日本バドリオ事件顛末(入力途中)
殖田俊吉
第一部 昭和軍閥に対する私の見解
私は、田中内閣の時大蔵書記官で総理大臣秘書官を兼任して居たが、昭和三年五月張作霖の爆死事件というものが起つた。これは日本の関東軍の陰謀……大きく言えば日本陸軍の陰謀であつた。然るに陸軍は是に対して何等責任を負わないのみならず、恰も責任が田中大将にあるかの如くに盛んに宣伝して、到頭田中内閣を潰して了つた。その時の遣り方が実に陰険であつたので、私は陸軍というものを信用しないのみならず、之を唾棄し批判するに至つた。日本の陸軍が真に日本の国防を托するに足るものであるや否や、非常に疑惑を以て見るようになつたのである。
その後昭和六年三月には三月事件と云うものがあつた。これは未発に終つたけれども、矢張り陸軍の陰謀である、これを陸軍はひた隠しに隠していたが、やがて我々の耳にも入つて来た。続いて満洲事変、十月革命、所謂錦旗革命事件、陰謀の続発だ。更にこれは直接陸軍の計画ではなかつたかも知れないが、血盟団とか、或は五・一五事件、神兵隊事件、みんな陸軍と関係の深い連中が遣つた仕業だ。二・二六は多少類を異にするものではあるが、矢張り陸軍の陰謀だ。又小さい事件では、昭和十年夏の真崎追い出し事件や士官学校事件があつた。永田鉄山事件は陰謀ではないが、その一連の中に入つて来る。これ等を仔細に研究してゆけばゆく程、陸軍の性格が甚だ信用すべからざるものであることが看取されるのである。
私はこの陸軍の性格に関して、日華事変が現れる以前に、一応の結論を得て居つた。そうして早晩中国に於て事を起すであろうと想像して居る時、果して日華事変が発生した。これも決して突如として起つたものではない。既に私共の頭の中に想定されていたことであつて、予て抱いていた陸軍に対する批判の結論が、この日華事変によつて実証されたようなものである。
陸軍には予てから政治を自分の手に掌握したいという考が潜んでいた。陸軍が政権を掌握するためには非常事態の発生を必要とする。何かのチャンスで非常事態を惹起して、
(以上42頁)
それによつて政権を握ることが出来たなら、今度はその政権を維持するため、次の非常事態を必要とする。政権を継続せしめるために更に新たなる非常事態を必要とする。斯の如くにして、非常時は益々拡大し延長される結果となる。
一番初めの張作霖事件からして、その意味を以て行われたものだと思われる。張作霖事件なるものは、満洲事変の伏線ではなくて、満洲事変の予行演習であつた。若しあの事件が計画通りに進行して居つたならば、当然満洲事変になるべかりしものである。それを中途で不発に終らしめたのは、全く田中義一さんの力であつた。もし田中さんが圧力を加えて軍を抑えなかつたならば、あの時あれが即ち満洲事変に発展したものと考えて宜い。
それでは張作霖事件でも、又満洲事変でも、単なる陸軍の帝国主義の発露であるかと云うと、左様に見えて実はそうでない。陸軍は古くから所謂大陸政策なるものを持つて居る。これは陸軍の北進政策、即ち満蒙に発展し、日本海をほんとうに日本の領土を以て囲まれた海にしよう、斯う云う考え方が昔からあるので、張作霖事件などは、その実行であるかの如く見えるけれども、之を仔細に検討すれば、決してそうではない。
第一次世界大戦後、日本も世界的な風潮に感染して、陸軍というものが非常に社会主義的になつた。所謂社会革命というようなものに、非常に興味を持つに至つた。この社会主義的社会革命を革新政策と云う名で呼んでいた。陸軍の中には色々な種類と色々な段階とがある、極く通常の形は国家社会主義である、それ迄に至らない人は復古主義である、併し更に進んだ人は遥に左傾をして居つた。そこで社会革命所謂革新政策を自分達の手によつて実行して行く、それを実行するためには自分たちが政治力を持たなければならない。其政治力を獲得するには則ち非常時が必要になつて来る。これを人為的に作ろうとしたのが三月事件、これは直接政権を獲得しようとしたのだが、直接でなく間接な形で遣ろうとしたのが満洲事変、之れと表裏をなすものが即ち十月革命、即ち錦旗革命事件であろう。
