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フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:40:20 ID:FOLmw3Pg
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夏休みに入っても、父親は見つからなかった。
リビングにあるソファーに座る。いつものように新聞が目の前のテーブルに置かれていたが見ようという気は起きなかった。
後ろのキッチンでは舞が鼻歌を口ずさみながら料理の準備をしている。
室内にぐるりと視線が巡った。大型の液晶テレビ。きらきらの時計だけを収納している棚。デスクトップのパソコンに、大きなガラス戸。
初めて家を訪れたものはよく言う。立派な家だ、と。一度はこんな家に住んでみたい、とも。
「お兄ちゃん、出来たわよ」
舞が朝御飯の支度を終え、手をエプロンで拭きながら言った。
「何してんのよ、そっちで食べるつもり」
反応がないので、焦れたのか後ろから両手で頭を掴んだ。それでも俊介は動かない。
舞は目を細めて、数秒考え、それから後ろから抱きついた。
「テーブルで食べないと行儀が悪いわよ」
耳を舐めるようにして囁いた。
「ここにもテーブルはあるだろ」
「これは机じゃない。まあ読み方を変えただけかもしれないけど。でも、リモコンとか雑誌とか置いてある机で食事をするのはよくないでしょう?」
正論だ。だが――それだけに鼻につく。
いつも通りの舞に腹が立つのだ。まだ朝だというのに、料理をした後の匂いすら癇に障った。
「別に食べられないってことはないさ」
「あ、そ。じゃあ勝手にしたら。ずいぶんと、贅沢なのね」
贅沢、という声に二重の意味がこもる。
あの店で働かなければならない朋美は、食べるものにさえ困っているのかもしれない。
何もかも終わった後にもがく様な既視感。つまるところ、悪いのは何も知らずにのうのうと生き、いまだ肉親である父親すら見つけられない自分自身なのだ。
「……ちゃんとテーブルで食べればいいんだろ」
「そうね」
食事はご飯とムニエルが自身の中央に鎮座されていて、左に胡瓜のお浸し、右にきれいに整えられた卵焼きが湯気を立てていた。
大きく息をつき、ちらりと視線をやる。舞も自分を見ていた。
「食べないの」
676 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:41:33 ID:FOLmw3Pg
なかなか食事をしないことに焦れたのだろう。疲れたような声をぶつけてくる。
「いや、食べるけど」
「菅野さんが気になって食事もロクに喉に通らない?」
「……」
「それとも、お父さんが見つけられない自分に腹が立って食事をする気が起きないもかしら?」
パクパクと食べながらも器用に口に食べ物がない時に喋る。
そして、その口にするどれもが気にしていることだった。それゆえ棘も刺し返したくなる。
「お前は、気にしていないみたいだな」
「お前?」
「だから……舞は気にしていないみたいだな」
「私? そりゃあ、お店で水をぶっかけられたりしちゃったからねえ。腹も立つわよ」
けたけたと口を歪めて笑う。
「あれは、確かにやりすぎだと思うけど。でも、お前にも非はあったから自業自得の部分もあるぞ」
「お前?」
「だから、舞のことだよ。目の前にいるんだからわかるだろ。何なんだ、さっきから」
「お兄ちゃん。私の名前は、舞なの。お前じゃない。私の言ってること、間違ってる?」
箸を置いて、手を膝の上に置いて言う。まるで、夫婦喧嘩で妻が夫を責めているような剣幕であった。
「いや……間違ってはいないけど。でも、そんなこといったら舞だって俺のこと、お兄ちゃんって呼ぶじゃないか」
「そうね。じゃあこれからは俊介君って呼ぶわ」
視線を外した兄に妹が責める。
「だめじゃないけど……そういう言い方されると舞の兄でなくなった気がするみたいでちょっと嫌だな」
が、俊介がそう言うと、一瞬きょとんとした後、急にどうしたのか、もじもじと体をゆすり、それは……ごめんなさい、と呟いた。
「じゃあまだ、俊介お兄ちゃんにしておくわね」
そう言うと、やっと二人は食事を再開した。
しばらく経って俊介は、
「なあ、舞もあいつを探してくれないか」
と尋ねた。
実は起きてからずっと考えていたことだった。自身ではもう、どうすることもできないほどに走り回っていたし、
舞は驚くほどに頭が回ることがあるから、もしかすれば自分が何か盲点になっていることをひょいといい出してくれるのではないかと思ったのだ。
「あいつって、お父さんを?」
「ああ」
677 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:42:28 ID:FOLmw3Pg
