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血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:28:11 ID:A87FtMBq
「……こいつはひどいな」
鼻孔に充満する腐ったような臭いに顔をしかめながら、篠北署の刑事、北沢は呟いた。
深夜の住宅街である。
北沢のいる建物の外では二台のパトカーが横付け、赤色灯で辺りを照らしているはずだった。
何事かと付近住民が野次馬に押し掛けているはずだが、その相手をするのはこの地区の巡査の仕事だ。北沢の相手は目の前にいる二人である。
現場は道場だった。木造の板張り。昨今流行の、雑居ビルのフロアを拠点とするようなところではない。本来なら木の匂いのするであろう建物だ。
そんな中で、辺りを動き回る鑑識の青い制服はひどく場違いだった。着流し姿の北沢の方がまだ馴染んでいる。
広さは小学校の教室を二つ、三つ足した程度。剣術の稽古をするなら同時に十人程度が限度だろう。素振りだけなら倍は入ろうが。
正面には神棚。奉納されているはずの刀は、今は外されている。向かって左側は母屋に続く扉。右側の壁には、門下生の名札がずらりと並んでいる。
北沢は右側の壁際に寄り、最も神棚寄りにある名札の一枚を手に取った。
師範、浅賀行正。
この道場の主であり、浅賀流剣術の元締であり、そして、道場の真ん中で死んでいる男でもある。
仏は二人だった。共に道場の真ん中に伏して、板張りに血を染み込ませている。
一人は浅賀行正。年の頃は60前後。紺色の作務衣に包まれた体躯は、熊の如く鍛え上げられている。
もちろん全盛期と比べれば多少は衰えているが、それでもそこらの若者とは比べ物にならないだろう。彼が屈強の剣術使いであった証である。
もっとも、彼を知っていたからと云って判別がつくとは限らなかっただろう。
浅賀行正の顔は、縦真っ二つに断ち割られていた。
二つに割れた頭蓋骨の断面から、血と脳漿がどろりと溢れ出している。この場所を覆う耐え難い臭いの半分は、それが原因だった。
「……ったく、浅賀の爺さん。最後の最後まで剣術家かよ」
無残な躯を晒す浅賀行正の右手には、一振りの太刀が握られていた。つくりから見て、神棚に奉じられていたものに間違いない。死してなお刀を手放すまいとする姿は、悪鬼の類にも通じて見える。
損傷は顔だけではない。左手の指が、人差し指から小指まで、第二関節の辺りで一直線に断ち切られていた。その先端はぼろぼろと床に四つ転がっている。しばらくソーセージは食いたくないな、と北沢はちらりと思った。
北沢は生前の浅賀行正を良く知っていた。
それは傷害事件を度々起こす(決まって正当防衛ではあるが)のに加え、かつて北沢自身がこの道場に通っていたことがあるのだ。つまり門下生になる、もう二十年も前の話だが。
北沢の知る、浅賀行正という男は、豪放磊落を絵に描いたような男だった。道場でも署でも、一度もやり込めた試しがない。常にふてぶてしい態度を崩さない老人だった。
それがこうして顔を割られて、無惨な死体になっている――――
「……すみませんでした北沢さん」
「おう、榊」
よろよろと、気分を悪くしていた後輩の刑事が、北沢の横に戻ってきた。服装は北沢とは違いスラックスにYシャツ。その顔色はまだ青い。
彼は配属されてまだ半年の新米刑事だった。ベテランの北沢とは二十年以上の経験差がある。
「しっかりしろよお、榊。殺しも辻も初めてじゃあないだろが」
「はい、そうなんですが……さすがにここまでひどいのは……」
殺しは殺人事件、辻は刀剣類による傷害事件を指す。
榊が顔をしかめて見やるのは、老人ではなくもう一つの方の死体だった。
着物を着た女性だった。年の頃は四十前後。顔に傷はなく、籐は立っていたが中々の美人だと言えた。
腹を裂かれ、はらわた――小腸か大腸――を周囲にぶちまけている女に、そういう感想を抱ければ、だが。
女の名前は浅賀春江。浅賀行正の娘である。それは既に確認が取れていた。
彼女の腹は無惨にも抉られ、着物ごとぐちゃぐちゃになり、周囲には絡まったロープのように腸が飛び出し千切れている。死体を中心に半径3mの範囲では血の雨でも降ったかのように血痕が散らばっていた。
道場に充満する、血の臭いをも凌駕する腐敗臭は、撒き散らされた内蔵が主な原因だった。無惨な躯と併せて、気分が悪くなるのも仕方がない。
だが北沢は平然としたものだ。治安が悪化した昨今、辻斬り事件など珍しくもない。
「そうだな……まず爺さんを叩っ斬って、それから女に手をかけて嬲り殺したってところか」
「やっぱりこれ、辻なんすか?」
「ああ。腹のも頭のも、こりゃ刀傷だ。特に爺さんの方は、見事な唐竹割だな」
