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弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:51:56 ID:byiDwS1S
桜。
桜の木だ。
日本人というものは桜という花がたいそう好きらしく、全国でかなりの数の学校に桜は植えられている。
平凡を地で行くこの伊佐里高校もやはり、桜の木が校門から昇降口にかけての道に数本ずつ両脇に植わっている。
季節は春。
桜の花が日本中で咲き誇る季節だ。
しかし、暦は4月下旬、伊高に植えられた桜は代表的な種である染井吉野で、この時期にはすでに散りきっていた。
代わりに青々とした葉がぽつぽつと開き、陽光に輝いている。
桜の花は咲いている期間がかなり短い。満開になったと思えば、風と戯れるように花弁を舞わせあっという間に散ってしまう。
散ってしまえば、多くの人は1年後再び咲き誇るまで桜から興味をそらしてしまう。
桜は直ぐに散ってしまう儚さがあるからこそ、多くの人に愛されるのだ、なんて誰かが言っていた気がする。
でも私はそうは思わない。
桜は花を散らせても、初夏には青々とした葉を纏い、秋には橙に染まり、そして冬には灰色の体で長い冬に眠る。
「桜は春だけじゃなく、一年中様々な顔を私たちに見せてくれる。そうは思いませんか?」
「……は?何言い出すんだ、いきなり。そんなことよりもさ、俺、君のことが――」
正面に立つ男子生徒が、また何かつらつらと喋り始めた。
もう何度目かわからないその言葉を聞き流しながら、何とはなしに桜の木の枝を一本、手折る。
桜は木を傷つけると、そこから腐っていきやすい。
自分の体の一部が切り離されたことを嘆き、絶望するように。
自らの体を奪った者を呪う感情に侵されるように黒く、黒く染まっていく。
私は、この桜の性質が好きだった。
――私だってそう。
私の隣に、兄さんがいない。それだけで体が腐っていく。
じわり、じわり、と暗澹たる霧が私を支配していく。
逢いたい、逢いたい、逢いたい。
ぎり、と唇をかみしめた。
昼休み、昨夜兄さんと過ごせなかった分、せめて昼食ぐらいは一緒に過ごそうといつもは兄さんが家に帰ってきた時しか作らない弁当箱を持ち、
兄さんを探していた途中に、この男子生徒に呼び止められた。
短い時間で済むから、と言うからついて行ったのに、校舎の影になり殆ど人の通らない場所に一本だけある桜の木の下に着くなり唐突に独り語りを始めた。
桜の木は、日が十分当たらないからか幹が細いように見える。
纏っている緑葉の数も心なしか少なく思えた。
ある程度気付いていた事だけど、男子生徒はどうやら私に告白するつもりらしかった。
今まで曲がりなりにもお嬢様として、蝶よ花よと育てられたせいか余り世間ずれしていない私にだってそれくらい分かる。
ため息をつきそうになって、慌てて堪えた。
……正直今すぐにでも逃げだしたい。逃げだして兄さんの顔を見たい。
例え、この目の前に立つ彼との面識がなく、彼に何の感情も抱いていなくも告白を断るという行為には胸が痛い。
それは、勇気を持って告白してきてくれた人への冒涜にしか過ぎないのだろうけど。
「だからさ、俺たち付きあわねぇ?」
何故か上から目線。
どうやらこの人は先輩のようだから、ある程度年上として接しても別におかしくはないけれど、TPOというものがあると思う。
「付き合う、ですか」
「そう、恋人同士ってやつ。買い物に付き合ってとかじゃないぜ?」
はは、と彼は笑う。
何がおかしいのだろう。首をかしげる。
余りTV等を見ない私には、理解できない笑いどころがあったのだろうか。
ふと、校舎にかけられた時計を見た。
まずい、あと20分ちょっとしか昼休みがない。
多分もう兄さんは学食か購買で、昼食を調達していることだろう。
私の弁当を兄さんに食べてもらうことはもう、適わない。
そう考えた時、私の体はまた少し腐る。
どろどろと澱んだ想いが、胸の中を占めていく。
この想いの前に私の理性は、紙に等しい。
