血啜青眼 後篇

339 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:14:43 ID:lGcbvWxO
兄様。
兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様徹兄様。
愛しています。
鋭い目も、固い髪も、結ばれた唇も、大きな体も、太い腕も、厚い胸板も、引き締まったお腹も、広い背中も、強靭な足も、ごつごつした指も、頑丈な首も、朝起きたときのちくちくする無精ひげも
見下ろす優しさも、剣術に対する熱意も、道場に対する愛着も、御爺様に対する尊敬も、母様に対する思いやりも、女性に対する奥手も、苦手な食べ物への子供っぽさも、理不尽に対する怒りも、喪われたものに対する悲しみも、自分の非力に対する絶望も、夜への愛も、憎しみも
全て
全て愛しています。
夜は世界に感謝します。




血啜青眼

後篇




母を喪う前のことはよく覚えていません。兄様に会う以前のことなど、夜にとっては重要ではないからでしょう。
夜は父無し子でした。母と二人、慎ましやかに暮らしていました。それなりに不自由はありましたが、それなりに生きていました。母と同年代の男性が時折訪ねてきていました。あの人が父だったのかもしれません。
そうしてある日、母が死にました。事故だったと聞いています。
多分泣いたと思いますが、記憶はあやふやです。そのときどんな気持ちだったのかも、うまく思い出せません。
よく覚えていないのです。兄様と会う以前の夜が、いったいどうやって動いていたのか。お前は昔息をしないで生きていたのだと、言われたとしても他人としか思えません。
実の母について夜が思うことは三つの感謝だけです。
産んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
死んでくれてありがとう。
それだけです。


浅賀家に引き取られてからのことを語ろうとするのなら、逆に万の言葉を費やしても足りません。兄様と交わした一言一句を、夜はこの身に刻み込んできました。
いいえ、逆です。御爺様が趣味とする木彫仏像のように、兄様の一言一句によって夜の心は今の形に彫りだされたのです。だから夜は兄様のものなのです。
兄様が理想とする形に一秒でも早く近づくことが、夜の人生に課せられた全てです。
夜は御爺様のことを尊敬しています。兄様が尊敬しているからです。
夜は母様のことを敬慕しています。兄様が敬慕しているからです。
それ以上の理由など要りません。
夜が自ら抱くものがあるとしたら、それは感謝だけです。兄様を産んでくれたことに対する感謝。兄様を育ててくれたことに対する感謝。夜を引き取ってくれたことに対する感謝。
それ以外は全て、夜の五体と心は兄様の理想であればいいのです。それ以上の理由など要りません。
どうして兄様だったのか、興味はありません。
どうして夜がこのような人間なのか、興味はありません。
今、兄様と夜は共にいる。それ以上に大事なことなど、一体この世界のどこにあるというのでしょうか。
夜は感謝します。兄様と夜を、出逢わせてくれた世界の全てに。


340 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:15:33 ID:lGcbvWxO
だからこそ
兄様と離れ離れになったときは、本当に辛かった。
御爺様が夜を、道場の礎にするために引き取ったのだとしても、そんなことは心底どうでもよかったのです。なんとなれば、兄様と二人で逃げればいい。どんな生活でも、兄様のものであるなら夜は幸福なのですから。
だけど兄様は、思い煩ってしまいました。その理由もわかります。つまり兄様にとっては、家族も道場も、けして蔑ろにしてはならないものだからです。
夜と違って、兄様には大切なものが幾つもあり、それに順列をつけることはできないのです。
それを愚かと言う人も言うのでしょう。けれど夜は、兄様のその愚直さも愛しているのですから、何を言えるはずもありませんでした。そんな兄様を愛したのですから。
祖父の言葉を機に兄様と疎遠になって行ったのも、兄様が夜を避けていたからです。兄様が夜を避けるなら、夜はそうする他にありません。
だけれども、その時間は辛かった。辛かったのです。夜は兄様の愛を呼吸して生きていたのですから。
息をしないで生きることを強要されたとき、それが一体どれだけ辛いのか、夜は思い知りました。どうして世の方々は平気な顔をしてこんな苦痛に耐えていられるのでしょう。
それでも、兄様が夜を迎えにきてくれるまで、夜はそれに耐えなければいけなかったのです。
ああ、兄様、兄様、兄様。
それまで兄様と夜は、限りなく噛み合っていました。夜は兄様の理想を追い、兄様は夜を愛してくれる。その螺旋の果てにあるのは無上の幸福だと、夜は信じて疑っていませんでした。
何故ならば、兄様と夜は兄妹でありながら夫婦になれるのだから。それこそが世界に祝福された証であり、螺旋の先にあるものなのだと。
けれど螺旋は壊れてしまいました。
夜はそのとき初めて、憎悪というものを抱きました。兄様と夜が添い遂げることを阻むあらゆる事象に対する憎悪です。
夜が抱いた、全てに対する感謝がそのまま憎悪になりました。御爺様が、母様が、世界が、とてつもなく憎かったのです。今、兄様と夜が一緒にいない。それ以上に憎むべきことが、一体この世のどこにあるというのでしょう。
夜はその憎悪で、四年間を生き延びました。兄様の愛の代わりに、そんなもので息を継がねばならなかったのです。
憎悪を呼吸し、夜の体は見る間に変わっていきました。心は歪み、五体は汚れ、兄様の理想とはかけ離れた姿です。いいえ、いいえ、既に夜には兄様の理想すらわからないのです。それだけの間、兄様と夜は離れ離れになっていたのです。

