血啜青眼 中篇

219 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:01:14 ID:qyTud38y
夕食後、俺は一人、道場の中心で構えていた。
練習用の道着に袴、素足。手には木刀。構えは上段。真正面には神棚がある。
だが向かい合うのは神棚ではない。4m程前方に存在すると想定した敵手。
構えは同じく上段、俺よりも体格はやや大きい。同流派。実戦経験は10倍以上。体力はこちらが上。
じわり、と足指で間を詰める。呼吸を隠す。相手の呼吸を探る。
撃尺の間合いは相手の方が上。このまま進めば、相手の攻撃が届き、こちらの攻撃が届かない間合いに入る。狙うは、そこ。
10cm進むのに一分も掛け、間合いを詰める。その間ずっと、相手の動きに即応できる体勢を維持する。相手の先の先を警戒する。
一足一刀。相手の間合いに、入る。
気合いと共に、敵手が上段から刀を振り下ろしてくる。軌道はこちらの左肩から入り右脇腹に抜ける袈裟斬り。
即時、こちらも裂帛と共に一歩踏み込みながら鏡合わせの軌道で刀を振り下ろす。ただし狙いは振り下ろされてくる刀。
中空で激突。相手の想定よりも早いはずのタイミングでの衝撃に、競り勝つ。
結果、敵手の太刀筋は俺の左腕をかすめて過ぎ、俺の刃は相手の左鎖骨から入り、肋骨を断ち切って胸の半ばまで斬り込んだ。
――――浅賀流、鳥落(トリオトシ)
一刀流の流れを汲む流派では一般的な技法、切り落としである。
相手の攻撃を防ぎつつ攻撃、理想的に後の先を取る技である。今の想定では上手くいったが、無論問題も多い。
まず、難易度。刀に刀を、それも落下同士をぶつけるのは極めて難しい。敵手の運剣が想定よりも早いか、遅いかすれば良くて相討ち、悪ければ一方的に斬られて終わる。力で負けても同じことだ。
それから、機の読み方。今の想定では先を捕らえることができたが、もしも敵手がこちらの意図を読みとり、偽攻(フェイント)をかけられこちらが暴発したなら、無為に空振る。当然即座に斬られるだろう。
そして今の敵手はこちらの十倍以上の実戦経験を積む相手だった。意図が読み切られていないとは、考えにくい。
技の選択を誤ったか。
これが実戦ならば、斬られていたのはこちらだった、か。
目を閉じ、今一度構え直す。
想定。
俺は祖父に勝てるのだろうか。
だが、それは永遠に叶わない。
祖父は死んだのだ。
浅賀流が、かつての盛況を取り戻すことは最早無いだろう。あれは祖父の勇名あってのものだった。
その勇名は既に浅賀流のものではない。祖父を斬り殺した誰かのものだ。
ならば、どうすればいい。
かつての祖父のように廃都東京に出向き、この身に培った術理を駆使して勇名を――――馬鹿な! 夜を残して、そんなことができるわけがない。
ならば、祖父を殺した相手を追い詰め、打ち倒すか。警察よりも先に見つけることができたのなら、だが。
だが、それは永遠に叶わない。
叶わないのだ。