「……よくわからないんすけど、刀でこんなふうに、人の頭って斬れるもんなんすか?」
「おお、いいところに目えつけたな。無理とは言わんが、難しいだろうな」
40 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:28:48 ID:A87FtMBq
北沢は着流しの袖をまさぐる。気付いた榊が、先輩の名前を呼んで注意を促した。現場で喫煙など当然法度である。
ベテラン刑事は舌打ちし、手にした名札を弄んだ。
「日本刀ってのは刃筋を立てなきゃどうにも斬れねえ。どんな怪力で殴ろうが、巻藁一本斬れねえのさ」
「はあ……それじゃ、下手人も剣術家ってことですか?」
「それも相当な、だな。考えてもみろ。巻き藁じゃあるまいし、浅賀の爺さんも黙って斬られるわけがないだろ」
「じゃあ、まずその線で当たってみるべきっすね。この近辺で、強い剣術家っと」
榊がカリカリと、メモ帳に何やら書き込む。その様を見て、北沢は僅かに嘆息した。
剣術家にとって強い弱いなどと言うものは、本質的には存在しないのだ。たとえ無敗の者とて、言うなれば薄氷の上の勝利を重ねてきたようなものだ。
何故ならば、剣術の勝負というものは機を奪い合うもの。そしてその機が本当か見せかけか、見抜けるか否かは運と観察力にかかっている。見誤れば――負ける。
確かに浅賀行正は屈強の剣術家であった。技の冴えも眼力も、北沢が知る限り随一である。
しかしそれでも、体調が悪い時もある、たまたま機を見抜けなかった時や、あるいは逆に相手が上手な時もあるだろう。
これが例えばパワーとスピードのぶつかり合いならば、なるほど強い方ははっきりしているのかもしれない。だが剣術の勝利とはそういうものではないのだ。
とはいえ北沢は、そういった講釈を長々と後輩に垂れることはなかった。どちらにしろ、素人に毛の生えたような人間に斬られるような人間ではないのだ。浅賀行正という男は
ただ
「……どっちにしろ、この道場も終わりかもな」
「え、そうなんですか?」
きょとんとした顔で問い返す榊に、北沢は舌打ちをしかけた。この青年は空手道場に通っているはずだった。確か国内でも有数の規模を誇る。
ならばわからないのも無理はないかもしれない。
「考えてもみろ。こういう小さな道場が、どうして門下生を集められるっつったら理由は一つしかない」
学ぶ環境が良いとか、道場主の性格が良いとか、そういうのは関係ない。そんなもので門下生は来ないし、もっと大きな、道場をいくつも持っているような大流派に行く。
あそこの流派は強い――――それだけが支えである。
風評が全てだ。
浅賀流剣術という、この流派自体、あの老人が興したものである。正確には、それまで修めていた流派から一流を起こしたということだ。
そして浅賀行正は、あの廃都東京で暴れていたと言われている男なのだ(少なくとも生きて戻ったことは間違いない)。それだけでなく、実際にいくつもの大道場に挑んでは武勇を知らしめている。
それらの蛮勇あるいは愚行と呼ばれかねない行為も、全て一門の名を上げ、門下生を集めるためだろう。少なくとも、流派が組織として確立するまでは、そういう風評は必要なのだ。
だからこそ武術流派は、風評に拘る。それは面子などではなく、もっと切実に経済的な事情からだ。
それでは、その風評が破られてしまったらどうなるか。
例えば、師範が他の剣術家に斬り殺されでもしたのなら。
北沢は、手の中で弄んでいた師範の名札を壁に掛け直した。その右側には、ずらりと門下生の札が並んでいる。
「この名札のうち、何枚が残るか。この道場が果たして残るか……そういう問題になるだろうな」
「じゃあ、もしかしてそれを狙ったヤマなんじゃないんですか!? それなら立派に動機ですよ! まず同業者を当たりましょう」
「……まあ、そうなんだがな」
北沢は無性に煙草が吸いたくなった。ここでは駄目だ、まず外に出よう。現場を見るのはこれで、十分だ。
彼にとってこの道場は青春の一部だった。まだ榊程の年齢だった自分たち。道場主の一人娘である春江は、門下生にとっては憧れだった。結局、その想いは他の男が射止めたにしても。
もちろん態度としては、この新米の方が正しいのだろう。浅賀道場がどうなろうが、刑事としての職務には関係ない。切り離して考えるべきなのだ。
それが自らの過去にあった青春の終焉を示すものだとしても。
北沢は踵を返して、道場の外に向かった。慌ててついてくる後輩に、いつもの手順を確認する。
「第一発見は?」
「ええと、浅賀徹。浅賀行正の孫で、浅賀春菜の息子ですね」
血啜青眼
前篇
41 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:29:54 ID:A87FtMBq
西暦2000年を過ぎたころ、とくに武道道場が盛況を示したことについては、テロリズムの流行を抜きにしては語れない。