三月事件に関連して、宇垣さんの諒解或は黙契があつたとか無かつたとか色々な見方もあるが、兎に角あの時に擬音爆弾三百個を陸軍から大日本正義団に渡した事実がある。これは陸軍大臣のサインがなければ渡せないもので、其時の陸軍大臣は宇垣さんである。併しこつちの品物をあつちへ動かすというような事は大臣がそんなに詳しく知らないでも、「大臣、これにサインして下さい」と言われれば「うんそうか」とサインするのが常識である。だからそれにサインされたからといつて、あの計画に参加して居たかどうかは判るもので無い。宇垣さんは、自分はそうでなかつたと弁明をしているのだ。兎に角あの計画は実行しないで中止された。それは主として小畑敏四郎大佐、真崎甚三郎中将の反対があつたためだ。宇垣さんは計画の内容を御存知かどうか知らぬが之が実行を中止するのに不賛成な道理はあるまい。然るにその結果は如何なるわけか宇垣自らこの計画を裏切つたんだという印象を若い統制派の連中に与えたものの如く彼等はそれならば今後宇垣内閣の成立を妨碍するという考えになつたというのだ。此辺の経緯は相当複雑に考えなければならぬ。世間では宇垣内閣の妨碍は軍縮問題が原因だと想像しておるが、併しそれは実際に即して居らぬ。三月事件を裏切つたから宇垣内閣を妨碍するといつたのでは世間が承知しない。第一、三月事件は有耶無耶にして仕舞つたのだから、世間に判り易い軍縮問題を理由にしたのである。そこに陸軍の連中の如何にも奸智に長けた処を見るのである。
満洲事変にしてもあれは昭和六年の九月十
(以上43頁)
八日に突発したものではない。既に予定計画があつて、満洲で事を挙げると同時に十月革命を行つて、国内に非常時を現出して、陸軍の政治力を伸そうという計画であつたのだ。
満洲事変後の満州を観ると、決して帝国主義的な単なる大陸政策ではない。満洲に陸軍の支配に属する独立国家を作る、而してその独立の国家たるや、普通には帝国主義は資本主義の発展したものだと解釈されており、それが満蒙政策となり、満洲国が出来たのだと理解されて居るけれども、出来上つた満洲国は決して左様では無い。日本の資本主義が製造する物資を満洲に販売し、満洲の産出する天然資源を日本の工業原料にする、という形式は余り考えていない。 満洲を満洲自身完全なる独立国家としての機能を営ませる、日本と相関関係に置くのではない、という構想の下に作られておる。例えば満洲重工業株式会社と云うのは、非常に高度の重工業で、飛行機も造り、自動車も作る、こんな重工業は帝国主義が殖民地に興すことなど考えられるものではない。満洲国を原料国にするなら、単に大豆を作り、石炭を掘り、或は鉄鉱石を掘るというに止る、満洲に近代的な工業を興そうとするものがあれば、それを止めこそすれ、進める必要は何処にも無い。満洲という完全な独立国家を作つて、日本人という仮面を被つて居り乍ら、実は日本人で無い、即ち日本の陸軍軍人の支配する国にしよう、更に進んではこの満洲国を以て日本をリードして行こう、別言すれば満洲をテストプラントにして一応熟練して、日本もそれに持つて行こうと云うのが一つ。それから満洲という大きな背景を以て日本における勢力をそれに依つて維持し発展せしめよう。故に始終日本から掣肘されない独立の領地を有つて居たかつた、斯う考えることが一番合理的なように思われる。
そこで日本の陸軍は社会革命を描いた、それを実行する為に政権が必要である。政権を獲得し維持する為に非常事態を必要とする。これが段々大きくなつて行けば対外戦争になる外は無い。こういう構想が出て来る訳だ。
