殖田俊吉「昭和デモクラシーの挫折」

昭和デモクラシーの挫折(入力途中)

 第一部 満州事変前後
 第二部 軍部・革新派官僚の日本共産化プラン

殖田俊吉


 第一部

 私は昭和八年九月に役人をやめました。しかし私自身の軍に対する不信はもうよほど前からありました。昭和二、三、四年頃ですが私は田中義一内閣のときに総理大臣秘書官をしておりました。それで軍人に接する機会が多かったのです。そのころは白川義則と[#「白川義則と」は底本では「白河義則と」]いう人が陸軍大臣で、阿部信行が軍務局長、梅津美治郎が軍事課長でした。昭和三年に張作霖の爆死事件があったのですが、張作霖の爆死事件というのは、初めは陸軍から、南方の蒋介石の方の回し者がやったんだというふうに報告をうけ、たぶんそんなことだろうと思っておったんです。ところがしばらくして、参謀総長の鈴木荘六がやってきて、じつは関東軍がやったんだという報告をしてきたわけです。それから田中さんもびっくりされ、だんだん調べてみますと、間違いないことがわかってきた。ところがそれは田中さんの当時とっておった政策とまるで逆なんです。蒋介石が昭和二年九月に日本に亡命してきました。そのおり、蒋介石の歓迎会なんかやりましたが、(今その歓迎会に出た人で残っているのはたぶん私一人だろうと思います。この間まで鳩山さんがおられましたけれどもなくなりました……。)ちょうど日本の県会議員選挙のときなので、閣僚などは、ほとんど地方に遊説に行っており、蒋介石に、今ちょうど選挙なものだから忙しくて全部出られないとたしかわびたと思いますが、蒋介石が、「お国はうらやましい、私どもも政争をこういうふうに選挙の形でやるようにしたいと思う、今政争のために亡命してきているんですからね」というような話をしておった。その翌昭和三年の初めに、まだ寒かったですが、蒋介石のそのときの秘書官だったんでしょう、張群が参りまして――蒋介石は昭和二年の秋には帰り、帰るとすぐにまた大総統になったんです。――私は帝国ホテルに迎えに行きまして、田中さんの腰越の別邸に連れて参りました。張群という人はりゅうちょうではありませんけれども日本語ができるものですから、田中さんと二人でだれも交えないで、昼から夜八時ごろまでいろいろ打合せをしました。――つまり蒋介石が北京へ行く、北伐をする。北京に張作霖がいるわけです。それでその張作霖をどうしてもう一ぺん奉天の方へ帰すかというような話をしました。つまり田中さんの了解を求めにきたわけです。それで了解をして、そのかわりに奉天に行けば張作霖を追い打ちはしない。そうすれば満州は大体日本が委任統治のような形で、日本の事実上の政権を認めるというような[#「ような」は底本では「よな」]話をした。そのかわり張作霖を北京から追い出すときが非常にむずかしいわけです。日本もいろいろ手を使い、張作霖に思い切って北京を引き上げて奉天へ帰る決心をさせたわけです。そして帰ろうとするところを――満州へ来て、満鉄の、北京から奉天へくる鉄道が満鉄の線路と交差するところで列車を爆破してしまった。
 あれは陸軍の連中が計画したもので、大へん大規模な計画ですが、どうも白川さんは[#「白川さんは」は底本では「白河さんは」]知らなかったようです。白川と[#「白川と」は底本では「白河と」]いう人はどっちかというと正直者で、唐変木のような人でした。ほんとうの指揮官ですから……いわゆる参謀タイプの人ではない。
 つまり満州事変というのがあとでありましたが、あの満州事変の予行演習ではなく、あれで満州事変をやるつもりだったのです。ところが田中さんに押えられてできなかった。それでもう一ぺん満州事変をやったのです。
 なぜ陸軍が張作霖を殺してしまったかというと、張が日本の権益をいろいろ妨害したのです。もともと張作霖というのは馬賊で、日露戦争のときに日本軍につかまったのですが、田中さんが参謀で、つかまって死刑にされるところだったのを、おもしろそうなやつだ、助けておこうというわけで助けたのです。だから、張作霖というのは全然日本で養成した人なんです。それであいつは忘恩のやつだ、日本の権益をいろいろ妨害するというのが一般の陸軍の人たちの頭だったのでしょうけれども、田中さんに言わせれば、奉天におる張作霖ならば日本のいうことを聞くだろうけれども、あれが大総統となってとにかく北京に乗り込んでおれば支那国民の御機嫌をとり、日本の権益を妨害し日本に抵抗しないと、どうも北京における地位が保てないのではないだろうか、だから張作霖にも同情すべきものがある、これを奉天へ連れて帰れば、張作霖も目先がきくやつだからそんなばかなこともしないだろう、こういう考えが田中さんの頭の中にあったのでしょう。だいたい張作霖が北京へ行って大総統というのは無理だ。こうしたところから当時、日本側から吉田茂さんが支那総領事で北京にいたのですから説得工作に動いたと思います。