合衆国の主導による西側諸国の中東情勢への介入は、西側大都市を狙った中東勢力のテロ攻撃を招いた。それに対して西側は制裁攻撃を行い、中東はさらなるテロで応じた。
救いのない連鎖が始まったのである。
日本も攻撃対象になり、名古屋、大阪、福岡といった都市に大規模テロを受けた。
これに加えてアジア系の外国人犯罪者が急増したこともあり、世情は一気に不安化した。
このことが国民の危機管理意識を煽り、護身術を教える武道道場の繁栄に繋がったのだ。
戦後三期続いた石馬政権の政策により、元々武道が推奨されていたこと、刀剣類の規制が大幅に緩和された下地はあったのだろう。
爆弾テロに対して刀剣の扱い方や人の殴り方は役に立たないが、個人レベルの犯罪者に対する備えとしてならそれなりに意味はある。
また危機に臨んでの気構えを学べる、護身術を身につけることで安心感を得られる、といった面も重要だった。
かくして、治安の悪化に伴って諸流派の武道道場は乱立し、幕末以来の発展期を迎えていた。
――――とはいえ。
商売として見るのなら、武道道場も客の奪い合いである。武道を志す層の限られた人間を、まず剣術槍術空手柔道等というジャンルで分け合い、更にそのパイを諸流派が奪い合うのだ。
剣術道場は(幕末期がそうであったように)武術として選択する人間が多く、パイは大きかったがその分流派も多く競争は熾烈だった。
浅賀流剣術道場も多分に洩れずそういった争いはしてきた。最大のライバルは、川向うにある一刀流の大道場である。
いや、規模を考えればライバルにもならない。それでも浅賀流がそれなりの門下生を向こうから奪えていたのは、師範の勇名に依るところが多かったのだ。
……過去形である。
かたり、かたりと、静かな道場に木札の当たる音が規則正しく響いている。
それは、俺が壁に掛けられた門下生の名札を一つずつ外していく音だった。
祖父と母の死から一カ月。
既に道場は綺麗に掃除されていた。染みついていた血の臭いも、板張りの痕も拭い去られている。二人の遺体は司法解剖が終わり、葬儀も済み、既に荼毘に服している。
道場は事件が終わる前の静寂を取り戻していた。
だがそれは、以前の静謐な静かさではなく、がらんとした空虚な静けさだった。
「……ふう」
嘆息する。
不要な名札を外し終わる。残った札は、両手の指で数えられる程しかなかった。手元の札はその倍に上る。
外した名札の主は、全員この一カ月で道場を辞めている。残った人間も、いつ去るか分からない。
門下生が減れば、月謝即ち収入が減る。収入が減れば道場が立ち行かなくなる。そうなれば道場を畳むしかない。
この先のことを考える必要があった。
道場に漂う、空虚な雰囲気は。あまりにも巨大な祖父の死と、先行きの暗さが所以するものだったのかもしれない。
名札を床に置く。壁に掛けられた木刀を、取る。
道場の真ん中に立つ。神棚に一礼し、上段に構える。素振りを開始。
「ふっ……ふっ……」
風切り音が道場を支配する。
体に染みついた術理のみで、無心に素振りをする。
――――……
祖父と母の司法解剖は終わり、葬儀も済み、荼毘に服した。四十九日を待たずして、道場は再開していた。
師範は俺が継いでいた。祖父の孫、だからと言ってしまえばそれまで、だが。
その旨は既に門下生たちには伝えてある。
だがそれでも、この一カ月で門下生のほとんどは去って行った。
つまり……この俺では、浅賀流剣術の師範として役不足だということだ。少なくとも、去って行った彼らはそう判断したからこそ去ったのだろう。
それに憤慨してくれた人もいる。俺を支えると言ってくれた人もいる。
けれど俺には、去っていった人たちを責めることはできない。彼等が道場に求めているのは強さである以上、当然のことなのだ。
俺よりも年上で、腕の立つ門下生もいる。ならばそういった人に、師範を譲るべきなのかもしれない。
だが、それは
――――……
腕が上がらなくなって、木刀での素振りを終える。
気付けば、予定していた回数を大幅に越えていた。600回は振っただろうか。
俺が腕を休めるのと同時、横合いから声がかかった。素振りが終わるのを待っていたのだろう。
「徹兄様」
42 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:30:41 ID:A87FtMBq
夜だ。
何時からそこにいたのだろうか。彼女が母屋から道場に入ってくるのも気付かなかったらしい。不覚だ。
浅賀夜。二つ違いの、血の繋がりのない、俺の妹。
艶やかな黒髪は肩で切り揃えられ、切れ長の瞳はまっすぐに俺を見据えてきている。
女性としては長身な方だが、整った顔立ちと落ち着いた雰囲気が、彼女をひとかど以上の大和撫子に仕立てていた。