然らば満洲事変後、彼等の構想が果してスムースに実現したかどうか。満洲国は出来た、種々な事業は緒に就いた、併し満洲国の建設、満洲国内の開発は時日の経過に伴つて、次第に非常時的性格を喪失して来た、多くの日本人は非常時とは感じなくなつた、同時に陸軍の政治上の声望威力は漸次下り坂に向つていつた、陸軍に遣つてもらわなくたつて、我々でもやれるのではないかと一般の政治家が考えるようになつた。斯うなつては今一遍非常時を拡大しなければならなくなつて、陸軍の人達は、未だ非常時は終つて居ないのだ、これからが真の非常時だと声を大にして唱えたが、併し掛け声だけで、一般国民の心理状態は、既に非常時は終つた、平静に戻つたと考えて居た。そこで陸軍としては、国内か国外か何処でも宜いから何かしら異変状態の生起する[#「生起する」は底本では「起生する」]ことが必要になつて来る。それ自身については各々目的や動機もあろうが、血盟団、五・一五、神兵隊、これらは非常事態を連続せしめるという一つの大きな構想が作用しているに違いなかつた。
従つて我々は、陸軍は今に満洲から手を返して支那大陸で何か始めはしないかという予感があつた処へかの二・二六が起つたのである。二・二六を実行した人達は、それ迄陸軍をリードして来たし、又その後、太平洋戦争の終る迄陸軍をリードして居つた幹部に対する反抗であつた。ところがこの反抗を巧みに活用して自分等の利益にして了つた。是は彼等が非常に悧巧であつたからだ。二・二六は若い人達が冷静な判断を喪つて、気紛れと云つては悪いが血気に逸つて起した事件である。それならばその若い人達が、それ迄のリーダー達と真正面から反対したのかという
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と、そうではない。二・二六に蹶起した若い将校達は、所謂皇道派であつたかのように言われて居るが、実は皇道派でも無く統制派でも無い、どちらかと云えば気分は皇道派に近かつたかも判らないが、抱いている考え方は統制派に近いものであつた。唯統制派は何時でも幕僚を主流とする団体であり、二・二六の若い人達は第一線の即ち幕僚でない将校であつた。皇道派というものは、言われている程有力なものではなかつたと思うが、これも革新派ではあつた。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミテイブな復古主義者であつた。尤も全部がそうだと云うのではなく、皇道派と言われる人達の中には非常にリベラルな進歩的な人達もあつた。これは表現の仕方は色々あつただろうが、一面リベラリストでありながら、然も最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けて居た人達、好い意味の大陸論者であつた。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かつたとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かつた。或人は是を北と大川の喧嘩だと言つたくらいだ。併し統制派は必ずしも大川にリードされて居たとは思わない、もつと進んだ……科学的社会主義の理論にまで進んだものであつた。例えば満洲国の遣り方を視ても、皆トラストで行ると[#「行ると」は原文ママ]云うように、ナチスに近いが、より多くソヴエットに近い考えを持つて居た。満洲国にアメリカの資本を入れようとしたのは鮎川義介君たちだが、併し満洲の陸軍の人達の考えたのはアメリカの資本と同時に資本主義の這入つて来ることは反対である。若し日本の資本家が満洲の開発に協力しないならば日本の資本家は一切締出していつそソヴエットの援助を仰ごうかと考えたものもあつた程である。
陸軍の中にもアメリカ資本説を持つた人もあつたけれども、それはカムフラージュであつたような気がする。踊つてる人達は一生懸命踊つて居るのだが、後ろに居て踊らせてる人としては必ずしも本気じやなかつたように思われる。
満洲国の性格がソ聯的であることは、協和会などを見てもよく判る。
日本の陸軍が全体主義であると考えておる人が多かつたが、その全体主義は必ずしもナチ的ファッショ的なものではなかつた。それは彼等がナチ的であるかの如く装つて居ただけのことで、実は純粋のナチ的では無い、ナチ的より更に進んだものなのだ。多くの人はナチスとソヴエットを全然異るもののように考えておるけれども、若しナチスのものをソヴエットといい、ソヴエットのものをナチスといつて日本人に教えたとしても、多くの人は矢張りそうかと思う。その一般の人の頭の盲点が巧みに利用されて居たのだ。そういう巧妙で且つ高度な精神的な指導は、軍のどういう処がやつたかというと、それは勿論統制派の幹部である。士官学校、陸大を優秀な成績で出て、欧洲あたりも視て来ているから、相当のインテリジェンスがあるのは当然だ。