 それから、当時外務政務次官だった森恪は田中内閣のもとで――河本大作や松岡洋右(当時の満鉄の副社長)と一緒になって、田中さんをつまり裏切ったわけなんですが――東方会議と[#「東方会議と」は底本では「東邦会議と」]いうのをやりましたが、東方会議と[#前同]いうのは、対支政策、大陸政策を論じたんです。それは森恪の発案です。
 森恪には支那浪人特有の対支政策があるわけなんです。三井物産の人で、支那におって仕事をしている人は、一種の大陸政策はみんな持っているわけなんです。それで何でもかんでも日本が力でもって支那を支配していく。こういうことなんですね。もう日本はやれる、だから日本に反抗するやつはみんなけしからぬというわけなんです。それで森恪がそういう大陸政策、対支政策をきめようというわけで、外務省に大勢集めて会議を開いたわけなんです。ところが大した結論が出るわけもないものですから[#「ものですから」は底本では「ものでから」]、結局かけ声だけは大きかったけれども、対した実質ある成果は上げられなかった、それが森には非常に不満だったのでしょう。また彼は大連へ行き、自身で小さい東方会議を[#「東方会議を」は底本では「東邦会議を」]開いています。これには吉田茂さんも参加しています。
 森恪という人は非常にシャープな人で、三井物産で育てられた人で、学校は神田橋のところにあった商工中学の出身なんです。それで物産の練習生みたいにして向こうへ入って、今でいえば愚連隊の親分みたいな男でした。非常に若くて、三井物産では大へんに出世が早かったわけです。帝国主義者であるし、それからすぐ全体主義者になりますし、共産主義なんかほんとに理解はしてはいなかったんですが、共産主義でも全体主義の方をベトーネンすれば、みんな賛成しちゃうんですからね。日本人はみんなそうですよ。だから東洋赤化の任をおびて支那にきたボロージンと会っても、深いあれはなかったろうと思います。
 それから森恪の伝記がありますが、あれは非常に誇張してあります。森恪というのはそんな偉い人じゃなかったのです。あれは山浦貫一君が書いたもので、山浦君は森恪の子がいの人ですから、それはそのとおり受け取れません。そんな力もなかったのです。それで先にのべたように、張作霖爆死の真相はあとでわかったのですが、森恪、それから松岡洋右もみんなこれを承認をしておった。それでいいことだと思っておったらしいです。それが田中さんの意図にも合するんだというふうにいったらしいのです。田中さんは非常に群を抜いて見識のある人でしたから……
 田中さんという方はお若いときや、軍務局長なんかの時分にずいぶん支那でいろいろなことをなさっていますが、そのときと政友会総裁になられて、首相になられた時分ではその政策というものはずっと変わっております。
 私が袁世凱を殺した話をしたら、あんなばかなことをしたから、こんなことになったのじゃないか。あのときはばかだった、若いからな、といわれたのを憶えています。
 それから田中さんと支那浪人との関係ですが、支那浪人というのは、銭が要るものですが、田中さんが支那浪人に金をやったのはまだ大臣になる前のことで、軍務局長から参謀次長くらいのときでしょう。だから支那浪人が、田中のところに行けば、いわゆる彼らの希望する対支政策が得られると思って皆やってきましたけれどもそれは幣原さんとは違いました。幣原さんにはそういうことはちっともないんですから、田中さんの方がよかったのでしょうけれども、しかし昔の田中ではなかったです。