今は紺無地の着物に割烹着姿だが、しっかりと立つその姿の美しさは些かも損なわれていない。
時刻は昼前。彼女の体からは僅かに味噌の匂いがした。
「昼食か」
「はい」
「わかった。体を拭いてから行こう」
「どうぞ」
妹が近づき、手に持ったタオルをふわりと俺の首に掛ける。
そのまま離れるかと思いきや、夜はタオルの両端を握ったまま、俺の胸元に額を当てた。
艶やかな黒髪が、顔を下げた俺の視界を占める。乱れた道着の隙間から当たる妹の腕が、ひどく冷たくて心地よい。先程まで運動をしていた体と、洗い物をしていた手の温度差だ。
俺は空いている左手でそっと妹の肩を掴んだ。体を離させようとすると、ぐいとタオルに力を込めて妹が抵抗する。
「夜。今の俺は汗で汚れている。離れた方が良い」
「兄様、徹兄様。気にすることはありません。兄様が師範を立派に果たせると、夜は心より信じています」
「……」
俺が何を思い悩んでいたか、彼女にはお見通しのようだった。いや、壁際に積まれた不要の名札と、憑かれたように素振りを続けるにわか師範を見れば誰にでもわかることか。
去っていった門下生に対し、誰より憤慨し、そして俺を支えると宣言しているのは夜だった。
その証拠とするように、本来なら名古屋で大学生をしているはずの妹は、未だに実家で家事をしている。聞いてみればとっくに休学届を出しているらしい。
彼女は昔から道場を愛していた。女だてらに(というと夜は怒るが)幼い頃から剣術を学び、並の相手には負けないだけの腕前を身につけている。自らの刀も持っていた。
道場での稽古自体は高校のときに終えていたが、名古屋でも素振りは欠かしていなかったらしい。いい運動になりますし、首都は物騒ですから、とは彼女の弁だ。
「茂野様も師範代として支えてくれます。兄様ならば、すぐに門下生も戻ってきます。だから自分を責めるような悩み方はやめて下さい」
茂野殿は祖父の一番弟子のような人で、浅賀流で一二を争う腕前の剣士でもある。ここしばらくは隣町に道場を立てるために東奔西走していたが、事件に伴い戻ってきていた。
歳は俺よりも二十も上だ。父を早くに亡くした俺にとっては父代わりのような人で、葬儀の時も随分世話になった。
剣の腕も、実務も、指導も、俺よりずっと優れた人だ。ならば師範代などではなく
「……茂野殿に師範の座を譲った方が、道場のためなのかもしれない」
それは、俺の惰弱な精神が生み出した、あまりに情けない、妄言にも近い弱音だったのかもしれないが
その呟きがもたらしたものは劇的だった。
胸元の妹が、タオルではなく俺の襟元を凄まじい力で掴んだ。夜叉もかくやという、万力のような圧力。その細い体のどこからそんな力を搾り出したというのか。
夜が、顔を上げる。その整った顔立ちには何の表情も浮かんでいない。能面のような無表情。
だが、至近距離でじっと俺を見上げるその瞳の中には、焼きごてのような情念の炎が燃えていた。
ほんの少し、ぞっとする。いつも大人しすぎる妹の中に、なんであれそんな強さを持つものを見ることは滅多になかった。
「徹兄様……それがどういう意味か、お分かりですか」
「あ、いや……」
「兄様は夜を、捨てるのですか……?」
「そんなことはない!」
木刀を捨て、夜の両肩を掴む。がらんと、道場の床に転がる音。
妹の肩には信じがたいほどの力が篭っていた。火事場の馬鹿力というものか。がちがちに固まった部分をそっと包む。
顎を喉につけるように頭を垂れ、瞼を閉じる。
「すまない、今のは失言だった。どう詰ってくれてもかまわない。許してくれ」
「……いいえ、いいんです。こちらこそ取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」
「お前を捨てるなんて、そんなわけはない。絶対に、絶対にだ」
ふ、と襟元と肩から力が抜ける。すがるように、胸に手が添えられた。
そっと目を開くと、そこには普段の通りの、いや普段以上に愛らしい妹がいた。ほっとする。
頬を染め、目を潤ませ、熱い吐息が首元をくすぐった。何を求められているのか直感的に理解する。妹のこういうサインを覚えたのは、ごく最近だ。
「はい。夜は徹兄様をお慕いしております」
「ああ、俺もだ……愛してる、夜」
そっと目を閉じた妹をかき抱いて、俺はその小さな唇に口付けた。
43 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:32:02 ID:A87FtMBq
俺が八歳の頃。夜が六歳の頃だ。
当時、俺は事故で父親を亡くし、悲しみに暮れていた。その時に、浅賀家に引き取られてきたのが彼女だった。
その少女は同じ事故で死んだ、父親の親友の娘らしかった。以前の苗字はたしか上成と言ったか。
その時から彼女の髪は艶やかで長かった。それは以降もずっと続く、夜のトレードマークとなる。