275 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:53:04 ID:byiDwS1S
「ごめんなさい」
薄皮一枚の壁で、何とか平静を装いながら頭を下げた。
頭上から、へ、と間の抜けた声。
まさか、告白がうまくいくと本気で思っていたのだろうか。
私が、良く知りもしない男性と付き合うような女だと思われていたのだとすると、甚だ心外だった。
三拍の間をおいて顔をあげた。
男子の顔が、自尊心を傷つけられたように歪む。いつもと同じように真摯な態度で私は見返す。
「はは、冗談だろ?」
「ごめんなさい」
「俺これでも、サッカー部のエースストライカーなんだぜ?」
「ごめんなさい。私サッカーは見ませんので」
私は武道以外のスポーツと言えば野球ぐらいしか詳しくない。
「他に好きなやつでもいるわけ?」
「……」
口を閉ざす。
私としては別に兄さんが好きだと声高に宣誓しても良いのだけど、兄さんに迷惑をかけるようなことをする訳にはいかなかった。
ちっと、舌打ちの音。
「だんまりかよ。お嬢様にとって俺たちみたいな一般人は皆、塵に過ぎませんってか?お高くとまりやがって」
「私はお嬢様じゃありませんよ」
「あぁん!?……はっ、そういうやそうだったな。いくらお前が神童と呼ばれるくらい才能に溢れていても、無能の兄貴のせいで――」
かっと、私の頭に血がのぼった。
地面を滑るように一気に間合いを詰めて、手を思いっきり振りかぶり、男の頬に掌を叩きつけた。
パァンと、小気味よい音。
一瞬何が起こったのか分からず目を白黒させていた男が、やがて訪れた痛みに事態を悟り、かあ、と顔を怒りと羞恥に赤くした。
「ってー」
男が頬を抑えながら、私を睨んだ。
私も目を反らすようなことはせず、じっと見据える。
2~3歩下がってから、はん、と鼻で笑って見せた。
瞬間、男の顔が面白いくらいに赤く染まっていく。
「お前の方から手ぇ出してきたんだからな。文句言うなよ」
感情のまま間合いを詰めてきた男の手が、勢い良く伸びてくる。
私の右腕が掴まれる。
慌てることなく、男の勢いを利用して足を払った。
同時に手を引くと、行き場をなくしたベクトルが男を回転させた。
男の体が、地面にたたきつけられた。
「かは――」
素人ゆえに、受け身も取れなかった男が息を漏らした。
「お、まえ、っ!!」
何かを叫ぼうとした男の顔すれすれのところに、勢いよく足を踏みつけた。
ひ、と男の悲鳴。
くす、と男の間抜け顔に堪え切れず思わず嘲笑。
お陰で私は幾分冷静さを取り戻していた。
「ねえ」
男子生徒を見下ろす。
彼の目は既に恐怖に染まっている。1歳年下の女を彼は恐れていた。
「貴方、今、何と言いました?」
「……へ?」
「確か、兄さんの事を無能だと言ったように聞こえたのですが。……私の聞き間違いでしたか?」
「あ、あ、」
彼は何を言おうとしたのだろう、もしかしたら否定しようとしたのかもしれない。
しかし、すでに私の意識の中に彼はいなかった。
くるりと踵を返し、兄さんのもとへ急ぐ。
276 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:54:08 ID:byiDwS1S
学食か、購買ならば教室にいるはずだ。
確か兄さんは、部活のある日は腹もちが悪いからとパンは食べないはずだから、学食か。
学食へと足を向けて、はたと時計に目がとまった。
昼休みは残すところ10分ほどしか残っていない。
この時間なら、兄さんは既に昼食を摂り終え教室に戻っていることだろう。
方向転換して、兄さんの教室へ。
ここから兄さんの教室まで2~3分はかかる。
廊下を走るなんてはしたない真似をする訳にもいかないし、授業に遅れるわけにもいかない。
兄さんの教室へ行ったところで、滞在時間は幾分もない。
けれど、一目だけでも兄さんの姿を見ておきたかった。もし贅沢が許されるなら、声も。
「こ、こんな、事して……どうなるのか、わかってるんだろう、な……」
切れ切れの声。
振り返ると男子生徒がよろよろと立ちあがりこちらを睨んでいた。
――面倒ですね。殺してしまいましょうか。
