いつかのソラ 第3話

75 :  いつかのソラ     2009/11/25(水) 22:13:17   ID:Q5NWnF9o
    〈11〉

     寝覚めは悪くなかった。
     睡眠時間はさほど長くはなかったのだが、体の調子は悪くない。
    「ふぁぁぁ~~~」
     欠伸が妙に響いて驚いた。
     簡素な部屋には布団と……布団と毛布しかないな。
     あれ、なんかおかしい。
     改めてこの部屋を見回して……そうやって、やっと納得する。

     ああ、夢ではなかったのだと。

     思い返すと昨日は異常だった。
     姉は情緒不安定になってしまうし、妹は妹で寝たままだし、友人は未来から来た妹だと言い張る。
     その上、昨夜は…………ああ、もう!!
     頭の中を引っ掻き回されて、上手く整理しておかないとおかしくなりそうだ。
     そういえば、一番の頭痛の種が見当たらない。
     今日、あいつには聞かなくてはならないことがたくさんある。
     さっさととっ捕まえていろいろとゲロさせなければ、どうにも明日からの寝つきが悪くなりそうだ。
     最後の記憶では確かに隣にいたはず。
     起き上がって、部屋の外に出て呼びかけてみても反応がない。
     二人の紗那が眠っていた寝室には小さい紗那が眠っているだけで、床に敷いてあった布団も片付けられていた。
     廊下にも、玄関にも、浴室や台所、リビングにも紗那の姿が見当たらない。
     もぬけの殻。
     辺り一面は真っ白な壁と簡素な家具だけで、まだ片付けの上手くない紗那からすれば成長したとも言えなくはないが、
     本当にここで生活していたのかも疑わしいほど必要最低限の物しかない。

     家や部屋は主を映す鏡のようなものだと聞いたことがある。

     部屋には個人の痕跡が残るという意味らしく、
     部屋の様子から趣味や興味、特性や性分といった個性を現す記号が部屋の中から読み取れるということらしい。
     でも、この家からは紗那の個性が見えてこない。
     この空間の印象は会うたびに馬鹿を言い合っていたあの宙のイメージとはかけ離れている。
     ただ生きてる。
     それが、何も無いこの家に残された記号。

     ―――そういえば、一つだけあったな。

     リビングの棚の上。
     この広い空間でたった一つ自己主張する存在。
     本人は見られたくは無いらしいが、本当に見られたくないのなら隠して外出するだろう。
     俺だって、出かけるときはエロ本を隠して出かける。
     知られたくないなら、自衛するのは基本。
     居ない人間に言い訳をこぼしながら、棚の前まで歩を進める。
     本音を漏らせば秘密を覗き見るというよりも、何でもいいから未来の紗那を知る手がかりが欲しかった。
     『悪い』と、心の中で一言呟きながら、昨日から横倒しになったままの写真立てに指を伸ばす。

76 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:14:21   ID:Q5NWnF9o
     なんで?

     口には出さなかったものの、頭の中を疑問符が埋めてゆく。
     わざわざこの写真である理由が分からない。
     もう古くなって色褪せているけれど、俺自身もよく知っている写真。
     二人で『入園式』の看板が立てかけられた校門の前で撮ってもらったもので、
     周りの親子が記念となる写真を残している中、不真面目な兄妹が馬鹿みたいな笑顔で思いっきりピースしている写真。
     こんなものが入ってるなんて思わなかった。
     期待していたのは未来の写真で、今よりもさらに昔の写真だとは思ってもみなかった。
     まぁ、俺からしてみればつい最近の写真ではあるが、
     この写真から読み取れるのは一年くらい前の写真にしてはそれ以上の年期を感じるということくらい。
     おそらくこの写真は紗那が未来から持ってきたものなのだろう。
     何度か取り出しては手にとって眺めているうちに手の油が染み込んで、写真の左隅は独特の色調に変色している。

     じゃあ、裏側はどうなってる?

