Melt―上

239 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:32:53 ID:dRWs8Hqu
 正直、俺は浮かれていた。
 熱に浮かされて、周りが見えていなかったのだ。
 だから、きっと。
 これは、そんな俺に対して罰なのかもしれない。
 自分の目先の幸せにとらわれて、見たくないものから目を反らし続けてきた俺への。 

 #

「――何をしてるんだよ……」
 かつてないほどに、声が震えているのが分かる。
 緊張?いいや。
 悲嘆?違う。
 喜悦?それこそ、もっと、あり得ない。
 この震えをもたらすものは恐怖だ。
 俺は恐怖している。気を抜けば、今にも歯がカチカチと虚勢じみた剣戟を交わしてしまう程に。
 金木犀の香り。濃淡な秋の香り。
 燃えるような夕焼け。眩しいほどの夕陽が、紅葉に染まった山の端を焼く。
 烏が行きかう。朱色の空を漆黒の羽で裂きながら、どこか物悲しい声で、逢魔が時を告げる。
 朱の海には雲。四角い窓で切り取った空に、紅霞がたゆたう。
 ごくり、と唾を飲む。静寂に満ちた部屋に、やけに響く。
「何を、してるんだよ」
 もう一度。今度は、出来るだけ虚勢を張って、声を平坦に意識して。
 答えは分かり切っているのに。理解することなんて、出来るはずもなかった。
 だって、見たくなかったんだもん。
 子供っぽい、拗ねたような声。聞きなれた声が、遠くから聞こえる。声の主は、直ぐ目の前に居るのに。
 スイッチ一つで部屋を照らす灯りは付けられておらず、夕陽のみを照明とした6畳弱の部屋。
 最近不機嫌だった妹のご機嫌取りに、と有名な洋菓子店で奮発したケーキを持ち、向かった矢先。
 俺は、その入り口付近に突っ立ったまま、足を縫いつけられたかのように動けない。
「お兄ちゃんが、あの女と並んで歩く所なんて、見たくなかったんだよ」
 部屋の隅に置かれた二段ベッドの下の階に、ぺたんと座りこんだ妹が笑う。
 肩を震わせて、さもおかしそうに。
 つぅ、と閉じた瞼から、赤い涙を流しながら。
 ベッドの影が、妹の顔に半分かかり、ぞっとするような雰囲気があった。
 妹の、二つ結びにされた色素の薄い髪は、淡く夕焼けに染まっている。
 頬が林檎の様に赤いのは、夕陽によるものか、昂揚によるものか、それとも痛みによるものなのか。
「あの女って……理乃、お前、まさか」
「お兄ちゃんが、わたしから離れていっちゃうんだったら、生きていたって意味ないから」
 そうだよね?と首を傾げながら、理乃が、手に持ったカッターナイフを自らの首筋に持ってくる。
「おい、やめろ!」
 理乃の傍に、思わず駆け寄ろうとして――
「――来ないで!」
 理乃の制止によって歩を止めた。
 俺は、その場にたたらを踏んで、
「なあ、そんな物騒なもの、早く下ろしてくれ。それに、病院にもいかないと、失明しちまうだろ?」
「無駄だよ、もう遅いよ。もう見えてないから」
「そんなの、今は医療技術も進歩してるし、良くなるって――」
「――必要ないもん」
 俺の言葉をさえぎって、理乃は駄々をこねる様に首を振った。
「自分で目を潰したのに、今更光なんて要らないもん。わたしを苦しめることしかしない現実なんて見たくないもん」
 幼い声色で、けれど、それはまるで呪詛の如く。
「見たくもない姿を見せる目も、聞きたくもない声を聞かせる耳も、嗅ぎたくもない匂いを嗅がせる鼻も、優しくもない現実を突き付けるなら、この命だって……」
 要らない、要らない、要らない。理乃が、嗚咽交じりの声で呪う。
 その目から流れる涙は、矢張り赤く。
「……それじゃあ、どうすればいい?どうすれば、お前はそのカッターを下ろして、素直に病院に行ってくれるんだ?」
「別れて」
 俺の問いに対し理乃は、間髪いれずに答える。
「別れて……って、静香とか?」


