贖罪 第1話

62 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:36:17 ID:tPAE6FSU
父と母が離婚をしたのは僕がまだ3歳の頃だった。
理由は良く知らない。母の不倫とか借金の問題とか、果ては両者の親同士の確執とか。詳しく聞いたわけでも話してくれた訳でもない。と
にかく二人は離婚し、僕とまだ2歳だった妹は離れ離れとなった。
僕は父に引き取られ、その後は生まれ育った街を出て田舎の小さな集落に移り住んだ。ここは父の姉、僕にとって伯母さんの家があり、僕
と父は叔母の家族に迷惑をかけぬ様に離れの小屋を借りて生活した。
父は元々トラックの運転手をしており、こちらに移ってからもその仕事を続けた。が、近くの大きな街から車で3時間以上かかるこの集落は
交通の便が非常に悪い。父も、そして叔母の旦那さんも基本は街の寮に住み込み、月に何度かこちらに戻ってくるといった生活を余儀なく
された。というわけで僕はほとんど父に会えず、叔母と叔母の一人娘、従姉妹の梢姉に囲まれて幼少期を過ごした。


「圭太~! 飯の時間だぞ~!」
小屋の一階から梢姉の大きな声が響いてくる。この小屋は一階が農作物や農耕器具等を収納する物置と化しており、二階部分にトイレ、小
さな台所といった生活部屋がある。小さな部屋ではあるが、父のいない平日などは一人で過ごすには中々快適と言え、特に不便は感じなか
った。それに食事や風呂、その他生活必需品は叔母の家が出してくれる為、「離れで暮らす」というよりは「一人部屋を貰っている」とい
った感じで生活していた。
叔母や梢姉も僕に良くしてくれ、特に梢姉は歳も近いせいか僕のことを本当の弟のように可愛がってくれているのだ。僕自身、3歳の頃から
こちらで生活している為、2人を本当の家族のように感じる部分もあった。
「あー・・・今行く」
寝起きの瞼を擦り、階段を下りていく。小屋の玄関の前では梢姉が携帯電話をいじくりながら待ってくれていた。
「寝起きか? 酷い顔してるな」
手を伸ばし僕の頬をグニグニと引っ張る。高校でバレーボール部部長を担っているだけあって、その攻撃は強烈だ。後で頬が赤く腫れるの
が簡単に予想できる。
「おお、男前になった」
「ひゃめい(やめい)!」
グイッと腕を振り払う。頬が熱でジンジンしているところを見ると案の定赤く腫れているようだ。口内炎になったらどうしてくれる。
「ははは、悪い悪い。圭太の顔見てるとつ~い苛めたくなっちゃうんだよね~」
片腕で僕を抱き寄せ頭を乱暴にぐりぐり撫で繰り回される。その際背中にEカップの巨乳が押し付けられるが気にしない。きっと梢姉も気に
していないだろう。学校では美人・巨乳・おおらかな性格で男女共に人気の八木梢。だが、僕にとっては小さい頃からずっと一緒に生活して
きた乱暴で、おせっかいで、それでいていつも僕の味方でいてくれる優しい梢姉なのだ。憧れの念はあっても女性として欲情してしまう、と
いった感情は抱いていない。
「さっ、飯だ飯。今日の肉じゃがは私が作ったんだ~。食った瞬間『梢お姉ちゃん結婚して!』って言うこと間違いなし!」
「・・・前作ったカレーの時もそんなこと言ってたような・・・? そんでもって結局味は普通だったし・・・」
「お、おおう・・・あれは・・・その・・・ぜ、前哨戦ってやつ! 今度のはマジで凄いから!」
じゃれ合いながら家へ向かう僕達。僕も梢姉もこの生活が、空間がずっと続くと思っていたんだ。こんな風に笑い合いながら、いつまでも
幸せに過ごしていきたかったんだ。
だが僕は知らなかった。こんなにも幸せな生活を送る僕とは対照的に孤独と絶望に包まれながら生活を送る彼女のことを。母の親戚中をた
らい回しにされた挙句、施設に追いやられどこの誰ともわからぬ富豪に養女として引き取られた僕のたった一人の妹・沙織のことを。
まだたった2歳だった彼女がその後どんな体験をし、考え、生きてきたのかはわからない。ひょっとしたら幸せな生活を送っているのかもし
れない。富豪の家に引き取られたということは少なくともお金には困ってはいないはずだ、と、そんな風に考えていた時期もあった。が、
父と別れ、兄と別れ、母に捨てられ、人々に蔑まされた人生の中で彼女の幸せなんてあるはずが無かった。
そんな彼女の心に映っていたものは一体なんだったのだろうか。孤独と絶望しか知らぬ彼女がそれでも生きている理由。まだ幼い子供の彼
女を支えた「何か」。
それを知ったとき、僕はこの幸せな日常を捨てる道を選んだ。いや、選ばざるを得なかった、と言ったほうが正しいか。困っている人がい
たら手を差し伸べて助けてあげる、なんて生ぬるい偽善心なんかじゃない。「そうしなければならなかった」のだ。



