449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/02(木) 00:32:55.78 ID:56Ql+DYA0
【SS】高坂桐乃の葛藤
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
気がついたら、シェークスピアの『ハムレット』の一節を口にしていた。
"To be or not to be; that is the question"
直訳すると『するべきか、せざるべきか。それこそが問題だ』なのに、なんでこんな大げさな訳にしたんだろう。
この言葉だけは知っていて、けれど原作は知らずに初めて原文を見たときにはそう思ったけど、今だと理解できる。
こんな言葉を口にしてしまう時、その人は運命の岐路に立たされているんだろう。
人としての生死ではなくて、自己としての生死。アイデンティティの生死。将来を切り捨ててでも行う価値があるものか。
俗に言う”Point of no return”。
そう、踏み出したら二度と元には戻れない。
そんな時に発する言葉なら、確かにこの訳は正しい。
「ふぅ」
ため息を一つつき、現状を見つめる。
アメリカから帰った後、ずっと目をそらし続けてきた。
でも、そろそろ現実と向き合わなきゃいけない。
そうしないと、あたしは前に進めないのだから。
今日、あたしはこの難問との決着をつける。
正座して見つめる先には、プラスチック製の袋で密封された、丁寧にたたまれている布。
ジップロックされた兄貴のパンツ。
略して兄パン。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
さて、状況を説明しようと思う。
あたし―高坂桐乃は文武両道、才色兼備、容姿端麗、頭脳明晰の読者モデルで、売れっ子小説家、陸上でも記録を残してる完璧超人だ。
人にはいえない趣味なんかもあるケド、それはこの一年と数ヶ月で理解してくれる人が出来て周りの環境も改善されたおかげで、ストレスもなく楽しんでいられる。
まぁ、こうなれたのもあいつのおかげなんだけどね。
そんなあたしだけど、何でも出来るわけじゃない。
アメリカの留学で、それを改めて思い知らされた。
頑張ってもダメで、泣いてもダメで、それでもあきらめられなくて、本当に大切なものも分からなくなっちゃって、
最後の最後、捨てちゃいけないものを捨てる前に、あたしが壊れちゃう一歩手前であたしを助けてくれたのが兄貴―京介だった。
京介は大嫌いなあたしのために、メール一つでアメリカまで来てくれて、
「一緒に帰ろうぜ」
「おまえがいないと寂しいんだよ!」
「俺はおまえがいないと寂しくてイヤだから、連れ戻しに来た!それだけだ!文句あっか!」
「・・・・・・一緒に帰ろうぜ。じゃないと俺、死ぬかもしれない」
そんな素敵な言葉をくれた。
すごく嬉しかった。
頭がどうにかなるんじゃないかと思うくらい嬉しかった。
今でもまだ心の整理はついていないし、時々アメリカの事は夢に見るし、帰ってきたことを後悔しちゃう事もあるけど、
それは京介のせいなんかじゃないし、絶対に京介を怨んだりはしない。
むしろ、あの時の事を思い出す度に、
大人になっても忘れてなんかやらない。
きっと、いつか、絶対にお返ししてやるんだから。
そう誓った。
アメリカから帰る直前の、悲しくて、悔しくて、切なくて、嬉しくて、素敵な思い出。
それだけなら問題はなかったんだけど・・・・・・
問題が発生したのは日本に帰る二日前だった。
京介はほとんど着の身着のままアメリカに来た。
一応代えの服も用意してたんだけど尽きてしまって、仕方ないからコインランドリーで洗濯する事になったんだ。
あたしも一緒に洗濯する事にしたんだけど、手持ちのクォーターは二枚しかなかったので、二人一緒に洗濯する事になった。
クラスメートには親兄弟と一緒に洗濯するのは耐えられないって子もいるけど、あたしはそんなに気にしてない。
あたしのために苦労してる兄貴との洗濯を嫌がるのも可哀想だし。
・・・・・・まぁいつもはお母さんが洗濯してくれてるし、少しは意識しちゃったけどね。
それで洗濯して、乾燥させて、部屋で二人の服を分けたんだけど・・・・・・
日本に帰ったら兄パンがあたしの服にまぎれていた。
あたしは京介に返すのも恥ずかしく、勝手に捨ててしまうのなんて論外だし、されど部屋にそのままの状態で置いておく事もできないので、
随分悩んだ挙句、そのままジップロックの中に封印して、押し入れの奥にあるアルバムの下に隠したんだけど、
そろそろこの兄パンをどうするか決めないといけない。
奇しくも今日は8月2日。
