歪な関係 第2話

109 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:10:23 ID:ovH043UR
 俺は動けなかった。
 そして、美里は動かなかった。

 ただぐるぐると、頭の中に美里の言った言葉が響いていた。
 離れられない。美里から、俺が。
 それも俺の意思でと、美里は言う。
 信じられないのは当然で、そして信じたくないのも当然だった。

 呆然とする俺の耳元で、美里の動く気配がした。

 ――ベロリ。
「……っ!!」
 俺の耳に、美里の舌が触れた。
 ピチャ。ピチャ。
 水音が、耳に響く。
 まるで俺に聞かせるかのように。音をたてて、舌が這う。
 ゾワリ、ゾワリと。舐められる度に、俺の全身に嫌な感覚が走った。
「やっ……」
 ……ピチャ。ピチャ。
「や、やめてくれっ!!」
 俺は腕を伸ばして、美里を突き飛ばした。
 ドンッと音をたてて、美里がフローリングの床に尻餅をつく。

 はあはあと、俺は荒い息を吐いた。
 頭はもはや正常に働かず、夕刻の告白が、目の前の美里の顔が、過去の記憶が、ぐちゃぐちゃに混ざり合い浮かんでは消えた。

 美里は、笑っていた。床に打ちつけた肘を痛そうに撫でながら、笑っていた。
 右手をついて、美里がゆっくりと立ち上がる。まるで振り子のように体を左右に揺らすその様は、俺に汗をかかせた。

 目の前の恐怖に屈しまいと、俺は何とか言葉を見つけようとした。
「美里が」
 言いかけて、俺は言葉を改める。
「俺が……俺は、違う。そ、そうだ、違う」
 辿々しく言う俺の様子に、美里がクスッと笑った。
「いったい、何が違うの?」
 無意識に、俺は両の手を握りしめていた。
「俺が……俺が美里から離れないんじゃない」
 そこで一旦言葉を切り、唾をゴクリと飲み込む。
「美里が俺を、離さないんだ」
 必死な俺とは対照的に、美里の顔は笑ったままだった。
「何にも、なあんにも、違わない」
 まるで俺をからかうかのように、美里のその調子は楽しげであった。
「違う」
 その言葉を、俺はただ繰り返した。
「いいえ、兄さんは」
「違う!」
 俺の声が、静かな室内に響いた。
「狂ってる!」
 叫ばずにはいられなかった。
 できるだけ強く聞こえるように、俺はただただ叫んだ。
「お前は狂ってる!!」
 俺の叫び声の前に、いつの間にか美里はその笑みを引っ込めていた。
 深く息を吸う。頭に浮かんだままに、言葉を叫ぶ。
「親父も! お袋も! 伯父さんも! 叔母さんも!! 他の皆も!! ただ邪魔だからっていう理由だけで、お前は親戚を皆殺しにしたんだ!!」


110 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:11:00 ID:ovH043UR

 遠くで、自動車の走る音が聞こえた。
 ――外に、聞こえてしまっちゃいないだろうか。
 いまだにうまく回らない頭で、そんなことを考える自分がいた。

「……皆殺しじゃないわ」
 俺の怒鳴り声にも、美里は平然としていた。
「兄さんと私の他に、一人残したもの」
 その様子が、俺をより一層イラつかせた。
「そ、そういうことを言ってるんじゃない!!」
 自分を納得させるように、俺は続けた。
「狂ってる……! そうだ、お前は狂ってるんだ! だから俺はお前が怖くて……それで俺は従うしかなくて……!」
 それは、俺が今まで思っていたことだった。
 俺が美里の傍にいる理由。愛ではなく恐怖。
 俺にとってはそれで当たり前であったし、てっきり美里も自覚的に俺を縛っているものだと、そう思っていた。

