89 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:08:49 ID:fFGCkvUN
悲鳴。
轟音。
身重の母親の負担を少しでも減らそうと、幼いなりに必死で窓ふきを行っていた俺は、同じように慣れない手つきで掃除機をかけていた父と顔を見合わせた。
何かが階段を転げ落ちる音と、母親の悲鳴。
幼い俺は、何が起こったのか咄嗟に理解できず首をかしげたが、父親は事態をある程度察したらしく、駆けるように部屋を飛び出した。
俺は、訳も分からずその後をついていく。
部屋を出て、直ぐの廊下。
階段のふもとに、母親が丸くなって転がっていた。
その脇に父親が屈みこんで、何かを叫んでいる。
俺は、唐突な展開に混乱する頭のまま、ゆっくりと両親に近づき二人を見下ろした。
母親が、苦しそうに呻いている。大きくなったお腹から、赤い液体が流れていた。
それを見て、何故か母親と父親の声が蘇る。
――もうすぐリオンの妹がもう一人できるのよ。
――二人の妹のお兄ちゃんになるんだ、もっと強くならなきゃな。
ぼんやりとした俺を置きざりにして、事態は進む。
父親が必死の形相で立ち上がり、リビングへ戻った。
暫くすると焦ったような声で、父親が誰かに喋る声が聞こえてきた。
恐らく、救急車を呼んでいたのだろうが、当時の俺には分かっていなかった。
ふと、名を呼ばれた気がする。いや、厳密には俺の名前ではない。
「お兄ちゃん」
再び呼ばれる。
幼い少女の声。
声を追ってゆっくりと顔をあげた。
階段の頂上に、俺よりもさらに幼い少女が立っていた。妹のマリア。
目が合うと、マリアが笑った。
さっきまではジージーとうるさかった筈の蝉の声がぱたりと止んだ。
母親の声も、父の癇癪交じりの声も、周囲の音全てが消えた。
マリアは、小さな唇を弧に歪めたまま、
「お兄ちゃんの妹は、私だけで良いよね?」
「マリア……?」
妹の言葉の真意を掴めず、眉を寄せて呟く。
夏の焼ける様な日射しを背にしたマリアが、かくんと首を傾げた。
二つ結びにした母親譲りの金色の髪が陽光にキラキラと輝き、それはまるで、女神のようで。
けれど、どうしてだろう。妹の笑みに背筋が寒くなるのを感じた。
澱んだ視線に射竦められた俺は、呆けた様にただ妹を見上げるだけ。
「どう、して……」
足元から母親の声。
はっと、足元に視線を落とす。母親がゆっくりと、階段を見上げた。
「どう……マリ、ア」
母親の声には、困惑や悲しみ、痛み、そして怒りと怯えが混じっていた。
けれど、マリアは母親の方を見ようともしない。
どうして、どうして。
母親の声にならない声。蝉時雨が蘇る。
このあと直ぐ判明する事だが、母親はお腹の中に身ごもっていた赤ちゃんを流してしまった。
そして、彼女がどうして階段から転げ落ちてしまったのか。
母親の証言から、その原因がマリアだということが分かった。
階段を降りようとしていた母親を、マリアはあろうことか突き落としたのだという。
激昂し理由を問い詰める父親に、マリアはあっさりと、
「だって、お兄ちゃんの妹は私だけだから」
と全く悪びれることなく、寧ろ堂々とした面持ちで言ってのけた。
その日以来、マリアは俺たち家族にとって腫れものになってしまい、やがて両親たちによって全寮制の神学校へ半ば無理やり入れられた。
普段はくりくりした可愛らしい目を血走らせて、抵抗するマリアの姿が今でもこびりついて離れない。
それは、今から十数年前の夏。
俺が7歳、マリアが5歳のころ。
何処にでもあるような、平凡な家族の形が木っ端微塵に砕け散ってしまった夏の日の事。
sister
90 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:09:20 ID:fFGCkvUN
激しく雨が、降りつけている。
石畳の歩道を叩きつけられた水滴が、ひっきりなしに叫んでいる。
青々とした葉を付けた街路樹も濡れそぼり、ガス灯の淡い光にきらきらと輝いている。
空には厚い雲がかかり星は見えないから、今夜はこの一際低い所で輝く雫が星の代わりだった。