240 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:33:18 ID:dRWs8Hqu
 理乃がこくりと頷いた。
 静香。それは俺の恋人の名前だ。
 まだ二人とも学生だから、結婚とかそういうのまで話は至っていないし、そもそも静香とは最近付き合い始めたばかりだ。
 理乃は、その恋人と別れろと言うのだ。理乃の命と引き換えに。
 命と引き換えになんて、冗談だろと笑えない状況でもある。
 理乃は既に、自らの目を傷付けている。今だってその激痛が彼女を襲っているだろうに、全くそんな素振りも見せない。
 それだけ、昂揚しているのか、狂ってしまっているのか。どちらにせよ、今の理乃には、何か、鬼気迫るようなものがあった。
 子供が癇癪を起すと、かくも手がつけられないものなのか。
「……分かったよ」
 声を絞り出した。理乃が、分かった?と鸚鵡返しに尋ねてくる。
「ああ、別れるよ、静香とは」
「ほんと?」
「ああ」
 頷くと、理乃がぱぁと顔を輝かせた。と言っても、相変わらず瞳から血は流れているし、瞼は閉じられていている。
 と、丁度その時、救急車のサイレンが近づいてきた。そして、家の前で止まったのが分かる。
 一階に居る両親に、救急車を呼ぶよう頼んだので、そのおかげだろう。
「丁度救急車も来たみたいだし……。病院に行ってくれるな?」
「うん。お兄ちゃんが、わたしの事を一番に考えてくれるなら」
「……それは、約束が違うんじゃないか?」
 確か、静香と別れろという話だったはずだ。
 しかし、理乃は、嫌なの?と再び、カッターナイフを首筋に当てる。
「嫌じゃない、嫌じゃないさ!」
 慌てて、否定する。
 よかった、と理乃が首筋からカッターナイフをずらした。
 ほ、と安堵の息を吐きながら、理乃の傍へと歩みよる。
 今度は、理乃の制止の声が掛かる事はなかった。恐る恐る、理乃の手からカッターナイフを取り上げた。
 チキチキと無機質な音と共に、安っぽい凶刃を納めた。
 きゅ、と腕を小さな手に掴まれた。その手を追うと、理乃が見上げてくる。
 理乃が、泣きながら笑う。
「えへへ、お兄ちゃんはこれから、わたしだけのお兄ちゃんだね」
 俺は、この、9つも離れた妹の気持ちが理解できない。
 10歳という年を考えれば、兄である俺を慕う気持ちも分からないでもない。
 妹は、両親に対してよりも強い親愛の情を、俺に見せてくれていて。
 俺だって、年の離れた妹が可愛くてたまらなかった。
 けれど、静香と付き合い始めてからは、その理乃の機嫌が目に見えて悪くなってしまった。
 俺は、生まれて初めてできた恋人に恥ずかしながら浮かれてしまい、暫くの間だけだろう、そろそろ兄離れの時だろう、と理乃の変化に然程頓着していなかった。
 それでも、恋人が出来て1月近く経って変な熱が治まり、漸く周りに目を向けられるようになり、妹と仲直りしようと思って行動を起こした。正にその日だった。
 理乃は、自らの目を、自らの手で、傷付けてしまった。

 #

 それから理乃は、救急車で病院へと運ばれ、直ぐに治療を受けた。
 幸い全盲にまでは至らなかったが、うっすらと光が見えるくらいで、これから先、視力が回復する事はないという。
 理乃自らの手によるものとはいえ、根本的な原因は俺にある。
 俺が、理乃の変化に気付くのが遅かったせいで、妹は今回の様な凶行に走った。
 つまりは。
 未だ幼い少女の光を、俺が奪ったのだ。
 俺は、その報いを受けなければならない。