220 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:01:50 ID:qyTud38y

そうして幾度、斬り殺されたか。
気付けば汗みずくになっていた。敵手を想定しての稽古は、素振りよりも遙かに体力を使う。ましてやその相手が祖父となれば。
無益と言えばそうなのだ。存在し得ない状況を想定したところで、現実にはまみえる機会など無い。生者の相手を想定をした方がまだ有益だ。
例えば、祖父を殺した相手。
目を閉じ、その相手を想定する。
祖父がいかなる術理にて斬られたか。それはわからない。だが検死解剖の結果は北沢刑事から聞き及んでいる。
致命傷は、頭部の切断。
下から入ったものではなく、上から入ったものであることは間違いないという。ならば太刀筋は上段からの唐竹割、か。
だがもう一つ、祖父には傷があった。致命傷ではないが浅手とも言えない。左手の指が、人差し指から小指まで軒並み切断されていたという。
左手の指だ。
おかしな話ではある。これが手首というのなら、わかる。小手を打った後に唐竹割でトドメを刺したということだろう。新陰流は言うまでもなく、小手打ちを主とする流派は数多ある。
だが、わざわざ左手の指を切り落とす技、となるとわからない。いや、あるにはあるのだろう。浅賀流にも、鍔迫の中で相手の指を切り落とす術理が存在する。
しかし、祖父は右手で刀をしっかりと握りしめていた。戦闘は可能な状態だったのだ。指を切り落とされるのは浅手ではないが、それだけで即座に行動不能にはなるまい。
では……指は術理によって切り落とされたのではない?
たとえば、こう。左手をかざす。唐竹割を咄嗟に腕で防ごうとして、指ごと頭を割られたのか?
一つ先が繋がった気がする。だが、また一つ疑問が浮かび上がった。
どうして祖父はそんな真似をしたのか?
そもそも刀剣の一撃を防ぐのは簡単ではない。腕力だけで振られる棒振り芸ならともかく、体重が乗った運剣を防ぐには、こちらもがっちりと体を固めないといけない。
ただ太刀筋にひょいと刀を置くだけでは、勢いの差で弾き飛ばされ、防御ごと叩き潰される。ましてや今回は、人体の中でもっとも頑丈な頭蓋骨を一刀両断する一撃だ。指などかざしたところで足しになるかどうか。
これは、論理的な行動ではない。大体、何故右手の刀で防御の型を取らなかったのか。
取れなかった、と考えるべきだろう。何らかの方法で刀が封じられ、しかし左手は自由。こういう状態に陥ったのではないだろうか。
例えば、刀を叩き落とされていた。
これはありそうな想像だった。十手術を筆頭として(北沢刑事を疑うような短慮はすまい)古今武器落としの技法は数多い。
少なくとも、浅賀流において刀とは腕の力を抜いて振るうもの。不意の強打で取り落とす可能性は充分にある。
推定してみよう。
祖父は敵手の(何らかの)術理によって刀を落とされた。膝を突き、右手で転がった刀を取る。それとほぼ同時に、敵手が渾身の唐竹割。祖父は咄嗟に左手をかざすも、指ごと叩き斬られる――――
待て。
祖父は大の字になって倒れていた。膝を突いた上体で斬られたなら、膝を折るか膝を立てた状態で果てていなければおかしい。
それに敵の目の前で武器を拾うなど愚策だ。一度間を取り、他の武器を調達するのが(それを敵手が許すなら)正しいだろう。道場の壁には木刀が幾つも掛けられている。それは充分人間に対する殺傷力を保持している。
ならば、一体如何にして、祖父は斬られたというのか。
そして……母。
検死によると、引きずり出された腸の断裂には生体反応があったという。つまり、母は、生きながらにして腸を引きずり出された。雨が降ったかのように、周囲に血が飛び散っていた。
一体、どうして彼女がそのような苦痛と辱めを受けなければいけなかったのか。
歯を食いしばる。ぎし、ぎしと奥歯が軋む。
母は情の深い人だった。幼い頃の記憶では、いつも父の名前を呼んでいたように思う。母の人生はその頃が最も輝いていたのだろう。
父が死んでしまってからは抜け殻のようになって。家事や、祖父の言うことに唯々諾々と行うだけの、蜻蛉のような人になってしまった。
それでも、断じて、あんな死に方をしていい人ではなかった。
なれば、どうする。
斬るのか。見つけだして、斬るのか、下手人を。
……できるわけがない。