 また田中さんはあのころ「おらが大将」、でたらめな、頭の雑なはったり屋のように新聞は一つのイメージを書いておりましたが、そうじゃありませんでした。私は一緒におりましたけれども、実に偉い人でした。私たち若い者は先輩が偉いなんてちっとも思わないけれども、田中さんはときどき偉い人だなと思いました。これはわれわれにそれだけのことを思わせる人はよっぽど偉い人だと思います。それであの人は日露戦争前ですが、大尉のときにロシアに行って、ロシヤはよく研究しております。ロシヤ語も上手でした。ロシアの軍隊に入って、現場で修業したのはあの人が初めてでしょう。そのために酒をよく飲んだ。ロシアの人と一緒に交歓するためには、酒を飲まなきゃいかぬそうです。それで酒を覚えたんだ、からだに悪いとはいっていましたが、それで酒を飲む、博奕を打つ、ダンスをやる、それは一生懸命やったらしいです。ダンスなども正式に教わってきたんだそうです。そうしないとロシアの軍隊ではとても一緒にいかれない。ロシアの軍隊では現場の将校と中央の将校とまるで性質が違うように、つまり参謀と現場と違うんです。それから兵隊と将校とがまるで別れている。あんな軍隊じゃいくさができないと思ったというのです。それでロシアに何年かおりまして、帰ってきて非常に長い報告書を書いております。実にりっぱな報告書です。それが日露戦争を始める一つの大きな基盤になった、と、そんなおもしろい話をしておりましたが、実に頭の鋭い、それはものをよく見ております。
 英語はできませんでしたが、ロシヤ語のほかにフランス語は多少できました。やっぱり統率力の非常にある人でした。田中さんが生きているときでしたか、田中さんが中尉のときに書いた陸軍の論文があるんです。――昔は若い将校に問題を与えるか何かして論文を書かせることがあったのです。それを書いた論文が一つ見つかりまして、その論文に点がつけてあるのです。大隊長は八十点つけたのです。連隊長が八十五点か九十点、当時、乃木さんが旅団長でしたが、旅団長の点は百点ついていました。そういう将たる人でした。
 旅団長が見ればまことにりっぱな論文なんです。大隊長じゃその人の真価はわからなかった。これはおもしろい点のつけ方だなと思った。読んでみるとなるほどそうだろうなと思われました。ばかな格好と粗暴のような格好をする人じゃありません。とても頭は鋭いし、綿密なんです。あるとき話を聞いておりまして、私が産業組合の話か何かをしました。当時の産業組合、今の協同組合です。「ははん、産業組合、産業組合っていうのはいろんな他方面の経営をやるんか、ははん産業組合だね」といっておりましたが、産業組合方式で村の経営ができないかなといっておりました。これは人民公社です。そういうことをひょいと考える人なんです。私はそのときに、ははあ、これはヨーロッパのステーツマンのような人だなと思いました。とても日本式じゃないのです。死ぬまでそういうふうに綿密な人で、世間で思われているような国権主義者じゃなかった。

 張作霖の爆死事件で一番憤慨したのは田中さんなんです。つまり自分は張作霖をつれてきて、奉天で[#「奉天で」は底本では「奉夫で」]張作霖を援護しつつ、張作霖の政権を建てて日本の権益を伸ばそうと思っているのに、張作霖を殺したものですから、それがだめになってしまいました。しかし張作霖をつれて来るときは、満鉄総裁の山本条太郎さんがわざわざ北京に行きました。
 その二億をアメリカから持ってきたわけです。それで、そういうなにで[#「なにで」は「なかで」カ]構想を作ってくれという、当時これだけの株主を集めるのは大へんでございますから、その株主の名前をひとつ書きあげてきてくれというから私は株主を、大蔵省へ行きまして、所得税の多いメンバーから抜き出して作りました。そのときに、保険会社は金を持っておるはずだから、保険会社に株を持たしたらどうだろう。戦争を始めたのだから、政府が公債の対象にする、民間の会社はとても買えないから、民間は別に民間の株を持たなければだめだという話をしたわけなんです。そうして株主になる人を東京に集めて、近衛さんからあいさつをしてもらって、進めてもらうんだ、その演説の原稿を作ってくれというから、そんなものを作りました。それで、それをやるんだと思っておったところが、九月の末にとつぜん新聞に、日産が満州に行くという記事が出たので、私はちっとも知らないことですから、びっくりしました。それで鮎川と仲違いになったのですけれども、鮎川は私をだましたんです。十二年の暮れになってから、またぜひ会いたいというから、仕方がない会いに行った。そうしたら私に、君は満州に行かぬかというから、僕は行かない、君は多分そういうだろうと思ったけれども、行けば地位はこしらえてあるといいますから、いや、私は行かない。まるで違うじゃないか、日本でコントロールするという会社が満州へ行って、今度は逆に日本をコントロールする、そうすると日産コンツェルンというものは、非常にそのときじゃまになってくる、満州の会社から命令がくれば、内地のいろんな、日本鉱業でも日本水産でも、満州の小役人の命令を聞かなければならないようになる、そんなばかなことはないじゃないか、それをするには早く子会社に[#「子会社に」は底本では「小会社を」]増資をして、株の比率を変えなければとんでもないことになる。