Melt 上編


241 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:34:12 ID:dRWs8Hqu
「別れようってどういう事?」
 ショートカットの髪の毛を小さく揺らし、静香は苛立たしげに眼を細めた。
 腕を組み、人差し指がトントンと動いている。どうやら、かなり苛立っているみたいだ。
 声を荒げないのは、ここが病院の中だからだろう。
 理乃が入院した事を知り、お見舞いに来てくれた静香に、理乃は終始不機嫌顔だった。
 しかし、静香がいるときはいつもこんな感じなので、静香は特に気にした風もなくいつも通りだった。
 静香は、自分が理乃に嫌われているなんて事、微塵も考えてなかったのだろう。
 とはいえ、俺と静香が付き合いだし初めて理乃に会い、件の不機嫌な態度を取られた時は、
「お兄ちゃんを取ったって思われてるのかな」
 と不安そうに言っていたが、
「理乃は、人見知りする子だから。最初の方は、誰に対してもあんなものだよ」
 と励ました事もあって、その後も、粘り強く理乃と仲良くしようと接してくれていた。
 ……結局、その頑張りは功を奏さなかったのだけれど。
 俺はといえば、理乃が何時、病室の中で突飛な行動を起こすのか不安で、生きた心地がしなかった。
 そんな何処となく気まずい雰囲気のお見舞いを終え、静香が去ろうとした時、
「お兄ちゃん、静香さんに話したい事があるって言ってたよね?」
「へ?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
「ん、何、話したい事って?」
 病室の出口へ向かおうとしていた歩を止めて、静香が首をかしげた。
 俺はといえば、驚いて理乃を見る。
 しかし、理乃はこちらを見てはいない。否、顔はこちらに向けられてはいるが、その目は俺を見てはいない。
 理乃には俺の姿が見えていない。にもかかわらず、理乃は俺の視線を感じたかのように、意味ありげに唇を弧に歪めて見せた。
 成程、早く約束を守れってことかよ。
 心の中で、重い溜息をついた。
 下がり切ってしまいそうになる肩を何とか維持しながら、静香に向かい笑みを作って見せた。
「ここじゃ、何だからさ。外に出ようか」
「え、うん……」
 俺の様子に何らかの異変を感じ取ったのか、訝しげな顔をする静香。
 俺は、彼女を誘導するように病室の外へ出た。
 病院の白い廊下には、看護師や点滴を押しながら歩く人などが行き交い、忙しない。
 別れ話を切り出すにしても、場所を移動した方がいいだろうと、どこか適当な場所を思い浮かべながら歩き出そうとする。
 静香に対する未練が俺の中に残っていて、出来るだけ先延ばしにしたかったのだ。
 しかし、そんな俺の思惑を知らない静香は、
「理乃ちゃんを一人にしない方がいいんじゃない?」
「は?」
「は?じゃないでしょ。包帯が取れたとはいえ、もう理乃ちゃんの目、殆ど見えてないんでしょ?そんな中で一人きりって不安だと思うよ」
 だから、誰か居てあげないと。静香が言う。
 基本的に静香は、面倒見がいい性格で、若干お節介焼きな所がある。
 故に、そこまで面識がない様な理乃の事を、もしかしたら俺以上に気にかけているのだ。
「や、でも、ここ人通り多いし……」
「何、そんな話し辛い事なの?」
「いや、そう言う訳じゃ……」
 言葉に詰まってしまう。実際、かなり話しづらい話題だ。
 しかし、既に静香は、ここで話を聞く態勢に入っている。
 こうなってしまったら、静香を説き伏せる事は難しい。
 彼女はおせっかい焼きに加えて、こうすると決めたらそうそう覆さない頑固な所があるのだ。
 ……正直、かなり面倒くさい性格だと思う。
 しかし、そんな彼女の性格も含めて、好きになったのも事実で。
「……分かった。ここで話すよ」
 諦めて、静香と身体ごとしっかり向き合う。
 いまだに残る未練を断ち切るためにも、ここで話したほうが良いのかもしれなかった。
 すう、はあ。小さく息を整える。
 じっと、静香を見据える。彼女も俺の態度に何かを感じたのか、真剣な表情になった。
 もう一度大きく息を吸って。
「俺たち別れよう」
 一息に告げた。