ふと過った考えを、頭を振って追い出した。彼を殺したところで一体何処に得るものがあるというのだろう。
冷静さを取り戻したと思っていたけれど、どうやらまだ燻っていたらしい。ふうと、息を細く深く吐いて気持ちを整えた。
「お前の本性を言いふらしてやるからな!」
「あら、何を言いふらすのでしょうか。貴方が告白を振られた腹いせに襲いかかってきたので、正当防衛としてしかるべき対処をさせて頂いただけなのですが」
それ以上喋らないでほしい、と思った。
もう、これ以上は彼を無傷で帰す自信がなかった。
「な、お前から手ぇ出してきたんだろ!」
「そうですね。ですが、そのような事関係ないでしょう?」
「っ!」
こういう事なら矢張り女性の方が有利であろう。
更に、自分で言うのもなんだが私の言葉と、彼の言葉、人がどちらを信じるかなんて目に見えていた。
「お、俺には仲間が一杯居るんだ……このままで済むと思うなよ」
怨嗟の声。
黙れ下種が、なんて汚い言葉を何とか飲み込んだ。
代わりにため息をつく。これも、余り褒められた行為じゃないけれど。
「どうぞご勝手に。ですがその時は、今回のように生きて帰れると思わないでくださいね」
笑みを浮かべながら告げる。
ひぃ、豚のような声。
男子生徒の顔が死の恐怖に青ざめていく様を十分に堪能する。
「天ノ井は失墜した今でも、ある程度の権力はあります。殺人はさすがに無理でしょうが、傷害くらいならもみ消すなり、改竄するなり出来ると思います」
半分嘘で、半分本当。
実権を握る吉野ならまだしも、私、天ノ井花音にそこまでの力はないだろう。
でも、男子生徒達に無理襲われたなり何なりと言い訳をつけて、正当防衛にするくらいの力ならあるはずだった。
「それと、私、武道が趣味のようなものでして……それなりに強いですよ?」
首を気持ち傾げて告げた。
ひゅ、と男子生徒の口からもはや悲鳴ですらない音が漏れた。
さあ、と春風が吹いて葉桜が揺れた。青々とした葉は、花弁と違い中空に放り出されることはない。
最後に男子生徒に一瞥だけを残し、今度こそ兄さんの元に少しだけ速足で。
1~2分で兄さんの教室へ、通り抜けるふりをして窓から兄さんの姿を覗こうとして、足が止まった。
兄さんの出来は覚えてる、窓際の一番後ろ。直ぐにその姿は見つかった。
目に映ったのは兄さんと、あの女の姿。
「ったく、お前のせいで昼飯の時間が少なくなっちまったじゃないか」
「ええ、でもそれは飛鳥がいつまでも私のお弁当食べてくれなかったからでしょ」
「だから、教室で手作り弁当とか恥ずいだろ。男子の視線も痛いし。いい加減俺の苦しみを分かってくれ……」
「むぅ、そんなの関係ないもん。それよりも、ね、おいしい?」
「……普通だな、至って」
「うわ、ひどーい」
楽しそうに話す二人。
私は、昨夜から名前を呼んでもらってすらいないのに。
こうやって離れた所から様子を窺う事しかできないのに。
なんだか、自分が凄く惨めに感じた。
ぎり、と歯を噛みしめる音。今すぐ教室の中に飛び込んで、私の作った弁当を渡して、兄さんの持つ弁当箱を窓の外に放り投げたい衝動に駆られた。
277 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:55:45 ID:byiDwS1S
「あれ、花音ちゃん?」
背後からかけられた声に、びくりと震えた。
振り返ると、男子生徒が立っていた。確か兄さんの、友人の方。名前は、真木さんだったと思う。
彼はにこり、と微笑みながら
「もしかして、天ノ井――っと飛鳥に用事かな。それなら呼んでくるけど……」
「い、いえ。只通りがかっただけですので……もう授業も始まりますので、失礼します」
早口にまくしたて、逃げるように教室を後にした。
背後から、真木さんが何か言っているようだけど、私の耳には届いていなかった。
「寂しいよ、兄さん」
半ば走るように歩きながら、無意識に呟いた。
† † † † †
放課後。
正直、何度も行くのを辞めようと思ったが、真木と仲がこじれたりして貴重な男友達を失くすことになったら非常に困るので、結局俺は屋上にいた。
まだ、真木は来ていない。呼び出しておいて遅刻か、あの野郎。