元々片親で他に親戚もおらず、身寄りをなくした夜は、母の養女となることになった。
最も、子供にはそんな難しいことはわからない。俺にわかることは、父と入れ替わりに妹ができたということだけだ。
祖父と父は元々折り合いが余りよくなかった。父が入婿で、浅賀流剣術を修めなかったことが諍いの元だったようだ。
父は心根が優しく、他人を傷つけることに耐えられない人だった。祖父はそれを指して惰弱と罵ったが、俺はそうは思わない。そんな父から学ぶことはとても多かった。
だから、そんな父の親友の娘を、どうして祖父が引き取ったのか。それは少し不思議なことだった。母は父の死によって、しばらくショック状態に陥っていたことだし。
とにかく、そうして、夜は俺の妹になった。俺達は、すぐに打ち解けた。
何より俺達は、悲嘆に暮れる仲間だった。お互い、喪ったものを埋め合わせるように、いつも一緒にいた。
当時から俺は(父の代わりだったのだろう)剣術の修行に明け暮れていた。その内に、夜はそれを自分もやりたいと言い出した。
子供の門下生も、女性の門下生もいないわけではない。だが両方となると、当然いない。周囲が止めても、彼女は聞きはしなかった。そう、その時から妹は妙に頑固なところがあった。
その行動は、祖父の歓心を大いに買ったようだった。夜は髪を後ろでまとめ、祖父を師として仰ぎ、母のことも実の母親のように慕った。一年も経った頃、妹はすっかり浅賀家の一員となっていた。
後になって、夜に何故、剣術を始めたのか聞いたことがある。彼女は少しだけ頬を染めて答えてくれた。
「今は剣術も好きです。けど最初は……徹兄様と一緒にいたかったからです」
俺達はとても仲の良い兄妹だった。
…………
けれど
夜が俺を見る目は、決して妹としての視線だけではなかったし
俺が夜を抱く腕には、家族に対する愛情以外のものが確かに込められていた。
元々義理の兄妹だ。そうなったとしても不思議はない。
だけど二人とも、関係が変わってしまうのを心底恐れていた。だからずっと仲の良い兄妹を続けていた。
そんな関係が壊れたのは、祖父の言葉が切っ掛けだった。
…………
元々、祖父は剣術の強さだけを追及するような人間だった。それは本人の気質もあるだろうが、何より流派のためだった。
新興の流派に必要なのは何より強いこと、負けないこと。武術である以上は何であれそうだが、浅賀流では特に実戦性を重視していた。
基本的には一刀流の流れを汲むオーソドックスなものだが、祖父が実戦経験から会得したあらゆる工夫が技となっている。その中には裏技の類も多い。
たとえば目潰しや投剣を代表とする不意打ち騙し討ちの類だ。そればかりに頼ることを戒めてはいるが、綺麗な流派とはとても言えない。精神性も殆ど重視はされない。
一門の為には、強くあることが何より重要だったのだ。そうして祖父は、血縁に固執はしなかった。
「素養ある男なら、孫以外に師範を譲っても良いとはわしは思っておる」
それは、いい。何より指導者が強くなければ武道道場が立ち行かないことは、俺も良くわかっている。
そうして俺自身は、凡才の域を決して出ない器であることも。
「夜の婿になり浅賀家の一員となることが条件ではあるがな」
そ、れ、は。
それは。
道場に、流派にとっては何より強い指導者が必要だ。
そのためならば、夜を使って浅賀家に取り込み、一門を継がせる選択肢もある。
そういうことだ。
…………
44 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:33:19 ID:A87FtMBq
祖父は浅賀家の絶対権力者だった。母を溺愛していたが彼女はあまり自分の意見をもたない人で、門下生の誰かが諫めても、祖父は考えを撤回しなかった。
流派が栄えなければ、道場は潰れる。そうなれば一家は路頭に迷う。家長として合理的なあらゆる手段を用意するのは当然の義務だった。ましてや祖父は廃都東京で斬り合ってきた男なのだ。
俺と夜の間柄は、壊れた。
それまでお互いに、
なんとなく、こうしてずっと人生が続いていくような、そんな夢想を共有していたのだ。紆余曲折あったが良い家族に恵まれ、家業を継ぎ、その手伝いをし、今と同じような日々が続いていく。
けれど夢想は夢想だった。祖父から突きつけられた明白な未来を、俺たちは恐れた。今が変わってしまうのを恐れたのだ。
当時は二人とも高校生だった。
俺は剣士としてまだまだ未熟だったし、俺よりも剣腕で勝る大人は道場に何人もいた。
だから。このままでは、夜は他の男と結婚し、道場を継ぐのだと。殆ど確定したようなものだった。
妹は道場にあまり顔を出さなくなり、一緒にいる時間も格段に減った。そのうち名古屋の大学に進学し、殆ど会うこともなくなった。
俺たちは仲の良い兄妹ではいられなかった。