242 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:36:09 ID:dRWs8Hqu
 #

「俺たち別れよう」
 妙に真剣な顔で、対面の祐樹が告げた。
 瞬間、時が止まった様に思う。
「何いきなり……冗談だとしても笑えないんだけど」
「……俺は本気だよ」
「――へぇ?」
 思わず声が裏返ってしまう。祐樹の表情は、相変らず真剣そのもので。
 この話が、冗談ではないことを雄弁に語っていた。 
 私達の間に、剣呑な空気が流れ始めた。
 それを感じ取ったのか、丁度通りかかった若い男性が、興味深げにこちらを見ている。
 私と目があったかと思うと、その男性はさっと目を背け、足早に歩き去った。
 その背が角を曲がり見えなくなるまで見送って、腕を組んだ。
「別れようって、どういう事?」
 じっと、睨みつけると祐樹が怯んだような顔をして目を反らした。
 祐樹は、結構小心者な所がある。
 それを隠して強がってみせる所なんか、可愛いと思う。
 まあ、そんな事を本人に言ったら、思い切り否定するのだろうけど。
「どういう事って……言葉通りだよ」
 祐樹がそう言って、顔を伏せた。
「言葉通りって、ふざけてるわけ?」
「い、否、そんなつもりは……」
「じゃあ、どういうつもりなの。……まさか、他に好きな子でも出来たわけ?……それで、私を捨てるんだ」
 祐樹が弾かれた様に顔を上げた。
 何か言いたげに、口をパクパクさせている。
 暫くの逡巡の後、
「ごめん」
「は?何で謝るの?私まだ、納得してないんだけど」
「ごめん。それでも、別れて欲しいんだ。」
「だから、何でなのって言ってるの。理由を教えてよ!」
 全く要領を得ない祐樹の言動に、抑えていた声を、つい荒げてしまう。
 周囲に居た人たちの視線を、一瞬にして集めてしまう。
 近くに居た看護師が、警戒した視線を投げかけてきた。
 さすがに病院で騒ぎ過ぎると、追い出されるだろうし、最悪、通報される恐れもないとは言えない。
 こみ上げる苛立ちをぐっと抑えた。
 どうしても抑えきれない分は、祐樹に射すような視線を送ることで発散する。
 祐樹は、依然何か言いたげな顔しながらも、口を開こうとしない。
 何やら、言いにくい理由がある様だ。
 とはいっても、祐樹からこの突拍子もない別れ話の原因を聞かない事には、私も、はいそうですかと引き下がれるわけがなかった。
 膠着したまま、数秒が経った。
 元々、余り気の長い方ではない私が耐えきれず口を開こうとして、
「お兄ちゃん?」
 背後から聞こえた、幼い女の子の声に遮られた。
 振り返ると、理乃ちゃんが、いつの間にか病室の引き戸を半分開けて立っていた。
 その顔はこちらに向けられている。
 目の見えない理乃ちゃんは、私と祐樹を間違えているようだった。
「理乃!」 
 おぼつかない足取りで、こちらまで来ようとした理乃ちゃんを、祐樹が慌てて駆け寄り止まらせた。
 理乃ちゃんは、手探りで祐樹の腕を掴み、抱きついた。
 もしかしたら、と思う。
 もしかしたら、祐樹は、理乃ちゃんのために私と別れようなんて言い出したのかもしれない。
 彼女がどうして視力を失ったのか、その理由を祐樹は何故か教えてくれなかった。
 けれど、どんな理由があるにせよ、幼くして光をなくしてしまった理乃ちゃんには、これからいくつもの試練が待ち構えている事だろう。
 それこそ、何の不自由なく暮らしてきた私なんかには想像もつかないような試練が。
 否、想像する事さえ、もしかしたら烏滸がましい事なのかも知れなかった。
 だから祐樹は、私と別れようなんて言い出したのではないだろうか。
 だってそれ以外に、私と祐樹が別れる原因なんて考えられない。未だ付き合って日も浅いし、喧嘩もした事なかったというのに。


