896 名前:【SS】 或る寒い朝2 ◆ebJORrWVuo :2012/08/11(土) 22:12:18.00 ID:QBPfgRAeP
『お兄さんが怪我をした』
あやせからその連絡が来たのは、あたしがいつもの場所から家へと帰っている途中だった。
「…………なんで?」
それを聞いただけで血の気が引いていくのが分かる。
怪我? どのぐらいの怪我? あいつは元気なワケ?
なんで? どうして?
『ごめんね、桐乃。わたしが居ながら』
「……理由を、教えて」
『わたしをストーカーから守ろうとして、かな』
……ストーカー?
誰それ? つか何あやせにストーカーしてるワケ?
ああ、でもそれで全て分かった。
あの馬鹿なら目の前であやせが襲われそうになってたら、保身も考えずに突っ込むだろう。
というか守ってなかったらあたし許さないし。
……けど、それで大怪我してたら、それ以上に許さないケド。
「……怪我は、どのぐらいなワケ?」
『お兄さんは大丈夫、って言ってたけど、右手が打撲してると思う。血とかは出てなかった』
……あの馬鹿。右手怪我しちゃったら試験に支障が出るっしょ。
せめて左手でどうにか受け身取るなりしなさいよ、どういう状況で怪我したのか知らないケド。
「あの馬鹿は、大丈夫って言ってたんでしょ。……なら大丈夫」
どうせ口だけだろうけどね。でも虚勢を張れるぐらいなら大丈夫。
『桐乃……』
「ほら、そんな声出さないでって。あいつを信じたげて」
兄貴が虚勢を張ったなら、それを少なくとも妹のあたしが暴いてみせるワケにはいかない。
少なくとも、あやせに心配かけたくなくて、そう言ったのだろうから。
申し訳なさそうにするあやせを励ましながら、あたしは電話を終わらせる。
「……あれ?」
電話が終わったと思ったら、あたしはがくと力が抜けたようにその場に座り混んでしまう。
足に力が入らない。
よく見ると足が細く震えていた。
それだけじゃなくて、全身が冷水をぶっ掛けられたように寒かった。
大丈夫……。大丈夫。
少なくとも命に別状は無いみたい。
腕を痛めて、それで死ぬという事は……ないハズ……だと思う。
寒い。
汗をかきすぎたんだろうか。
力が入らない。
練習しすぎたんだろうか。
……京介。
大丈夫、だよね?
信じていいよね、それ?
大怪我だったら許さないから……。
大怪我だったら……きっとあやせとかも許せなくなっちゃうから。
だから意地でも大怪我にはならないでよ。
……試験会場に行ってみようか?
何かあれば、分かるかも知れないし。
あいつが嘘を付いてるかどうかはあたしなら……。
そこで思い出した。
今回の試験は、確か地味子と一緒だった。
何かあれば、真っ先にあの人が気付くハズ。
悔しいけど、あたし以上にあいつの嘘を見破れるだろうから。
試験を受けられないような重症だったら、直ぐに病院に連れて行くだろう。
あたし以上に上手く説得して。
ギリ……。
拳を強く握る。
今の状況で、これ以上に無い人物が京介の傍に居る。
だから、大丈夫だ。
何か連絡があるかも知れないから、あたしは家で留守番をしておく。
…………。
足に力が戻ってきた。温度も戻ってきた。
いつもの世界だ。
ただ、このあたしの中に広がる安堵感と屈辱感はなんだろう。
大丈夫だというこの上無い信頼感。
そして敵わないという屈辱感。
あたしとあの人の関係はあの頃から何も変わってない。
あたしの隣に京介は居なくて、あの人の隣に京介が居て。
正しい言葉と、優しい理由で、あたしからお兄ちゃんを奪い取った。
スーパーマンのような兄貴は、あたしの中にしか居なくて。
現実の兄貴は、何でも出来るような超人じゃなかった。
その事に気付いたのは最近になってからで。
初めからあの人はその事を教えてくれていた。
奪い取ったんじゃなく、寧ろ……。
でもだからこそ、あたしはあの人が嫌いだった。
兄貴も嫌いだった。
初めから、情けないところもある兄貴を知っててその上で傍に居たあの人。
情けないところを受け入れてくれたあの人に心を許した兄貴。
あたしにだって……。
あたしにだって弱音を吐いてくれれば、あたしだって……。
優しく受け入れなくても、認めた。
けどあたしはあの人のようにあいつに優しくはしなかっただろう。
一緒に、一緒に頑張っていこうとした。
何もかも諦めたままの兄貴のままを許したあの人が正しいなんてあたしは思わない。
確かに無茶を重ねて怪我をしていくのは良くないけど。
あたしは、兄貴が活き活きとしているのが好きだった。
やんちゃで、意地悪で、酷く優しくて、無鉄砲て、でも頑張り続けるその姿は、決して幻じゃなかった。
あたしは、最近になってようやく気付いた。
無気力で死んだ魚の目をした兄貴も、生き生きとした活動的な兄貴も。
そのどちらも兄貴だった。
そのどちらも、居ないんだ。
スーパーマンのような理想的なお兄ちゃんも、
死人のような怠惰な兄貴も、
そのどちらも居ない。
活き活きとして行動的で、お節介で馬鹿で、少しの挫折で凄い落ち込んでダラダラとしちゃう高坂京介がそこにいただけで。
だから、あたしは、言わなくてはいけない。
あの人に同じ言葉を。
平凡を愛して、変化を拒み続けて、敢えて凡人の中に混ざろうとする、あなたの理想的な京介も居ないのだと。
あの人も、とっくに知ってるだろうけど。
京介の変化に気付いているだろうけど。
ただ、あの人と対等な立場で、京介と接する為に。
「よし」
家に帰ったら、あいつを迎えに行こう。
ちょっとだけ化粧して、ちょっとだけお洒落をして。
格好がいつもと違うけど、どうせあいつは気付かないだろう。
あいつを病院に連れて行くのは、妹であるあたしの役目だ。
それだけは昔から、続けてる。
といっても麻奈実さんの側にいるあいつは怪我とは無縁だったからだけど。
懐かしい、と思う。
最近のあいつは怪我をするようになってきた。
昔のように。
お帰り、お兄ちゃん。
無謀で、馬鹿で、しょっちゅう怪我をして帰ってきて。
あたしに心配ばかりかけてきたお兄ちゃん。
これもまた、高坂京介のホントだから。
あんたの事、また見てあげるから。
空を見上げる。
取り敢えずは一ヶ月後。
試験の結果が出るまでは、あいつを休ませてあげよう、かな?
おわり
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最終更新:2012年09月09日 17:30