63 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:38:15 ID:tPAE6FSU
写真の中の兄様はいつだって沙織に笑いかけて下さいました。黒い髪、クリッとした瞳、紅い唇。その全てが沙織にとって何にも変えがた
い大切な存在でした。
母の・・・いえ、「元母」の親族を転々としていたときの記憶はあまりありません。ただ、害虫を見るようなあの憎悪も瞳と元母のすすり
泣く声だけは今でもはっきりと覚えています。その母が病にかかり、泣く泣く沙織を施設に入れたのが4歳の誕生日の日。誕生日のプレゼン
トを買いに行く、と言って沙織を施設の門の前に残し、そのまま帰っては来ませんでした。
施設での生活はそれはつらいものでした。小学生の子供達同士で派閥が出来上がっており、新米の沙織はまるで奴隷のように扱われました。
施設の大人達も基本的に放任主義のようで、私が殴られようが蹴られようが助けに来ることは無く、お構いなしでしたね。神などいない、
他人はどこまでいっても所詮は他人。たった4年の人生で沙織が学んだのは「孤独」「憤怒」「絶望」。でも、兄様だけは、沙織のたった一
人の圭太兄様だけは沙織の味方だと信じておりました。どんなに辛い事があっても、痛くても、臭くても、不味くても、写真の中の兄様は
ずっと沙織に笑いかけて下さいました。兄様の顔を見るだけで、沙織は生きる勇気と明日への希望を心に蓄えることが出来ました。
きっと明日は兄様がここにやってくる。こんなにも虐められている沙織を助けにやってくる。兄様が、兄様がいるから、沙織はまだまだ頑
張れる。くじけずに、明日を信じて生きて行けました。

そんな沙織に転機が訪れました。
とあるお金持ちのおじさんがこの施設の子供達を買い取って下さったのです。このおじさんというのが今の沙織のお父様でいらっしゃる、
御門成之その人でございます。
買い取られた沙織たちはお父様が運営する、孤児専用の寮に入れられました。食事や衣服、その他生活水準が前とは比べられないくらい良
くなり、心に余裕が出来たせいか沙織を虐めていた子達はその後ぱったり沙織には手を出さなくなっていきました。ここには沙織たちの施
設以外の施設や孤児院から来た子供達も大勢おり、ここで生活をしながら自立を目指す者、養子・養女に行く者といったように各々が未来
ある生き方を選ぶことが出来ました。
沙織もここで兄様が迎えに来てくれるまで待つことに決めました。ですが、様々な虐めや体罰のせいで沙織は口も聞けず、人とも関わらな
い暗い人間になっていました。対人恐怖症、とでも言うのでしょうか。とにかく沙織は食事もせず、部屋からも出ずにずっと兄様を待ち続
けました。
そんな沙織を見兼ねたお父様が、沙織を御門家の養女として引き取ってくれたのがここに来てから1週間が経った日のこと。栄養失調の上、
対人恐怖症の沙織をゆっくり癒し、様々な知識を教えてくれ、まるで本当の娘のように愛を注いでくださいました。おかげで沙織はこの通
り、普通の人間として毎日が送れるようになりました。
ですが―――所詮お父様も「他人」です。お父様には敬愛の念、尊敬の念、感謝の念・・・言葉で表すのが勿体無いほどに溢れる思いで一
杯です。それでも、それでも沙織には兄様しかいません。沙織にとって本当に大切で、必要で、傍にいて欲しいのは他でもない兄様だけな
のです。
兄様は沙織の全てでした。辛い時も悲しい時も、ただただ兄様だけを想い、いつか一緒になれると夢に見ていました。兄様と共に暮らせる
のであれば、他には何もいらない。兄様と共に生きていけるのであれば、悪魔に魂をも捧げることだって出来ます。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
あいたい。
あいたい。
あいたい。
アいタい。
アいタイ。
アイタイ。
アイタイ。