     取り出した形跡があるなら、その理由は裏にあるかもしれない。 
     写真立て裏返して、止め具を外す。
     滑らかに動くところをみると、やはり何度か取り出しているのだろう。
     ぴったりとはまった裏地の木の板のわずかな隙間に爪を引っ掛けて、ゆっくりと力を込める。

    『バイバイ』

     空白だらけの写真の裏側には真新しいインクでそれだけが残されていて、理由もなく全身が震えた。
    「意味わかんねぇし」
     突然のゴールに膝が抜けそうになった。
     俺が教えた言葉だから、本当はこの『バイバイ』の意味をよく知っている。
     多分、あいつはもう帰ってこない。
     この部屋にも、俺の前にも……。
     俺たちが兄妹だったのはほんの一瞬で、たった一晩であっけなく終わった。

     夢から―――醒めてしまった。

    「……なんでだ」
     やり場のない感情を止められない。
     答えてくれる人間が帰ってこないと知っていても、問いかける。
    「助けが欲しいんじゃなかったのか?」
     だから今になって正体を明かした。
     本当に信じられる味方が必要だから、俺だった。
     違うのかよ。
    「頼ってくれよ……」
     これでも一生懸命やってきたつもりだ。
     足りないながら紗那とはちゃんと向き合ってきた。まっすぐに育って欲しかったから、意地を張ってきた。
     少なくとも現在までは。
     それでも足りなかったのか? それとも、未来の俺は紗那の信用を裏切るようなことをしたのだろうか?
     考え始めるとキリがない。
    「じゃあ、もう知らねーよ」
     もう子供じゃない。
     単純にそういうことなのかもしれない。
     未来の紗那はもう俺の手を離れているというだけ話。
     紗那が自分で出した結論がこの状態。
     そう思うことで気分を落ち着かせようとするけれど……そうじゃない。

77 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:18:33   ID:Q5NWnF9o
     悔しかった。

     紗那に気を使われたことが悔しい。
     そういう付き合い方はしてこなかった。
     だから、なさけなくて、悔しい。
     でも、俺は紗那が苦しんでいることを知っている。だったら……

    「………………なめるなよ」

     このままで終わらせない。
     あの愚妹にはまだ聞きたいことがある。
     巻き込んだのだからそれくらいの責任は果たしてもらう。
     それに……
     本当は紗那にも、まだ伝えたいことがあったはずなんだ。
     でなければ、こんな見つかるような場所に言葉を残したりなんかしない。
     まったく、何年紗那の兄貴をやってると思ってるんだ。
     姿に惑わされて、見るべきところを見ていなかった。
     きちんと向き合えたはずなのに、心の何処かで有り得ないって誤魔化そうとしてた。

     ならば今度は、どんな姿であろうと信じてやる。

     紗那は妹で、大切な家族だ。
     生まれた頃はまだ子供の腕にさえ余るくらい小さくて初めて抱いたときはひどく恐ろしかったのを覚えてる。
     こんなに小さいのに呼吸をして、生きていた。
     触れ合って肌から伝わる鼓動と温もりでそれを理解すると、今度はその小さな身体がとても重く感じた。
     重いくせに粗末に扱えば簡単に壊れてしまいそうで、ベットに寝かせるだけでもすごく気を使った。
     そして彼女が家に来てからは大変だった。
     あやしたり、オムツを替えたり、夜中にたたき起こされたり、同じ時間を共有しながら、
     やっとたどたどしくも言葉をしゃべれるようになったかと思えば、今では二足歩行して意味も分かってるのか知れないようなマセた事を言う。
     たくさん困らせられたけれど、思い返せばあっという間。
     ちょっとした成長に喜びを与えてくれて、今も特異な環境にも負けずに元気に明るく育ってくれている。
     だから、たとえ俺の知らない過去を背負って多少性格や見た目が変わってしまっていても、俺の妹であるならば何も変わりはない。
     俺の自慢の妹だ。
     守るのも、助けるのも、心配するのも、お節介を焼くのも、当たり前なんだ。

    「すぐに追いつく」

     着替えを済ませて大急ぎで準備を整えた後、まだ眠ってる小さな紗那にそう伝えて部屋から駆け出した。

78 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:19:41   ID:Q5NWnF9o
    〈××××〉

     透き通るような青。
     高くて広くて、どこか遠い。
     ここからでは届かない空。
     辺りからは草の匂い。
     ここは馴染みの場所であり、忌むべき場所でもある。