慎重に事を進めるつもりだった。
ときおり、「手伝うのが当たり前だ」と口を滑らせそうになり、慌てて俊介は言葉を飲み込む。
不思議な感じが体を襲った。
自分は舞に対して、何もやましいことはしていない。父親が見つからないから、共に探してくれ、と言っているだけだ。
菅野朋美がこうなったのは父親が何かしたせいだから、舞とて無関係ではない。
それなのに、この奇妙な切迫感。やってはいけないようなことをしてしまうような焦燥感。まるで必ず来るとわかっている天災を待っているかのようだ。
それに、と思う。
結局、自分はただ自力で見つけることができないから舞に逃げて、この無力感を分かち合いたいだけじゃないのか。だから、こんな気持ちになるのではないか。
「何でもするから、頼む」
その気持ちを否定するように、力いっぱい声を出す。だが、こんなことでこの根拠のない不安感が消えてくれるはずもなかった。
舞はしばらく下げられた頭を見て、ゆっくりと口を開いた。
「私の携帯、ね。極稀にだけど、お父さんから電話がかかってくることがあるの」
「な、に」
俊介は言い終わるよりも早く頭をあげた。
驚きを無視して、続ける。
「だから、ずっと私と一緒にいれば、話すことぐらいは出来るかもよ」
ごくりと食べ物を飲み込む音が聞こえた。しゃべっていたくせによくも流暢に話す。
対して俊介は混乱して、何を言われたのかが理解できない。
「それは……前からそうだったのか」
とりあえず、そう訊いた。自然に口からでた。
何も、舞の提案が理解できない、と言うことではない。
だが、彼女の言葉を深読みするならば、妹は自分の知らない間に父と連絡を取り合っていたということと同義になるのだ。
それは俊介の気持ちを安易に刺激した。
「別に隠していたわけじゃないわ。あの人は非通知でかけてくるし、内容も元気か、とか生活費は足りているかとかそんなものだから」
「俺は知らなかった」
「俊介お兄ちゃんはお父さんのこと嫌ってるじゃない」
「あんな奴どうやって好きになれってんだ!」
怒声が漏れた。一緒に机も叩いたので、傍に置いてあったコップが倒れ、お茶が床へと零れた。
678 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:43:10 ID:FOLmw3Pg
「とにかく。だから黙ってたの。余計な混乱を起こさせたくもなかったからね」
冷静な声が返ってきた。
トーンで自分の心情を図らせないような卓越した声だった。
そんなことには一切気付かず、舞の顔を一瞥して、こぼれたお茶を見た。先日の朋美との一件がフラッシュバックする。
ぐっと奥歯を噛んだ。
今はそこは問題ではない。怒ってはいけない。
が、我慢できず一言だけ口にした。
「俺は……舞にあいつと話してほしくない」
「あら、やきもち?」
「は、はあ?」
「冗談よ。とにかく、もし非通知でかかってきたら私の携帯をお兄ちゃんが取ればいい。それで私が手を貸す、ということになるでしょ」
そう言って、舞はキッチンから雑巾を持ってくる。俺が、という俊介を手で制して床を拭き始めた。
「別にずっと一緒にいなくてもかかってきたら、俺を呼んでくれればいいじゃないか」
「そんなことができると思う?」
「……わかったよ」
落胆した声を聞いた舞は思わず笑ったが、床を拭いている者の顔など見られるはずもなかった。
679 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:43:38 ID:FOLmw3Pg
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夏休みに入ってから小枝子と会うのは三度目だった。
誘いは何度もあったが、俊介はそのたびに断っていた。
朋美のことがあったし、なにより、小枝子は最近おかしいほどに電話やメールをしてきたりして、正直に言ってしまえば困っていたからだった。
二度のデートも、特に何かした、というわけではない。家に呼んで、ただずっと話していただけだ。
その時も小枝子は、しきりにひっついてきたり手を握ってきたりしたが、家には舞がいたので何かできようはずはなかった。
そして、そのような機会は今日を境に永遠に失われると言っていい。俊介はそう思って小枝子を待っていた。
待ち合わせ場所の公園にやって来たのは、ほとんど二人同時だった。
辺りには人は少なく、奥にあるブランコに幼い男の子と女の子がじゃれあいながら遊んでいるだけだった。
「早いね」
俊介はまずそう声をかけた。緊張を悟られただろうか、と思うほどに声が遅れて出てきたような錯覚が起こったが、かまわず続けた。
「まだ三十分前だよ」
「私は一時間前から準備していましたから」