そして、ついに兄様を見つけることが出来ました。本当は兄様から会いに来て欲しかったのですが、この際そんなことはどうでもいいです
よね。ああ、ああ、ついに会える。兄様。兄様。兄様―――。



64 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:40:16 ID:tPAE6FSU
『1年B組の早瀬圭太君。至急職員室までお越し下さい。繰り返します。1年B組の―――』
お昼の弁当を食べようとした矢先に教室に響き渡る校内アナウンス。クラスの人たちが一斉にこっちを向き、何事かと言う目を向ける。そ
んな目で見られたって僕にもなんだかさっぱりだ。友人にちょっと行ってくる、と手を振り木造の校舎を駆け出した。
職員室に到着すると、扉の前では息を切らしている梢姉がいた。どうやら先程のアナウンスを聞き、急いで駆けつけたらしい。
「ちょ、ちょっと圭太、あんた一体何やらかしたの!?」
「いや、こっちが聞きたいくらい思い当たることが無いんだよ。・・・って、もしや!?」
「!! な、何!?」
「・・・恭介達と体育倉庫に隠したエロ本の山がバレたんじゃ・・・」
ガツン!! と脳天に雷が落ちる。が、梢姉の顔は幾分か安心したようにほっとため息をついた。
「ま、とにかく行ってみましょ。大した事じゃなきゃいいんだけど・・・」
「って別に梢姉まで行かなくてもいいんじゃ・・・」
「バーカ、私は圭太の姉代わりなの! 何かあったときは私も一緒に謝らなきゃ」
僕の腕を引っ張りながら職員室の扉をノックする。・・・やっぱり梢姉は優しい。こうやって一緒に来てくれるだけで、とても心強くなる。
昔から、何かあるといつも梢姉が隣にいてくれた。父がいなくて寂しい夜は一緒に寝てくれたし、嬉しい時は共に喜び、辛い時は励まして
くれた。梢姉に甘えていることはわかっている。だが、ぬるま湯に漬かりきったこの身を持ち上げるのを、もう少し、もう少しと引き伸ば
し、このまま包まれていたいと願う自分がどうしても存在していた。
結局僕は甘ったれで、弱虫で、何かにすがりついていなければ生きていけない卑怯者なのだ。「甘えていればいいじゃない」と梢姉は言っ
て、抱きしめてくれるだろう。だが、いつまでもそんなんじゃ駄目なんだ。人というのは人生のどこかで必ず、自分で決め自分で進む場面
に出くわすはずだ。だからこそ、僕の腕に伝わる梢姉の温かさがとても辛くて、プレッシャーとなって押し寄せるのだ。
「失礼します」
梢姉と僕が職員室へ入ると待ち構えていた国語の佐伯先生が寄ってきた。
「お、来たか早瀬・・・と八木? なんでお前まで付いて来とるんだ?」
「私は圭太の保護者兼姉ですから。で? 圭太は何をやらかしたんですか?」
「はぁ? ・・・いや、やらかしたってかそんなんじゃ無くてだな」
佐伯先生がこちらに向き直る。コホンと咳払いを一つ挟み用件を伝えた。
「早瀬、お前にお客さんだ」
僕も、梢姉も一瞬ポカンと口を開く。てっきり何か悪いことをしたのでは、と身構えていた為、一気に体の力が抜けた。
「客・・・ですか? 僕に?」
「ああ。それも黒い服を着た、いかにも『あっち系』の方が数人だ」
フゥ・・・と息を吐きながら佐伯先生は話した。というか訳が分からない。黒服? あっち系? 数人? 思い当たることなど何も無かっ
た。ただ、そんな方々が僕をご指名ということは・・・考えただけでチビりそうだ。
「誰かと間違ってるんじゃないですか? だいたい、そんな人たちが圭太に何の用で―――」
「会わせたい人がいるらしい」
梢姉の言葉を遮り、佐伯先生は答える。
会わせたい人? 何だと言うのだろう。父とこちらに来てから13年、そんな類の話は聞いてこなかった。それもヤの付く人たちが僕に会わ
せたい相手って・・・? 僕にそんな知り合いは・・・!! まさか、ひょっとして!!?
「早瀬、お前の妹さんだそうだ」
僕が気づくと同時に佐伯先生の言葉が耳に入った。
―――この時、本当に沙織には申し訳無いのだけど、僕は沙織のことなんてすっかり忘れてしまっていた。この集落での13年で、僕は母と
妹を完全に記憶の隅に追いやり、新たな生活こそが今の自分そのものであると信じ込んでいた。
だから、兄失格と言われるかもしれないが妹のことを思い出したとき『ああ、そんな人間もいたな』と、まるで他人事のような考えが脳裏
に一瞬でも横切ってしまったのだ。
「・・・今、来てるんですか? ここに・・・」
「どうやらそうらしい。黒服の連中に囲まれて、チラッと女の子が見えたからな」
唇は乾き、身体が沈む。何より、自分が妹の存在自体をすっぽりと忘れていたことに怒りと驚嘆を覚えた。
―――謝らねば。
それが瞬時に脳に浮かんだことだった。