    「ごめんね、お兄ちゃん。また来ちゃった」

     学校からの帰り道。
     私が毎日ここに通っていたのは、ここ以外には私の居場所が無いからだった。
     友人や先生。
     知り合い。
     そして、家族。
     みんな私を心配してくれている。
     あの事件から四年。
     全ての始まりからすればもう十年近くになる。

    「今日もいつもどおりだった」

     あの事件の後から私を取り巻く環境は様変わりした。
     仕事中毒だった両親はようやく家庭を顧みるようになり、今では不出来ではあるがそれなりの家庭の形を取り戻しつつある。
     内心ではそれが不愉快ではあるが、周りから見ればそうは映らないらしい。
     不幸を背負って支えあう家族。
     同情を惹く存在となった私達家族に本当の事情を知らないものは皆、親切という名のお節介を焼いてくる。

    『大丈夫?』『大変でしょう?』『がんばってね』『苦しかったら頼ってもいいんだよ』

     はっきり言って、反吐が出る。
     どいつもこいつも私をネタにオナニーしてるだけだ。
     失意のどん底でもがき苦しんでいる哀れな少女を救って、
     生きているうちに何か善い事を一つでもしたって自己満足に浸りたいだけの偽善者。
     そのくせ、本気で私と対峙する度胸もない。
     有るのは鬱陶しい好奇心と刺激に対する飢え。
     心と腹の底から私を救いたいのなら、その冗談みたいな顔面で笑いながら全員首から上を掻っ捌いて死んでくれ。
     でなければ、その傲慢と欲深さとくだらない自尊心が腹の中で程好く醗酵して今にも臭い立ちそうなその口を閉じていて欲しい。

     悪人は上っ面の笑顔で近づいてくる。
     本人に自覚がなくとも同じ顔をして近づいてくるのなら、そいつは同類だ。
     そして、私の周りには悪人しか居ない。

79 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:20:07   ID:Q5NWnF9o
     だから―――私はいつだって平気な振りをしてきた。

     俯いてしまわないように顔を上げて、感情を殺して笑顔を貼り付けて、思い出させないように明るく振舞う。
     弱いからこそ興味を誘う。救ってやりたいなんて勘違いをする。
     ならば、平気な顔をしていればいい。
     自分が必要とされていないと知れば、そういう奴等は興味を失う。
     幸いにも私は上手くこなせた。
     そして、すぐに慣れた。
     形だけの日常は底が浅くて、泳ぐのも難しくはない。
     流れに身を任せれば、幸せではなくとも生きてゆくのに不自由もない。
     ただその影で、私はわからなくなってしまった。
     いつまで続ければいいかさえわからない演技と本当の自分の境界。

     誰も、本当の私を知らない。
     誰も、本当の私に気づかない。
     誰も、本当の私には近づかない。

     本当の私は、とうに錆付いてしまっている。
     本当の私を見てくれていた人が居なくなってしまった四年前から。

    「お兄ちゃん、もう明日だから……ここに来るのはこれで最後になるかもしれないね」

     返事は無い。
     それもそのはず、兄はここにはいない。ここにあるのは兄を表すものだけだ。

    「多分……これからする事をお兄ちゃんが許してくれないのは知ってる。
     だから許してもらおうとは思ってないし、助けて欲しいなんて思わない」

     また、私は嘘をついた。
     別に本心を伝えてもかまわないのに、私にはそれができない。
     いつしか私は嘘をつくのにも慣れてしまっていた。

    「ただ、これでもう最後になるかもしれないから……挨拶だけしておきたかったの」

     下手糞な嘘。自分勝手な言い分だとは思う。
     でも、こんな我が儘を聞いてくれそうなのはやっぱり兄しかいなかった。

    「バイバイ。そっちに行くことになったらよろしくね」

     私に答えるように凪いでいた風が動き出す。
     柔らかな風が頬に触れるとなんだか涙が出そうになった。

    「さよなら」

     別れの言葉。
     風に揺られて言の葉が遥か高く舞い上がる。
     最後にもう一度、兄の墓に手を振ってその場を後にした。

80 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:20:44   ID:Q5NWnF9o
    〈0.3〉

     こちらに来てから一週間。
     ここでの生活には相変わらず馴染めない。
     知っている町並み。
     知っている人々。
     知っている世界。
     あらかじめ得ておいた情報や未来の技術のおかげで生活には困らないし、何一つ不自由は無い。
     むしろ、無遠慮な心配をする人達から解放されて自由になったくらいだ。