日華事変というものが起つて来た。不拡大不拡大と言いながら、拡大しつゝある。不拡大を唱える人は、陸軍大臣とか参謀総長とか表面陸軍をリードするが実権を有たない人々で、実権を有つて居る人達は黙々として拡大一方に進んで居る。若し本当に不拡大で行くならば、或はあの事変を勝利を以て片附けようと思つたならば、容易に片附け得た筈である。それは飛行機を製造する工場もなし、自動車も造れず、大砲や鉄砲も碌な物を有たない当時の中国兵と、最も近代的な装備を持つ日本の軍隊が本気で戦つたら、勝つも勝たぬも無い、日本が勝たないのは嘘である。勝とうとしなかつたのだ。何となれば戦争を止めたくないからだ。しかも中国と戦争をしていることが一番ラクなんだ。何時も自分がイニ
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シヤティヴを持つていて、止めようと思えばいつだつて止められる、敗けないんだから[#「敗けないんだから」は原文ママ]何時までだつてやつて居られる、これ程都合の宜い戦争は無い。併も[#「併も」は原文ママ]これで非常時、自分は傷つく心配の無い非常時の大規模な展開、まさに思う壺ではないか。それでいて、いや支那は広いんだとか、やれ地形がどうだとか弁解しているが、そんなことを言うなら、秦の始皇帝や漢の高祖時代の戦争と同じではないか。当時の日本はどういう軍隊を持つていたか、どういう装備を有つていたか、そんなことは、問題にならぬでは無いか。全力を尽す尽さぬの沙汰ではない、まるで近代的の装備など、対中国戦争では用いては居ない。そつくり満洲に取つてある。それを偶々使つたことがある、板垣征四郎が台児荘で敗けた[#「敗けた」は原文ママ]時のことだ。敗けては[#「敗けては」は原文ママ]ならぬから取つときの機械化部隊を持つて行つたら直ぐ片が付いた。それをストックして居るのである。ストックしている武器なり装備なりが不充分ならば、誰に遠慮することも無い、直ちに支那の地形なり状況に適合するものを造り得る筈だ、それを造る努力もして居ない、飛行機だつて充分には使つていないのである。
これに対して何等の批評をし得なかつたことは日本人の重大な責任だ、軍の為すが儘に委せて、彼等の宣伝をそのまま聴従して居た、こんな馬鹿なことはない、若し実際中国のあの旧式な軍隊を対手にして引摺り廻されて[#「廻されて」の「廻」は底本では「廴+囘」]ノンベンダラリとしていたというならば、どうして最も近代的な英米を向うに廻して戦さが出来るか、最も高度の近代工業を有つている、従つて最も進歩した武器と装備を携え得る英米を相手にして戦うというのだから、それは相当の自信がなければならぬ、大した自信はないにしても或程度の自信はあつたであろう。つまり日華事変は対英米戦争に日本を捲込む一つの基盤をなしたものと見得るのである。若しこの日華事変がなかつたならば、或は対英米戦争を起す口実が見出し得なかつたかもしれない。
それでは何故対英米戦争をやる気になつたか。あの頃頻りに反英の空気を煽つて、反英的理論を宣伝したものだが、それはソヴエットにおいて、カール・ラデックが世界に向つてしきりに論陣を張つていた反英理論とそつくりなものである。ラデックは独逸系の猶太人で、後に粛清されて、後で寛大な処置を与えられた男であるが、その当時はソヴエットの有力なるスピーカーであつた。そのスピーカーの主張通りの主張が日本に於て頻りに行われたのである。反英的空気はあつてもソヴエットと争うという考は微塵も無かつた。陸軍の中には対ソ論者が沢山居たけれども、その人達はリーダーの地位から皆追われて了つた。皇道派は二・二六を契機としてみんな退けられてしまつた。石原莞爾なども初めは対ソ論者だつたが、後には考が変つて「東亜連盟論」を書いたりした。これは東洋に於てソヴエットを作ると云うことなのだ。ある人は彼はコムミユニストであるとはつきり云つて居る。成程今の左翼の人々は、陸軍とは仲良くなかつたであろう。併し又陸軍と仲良かつた左翼も沢山居つたのである。三月事件前後から陸軍は左翼と非常に密接な関係をもつて居つた。如何なる人々がそうであつたか此処では差控えるが石原はあの当時の統制派の代表者だつたから、この連中と特に親しくしていたようだ。然し其の他の連中にしても左翼の人達に対しては頗る敬意を払つて居つたようだ。