65 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:42:11 ID:tPAE6FSU
職員用の玄関に向かう間、梢姉はずっと手を握ってくれていた。どうやら僕がかなり気落ちしていることを肌で悟ったらしい。理由は聞か
ず、こうして黙って励ましてくれるあたりが梢姉らしい。
「ありがと梢姉。もう大丈夫だよ」
職員用玄関に至る、最後の曲がり角で僕は手を離した。梢姉は名残惜しそうに手を引っ込めなかったが、やがてため息を吐きつつもそれに
従った。
「大丈夫。何かあっても私がいるから」
どうやらこのまま沙織との対面に付き添いをするつもりらしい。もうそろそろで昼休みは終わり、授業が始まるはずだ。一応授業に出なく
てもいいのか確認はしたが、「授業よりも圭太のほうが心配」と言われてしまった。その言葉に胸が温かくなる。自分は一人ではない、隣
にいて、見守ってくれる人がいる。
「・・・ありがと梢姉」


「お待たせしました」
玄関口には佐伯先生の言った通り、黒い服にサングラスをかけた男達がずらりと並んでいた。僕も、梢姉も一瞬たじろいたが、その真ん中
に佇む制服姿の一人の少女を見つけると僕らの動きも思考も停止した。

「お久しぶりでございます、兄様」

透き通るような可憐な声、長く美しい黒髪、人形のように洗練された顔。目の前に立つ妹・御門沙織は今まで見たどんな女の子よりも美し
く、優雅であった。女顔、とよくバカにされてはいたが、こうして見ると僕と顔が良く似ている。目元なんかが特に顕著だ。・・・と、そ
んなことを考えている場合ではない。とりあえず挨拶をするとしよう。
「え、と・・・。久しぶり、だね、沙織。元気そうで何よりだよ」
もう少し気の利いた台詞を吐けないものなのか。13年ぶりの兄妹再会だってのに、こんな挨拶をする兄がどこにいる。しかし、沙織の反応
は僕も梢姉も、周りの男達も吃驚するものだった。
「あ、ああ・・・兄様。に、兄様が沙織の名前を・・・」
人形のように整った顔をぐしゃぐしゃにさせ、沙織が僕の胸に飛び込んできた。そしてそのまま子供のように泣きじゃくりながら僕を力い
っぱい抱きしめる。
「あ、会いたかった・・・! ずっと、ずっと会いたかった! 兄様っ、にいさまぁっ!!」
こんな時、僕も涙を流し再会を喜ぶべきなのだろう。しかし、空気の読めない僕の瞳からは一滴の涙も流れなかった。

―――嬉しくない?
―――愛おしくない?
―――会いたかったわけじゃない?

沙織と再会できたのは素直に嬉しい。たった一人の妹だ、愛おしいに決まっている。・・・だが「会いたかったか」と問われて即座にイエ
スと答えられたかというと・・・正直分からない。多分僕はこう思っていたのだろう。「会えなくても元気でやっているとわかればそれで
いい」と。
彼女の、沙織の涙には僕のことをどれほど大切に思ってきたかが痛いくらいに伝わった。きっと、何年もずっと僕に会いたいと、そう思っ
ていたに違いない。こんな、たった一人の妹との再開に涙一つ流すことも出来ない僕なんかを・・・。
梢姉は黙って僕らを見つめている。その目にどんな思惑が宿っているかは分からないが、少なくとも僕らの再会を祝福してくれていること
はわかった。じんわりと目に涙を浮かべ、ぐっと唇をかみ締めている。こんな他人同士のことにも涙を流してあげられる梢姉を、僕はとて
も羨ましく思った。
「・・・沙織?」
「ぐすっ、も、申し訳ありません兄様。沙織としたことが取り乱してしまいました」
よれた衣服を整え、僕らに向かってゆっくりとお辞儀をする。優雅な仕草が特徴的な、見事な一礼だ。
「御門沙織、旧姓早瀬沙織。本日は兄様に会えて誠に感激です。ずっと、この日を待ちわびておりました」