……ならば問題は、そこで終わるか、否かだ。
座敷で、妹と二人きりの昼食を取る。
門下生が使用することもあるので、座敷は広い。以前は祖父と母と俺の三人で、広い座敷を持て余し気味だった。
今はさらに広い。俺と妹しかいないのだ。持て余すというよりも、間借りしているような感覚。
対面の夜も、同じことを思ったようだった。困ったように微笑む。
「やっぱり、少し広すぎるかもしれませんね」
「別の場所で取るようにするか?」
「そうですね。それでも良いかもしれませんけど……家族が増えれば、ここも埋まるのではないでしょうか」
「……そ、そうだな」
家族が増える、とは言うまでもなく、俺と夜の子供のことであろう。彼女は頬をわずかに赤らめている。ある種の催促なのだろうか、これは。
俺と夜は体の契りを交わしたことはない。もしも交わすとしたら祖父に己を認めさせた後であるべきだし、なんとなれば式を挙げた後で十分と思っていたからだ。
性欲はある。当然、妹への愛欲はある。だが、そういった衝動が満たされないことを、全て稽古に費やしてきたからこそ今の俺があるのだ。それを我慢するのは当然だった。
多少気まずくなりながら、食後の茶をすする。夜も既に常態を取り戻し、穏やかに俺の急須に茶を注いでくれた。
「兄様は、午後は如何しますか」
「しばらく一人稽古をするつもりだ」
「もう、またですか……本当に徹兄様は剣術が好きなんですね」
「いや、まあ……」
その声音に責めるような響きを感じて、俺は返事に窮した。一体どう返答すべきなのか、頭を動かす。
剣術自体は、夜も愛着があるはずだった。今も素振りをしているというし(それは手の剣ダコで知れる)下宿先からも刀は持ってきている。
ならば俺のほうに問題があると考えるのが自然だ。つまり剣術ばかりやっていないで、少しはかまってくれという意思表示……なの……か?
「剣術も好きだが、最も愛してるのは夜だ」
「まっ……もう、兄様ったら! 兄様ったら!」
ばしんばしんと背中を叩かれ、危うく口に含んでいた茶を噴出しそうになった。や、やっぱり何か間違ったのか?
けれども妹はいたって上機嫌なようで、取って置きと思わしき栗羊羹を台所から持ってきて、さくりさくりと包丁を入れた。
小皿に移した数枚の栗羊羹が、昼下がりの陽光を浴びて黒く輝いている。
「どうぞ」
「ああ」
穏やかな時間が流れていた。
祖父が死に、母が死に、妹が戻ってきて、俺が道場を継ぐことになり。
何もかもが激変し、その対処に追われていた毎日がやっと終わり、日常というものに組み込まれようとしている。
永遠に続くものなどない。それはただの夢想でしかない。
関係性とは、いつか必ず変わるものだ。束の間の安息と急変の繰り返し。
だがそれでも、束の間の安息の為に、人はいかなる苦難にも立ち向かうことができるはずだ。
昼下がりの穏やかな時間は、来客を知らせるチャイムによって破られた。
45 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:34:13 ID:A87FtMBq
来客は北沢刑事だった。
薄汚れた着流しに身を包んだ冴えない中年男性だが、この辺りではベテランで通っている。
祖父と母の殺人事件の担当であると同時に、浅賀道場の門下生だった人だ。俺が生まれる前の話だが。
帯には今も刀と十手が差してある。身のこなしから見て腕は錆びつかせていないようだった。
もっとも警察官なら拳銃を所持しているはずだが……東京府ではないが、この地域でも愛刀嫌銃の風潮は強い。ひけらかすものでもないのだろう。
「おお、栗羊羹か。わりいな嬢ちゃん」
「……どうぞ」
座敷に上がった北沢刑事によって、栗羊羹は客人へのもてなしに消えた。今は夜にお茶を催促している。
いや、そんな目をされてもな。北沢刑事はれっきとした客なのだからにこやかにしてくれないか。
葬儀の時も顔を出していたが、あの時は忙しくて話す暇もなかった。
腰の刀を床に置き、どっかりと座布団に胡座をかいて、北沢刑事はまじまじと夜を見た。
「それにしても見違えたなあ、嬢ちゃん。随分別嬪さんになったな」
「どうも、ありがとうございます」
「前に浅賀の爺さんに聞いたことがあるぜ。たしか、名古屋の大学に通ってるんだったか?」
「はい」
「きゃんぱすらいふって奴か。どうだ、彼氏の一人でもできたかい?」
「はい」
「ああそうかそうか……ってできたのかよ!?」
「……」
湯飲みを取り落とし掛けて驚く北沢刑事と、しれっと答えて俺を見つめる妹。やれやれ、口を挟まずにいたが当て擦りだろうか。
しかし、丁度良いといえば丁度良い。俺は居住まいを正して、北沢刑事にその旨を告げた。
「実は、夜とは少し前から交際をしております」
「お、おお、ああ。坊主かよ。年寄りをあんまり吃驚させるんじゃねえ。そうか、お前らとうとう付き合うのか」
