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*小谷城の戦い 小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は永禄4年2月に姉小路家と浅井家との間で行われた戦いである。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵 攻城部隊:足軽隊10000:[[竹中重治]]、[[博麗霊夢]]、[[霧雨魔理沙]] 浅井・小谷城兵総勢12500 迎撃部隊:弓隊7000:[[浅井長政]]、[[浅井久政]]、[[磯野員昌]] 堅牢で知られる小谷城である。城門突破までに兵力をどこまで維持できるかが勝負である。 //あー、参加部隊が少ないからあっさりしてるなぁ。書くことねえ。 **概要 [[姉川の戦い]]で浅井家を破った姉小路家は浅井家を制圧すべく、[[姉小路良頼>姉小路良頼(三木嗣頼) ]]は[[竹中重治]]に兵を預けて浅井家の本拠である小谷城を攻めさせた。 対する浅井家当主[[浅井長政]]は兵を率いて城下にうって出て姉小路軍に3割の損害を与えたが自身の軍も深く傷つき小谷城に引き返した。それでもなお、この行動に浅井家家臣の面々の士気は上がった。しかしながら攻城戦に移ってからは竹中重治の独壇場であった。彼はこの戦いの以前から既に多くの浅井家の小勢力と内通しており、攻城戦に移った後に姉小路家に下るという旨の密約を結んでいた。そして攻城戦になると数千の兵が姉小路側に下った。さらに竹中は数千の兵が姉小路側に下ったことによる浅井家側の動揺をも利用してさらに多くの兵を篭絡し、ますます小谷城を孤立させていった。結局、小谷城は抵抗むなしく落城。久政を皮切りに主だった人物のほとんどが捕縛された。 重治は戦をするにあたって前もって間者を数十人も埋伏させておき多くの工作をさせていたという。この戦いでは[[姉川の戦い]]で浅井家を破った時に多くの間者を紛れ込ませ、内部から切り崩していったらしい。 **この戦いの影響 この戦いで浅井家は完全に姉小路家に降伏することとなり、姉小路家の主だった家臣団の一つである近江衆を形成することとなる。姉小路良頼は降伏する者は罪を問わないと寛容な態度を示したからであったという。優秀な近江衆を家臣に加えることとなった姉小路家はさらに興隆する。 **浅井長政について この戦いにおいて多くの脱走者を出したが、いかに長政が優れた武将で大いに家臣に信頼されていたとはいえ、[[姉川の戦い]]での敗戦やその後の当主交代に関するごたごたによって浅井家から離れてしまった兵の心をわずか4ヶ月で取り戻すのは不可能であっただろう。実際、姉小路家の妨害にもかかわらず彼はまがりなりにも戦をするにあたって12000もの兵を集めることが出来た。また、戦闘中も主だった家臣は裏切っていない。篭絡されたのは足軽組頭や小豪族など小単位の部隊の長であり、むしろ、それらをまとめて100人ほども篭絡した重治の手腕を褒めるべきであろう。 **後日談 この戦いの後ににわかに小谷城下で[[博麗霊夢]]と[[霧雨魔理沙]]が美人であると評判になった。きっかけについてはよくわかっていないが、どうも浅井家直参の家臣の妻子が長政が話したこととして流した噂であるらしい。ほどなくして、城下で女性が巨大な黒い三角帽子を被ったりや肩を出した服装をすることが一時的に大流行した。土地の古老達を大いに嘆かせたという。また、彼女らのさまざまな恋愛物語や美人画も描かれたが、一部に卑猥に過ぎた物があった為貸本屋などで置くことができず、野天にて売られることが多かった。盆と正月前などは広場などで数十店舗が並ぶなど大々的に売られることもあったという。 //この項目に気づいて吹いたw。後のコミケである。
*小谷城の戦い 小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は永禄4年2月に姉小路家と浅井家との間で行われた戦いである。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵 攻城部隊:足軽隊10000:[[竹中重治]]、[[博麗霊夢]]、[[霧雨魔理沙]] 浅井・小谷城兵総勢12500 迎撃部隊:弓隊7000:[[浅井長政]]、[[浅井久政]]、[[磯野員昌]] 堅牢で知られる小谷城である。城門突破までに兵力をどこまで維持できるかが勝負である。 //あー、参加部隊が少ないからあっさりしてるなぁ。書くことねえ。 **概要 [[姉川の戦い]]で浅井家を破った姉小路家は浅井家を制圧すべく、[[姉小路良頼>姉小路良頼(三木嗣頼) ]]は[[竹中重治]]に兵を預けて浅井家の本拠である小谷城を攻めさせた。 対する浅井家当主[[浅井長政]]は兵を率いて城下にうって出て姉小路軍に3割の損害を与えたが自身の軍も深く傷つき小谷城に引き返した。それでもなお、この行動に浅井家家臣の面々の士気は上がった。しかしながら攻城戦に移ってからは竹中重治の独壇場であった。彼は堅城で知られる小谷城を正面から攻める愚を避け、この戦いの以前から多くの浅井家の小勢力と内通して姉小路家に下るという旨の密約を結んでいた。そして密約の通り、攻城戦になると数千の兵が姉小路側に下った。さらに竹中は数千の兵が姉小路側に下ったことによる浅井家側の動揺をも利用してさらに多くの兵を篭絡し、ますます小谷城を孤立させていった。結局、小谷城は抵抗むなしく落城。久政を皮切りに主だった人物のほとんどが捕縛された。 重治は戦をするにあたって前もって間者を数十人も埋伏させておき多くの工作をさせていたという。この戦いでは[[姉川の戦い]]で浅井家を破った時に多くの間者を紛れ込ませ、内部から切り崩していったらしい。 **この戦いの影響 この戦いで浅井家は完全に姉小路家に降伏することとなり、姉小路家の主だった家臣団の一つである近江衆を形成することとなる。姉小路良頼は降伏する者は罪を問わないと寛容な態度を示したからであったという。優秀な近江衆を家臣に加えることとなった姉小路家はさらに興隆する。 **浅井長政について この戦いにおいて多くの脱走者を出したが、いかに長政が優れた武将で大いに家臣に信頼されていたとはいえ、[[姉川の戦い]]での敗戦やその後の当主交代に関するごたごたによって浅井家から離れてしまった兵の心をわずか4ヶ月で取り戻すのは不可能であっただろう。実際、姉小路家の妨害にもかかわらず彼はまがりなりにも戦をするにあたって12000もの兵を集めることが出来た。また、戦闘中も主だった家臣は裏切っていない。篭絡されたのは足軽組頭や小豪族など小単位の部隊の長であり、むしろ、それらをまとめて100人ほども篭絡した重治の手腕を褒めるべきであろう。 **後日談 この戦いの後ににわかに小谷城下で[[博麗霊夢]]と[[霧雨魔理沙]]が美人であると評判になった。きっかけについてはよくわかっていないが、どうも浅井家直参の家臣の妻子が長政が話したこととして流した噂であるらしい。ほどなくして、城下で女性が巨大な黒い三角帽子を被ったりや肩を出した服装をすることが一時的に大流行した。土地の古老達を大いに嘆かせたという。また、彼女らのさまざまな恋愛物語や美人画も描かれたが、一部に卑猥に過ぎた物があった為貸本屋などで置くことができず、野天にて売られることが多かった。盆と正月前などは広場などで数十店舗が並ぶなど大々的に売られることもあったという。 //この項目に気づいて吹いたw。後のコミケである。

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