66 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:48:25 ID:tPAE6FSU
授業開始のチャイムが鳴り響く。が、僕も、梢姉も、沙織も微動だにしない。そんな中、ふと沙織が梢姉の方に目をやる。
「そちらの方は?」
静寂を打ち破るような、凛とした沙織の声。勿論梢姉は沙織とは初対面だ。僕自身、何度か妹がいると話した程度である。ここは僕が両者
の間に立って、話を進めていかなくてはならない。
「今僕がお世話になっている、伯母さんの家の娘だよ。ずっと一緒に暮らしてきたんだ」
「はじめまして沙織ちゃん。八木梢といいます。よろしくね」
一歩前に出てスッと手を差し出す梢姉。ニコリと愛想のよい笑顔で沙織を見つめる梢姉は流石と感じた。僕は人と話すとき、相手の目を見
ていないとよく言われる。恥ずかしいのか何なのか分からないが、コミュニケーション能力の低い人に見られる傾向なのだという。だから、
初対面の人間にもこのようにしっかりと目を見て話をすることが出来る梢姉を、僕はいつも尊敬していた。
「こちらこそ宜しくお願い致します。兄が長い間お世話になり大変ご迷惑をおかけしました」
沙織は深々と腰を折り、もう一度丁寧にお辞儀をする。膝を地面につき、両手を前で合わせ、まるで殿様と家来のような対応の仕方だ。
この方法のお辞儀の為、梢姉と目を合わせることも、差し伸べられた手を握り返すことも出来ないのは仕方が無いといえば仕方が無いのか。
「ちょ、ちょっとちょっと。そんなに畏まらなくてもいいってば!」
梢姉が慌てて沙織を引き上げる。
「圭太の妹ってんなら私にとっても妹みたいなもんだよ。これからは私のことを姉だと思ってくれて構わないからさ」
ピクリ、と沙織の身体が僅かに反応したのは気のせいだろうか。こちらも愛想のよい笑顔で梢姉を見つめ返し、もう一度頭を下げた。
「お心遣い感謝いたします。ですが、兄の恩人様を「姉」などと、無礼千万な呼び名で呼ぶ事なんてできません」
「気にしなくていいってばー。あっはっは」
どうやら梢姉はすっかり打ち解けてしまったらしい。この性格はいつ見ても羨ましいと思う。
「それにしても随分急だったな。前もって連絡してくれれば良かったのに」
僕はと言うと、未だぎこちない台詞を吐くのが精一杯だ。彼女が今までどのようにして暮らし、どのようにして僕を探し出したのかはわか
らない。が、こうして僕の前に現れ”妹だ”と言われたところで、この初めて目にする人形のような女の子をすんなりと「家族である」と
認めることはできなかった。つまるところ、現時点で彼女は僕にとって「他人」という認識でしかないのである。
「突然の訪問は迷惑だと思っておりました」
目を伏し、謝罪ぎみに呟く沙織。僅かに手が震えているのは兄と巡り逢えた感激か、あるいは迷惑をかけたという罪の意識からか。僕と一