243 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:36:36 ID:dRWs8Hqu
 これから祐樹は理乃ちゃんの兄として、彼女を支えていかなければならない。
 理乃ちゃんは、見た感じ祐樹に一番なついている様だし、少なくとも理乃ちゃんが怪我に慣れるまでは祐樹が傍に居る事が一番だろう。
 祐樹は、私と言う恋人の存在が、これから理乃ちゃんを支えるにおいての負担となると考えたのではないか。
 若しくは、これからはどうしても理乃ちゃんに時間を取られることになるので、私に迷惑をかけてしまうと考えたのではないか。
 そうだとするならば。
 馬鹿だと思う。祐樹は、馬鹿だ。
 私も、理乃ちゃんを支えたいと思っている。それが例え微力であろうとも、少なくとも負担になんかなってやらない。
 理乃ちゃんの存在を迷惑に思うなんて、それこそナンセンスだ。
 私達が付き合い始めて、まだ一月程度しかたっていないけれど。
 それでも、私は祐樹と、これからも共に生きていきたいと思っているのだ。
 それこそ、酸いも甘いも一緒に飲み込みながら。
「祐樹、私は――」
 私の思いを隠すことなく告げようと、口を開いて。
「――お兄ちゃん」
 機先を制するように発せられた声に遮られた。
 理乃ちゃんが、祐樹の腕を抱えたまま焦点の合っていない目で、じっとこちらを見つめてきた。
 睨まれている様に思うのは、彼女の焦点があっていないからなのか、それとも。
「わたし、もうこの人の声、ききたくないよ」
 理乃ちゃんの声は、今まで以上に、私に対する嫌悪感で満ちていた。
「理乃、お前……」 
 彼女の言葉に、何故か祐樹はひどく驚いたような顔をした。
 そして、私をじっと見据えている理乃ちゃんを見下ろし、直ぐに慌てた様に顔を上げた。
 そして、どことなくひきつった、何かに怯えた顔で、
「……静香。もういいだろう、帰ってくれないか」
「な……」
「これからはもう、大学で会っても話しかけてこないでくれ。その方が、お互い、けじめを付けられると思うからさ」
 そう冷酷に告げて、祐樹は踵を返した。
 そして、病室の戸をあけて、個室の中へ入っていく。理乃ちゃんの腕を引きながら。
「ちょっと――」
 ――待って。
 追いすがろうとする私を、祐樹に手をひかれた理乃ちゃんが一瞥した。
 その時、彼女がうかべていた表情は。
 まるで勝利を確信した者が、敗者を見下し、嘲笑うかの様な笑み。
 その唇が、何かの言葉を紡ぐように開閉した。
 声は聞こえなかったけれど、その唇はサヨナラと告げている様に見えた。
 呆然と立ち尽くす私を置き去りにして、目の前で病室の戸が、ガタンという音と共にゆっくりと閉まった。
「何なのよ、コレ……」
 思わず呟いた。本当に、何がどうなっているのだろう。
 私が一体何をしたというのか。
 応えるものは最早居らず、私だけが、一人惨めに取り残されている。
 目の前にある、祐樹の居る場所へ繋がる戸は、どこか遠く。
 私の前に、堅牢な壁として立ちはだかっていた。