     けれど、ここへ来ても何も変わらなかった。

     私はここに存在するはずのない人間。
     本来あるはずのないパズルの1ピース。
     当てはまる場所などなく、完成した絵の中にさえ居場所がない。
     誰も私を知らないということは、誰とも私は繋がっていないということ。
     逃げてきた先は今まで以上の孤独を突きつけてくる。
     何処に居ようと人は独りで、思い出にさえ居場所などないのだと。


     ただ、もう一度会いたい。


     初めはただその一念だけだった。
     もう一度顔を見ればそれで満足。
     その為にここに来た。
     だから、こちらに着いてからすぐに私は『実家』に向かった。
     なにしろ、ここは私の故郷。
     一歩踏み出すごとに記憶にあった懐かしい町並みが蘇る。
     進んだ少子化で取り壊しになる前の幼稚園。
     公園のブランコのペンキもまだ新しい。
     よくお菓子をくれた近所のおばあちゃんもまだ生きてる。
     擦れていた記憶が彩りを帯びてゆき、胸の奥で眠っていたはず感情が歓声を上げる。
     商店街から住宅街へ向かう坂を息を切らせながら駆け登り、
     早く、速くと急かしてくる本能のままに加速度を上げて最短距離を駆け抜ける。
     風を切って、風を切って。
     アスファルトを踏みしめ、住宅街の一角でブレーキを掛けた。
     表札を見るまでもない。
     ここだ。
     そのまま玄関を眺めて、どのくらい呆けていたかは覚えていない。
     そして、待ち望んだ瞬間はこちらの都合など考えてはくれなかった。
    「んじゃ、行ってくるから」
     突然玄関から出てきた彼は家に居る“どちらか”に軽く手を振ると、身を翻してこちらに向かってくる。
     心の準備なんて悠長なことを言う暇も無く、ごく自然な足取りで私達は擦れ違い―――その瞬間、嬉しくて体が震えた。
     当たり前だけれど、こちらではまだ生きている。
     その当たり前が大切すぎて息が詰まった。

     でも、次の瞬間に私は対峙する事になる。
     視界の端、足元を駆け抜けてゆく小さな現実と。

81 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:21:33   ID:Q5NWnF9o
    「こら!! 紗那、ズボンを引っ張るなよ」
    「だってきょ~はおやすみなんだよ!!」
     玄関から飛び出してきた少女が兄を行かせまいとズボンの裾を強く引っ張る。
    「今日は練習があるんだってば」
    「いっつもれんしゅーしてるんだから、たまにはあそんでよぅ!!」
    「ちゃんと帰ったら相手してやるからさ。だから、ほら」
    「うそつき!! かいしょ~なし!!」
    「そんな言葉、どこで覚えてくるんだよ……」
     困ったような呆れたような表情で兄は少女を引き剥がす。
    「だっでぇ……さいきんぜんぜんあそんでくれない……」
     既に泣きそうになっている少女はもう一度、兄のズボンを掴み直す。
     あれは当時の徹底抗戦の構えなんだろう。
    「あのな、お兄ちゃんは試合が近いから忙しいのは話したよな?」
     黙って俯いた少女はふるふると首を横に振る。
    「ほんとに?」
    「うぅ……」
     しばらく黙りこくっていた少女は、やがて名残惜しむように握っていた裾をゆっくりと放す。
    「……ごめんなさい」
     鼻声で降参する少女の頭を兄は荒い手つきでぐしゃぐしゃと掻き回す。
    「まぁ、確かに最近構ってやれなかったもんな。
     試合が終わったらちゃんと遊びに連れて行くから、いい子にしてお姉ちゃんと待ってろ」
     乱れた少女の髪を手櫛で整えると、まだ少し不満顔の少女の頬を横に引っ張って無理やり笑わせる。
    「ちゃんと約束したからな。それじゃ、お兄ちゃんいってくるな」
    「………………いっへらっひゃい」
     少し硬い手のひらがご褒美といわんばかりに少女の頭を優しく撫でる。
     兄が幼い私に向ける笑顔。
     包み込んでくれるような優しい声音。
     真っ直ぐな眼差し。
     失ったすべてがそこにあって……まぶしすぎて目を開けていられなくなる。