手に持った傘を、ぎゅっと握りしめた。
石畳を歩く度に跳ねる雨粒が、ズボンの裾を濡らし俺の重い足取りをさらに重くさせる。
それもそのはず、今から俺はマリアに久しぶりに会う事になっているのだから。
――何年ぶりになるだろう、マリアと会うのは。
俺は、大学への進学を機にこの故郷を去り、マリアはこの町にある小さな教会の修道女として住み込みで働いている。
大学を卒業し、そのままその地で就職した俺が今日この故郷に帰って来たのは、他でもない、マリアに会うためだ。
あと一月後、俺は結婚する。その事をマリアに伝え、出来るならば、挙式をマリアが勤める教会で挙げられたらと、思っているのだ。
あの夏の日から、何度か会いはしたし、マリアは俺を何時だって慕ってくれた。
けれど、俺がマリアを、以前のように可愛い妹として見る事が出来なくなっていた。
どうしても、あの日のマリアの笑みが脳裏を過り、妹に対して恐怖を抱いてしまうのだ。
しかし、それでは駄目だと思っていたし、もう直ぐ俺の妻となってくれる人も、義妹となるマリアと仲よくしたいと言ってくれているし、今回はいい機会だと思った。
人気のない夜。
こんな時間になってしまったのは、マリアの都合によるものだ。
もしかして、恋人の一人でも出来たのかもしれない。
それでデートにでも行くのかと思ったが、マリアは聖職者、今はそれ程厳格ではないかもしれないけれど、
こんな時間まで未婚の恋人たちがデートするというのは、余り褒められた行為ではないだろう。
となると、仕事か何かだろうか。
そんな事を考えながら、教会までの道を歩く。
道路の両脇には、石造りの家がぽつぽつと建っている。
その殆どの明かりが、すでに消えている。故にガス灯のみの道は少々暗い。
そよ風が吹いた。のっぺりとした夏の匂い。
闇に覆われた道を拓きながら進むと、やがて屋根の上に細い塔を載せ、その天辺に十字架を突き刺した、オーソドックスな形の小さな教会に着いた。
教会の軒下に入り、差したままだった傘を畳み、壁に立てかける。
木製の、建物の規模の割には大きな扉と向かい合う。
すう、はあ、と一度深呼吸をして、ひと思いに扉を押し開けた。
ぎいい、と軋んだ音を立てながら、扉が開く。
教会の中は、明りが蝋燭のみで薄暗い。けれど、マリアの姿は直ぐに見つける事が出来た。
俺の真正面、約20m程先。マリアは石膏で出来た神の聖像の前に跪き、祈りを捧げていた。
部屋の各所に、幾つかおかれた蝋燭の灯が揺れるのに伴って、壁に映った大きめな彼女の影がゆらゆらと揺れる。
「マリア……」
教会の敷居を越えないまま、記憶のなかよりも少し大きく見える背に向かって声をかける。
マリアは扉の開く音で、俺が来た事には気付いていたのだろう、驚いた様子もなくゆっくりと立ち上がった。
そして、こちらに振りかえる。
「時間ピッタリですね、兄様」
小鳥の歌声の様に透き通った、けれど何故かよく通るマリアの声は昔と変わらず、優しく空気を震わせる。
何時からだっただろう、マリアは俺を兄様と呼ぶようになっていた。
彼女の通う神学校は、行儀作法に厳しい所だと聞いた事があるから、そのせいかもしれない。
「どうしたのですか、そんな所に立ったままで。雨に濡れてしまいますよ。それに、久しぶりなのですから、もっと顔をよく見せてください」
開かれた扉を抑えたまま突っ立っている俺に、マリアは怪訝な視線を送って来る。
「あ、ああ」
91 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:10:07 ID:fFGCkvUN
昨日電話で話したのだが、こうしてまだ距離はあるとはいえ、面と向かって話すのは久しぶりだ。
何となく気恥ずかしい様な、むず痒い様な気持ち。今まで、マリアとどういう態度で接していたのか、良く思いだせなかった。
おずおずと、一歩、境界を超える。
場所柄のせいか、きんと空気が冷えたような感覚があった。
じっとりと絡みつくような湿気を孕んだ外とは一線を画した、静謐な空気。少しだけ、背筋が冷えた。
後ろ手に抑えていた、扉から手を離す。
ぎいいいと呻き声を上げながら、ゆっくり、ゆっくりと、扉が閉まった。