「一時間……すごいね」
「気にしないでください。私が好きでしたことですから」
明るい服が印象的だった。控え目な白のシャツに膝までの青いスカート。ベルトが一際目立っていて斜めに下げられている。
気合が入っている、のかどうかはわからなかったが、よれよれの服に半袖の上着を羽織っただけの自分よりはましだった。彼女は、きれいだった。
俺、最後まで馬鹿だな。そう考えたが、この方がかえって向こうも気持ちが冷めるだろうと思い、思考を止めた。
「風、強いですね。気持ちいい」
「そうだね。今日は比較的に涼しいみたいだよ」
ゆらゆらと木々が揺れている。
タイミングを計っているわけではなかったが、風が収まってから口を開いた。子供の声だけが遠くから聞こえた。
680 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:44:26 ID:FOLmw3Pg
「別れて、ほしいんだ」
途端、また風が葉を揺らすようにざあっと音をたてて起きた。
「え?」
「ごめん。もう日野さんとは付き合えない」
「な、に……言ってるんですか、急に。まだ今日、会ったばかりじゃないですか」
「今日遊んで、楽しんで、それから別れを言いだすなんて、そんな卑怯なことはしたくなかったから」
嘘だった。卑怯なことをしたくないというのならば、こんな中途半端な気持ちで付き合ってきた自分はもっと前から卑怯で狡猾だ。
「本当にごめん。自分でも最悪なやつだってわかってる。だから何発でも殴ってくれ」
「あの、すいません。よく、意味がわからないです。いえ、意味はわかっているんですけど……」
小枝子は一歩後ずさりながら、こめかみを押さえる。俊介が頭を下げて、土下座をしようとすると、やめて! と大きな声で止めた。
向こうにいた子供たちがこちらをじっと見つめだした。
「ちゃんと説明してください」
声は涙でかすれて聞き取りにくかった。
俊介は昨夜からずっと考えていたことを話した。もちろんそれは本当のことではない。
しかし朋美のことを話して、それでもいいから付き合っていこう、と言われたら返答に困るのだ。別れなければいけないのだから。
だって、朋美のことを考えたら、自分はもう恋人など作っていい存在ではない。
朝にそう再認識させられた。
「で、私からの条件だけど」
朝食が終わり、食器をすべて片付けると俊介の座っているソファーの横に来た舞が言った。
一緒に持ってきたティーカップからはダージリンの香りが匂ってきていた。
「条件?」
「何でもするんでしょう?」
猫のような目が光った。父親からの電話を取り次ぐ代わりに出す条件、ということに気づくのには少し時間がかかった。
「日野小枝子と別れて」
「え?」
「もう必要ないでしょう?」
「必要って……」
「菅野朋美はあんなに苦しんでるのに、自分だけ恋人を作ってるつもり? あの子はもう、普通の恋人なんか作ることはできないのに」
「恋人ができないってことはないだろ!」
「できないことはないわ。でも、男の範囲は限定される。広い意味で、ね」
確かにそうかも知れない。事情があったにせよ、すでにソープに身を沈めている女を喜んで迎える男は少ないだろう。
いつの時代も娼婦は敬遠されるものだ。
舞がごくりと紅茶を喉に通す。
「お兄ちゃんだって、全く考えてなかったわけじゃないでしょう?」
「……お前」
「お前?」
「舞、最近おかしいぞ」
「おかしいのは、俊介お兄ちゃんじゃない?」
舞は親指を舐めて、笑いながら兄の指に口づけた。
ねっとりとからみつくそれはダージリンの香りをさせながらも鎖のように背筋を締め付け、俊介のそれ以上の言葉を奪った。
だが朋美のことを考えれば、言われたことはおかしなことではなかった。
むしろ、あれだけ助けると言っておきながら、自分は小枝子と付き合っている、という方が何倍もおかしい。
小枝子を呼び出すためにメールしたのはそのすぐ後だった。
681 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:45:06 ID:FOLmw3Pg
「だからごめん。別れよう」
小枝子は、俊介の嘘を聞き終えると、しばらくずっと自分の体を抱きしめていた。
カタカタと先ほどから震えだした体を少しでも抑えるためだ。けれど、押さえた腕も一緒に揺れてしまっている。
恐怖で震えているのではなく、力を入れすぎて指先が揺れているのだ。
「私のことが嫌いになったんですか」
声がいきなり小枝子の口からついてでた。
「そうじゃな……いや、そう、かもしれない」
最初の嘘は二度目の嘘の罪悪感を和らげてくれた。これで最後だ、と唇を噛む。
気づけば、空の色がだんだんと移り変わろうとしている。空にできた雲が影を作り、奇妙に丁度よく、小枝子の体を影で覆った。