あと5分経っても来ないようなら、問答無用で帰ろうと心に誓って――
「で、なんで吉野先輩がここに居るんですか」
「あらあら、私はただ夕焼けが綺麗だから眺めているだけですよ~」
「それなら、もっとフェンスに近寄ったらどうですか。こんな中央からじゃ見えにくいと思いますが」
「そんなことしたら、フェンスが外れて落ちちゃうかもしれないじゃないですか」
「だから、高いところ怖いなら来るなよ」
吉野先輩の言うとおり、確かに夕焼けはきれいだった。昨日と違って快晴というわけではないが、空に揺蕩う幾許かの雲も夕陽に染まり美しさを助長している。
しかし吉野先輩は、その景色を明らかに見ていなかった。
俺の後に屋上に人が来て、真木だと思って振り返れば何故か吉野先輩だった。
いぶかしげな俺の視線にも構わず、先輩は俺の2歩ほど後方に立ち、さっきから俺をにこにこと眺めている。
「本当、何しに来たんですか……」
「だから、出歯亀だと言ってるじゃないですか~」
「さっきと言ってること全然ちげーよ!」
あれーそうでしたか?わざとらしく首をかしげる吉野先輩。
「というか、なんで知ってるんですか」
「だって、結構話題になってましたよ?都ちゃんを捨てて真木とくっつくのか――って」
「……はは、またそんな冗談を」
「あははー」
しばらく二人そろってカラカラ笑う。
冗談に決まってる。
今日一日、やけに周囲の視線が生暖かいものだったのも、机の中にいつの間にか男同士が睦みあう本が入れられて応援しています、
なんてメッセージが添えられていたのも、きっと、気のせいだ。
「あれ、飛鳥ちゃん、何で泣いてるんですか?」
「……埃が目に入っただけです」
「誇りがですか?」
「分かりにくいボケっすね」
俺、もう帰ってもいいだろうか。
本格的にそう思っていると、背後から扉の開く音。
振り返ると、今度こそ真木だった。
「来て……くれたんだな」
そう言って真木は照れ臭そうに頭をかいた。
真木の顔が心なしか赤く染まっている。夕陽のせいだ、夕陽のせいだ、と心の中で唱えた。
と、真木が俺のそばにいる吉野先輩の存在に気付いた。
「え、と。何で吉野先輩がここに?」
「出歯亀です」
「へ?」
真木が呆気にとられた顔をした。はっと、気付く。
このままいけば有耶無耶になってくれるんじゃないだろうか。
おお、吉野先輩もたまには役に立つじゃないか。
278 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:56:32 ID:byiDwS1S
「俺、天ノ井と二人きりで話したいことがあるんですけど」
「あらあら、私のことは気にしないでいいですよ。通りすがりの牛だと思ってくれれば」
頭の両側に人差し指をくっつけて、もー、と鳴いてみせる吉野先輩。
「はは、しょうがないな、先輩は。真木、吉野先輩がこう言うんじゃ仕方ないさ。話はまた今度――」
「ああ、仕方ないな。本当は二人きりがよかったんだけど」
「そうそう、二人きりのほうがいいに決まって……え?けど?」
真木が、吉野先輩を真面目な顔で見つめた。
吉野先輩は、相変わらずにこにこと女神のような笑み。
「吉野先輩、これからの事は誰にも言わないと誓ってくれますか?」
「ええ、もちろんですよ~。何なら協力して差し上げてもいいですよ~。私も彼女とは仲良しですから」
「お見通しですか。敵わないですね、先輩には」
「……え、え?協力?彼女?」
混乱する頭で断片的につぶやく。
真木と吉野先輩は俺の言葉に答えず笑みを交わしあった。
「天ノ井!」
真木が俺を真剣なまなざしで見据えてくる。
猛烈に逃げ出したい気持ちにかられる。
「あらあら、逃げちゃダメ、ですよ」
俺の心を見透かしたかのように、俺の両腕を掴み羽交い絞めにした。
むにむにと、先輩の凶悪なまでの双丘が、背中で変幻自在に形を変えた。
絶対にわざと押しつけているんだろうけれど、もっと楽しみたいという誘惑に勝てず、はは、と誤魔化すように笑った。
しかし、幸福の桃源郷へ足を一歩踏み入れた俺を真木の声が、冷徹にも引き戻した。
「おれ、俺さ……」
だーっ!何頬を染めてるんだよ!