 反応を待つ俺の前で、美里はゆっくりと瞼を閉じた。真っ直ぐに伸びた睫毛が下を向く。
「そうね、私は狂ってる」
 美里は、事も無げに言った。
 それをあっさりと認めたことに、俺は逆に狼狽えた。
 閉じていた目を見開き、真っ直ぐに俺を見つめて美里が続けた。
「そして兄さんは、その狂った私を愛してしまったために、理性に嘘をついた」

「は」
 俺は、思わず間抜けな声をあげた。
「狂った殺人者の、親の仇の、実の妹を愛してしまったことを認めたくないから、自分に嘘をついた。自分が妹の傍にいるのは、ただ妹が怖くて従っているだけだと。自分から妹の傍にいるわけではないと」
 その口調は力強く、俺に事実を突きつけるかのように、視線と共に俺を射抜いていた。
「そ、そんなわけが……」
「いいえ、そうなの」
 美里が即座に俺の言葉を否定する。
「兄さんは、私を愛しているのよ」
 俺が美里を愛しているわけがない。そう訴える思考を、美里の強い語気が押し潰していった。
「ち、違う……」
 俺は、弱々しく否定した。握った拳は、汗でぐっしょりと濡れていた。
「違う……!」
 俺の言葉にも、美里の表情はまったく揺らがなかった。崩れないその表情が憎く、そして恐ろしかった。
「それなら、何故兄さんは」
 美里が話す。今やその口から発せられるであろう言葉のひとつひとつに、俺はビクビクと怯えていた。
「何故兄さんは、あの時、嘘をついたの?」
 嘘。その言葉に、何故か俺の脳が震えた。
「あの時、五年前、私が皆を殺したとき。警察に、兄さんは嘘をついた。嘘の証言で私の現状不在を訴えて、私があげた証拠のことも言わなかった」
「それは……!」
 思わず何か言おうとして――何も出てこなかった。
 自分でも、嘘をついた理由がわからなかった。
「それは……何?」
 美里のその言い方は、俺の思考がわかっているかのようだった。
「それは……」
 俺は、頭の中から必死にその理由を探した。
「……あの時は……お前がまだ、捕まる年齢じゃなかったから……」
「でも兄さんが警察に事実を話した上で私と離れたいと言っていれば、あとは勝手に私と兄さんを離してくれるはずだった。そうでしょう?」
 ――自分でも、それが言い訳だということはわかっていた。
 だが俺が美里を愛しているなど、認めたくなかった。それはずっと、俺が拒み続けてきたことだった。