「徹兄様。夜もよろしいですか?」

そうして物思いにふけっていると
何時来たのか。
目を開けると袴姿の妹が、俺の前で小さく微笑んでいた。




血啜青眼

中篇




221 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:02:43 ID:qyTud38y

まだ祖父と母が生きており、俺が名実共に流派を継ぐため剣に全てを注ぎ、道場の殆どの人間から勝ちを取れる程になった頃。
ある冬の日に、妹が名古屋から帰ってきた。
連絡の一つもなかったので、俺や家族は驚いたが、喜んで迎えた。
夜は、この数年ですっかり大人びていた。
背丈が伸びたし、なにより服装が変わっていた。家にいた頃は地味な和服かセーラー服だったが、センスのいい洋服に、洒落たバッグ。化粧に、髪飾り。
そういうものに身を包んだ妹は、まるで別人のようだった。田舎の道場の一人娘などではなく、首都で一人暮らしをする大学生だった。
けれどトレードマークの艶やかな髪は前のまま、背中まで伸びていた。それがかろうじて、彼女が俺の妹であることを示してくれるようで。
「久しぶりです、兄さん」
「あ、ああ。久しぶりだな、夜。見違えたぞ」
「やだ、兄さんったら」
「くはは。こいつは剣術馬鹿もいいところだからな。いやしかし、徹の言うことも分からんでもない。これは男が放っておかんだろう」
「あのねえ、お父さん……でも、そうね。誰か佳い人でもできたのかしら、夜」
「もう、母さんまで」
……俺はひどく落ち着かなかった。
佳い人がいるのかと聞かれた時。もしも夜があの瞬間、頷いていたらどうなっていたのか。いや、俺はどうすれば良かったのか。
考えてみれば、妹は日本の首都名古屋で一人暮らしをしているのだ。俺の知らない出会いの十や二十、有っても不思議ではない。そして夜がそれになびいたとしても。
夜を娶ると決めたのは、あくまで俺個人の誓いで、夜がそのことを知るはずがないのだ。祖父の決めた相手と引き合わせられるぐらいなら、と思うのは当然なのかもしれない。
祖父自身がそれに寛容な態度を示したのは(皮肉なことに)俺が次期師範として頭角を現していることの証左なのだろう。
情けない話だが、絶望しそうになった。
夜が不意に帰ってきたのは、そういう存在を紹介するためではないのか?
乗り越えられる壁なら乗り越えよう。戦える相手なら戦えよう。だが愛する妹が自らの意志で決めたことを、一体どうして覆せるのか。
妹がひどく遠くなった気がした。いや、俺が現実の距離を初めて認識しただけなのだろう。

しばらく妹は実家で過ごすことになった。大学は春休みだという。
俺は迷いと絶望を抱えながら稽古と指導を行い、古参の門下生に心配されたり、祖父にどやされたりした。
運剣が明らかに鈍っていた。その時の俺は、子供相手にすら疑心暗鬼となり破れていただろう。機を奪い合う剣術において、迷いはそのまま勝敗に直結する。
これでは次期師範の正当性を示すどころではない。
幾度も後悔した。どうして妹に最初から、師範を目指してお前を娶ると伝えなかったのか。
だが、それは今だから言えることだ。あの時に言えるはずもなかった。内なる誓いならばともかく、実現するかもわからないものを妹に押しつけることなどできない。
ならば、夜を信じていたのか。
いや、俺は疑わなかっただけだ。
全ては移り変わるものだと俺は思い知っていたはずなのに、俺は互いの想いだけは変わらないのだと、何の根拠もなく楽観していたのだ。
俺がそうだからといって、夜もそうだとは限らないのに!
どちらにしろ、全てを試される時が来ていた。




222 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:03:50 ID:qyTud38y

妹が帰ってきてから数日後。
日が暮れた後、夕食の後夕涼みに中庭に出ると、そこには先客がいた。
夜だった。
帯刀している。服装は黄色のカーディガンに水色のスカートという洋装だが、スカートに通したベルトに刀を差していた。よく見るとそれ用の金具があるようだ。
そういえば、妹は帰郷に伴い大きなバッグを抱えていた。あの中に愛刀も入っていたのだろう。
彼女は素振りをするでもなく、両手をだらんと下げ、庭の真ん中でぼうっと月を見上げていたようだった。あるいは、誰かが来るのを待っていたような。
背中まで伸びる艶やかな黒髪が、月明かりに照らされていた。
下駄を庭石で鳴らしながら、近づき、声を掛ける。
「お前が帯刀とは珍しいな、夜」
「徹兄さん」
妹が振り返る。
兄さん、か……
帰ってきてから、夜は俺のことをずっとそう呼んでいた。前は、兄様兄様と慕ってくれたのだが。
こんなところにも断絶を感じるのは、俺の心が狭いからなのだろうか。
俺の表情から、言いたいことを見て取ったのだろう。夜は僅かに俯いた。
「大学の友達に、兄のことを兄様と呼ぶのはおかしいと言われているので……」
「友達か。仲良くしているか」
「はい」
その中には異性もいるのだろうか。きっといるのだろう。妹に惚れている男だって一人や二人じゃあるまい。
もしも夜が連れてきた男が『お義兄さん、妹さんを俺にください』等と言って来たらどうすればいいのだろう。
殴るか? 斬るか? まさか! 夜が身命を賭して行った決断を、俺が否定できるものか。
ならば俺が腹でも切るか。ああ、それは悪くない、悪くないかもしれない。けれど夜を悲しませてしまうことになるか。
そうだ、東京に行こう。剣々轟々たるかの街なら、無意味と果てた我が剣理も置き所があるかもしれない。及ばず果てるも一興だ。
「兄さん? 兄さん? 戻ってきてください、兄さん」
「お、ああ。どうした、夜」
「どうしたもこうしたもありません。話の途中なのに突然遠いところに旅立って、いったい何処に行っていたのですか」
「ちょっと、東京にだな……」
「東京府?」
「いや、なんでもない。ところで何の話だったか」
「もう……」
頬を膨らまして拗ねてしまう。少しだけ、以前の関係に戻れた気がした。
それはきっと、砂を素手で掬うような、ほとんど意味のないものだろうが。
ともあれ、妹は話していたらしい話題を再開する。
「兄さんは、誰か佳い人ができましたか?」
「俺がか? いや……」
この三年、刀ばかり振っていた俺にそんな相手ができるわけがない。付き合いがあるのは女性の門下生ぐらいだ。
即座に首を振って否定しようとして、留まる。
いや、俺にはずっと想ってきた女性がいる。
それはずっと口には出せず、気付けば出してはいけない言葉になっていた。だが、これは良い機会なのかもしれない。
俺がこれまで骨身を削るようにして努力してきたこと、全て無意味と化すか否か、今わかる。
「ああ、いる」
「――――そう、ですか」
「夜、俺は」