最早限界と悟りました。
夜は、初めて兄様に背きました。刀を携え、実家に戻ったのです。久方ぶりに会う兄様は、夜の姿にひどく驚いていました。お許しください兄様。夜は穢れてしまいました。
夜は兄様に斬って頂くつもりでした。夜がこれ以上存在していても、兄様の理想とはますますかけ離れていくだけです。それが、嫌なのです。夜は兄様以外のものになどなりたくないのです。
なれば、夜は兄様の中で永遠になるしかない。幸福の螺旋が壊れた以上、それしかない、と。
哀れな夜をお許しください。夜には忍耐が足りませんでした。兄様が迎えに来てくれる、その日をもうこれ以上待つことができなかったのです。
だけれども、そんな夜に、その日は、訪れました。

「夜よ――――愛している。必ず幸せにするから、俺の妻になってくれ」

……ああ。
ああ、ああ、ああ、ああ、ああ。
とおるにいさま。
その瞬間に、世界は再び裏返りました。溢れていた憎悪は全て感謝に反転し。そして何より、兄様の愛が再びこの体に満ちたのです。
ああ、ああ、兄様。こんな夜でいいのですか。こんな夜の中にも、まだ兄様の理想は残っていたのですか。
わかりました兄様。夜は今度こそ、兄様の理想になります。
この五体と心と感謝の全てを以って、幸福の螺旋を上り
「夜は……兄様の妻になりますね……」



341 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:16:33 ID:lGcbvWxO

夜は兄様の妻になります。
それが兄様の理想であり、夜の理想です。夜は兄様の妻として相応しい人間にならねばなりません。
浅賀夜の人生に於ける目的はここに定まりました。夜はそのために生まれてきたのです。
けれど兄様の大切なものは夜だけではありません。
道場を継ぐ。
家族に孝行する。
剣術を磨く。
夜を妻として娶る。
兄様にとっては、それら全てが叶えるべき目標なのです。
それを悔しいとは思いません。全て揃えているからこそ兄様なのですし、そういう愚直な人を夜は愛したのですから。
夜の役目は兄様の妻として、最大限に兄様を手助けすることです。
名古屋に帰ってから一ヵ月後。夜は再び実家に戻りました。ただし今度は兄様には内緒で、御爺様と母様に会うために。
兄様の妻になることをその二人に予め伝えておけば、兄様が道場を継ぐ時に物事が上手く進むと判断したのです。
今思えば、そうしようと思ったのは天佑でした。

身なりを整え、兄様から以前頂いた着物を仕立て直し、道場に参りました。見慣れた我が家がひどく新鮮に見え、嫁入りの心地でした。
刀を持参したのは、剣術一門に嫁ぐにあたり、嫁入り道具と心得たからです。誓って他の意図はありませんでした。
夜が道場で御爺様と母様を迎えると、二人はずいぶん驚いたようで、何事かと訊かれました。
だから夜は、あの日もこうして道場の床に座して向かい合い、深々と頭を下げたのです。
「御爺様、母様。夜をここまで育てていただき、ありがとうございました」
その感謝は本物でした。
御爺様にも母様にも、夜は心底感謝しています。兄様と引き離されたことも、今ならばあれは必要なことだったと思えるのです。
「夜は、徹兄様と幸せになります」





そこまで語った後、夜は一息ついた。瞳を閉じ、ゆるゆると息を吐く。
お互いの構図は変わらない。夜は道場の床に直接正座し、俺はそんな夜に木刀を構えたまま見下ろしている。
道場には霜が降りたような静けさが戻った。ここにも、母屋にも、他に人はいない。浅賀家に残されたのは俺たち二人だけだ。
それを為したのは俺の妹だ。祖父と母を斬ったのは、夜なのだ。
それを、何故、と問うて
彼女の語ったことに、ここまでは問題はなかった。
俺への愛、別離の絶望、想いが通じた日の歓喜。程度の差はあれど、それは俺も味わったものだ。あの時、未来が一気に開けたと思えたのは錯覚ではあるまい。
それを夜が、真っ先に祖父と母に伝えたいと思っても、おかしな話ではない。既に実の親子に等しい間柄なのだ。
それがどうして、二人を斬ることになるのか。話はここからが本題と言えた。
そんな俺の意図を読み取ったのか、夜は一息ついて
「兄様。一つ伺いたいことがあります」
「……なんだ」
「兄様が知りたいのは、夜が二人を斬った理由ですか? それとも、御爺様を斬った術理ですか?」
「――――っ!」



342 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:17:08 ID:lGcbvWxO
瞬時、言葉に詰まった。
それが一面では図星だったからだ。
俺は果たして、家族としてその死の理由を知りたいのか、剣士として祖父を破った術理を知りたいのか。
祖父と夜の間には明白な技量差があった。剣術の勝敗など不確かなものだが、それでも100度打ち合ったならに99度は祖父が勝つだろう。
ならば夜は如何なる術理によって、その一度を手繰り寄せたのか。
先ほど仕合をしてみても、俺は問題なく勝ちを取ることができた。妹の技量が急激に増したわけではない。得意手が下段ということも変わっていない。
ならば、それは一体どのような剣だったのか。
興味がないといえば嘘になる。いや、もしかしたら俺は家族の死よりも、そのことを気にしているのかもしれなかった。
だが……それは、不孝だ。祖父と母を、斬った人間を匿っていることも、合わせて。とてつもない不孝ではないか……!
「ぐっ……」
「ああ、兄様。申し訳ありません、少し意地悪してしまいました。兄様にとっては、家族も剣も、同じように大事なものなのですよね」
歯を食いしばり表情を歪めた俺を見て、夜が少しだけ頭を下げて謝った。からかう様な調子ではなく、何もかもわかっているという風だった。
座しているのは妹で、構えているのは俺だというのに、互いの立場はまるで逆のようだった。いや、この立ち位置の差があるからこそ、何とか対等でいられるのか。
思えば、夜と俺のどちらが優位にいるのかなど、考えたこともなかった。夜は時々不可解なこともあったが、いつも俺の言うことに従っていたし、それでお互いが満足ならば、それがあるべき形なのだと。
妹が顔を上げ、じっと俺の目を見つめる。艶やかな髪、切れ長の瞳、女性としては長身、整った顔立ち、ぴんと伸びた背筋、しなやかな体躯。
俺にとって最愛の存在。
「お話します、兄様。そして」