そこで陸軍はソヴエットと争うことは絶対に避けた。張鼓峰、ノモンハン、あれは日本の陸軍がハッキリ敗けた。それでも黙つて引き退つた。ノモンハンでは一箇師団の兵隊を失つている。それでも黙つて引き下つた。あの戦争に参加した関東軍の幹部は全部罰を喰つている。北京郊外蘆溝橋の銃声一発が日本
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の軍隊を侮辱したといつて、あれほどの戦を始めたくらいなら、一箇師団の兵隊を失つて何で黙つて引退る理由があるか。当時は日華事変をやつてい居つたから、両方に敵を迎えることは出来なかつた、殊に新鋭の武器を持つたソヴエットの軍隊を向うに廻すことは到底出来得ないことだつた、と云う説がある。然らば日華事変のあの大泥沼に足を突込んでヘトヘトになつている日本の軍隊が、何故英米と戦つたのか。日本の陸軍は何十年来伝統的に大陸政策即ち北進政策を主張して来た。支那本部に事を構え、更に南方に向つて日本の権益を拡張するなんぞということは、日本の陸軍の夢にも考えざるところである。海軍は平和的南進論を夢みて居つたが、陸軍はこれを軽蔑していた。それが突如として南に向つて、大東亜共栄圏ということになつた。独逸のナチみたいな汎独主義のようなものが最初から強調され、その実現に向つて進んでいつたというなら南進論も判るけれども、日本の陸軍はそんなものを持つてはいない。日華事変の後で南進を実行するに迨んででつち上げたものが大東亜共栄圏だ。そこに日本の陸軍が昔の陸軍と大変な相違のあることが看取出来るのである。
彼等はそれからブロック経済論を唱えた。ブロック経済というのは大陸政策であつて、南洋のような海上に散在する島々は、ブロックに出来るものでは無い。大英帝国の崩壊を嗤つたのは誰だ。大英帝国は本当のブロックでない、海の上の島々を単に頭の上で連結したに過ぎないから弱いのだ、世界の政治の上から消えるのだ、こう言つて批評していた日本が、何を好んで海の上にブロックを考えるのか、論理上の矛盾撞着も甚しいではないか。
加之日本の陸軍は世界中に優秀なる情報網を持つて、ふだんから戦略を研究しているし、戦力の基礎をなす経済力とか政治の情況を知悉してる筈だ。そのデータを精細に集めて研究しているならば、英米と戦争して勝てるなどと考えるわけは無い。そんな馬鹿な参謀達ではあるまい。或はナチの赫々たる戦果に眩惑されて、自分自身には大した用意もなし自信も無いけれども、独逸の戦勝に便乗しようと安価なことを考えたのではないか、と論ずる人もある。併し私はそれも採るに足らぬ説だと思う。ダンケルクで英吉利を追い落した当時の事ならいざ知らず、日本が世界戦争に入つたのは、あれから二年も後のことだ。併も独逸がソヴエットに対して戦争を開始していた時のことだ。戦史を知つてる者ならば誰でも判る。独逸という国は、二正面作戦、而も長期戦争で勝つた例しが無い国だ。
それが分らぬ陸軍ではない。
彼等は今まで詳述したように、戦さをするために戦さをする。国家の利益とか、国民の福祉とかは、真剣に考えたことはない。彼等は敗け戦さを承知の上で、戦争の相手を次々と変え、拡大して行く。これほど危険なことがあろうか――これが私の一貫した持論であつた。
私は日華事変の始まつた当時から、陸軍にこの国家が委して置かれるか、何としてでも政権を早く陸軍から奪い還すことが最大の時務であることを痛感して居た。そこで国を憂える人々に対して、先ず日華事変を早く止めなければならないと説いて居た。