「兄様」

キン、と涼やかな音がした。それは、夜が鞘に添えた左手親指で、刀の鯉口を切る音だった。
そのまま、左手が逆手で柄元を掴み、刃が抜かれていく。
「もう嫌です」
「夜?」
「もう夜は嫌です。兄様のいない場所も、兄様のいない時間も、兄様のいない未来も、兄様のいない夜も、全て」
夜がいた。
見慣れない洋服に身を包んで、ベルトの金具で帯刀して、それでも彼女は夜だった。
左手で刀を半ばまで抜いた夜が、俺に柄を差し出してくる。
「兄様、徹兄様。夜を哀れに思うなら、どうか斬ってください。夜は兄様以外の男に自分を委ねたくなどありません。夜以外の女が兄様の傍にいるのも見たくありません。兄様、哀れに思うなら、どうか」
その眼は、まるで泥沼の中で沈んでいく小鳥のようだった。



223 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:04:35 ID:qyTud38y
悟る。
ああ、夜。俺の妹よ。そんなところにいたのか。
俺にはこの四年、夜を欲する心があり、師範に相応しい力量となって夜を娶るという誓いがあり、そのために剣術に全てを費やすという道があった。
だが、妹には欲求しかなかった。
それを叶えるための誓いも、そこに至るための道もなかった。ただ無意味にもがくことしかできなかったのだ。
それはある種の地獄だ。
沼に落ちた鳥と同じ、蜘蛛の網にかかった蝶と同じ、無意味だけが約束された残りの人生。
更に残酷なのは、そこから抜け出す手段だけがわかっていたことだろう。捕らわれた部分を捨てればいいのだ。
沼なら脚を、網なら腕を、人間ならば欲求を。自らの大切なものを、自ら切り捨てれば、その地獄から解放される。
だが、夜にはそれができなかったし、それを選ぶかもしれない己の弱さを憎んだ。
だから、そうなる前に――――斬ってくれと。
「兄様、愚かな妹をお許しください。夜は、夜は徹兄様を」
「待て、夜。先に俺に言わせてくれ」
俺は……俺は、感謝する。
妹がずっと地獄にいたことを、感謝などするのは兄として失格なのだろう。だがそれでも俺は感謝せずにはいられない。
ああ、夜、夜よ。俺の妹よ。
ありがとう。
俺の人生に意味を与えてくれて。俺の誓いを無意味にしないでくれて。
お前が想い続けてくれたからこそ、俺は救われた。全ては移り変わるものだというのに、それでもお前は変わることを必死で拒否してくれた。
俺がそうだったように、お前もそうだった。
その奇跡に感謝する。

