888 名前:【SS】 或る寒い朝に 1/4  ◆ebJORrWVuo :2012/08/11(土) 20:50:32.48 ID:QBPfgRAeP
 朝。
 あたしは、いつもより早い時間に起きていた。

 今日はあいつの努力が試される日。
 努力が足りなければ、それは数値ではっきりと示される。

 あたしは、いつものお洒落を重視した服装ではなく、動きやすい格好へと着替える。

「……よし」

 何かをしようと考えた。
 皆と神社に祈願しに行って、更にお守りまで買った。
 それを渡す役目は、あたしじゃなくてあやせに頼んだ。

 あたしだと素直に渡せないかも知れないからだ。
 もしかしたら、何か暴言を吐いてしまうかも知れない。
 でもそれじゃ困る。

 最高の状態で今日の試験に挑んで欲しいから。
 あたしは京介には会わない。
 まだまだ素直になりきれないあたしじゃ、直接会っても素直に応援出来ないから。

 けど、何もしないつもりはない。

 まだ誰も起きていない時間。
 あたしは、家を出ていく。
 肩にはスポーツバックをぶら下げて。


 身体を暖めつつもいつもの場所へと向かっていく。
 余り人気がなくて、知り合いに見られる心配が少ない場所。

 別に誰かに見られちゃマズいというワケじゃないケド。
 でも余り見られたくない。
 汗を掻くの分かっているから、化粧もしっかり出来ないし。
 汗まみれの状態じゃお気に入りの香水の匂いも台無しになってしまうし。

 何より、今のあたしの原点とも言える時間だから。
 誰にも見られたくないし関わってほしくない。

 足を止める。
 いつもの場所。
 あたしにとってのスタート地点。

 他にもちらほらとあたしと同じ目的の人を見かける。
 どれもあたしの知り合いじゃないし、それにあたしをジロジロと見たりしない。
 皆がただ、自分の目的の為、頭を真っ白にしてただ真っ直ぐと道の先を見すえている。

 川の土手というのは、目的に相応しい場所だった。

 真っ直ぐに伸びた道。
 川のせせらぎに、排気ガスから遠い空気。

 息を吸う。
 全身に酸素を送り込む。

 頭の中から色んな邪念を追い出していく。
 お洒落とか、アニメとか、ゲームとか。
 最後に残ったその一つを強く想って。
 そしてそれさえも追い出す。

889 名前:【SS】 或る寒い朝に 2/4  ◆ebJORrWVuo :2012/08/11(土) 20:51:19.16 ID:QBPfgRAeP
 真っ白になった頭の中で聞こえるのは、カウントの音だけ。
 3
 地に手をつけて、前傾姿勢。
 2
 腰を上げてしっかりと地面を踏みしめる。
 1
 後はただ、幾多となく繰り返したその行動を。
 0
 より最適化しながら再現していく――。


「はぁ……はぁ……」

 想定していたゴール地点を全力で走り抜けたあたしは、息を整えながら時計を見る。
 目標時間より、まだまだ遅い。

 あいつの試験時間まで、まだ時間はある。

 少し身体を休めながら空を見上げる。
 青い空。
 もう寒い季節だというのに、身体が熱くて仕方がない。

 全身の血が、あたしの中を駆け巡る。

 ここから。ここからが本番。
 身体が温まってきて、ここから。

 息が整い、身体が程よくクールダウンしたのを感じて、あたしはスタート地点へと戻る。


「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……」

 何度か走って、幾つかは目標時間に近づいた。
 けど、まだ目標時間には届かない。

 あいつの試験時間までは、まだ時間があるけど。
 考えてみれば、試験会場に入ってしまえばメールとか電話は届かない。

 あの馬鹿、結構こういう時は変に慎重だから早めに家を出ようとするハズだ。
 そして試験会場で最後の予習をしようと考えるだろう。
 あいつの家からの試験会場までの距離、そしてあいつが余裕を持ちたがる時間を考えると……。

「あと……2回ぐらい、か」

 後2回で出せるだろうか。
 今までの自己記録を超える事が出来るだろうか。

 パン、と頬を叩く。
 弱気なあたしは今は要らない。
 ただ、出来ると信じる。
 あたしならやれる。あたしなら出来る。
 そして、そして。

 今までの自分を超えたあたしなら、きっと素直に――。

890 名前:【SS】 或る寒い朝に 3/4  ◆ebJORrWVuo :2012/08/11(土) 20:52:02.86 ID:QBPfgRAeP
「はっ……はあ……はあ……」

 届かない。まだ届かない。
 駄目だ、焦っちゃ駄目だ。
 落ち着いて。落ち着け、あたし。

 心を空にして、雑念を忘れて。
 忘れようとして、でもすぐに雑念が湧いてくる。
 間に合わなかったらどうしようと思う。

 別にあたしが、応援しなかったからといって別に何も変わらないだろうケド。
 あいつは平気な顔で試験を受けて、しっかり結果を出してくるだろうケド。

 ケド、ケド。
 あたしは……応援したい。
 素直にただ、あいつの事を応援したい。

 いつか、リアと走る時にあいつが応援してくれたみたいに。

 ……そういえばリアが言っていた。
 あたしの足を早くした理由を知りたい、と。

 …………。
 あたしの足が早くなった理由は……。

 あたしが、走ろうと決意した理由は……。

「……よし」

 今ならいける。そんな気がする。


 雑念は要らない。
 心を無に……は出来ない。
 少なくとも今のあたしの心境じゃ抑えこむのは難しい。
 だから、なら、頼るだけ。
 先に、それがあると想って。

 誰よりも、先にそこへ。
 誰よりも、先にその場所へ。

 辿り着いて、みせると。
 飛び込んでみせると。

 あたしを誰だと思ってるワケ?
 あの馬鹿の……妹だっての!

891 名前:【SS】 或る寒い朝に 4/4  ◆ebJORrWVuo :2012/08/11(土) 20:52:51.38 ID:QBPfgRAeP
 時計を見なくても、走り切った瞬間に分かった。
 ああ、またやった、と。
 やってやったと。

 時計を見て、その予想通りの結果に思わず笑みを浮かべてしまう。
 そして、そのまま土手の脇に行って、そこに転がる。
 空を見上げる形で、あたしは大の字に。

 誰かに見られたらどうしようかと思ったけど、どうってことない。
 あたしはやり遂げたんだから。
 寧ろ誇らしいぐらいだった。

 スポーツバックから、iPhoneを取り出す。
 ずっと送信トレイに入っていたそのメッセージ。

 あたしはやり遂げたよ。
 だから、あんたも、『がんばれ』!

 その想いを込めたメッセージは電子の流れに乗ってあいつに届けるだろう。

 それは端から見たら小さな事なんだと思う。
 ただ、応援メッセージを妹が兄に届けるだけ。
 でもたったそれだけの事でも、あたしには大変な事だから。
 そして大事な事だから。

 ――頑張れ。


おわり







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最終更新:2012年09月17日 12:07