     あの頃は……
     それが当たり前のように、いつまでも続くと信じてた。

     少女のあんなに幸せそうな笑顔が滑稽に見える。
     あの娘はまだ知らない。その日常が儚いものだなんて。
     そんな笑顔はそのうちできなくなる。笑い方さえも忘れてしまう。
     そうして今の私みたいに指をくわえて見ていることしかできなくなるのだ。

     あの二階の窓から恨めしそうに幸福そうな兄妹を見下ろす影と同じように。

82 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:22:08   ID:Q5NWnF9o
    〈0.5〉

     22回。

     これはこの一週間で私と彼がすれ違った回数。
     一度も気づいてもらえず、目を合わせることさえなかった。

     馬鹿なことをしている。

     頭では重々承知している。
     私と兄はここでは他人。
     兄の世界に私は居ないのに―――私は愚行を繰り返す。

     気付いてもらってどうしたいの?

     真実を話せば気味悪がられるだけだし、無理に干渉して歴史を変えれば私という存在は危うくなる。
     今は息を潜めて待つしかない。
     私は私の要事だけ済ませてしまえばいい。
     それが一番安全で効率の良い模範解答。
     情報収集の期間を長めに確保したのはそのためだ。
     しかし私はもう何日も脳が導き出す正解を放り出してストーカー紛いのことをしている。
     正体がばれないようにと髪型とメガネで変装して、そのくせ事ある毎に先回りをして兄を待ち構える。
     姉の目もあるから、あまり目立った行動は危険なはずなのに……これくらいならまだ大丈夫だと自分で引いたボーダーラインを何度も修正する。
     偶然に目が合いそうになったりすると一喜一憂して……帰り着く頃には疲れだけが身体を支配している。

     私、なにやってるんだろ?

     矛盾だらけで少しも美しくない。
     わかっていて……今回は23回目。

     つい先日に兄の試合は終わっているので、日曜日の練習も午前中の軽めの調整だけのようだ。
     今回は兄と同じ学校の制服まで用意してくる周到ぶり。
     同じ学年のリボンをした見知らぬ顔が居れば、少しは興味を引くのではないかという可愛げのある罠。
     少し前の私が今の私を見たら抱腹絶倒するような光景だが、今の私は至極真剣に兄の後方に陣取る。
     あくまでさりげなく、かといって悟られないように距離を保ちながら、いつでも視界に入り込めるような位置取り。
    「なぁ、一緒にメシ食って帰らないか?」
     校門でチームメイトの一人が兄の肩を叩く。
    「悪い。俺、今晩メシ作らないといけないんだ」
     申し訳なさそうに断る兄に、チームメイトが不機嫌そうな顔を寄せる。
    「いつもそう言って帰るよな。たまには付き合ってもいいんじゃないの?」
    「俺もそうしたいんだけど……」
    「だったらいいじゃん。電話すれば問題ないだろ」
     馴れ馴れしい態度で勝手に兄と肩を組んで、帰り道の方向転換を図る。
    「いや、実は前から約束してて……」
    「そんなに時間は取らせないって。最悪、弁当買って帰れば文句も言わないだろ。
     実はな、最近知り合った女の子のグループにオマエのファンがいてさ、ちょっと顔出してくれれば俺も助かるわけ。
     適当に話を合わせて、話が盛り上がり始めたら帰ってもいい。
     だけど、お前だって独り身なんだろ? 家事もいいけど、たまには青春したって罰は当たらないさ」
     そいつは兄を利用しようとニヤニヤと軽薄な笑顔で食い下がる。


     ねぇ、いい加減お兄ちゃんが嫌がってるのがわからないのかな?