「夜よ――――愛している。必ず幸せにするから、俺の妻になってくれ」
「――――え」

妹の目が、大きく見開かれた。
一歩踏み出し一足一刀の間合いへ。更に踏み出し、近間へ。そのまま両手で、夜の体をかき抱いた。
手に伝わる艶やかな髪の感触。しなやかな背中。胸に当たる膨らみ。肩に感じる吐息。化粧に隠れた懐かしい匂い。
それら全ては、かつて当たり前のように手にしていて、そして引き離されたものだった。胸に溢れる愛おしさと、ずっと長い間留守にしていた我が家にやっと戻ってきたような暖かさ。
ただいま、夜。俺は今帰ってきた。
「ずっと前から愛していた。お前と一緒にいる未来が俺には当たり前だった。離れ離れになってからやっとそれがわかった。愚鈍な兄を許してくれ」
「あ……兄様……兄様……!」
「夜。ああ夜よ。お前を苦しめてすまなかった。最初に伝えるべきだった。俺も、お前のいない未来など真っ平御免だ」
かきん、と鯉口とハバキが組み合う音がした。夜が刀から手を離し、重力に従って鞘に収まったのだ。
ぎゅう、と俺の背中に夜の腕が回り、痛いほどにしがみ付いてくる。迷子になった子供が、母親にすがりつくような必死さだった。
「にい、さまっ……とおる、にいさまっ……夜は、よるは……!」
「ああ」
「夜も……夜も……うあああああああ……!」
妹の顔がくしゃりと歪み、大声で嗚咽を吐きだした。子供のような泣き声が、しんと冷えた中庭に響く。
名古屋に行ってからの二年……俺と疎遠になってからの四年……俺の妹になってからの十四年……嵩を増してきたものが、堰を切って溢れ出したようだった。
その嗚咽を胸に抱いて噛みしめる。
これこそが、夜が俺に抱く愛なのだ。
大きく、深く、硬く、強い。自らを害するほどに、愛する人間に自分を刻みつけようとするほどに。
それは既に病理の域にまで達しているのかもしれない。だが、それは俺とて似たようなものだ。
浅賀夜は俺の妹で、最愛の女性だ。本来は別れるべきその二つが、俺の中では分かち難く結びついているのだ。それが異常でなくて何なのだろう。

妹はしばらく、俺の胸の中で泣きじゃくり
その後、こくりと頷いた。

「はい……徹兄様。喜んで……」

「夜は……兄様の妻になりますね……」




224 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:06:14 ID:qyTud38y
それが
二か月前のことだった。
あれから祖父が死に、母が死に、妹が再び帰ってきて、葬儀が終わり、俺が道場主となり、そうして
稽古をする俺の前に、何時来たのか。袴姿の夜が、小さく微笑んでいた。
「徹兄様。夜もよろしいですか?」
「ああ、構わないぞ」
俺が頷くと、妹は手に持ったタオルを俺に手渡してから壁際の木刀を取り、神棚に刀礼をした。俺は壁際に寄り、夜が入れ替わり道場の真ん中へ。
首筋を中心に拭うと、すぐにタオルは汗を吸取った。壁際にはポットが置いてある。夜が持ってきてくれたようだ。
蓋を外し、中身を蓋の内側に注いで飲む。よく冷えた麦茶が、熱く火照った体を程良く冷ましてくれる。
一方、夜は木刀を手に素振りを開始していた。振りかぶり、振り下ろすごとに勢いよく踏み込み、しっかと道場の床を踏みしめている。
浅賀流では刀を振るのに腕の力を重視はしない。むしろ脱力を叩きこまれる。
運剣の源とするのは全身の体重の力である。
足腰が進むことで体重が移動する。その力を剣に伝達し、斬撃を為すのだ。
腕力よりも体重移動力の方が圧倒的に強大だ。いわば体の一部分と、全身との比較なのだから。
自らの体重を1kgの剣先が為す遠心力に余さず乗せることができたなら。女子供でも剣を折り、肉を裂き、骨を断ち、内腑を斬ることができるだろう。
浅賀流では、腕を脱力して尚斬撃ができたのなら基礎ができたとみなす。各部の捻りに体重を乗せる技法もあるが、一先ず前進を力に変えるのが基本とされた。
……
見たところ、夜の基礎は出来ているようだった。四年ほど道場からは遠ざかっていたはずだが、素振りは欠かしていないというのは本当だったようだ。
素振りが百を数え、艶やかな黒髪から汗の滴が散るようになる頃合いを見計らって俺は声をかけた。
「夜」
「はい、兄様」
振り向いた妹は僅かに汗をかき、胴着から覗く肌はひどく艶めかしかった。
元々、夜は肉感的な性質ではない。引き締まった体躯はしなやかではあるが脂肪は薄い。
年頃の女性であり十分以上に美人ではあったが、色気よりは清楚とした雰囲気の方が強いのが、浅賀夜という人間だった。
そのことを妹が密かに気にしていたのは知っている。もちろん俺はそんな彼女をずっと好いてきたのだから、悩む必要はないと思うのだが。
しかし、今の夜には色気が備わっていた。汗をかいた首筋は、健康的な美しさではなく、むしゃぶりつきたくなるような艶めかしさを発している。
それは最近の、一度名古屋から帰ってきた後の変化だった。俺と想いを通じ合ったことが、妹の中で大きな変化を引き起こしたようだった。
一度眼を閉じ、雑念を払う。
「汗を拭いたら、一仕合しないか」
「夜が、徹兄様とですか?」
妹が、こくんと首を傾げる。俺は頷いた。
夜の門下生としての腕前は、基礎ができ術理のなんたるかも弁えてはいるが、中堅の一人といった程度でしかない。
もちろん剣術の強さとは不確かなものだ。夜が俺と打ち合ったとして、俺が負ける可能性はある。だが勝率で言うならば、十度に一度以上は取らせるつもりはない。
これが例えば祖父が相手ならば、夜が勝てる目は五十に一度あるかというところだろう。
腕からするなら、夜が胸を借りる立場になる。にも関わらず提案したのは俺からだった。加えて竹刀稽古ではない仕合とは危険なもの、軽々しく行うものではない。
そのことに対してしばらく首を傾げていた夜だったが、やがてこくりと頷いた。