111 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:12:38 ID:ovH043UR

「……違う」
 俺には、ただそう繰り返すことしかできなかった。
「……だけど、違う……違うんだ……」
 そんな俺の様子に、美里は少し呆れた顔をした。
「……兄さんも、意外と頑固なのね。認めてしまえばいいのよ、私のことを愛していると」
「違う! 俺が美里を愛しているなんて、そんなわけ……」
「……じゃあ、こんなのはどうかしら?」
 再び顔に笑みを浮かべ、美里はその顔をズイッと俺の前に寄せた。
 俺は思わず後ずさろうとして、後ろが壁であることを思い出す。
 美里が左手の人差し指を掲げて、ニンマリと笑う。日本人形のような整った顔に浮かぶその笑みは、まるでホラー映画のようだった。
「兄さんに告白した女の子を、殺してみるっていうのは」
「は……!?」
「ふふ、嫌?」
 そう言う美里の様子は、心底この状況を楽しんでいるようだった。
「あ、あの子は関係ないだろ!!」
 俺は思わず美里の肩を掴んだ。だが美里は動じない。
「進藤さんっていうのよね、その子」
 美里はふふっと笑って、顔を傾けてみせた。
「何で知って……!」
 美里は俺の質問には答えずに、肩を掴む俺の手を外して、そのまま俺に背を向けて歩き出した。壁際に置かれたベッドの傍で止まり、くるりとこちらを向いてそこに座った。
「実はね、あなたのクラスの河平先輩から、全部聞いてあったの。友達があなたのお兄さんのこと好きなんだけど、ちょっと協力してくれないかって。……まあ、今日告白するっていうのは知らなかったんだけど。
 だから今日兄さんがなかなか帰ってこなくて、もしかしたら、とは思ったわ。そして帰ってきたらいつもと様子が違うから、ああ、告白されたんだな、って。そう、兄さんに言われる前にわかってたの。ごめんなさいね、いじわるして」
 美里はそこで口に手を当てて、小さく笑った。
「まあ、あそこまでの狼狽えぶりは予想してなかったから、少し驚いたけど。おまけに許可が欲しいなんて言うものだから。ふふっ……あはは、あの時は本当におかしかったわ」
 美里のその様子に、俺は改めて恐怖を覚えた。
 だがそれでも、俺は聞かなければいけなかった。
「お、お前が何で進藤さんのことを知ってるのかはわかった。それより……」
「ああ、ごめんなさい。少し話が逸れちゃったわね。そう、その進藤さんっていう子を、殺してみようかなって。兄さんを愛する私としては、その子に感じるものがないでもないし。……でもそれよりも、これではっきりすると思うの」
「はっきり?」
 俺は怪訝な声をあげた。
「兄さんが私を愛してる、っていうことがよ。もう一度、機会をあげるって言ってるの」
 美里の言う言葉の意味が、俺にはわからなかった。
「機会って、何の機会だ?」
「兄さんが私から離れる機会と、兄さんが自分の気持ちを知る機会よ」
 まだ理解できないでいる俺に教えるように、美里が続けた。
「進藤さんを殺すにしても、もちろんそれがバレずにできるとは限らない。もちろんバレないようにはやるつもりだけど、何かミスをするかもしれない。そしたら私は牢屋行き、めでたく兄さんは私から離れられる。
 ……そしてもし私の犯行がバレなかったとしても。あなたが今日のことを警察に話せば、やっぱり私は牢屋行き」
 その話は、進藤さんを殺すことを前提としていた。
「それじゃ、進藤さんは……!」
「……それが嫌なら、兄さんが今すぐ警察に話しに行ってもいいわ。まあ今さら五年前の証言は嘘でしたって言うだけじゃ、相手にしてくれないかもしれないけど。……でも、今も手元に持っているんでしょう? あの時にあげた、血塗れのペンダント」
 その言葉に、俺はビクリと体を震わせた。ズボンの生地を通して、左の足に触れる硬い感触に、俺の意識が集中する。
「あれを見せれば、警察も相手にしてくれるでしょうね。そして一緒に、今日のことも話してしまえばいい。そうすればさすがに私は進藤さんを殺せないし、それにこの五年間脅されていたのだと兄さんが言えば、保護ぐらいはしてくれるでしょう」


112 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:13:55 ID:ovH043UR
 俺の頭が、必死に美里の言うことを理解しようとしていた。
「どうするの? 今警察に話しに行けば、すぐにあなたが私を愛していないということが証明されて、進藤さんも死なない。
 でもその勇気がないと言うのならば、私は準備ができ次第明日にでも進藤さんを殺しに行くわ。そしたら私はすぐに警察に捕まるかもしれない。もし捕まらなくても、今日進藤さんに告白された兄さんは、否が応でも事情を聞かれることになるでしょう。
 あなたが私を愛していないというならば、そうすればさすがに警察に事情を話せるでしょう?」
 話し終えた美里が、その黒い瞳で俺の顔をじっと見つめた。
「どうするの? 兄さん」
 美里が繰り返した。
 俺はチラリとキッチンのほうを見てから、ベッドに座る美里を見た。それに気付いて、美里が言う。
「ふふ、大丈夫よ。私がどう頑張ったって、この距離なら兄さんが玄関から出るほうが早いわ」
 警察に行くと言った途端に、刺されるのではないか――。そう有り得ない心配をしたことに気付かれて、俺の顔が赤くなる。
「まあ、もちろん兄さんを刺すつもりなんか微塵もないけどね」
 美里は軽く手をあげて、俺をからかうように言った。
「まだ心配だって言うなら、服を脱いで何にも隠し持ってないって見せてあげてもいいわよ」
「べ、別にいい……」
「そう。それで、どうするの?」
 うまく働かない頭で、俺は必死に考えた。
 ……今俺が警察に行かなければ、進藤さんは美里に殺される。理性の訴えに従うなら、俺が警察に行く以外に選択肢はなかった。
 しかし……。しかしそれでも、俺は動けなかった。
 それが恐怖によるものなのか、はたまた――愛によるものなのか。俺にはわからなかった。
「俺は」
 それに続く言葉が、俺には見つからなかった。
 進藤さんを助けたい。それは本心だった。
 そしてその機会を前にして何も出来ないでいる自分を、認めたくなかった。
 矛盾する心と行動に、俺はどうすればいいのかわからなかった。
「俺は……」