     今にも歯を押し上げて噴出してきそうな怒りを何とか押し留める。
     ここで出て行けば全てが台無しになる。
     それに兄ならば心配ない。こんな下賎な誘惑に負けるような……
    「しょうがない、ちょっとだけな」

     ―――何だろう、今の聞き間違い。

83 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:22:43   ID:Q5NWnF9o
    「よく言った!! そうと決まればじっとしている暇も惜しい!!」
     バンバンと兄の背中を叩くとそいつは携帯電話を取り出して何処かに連絡を取る。

     『約束』したのは、“私”とじゃなかったの?
     試合が終わったら遊びに連れてってくれるって先週約束したはず。

    「むこうは駅前で待ってるってさ。さっさと行こうぜ」
     携帯でいくらかの会話を交わした後、そいつはまた兄と肩を組んでぐいぐいと引っ張ってゆく。
    「はいはい。わかったからはしゃぐな」
    「な~に、すぐに『ちょっとだけ』なんて言えなくしてやるからか覚悟しとけよ」
     そのまま家とは逆方向に歩いてゆく二人の影を無意識のうちに忌々しげに踏みつけていた。

     あいつは邪魔。

     どうせ兄の興味を引くような存在はそこには居ない。
     先を知ってる私が言うんだから間違いは無い。
     だったらここで多少の干渉があったとしても結果が同じなら問題ない。
     歴史など知ったことか。
     たとえ幼い妹との口約束とはいえ約束は約束。きっちり守ってもらうのが道理。
     決して私は激してなんかいない。ただ、気に入らないだけだ。
     私が怒りを覚える理由なんか無い。
     おかしいな、自分はこんなに感情のある人間だっただろうか?
     こちらに来てからずっとそう、私が私じゃない気分だ。

     気配を殺し歩くこと二十分。
     駅前で三人組の女の一人が二人に手を振る。
     うるさそうな女と卑屈そうな女と頭の弱そうな女。
     どいつもこいつも兄とは釣り合いそうにない。
     おい、そこの卑屈。そんな露骨に卑しい目で兄を見るな。
     残念だけど、いかにも勝負してますってスカートの丈で誘惑したって無駄。
     なんだその猫撫で声は? 気持ちが悪い。
     さり気なく兄の横に移動しようとするな。うっとおしい。
     ああ、もう!! 鼓動がうるさい。
     出来の悪い芝居を見ている気分。結末を知っているはずなのに何でこんなにもイライラするのだろう。
     腹の奥底から食道を駆け上がってくる、熱くて濁った血溜まりのような何か。
     ―――落ち着け。
     兄の彼女になるのはもっと普通な女だったはずだ。
     私も幼い頃に数回しか会っていないけれど、あいつと違うのはわかるし、会えば思い出す。
     そうそう……ちょうど今すれ違った女みたいな―――

     え?

     まずい。
     もしかして、今日かもしれない。
     そうすると、ここに居るのはひどくまずい。
     少し離れた柱の裏から身を離し、撤収しようと振り向いた瞬間―――目の前にスッと影が差す。

84 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:23:07   ID:Q5NWnF9o
    「ねえ、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
     身長165cm前後。歳は中年。薄毛でメタボで嫌らしい眼つき。
     一発でピンときた。
     こいつだ!!
     兄さんとその彼女を引き合わせるはずの男。
     そいつが私の目の前で行く手を阻んでいる。
    「お構いなく……」
     彼女の後を追おうと早足で横をすり抜けようとした道筋をブヨブヨと膨らんだ手のひらに阻まれる。
    「いや、ちょっと話を聞いて貰うだけでいいんだけどね」
     そのままアブラギッシュな視線でねめつけられて、先程まで身を隠していた柱に背中を預ける状態にまで押し切られてしまう。
     腕の隙間、そこから覗く後ろ姿は次第に遠ざかってゆく行く。

     まずい!?
     こんなところで過去を変えるのはまずい。変えなきゃいけないのはもう少し先だ。
     まずい!?
     調子に乗りすぎた。なんでこんな馬鹿な真似をしたんだろう。
     まずいまずい!!
     違う。お前が絡む相手は私じゃない!! その汚い手を退けてさっさとあの娘を追いかけろ!!
     まずい。
     早くしないと、過去が変わる……

     その瞬間、ここに来て始めて目が合った。

    「おい、何見てるんだよ? さっさと行こうぜ」
    「えっ!? いや、あれ」
    「いいから行きましょう」
     私と兄の繋がった視線はあの卑屈に断ち切られ、そのまま力ずくで兄が引きずられてゆく。
     彼女になるはず娘はこちらをチラッと見て不憫そうな目を向け、それを振り払うように背を向けて歩き出す。
     そして、兄と私とあの娘の距離はどんどん離れてゆく。