いわゆるパンツの日。
進退を決めるにはもってこいの日だろう。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
もう一度呟いてみる。
兄パンを返すべきか、返さざるべきか。それが問題だ。
あの時は問題を先送りして、そのまま忘れ去ってしまおうとした。
でも、それじゃいけない。
前は恥ずかしいからという理由で京介に返すのを拒んだけど、今ならそれが本心じゃない事がわかる。
アメリカから帰るとき、お父さんやお母さん、あやせや黒猫といった友人たちにはお土産を買ったけど、自分の分は買わなかった。
アメリカから持ち帰ったものは日用雑貨等の身の回りのもの以外に無い。
あれが長めの旅行だと思いたくなくて、あの生活を忘れたくなくて、そういう気分になってしまうものは持ち帰らなかった。
ただ一つ、あのアメリカを、あの悲しさを、悔しさを、切なさを、そして嬉しさを思い出させてくれる記念品。
それがこの兄パンなんだ。
しかも、タイミングからして間違いなく、あの日あの時履いていた下着だ。
今でも、あの日を思い出すだけで、この兄パンを見つめるだけで、あの時感じた胸を締め付けるような想いが、心の温かさが蘇ってくる。
京介に返すのは簡単だ。もう何度も京介の部屋には忍び込んでいる。
あいつの下着がどこにしまってあるのか知ってるし、あいつのお宝本がどこにあるのかも知ってる。
まだ忍び込む事には罪悪感はあるけど、京介に気づかれずに兄パンを返す事は十分に可能だ。
あいつの事だから、下着が一つ帰ってきていてもまったく気がつかないと思う。
でも、これを京介に返すのは、京介にあのメールを送った時の様に、あたしの想いを否定するのと同じ。
だから―
「よし!この兄パンはあたしが持っとく!」
決めた。京介のものを無断で借りることに罪悪感はあるけど、この兄パンは京介には返さない。
いつかあたしがあのアメリカの思い出を超える事ができたら、その時は胸を張って返しに行こう。
それまでこの兄パンは、あの日の京介のように、きっとあたしを何度も勇気付けてくれるだろう。
でも、まだ次の問題がある。
「どこに隠すのかと、このままジップロックに入れ続けるのかを考えないと・・・・・・」
この兄パンはとても危険なものだ。
ある意味オタクグッズやエロゲよりも危険なものだ。
京介はオタクのあたしを認めてくれたけど、さすがに兄パンを大事に保管するあたしを認めてはくれないだろう。
見て見ぬフリをされるだけならまだしも、はっきりと拒絶されるのだけは耐えられない。
あいつのせいでこんな気持ちになっちゃったのに、あいつにそれを否定されたくない。
もしかしてあいつなら、こんなあたしでも受け止めてくれて、それどころか一歩踏み入れてきてくれるかもしれない―そんな想いもある。
でも、今までずっと迷惑をかけちゃってるのに、そこまで期待しちゃいけない。
これは、あたしだけが責任を持って保管する。
だれにも―あやせや黒猫にも見せてあげない。触らせてあげない。嗅がせてあげない。
だから、絶対に見つからないところに隠さないと・・・・・・
そしてもう一つの問題。
兄パンのケアをどうするか。
普段ジップロックして保管するのはいいんだけど、時には干したりしないと痛んじゃう。
あくまでこの兄パンは借りてるだけなんだから、ちゃんといつでも返せるように丁寧に扱わないと。
もちろん、しまったまま放っておくなんて論外だ。
定期的に虫食いがないか確認したり、汚れたりしてないか確認したり、糸がほつれたりしてないか確認しなくちゃいけない。
大切な京介の下着なんだから、手入れをするのはイヤじゃないし、ちゃんと面倒を見たい。
でも―
「ずっと密閉してたから、匂いがこもってないかな?」
別に汗をかいた後洗濯もせずに密閉したっていうわけじゃなくて、ちゃんと洗濯した後のものだから問題ないとは思うんだけど、
たしかこの兄パンは結構長い間京介が愛用してたヤツだし、もしかしたら匂いが染み付いちゃってるかもしれない。
少しぐらい臭いだけなら問題ない。消臭すればいいし、それも含めて兄パンなんだから、ちゃんと大事にしていきたい。
でも―
「黒猫の漫画みたいにしちゃったりしないよね・・・・・・」
『ベルフェゴールの呪縛』はフィクションだ。嘘っぱちだ。今まで京介の下着の匂いを嗅いだ事は一度もない。
あれは、沙織が例のオタクファッションなのに香水をつけていることに気がついたあたしが、
「そういえばあいつっていい匂いがするよね。
気分が落ち着いて、いつまでも嗅いでいたくなる感じの。
なんでだろう」
とつい言っちゃったのが原点だ。
・・・・・・べつに、京介の匂いを嗅ぎたくて嗅いだことはないよ?