いや、もちろんそれはそうするんだと彼はいっていました。十二月の初めにその案をやるときに、鮎川のところで案についていろいろ相談をしておりました、そのときも私が鮎川の家に夜行ったのですが、玄関には拍車のついた靴と普通のゴム靴とありまして、しばらく待ってくれというわけです。飯を食っているからというのです。そして出て来ましたのが宮崎正義と片倉衷でした。そのとき宮崎を初めて見たのです。名刺をくれましたから見ましたら、日満財政経済研究会東京支部幹事と肩書きが書いてあるのです。満鉄の社員ですから、満鉄の肩書きがいろいろ書いてありました。そしてそのときは、片倉の話をよく聞いておりますと、大蔵省がどうしたとか、いや外務省がどうだとか、商工省はどうだとかいう話をいろいろしているのです。それはみな課長級の人の名前をあげて、大蔵省ではだれが賛成したといっているんです。今の彼らは課長だけで政治をしているのだなという感じを受けたんです。
 そのとき片倉は少佐でした。これから満州の経済課長とかなんとかになって行くんだといっておりました。あるいはなっておって、名刺に書いてあったのかもしれませんが、そこであいさつに来たというようなことでした。それからおかしいことがあるものだな、下剋上というのがあると聞いておったけれども、これは大臣はみんなでくの坊で、この連中が組を作っておるのだなと思って帰りました。それで翌日鮎川のところへ行きまして、あの宮崎というのは何だ、君は宮崎君を知らないのか、知らぬよ、あれは偉いのだ、いま日本の政治をやっているのは宮崎だ、石原莞爾がそういって紹介したそうです。石原は軍政は私がやる、政治、経済は[#「政治、経済は」は底本では「政治、経済に」]宮崎がやる、ほんとうにそう思っているんです。そのころの人たちは、実際宮崎天皇だったでしょう。それは急激で大へんな変わり方になったものだなと私は思いました。
 それから私は、宮崎正義は何者だということで研究したんですが、妙なことに、私が拓務省におるとき使ってもう死にました人ですが、それが満鉄の社員だったのです。そして宮崎は自分が使ったんだ、宮崎という人は石川県人で、明治四十二、三年ごろ、ロシヤと非常に仲直りの気分になっておりましたときに、石川県で(七尾を持っているからでしょう)対露貿易をこれから大いにやらなければならぬ、日本は貿易をやらなければならぬということで、石川県で奨学資金を出して、留学生をロシヤへ送ったのです。そのときに二人送ったらしいのですが、そのときの学生の一人なんです。彼は中学を出たばかりでした。それで多分モスクワへやられまして、モスクワの学校、すぐ大学じゃないでしょうが、あすこで勉強さしたそのうちの一人です。そしてモスクワで勉強が終わって日本に帰ってきた。そのときは対露貿易の方も少し下火になっていまして、使い道がなかったのですが、ロシヤ語を知っていたものですから、満鉄に就職した。―私のところにいた、もと満鉄におった男がそのときに、自分が調査課長の時、彼を自分の部下に使ったというんです。ごく鈍重な一向さえた男ではない。―それから大正三年だかに満鉄へ帰ってきて、満鉄ではほんとうの勉強をさせるために再びモスクワへやった。そして革命になってまた満鉄へ帰ってきた。だからロシヤに相当長くおった人です。これはロシヤ語はもちろんですけれども、英語もドイツ語もフランス語もできるようでした。そして彼は満州事変が始まってからすぐ石原と組んで、石原のブレーンでやっておったようです。それでどうもこの人はメンシェビキじゃないかと私は思うんです。実際それは大へんな権威を持っておった。私はそんなものとはつき合おうとは思いませんでしたけれども、たまたま今アメリカ大使館になっております満鉄のあすこへ行きまして、めしを食っているときにそこへ偶然でしたけれども、宮崎が入ってきました。そうしたらめしを食っている連中がハハーッとおじぎをするんです。それで大したやつがいるものだと思いましたが、その宮崎君が財政経済研究会を幹事で作り、そこで生産力拡充計画ができたということがわかりました。