「それでも徹兄様は、夜を愛してくださると、信じています」




343 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:17:36 ID:lGcbvWxO




浅賀行正という男は根っからの武辺者であった。
若い頃に学んだ剣術を手に東京府に出向いたのも、ただ単にその剣を振るいたかったからである。
結局彼は十年その街で暮らしたが、そこで結婚した妻の要望で故郷に戻ることになる。世辞にも東京は暮らしやすい街ではない。
故郷に戻った行正は実戦で培った工夫と勇名でもって一流を起こし、それなりの盛況を得た。一介の剣士としては理想的な道程とも言える。
とはいえ彼の心はいつでも東京にあった。
十年間、東京で用心棒のようなことをして生きていた行正だが、生き延びたのは単に幸運が味方しただけだと心得ている。彼は熟達の剣士ではあったが、同格以上に何時会っても不思議ではなかった。
あの都市は蠱毒のような場所であり、悪態を付いたことは数知れないが、離れてみれば奇妙に懐かしさを呼び起こすところがあった。
とはいえ、家族を持ち、道場を手にした身である。そうそう無茶は出来ない。精々、道場破りや故意の正当防衛で剣を振るう程度である。
浅賀行正の行動原理はシンプルである。強い方が勝つという、それだけだ。その理屈は自らが強いから恃むのではなく、元から彼がそういう生き物だったから強さを求めたのだろう。
概ね、好き勝手に生きてきた行正であったが、幾つかは心残りもあった。その一つが鉄火場への郷愁であり、一つが娘のことだった。
妻が早世したこともあり、行正は一人娘の春江をよく可愛がった。武辺者であったから蝶よ花よとは言わないが、稽古事に行かせることは惜しまず、叱ることもほとんどなかった。
結果、浅賀春江は少々我の強い乙女として育つことになる。父親を反面教師としたせいか、幼少期を東京で過ごしたせいか、暴力の類を極端に嫌うのは剣術道場の娘としては困り者であったが。
それでも充分、彼女は美しい華であった。そのうち門下生の中から、腕が立ち歳の合う男を選んで道場を継がせるか、とそれでも行正は気楽に考えていた、が。
彼女はどこからか馬の骨を連れてきて、婿にするときっぱりと言ったのだ。
これが腕の立つ剣士であれば問題もなかったのだが、娘の趣味らしくなよなよとした青年であった。名を陽一という。最初行正は怒鳴りつけたが春江は頑として聞かなかった。
他にも幾つか問題はあったのだが、結局春江の我儘と行正の娘に対する甘さによって、その男は浅賀家の婿となった。
行正にとって陽一は、全く気に入らない男だった。まず娘がベタ惚れなのが気に食わないし、剣術を学ぼうとしないのも気に食わない。更に気に食わない点は、陽一が人柄はともかく夫としては褒められたことではなかった点だ。
婿が事故で死んだとき、流石に快哉は上げなかったが、心のどこかでホッとしていたことは否めない。もっとも、そんなものは娘の落ち込みようですぐに吹き飛んでしまったが。
返す返すも、あの時娘には自分が選んだ相手を宛がうべきだったと行正は思っていた。それが彼が心残りとする一つである。
とはいえ、二人の間にできた孫である浅賀徹は、かなり見所のある男児だと言えた。行正は娘の失敗を踏まえて厳しく当たったが、剣術にも強い興味を示す孫には内心大いに期待していた。
なんとなれば、彼は道場の経営が面倒で仕方なかったのである。食う手段として選んだ道ではあるが、元より彼の本質は一介の武辺者であり、教師ではない。
適当な身内の弟子に継がせたなら、自分は隠居して再び東京に出向こうと、性懲りもなくそんなことを考えていたのである。最早六十を越える行正だが、畳の上で死ぬなど真っ平御免であった。
幸い、ここ数年で孫が驚異的な伸びを見せている。行正に匹敵する腕前となるのも遠くはあるまい。そろそろ道場を譲るかと、そう思い始めた頃だった。
もう一人の孫娘に、娘共々道場へ呼び出されたのは。


「御爺様、母様。夜をここまで育てていただき、ありがとうございました」

「夜は、徹兄様と幸せになります」



344 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:18:43 ID:lGcbvWxO
全く、人生とは中々上手くいかぬものだと浅賀行正は嘆息する。二十年も前の心残りが、今更になって芽を出すとは。
正面に座し、床に両手をついて深々と頭を下げるのは、桜小紋に身を包んだ浅賀夜。
余所から引き取ったとはいえ、行正は孫娘にも徹と区別することなく目を掛けていた。娘とは違って剣術にも親しみ、我もそれほど強くないことだし(別に娘をどうこう言うつもりはないが)。
反省も踏まえて、その内弟子から腕が立つのを見繕ってやろうかと考えたこともあったが、道場の存続に関わらないならそこまで神経質になることもない。
徹が頭角を現し始めた時点で、嫁ぎ先は自由に決めさせてやるかと思い直していた。それがまさかこのようなことになるとは。
隣で春江が血相を変えて「いけません!」と叫んだ。意外な展開に、夜が顔を上げて目を丸くする。両者の反応は当然と言えた。
「何故ですか、母様。夜と兄様は、お互いに想い合っているのです」
「だって貴女達は…………兄妹じゃない!」
「血は繋がっておりません!」
「夜」
言い争いを、手を上げて遮る。自分で出した声が思ったよりずっと老け込んでいたことに行正は驚いた。
なるほど、言われてみれば確かに二人は少々、仲の良すぎる兄妹だったかもしれない。
だが、それが男女の域にまで達しているなど、行正には想像もつかなかった。元来そういう方面に興味はないし、決定的な先入観があったからであろう。
これから、そのことを伝えて孫娘を納得させねばならない。考えるだに気が重かった。老いが出ようものだ。
全て斬り合いで決着がつくのなら楽だろうに、気付けば不得手なことばかり強いられている気がする。ああ、東京に行きたい。