外の明かりが入って来なくなると、元々明るくはなかった室内が、更に暗くなった。
そのせいで、確りとは見えなかったけれど。
マリアが、昏く笑ったような気がした。
「久しぶりだな、マリア」
室内にある十脚程度の木製のベンチの一つに、背もたれに対し横向きに座り、通路を挟んでマリアと向かい合った。
「この座り方、余り行儀は良くないですね」
そう言ってマリアは、照れくさそうに笑った。
どうやらマリアは、久しぶりの再会に戸惑っている様子はないようだった。
しかし、俺の感じる二人の間に流れる空気は固く、とても兄妹のものとは思えない。
2列のベンチの間の通路はそこまで広い物ではなく、膝を突き合わせた二人の実際の距離は遠くはない。
けれど、俺にはマリアとのキョリが妙に遠く感じられて。
まずは、当たり障りのない話題で、このよそよそしい雰囲気を解しておきたかった。
「本当に、お久しぶりですね、兄様」
「……」
マリアの返す刃が、何だか皮肉っぽく聞こえたのは錯覚だったろうか。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の頼りない炎が、マリアの精緻な顔を照らす。
しばらく見ないうちに綺麗になった、と思う。
元々顔のつくりは並み以上のものであったマリア。
しかし、記憶の中の彼女は可愛いという印象を抱かせる容姿だったが、今のマリアには美しいという表現がより相応しかった。
幼いころから、マリアのコンプレックスの種だった、鼻の頭に散った薄いそばかすだけが当時のままに残っていた。
女神の様な彼女を、地味で飾り気のない修道服が上手くひきたてていた。
ベールをかぶっているので見えないが、マリア自慢の黄金色の髪の毛は健在なのだろうか。
あの髪を、俺は結構好きだったから、変わってなければいいと思う。
「仕事、どうだ?」
「はい?」
「シスターの仕事。楽しいか?」
何をぬけぬけと、と思う。
家族に捨てられたような形で無理やり神学校に押し込まれ、興味もなかった神学を学ばされ、惰性で小さな教会のシスターとなったのだ。
そんな、誰かにやらされた仕事が楽しいはずがない。
「楽しくはないですよ」
マリアも肯定する。
「それは……」
すまない、と言おうとして口を噤んだ。
俺が謝った所で、何の意味もなさない。自己満足のためだけならば、謝らない方がまだ潔い。
「けれど、仕事とはそういうものだと思いますから。それに、この町には私以外にシスターがいませんから。必要とされている事は悪い気はしません」
妙に達観した顔で言う。
まだ20になったばかりで、少女のあどけなさを残したマリアの言葉としては年不相応。
それが、マリアをもてあまし、放棄してしまった自分たち家族のせいだと思うと、凄く哀しかった。
俺が俯いてしまうと、しんと重苦しい空気が流れる。
マリアは本当に変わってしまったなと思う。
神学校に入る前は、どちらかと言うと快活な少女で弾ける様な笑顔が印象的で、キラキラとした髪の毛と相まって太陽の様な子だった。
けれど、神学校に入ってから、年に何度か会うたびにマリアの性格は変貌していき、今では月の様な静かな笑顔を湛える女性に成っていた。
マリアの神秘的な容姿もあってか、彼女はこの田舎町唯一のシスターとして、町人たちから半ば崇めるように慕われているらしい。
92 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:10:43 ID:fFGCkvUN
雨粒が、石造りの教会を叩く。ざあぁと雨音が、静かな聖域に響く。
俺は、未だマリアとのキョリを測りかねていた。
良く知った人間と、久しぶりに話をする場合の話題を探すのは、予想以上に難しかった。
かと言って、俺がここに来た本題を切り出すには、まだ空気がそれを許す雰囲気ではなかった。
何とか頭の中の回路を回転させて、
「背、伸びたな」
「そうですか?」
「ああ、ざっと2メートルくらい」
「そんなには、伸びていませんよ」
ちょっとしたジョークだったのに、素で返されてしまった。あれ、もしかしなくてもスベッた?