     終わった。

     もう今更修復できるような状況じゃない。
     こんな凡ミスで私はたった一度のかけがえのないチャンスを失った。
     ……いや、もしかしたら、これで助かるかもしれない。
     兄に彼女が居なければ原因は発現しない。
     ……それこそ馬鹿な考えだな、アレはそんなに甘くはない。
     きっと兄は殺される。
     それが早くなったか遅くなったか、予想が出来なくなっただけの話。
     その証明が“ここ”にある。

     もう一度兄達が居た方向を見やると、一団は姿を消していた。
     兄は私を助けない。
     私はあの娘ではないのだから。

    「ごめんね……お兄ちゃん……」

     救えなかった。
     そのために来たのに、私は……

85 : いつかのソラ    2009/11/25(水) 22:25:36   ID:Q5NWnF9o
    「いい場所知ってるから、そこで話そうか」
     私の了解も得ずに、腐った肉塊が肩を抱く。
     気持ち悪い。
     不愉快だけど、それを振り払う気力さえ湧いてこない。
     お尻の辺りを脂ぎった指先が這い回ると吐き気がする。
     でも、もういいのかもしれない。
     もう私はここに存在する意義さえ失っている。

    「ちょっと、おっさん」

     声が降ってきた。
     なんだかとても安心する声。
     なんだろう……
     顔を上げると、彼がいた。

    「へぇ……おっさん課長なんだな。いいのか? 課長がこんなことしてさ」
    「な!?」
     彼は名刺入れを課長らしき薄毛に付き返す。
    「財布と一緒にポケットからはみ出てたぞ。普通は胸元に入れとくもんだろうに」
    「ど、どうするつもりだ」
    「一枚貰っとく。ついでに友達を離して欲しいな………課長?」
     一連のやり取りも、醜く走り去って行く後姿も視界には入ってこなかった。
     ただ兄の顔を間近で見つめながら一つの言葉を思い浮かべる。

     運命。

     安っぽい言葉ではあるけれど、私はそれを疑ったりはしなかった。
     私達は本来なら意図して出会うことの決してできない二人。
     こんな素敵な偶然に理由を付けるのならば、それ以外の言葉は見つからない。
     だから、これはやっぱり運命という解釈で間違いない。
    「………」
     私は何かを呟いた。
     だけど、少しも感情が言葉に乗らない。湿った空気が唇を薄く湿らせただけ。
    「とんだ島○作だったな」
     兄は奪った名刺を私に渡す。
    「ん? 前に会ったことあるか?」
     声が出ないので、思わず首を横に振ると勘違いした兄が少し距離をとる。
    「ああ、悪い。これじゃ下手なナンパだな。
     でもどっかであったような気がするんだよな。既知感ってやつ? ま、学年も同じみたいだから当然か」
     照れ笑いしながら兄はスッと手を上げて踵を返す。
    「まぁ、よろしくな。俺はB組の紅崎」
     何気なく兄に微笑みかけられた。

     その刹那―――衝撃が疾く、雷のように私の心臓を貫いていった。

     ああ、そっか。
     私は私にさえ嘘をついていた。
     顔を見れば満足、ただ救えればいいだなんて、そんな理想論で誤魔化していた。
     兄が私に向けていたあの笑顔……私はどうしてもあれが欲しかった。
     私の手元に取り戻したかった。

     やっと気づいた。
     私、恋してる。

     気づいてしまった瞬間から、錆付いていた乙女ココロが動き出す。
     最初は錆を落とすようにギシギシと不快な音をたてていた心臓が次第にテンポを上げて高鳴ってゆく。
    「ち、近いうちに礼に行くから」
     伝えたいはずの感謝の言葉が素直に出てこない。
     出てきたのは搾り出すようなつよがり。これでは少しも可愛くない。
    「いや、そういうのは期待してないから」
     話しかけられるとは思ってなかったのか少し驚いた表情で手を横に振ると、兄は早足で家の方角へ帰ってゆく。
     どうやら、私は体裁良く家に帰るための言い訳にされたらしい。
     それでもかまわない。
     やっぱりあの人は私のお兄ちゃんだ。
     駅前の人混みに霞んでゆく後姿。
     ずっと追いかけてた懐かしい背中を私は見えなくなるまで眺めていた。

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最終更新:2009年12月15日 14:19
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