「聞け、夜。お前達はな、血が繋がっておる」
「――――え」
「……」
浅賀夜の表情が凍り、浅賀春江が苦虫を噛み潰したような表情になった。
「お前と徹は、父親が同じなのだ。腹違いの兄妹なのだよ」



345 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:19:17 ID:lGcbvWxO
……元凶は浅賀春江である。
彼女は元々情の深い人間だった。それこそ、思い込んだら命がけであり、加えて我も強かった。つまりどういうことかというと――――略奪愛だった。
春江が陽一を見初めた当時、既に彼には恋人がいたのだ。しかし春江は一切ひるまず、あらゆる手管を駆使して二人を別れさせ、彼を手に入れた。
具体的に何をしたのかなど行正は知りたくもない。とにかくそのことに関すると、春江の態度は常軌を逸した。見て見ぬ振りをしたいのが人情である。
そこまでなら行正もどうこうは言わなかった。所詮強いほうが勝つだけの話である。
気に入らないのは、春江のほうがベタ惚れだというのに、婿のほうはそれに応えている様子があまりなかった点である。彼は良い父親ではあったが、良い夫とは言えなかった。結婚して何年経過してでも、である。
確かに経緯には男として同情しないでもないが、春江も充分以上器量良しなのだから、潔く腹を決めたらどうか、と行正は憤った。結局彼は親バカである。
それがどういうことなのか、判明したのは陽一が事故死してからだった。
「あの男は昔の女と切れていなかったのだ。生活費を送り、あまつさえ子供さえ儲けていた。それが……お前だ、夜」
「…………」
「不倫というよりは内縁の妻のようなものだったらしいな。事故に遭った日も、逢瀬を重ねていたようだ」
その事実を知ってから、夫を喪ったことも相まって、春江は抜け殻のようになってしまった。かつての我の強さなど見る影もない。
結局、彼女は夫のことを心底愛していたのだ。それだけは間違いがない。
夜を引き取ったのは、そんな彼女のたっての希望だからだった。行正としても、身寄りを失った幼子に一抹の責任を感じたこともある。
春江が膝立ちとなって数歩前に進み、目を見開いたままの義娘の頬を両手で包み込んだ。涙ぐんでいる。
「ああ、夜、今まで黙っていてごめんなさい。私が弱いせいで、どうしても言い出せなかったの。お母さんを許して」
「……」
「でもね、夜。貴女は確かに陽一さんの娘なの。本当にそっくりなのよ。だから私はどうしても、貴女を憎めなかったの。今はもう……実の娘だと思っているわ」
そう、確かに、見目の麗しい青年だった。特に、夜の艶やかな黒髪はまさしく彼から継いだものである。徹がすぐに打ち解けたのも、その相似があったからかもしれない。
娘に接する春江の心境は複雑だったろうが、それでもその存在は心労を和らげる一因となったことは違いない。行正にしても、婿に対する心象と孫娘への態度は既に切り離してある。
なにより浅賀夜は良い娘だった。母を慕い、祖父を敬った。親の因果を帳消しにするには充分だ。
とはいえ今更血縁を明かすこともあるまい、と行正は考えていた。そんなことを明かさずとも立派に家族としてやっていけると。
だが、それがこんな事態を引き起こすとは。重々しく、いたわるように、孫娘に声をかける。
「お前達には悪いことをしたな。もっと早くに明かしておくべきだった」
想い合っている、と夜は言った。つまり徹のほうも同様なのだろう。実の兄妹だということを知らずに愛し合っているということになる。
孫が猛烈に剣術に励みだした理由が、まさにこれなのだと行正は思い当たった。やれやれ、と頭を叩きたい気分だった。
どちらにしろ、出稽古に出ている徹も交えて話し合わなければならないだろう。孫の愕然とした表情を思い浮かべると心が痛む。
もちろん行正には、二人の交際など認めるつもりはなかった。戸籍上は問題がなくとも、二人が実の兄妹である事実は変わらない。根本的な倫理観が許さないし、血の問題もある。
しばらくはお互いに辛いだろうが、我慢してもらうほかにない。
それにしても色恋というのは本当に鬼門だと行正はため息をついた。ああ、東京に行きたい。
ふと、夜が俯いた。表情が髪に隠れる。

「ああ……哀れな徹兄様」
「ごめんなさい、気持ちはわかるけど……けど、どうしようもないの。ごめんなさい」
「いいえ、いいえ。母様。謝る必要はありません。夜は本当に、御二人には感謝しています」
言って、浅賀夜は義母を斬り捨てた。