 ――――ぷっ。
 美里が、小さく吹き出した。
「ふふっ……あははっ。あはははっ!」
 目を丸くする俺の前で、美里は笑い転げていた。
「な、い、いったい……」
「冗談よ、冗談」
 美里はあっけらかんと言ってのけた。
「兄さんの反応があまりに面白かったから、少しからかってみただけよ。進藤さんを殺す気なんてないわ。本当に殺すと思った?」
「じょ、冗談……」
 気が抜けた俺は、壁に寄りかかってペタンと座り込んだ。
「だいたい、進藤さんを殺しても私には何のメリットもないもの。五年前とは状況が違うの。殺す理由がないわ」
「よ、よかった……」
 進藤さんを殺さないということに、俺はただただ安堵していた。
 そして同時に――俺の気持ちを確かめないのだということにも、俺は内心安堵していた。

 だがそんな緩みきった心は、
「でもね」
 美里の言葉で、すぐに縮こまった。
「兄さんの気持ちを確かめる方法は、別にあるの」


113 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:14:27 ID:ovH043UR
 油断しきっていたところを、ガツンと殴られた気分だった。
 立ち上がった俺は、思わず声をあげた。
「はっ、な、何で」
「ふふ、意外?」
 美里は、明らかに俺をからかっていた。
 だがそれよりも、明らかに狼狽えた自分に対して、俺は思わざるを得なかった。
 ――俺は、自分の気持ちを知ることを恐れているのか?
 頭に浮かんだそんな考えを、俺は必死に否定した。
「それで、どういう方法なんだ……?」
 とにかく、俺は聞くしかなかった。俺の問いに、美里がもったいつけて言った。
「許可が欲しいって言ってたでしょ? 進藤さんと付き合う許可が」
 許可。俺の使った、気弱な表現だ。
「それがどうしたんだ?」
「兄さんが欲しいって言うなら、あげるわ、許可」
 俺はいまだに話の流れが読めずにいた。
「試しに進藤さんと付き合ってみれば? って言ってるの。もし兄さんが私を愛しているなら、すぐに私の元に戻ってくることになるわ」
 美里はベッドに腰掛けたまま、俺のほうに身を乗り出した。
「どうする? やるでしょ? これなら、引き返すのも簡単だものね」
 美里の提案を理解した俺は、自然に言葉を発していた。
「い、いいんだな……?」
「いいわよ。まあさっきから言ってる通り、そもそも傍にいるように私が強制した覚えはないんだけどね」
 美里から離れる。それを今、美里が許可したのだ。
「俺は離れるぞ……!」
 俺の声はいつの間にか大きくなり、手を広げて叫んでいた。
「離れる! 俺は! お前から!! 離れるからな!!」
 興奮する俺の前方で、美里はベッドから立ち上がるとツカツカと俺の前まで歩いてきた。
 真っ直ぐに俺の瞳を見つめる美里に、俺は勇気を出して睨み返した。
「……どうぞご自由に。できるものならば」
「やる! やってやる!!」