でも一緒にゲームをしてる時とかに、隣からいい匂いがしてくると、ついつい嗅いじゃうよね。
それと同じように、もしジップロックを開けたとたん京介のあの匂いが漂ってきたら。
いつも嗅いでるあの匂いよりも濃い匂いだったとしたら。
あたしがいつもチェックしてる、兄妹小説のメインヒロインである妹ちゃん専用スレで出没する『くんかたん』みたいに夢中になっちゃうかも・・・・・・
「そ、そんなことあるはずないじゃん!」
変な妄想をしちゃった。
あたしが黒猫の漫画の通りに兄パンの匂いに取り憑かれるはずなんてない。
あたしが『くんかたん』みたいに兄パンをコレクションするようになんてならない。
あたしは高坂桐乃だ。
才能がなくても、京介に無視され続けても、ずっと意思と意地で頑張り続けてきた女だ。
そんな誘惑に負けるはずがない。
確かに意思だけじゃ、想いだけじゃダメな事があるのは知ってる。
ずっと昔から身に染みてわかってる。
でも、これはそうじゃないはずだ。
意識と理性をちゃんと保てば何の問題もない!
「うん。何も問題ないよね」
あたしは負けない。負けるはずがない。
だからもし負けたとしたら、それはどうしようもない事なんだ。
もしあたしが負けてダメになっちゃっても、きっとあの時みたいに京介が助けてくれるよね。
だから気負わないで。リラックスして。心の命じるままに対応しよう。
あたしは覚悟を決めると、兄パンの入ったジップロックの袋をゆっくりと顔に近づけ―
「ダメじゃん!全然ダメじゃん!!」
―思い切り床に叩きつけた。
危なかった。『また』兄パンの誘惑に負けるところだった。
もしあのままジップロックを開けていたら、間違いなく兄パンの匂いを嗅いじゃってた。
この兄パンの魅力はすごい。今のあたしにとって、ベルフェゴール=まなちゃん以上の強敵だ。
これで0勝0敗3分。また兄パンの誘惑に勝ち生きることも、誘惑に負けて死ぬ事もなかった。
「やっぱり、考え直したほうがいいのかな・・・・・・」
あたしには兄パンの手入れをすることはできないのかもしれない。
もしそうなら、このまま大切な兄貴の下着が汚れ朽ちていくのをただ黙って見過ごすくらいなら、いっそ京介に返してしまおうか。
でも、この兄パンは大切な思い出の品だし―
「桐乃」
さっきあたしは、ダメになってもきっと京介が助けてくれるって考えちゃった。
もうこれからはそういう考えをしないための兄パンなんだから―
「おい桐乃」
いっそ破いて捨ててしまおうか。
いや、ダメだ。これは京介からの大切な預かり物。あたしがそんな事をしたって知ったら、きっと京介が悲しんじゃう。
そもそもあたしにこの子を破く事なんて―
「お~い桐乃」
もう楽になろうか。
万が一にもないとは思うけど、あたしの中にあるのかもしれない、『京介の下着を嗅いでみたい』って欲求を満たしちゃおうか。
もしかしたらそんなに大した事ないかもしれない。
そうだよね。あたしは『くんかたん』じゃないし、黒猫の漫画はフィクションだから、あんな事にはならないよね。
それにあたしは思春期の女の子なんだから、ちょっとくらい男の人の下着とか匂いとかに興味持っちゃってもいいよね!
それじゃあ―
「桐乃!」
「うっさい!あんたは黙ってて!」
何度もあたしを呼ぶ声に、反射的に怒鳴り返した。
まったく、あたしは今真剣に悩んでるんだから話しかけないで、よ、ね―
あたしが後ろを振り向くと
―生きるべきか―
そこには京介が立っていた。
―死ぬべきか―
頭が一瞬で真っ白になる。
なんで京介がここにいるの?