346 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:21:35 ID:lGcbvWxO

さしもの行正とて反応が遅れた。
浅賀夜が脇の太刀を左手で掴み、膝を立て、鯉口を切り、右手で柄元を握り、抜刀するまで、行正にできたのは膝を立てて口を半開きにするまで。一秒あったかどうか。見事な居合だった。
刃を押し付けるようにして、春江が腹を斬られ、ぐるりと回って横倒しになる。悲鳴はなかった。何が起こったのか理解していない表情だった。
遅れて、行正の怒号が響く。
「よ、夜っ!? 貴様っ!」
「感謝します。このことを真っ先に夜に話してくれて。御蔭様で、兄様を余分に思い煩わせずに済みそうです」
孫娘の突然の凶行と愛娘が斬られたという事実に混乱しながら、とっさに行正は後ろに下がり、神棚の奉納刀を手に取った。
立ち上がった浅賀夜が、無造作に下げる刀にこびりついた血潮が、そうさせた。ぽたりと、剣先から血雫が垂れる。
浅賀行正は刀を抜き、鞘を投げ捨てながら、驚愕覚めやらぬままに剣士として状況を分析した。
孫娘が抜き身の刀を右手でだらりと下げて、道場の中心近くに立っている。左手には鞘。着物の裾は大胆に割られ、白い足が露出している。動きに支障はなさそうだ。
彼我の距離は7m。一足一刀の間合いには十歩ほど踏み込まねばならない。間合自体はこちらのほうが二回りは上だろう。
その足元には、仰向けに倒れ伏した娘。腹を帯ごと、ほぼ真一文字に斬られている。息は――ある。
腹部に巻いた帯が見る間に血に染まっていく。傷は思ったよりは浅いようだが、早急に手当てが必要だ。
だが、それには邪魔者がいる。
「夜! 貴様、気でも違ったか!」
「御爺様、母様。夜は兄様の妻になります」
そうして彼女は鞘を捨て
両手で握った刀を、ずぶりと義母の腹に突き刺した。
「――あっ、ぎっ!?」
ずぶり、ぐるり、と刃先が傷口から入り込み、腸をかき混ぜる。
春江の体が魚のように跳ねたが、突き刺さった刀が姿勢を変えることを許さない。
あまりの苦痛に、悲鳴すらも、押し殺される。浅賀春江の表情は人のものとは思えない程に歪み、口の端に泡が沸いた。
一方で、浅賀夜は、義母の腸をかき混ぜながらも、全く平静な顔をしていた。俎板の魚を捌くときと、全く変わらぬ手つきだった。
「夜は御二人には本当に感謝しています。夜を憎悪に落とせるのは、兄様以外におりません。ですが夫の懊悩を除くのは、妻の勤めと心得ておりますから」
「きいいさああまああああ!!」


何十年かぶりに、あらゆる思考が怒りに塗り潰される。
浅賀行正は最早意味の通じぬ問答をしなかった。あれは敵手である。であれば、速やかに斬るべし。
上段、肩に構えて浅賀夜に突進する。その気迫は正に鬼神。気の弱いものならばそれだけで腰を抜かしただろう。
対して浅賀夜は微動だにしない。義母の体に剣先を刺したまま、静かな表情で怒涛を待っている。
必然、両者の距離は瞬く間に縮まっていく。一足一刀の間合いまで四、三、二――――
あと数歩、という距離で行正は一気に跳躍した。直進するよりも数瞬早く、敵手を間合いに捉える。
「墳ッ!」
着地と同時、右足から腰にかけての捻りに載せて、孫娘の首筋目掛けて横薙ぎに斬りつけた。
――――浅賀流、飛猿(ヒエン)
突進の最後の数歩を跳躍して先の先をとる、間合い外しの術理である。刺突に対しては相討ちとなり易い欠点があるが、この期に及んでそれを恐れる行正ではない。
並の使い手ならば意表をつかれて為す術もなく首を刎ねられただろう――が。
「――――」
一刀が断ち斬ったのは艶やかな黒髪のみだった。
浅賀夜はその場でお辞儀をするように上体を倒して、その一撃をかわしたのだ。体捌きに遅れた後ろ髪だけが、首のあった場所でまとめて両断された。
曲がりなりにも、浅賀行正の放つ先の先である。そう容易くかわせるはずもなく、その太刀筋を予期していたとしか思えない――――否、予期していたのだ。
刃を抱えるような姿勢となった夜の背中が、一歩踏み込むと同時に急激に跳ね上がった!
だが
(――――だろうな!)
そうなることを行正は既に予想している。
何故ならば、仰向けに倒れる自分の娘に、両手で剣先を突き刺したあの姿は、構えだったからだ。
浅賀夜の最も得意とする術理――――地摺青眼の!



347 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:22:50 ID:lGcbvWxO
あの術理の肝要は二つ。
一つ、心理的に敵手より優位に立っていること。
二つ、術理の詳しい内容を敵手が知らぬこと。
一つ目は――――認めよう。溺愛している実の娘を斬られ嬲られ、平静でいられるわけがない。
だが、二つ目は該当しない。浅賀行正はこの技のことをよく知っている。誰あろう、これを孫娘に教えた本人なのだから。
敵手から繰り出されるは刺突。狙いは鳩尾か喉!
激昂に駆られながらも、浅賀行正はひとかどの剣士である。最低限の術理を忘れてはいない。むしろそれは体に染みついたものなのだ。
横薙ぎを放った勢いのまま、右足を中心に身体を反時計回りに半回転させる。刺突の狙いはいずれも正中線。それをずらせば刃は空を斬る。
(突きは捨身技。かわしたのなら、敵手の横に抜けつつ返す刀で胴を斬る!)
全ては一瞬である。夜の体が刺突と共に跳ね上がるまで半秒もない。行正の脳裏に走ったのも、思考というよりも電流に近い。既に動きは決定されている。
だから、彼が顔面にちりちりとしたものを感じても、首を僅かにすくめる程度しかできなかった。
(――――顔?)
それは浅賀行正が幾度となく実戦経験を重ねる中で身についた感覚だった。言うなれば、殺気の向きを感じると言うべきか。
敵手の狙う急所の位置が、ちりちりとした痒みのようなもので感じられるのだ。騙し合いを旨とする剣術にあっては至極便利なもので、行正自身この感覚に救われたことは何度かある。
とはいえそれは東京で斬り合いを日常としていた頃の話だ。この数十年、命のやり取りから遠ざかってからはめっきり鈍った感覚だった。
それが今、目覚めたのは――――命を賭した斬り合いの中にいるからであろう。だが、敵手の狙いがなぜ喉ではなく顔なのか。
全ては一瞬である。首を僅かにすくめる程度しかできず
彼が、目の前を通り過ぎる白刃を幻視した直後

「――い、ぎいいいいぐるぎががががががああああああっ――――!」

この世のものとは思えない、愛娘の断末魔。
ブチブチと何かが千切れる音。
そして、身を捻り刺突をかわした行正の顔面に、雑巾のようなものが叩きつけられ彼の視力を奪い取った。