 それを聞いた美里は、くるりと身を翻してキッチンに向かった。思わず身構える俺に、美里が言った。
「時間、すっかり遅くなっちゃったわね。夕御飯、もう少しでできるから座って待ってて」
 拍子抜けした俺は、返事もせずにそこに立ち尽くした。


 夕食の間、会話はまったくなかった。
 ただ最後に一言だけ。黙々と食べる美里の様子をチラリと窺った俺に、美里が言った。
「何?」
「え、あ、何でもない」
「そう」

 夕食の後も、俺たちは互いに距離をとっていた。もちろん1DKの家の中では限界があるが、一緒に何かをすることはなく、会話も用事のあるときのみで、それも素っ気なかった。
 美里から離れると言った俺が美里から距離をとろうとするのは、ある意味で当たり前だった。
 もっともそれは今までであれば到底できなかったことで、美里による“許可”が、情けなくも俺を自由にしていることを意味していた。
 そして美里も、そんな俺にあわせるかのように俺に対して距離をとっていて、それが俺には不思議だった。てっきり俺が美里の元に戻りたくなるように、俺の傍にいようとするものだと考えていたからだ。

 夜、俺は床に布団を敷いて寝ることにした。ゴロンと転がり、ベッドで寝る美里に背を向ける。
「兄さん」
「ん」
 俺は出来る限り無愛想に返事をした。
「明日のお弁当は、いるの? 一応、作る都合があるんだけど」
「いらない」
 俺は即答した。
 やや間があって、美里が返事をした。
「……そう。じゃあ、おやすみなさい」
 俺は答えずに、そのまま眠った。


114 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:14:51 ID:ovH043UR

 俺が目を覚ましたとき、美里はキッチンに立っていた。
 顔をあげて枕元に置かれた目覚まし時計を見る。こんな早い時間に俺の目が覚めるのは、かなり珍しかった。
 俺は二度寝しようとして、再び目を瞑った。しかし美里の動く音が聞こえてくると、まったく眠れなかった。これもかなり珍しいことである。
 そうやって眠れず悶々としている間に、美里が玄関に向かう音が聞こえてきた。普段は俺の起床時間の四十分後ぐらいに一緒に家を出るのであるから、かなり早い出発である。
 そのまま家を出るのかと思ったら、突然美里の声が聞こえた。
「いってきます」
 もしかしたら、寝ているフリがバレているのかもしれない。そう思ったが、俺はドキドキしながらも何も答えなかった。
 少しの間何の音もしなかったが、やがて玄関のドアが開く音がしたあと、ドアが閉じてガチャリと鍵の閉まる音がした。

 美里の足音が遠ざかるのを確認してから、俺は布団から起き上がった。窓から差し込む日差しに目が痛い。俺は大きく伸びをしたあと、洗面所に向かった。
 顔を洗って戻ってくると、テーブルの上に朝食が置かれているのに気付いた。
 焼魚の載った皿とサラダの盛られた皿にラップがかけられ、その横にはお茶碗と味噌汁のお碗が伏せられている。
 キッチンを見ると、コンロの上にはいつも使っている鍋が置かれていた。
 俺はキッチンまで歩きコンロに火をつけたあと、炊飯器からお茶碗にご飯を盛り、味噌汁が温まるのを待ってお碗に入れた。
 座って箸をとり、誰にともなく言った。
「いただきます」
 お茶碗を手に持ち、ご飯を一口、口に運ぶ。