つしか歳が違わないはずの妹は、僕より遥かに心の激動に敏感で喜怒哀楽がはっきりと伝わった。
「ですが、兄様がここに居ると聞き、沙織は居ても経っても居られなくなりました。これまで13年間、片時も忘れたことはございません。
 兄様は、兄様は沙織にとっての生きる希望、心を支える精神そのものなのです」
こちらに擦り寄り僕の手を握る。吐き出される言葉の一つ一つが僕とは対照的で、いかに僕の事を想い、愛し、生きる糧としてきたかを鮮
烈に物語っていた。
「辛かった・・・。苦しかった・・・。孤独と絶望、痛みと嘆き。殴られ、蹴られ、罵られました。蠅の集るトイレの便器に顔を沈められ
 た事もありました。嘔吐物を無理矢理食べさせられた事もありました」
黒服の男達の何人かが口を押さえる。僕も正直こういった話は得意ではない。がしかし、このお嬢様のような容姿と風貌の妹が体験してき
た地獄のような出来事は、小さな頃から愛され、甘え、優しさに包まれて生きてきた僕が、いかにぬるま湯に漬かりきった人生であったか
を思い知らされるものだった。沙織はもう一度きつく僕を抱きしめる。
「殺される、と思いました。そして何度も死のうと考えました。でも、でも兄様が助け出してくれる。きっと沙織を迎えに来てくれる。そ
 う信じて、ずっとずっと信じて生きてきました」
言葉は重く、深く僕の心に突き刺さる。そんな風に僕を想いながら生きてきた沙織。
対して僕は? そう、妹のことなどまるで考えてこなかった僕。今日ここに沙織が来るまで、その存在自体を忘れていた僕。僕が育んでき
た幸せな日常の裏で、想像も出来ぬ地獄を味わってきた沙織。
―――何故忘れていた? どうして探さなかった? たった一人の、大切な妹の事を・・・。


67 贖罪 第1話 ◆EY23GivUEuGq sage 2009/08/30(日) 23:50:15 ID:tPAE6FSU
「ごめん、な・・・沙織・・・」 
僕という人間はこんなにも愚かで、阿呆で、無知で、恥知らずだ。目の前の少女に兄と名乗る資格すらないだろう。謝ろう、と思っていた
が、こんな僕の謝罪など一体何になるのだろう。言葉一つで人の心を救えるのなら、どれだけ楽だろうか。彼女の魂を癒せるのであれば、
どんな贖罪も受け入れよう。それが今までのうのうと生きてきた僕が、兄としてしてやれる唯一つのことではないだろうか。
「迎えに行ってやれなくて・・・本当に・・・ご、めん・・・!」
涙を流したわけではなかったが、僕の放つ言葉は綺麗な文章にならず聞き苦しかった。今の僕にはしがみ付く妹を抱きしめてやることしか
できない。もっとも、そんなことをする資格さえ今の僕には無いかもしれないが。
「兄様・・・! もう、もう離れたくありません! ずっと、沙織の傍に居てください・・・!」