「っ!!!?」

――――この時
彼の失策を上げるのなら、予定を中断することなく抜き胴にて孫娘を斬るべきだった。さすれば、刺突直後の浅賀夜は為す術なく斬られていただろう。
だが
愛する人間の悲鳴と、視界を突然に奪われたこと、そして背筋を貫く悪寒が。咄嗟、顔に叩きつけられたものを左手でまさぐるという行動を取らせた。
しかし、無理もない。浅賀行正は彼女の使った術理を知らなかったのだから。そんな行動を取ったとしても責められはしない。
そして、行正が手で感じたのは、ぶよぶよとした気色悪い感触。かつて幾度も嗅いだ、腐敗臭にも似た生臭さ。
人の、腸(はらわた)
そんなものが何処から――――いや、決まっている、『出処』は一つしかない!
だが、一体誰が予想しようか。
『顔面を狙った刺突に、人間の内臓を引っ掛けて目潰しに使用する』などと!
春江が上げたこの世のものとは思えない絶叫は、生きながらにして腸を抜かれた痛苦である。ぶちぶちという布の千切れるような音は、限界まで引き延ばされた小腸が途中で千切れる音だ。
失血よりも早く、衝撃で彼女は絶命していた。愛した男に袖にされ、半生を抜け殻として生きた彼女の末路はひどく惨(むご)いものだった。
「よおおおおるうううう! きさまあああああ!」
一瞬遅れて事態を理解した行正が、怒号と共に右手一本で孫娘のいた場所に刀を振るう。だが刃は空を斬るのみ。
視覚を奪われ動揺した彼には知る由もないが、彼女は刺突の直後、既に義母の骸を避けて後退し間合いから逃れている。
老人は同時に左手で顔に張り付いている内蔵の欠片を払いのけ、眼を擦って視覚を取り戻そうとする。だが無駄。腸液と血液の入り混じった混合液は、入念な洗浄をしなければ眼球からは除けない。
その時浅賀夜は後退しざま、太刀を大上段に振り上げていた。剣先に引っかけていた千切れた腸が、惰性で中空に放り出される。付着していた血液が撒き散らされ――――血の雨が降った。
地獄の光景である。
そして、この地獄を現出した術理の名は

「浅賀流剣術崩し――――血啜青眼」

それだけを餞別に呉れ
浅賀夜は大きく踏み込み、大上段から唐竹割に渾身の一撃を放つ。まず、見事な一撃。
刀を振り切り、視界を奪われ、平静を失った浅賀行正に、これを防ぐ術はなかった。
血飛沫。



348 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:23:26 ID:lGcbvWxO
最後の瞬間、浅賀行正の胸中を占めたのは、娘を殺された怒りでも、孫娘に殺される無念でもなく、剣士としての感嘆であった。
浅賀夜が為したのは、まさに悪鬼外道の技である。
だがそれは、その残虐さとは裏腹に、れっきとした術理だ。人質を取ることをシステムに組み込んだ、合理的な術理なのだ!
元となったのは浅賀流、地滑である。
この技には、自分が前進する関係で後の先が取りにくい、という問題がある。それを発想の転換で克服している。即ち、自分が動くのではなく相手を動かせばよい、と。
そのための方法として用意されたのが人質である。これに死なない程度に剣先を刺すことで、相手の動揺を誘うと同時に行動を限定する。
更に、足元に存在する人質のせいで、相手の太刀筋は極めて限定される。上段からの斬りおろしや下段からの斬り上げは人質諸共斬りかねない。必然、敵手が選ぶのは薙払か刺突となる。
動揺した相手の放つ、太刀筋の限定された攻撃……これ程、機を取りやすい環境はないだろう。
それでも尚、相手が冷静を保っていたのならばどうするか。相手の平静を突き崩すにはどうするか。
答えは単純である。人質を殺すことだ。
それが大切な存在であればある程、敵手は平静を失うであろう。隙が生ずるであろう。極限まで常態を崩してしまえば、最期の最後。人質の臓器を使用しての眼潰しは最早防げず、まともな対応もできない。
怒り狂って攻撃してこようが、そんなものは理合いの外だ。その上で、こちらの理合いは生かす。その環境を作り出すのが術理の意義である。
この術理の最大の特徴は、同様の術理をもつ流派がまず存在しない点にある。
当然である。これは外道の所業であり、武道というものの精神性に明確に相反する。有ったとしても、まずまともな存続は出来まい。
人質を取るだけなら誰でもできようが、それは初めて経験する素人の動きにならざるを得ない。人質を効率的に使用する流派などあるとは思わない――――だからこそ有効なのだ。
術理の詳しい内容を敵手が知らぬことは、相手の動揺を助長し、必殺性を高める。
一つ、心理的に敵手より優位に立っていること。
二つ、術理の詳しい内容を敵手が知らぬこと。
この術理は、元となった技が成立するための条件を、満たすことだけをただひたすらに追及しただけの結果なのだ!
なんという。
浅賀夜という人間が、どうしてこのような剣を持っているのか。
そんなことは決まっている。道場から離れていた、あの四年間の間に築き上げたのだ。
なんのために?
それも決まっている。この、浅賀行正を斬るためである。
剣術の技とは状況を想定して使用するもの。そしてこれは――――正にこの状況を想定して、その上で打ち勝つために
祖父を殺すためだけに、浅賀夜は外道の工夫に手をつけたのだ。
更に言うならば、その工夫を画餅ではなく実用化するために、一体何人を犠牲にしたのか。
動けない程度に腹を斬る、死なない程度に腸を撹拌する、剣先を腸に引っ掛けて引きずり出す……これらの加減は、実地でなければ絶対に身に着かない。全く新しい工夫ならば、尚更。
浅賀夜は下宿先にも愛刀を持ちこんでいる。で、あるなら。大都市名古屋のいずこかで、腸を撒き散らされた死体が、いくつか発生したはずなのだ!
憎悪で磨いた外道の剣――――血啜青眼。
一体何が、浅賀夜と言う人間をそこまでさせたのか。
結局、それは行正には未来永劫わからないことであった。一介の武辺者でしかない彼には想像もつかないであろう。
浅賀夜の、兄に対する自己を捨てた愛情など。兄との関係に関連付けることでしか価値を見出さない、感謝と憎悪の世界など。
だが、外道の術理を修めた、孫娘に対する剣士としての感嘆だけは本物だった。
(見事だ――――浅賀夜よ!)
最期。懐かしい、東京の臭いを嗅いだ気がした。