初夏だというのに、俺の周りだけ肌寒い空気。ちょっとだけ凹む。
本当にマリアは変わった。今のしょうもないギャグでも、笑ってくれるような子だったのに。
けれど、スベッたお陰で自棄になったのか、それから先は存外すらすらと会話が進んだ。
一人暮らしはどうだと言う会話をする。
料理や家事は出来るのかという会話をする。
朝起きて、朝食を作って食べて、修道服を着て教会に来る人々を迎え、偶にだけれど誰かの懺悔を聞き、そして誰もいなくなった教会の奥で一人、夜を過ごす。
そんな、マリアの一日の会話をする。
ありふれた会話。
他愛もない会話。
内容としては、兄妹という近しい関係同士が行うやりとりにしては、違和感があるものではあるけれど。
二人の間に流れる空気は、間違いなく兄妹のそれだった。
俺の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
もしかしたら、俺はマリアを警戒していたのかもしれない。
その警戒も氷解し、温かく、他愛もない時間を過ごす。
まるで、幸せを溶かしたココアのようだ。
何年も前に失って、それに気付かず、当然になっていたもの。
それがやっと戻って来たような。
マリアと話していると、あの頃に、幸せだったあの頃に、回帰したかのような錯覚にとらわれそうになる。
幼い自分と溶け込んでしまいそうな気がする。
俺たち兄妹の空気が、こんなに自然だったものだったなんて、もう久しく忘れていた。
話すうちに、俺が降った会話に応えるばかりだったマリアも、俺の大学生活や卒業後の現在の生活などを聞きたがった。
「兄様も、一人暮らしをしているのですか?」
「ん、いや、恋人と一緒に暮らしてるんだ」
「……恋人、ですか」
何故だろうか、マリアの放つ空気に棘が混じっているように俺の肌を突き刺す感覚。
さっきまでの自然な空気に、小さな波紋が起こった。
夜の静かで穏やかな湖面に、小さな石を投げ込んだような。
澄んだマリアの声が、冷たい刃を孕んで聞こえる。
「あ、ああ、俺もこの年だしな。そうだろう?」
どうだというんだ。自分で自分につっ込む。
マリアもよく分かっていないような顔をしている。
「私には、居ませんが」
「そうなのか?やっぱり、シスターはそんな自由が利かないのか?」
「いえ、今はそれ程厳格ではないですが。それよりも、何時から付き合っているんですか」
話題の軌道修正も適わない。
既に主導権を握っているのは、マリアの方だった。
「そうだ、な、大学入ってすぐだったから……かれこれ4年になるか」
「4年……」
マリアの声が、一際低くなった。
何となく悟る。マリアは、今日俺がこうしてここに居る理由を、ある程度察したのだろうと。
まあ、今まで何年も会っていなかった俺が、こうして唐突に会いたいと言ってくるのだ、マリアも最初から何かあると想定はしていたのかもしれない。
ふう、と息を吐いた。
多分、本題を切り出すなら今だ。
93 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:11:35 ID:fFGCkvUN
「――結婚しようと思っているんだ」
瞬間、マリアの瞳が揺れた。
先程まで浮かべていた微笑が、ごっそりと抜け落ちた。
「そう、です……か」
マリアの発する空気が、数段鋭さを増した。
――俺はタイミングを間違えたのだろうか。それとも、他に。何か別の過ちを犯したのだろうか。
「祝福、してくれないのか?」