そこで当面する問題は、陸軍を政治から追つ払うこと、これが解決されれば、あとは自然に解決される、困難は外にも色々あるけれども、それは大した問題で無い、と云うのが我々の考え方であつた。だから三国同盟については、戦争に捲き込まれる危険を恐れて、私は常に反対しておつた。
陸軍が日華事変を止めたくなかつたことは、独逸大使トラウトマンの仲裁に応じなかつたのを見ても判るし、「蒋介石を相手とせ
(以上47頁)
ず」もそうだ。尤も平和交渉に応ずるというゼスチユアだけはする。これを見て陸軍が良くなつた、平和論になつたと思つて、一生懸命努力して見ると、最後の土壇場へ行けば必ず引繰り返る、何時でもそうだ、これは近衛さんが切実に経験されたところである。
その三国同盟の頃、吉田茂さんが英吉利から帰つて来られたから、私は吉田さんと旧交を温めた。段々と提携を密にして行くようになつて、吉田さんを中心に、我々後輩が集まつて運動を続けたわけである。
茲で吉田さんと私との関係を簡単に述べると、無論吉田さんは私よりずつと先輩で、昭和二年田中内閣の時、田中外務大臣の下で外務次官になられた。田中さんは殆ど毎日のように外務省に来て事務をとつて居つた。私は総理大臣秘書官で、外務大臣秘書官を兼ねてはいなかつたけれども、事実上は外務大臣秘書官の仕事もしていたわけで、次官、局長あたりとは密接な関係があつた。吉田さんの前の次官は出淵勝次で、これは私の親戚であつた。吉田さんはその頃から、極くいい意味の政治家の風を具えて居られた。吉田さんは一つの政治的識見を持つて居られて、外交を政治の一環として、進めて行こうという、ハッキリそれを意識して、外交事務ではなしに政治をやる意味で外交をやつて居られたのだと思う。それで私は親類である出淵よりも吉田さんの方が親しみをもつて接することが出来た。というのは、吉田さんは最も忠実に田中首相を輔けて、田中と一心同体に働いて居られた。出淵次官はいつまでも次官で残つてはいない、遠からず米国大使になつて出て行くと言うことが決つて居つたから、腰掛の次官と言うところがあつたが、吉田さんになつて本腰を据えた次官という感じであつた。――
我々同志の最大の問題は、陸軍を政治から追つ払うこと、それには陸軍大臣にその人を得て陸軍を粛正する外は無い。その陸軍大臣に誰を充てるか。私共は真崎甚三郎大将を考えた。ところが、真崎さんに対しては当時非常な誤解がある。統制派が非常な努力をして真崎さんに対する誤伝を世上に流布したものだが、この真崎さんを囲む一団の人々がある、その最も有力であつたのが小畑敏四郎、或は松浦、山岡、又柳川などもそうであつた。その中で、真崎、小畑が最も信用の出来る人だ。陸軍の実情を認識して、陸軍の粛正を実行し得る人は、この二人殊に真崎さんを措いて他に人は無い。真崎が大臣ならば小畑は次官になるであろう。ところが二人とも予備だ、予備の而も非常に誤解されて居る真崎さんを陸軍大臣に起用する政府を作らなければならない。それを身を以て実行する決心をした人を総理大臣に択ばねばならぬ。これが我々の建前であつた。
真崎、小畑の二人と我々との結び付きに就て言えば、我々の盟友の一人である岩淵辰雄君がこの二人と非常に親しかつた。私もこの二人とは親しかつた。そうして私も岩淵君も吉田さんとは頗る親しい、こういう関係で結合するに至つたが、後に近衛さんが第三次近衛内閣を投出して陸軍に振棄てられてから、その全部と親しい我々と一緒になるようになつたのである。然しそれは近衛さんだけで之が為めに従前近衛さんを取巻いて居つた人々と密接な関係を生ずることは無かつた。勿論至つて少数の例外はある。
そうやつて我々が非常に憂えているうちに、遂に三国同盟が出来、翼賛会が出来、日米交渉という場面になつた。日米交渉というものは非常に矛盾したものである。けれども近衛さんは真面目に考えた、ああいう矛盾したコースが近衛さんにとつてはナチュラルであつたのだろう。近衛さんはあの交渉の成功せんことを切に祈つた。私は駄目だと思つ
(以上48頁)