244 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:37:24 ID:dRWs8Hqu
 #

 俺と静香が別れて、早いもので二ヵ月以上が過ぎていた。
 大学では元々学部が違うので、知りあう切欠であったサークルを辞めてしまったら、もう殆ど会う機会はなくなったことは幸いであろう。
 それでも、偶に大学のキャンパスや付近の道路で擦れ違う事が、二~三度会った。
 一度目は、話し掛けてこようとした静香から目を反らし、足早に逃げてやり過ごした。
 背中に静香の視線を浴びながら、心の中だけでごめんと呟きながら。
 二度目以降になると、静香も、もう俺に話しかけてこようとはしなかった。
 静香は周りに男友達や、女友達を多くひきつれて楽しそうに、対して俺は一人居た堪れない気持ちで、俯いて。
 元々静香は、竹を割ったような性格だったから、俺のことなんて、きっともう吹っ切れてしまったのだろう。
 それに、快活で面倒見も良く、容姿も良いとくれば周囲の男どもが放っておかないだろう。
 もしかしたら、もう既に新しい恋人の一人や二人くらい出来ているのかもしれなかった。
 大体、何故俺と恋人になってくれたのか、我ながら、今でもよく分かっていないぐらいなのだ。
 まあ、今更理由が分かった所でどうしようもないのだけれど。
 全く未練がましい話だ。
 静香がこちらにやって来たらやって来たで困るというのに、離れて行ってしまうとそれに一抹の寂しさを感じている。
 何と自分勝手で、何と女々しい事か。
 自己嫌悪とか寂しさとかが凝って、行き場のなくなった想いを溜息と共に空へ逃がした。
 想いの塊は、冷気に白く煙り、あっという間に霧散してかき消えた。
 十二月ともなれば、気温は滅法低く、寒さが身にしみるようだ。
 もう暫くしたら、この町にも雪が降るだろう。
 更にはクリスマス、大晦日、正月。今月から来月にかけての間には、イベントが数多だ。
 生まれて初めて、恋人と過ごすはずだったクリスマス。
 今となっては、隣に恋人の姿はなく。
 俺は。
 純白の雪を、一体どんな気持ちで見上げるのだろうか。
 聖なる夜を、一体どんな気持ちで過ごすのだろうか。
 新しい一年を、一体――。
 体がぶるりと震えた。寒い。
 冷たい風が、びゅうびゅうと体に絡みついてくる。
 つんとするような冬の匂い。耳鼻がじんじんと痛む。
 今年の冬は、例年以上に冷え込むらしい。
 冬将軍を前にしたら、地球温暖化なんか些事に等しいのだろうか。
 天気予報では、寒波がどうたらこうたらと言っていたけれど、原因がどうであれ寒い事に変わりはない。
 空を見上げる。抜けるような青空。太陽は燦々と、けれど何処か儚く。
 俺は、後悔しているのだろうか。静香と別れた事を。
 自分でもよくわからない。
 後悔していないと言えば、嘘になるだろう。寂しさを感じているのも、また事実だ。
 出来る事ならやり直したい、と思う。
 けれど、もし一度だけやり直すことができるというのならば。
 一体、何処からやり直せばいいというのだろう。俺は一体どこで間違えてしまったのだろうか。
 俺じゃない誰か、それこそ漫画の主人公のようなやつだったならば、上手く選択肢を選び、最上の未来を掴めたのだろうか。
 静香とは恋人同士、そして理乃は光を失うことなく。三人で仲良く笑いあっている。
 そんな未来を掴めたのだろうか。
「はは」
 思わず、笑いが漏れた。ゴーヤを口いっぱい頬張ったような。
 つんと寒さが目に染みた。ずず、と洟を啜った。
 人が行き交う道を、とぼとぼと歩く。
 この道をあと数十分も辿れば、自分の家へとたどり着く。理乃の待つ家に。
 理乃は、一週間もせずに病院を退院した。
 これから先、目が良くなる事はないので、光のない生活に慣れるしかないのだという。
 光のない生活。
 一息に言ってしまえるような、言葉の中に、一体どれだけの苦労が詰まっているのだろうか。
 きっとそこには想像も絶するような、光景が広がっているのだろう。
 とかく、晴眼者の俺には想像できないような暗闇が広がっているはずだ。
 けれど、そんな絶望にも似た暗闇の中で生きながらも理乃は笑っている。
 学校も転校を余儀なくされ、毎日の生活が不便になったというのに、寧ろ今まで以上のご機嫌ぶりだ。
 話を聞けば、お兄ちゃんがかまってくれるから、と無邪気な笑みを浮かべていた。
 俺にかまってもらいたいがために、俺の一番になるために、理乃は光を手放した。
 理乃は、光り輝いている未来の扉を、自ら閉ざしてしまったのだ。