 話は前後しますけれども、日支事変が始まったばかりの十二年の八月でしたか、私の[#「私の」は底本では「私と」]ところへ[#「ところへ」は底本では「のころへ」]私の遠い親類のまた親類で、一ツ橋大学を出た男なんです。三菱かどこかへ勤めておったんですが、実業はいやだというんで、やめて文官試験は通っているから、役人になりたいということで、私のところにきておった。私ももう役人をやめておったんですから、どうもしようがないから、あとで津島寿一君に頼んで企画院に入れてもらったんですけれども、そのちょうど企画院に入る前です、浪人をしているとき、私のところに日満財政経済研究会というところへしばらく研究員で月給をもらうことになりましたからというわけなんです。そしてそこでこういうものができましたからといって持ってきました。それは「戦争指導計画書」というんです。謄写版刷りのものでした。十二年の八月五日です。八月五日に第三読会を終了したと書いてある、その第三読会の決議書です。いくさが始まってまだ一カ月になっていないんです。それはもうりっぱなもので財政金融それから商業、農業、工業、労働などというものが皆ずっとチャプターごとにあり詳しく書いてあるんです。それは大へんよくできていました。その後ずつと見てみますと、戦争中それをトラの巻にしてずっとやっていたようです。
 第三読会というんですから、その前から作成していたんです。その中には戦争の相手をA、B、C、D、と四カ国書いてあります。それが私にはふに落ちないのは、A、B、C、Dは、英、米、ソ、支なんです。Dをオランダというけれども、そうではありません。オランダなんか相手に考えていません。どうしてソビエトだけはあとでやめたかわからない。戦争指導計画書を作ったときの委員会の委員長は石原莞爾なんです。それはどこで作ったかというと、今の野村証券の三階で作った。津島寿一なんかもその委員をやっておりました。私は津島さんに会ったことはありませんけれども。泉山三六もそのメンバーなんです。土方成美君も[#「土方成美君も」は底本では「土方成二君も」]一委員でした。日満財政経済研究会は二十人ばかり研究員がおった。その半数以上の人は転向者だったそうです。ほんとうの転向者なんておるものではありませんから、おそらく右の人だったでしょう。その中にすべて各種別の委員会がありまして、委員会で管理するわけです。それで産業国営を考えておるものですから、その中にある発送電会社のことをずっとこまかくちゃんとその中にうたってあるんです。それから例の産業報国会というのがありましたね。あれも全部あります。組織もあれば、あのときの宣言書なども皆あります。それから農地改革も皆あります。それでそれと生産力拡充計画だけ私は見ておりましたが、それから企画院ができたのが、たしか十二年の三月か四月ではなかったかと思いますけれども、企画院ができまして、企画院で生産力拡充計画を研究して、そして案ができたといって発表になりました。発表になりました案を見ますと、私が初めに見た生産力拡充の計画がずっと並んでいるんです。ですから企画院が企画する案でなしに、種本は日満財政経済研究会でできて、それを企画院にやれば、企画院が[#「企画院が」は底本では「企院が」]自分の案として発表するんです。ですから電力国営でも、ちゃんと陸軍案があるんです。あるいはその陸軍案を作るときに、小畑なんかも参加しておったのかもしれませんけれども、それを私は見ておりまして、変なことがあるものだなと思っておりました。そこへ今の日満財政経済研究会に[#「日満財政経済研究会に」は底本では「日満財政経済に」]行っている男が持ってきたのです。それが政治行政機構改造案というものです。そのときには名前はありませんでしたけれども、あとで名前を池田さんのところで発見したんです。それは大へんなものでした。それは十二年のうちに持ってきたように思いますけれども、私はひよいと見ますと、新聞紙大の大きな白い用紙に石版印刷してあるんです。十七、八枚ありました。
 リーフになっておりまして、それを全部つづり合わしてはおりませんでしたけれども、ケースみたいなものに入っておりました。むろん折ってあるんです。そしてそれを見ておりますと、大へんなものなんです。それを全部写して持っておったのです。憲兵に調べられたとき、とられたかしらと思いましたけれども、憲兵のやつ気がつかずに持っていかなかったのです。それでそれを抜粋したものを高松宮に差し上げたことがあるのです。



底本・初出:「自由」第11~12号、自由社、1960(昭和35)年10~11月
最終更新:2012年04月27日 23:27