そうして
浅賀流剣術師範浅賀行正は、眼を拭う左手の指ごと、浅賀夜に頭を叩き斬られて散り果てた。
決着である。



349 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:24:27 ID:lGcbvWxO

夜が深まり、朝が訪れ、夜が深まり、また朝が訪れた。

休日の昼過ぎ、道場では10人強の門下生が稽古に励んでいた。裸足で床を蹴る音、打ち込みの掛け声が響いている。
道場のスペースを二つに分け、奥側では6人が型稽古を、入り口側では4人が基礎修練の素振りを行っている。
俺は茂野殿と型稽古の手本を見せていた。俺が仕太刀で茂野殿が打太刀である。
脇構えから龍尾の型をなぞっていく。相手の上段を下からの斬り上げで弾き飛ばし、返す刀で袈裟斬りに。
「先生!」
入り口の方で、基礎修練の監督をしていた門下生が俺を呼んだ。一歩後退して振り向く。来客だ。
「各自組となって今の型を十度ずつ! ……茂野殿、しばらくよろしいでしょうか」
「わかりました、先生」
その場を任せて入り口に向かう。途中、俺を呼んだ門下生に礼を言っておく。先生、と呼ばれるのはまだこそばゆかった。
入り口で、懐かしそうに道場の様子を眺めていた来客に一礼。
「お待たせしました、北沢さん」
「ああ。いや悪いね、仕事中に。ちょっと時間が取れたもんで寄らせて貰ったよ」
「いえ、大丈夫です」
北沢刑事はいつもの通りよれよれの着流しだったが、今日は真っ白な紙袋を一つ下げていた。デパートで貰うようなものだ。
母屋の居間に案内し、茶を入れてから一通りの挨拶を交わす。北沢刑事が袖をまさぐったので、どうぞ、と灰皿を置いた。悪いな、と会釈をされる。
うまそうに一服してから、彼は持参した袋を机の上に置いた。
「今度結婚するんだってな。式には出れないかもしれねえから、つまらんものだが先に貰っておいてくれや」
「これは、わざわざありがとうございます」
ありがたく受け取る。大きさと手応えからして、饅頭か何かの菓子らしい。道場の皆で分けさせてもらおう。
「それにしても、もう結婚かよ。23と21だろ? まだ少し早かねえか?」
「俺も少しは思いましたが、夜のたっての希望でして」
「おいおい、もう尻に敷かれてんじゃねえか。男だったら今の内に女遊びの一つでもしとくもんだぜ?」
「そのようなことをしたら夜が泣きます。台所の隅辺りでひっそりと」
「あー、まあそんな感じだな。けど嫉妬してもらえる内が華だぜ。ウチの女房なんかよ……」
しばらく、他愛のない話を続ける。結婚生活における秘訣やら、女房に見つからないよう飲みに行く方法など。
半年前の事件に関しては、何言か挨拶のように交わすに留まった。相変わらず進展はないらしい。
「そういや道場の方、結構流行ってるみてえじゃないか」
「休日ですから大体は来ていますね。入り口で素振りをしていた何人かは新規入門者です」
「聞いたぜ。定期的に他流試合みたいなのしてるんだって?」
「……お恥ずかしい限りです」
「いいんじゃねえか? 俺もこの道場は愛着があるからな。残ってくれて何よりだよ」
俺は出稽古先に出向いていた伝手で、他の道場で他流試合を月に一度開いていた。
祖父は流派の手の内を晒すことを嫌っていたのでそういうことはしなかったが。俺には、周囲に自分の力を認めさせ、流派を見くびらせないためにも必要なことだった。
全く、こういう売名行為ばかりしてては祖父のことを笑えない。だが、そのおかげで浅賀流が廃絶を免れたなら是非もない。
この道場に対する愛着については、俺とて北沢刑事に劣るつもりはなかった。
……ふと、会話が途切れる。
道場の方から聞こえる掛け声と床を蹴る音が遠く響く。北沢刑事が紫煙を長々と吐いて、ぽつりと呟いた。
「なあ、坊主……今、幸せか?」
「――――はい」
僅かの間を置いて、俺は頷いた。
北沢刑事が灰皿でタバコをもみ消す。そうか、と呟いた。
続けて、どっこいしょと立ち上がりながら、脇に置いた刀を取って帯に挟む。くしゃくしゃのタバコ箱とライターは瞬く間に袖の中に消えた。
「邪魔したな。嬢ちゃんが帰ってきたら、よろしく言っておいてくれ」
「はい。お体を大事にしてください、北沢さん」
そうして、北沢刑事は職務に戻っていった。その背中は、ひどくくたびれて見えた。
母屋の玄関まで客を見送った後、道場に戻ろうとして、ふと空を見上げた。