 いつものことながら、凝った朝食だと思う。専業主婦ならともかく、それは高校生が学校に行く前に作るような朝食ではなかった。
 考えてみれば、美里は毎日頑張りすぎなぐらいに家事をしていた。
 学校に通う身でありながら、二人分の食事を作り、掃除をし、洗濯をし、買い物をし……。本来ならば互いに助け合うべき高校生二人きりの家庭において、美里はそれらの家事をすべて一人で行なっていた。
 そんな知っていたはずの事実を改めて認識して、俺は心にズキンと来るものを感じた。
 今までは、俺には美里に従わされているという意識があった。それは被害者意識のようなもので、美里に頼りきっていることに対して、まるで免罪符のように働いていた。
 だが進藤さんと付き合うということは、美里から離れるか、あるいは美里への愛を知る結果になったとしても、美里と対等な立場に立つことを意味していた。
 そしてその対等な立場で見て、初めて俺は罪悪感のようなものを感じたのである。
 そして同時に、俺は美里への感謝の念を感じていた。
 もちろん二人きりで暮らすようになったのは、美里が両親を殺したためであり、それによって生じた苦労を美里が背負うのは当たり前かもしれない。
 だがそれでも、今回のことがきっかけとなって、美里に対する認識が変わることになるだろうと、俺はそう感じていた。

 食事を終え、学校へ行く準備を済ませて、俺は家を出た。
 アパートの階段を降りると、まだ五月だというのに強い日差しが体を照らし、汗をかく。
 俺はなんとなく横を見て、そこに美里がいないことに変な感覚を覚えた。


 学校に着き教室に入ると、俺は真っ先に進藤さんの席を見た。そこにはいつもと変わらず、本を読んでいるらしい進藤さんの姿があった。
 普段なら真っ直ぐに自分の席へと向かうところだが、俺は進藤さんの席によって一声かけた。
「おはよう」
 進藤さんは一瞬ビクンと震えたが、本から目をあげて俺の顔を確認すると、その顔に笑みを浮かべた。
「お、おはよう、菊池くん」
 その調子は相変わらず辿々しかった。
 俺はそのまま自分の席に向かい、鞄を机の横にかけて椅子に座る。何となくまた進藤さんのほうを見てみると、進藤さんは先ほどのやり取りを見ていたらしい河平さんにからかわれていた。


115 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:16:15 ID:ovH043UR
 退屈な午前中の授業を終え、昼休みになると俺はすぐに購買部に向かった。今日は弁当がないので、何か食べるものを買わなければいけなかった。
 購買部に着いたときには、俺と同じく昼食を求める生徒が列になっていた。結局俺の番が回ってきたときには残っているものは少なく、適当に惣菜パンを二つ買ってお金を払った。
 教室に戻ると、クラスメートはいつも通り数人ごとにグループになって昼食をとっていた。
 俺は自分の席に座り、先ほど買ったパンの封を開けて一人で食べ始める。
「今日は美里ちゃんと一緒じゃないのか?」
 見ると、既に弁当を食べ終えたらしい郷田の顔があった。
 俺は口の中のパンを飲み込んでから答えた。
「うん、ちょっとね」
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
 喧嘩と言えば喧嘩なのだろうか。だが、喧嘩と言うよりは俺の反抗と言うほうが近いかもしれない。
 どちらにしろ、ただのクラスメートである郷田に話すつもりはなかった。
「いや。別に何にも」
「そうか」
 そう言って郷田はどこか行こうとしたが、くるりと振り返り、また俺のほうを向いて言った。
「何かあったら、相談しろよ?」
 俺は思わず郷田の顔を見た。ただのお調子者だと思っていたクラスメートの言葉に、俺は少し驚いていた。
「何だよ、意外そうな顔して。友達なんだ、当然だろ?」
 友達。二日前にも同じ口から聞いた言葉が、何だか違って聞こえた。
「……うん。ありがとう」
 その場の会話は、そこで終わった。

 五年前のあの頃から、俺には友達がいなかった。
 事件のことを知って気まずそうに俺から離れていく奴も少なくなかったし、俺のほうから距離をとった奴も大勢いた。
 友達を作らなかった、と言えば少し傲慢だろうか。
 事件のショックが俺に何かしらの影響を与えたのかもしれないし、美里との関係が俺を人間不信にしたのかもしれない。いずれにせよ、俺には進んで友達を作ろうという気力が湧かなかった。
 だが美里から離れようと考えて、俺の心に何か変化があったのかもしれない。友達と言ってくれた郷田を、その時俺はひどくありがたく感じていた。