た、吉田さんも矢張り駄目だと思いながらも、非常に親しかつたグルー氏やクレーギー氏あたりに向つて熱心に努力されたものである。既にその頃は憲兵が我々を追つ駆けて居た。吉田さんの平河町の邸は憲兵に取囲まれて居た、私共はそれを承知していたけれども、そんな事は構わない、平気で出入しておつた。
そこへ松岡がソヴエットから帰つて来て、真先に日米交渉をぶち壊しに懸つた。南仏印進駐をやつた。これは日米和平の退路を絶つたようなものだ、それでも亜米利加も非常な努力をした。若し日本が誠意を以て平和的妥結に持つて行こうとするならば、それは立派に出来て居たと思う、それを軍が壊そうという建前だから出来つこ無い、遂に不成功に終つた。
そこで我々は、この日本の政治の真相を、先ず重臣に認識してもらわなければならないと考えたので、吉田さんと私が、手を替え品を替えて重臣の間を説いて歩いた。若槻を説き、牧野さんを説き、岡田にも、平沼にも、幣原にも、池田成彬にも説き、私は町田忠治にも話した。
宇垣さんにも話した。そうして居るうちに、遂に太平洋戦争に突入してしまつて、それから近衛さんの反省と煩悶が始まつたわけだ。
或る冬の寒い日、私は小畑敏四郎君と一緒に湯河原の近衛さんの別邸に往つて、私の見解を数時間に亘つて述べた、それを近衛さんは熱心に聴いてくれた。近衛という人は聴き上手だそうだから瞞されてはいけないと思つたけれども、そうではなかつた。
「殖田さん、私は三遍組閣をして、その間相当長い年月も経つているし、あらゆる人と密接な交渉もあつた。いろんな場面にも会つている、その体験からいうと、あなたのお話は思い当る事ばかりです。何故私にもつと早く話しをして呉れなかつたか」、之に対して私は、「敵の重囲の中に居られるあなたに話をすることは出来ませんでした、話をして、私も重囲の中に陥つて殺されることは厭はないが、私が殺されたら、志を継ぐ人が無い、自惚れとは思つたけれども、そう考えたから危うきに近寄らなかつたのだ」という話をした。
第二部 我々は如何に闘つたか
昭和二十年四月十五日の未明、まだみんな寝て居つたところへ玄関のベルが鳴つた。女中も居なかつたから、家内が玄関へ出る。そして陸軍法務官の某という名刺を持つて私の所へ来て、「大勢来ましたよ」と言う。
ははあ、来たなと思つて私は飛び起きた。その時にすぐ気がついたのは、私の持つている上奏文の原稿をどうするかということであつた。
その上奏文というのは、その前年東条内閣の当時、われわれの同志、吉田さん、岩淵君、近衛さん、真崎大将、小畑中将、真崎勝次少将、森岡二朗[#「森岡二朗」は底本では「森岡次郎」]こう言つた人々の間で、小林躋造海軍大将を出して東条内閣に取つて替らせよう、こういうことを考えて居つた。その小林内閣では真崎大将か小畑中将をもつて陸軍大臣にしよう、海軍大臣は小林さん自身に当らせたらどうか、こういう案を考えて居つた。政治を軍部の手から離して、完全に新しい内閣の手に握ろう。そして腐敗しきつている軍の粛正をやつて戦争を早くやめ、平和に持つてゆく。そのためには真崎とか小畑とかいう人を軍政に当らせる必要がある。ところがそれらの人は予備役だ。予備役の人を軍部大臣にすることは、当時はもう出来なかつた。現役の人の中からは、軍の粛正をする人を望んでも、これは思いもよらぬ。況んや、平和への転換などということは考えられぬ。どうしても予備役のそれも少数の限られた人の中から後任の軍部大臣を選ばなければならない。もし、われ/\の希望する如く、小林さんに大命が降下したとしても、組閣の一番の
(以上49頁)