ノックの音しなかったじゃん。
「なあ、桐乃」
京介は何時になく真面目な顔であたしを見る。
京介が口にするのは、糾弾の言葉か、それとも救済の言葉か。
「おまえ―」
そして―審判が下される―
「俺のパンツ食うの?」
「んなわけあるかぁ!」
審判が下された。京介に。
結論から言うと、あたしの面目は保たれた。
「で、一体何があったんだ?」
京介が後頭部を撫でながら上体を起こす。
「本当に覚えてないの?」
太ももから重さが失われることに寂しさを感じつつも、京介にそれを悟らせないようにと気をつけながら聞いた。
「ああ、桐乃の部屋をノックしたところまでは覚えてるんだがな。
確か返事が無いし、鍵もかかってなかったからそのまま入ろうとして・・・・・・」
「足元に転がってた袋に足を取られて転んで頭を打っちゃったと」
「・・・・・・そうらしいな」
京介が怪訝そうな顔で首肯する。
どうやら京介があの時部屋にいたのは、あたしが考えに没頭して京介の声に気がつかず、返事をしなかったため、京介が心配して部屋に入ってきたかららしい。
食べるのかと聞いてきたのは、お母さんがおかずを冷凍する時のように、ジップロックされていたからだろうか。
それで、驚いたあたしが手に持ったジップロック兄パンを京介に投げつけたところ、びっくりした京介が足を滑らせ転倒、頭を打ってしまったと。
目を回してるだけだったからとりあえず寝かしといたんだけど、京介はそれからすぐに目が覚めた。
ただ、あたしの部屋に入る少し前からの記憶が無いみたい。
・・・・・・良かった、京介が記憶を失ってて。
もう少しであたしの決断に関係なく、あたしが死んでしまうところだった。
「それで、京介は何であたしの部屋に来たの?」
変な事を思い出されてもイヤなので、早く用事を済ませて帰ってもらおう。
とりあえずクッションの下に隠した兄パンもどうにかしたいし。
「その事なんだが・・・・・・桐乃に伝えておかなきゃいけないことがあるんだ」
京介がまじめな顔をしてあたしを見てくる。
「伝えておかなきゃいけないこと?」
「ああ。
アメリカから帰った時に言いそびれてずっとそのままだったんだけどよ、どうしても言う勇気が持てなかったんだ。
でも、今日やっと決心がついた」
言う勇気がもてなかった。
も、もしかして・・・・・・!
「それって、大切なことなの?」
「とても大事なことだ。
でも、今までどうしていいかわからず、ずっと持て余していたんだ。
けどな、もう目を背け続けることなんか出来ない。
このまま放っておく事なんか出来ないんだ」
京介の瞳に、覚悟の光が宿っていることがわかる。
ここまで強く、決意の篭った輝きを持つ瞳を見るのは、いつ以来だろうか。
・・・・・・きっと、あのアメリカでの一件以来だ。
きっと、それだけ大事なことなんだろう。
本当に、生きるか、死ぬかの。
「・・・・・・わかった。
聞かせて」
体が、緊張で硬くなるのがわかる。
心臓は早鐘を打ち、顔も赤くなっていることだろう。
「・・・・・・その、な」
ごくりと、京介の喉が鳴る。
「実は―」
「アメリカから帰った時、俺の鞄にお前のパンツが紛れ込んでいたんだ。
なあ、どうすればいいと思う?」
「あたしに返せぇぇえええええ!!!」
おずおずと紙袋を差し出してきた京介の顔面に、あたしはジップロック兄パンごとクッションを叩き付けた。
結局、生きることも死ぬことも出来ないまま、あたしの8月2日は過ぎ去った。
兄パンは京介に返却されることも無く、ジップロックされたあたしのパンツと共に、再びアルバムの下へと仕舞われたのだった。
だって仕方ないじゃん?
あのまま兄パンの封印を解くことなんてできないし、あたしのパンツもなんか京介の匂いが染み付いちゃってる気がするし……
でもあたしはあきらめの悪い女、高坂桐乃。
いつか兄パンの誘惑に完全に打ち勝つことが出来たら、その時こそジップロックの封印を解いて、ちゃんと手入れをしてみせる。
京介だって妹パンの誘惑に克って、ちゃんとあたしに返しに来ることができたんだ。
きっと、あたしだって今のあたしを越えていけるはず。
だから、今はその暗い場所で、じっと開放される日を待っていて欲しい。
寂しくは無いだろう。
その傍らには、同じくジップロックされた妹パンがいるのだから。
-ANIPAN END-
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最終更新:2012年08月10日 23:10