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弓張月1 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/05(火) 01:08:40 ID:O+8pR+sc
薄暗く長い板張りの廊下をひたひたと歩く。
春先のまだ冷たさを若干残した夜気が、火照った体に心地よい。
はぁ、と息を吐いてみた。
しかし、吐いた息が白く凍り中空に上ることはなく、何となくそれが残念に感じた。
ふと、立ち止まり、廊下の戸を開け放ち空を仰いだ。
深い藍色の空。
田舎ではないが都会と云うには畏れ多いこの町の、そこそこ澄んだ空のおかげかこの町の夜空もそこそこに美しい。
更に今夜は雲一つなく、視界いっぱいに星が踊っていた。
そして数多の星が無邪気に遊ぶ中、月が一つ空に鎮座ましましていた。
弓張月。
半身を失い、欠けた月は弱く煌めき、失くした自分を夜天に探す。
夜明けは、まだ遠い深夜。
――兄さんは、まだ帰ってこない。
兄さんは、あの日からあまりこの家に帰ってこなくなった。
きっと、私とこの広い屋敷の中で過ごすことを恐れているのだろう。
「兄さん」
愛しい名を呼ぶ。
正確にいえば兄さんの名前ではないけれど、世界で唯一私だけが呼ぶことを許された呼称。
それは、私と兄さんの強固な絆を示すとともに、堅固な壁をも表す。
私は兄さんの妹であるからこそ、誰よりも近く、そして遠い。
兄さんを私がどれだけ愛そうとも私が妹である限り、今のままでは兄さんが私を愛してくれることはない。
そう、今は、まだ。
「兄、さん……」
情報では、兄さんは今夜あの女のところにいる。
近しい男女の二人が、夜を共にするということは、つまりはそういうことだろう。
その姿を思い浮かべるだけで、暗く、どろどろとしたモノに感情の全てが占められる。
でも、と心の中で言い聞かせる。
あの兄さんの隣で恋人面をしている虫を、感情に任せて駆除するのはそう難しくはない。
けれど、それにはかなりのリスクを伴う。
ともすれば、私と兄さんは引き離されてしまうことにもなりかねない。
それに。
そんなことをしなくとも、きっと、兄さんは最後にはわたしを選んでくれるという確信があった。
「にい、さん」
空には月。弓張月。
きりりと弦を張り、私を照らす。
あと暫し。
あと暫しの我慢で、きっと欠けた月は失った片身を取り戻し、あるべき姿に――
219 弓張月1 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/05(火) 01:09:29 ID:O+8pR+sc
†††††
春のうららかな日差しの射す通学路。
周囲には俺と同じように通学中の学生や通勤中の大人たちの姿。
競うものではないだろうが、彼らの中ではきっと俺が一番気分が沈んでいるんじゃないだろうか。
原因は分かっている。昨夜のSEXだ。
恋人とのSEXは、もちろん快感をもたらしてはくれたが、満足できるものではなかった。
彼女のことが嫌いなわけではない。
寧ろ世界で一番愛している。
……我ながら、心中で考えるだけでも鳥肌が立つような臭い言葉ではあるが、間違いのない真実である。
しかし、俺は――
「あーすかっ!」
不意に背中に呼びかけられた声に、思考の海から引き戻された。
振り返るよりも早く、ばふと声の主に抱きつかれた。
抱きついてきた者の体は小柄で軽いが、かなり勢いがついていたのか、予想以上の衝撃に倒れそうになりたたらを踏んだ。
「っとと……。急にどうしたんだよ、都」
「だって、朝起きたら飛鳥がもう居なくなってたんだもん」
ぷくぅーと頬を膨らませて抱きついたまま俺を恨めしげに見上げる少女。
峰松都(みねまつ みやこ)。
俺のクラスメートで、恋人でもある少女。
彼女はむう、と頬を膨らませたままでげしげしと足を蹴ってきた。
「せっかく、久しぶりの二人きりの夜だったのに、淡白だよ飛鳥」
「久しぶりって……5日前もやっただろ」
「5日もしなければ十分久しぶりだもん」
……どうでもいいが、朝っぱらから、それも公衆の通学路で俺たちは何の話をしているんだろうか。
はぁ、とため息をつくと何か勘違いでもしたのか、都が不安げな顔をした。
「あぅ……もしかして私のこと嫌いになった?」
「はあ?なんでそうなるんだよ。嫌いになんてなってないよ」
「じゃあ、好き?」
「ばか、何でこんなトコでそんな事言わなきゃなんないんだよ。恥ずいだろ」
「むぅ……じゃあ嫌いなんだ」
せっかく萎んだ頬が、再び膨れてしまった。
「不貞腐れたって言わないぞ」
俺は彼女を引っぺがして、再び歩き出した。
しかし数歩歩いても、都が後をついてくる気配はなかった。
それどころか、ぐす、と鼻をすする音。
嫌な予感がして振り返ってみると、