225 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:06:59 ID:qyTud38y
籠手を嵌める。
いわゆる鬼籠手と呼ばれる分厚いものだ。小野派一刀流で使うものだが、浅賀流でも採用していた。
つける防具はそれだけだ。後は木刀。面と胴はつけない。
浅賀流では基本として、真剣と同じ重さの木刀を稽古に使う。
防具をつけての竹刀稽古もするが、理合が乱れれば激しい叱責が飛ぶ。そも、竹刀の重さに慣れては人体の切断など体が忘れてしまうだろう。
基本は型稽古であり、仕合は滅多に行われない。浅賀流の理合で木刀を振るえば、人間は充分死に至る。
この道場で仕合をするということは、少なからず命の危険を負うことになる。
とはいえ基本は、寸止めだ。ただし小手は近いため、止めが間に合わないかもしれない。そのため籠手だけは身につけることになっている。
籠手越しに木刀を握り締める。右手を鍔元に、左手を柄頭に添える(鍔のついた木刀だ)。
いささか不自由だが、それはお互い様だろう。向かい合った夜も、同じように籠手を嵌めたうえで木刀を握った。
「良いか」
「はい、兄様」
ピン、道場の空気が張り詰めた。互いの間合いは約5m。一足一刀の間合いには、3m程の距離がある。
構える。
俺の構えは、上段。木刀を肩で担ぐようにし、右腕を畳み、左腕を胸に引き付ける。剣先が天井を指す。
示現流でトンボと呼ばれる構えに近い。体重移動に加え、重力も加味した袈裟斬りは、敵を防御ごと打ち砕く威力をもつ。
更に威力を重視した最上段あるが、どちらも祖父が好んだ構えだ。
対して、夜は下段。
両腕をまっすぐに垂らし、剣先を地面すれすれに構えている。青眼をそのまま下ろしたような構えだ。上半身はがら空き。
これが夜の最も好む構えであり、術理だった。
「――――」
「――――」
同時、夜の体が動く。下段のままやや摺足で、見る間に間合いを詰めてくる。3m程の余分な距離が瞬く間に無くなっていく。
――――浅賀流、地滑(ジスベリ)

