と苦痛、それら全ては自分にとって動機足りえないこと。
多分自分は鈍感なのだということ。
生まれつき痛みに強いということは、けして誇れるようなものではなく。他人の痛みも実感できない人間は、容易く他人を傷つけること。
それでも自分が曲がりなりにも、不適合者として社会から逸脱しないでいられるのは兄のおかげだということ。
すぐに泣いて、すぐに怒って、すぐに笑う、兄のおかげだということ。
自分の前で、物事に対して人並みの反応をする兄がいたからこそ、自分は人並みの基準というものを学ぶことができたこと。
自分の前に、誰に対しても気を使う兄がいたからこそ、自分は痛みと倫理の価値というものを知ることができたこと。
そして何より。兄がいるからこそ、自分はこの場所にいることを望んでいること。
今、自分が、友達付き合いをするのも、勉強をするのも、学校に通うのも、息をするのも、生きているのも、全て。
自分は、自身の命自体には価値など感じていない。死に対する恐怖も、無視できる大きさにすぎない。
生よりも死を選ぶべきだと理性が判断すれば、躊躇なく実行できること。
自分が生き続けているのは、ここに兄がいるからだということ。
兄は普通の人だから、自分は物心ついてからずっと、普通の人間のフリを続けていること。
比翼連理。
「私は、私に欠けている全てを持った兄を想うことで……ようやく普通の人間になれるのだと信じています」
そうして
優香の、長い長い身の上話が終わった。まるで神様に罪を告白するように、その姿は真摯だった。
俺は
「…………」
俺は、言葉さえなかった。
優香は命を懸けている、と。そのことが何より雄弁に伝わってきてしまって。
俺のように、生きているから恋をするのではない。まるで逆だ。恋をしているから生きている。
恐ろしく鋭く、そして脆い刃のような生き方。俺の中で榊優香という人間が完全に一致した。
そして同時に抱いたのは――――恐怖、だった。
もしも俺が拒絶したら、優香はどうなってしまうのだろう。
優香は俺を選んでいるわけですらない。人生を生きる道標として、俺を組み込んでしまっている。
もしも俺が拒絶したら、優香は根元から壊れてしまうのではないのだろうか。
自分の行動に人間一人の命が左右されることに対する恐怖。
それが、俺が真っ先に抱いた感情だった。
「兄さん」
そうして、がくんと
優香が、俺の胸元に、両手ですがりついた。
俺の着たシャツが重みで絞られる。胸に当てられた優香の頭は下を向いて表情が見えない。
そのまま嗚咽するように、俺の妹は懇願した。
512 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:56:37 ID:c8Jl7Oam
「兄さん、好きです。好きです、兄さん。妹なのに好きになってごめんなさい。
けれどどうか付き合ってください。貴方が私を恋人にしてくれるなら、私はきっと全てを赦して生きていける。
こんな人間に生まれたことも、貴方の妹に生まれたことも、全て赦して生きていける。
貴方を好きになってしまった罪は、貴方を幸せにすることで償います。
ですからどうか、どうか。
兄さん、好きです、付き合ってください」
…………
ぼたり、ぼたりと水滴が俺の膝を濡らした。じんわりと布地を通して染み込んでくるそれは、間違いなく妹の涙だった。
優香は全身全霊で縋り付いていた。
もしも俺が体を外したのなら、そのまま倒れて地面にぶつかり壊れてしまいそうなほどに。
俺は……
俺は……
「――――ああ、わかった」
頷、いた。
「あ」
「あ、あ、あああああああああ」
「ああ、あ、ああ。にいさん」
「にいさん、にいさん――――」
優香が胸元にすがりついたまま、顔を上げる。その切れ長の瞳からは、ぼろぼろと切れ目なく涙が流れていた。
顔をくしゃくしゃにした優香の表情なんて、俺ははじめて見た。きっと優香自身を含めて、他に見た奴はいないと思う。
そのまま、魚が食いつくように優香の背が伸びる。唇に暖かい感触。
「んっ――――」
「――――!」