「何で、泣いてるんだよ……」
「うぅ……だって、昨日の夜も、好きって言ってくれなかったし」
「……」
ちっ、と思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。
そう言えば、SEXの時に何度かそうせがまれていたが、無視していた気がする。
俺が少し不機嫌になったことを悟ったのか、都の嗚咽まで漏れだした。
……ああ、もう。
「――好きだよ」
「……うぇ?」
泣きながら、見つめてくる都。
しかし、その目には僅かながら期待や喜色の色が滲んで見えた。
恐らくちゃんと、聞こえていたのだろう。
わざわざ恥ずかしい言葉を2度も言ってやる必要もないだろうが、これは俺が全面的に悪いことだし、な。
「だから、好きだって言ったんだよ」
「……ほんと?」
「本当だよ。俺が嘘や冗談を言ったことあるか?」
「んー、割と沢山」
「……」
ぷい、と顔をそむけすたすたと歩き出した。
ああ、待ってよぅ、と今度は都もついてくる。満足したようでなによりだ。
――好き。
俺は、彼女――都の事を好きだ。その事に嘘はない。
彼女の肩まで伸ばした少し茶髪がかったポニーテール、大きなくりっとした目に色素の薄い瞳や、小柄だが活動的な溌剌とした性格も全てが好きだった。
220 弓張月1 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/05(火) 01:10:17 ID:O+8pR+sc
けれど。
俺は彼女とのSEXに満足をすることができなくなっていた。
それよりも、甘く、激しく、身を焦がす快感を知ってしまっているから。
あの日、俺は妹である花音に襲われた。
夕食後に眠気を催して、自分の部屋でうとうとしていると、突然部屋に入ってきた花音にベッドに押し倒されそのまま。
……所謂、逆レイプというやつだろうか。
普段は楚々としていて、性格も容姿も大和撫子を地でいくような妹であったために、その時はかなりショックだった。
今も正直彼女が怖く、夜も余り家に帰れないでいる。
否、怖いのは花音が、というわけではない。
もちろん怖くないわけではない。
今も彼女の料理に睡眠薬でも盛られてるんじゃないか、風呂に入っている時、夜寝ている時などに襲われるんじゃないかと正直ビビっていた。
だからこそ、今でも週に家に帰る日の方が少ないくらいだ。
しかし、それよりも怖いことがある。
本当に怖いのは、そう。
妹とのSEXでの時に感じた強烈な悦楽だった。
その、ともすれば溺れてしまいそうな麻薬は、今も俺を抑えつけて離さない。
特に昨夜のように、別の相手とSEXをする時はより妹との時に得た快感と比べてしまっていた。
そして、都を抱きながら心の中では妹の体を求め、その体を想像しながら抱いていた。
しかし、結局最後に得られた快感は、あの時のモノには遠く及ばず、こうして今もそんな自分に嫌悪感を抱き不機嫌になり好きな恋人に不安感を抱かせている。
俺は罪に塗れている。都に真実を告げることも、花音もただ逃げるだけで何もすることもなく、日常を演じている。
恋人として愛しているのは間違いなく都なのに、体だけは花音を求めてやまない。
都とのSEXにこれから先も充足を得ることもできないし、だからといって花音と恋人になるなんて言語道断だ。
そして二人共から距離をおくなんて事ができるほど、俺は優しくなんてなかった。
我がことながら最低な二律背反。
自ら命を絶てば最善ではないとはいえ、ある程度の決着はつくかもしれない。
しかし、自殺なんてそんな勇気、俺にはある訳がなかった。
二人が、勝手に俺のことを嫌ってくれればなんて甘い考えを抱いて、その後に一人取り残された自分のことを考えると寂しさを抱いてしまう。
結局俺は、自分が一番可愛いだけの弱い甘ちゃんなのだ。
「はは……」
「ん?飛鳥、どうしたのん?」
思わず自分に蔑笑を漏らすと、都ががばっと俺の右腕を抱いて顔を覗き込んできた。
くい、と頭を斜め15度に傾ける都の頭を撫でてみた。
「ふぇ?」
滅多にやらないことをやったせいか、都は目を白黒させて撫でたところを確かめるようにぽんぽんと自分の頭に手を置いた。
その様子が、妙におかしくて今度は質の違う笑いをもらしながら歩く。
普通なら、こんな同じ学校の奴らの目がある通学路で、いちゃつくなんて考えるだけで怖気が走るようなことをしているのはもしかしたら罪悪感からだろうか。
……否、ただ都を失うのが怖いだけ、なのだろう。
俺は、二人のどちらかを選ぶこともせず、どちらも選ばないということもできず、ただ今までどおりの日常を望み続ける。
――俺は多分知らなかった。日常と云うものが余りに脆く、まるで卵の殻に覆われた程度のモノだということに。
最終更新:2010年01月07日 20:36