あるいは、地摺り青眼と云う。古流剣術の技法である。
太刀を低い位置に取り、素早く間合いを詰めることで、下段からの圧迫と時間制限で相手の思考能力を奪い、がら空きの頭部に上段を誘う。
だが、腰の浮いた切り込みが届くより先に、下段から跳ね上がった刺突が、喉元あるいは鳩尾を貫くのだ。
相手に攻撃を仕掛けさせておき、その攻撃が届く前に倒すのだから、これは典型的な先の機を狙う技である。
この術理の肝要は二つ。
一つ、心理的に敵手より優位に立っていること。
二つ、術理の詳しい内容を敵手が知らぬこと。
この技は相手の思考能力を奪って、軽挙な行動に出させることが肝。自分よりも優位に立つ相手に使うべきではない。
二つ目も同様である。術理を知られていれば動揺は半減する。もっともこれはあらゆる技に共通する条件ではあるが。
また当然ながら、先の機を狙う以上、相討ちの危険性も多分に孕んでいる。相手の鳩尾を貫くと同時、こちらの頭が割られる……というようなことも十分考えられるのだ。
持ち技としては有用だが、好んで使うような術理ではない。
どうしてその技なのか、と夜に聞いてみたことがあるが。帰ってきた答えは予想外の、ある意味女性らしいものだった。
『夜の腕力では、上段や青眼をずっと続けられませんから』
なるほど。
確かに、腕力を重視しないとは言っても限度がある。構えを維持する程度には必要なのだ。
だが、刀とは1kgの鉄棒である。
女性の力で、これが天頂を指す構えを維持し続けるのは確かに辛いかもしれない。構えることはできようが、制限時間がある。そして制限時間は思考能力を奪う。
ひょっとしたらその焦りを切実に知るからこそ、夜はこの術理を好むのかもしれなかった。




226 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:08:00 ID:qyTud38y
だが。
やはりこの場、この状況において、この技は不適応である。技とはある状況において勝つためのマニュアルであり、機と状況を選ばなければ意味がない。
間合いが、詰まる。三、二、一――――
「ッ!」
刃圏に捕らえた瞬間、俺は夜の小手目掛けて、上段から袈裟の軌道で斬撃を繰り出していた。
――――浅賀流、強(キョウ)
夜は女性にしては長身だが、彼我の体格には頭半分程の差がある。それはそのまま間合の差となって現れていた。
こちらは攻撃できないが相手が攻撃できる距離。その瞬間を狙い打たれては、先など取れるはずもなく。
夜は――僅かに後退することで刃圏から逃れていた。
木刀が空を斬る。
断じて反射神経での回避ではない。妹が突きを放つつもりでいたのなら、為す術もなく斬られていただろうし、受け止められる威力でもない。
間合いの差で先手を取ってくると見た夜が、予め仕込んでおいた動きだった。
直後、後退した足が道場の床を蹴りつけ、反動で夜の体が前方に射出される。彼女の体と木刀が一直線に伸び、裂帛の気合いと共に刺突となる。
「鋭ッ!」
――――浅賀流、奔馬(ホンバ)
前進、後退、前進の組み合わせで後の先を取る間合の術理である。
狙いは水月。
袈裟斬りを空振りした直後の無防備な体では防ぎようが無く、打ち抜けば悶絶確定の一撃――のはず、を。
回避。
右足を軸に、体を反時計回りに半回転させることで、俺は刺突をかわしていた。腹部をかすめて木刀が通り過ぎていく。
こちらの回避は半ば反射神経の賜物である。想定内ではあったが、僅か首筋に冷や汗をかいた。だが
勝機、後の先。
彼我の距離は近い。腕を伸ばさなくても手が届く。斬撃の繰り出せる距離ではない。加えて、俺の木刀は夜の木刀の下にある。
ならば、この状況での手は斬撃に非ず。
左足を蹴り出し、重心を低くし、俺は右肩をすくい上げるように夜の肩に叩きつけた。つまり、体当たりだ。
「きゃっ!」
原始的な技術だが、体重で劣り体勢を崩した相手には極めて効果的な攻撃だった。
勢いに押されて夜がたたらを踏む、のみならず転倒した。小さな悲鳴。彼我の間合いが開く。
その時には、俺は再び上段に構えなおし、夜を最適な刃圏に捕らえていた。
――――浅賀流、牛追(ウシオイ)
勝負有り。