思えば、それは余りに間抜けな質問だったかもしれない。
マリアはひどく傷つけられたような顔をして、
「出来ると思っていたのですか?」
「……して欲しい、と思っているよ」
はん、とマリアが鼻で笑った。
さっきまで聖女然とした妹は、堕天となった。
「私をこんな所へ押し込んで、自分ばかりは幸せを享受するのですか」
マリアが、苛立たしげに下唇を噛んだ。
やはり、マリアは、俺や両親を恨んでいたのか。
考えてみれば、当然の事。自分がいかに甘い考えで、自分勝手だったか実感させられる。
「そういう、つもりじゃ……」
動揺に声が掠れる。
「それなら、どういうつもりなのですか」
マリアが詰る。俺は、それに対する答えを持っていなかった。
無言の俺に対し、
「私は15年近く、こうして押しつけられた人生を送ってきました。何も文句も言わず、ただじっと耐えてきました。どうしてか分かりますか?」
分からない。
確かに、神学校への入学が決まった時はあんなに反抗していたマリアが、それ以来すっかり大人しくなった。
「忘れてしまったみたいですね」
マリアの声には、既に明確な怒りの色が窺えた。
形の良い柳眉がきりりと吊り上って、大きな目が細められている。
二人の間にある蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れる。
照らされるマリアは、いっそ凶悪なまでに美しく。
「兄様は、神学校に入る時に言ってくれたんです。俺がちゃんとマリアを幸せにしてやると。だから、それまでは我慢してくれと」
いわれてみると、確かに両親に頼まれてマリアの説得を行った気もする。
しかし、その内容までは定かではなかった。
あの時、俺は正直に言ってマリアの事が怖かった。
俺の唯一の妹であるために、家族を壊した妹が。
あの日、階段のてっぺんで、後光を浴びながら笑っていた妹が。
恐ろしくて、怖くて、早く追い出してしまいたかったのだ。
だから、妹と離れたい一心で、そういう事を口走ったのかもしれなかった。
だけど、今、そんな事をどうして告白できよう。
俺は、顔を伏せて、ただ、
「すまない」
ただ、謝ることしかできない。
「どうして謝るのですか」
「……すまない」
「……嘘だった、と。あの日の言葉は、出まかせだったと言いたいのですか」
「そうじゃない、そうじゃないんだ、マリア」
「ならば!どういうことですか」
「あの日の言葉に偽りはないよ。ちゃんとお前の兄として、出来うる限りの事はサポートする。恋人もお前と仲よくしたいと言ってくれているんだ」
俺の訴えは、懺悔にも似て。
聖女に救いを求める、哀れな子羊になってしまったようだ。
当時の気持ちではないにせよ、今、マリアと仲良くやっていきたいと思っている事は確かだ。
十数年ほったらかしにしていた妹と、これからは、俺の妻となる人と共によりよい関係を築いていきたかった。
「そんな事、ただ、兄様の背中を眺めるだけの事に……」
一体何の意味がありましょうか。
マリアは何かを堪えるように、震える声で呟いた。
深く息を吸い、そして吐く音が聞こえた。
俺は、恐ろしくて顔を上げる事が出来ない。
「兄様は」
再度切り出したマリアの声は、やけに平坦な響きを持っていた。
94 sister―上 sage 2010/01/29(金) 11:12:06 ID:fFGCkvUN
マリアが立ちあがった。
俯いたままでは顔を窺う事は出来ないけれど、どんな表情を以て俺を見下ろしているのだろうか。