350 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:25:29 ID:lGcbvWxO
確かに俺は浅賀流剣術道場を継ぎ、師範となった。その力量も、ある程度は周囲に認めさせてもいる。
そのために多少の無茶なこともした。祖父の勇名を使って人を集めることはもうできないが、ある程度は挽回できたはずだ。
後は俺の手腕次第だろう。それは望むところとも言えた。
最盛期よりも道場の規模を大きくしたならば、祖父に勝ったということになるだろうか。
否。
違うだろう。それは経営者としての勝利ではあるかもしれないが、それだけだ。祖父の本質は剣士だった。剣で勝らねば、勝ったとは言えまい。
生前から、祖父に対してある程度の対抗意識はあった。彼は俺の師であり、挑むべき巨大な壁だった。
俺の力量を知らしめるために、いざとなれば一仕合、と思っていたのは確かだ。結局それは果たされることなく終わったが。
そのことが、今更になって思い浮かぶのは。もう祖父と決着を付ける機会が二度と無いからだろう。
俺がこの先道場主として、剣士として、どれだけ歩もうが。剣士としての祖父を追い越すことは不可能なのだ。
それは、俺の剣士としての本能なのだろう。血筋というものかもしれなかった。同じ立場に立った時、どちらが上か決着を付けずにはいられない。
間接的にでも、剣士としての祖父を越える方法があるのだとしたら、それは――――

「徹兄様」

俺を呼ぶ声がした。
現実に、引き戻される。すぐ前に、人影が立っていた。
背中まで届く黒く艶やかな髪、切れ長の瞳、すらりとした背丈、紅葉散らしの着物、紺色の帯に指した一刀。
浅賀夜。俺の最愛の女性にして、妹。
……なんだろう。彼女は、俺が考え事をしている時に近づいてくる習性でも持っているのだろうか。
そもそも、名古屋の下宿にいるはずの夜が何故ここに?
「ただ今戻りました、兄様」
「ああ。お帰り、夜。どうした、何かあったのか?」
「はい。兄様の御顔がどうしても見たくなったので」
「……それだけか?」
「充分です」
そのためだけに半日電車に揺られて日本縦断してきたというのだろうか。しかも今日は連休でもなんでもないただの土曜日だから、明日の午後には発たねばならない。
毎日電話はしているのだが、離れ離れになっていた時期を取り戻すように、夜は俺を求めていた。本当は大学中退を希望していたが、それはなんとか思い留まらせたのだ。
婚約し、式の日取りを決めることで少しはそれも収まっていたのだが。ちなみに式は冬休みを利用し、あと2カ月後に行う段取りとなっている。既に花嫁衣装の合わせも済んでいた。
とはいえ、別に結婚したからといって何が変わるわけでもない。名字はそのままだし、式が終われば大学にも通う。帰る家も変わらぬし、俺への呼び名すら兄のままであろう。
――――いや、やはり、大きな変化か。
「そういえば先程、北沢様と会いました」
「ああ、ついさっきまで母屋で話をしていてな。ちょうど入れ違いだった。お前によろしくと言っていたぞ」
「はい、伺いました。他にも幾つか」
「うん」
「北沢様は、夜を疑っておられるのでしょうか」
「――――」
「それでしたら、北沢様には確か妻子がおられたはずですから」
「夜」
「はい」

…………
かつて、俺は自分の未来が開けていると信じられた。
道場を継ぐこと。
剣術を磨くこと。
家族へ孝行すること。
愛する女性を娶ること。
それら全ては一直線に繋がっており、直向きな努力で全てを果たせられると、そう信じていた。
だが
俺は家族への孝行を、捨てた。
愛する女性が、家族を惨殺して尚、その女性が実の妹であることを知って尚、彼女を娶ろうとしている。
それでも、それでも夜を愛しているのだ。
それは、今は亡き家族への裏切りだ。孝行をすべきなら、今すぐ夜を警察に突き出し、罪を償うのを兄として待つべきなのだ。
だが、俺は夜への愛のために、家族への孝行を捨てた。捨てることができた。
それならば『他』とて



351 血啜青眼 後篇 sage 2009/12/07(月) 10:26:46 ID:lGcbvWxO

「……もしもそうなれば、どこか遠い所に行こうか」
「兄様?」
「そうだな、東京がいいだろう。あそこは脛に傷持つ人間が自然に集まるらしいからな。そんな所なら、男女二人紛れることもできよう」
「……ああ」
そっと夜が俺に歩み寄り、顔に手を添えた。ひんやりと冷たい指先が頬を撫でる。
愛しむようであり、憐れむようであり、悲しむようであり、懐かしむようであり
いずれも、狂おしいまでに
「哀れな、徹兄様。夜のような女に、魅入られたばかりに、揚々たる前途を踏み外して」
「……」
「夜が御爺様と母様を斬らねば、兄様が斬ったでしょう。兄様は、それでも夜を愛していたのですから。夜は兄様に、そんな苦難を背負わせたくはありませんでした」
「……」
「それでも兄様には、夜のために道場を捨てさせてしまうのですね。至らぬ妻をお許しください、徹兄様」
「いい、いいんだ。全て俺が決めたこと。お前の……せいなどではない」
俺もまた、そっと手を伸ばして夜の頬に触れる。人肌の温もりは、何故だか俺から温度を奪うようだった
まるで日が暮れた後の風に吹かれたように。
夜が、そっと囁いた。

「……ねえ、兄様」

「もしも兄様が、夜に飽きたのなら、どうか御捨てになってください……その時は、その時こそ」

「夜は徹兄様の、剣士としての本懐を満たしてあげられると思います」

浅賀徹に、浅賀行正を越える方法は、最早ない。死人は斬れず、斬る以外に剣士に勝る術はない。
ただ一つ例外があるとするのなら。浅賀行正を斃した術理を破った時のみ。
浅賀夜の持つ――――血啜青眼を。

「夜の全ては、最初から最後まで、徹兄様のものです。ですから、どうか兄様」

「いきましょう――――供に」



かつて未来は大きく開けていると信じていた。
けれど今、この身の行く先は……夜だけが待っている。
それでも俺は――――彼女と供に、朝の訪れを信じよう。

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最終更新:2009年12月15日 14:43
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