人が自らの生死について考えるのはいつだろうか。
大体の人間は、死と向き合ったときに初めて「生死」と言う概念に目覚める。それは肉親の死だったり、動物の死であったり、テレビ番組
の死に纏わるエピソードであったり。死を前にして、初めて生について考える。そしてその概念をもう少し深く知ると、人は考える。自分
は何のために生きているのだろうか、と。
苦しいことから逃げ出すのは生命体が持つ本能である。僕だって誰だって、目の前の辛い現実から目を背け、逃げ出したいこと思ったこと
があるはずだ。そのような場面でも逃げ出さず、乗り越えてゆくことで人は前に進むことが出来る。後ろにある安らかなの現実に逃避せず、
前に向かって歩き続けるのだ。
この時、「自分は何のためにこの壁を乗り超えねばならないのか」と考えるはずだ。学校のテストなら将来の為、病気の治療なら健康の為。
何か支えとなるもの、夢、願望。これを持っていなければ、人は何のために苦労を乗り越え、何のために生きているのかわからない。
沙織の場合、それは僕だった。僕が居るから、いつか会えると信じていたから生きていた。15歳の少女が持つ、生きる為の希望。これまで
地獄を見てきた彼女のために、僕は今決めねばならない。ぬるま湯を出て、一人で決断せねばならないのだ。

「わかった」
妹の為にしてやれること。妹の願望を叶え、答えていくこと。彼女が僕と共に居たいのだと言うのなら、そうしよう。これは贖罪、僕が負
わねばならない兄としての責任なのだ。
「ずっと傍にいるよ」
沙織は歓喜のあまり、人目も気にせず号泣した。耳に響く泣き声はこれまでの僕の罪。この哀れな妹を、僕は一生をかけて幸せにしていか
なければならない。
―――これでいい。
人というのは人生のどこかで必ず、自分で決め自分で進む場面に出くわす。これで、いいんだ。人生を賭けて、この道を進んでいこう。


「長い間、お世話になりました」
旅行バッグに詰めた荷物を抱え、僕は伯母に頭を下げる。一刻も早く一緒に暮らしたい、と願う沙織の言葉を聞き、とりあえず必要最低限
の準備をして、昨日の今日13年間育ったこの集落を後にした。

『本当の父様にはこちらから連絡を入れておきます。では明日の朝お迎えに上がりますね』

あの後、支度をする僕の隣で梢姉はしつこく食い下がった。ここで一緒に暮らせばいいじゃないか、一人くらい増えたって構わない、と。
しかし、沙織はもう御門家の人間。彼女と一緒に暮らすとなれば、居候の身であり本籍を八木家に移していない僕が御門家へ行かなければ
ならなかった。散々駄々をこねた梢姉であったが、やがて”わかったわ”とため息を吐き僕を抱きしめた。
『体には十分気をつけなさい。それと何かあったらいつでも戻ってくること。メールも電話も一杯するから。それから、それから・・・』
最後は声にならなかった。僕を抱きしめながら声を殺してすすり泣く梢姉に、僕はここでも気の利いた台詞を言えず、ただ一言「ありがと」
と答えた。

沙織の待つリムジンへ足を運ぶが、その足取りは重かった。僕の大切な場所、大切な人たち。この場所は、人々はこれからも変わらずに僕
を待っていてくれるだろうか。名残惜しさに振り向くが、そこに梢姉の姿は無かった。

「さあ兄様、参りましょう。これからはずっと一緒ですよ」

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最終更新:2009年09月05日 22:25
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