妹の心に去来しているものは、一体何だろうか。
怒り。悲しみ。失望。嘆き。それとも。
「兄様は、私の気持ちを分かってくれていません」
たっぷりと間を置いて、マリアは続ける。
反論することなど何もない。マリアの言うとおりだった。
俺は、妹の気持ちが全く分からなかった。そう、幼いころから。
「私はね、兄様」
ちくりと、首に何かが刺さった。軽い痛み。
驚いて顔を上げた。
「マリ、ア?」
マリアは笑っている。
唐突に、どうしようもないくらいの眠気が襲ってくる。
急速に視界が霞んでいく。雨音がやけにうるさい。
平衡感覚がなくなり、中空に浮かんでいるようだ。
突然、俺を衝撃が襲った。ひんやりとした床の感触。どうやら、前のめりに倒れこんでしまったようだ。
「私は、兄様の事を、どうしようもないくらい愛しているのですよ」
狂気の滲んだ声。
ひどく穏やかに、けれど確かに澱んでいる。
「ねえ、兄様。私を幸せにしてくれるのでしょう?それなら二人、この天国でいつまでも幸せに暮らしましょう」
「まり……あ」
最早、彼女の名前を、愚鈍に繰り返すことしかできない。
「愚かな兄様。私が、兄様を救って差し上げます。恋人?いいえ、其れでは兄様を救えません。兄様を救えるのは、私だけなのですから」
さあ、天国へ昇りましょう?
マリアの声が遠くなっていく。
そして、俺は天国へ堕ちていく。
耳の奥、蝉時雨が蘇る。
最後に見た、彼女の顔は。
あの夏の日と同じ、女神の笑み。
床に倒れこんだ兄様を見て、思わず笑みがこぼれた。
さっきまで感じていたイラ立ちが、嘘のように消え去っていた。
兄様に結婚すると聞かされた時は、あれほど荒れ狂っていた心の波が、今では静かに凪いでいる。
「アーノルド!」
ある男の名を呼ぶと、屈強な体つきの男が、教会の奥の間からぬっと姿を現した。
「この方を、牢へ連れて行ってください」
「はい……」
男が兄様を抱える。
「くれぐれも、慎重にお願いします」
「はい」
男は、わたしの言葉に頷くことしかできない。
哀れな男。ある晩、教会へやって来た男の懺悔を聞いてやり、有り触れた言葉をかけてやっただけで私を聖女と崇めてきた。
そんな愚かな人間は、彼だけでなく。この町には、私を崇め奉る人間が少なからずいる。
おかしな話だ。私は、兄様しか救えないし、他の誰も救う気などないというのに。
けれど、偶には役に立つこともあるし、この町でならある程度の自由が利く。
駒と良い環境を手に入れられたと思えば、私を捨てた両親にも、まあ、感謝くらいはしてやっても良いかもしれない。
男の後を追って、教会の奥にある扉を開く。
ここから先は居住スペースとなっていて、同じような部屋がいくつか並んでいる。
そしてその中の一つ、一直線に続く廊下の奥の部屋は、外観こそ他の部屋と変わらないように見えるが、中に入ると、そこには石煉瓦で覆われた牢屋がある。
先の魔女狩りの名残か、異端者を拘束するためか、とにかく宗教は血生臭い歴史がつきもので、この牢屋もその夥しい血の一つだった。
男が牢屋の中にある、大きなベッドに兄様を横たえさせる。
こう言う時のために用意しておいたベッドは、ふかふかでこんな石がむき出しになった、肌寒い牢には異分子として写る。
しかし、ここが私と兄様の愛の巣窟、天国となるのだ。
「ねえ、兄様。私を幸せにしてくださいね。私も兄様を幸せにしますから」
今はまだ静かに眠る、愛する人へと囁いた。
最終更新:2010年02月07日 20:15