難関は、陸軍大臣を現役から採らずに予備の将軍から任用する点だ。これをやるためには、陛下が充分にその必要を認識されて、小林さんの意見を採用されることが必要なわけである。それには、何故そうするかということを、一応は申上げるだろうが、その複雑な事情を陛下が直ちに呑込まれるかどうか判らぬ。そこでその理由を詳しく判るように書いて、その時の役に立てる必要があるということになつた。その時の小林さんの考えでは、陛下がそれを御採用にならぬ時は組閣は不可能だから御辞退する。しかし、なぜかようなことを必要とするかはこれに書いてございますから、よく御覧を願います。と言つて御手許に残して来る。その用意に持つてゆこうというので書いたのがその上奏文なのである。大命が降下した時に陛下の御前でそれを読んで御承認を得ようというよりも、御承認がない時にそれを陛下の所へ残してお考えを願うことに役立てるために書いたものである。それによつて、新しい内閣を作る事は不成功に終つても、日本の政治の実情はこういうものだ、日本の陸海軍の真相はこういうものだ、この戦争はこういう段階にあるということを、ハッキリ陛下が認識される一つの機会にはなる。それだけでもよいのだ。恐らく陛下は何も真相を御承知ない。こう考えて長文のハッキリしたものを書こうということになつた。そして私に書けということになつて私が書いたのである。そういう意図のものであるから、簡単なものでなくて、ゆつくり読んでいただくような長いものになつた。その原稿が出来て、小畑君が見て筆を入れて居つた。近衛さんには、簡単に見て貰つたがその外の人達には未だ見せてなかつた。われ/\同志の仲では内容を一々見る必要はない、話は決つているのだから。しかし軍事との問題があるから、小畑君には特に相談したわけだ。
ところが間もなく東条内閣が倒れた。けれども小林のコの字も後継内閣の噂に出て来ない。若槻さんもわれ/\の考えを知つているシンパであつたけれども、重臣会議の席上では宇垣さんを推したらしい。近衛さんも小林ということは、とうとう言われずに終つた。小林さんはわれ/\の間で考えただけで、具体的な問題にはならなかつた。従つて、折角私が書いたけれども、それを小林さんが持つて宮中に出る機会はなかつた。恐らく小林さんは私がそれを書いていることも御承知なかつたかも知れない。――小磯内閣が出来上つた。事は破れたわけである。その原稿は焼棄てればよいのであつたが、われ/\はそのために大きな目的を棄てず、また次の機会を狙おうということになつた。なにも小林さんと限つたことはない。誰でもわれ/\の同志が出て行つて組閣をするという問題にぶつかれば、この上奏文は必ず必要になる。のみならず、政変、組閣の際でなくとも、近衛さんでも拝謁が出来て陛下にお話を申上げるという時には、それは有力な参考資料になると考えて居つたものだから、私はそれをそのまゝ取つておいたのである。
とにかく人に見られたら大変なものであるからどこかへ蔵い込んで、いざという時に始末が出来ないようなことでは困ると思つて、私はこの上奏文を、普段、すぐ枕もとの小抽斗に入れておいたのであつた。ところが、さて憲兵が十人も来て家を囲まれて見ると、その平素の用意が何にもならない。どう処分のしようもない。すぐ寝床から下りて寝巻を着替えながら、まつすぐに飛付いたのがその抽斗である。大きなレタア・ペーパーに五十枚くらい、こまかく書いてある。そうして畳んで封筒に入れてある。それを懐中に入れてみたけれども、どうも具合が悪い。茶の間の外が中庭になつておる。その向うには物置もあるし、隣家もある、そこへいつて見たらば何とかなるかもしれぬと思い、茶の間の雨戸を
(以上50頁)
あけて見たら、中庭にカーキ―服を着てチャンと立つている。急いで雨戸を締めてまた引返した。丁度その時に家内が寝巻をモンペに着替えて居つた。ハッと思いついて「お前、これをモンペの下に入れてくれないか」と言つたら、「それじや便所へ持つてゆきましようか」「いや、便所は駄目だよ。中廊下にも見張りがいるし、便所なんかへ入れても必ず覗かれるだろう。何かあるなと思つて拾い上げて見られたらおしまいだからそれは駄目だ。それよりモンペの下へ入れといてくれないか。まさか女を裸にもしないだろう。」私としては裸にして取られたら、それはその時のことだと思つて頼んだのだが、結局それが成功したのである。しかし、この上奏文は、後に焼き棄てられている。
一方引つぱつて行かれた私にすれば、この一文が取られたのか取られてないのか、判らない。
底本・初出:『文芸春秋』第27巻第12号、文芸春秋新社、1949(昭和24)年12月
最終更新:2012年06月06日 01:30