 午後の現代文の授業の後、ホームルームを終えて放課後に入った。皆でいよいよ明日に迫った文化祭の準備を始める。
 俺のクラスは昨日までの努力の甲斐あって、やるべきことはほとんど残っていなかった。教室から机を運び出し、手作りプラネタリウムの機材をセットするだけだった。


116 歪な関係 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/31(月) 21:16:42 ID:ovH043UR

 作業はかなり早く終わった。時計を見ると、下校時刻までまだ一時間以上ある。
「よし! みんなお疲れさまー!」
 河平さんが、皆に大きな声で言った。
「あとは明日、頑張るだけ! あ、これ明日の当番表。前に言っておいたのと基本的に同じだけど、少し変更もあるから」
 そう言って、河平さんは持っていたプリントを皆に回した。
 受け取った当番表から俺の名前を辿ると、前に聞いたのと当番の時間が変わっていた。だからといって、特に不都合があるわけではなかったが。
 解散した後、河平さんが顔に笑みを浮かべて俺に声をかけてきた。
「時間、あわせておいたから」
 その言葉に、俺は再び当番表を確認する。進藤さんが、俺と同じ時間に入っていた。
「明日、理沙と一緒に回ってくれるんでしょ?」
「今から進藤さんに言うとこ」
「そう。じゃ、私これからまた委員会の仕事だから。理佐をよろしくね」
 そう言うと、河平さんは手を振って帰っていった。
 俺は進藤さんはどこかと辺りを見回し、教室の隅のほうに彼女を見つけた。
 進藤さんはそこに下を向いて立っていた。おそらく明日の誘いに対する、俺の返事を待っているのだろう。
 俺が進藤さんに近づくと、彼女は怖々とした様子で顔をあげた。
「進藤さん」
「は、はい……」
 進藤さんは、まるで運命の刻を待つかのように身構えていた。大げさな、と俺は思ったが、進藤さんの性格を考えると当然かもしれない。
「明日のことだけど、いいよ。一緒に文化祭回ろうか」
 承諾の返事に、進藤さんの表情が一気に笑顔に変わった。
「い、いいの!? あ、ありがとう、菊池くん!!」
 そう言う進藤さんは本当に嬉しそうで、まさに今にも飛び上がらんばかりの喜びようだった。
 そんな進藤さんの様子に、俺は少し罪悪感を感じた。
 ――美里から離れるために、俺は進藤さんを利用しているのだ。
 進藤さんのことを嫌いなわけではない。むしろ可愛らしい女の子だと思っているし、ちょっとしたことに慌てたり喜んだりする仕草に、野暮な言い方をすればキュンと来るものも感じていた。
 だがそれでも、それは異性への好意とは違っていた。今後それに発展することがあるとしても、現状では違うのだ。
 もちろんまだ明日の誘いを承諾しただけで、進藤さんからの告白に返事をしたわけではない。
「あ、あの、今日、途中まで一緒に帰ってもいい……?」
 気がつくと、進藤さんが俺の顔を見上げておどおどと尋ねていた。
「……うん、いいよ」
 そう、まだ文化祭を一緒に回る約束をしただけだ。だが美里から離れるために、俺は近いうちに告白も承諾するだろう。

 ――美里から、離れるために。
 今や俺のすべての意識は、それに向いていた。
 進藤さんに対して悪いと思う気持ちは確かにあったが、それでも俺は美里から離れたかった。

 だがしかし、そもそも“誰かと付き合う”という形をとらなければ、美里から離れられないということが何を意味するのか。
 嬉しそうにする進藤さんの前で、俺は頭に浮かんだ考えを必死に打ち消そうとしていた。

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最終更新:2009年09月05日 22:33
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