245 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:38:27 ID:dRWs8Hqu
 自分の一生を左右する様な凶行に走った理乃。当時の妹の胸の内では、一体どれほどの感情が轟いていたのか。
 そして、そんな10歳という年不相応な感情を抱かせたのは、俺なのだ。
 どれだけの事をすれば、その罪を贖えるというのだろう。
 俺の罪は深く、濃い。どろどろと澱み、凝っている。
 一朝一夕で贖えるものではない。
 理乃は、俺が傍に居る事で満たされると言ってくれる。多分、それが俺にできる唯一の贖罪なのだろう。
 今はまだ、理乃の傍に。理乃が、俺を望む限りは。

 #

 夜。
 賑やかな家族の団欒が終わり、風呂に入り、ついでに歯も磨いて後は寝るだけを残すところ。
 風呂上がりで未だ湿った髪を、バスタオルでガシガシしながら自分の部屋に入る。
 自分の部屋、といっても理乃との共同だが。
 ほんの数か月前まで、大学生になったのだし一人暮らしは無理でも一人部屋を、と思っていた自分が妙に懐かしかった。
 理乃がこうなってしまった今、二人部屋というのはあらゆる意味で便利であった。
 ふう、と息を吐く。
「お兄ちゃん」
 不意に名前を呼ばれた。声の元を追えば、部屋の隅、二段ベッドの下の階に理乃が居た。
 俺よりも先に風呂に入った理乃は、猫柄のピンクのパジャマ姿だ。
 髪がしっとり濡れているのが分かる。
「なんだ、居たのか」
「うん……何か、居辛くて」
「ああ……」
 理乃のぼかしたような言い方に、頷いた。
 理乃が言っているのは、両親の態度の事だろう。
 両親は、理乃の失明の原因を事故だと思っているが、その分、理乃への接し方がやけに過保護になっていた。
 理乃ちゃん、一人でご飯食べられる?一人でトイレに行ける?一人で歯磨きできる?
 理乃ちゃん、理乃ちゃん、理乃ちゃん……。
 大体、両親は以前まで理乃の事を、普通に「理乃」と呼んでいたはずだ。
 だのに、今となっては「理乃ちゃん」だ。光を失った理乃の事が心配なのは分かる。しかし、両親の態度は過剰に過ぎると言えた。
 既に、家の各所には、理乃のために手摺が設置されている。
 両親に愛されるというのは、まあ悪くはないであろうが、過ぎたるは及ばざるが如しという言葉もある。
 正直、理乃が目を悪くしてからは家族の団欒というものが、空々しいものに変貌してしまった。
 幼い理乃ですら違和感に、居た堪れなさを感じるのだから相当だ。
 ったく、と舌打ちする。といっても、両親も悪気があってやっているわけではない。
 彼らは彼らで、娘の事を心から気遣っているのだ。
 まあ、だからこそタチが悪いのだともいえるのだけれど。
「わたしはお兄ちゃんがいれば、後は何もいらないのに」
「そういう事言うなよ。父さんと母さんも、お前が心配なんだ」
「それは分かってるけど……」
 ぷう、と理乃は頬を膨らませた。
「まあ、でも、わたしが自分の手でやった事だし受け入れないとね」
 直ぐに頬から空気を抜いて、大人じみた事を言う。
「ああ、まあ、な」
 俺が言葉を濁しながら、部屋の入り口で立ち尽くしていると、
「ねえ、こっちに来てよ」
 理乃が手まねきをする。
 特に抵抗する事もなく、理乃に従う。
 途中で手に持ったバスタオルを時2段ベッドの上の階に放り投げて、理乃の待つ一階のベッドに潜り込んだ。
 理乃の隣に座ると、早速理乃が俺の両腿の間に入り込んできた。
 ここ最近、寝る前の半ば習慣となっている時間だ。