野郎が頬を染めたって萌えねえよ。
むしろ誰得……。
「俺、お前の、お前の」
瞬間的に耳を塞ごうとしたけれど、両腕を拘束されたままでは不可能だった。
恨めしげに吉野先輩をにらんでも、先輩はにこにこと受け流す。
絶対楽しんでるだろ、アンタ。
「お前の妹が好きなんだ!」
とうとう真木が、思いを告げた。
俺の妹が好きだと。
「……え?妹?って、花音の事か?」
「ああ、それで、そのお前に協力してほしいんだ」
ひゅー、と通り抜ける風は春風の割に妙に寒々しい。
妹、妹、ああ、花音ね。
花音との恋愛成就に兄として協力してくれ、と。
なるほどそういうこと、ね。
薄く笑みながら、真木に歩み寄る。
いつの間にか、吉野先輩の拘束は解けていた。少し残念に思ったのは秘密だ。
ぽん、と真木の肩に左手を置いた。
すると、真木が嬉しそうな顔をした。
「協力してくれるか!」
「ああ、協力ぐらいなら何時だってしてやる。でもな……」
ぎゅっと右の拳を固める。右足を一歩後ろに下げて、両膝を少々曲げ腰を落とし、どっしりと構えた。
手加減するのよ~と背後からかかる場違いな声は無視。
すう、と息を吸って。
「紛らわしいんだよ、お前は!!」
「ひでぶっ!」
渾身のレバーブロー。真木は、今日一日は何も食べられないかもしれない、ざまあみろ。
279 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 00:59:25 ID:byiDwS1S
† † † † †
夕日は完全に沈み、空は星と月の世界だ。
あのあと、真木を保健室に運び俺は部活に精を出した。
妙にすっきりした気分で部活を終わらせたあと学校を出て、人通りも、車さえ通っていない閑静な住宅街を歩きながら考える。
今日は、どこで夜を過ごそう。
いつもは、一人暮らしの真木の家に泊めてもらったり、都の親がいないときには彼女の家に泊まったりしている。
しかし今日は、真木の家には泊まりづらいし、都の家には親がいる。
さすがに、親がいる恋人の家で一夜を過ごせるほど俺は図々しくない。
そしてこの二人のほかに、泊めてもらえるようなアテはなかった。
こういうとき、もっと友人を作っておけばと後悔してしまう。
ホテルに泊まる金もないし、野宿したくなかったなら、自分の家に帰るほかないようだった。
花音の待つ、家に。ぞっと、体が震えた。
あの日の花音の裸が頭をよぎり、今も反芻できるほどのどうしようもない快感が蘇る。
思い出すだけで射精してしまいそうなほどの、悦楽。
血のつながった人間とのSEXは気持ちがいいという話を聞いたことがあるが、強ち
都市伝説ではないのかもしれない。
底なしの沼に既に俺は足を取られている。
――あとはじわじわと落ちていくだけ。
「兄さん」
思考を断ち切った声に、びくりとする。聞き覚えのあるすぎる声だった。
前方の闇に目を凝らせば、人影。
まわれ右をして、逆走したい衝動を抑えながらそのままのスピードで人影へと近づいた。
着物姿の、花音が立っていた。
花音は、洋服よりも何かと不便な和服を好み、家の中ではいつも着物姿だ。
花音が俺を、じっと見つめてくる。その瞳に何が宿っているのか、この暗さでは判別付かなかった。
「花音……」
他に何も言えず、ただ名前を呼んだ。
すると、花音は泣きそうな顔で、嬉しい、と呟いた。
「やっと、兄さんが私を呼んでくれました」
「お前……」
何で、と掠れた声でたずねると、
「昨日から、兄さんと話せませんでした、から」
花音が両手を握りしめている。
俯いた花音の目からぽたぽたと二雫、月光に煌めきながらアスファルトを濡らした。
きゅう、と胸が締め付けられるような感覚。腕が、思わず花音の元へ伸びかけていた。
この感情はどこから来るものだろう。
恋情か、親情か、それとも欲情か。
「兄さん、今夜は帰ってきてくれますか?」
不安げな声。
顔をあげて、窺うような上目遣い。その目も不安に揺れている。
答えに窮していると、花音が俺に抱きついてきた。
「兄さん、一人の夜は、もう、嫌、です」
俺の胸に顔を埋め、すがり付いたまま一言一言を区切り、ゆっくりと。
俺の両手が、花音の背中の少し上方を漂う。
「寂しいよ、兄さん」
花音の声が、泣いているように聞こえた。
現在天ノ井家には、俺と花音以外の住人はいない。
ハウスキーパーは居るが、それも昼の間だけ掃除などを済ませてさっさと帰ってしまう。