「本当に?」
丸い、黒い瞳が訊いた。
「え?」
「本当に、私のことが嫌いですか?」
「……」
「嫌いなら、そう言ってください。早く」
「別れてくれ、って言ってるんだ」
「つまり嫌いではないってことですね」
「……もう付き合うことはできない」
「だから、それじゃあわからないんですよ。私が嫌いなら、大きな声でそう言ってください。思いきりひっぱたいてくださいよ」
「……別れてくれ」
「…………あはは」
おかしな問いかけが続いた。
小枝子は話しているうちに何か思い出したかのように笑った。自嘲的な笑みだった。ただ、慣れないせいか、くつくつという変な音も口から出た。
「いつもこうなんですよね。私が我慢してると、皆、私を笑いながら蹴っていく。好きなものを横から取っていく。結局、手段を選ばない人が勝っちゃうんです。いい子なんて、本当に、本当に意味がない」
突然の独白。
682 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:46:03 ID:FOLmw3Pg
不審に思って、近づくと、
「ねえ、私の家に来ない?」
と小枝子は言った。変な、おかしな声だった。
「いや、だから、もうそういうことは」
「いいじゃないですか。それぐらい。友達でも家の行き来ぐらいするでしょう?」
そうかもしれない、が、いくらなんでも彼女でなくなった日に家に上がりこんで遊ぶ、ということはできない。小枝子本人に失礼だ。
「だめだよ」
「なら、どこかに遊びに行きましょう」
「それも、やめておこう」
「じゃあ、あそこの草むらでいいです」
首をかしげて問いかける。
公園にいた子供たちはすでにいなくなっていた。二人きり。距離なんてもうないのにどこか肌寒い。
「しましょう?」
俊介は言われたことにぎょっとして、何言ってるんだよと冗談めかした。すると小枝子は体当たりするようにして抱きついてきた。
「えへへ」
媚びるように見上げてくる。淀んだ目。暗い目。口元が曲がっている。いや、笑っているのだ。
足を後ろに引く。
「逃がさない」
彼女がそう言ったわけではない。彼女はそんなことが言える人物ではない。しかし、どこからかそんな声が聞こえた。同時に、その声に金縛りの効果でもあったのか動けなくなった。
手が足の付け根へと向かってくる。
「だめだって!」
声が空へと消えていく。大丈夫、大丈夫、と言いながらズボンのチャックを開け、手を伸ばしてきた。
しかし、どうしてもそれだけはと思った俊介は、動けない足の力を抜いて、転ぶことで状況を壊した。
二人がその場に倒れこむ。勢い余ったせいか、派手に体を打ちつけた。
683 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/10/01(木) 00:46:55 ID:FOLmw3Pg
起きながら、さすがにやりすぎたと思った俊介が大丈夫か、と声をかけようと彼女を見た。
すると、なぜか転んだことなどなかったような顔で、瞬きもせずに俊介をじっと見ていた。
「なんで? いいじゃないですか。誰でもやってることですよ。あ、でも、お昼に公園で、っていうのは少ないのかな」
「そういうことは、もう君とはできない」
「もう? 今まで一度もしていなかったじゃないですか。だから、させてあげます。恋人ってそういうものですよ」
そういうもの。何気なく言われた言葉は当たり前だ、という響きではなく、まるで隣の家は犬を飼っているんですよ、とでも言うかのような気軽さだった。
突然の変化に意味が分からず、俊介は立ち上がって一歩、いや二歩三歩と下がった。
何かうすら寒い恐怖感が告げる。下がれ、離れろ、逃げろ、と。
その二人の間にできた距離、間を小枝子はぽかんと眺めている。
「……冗談です」
小枝子は動かず、しばらくするとそう言った。明日からはまた、大人しい私に戻りますから、とも。返事はできなかった。
「でも、したいときは言ってくださいね」
「だから、別れてくれって」
「いや」
俊介の言葉を、低い声で遮る。そして清々しい、笑顔で傍まで来た。
「いやです。認めません。絶対に別れませんから。あなたの彼女は、私ですから」
唇が合わさる。
初めてのキスだった。付き合っていた時も色々とトラブルが重なってできなかった。でも今、こんなに簡単にしている。別れ話を告げた後に。
無理やり突き飛ばした。そうしなければ離れられないほどに強い力だった。
小枝子は尻餅をついたが、難なく起きあがる。また向かってくるかと思ったが、今度は何を思ったか、以前のように微笑んで言った。
「忘れないでくださいね。あなたの彼女は、私ですから」
そう言って、小枝子は振り向いて帰って行った。
呼び止めることなど露ほども頭になかった。
最終更新:2010年09月12日 21:30