246 Melt―上 sage New! 2010/02/06(土) 21:38:54 ID:dRWs8Hqu
「えへー」
 俺の腕を自分の前にまわさせて、ぎゅっと抱きしめてくる。
 お姫様の笑みは、無邪気にでれっと蕩けている。
「お兄ちゃんのにおい、好きー」
 理乃が笑みを張り付けたまま、見上げてくる。 
 理乃のくりくりとした大きな瞳は、以前は可愛らしさに花を添えるものだったが、今の焦点の合っていない瞳はどこか不気味ですらあった。 
 その目はわずかな光のみを残して、何も見えてはいない。
「理乃、ごめんな」
 ぽつりと漏れ出た言葉に、理乃は不満げに顔を曇らせた。
「また、それ?もう聞きあきたよ」
「そうかもしれないけど、な」
 目が見えなくなった理乃は、既に多くの障害にぶつかっている。
 目が見えない以外は、健常者と何の違いもない理乃だけど、世間はそう見てはくれない。
 世間にとって、理乃は身体障害者以外の何物でもない。
 そして、そんな事態にさせたのは、他でもない理乃の兄である俺。何度謝っても謝り足りないというもの。
「目が見えないからこそ、見えるものもあるんだよ」
 理乃はあっけらかんとした風で言う。
「それにね、お兄ちゃんがわたしのことを一番に思ってくれるようになったから、後悔してないよ」
 静香と別れて以来、理乃は俺に対し、一層気持ちを示してくるようになった。
 所構わず甘えるようになり、町中で抱きついてくることもままある。
 世間から見れば、目の見えない妹とそれを労わる兄の麗しき兄妹愛の様に写っているらしく、その度にむず痒くなるような視線が周囲から送られてくる。
 後悔していないと理乃は言う。俺がいれば、それでいいと。そのために光を捨てたのだと。
 愛していると理乃は言う。兄である俺を、男として愛していると。
 それを、幼い故の錯覚だと一笑に付す事は出来ない。
 理乃は、年幼くして妄執じみた情念を身につけている。
 そして俺に対しても、理乃が俺に対して抱くものと同質の感情を抱くように求めてくる。
 確かに、理乃の事を愛しいと思う気持ちは、俺の中に存在する。
 理乃が光を失い、以前より俺に頼るようになり、甘えるようになってからは愛しいと思う気持ちが強くなったようにも思う。
 理乃に慕われ、頼られると保護欲の様なものがかき立てられ、理乃を支えられるのは俺だけなのだと、傲慢な思いを抱いてしまうのだ。
 静香の事を引きずりながらも、心の一部は、すでに新しい方向へと向けられようとしている。
 一つの恋の終わりに、うじうじするのもどうかと思うが、ちょっと調子がよすぎるんじゃないかと思う。
 人それぞれではあるだろうが、俺は異性に頼られるとコロっとくるタイプらしかった。
 実のところ、静香においても、何度かそういう機会があったから好きになったのだ。
 それでも、それはまだ兄妹という枠内をぎりぎり出ていない。その枠は、固くて厚い。
 けれど、このまま理乃の妄執が萎むことなく月日が過ぎていけば、何時か俺も理乃を一人の女として愛してしまうような気がしていた。
 この女は、俺がいなければ何もできない。だから、この女は俺だけのモノなのだと、思ってしまう日が来るのではないか。
 それは、理乃が抱く、妄執にも似た―― 

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最終更新:2010年02月07日 20:28
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