俺と優香は唇を合わせていた。驚いた俺の顔が、優香の瞳に映っている。そのまま妹は感極まったように瞳を閉じる。
ファーストキスはハンバーガーの味がした。
優香もきっと同じだろう。
俺もまたじっと目を閉じながら、これでいいんだと自分を言い聞かせる。
こうしてキスを交わすことで俺は確かにドキドキしている。間違いなく優香を女としても見ている。ならいいじゃないか、と。
もしも俺がここで首を振っていたら、きっと優香は壊れていた。優香を守るためにはこれしかなかった。少なくとも、今は。
だから――――優香のことが、好きじゃなくても
これでいいんだと、自分に言い聞かせた。
513 名前:未来のあなたへ11前編[sage] 投稿日:2009/08/22(土) 20:57:17 ID:c8Jl7Oam
「んっ!」
俺が物思いに耽っていると、優香の動きが変化した。
すごい力で胸元を引き込まれ、同時に優香が首をひねった。お互いの顔が十字に交差し、こじ開けられた粘膜が更に広い面積で滑りあう。
ドラマで見る、熱烈な恋人同士の口付けの構図そのままだった。優香の鼻息が頬に当たる。
更に、ぬるりと前歯をナメクジのようなものがぬめった。優香の舌が、俺の前歯をなめているのだ。
俺はその瞬間、驚きのあまり優香の肩を突き飛ばしてしまった。吸盤が離れるような抵抗と共に、お互いの唇が離れる。
「ゆ、ゆゆゆゆゆ優香!? な、なにしてるんだっ!」
「兄さんの唾液……美味しいです」
ぺろりと優香が舌なめずりをする。その瞳はさっきとは違う意味で潤み、頬は薄く紅潮している。
欲情という、そんな表現がぴったりだった。もちろんそんな妹の姿を見るのは初めてだ。
ぜーはーと、止めていた息を再開する俺の手を、優香が掴んで恋人繋ぎをした。熱い。体温ですら上がっている。
そうしてとんでもないことを口走った。
「兄さん。ホテルに行きましょう」
「ぶっ!?」
「駅近くの繁華街にそんなところがいくつもあります。お金は私が持ちます。行きましょう、兄さん」
「ちょ、ちょちょちょちょ、ちょっと待てって優香!」
立ち上がってぐいぐいと俺を引っ張る優香に必死で抵抗する。何だこの展開は。
「どうしてですか。私と兄さんは恋人同士になったんでしょう。それなら、然るべき行為でしょう」
もちろん俺だってそういう行為に興味がないわけじゃない。でも告白が成就してすぐなんて、あまりに急ぎすぎじゃないか。
「そ、そういうのは、もっとこう、時間をかけてしていけばいいだろ? さっきの今なんて早すぎるし、もっと自分を大事にしなさい!」
「……でも、私は兄さんに迷惑をかけてばかりだから、何か恩返しをしたいんです。私の体なら自由に使っても良いし、それを私も望んでいますから」
「馬鹿、だからもっと自分を大事にしろって。時間はいくらでもあるんだからさ」
「でも……」
それからも優香はなんだかんだとごねたが、不承不承といった感じで俺の説得に折れた。やれやれだ。
俺も少しは……ごめん、かなり残念だったけど(どうせ童貞だよ)優香のことを大事にしたかったし、何より自分の気持ちが固まる時間を持ちたかった。
俺は優香のことを女の子として意識はしているけれど、まだ好きかどうかわからない。少なくとも今は優香を拒絶できなかっただけだ。
せめて自分の気持ちがはっきり優香に向いてると意識してからにしたかった。
そして、それはあまり難しいことではないという予感もあった。なにしろ優香の可愛さは俺が誰より知っているのだから。
「兄さん、私のことが好きだと……言ってください」
「……ああ、優香のことが好きだよ」
「ああ、ああ、兄さん……んっ」
優香が俺を見上げて、目を閉じる。今度は俺から、愛の囁きと共に妹と唇を重ねた。
きっといつかは上手く行くのだと思っていた。
水が流れていくように、優香との毎日はこの数週間のように続いていき、いつしか俺の気持ちもはっきり固まるのだと。
もしも体を重ねるのなら、そうなってからで十分だと。俺はそんな風に考えていた。
けれど
二人で手を繋いで、家に帰ると。出かけているはずの両親が、険しい雰囲気で待っていた。
最終更新:2009年08月24日 22:54