夜の敗因は明らかだ。彼女は使うべきではない術理を二つ、重ねている。
直接的には、奔馬からの突きを回避されたからである。しかしそれには理由があった。
既にあの時、俺は攻撃直後の無防備から体勢を立て直していたのだ。つまり、あの刺突は当たるかどうかわからない状況で繰り出されたものということになる。
一定以上の反射神経があり、狙いが正中線とわかっていればかわすのは難しくない。
ただし、夜の刺突が常通りの速度で放たれていたならば、俺は体勢を立て直す暇もなく打ち抜かれていただろう。
これは彼女の使用した、奔馬という術理の構造的な欠陥だった。
浅賀流の斬撃刺突は全て体重移動で行うものである。しかし奔馬は前進、後退、前進とベクトルがコロコロ変わるため、動作の遅延が避けられないのだ。相手を見て使うべき技、と言うことだ。
また、これは地滑……地擦り青眼にも同じことが言える。前進して行う技である以上、後退しての後の先は極めて取りにくくなっている。だからこそ、俺は後退以外に避けようのない袈裟斬りを放ったわけだが。
故に夜の敗因は、使うべきでない術理を二つ重ねていることにある。
もちろん、夜の刺突が俺の想定を越えて鋭かったら、あるいは何らかの方法でこの術理の問題を克服したのなら、違う結果が出ていただろう。
しかしそれは剣術での勝利につきまとう不確かさだ。まず順当な結果と言える。
勝負は有った。

だが、俺は構えを崩さない。



227 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:09:10 ID:qyTud38y
「……兄様?」
「…………」
俺は木刀を肩に担ぐような上段に構え、夜は道場の床に尻餅をついている。
彼我の間合いは1.5m。このまま木刀を振り下ろせば、妹は為す術もなく頭を割られるだろう。故に勝負は既に付いている。
だが、俺は構えを崩さなかった。
立ち上がろうとしていた夜も、その空気に触れて動きを止める。止めざるを得なかっただろう。
つまるところ、俺が発していたのは『動けば斬る』という気配だったのだから。
「……」
「……」
夜がじっと俺の顔を見上げ
俺はじっと夜の顔を見下ろす。
夜の表情は当初、俺を不審がるものだった。だが、それも徐々に消えていく。俺の意図を察したのではなく、俺が何を言い出そうと受け止める、そういう覚悟の表情だった。
対して俺の表情は、巌のように強ばっていただろう。この場を台無しにしてくれるものがいたのなら、俺は悪魔だろうと縋り付いたに違いない。
だが
やはり俺は――――浅賀夜に、問わざるを得なかった。

「何故……」

「何故、祖父と母を斬ったのだ」



しん、と道場に沈黙が降りた。
夜が僅かに目を見開く。
痛い程の静寂。
それは心を苛む静けさだった。
あの日、祖父と母が事切れているのを、帰ってきた道場で発見した時のように。
………………
………………
………………
「どうして、ですか、兄様」
「……お前の」
あの日、妹は名古屋にいるはずだった。確かにしばらく帰省していたが、それは一ヶ月も前のことで。
しかし、それならば、どうして
「お前の髪が……道場の床に散っていた」
艶やかな黒髪。背中にまで伸びるそれが、幼い頃から浅賀夜のトレードマークだった。
だがそれは、今は肩の当たりで切り揃えられている。それは、夜が二度目に帰ってきてからの変化だった。
そして、どうしてあの場に、血に塗れた夜の髪が散らばっていたのだ!
いるはずのない場所に、いるはずのない人間がいた。そのことに、納得のいく説明が必要だった。
そして、そんなものは一つしかなかった。
「よく、わかりましたね」
「俺が……お前の髪を見違えるわけがないだろう」
「ああ、それもそうですね」
そうして夜は
ゆっくりと微笑んだ。
共犯者の笑みだった。
「ありがとうございます、徹兄様」
「…………」
俺は答えない。
答えられるはずもない。
だが、妹の意図は確かだった。
俺は共犯者だ。
俺が夜の髪を全て回収して捨てなければ、他にも痕跡を消さねば、あの場に夜がいたことは、すぐに警察の知ることとなっていただろう。
俺にはそれが我慢ならなかった。
俺は夜を失うことに耐えられなかった。
祖父と母を斬ったのだとしても、それでも夜を愛していた。
だが
だが何故
だが、何故、夜は二人を斬ったのだ。
そして、どうやって。


228 血啜青眼 中篇 sage 2009/12/02(水) 23:10:08 ID:qyTud38y
夜が、動いた。
立ち上がるのではなく、その場に正座をし直す。ピクリと木刀は反応したが、結局打ち込むことはなかった。
それを見切ったわけではなかったのだろう。ただ、俺に殺されようと受け入れるという、覚悟を決めただけの動きだった。
背筋をピンと伸ばし、籠手を外し、傍らに木刀を置き、じっと俺の目を見上げて
浅賀夜は

「夜は……あの日も、こうしてこの場所で、御爺様と母様を迎えました」

そうして
あの日起きたことを、語り出した。

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最終更新:2009年12月15日 14:34
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