「はい。しかし、そんなにも驚かれていないようですね」
「そりゃそうだろ。お前と嬢ちゃんはずっと前から恋人同士みたいな空気だったしな。周りは随分やきもきしただろうよ」
「は……そういうものでしょうか」
「徹兄様は鈍感過ぎます」
妹にまでなじられる。今の受け答えに何か問題でもあったのだろうか。
「ま、とにかく目出度いな。こんな時だが祝わせて貰うぜ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「で、だ。爺さんの話なんだが、いいかね」
「ええ。夜」
「はい。どうぞごゆっくり」
目配せすると、夜が一礼してから座敷から去る。血生臭い話になりそうだ。妹に聞かせる必要もない。
北沢刑事が袖からタバコを取り出す。いいかい、と聞かれて頷いた。しばしの後、座敷に紫煙が燻る。座敷の机には祖父の使っていた灰皿がある。
旨そうに一服した北沢刑事は、事件の進捗状況をぽつぽつと語りだした。細かいことはいろいろあったが、結局
――――まだ犯人は捕まってない。
46 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:34:52 ID:A87FtMBq
「大体あの爺さんを恨んでる奴は多かったからな。有象無象を含めればどれだけいるやら。動機のある人間には事欠かねえ」
「確かに。しかしそれが祖父の生き様でしたから」
「まあ死人にどうこう言うつもりはねえけどよ。刑事の身にもなってくれってんだ」
「身内として申し訳なく思います」
「一応ホシは剣術家らしいってことなんで、榊に近くの道場を回らせてるけどな」
動機の面で言うならば、祖父の一件では付近の道場が最も利益をこうむっているだろう。いまや浅賀流は風前の灯だ。
とはいえ話したように怨恨の線も充分有り得る。
ただし金銭の類は奪われていない。物盗りではないことはわかっていた。
考えてみれば当然だ。何が悲しくて、刃物を持って剣術道場に押し込まないといけないのか。
北沢刑事が使い古した手帳を袖から取り出し、ぺらぺらとめくった。あちこちに付箋が挟まっている。
「おさらいするぜ。当日19時、坊主が出稽古から帰ってきたら、道場で二人が倒れてたんだな?」
「はい」
「出稽古に出たのは15時だったな。そのとき家には二人以外には誰もいなかった。二人に何か変わった様子は?」
「特には。祖父は趣味の仏像彫を、母は自室にいたようでした」
「で、倒れていた二人を見つけたらすぐに110番したと」
「はい」
「ふうむ」
がりがりと北沢刑事がボールペンで頭をかく。ぱらぱらとふけが舞った。
……忙しいのはわかるが、風呂は入ったほうがよろしいかと。
「どうも参ったな。ホシの足取りが全くつかめん。帯刀ぐらいなら珍しくもないし、たまたま人目につかなかったかもしれんが」
「が?」
「行きはともかく帰りはどうだろうな。相当返り血を浴びた痕跡がある。とてもじゃないが表通りは歩けねえよ」
「では犯人は付近の住人?」
「いや、それもない。だったら返り血が地面に落ちただろうが、道場の周囲に血痕はなかった。鑑識の連中はご苦労様だな」
「それでは、あらかじめ着替えを用意しておいた」
「だろうな、用意周到な奴だ。もしかしたら一風呂浴びていったのかもしれん」
「なるほど」
道場の裏手には門下生用のシャワールームがある。それを使えば痕跡を洗い流せるかもしれない。どちらにしろ着替えは必要だが。
「ところでこれは俺が疑われている流れなのでしょうか」
「お、わかったか? いやそう考えると流れがすっきりするんだよな。坊主なら必要充分な腕前もあるし、第一発見者が犯人なんて良くあるだろ?」
ぐはは、と北沢刑事が下品そうに笑う。もちろん冗談だ。昨今は警察機能の飽和に伴い検挙率もずいぶん落ちているらしいし、彼も他に幾つも事件を抱えているはずだ。疲れているのかもしれない。
少し、その息抜きに付き合うことにした。
「しかし動機はどうでしょう。俺が祖父と母を殺さなければいけない理由は?」
「そうだな。道場を奪いたかった……」
「門下生が1/3になってしまいましたが。本末転倒ではないでしょうか」
「……ってのはないだろうな。そうだな、嬢ちゃん絡みではどうだ」
「はい」
「坊主は嬢ちゃんに惚れていた。しかし道ならぬ恋。爺さんは夜ちゃんを他の男に宛がって、道場を継がせるつもりだった。嫉妬に狂った坊主は出稽古で腕を磨き、爺さんと居合わせた母親をばっさり……」
「いろいろ突っ込みどころがあるのですが、刑事ドラマの見すぎですか?」
「うはははは。いや下のガキが良く見てる探偵アニメの方だな。どうだい」
「まあ最初だけは合ってますよ」
47 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:35:30 ID:A87FtMBq