つまり俺が帰らない夜、花音は一人あの無駄に広い屋敷の中一人ぼっちなのだ。
それでも平気だと思っていた。花音は俺なんかよりも色んな才能にあふれていて、確りしている。
だから、知らなかった。否、知ろうとしなかった。
花音が、一人の夜を寂しいと思っていることに。
俺は花音の兄なのに、両親が死んだ日、花音を俺が守るんだと決めたのに、守るどころか寂しい思いをさせていたなんて。
その間俺が何を考えていたかというと、花音の体のことばかりだったじゃないか。
気がつくと俺は、ギュッと花音を抱きしめていた。
勿論、花音の躰に囚われた心は、今も胸の奥で悦楽を求め怪しく、真紅に燃えている。
正直、何時花音の体を欲望のまま貪ってもおかしくなかった。
でもそれは俺が我慢すればいいだけの事。
花音はきっと、寂しかったからこそあの日あんなことをしたのだ。もう、花音にあんなことを繰り返させるわけにはいかない。
280 弓張月3 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/10(日) 01:01:20 ID:byiDwS1S
「にいさん、にいさん」
甘えるような声。
脳が痺れてしまいそうな官能の響きを、理性の力で押しつぶす。大丈夫、大丈夫。
「帰ろう」
まだ抱きついている花音の体を、離す。
花音は数秒、残念そうな顔をして、
「はい」と頷いた。
花音の事を愛おしいと思う気持ち。この気持ちはどこから来るものだろう。
恋情か、親情か、それとも欲情か。
花音が、歩き出した俺の手をそっと取りぎゅっと握りしめた。
「ふふ」
花音の笑い声。
「どうした」
「いいえ、なんでもありません」
首を振り、否定しながら、それでも花音は笑う。
僅かな違和感。いつも花音はこんな風に笑っていただろうか。
普段の花音はもっと淑やかに、それこそ撫子のように美しくしかし控え目に笑うのに。
今の花音の笑みは、真っ赤なバラのような印象を抱かせた。
「弓張月が、満ちるのも――」
「え?月がどうかしたのか?」
花音の呟きは、小さくて上手く聞き取れなかった。
いえ、と花音は空を見上げた。
俺もそれを追うように、天を仰ぐ。
「月が、綺麗ですね」
「あ、ああ。そうだな」
産まれてから今まで見てきた月と特に変わらない月は綺麗だ、という感慨を抱かせるものではなかったが、曖昧に肯いた。
花音は月を愛でるように見つめている。
空に浮かぶ半月が満月の時よりも、気持ち弱い月光が、淡く俺たち二人を照らしていた。
俺は、その月を切実な気持ちで見上げている自分に気付き、首を振る。
不思議そうな眼で見上げてくる花音。俺は、誤魔化すように話題を多少慌てて探す。
「なあ、花音」
「はい?」
「真木って知っているよな。真木和泉」
「ええ、兄さんのご友人ですよね」
「そうそう、あいつ、どう思う?」
「どう、とは?」
「えーっと」
何と言えばいいか分からず、口ごもった。
好きか?と聞くのはさすがに直球すぎる。
かといって、中途半端な変化球を投げても下手をすれば真木の気持ちを悟らせてしまうことになるかもしれない。
花音は聡い子だから。
……唐突に真木のことを話し始めた時点で思いっきり不自然だとは思うが。
今更なので、花音が気付いてない事を願うしかない。バレてたらすまん、真木。
幸い、花音は特に気にしてないようだ。それが、真木にとって果してそれが幸か不幸かは、今はまだわからないけれど。
真木には期待している。
真木はいい奴だ。それは自信をもって保証できる。
アイツならきっと花音を幸せにしてやれる。
アイツなら俺のように妹を寂しがらせるような、愚かな事をしない。
――真木、頑張れよ。精一杯俺も手助けするから。
心中で親友にエールを送った。
いつの間にか花音が珍しく、鼻歌を歌っていた。
曲名は、カブトムシ。コイツ、こんなメジャーな歌知ってたんだなとやけに感慨深い。
クラシックとか雅楽くらいしか聞かないと思っていたけれど、そうじゃなかったようだ。
上機嫌な花音の透き通るような声が、夜の空、琥珀の弓張月へと澄み渡っていく。
「兄さん、今日は、兄さんの好きな煮込みハンバーグですよ」
「お、そうなのか。あー腹減った。さっさと帰ろうぜ」
こくりと花音が頷いた。けれど、着物姿で走ることは難しいし、少しだけ速足になったくらい。
春の夜。妹と二人、家路を急ぐ。
どうか、この兄妹の姿が夢の如くならぬようにと、月に祈った。
最終更新:2010年01月23日 19:51