…………
一年、悩んで、決めた。
俺は――――俺は、夜を娶る。
他の才ある男など要らない。
誰よりも強くなって、誰からも文句を言われることなく、堂々と一門を継ぐ。
何故なら、俺が、夜を愛しているからだ。
剣術への愛情もある。浅賀流への愛着もある。
だが、何より俺は、妹を愛している。
あの艶やかな髪も、整った顔立ちも、小さな唇も、その背丈も、匂いも。
一所懸命に素振りをする姿を、後ろをちまちまとついてくる愛らしさを、軽い冗談で真っ赤になる純真さを、細かなところへの心配りを、丁寧な立ち居振る舞いを。
これまでも、これからも、過去と現在と未来の全てに於いて、浅賀夜を愛している。
俺と夜は義理の兄妹だ。血縁という障害はない。
障害があるとするならば、俺が弱いことだ。
ならば強くなろう。夜のために、俺は誰より強くなろう。
…………
覚悟を決めた俺は、全てを剣術に注ぎ込んだ。
高校卒業後、進学をせず道場の師範代として薄給を貰う身分となった。だが実際は、俺よりも腕の立つ門下生に教えを請う毎日だった。
道場が休みの日は、他の剣術道場に出稽古に出かけた。祖父の行状もあって当初はあまり良い顔もされなかったが、頭を下げて教えを乞うた。
夜は、体調が許す限りで、祖父と一対一での稽古だ。祖父との稽古は古参の門下生でも嫌がる。容赦の基準がずれた人なのだ。実際、嘔吐や細かい怪我は日常茶飯事だった。それでも俺はできる限り稽古を申し込んだ。
実戦も、経験した。真剣で斬り合うことに比べたら飯事のようなものだが、隣町のごろつき相手に幾度か大立ち回りをした。危うく警察の世話になるところだったときもある。
何より重要だったのは、日々の稽古の一振り、一振りに重みが宿ったことだ。
稽古をする目的ができた。果たさなければいけない目的ができた。目的ができた人間は、強い。
三年。
三年で、俺は道場の殆どの人間から勝ちを取れるようになっていた。機の読み方、技の鋭さ、判断力。いずれも以前よりも比べ物にならないほどに。
まだ祖父には歯が立たなかった(勝ちを取れるのは五回に一度程度だ)が、道場の門下生では一目置かれる存在となっていた。
残る当座の目標は、最古参にして、隣町で道場建設にかかりきりの茂野殿のみ。
夜が名古屋から帰ってきたのは、そんな冬の日のことだった。
…………
48 血啜青眼 前篇 sage 2009/11/27(金) 20:36:15 ID:A87FtMBq
昼下がりの座敷で、北沢刑事との益体もない雑談は続いていた。
「俺と夜は結婚できます。そして祖父を斬れるだけの腕前があるのなら、普通に一門を継ぐ資格を主張しますよ。出稽古もそのためです」
「おお、そりゃそうか。こりゃ一本取られたな」
「それに、たしか俺にはアリバイがあったのでは?」
「おう。犯行推定時刻当時、ちょうど出稽古が終わってるな。向こうの道場の証言もたっぷり取れてる」
「なるほど……そういえば、犯行時刻は特定されたのですか?」
「ああ。二つ隣の家で、道場の悲鳴を聞いた家族がいてな。この世のものとは思えない凄まじいもんだったそうだ」
それでは俺は瞬間移動でもしない限り犯人にはなれない。
動機、手段、アリバイの三つの要素のうち、手段しか満たしていないのだ。手段とて、俺が祖父と真剣勝負して勝ちを拾えるかどうか。
タバコを灰皿でもみ消して、よっこいしょと北沢刑事が立ち上がる。どうやらそろそろ帰るらしい。
「ま、思ったより落ち着いてて良かったぜ。うちの榊に見習わせたいぐらいだ」
「いえ、さっきまでずいぶん取り乱してましたよ。俺のような若輩者が祖父に代わって師範を勤められるのかと」
「へえ、そうは見えねえけどな」
「一人でだったなら取り乱したままでしょうが。俺には夜がいますから」
そうだ。
俺には守らなければいけない人間がいる。俺には愛する人がいる。それは重荷などではない。それは幸いなことだ。
北沢刑事が御馳走様、とばかりに肩を竦めた。
帰り際、ふとこんなことを聞かれる。
「そういや嬢ちゃんだが、大学やめてこっち手伝うのか?」
「どうでしょう。本人はそのつもりのようですが、俺としてはあと二年学生を全うして欲しいですね」
「しっかりしてんなあ。しかし手伝うとしたら……たしか嬢ちゃんも剣術はやってたんだよな、どれくらいの腕だ?」
「そうですね。やめてから四年ほど経ってますし、今の北沢さんぐらいでしょうか」
「おいおい、これでもまだまだ若い奴に負けるつもりはないぜ。ま、腹は随分出ちまったがよ」
「時間とその気があるならうちの道場に通ったらどうでしょう?」
「うはは、商売熱心だな。まあ、今は忙しすぎてそんな暇もねえんだ。じゃあ、またな」
「はい。よろしくお願いします」
最終更新:2009年12月15日 14:22