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*一乗谷城の戦い 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は永禄5年に朝倉家と姉小路家との間で起こった戦い。 **概要 [[大聖寺城の戦い]]で勝利した姉小路家は朝倉家に立ち直るための時間を与えないよう、間髪を入れず一乗谷城に攻撃をしかけた。軍を率いたのは[[斉藤義龍]]率いる9500の騎兵と[[明智光秀]]率いる8061の鉄砲隊であった。対する朝倉家当主[[朝倉義景]]はかろうじて6660の兵を掻き集め、一乗谷城に篭って抗戦した。しかし、実際は義龍、光秀の火の出るような猛攻になすすべもなく、ただただ城壁を頼っていただけであった。ただし、彼らの攻撃は頼りの城壁すら撃ち崩す勢いであり、日夜爆音や轟音が鳴り響く様子は城兵も住民もそろって怯えさせたという。あわてて停戦要請をするも姉小路良頼は受け入れず、12月20日に義龍が城内に突入し、義景を生け捕りにして一乗谷城は落城した。 **朝倉家の降伏 朝倉義景は捕虜になるもすぐに放たれて、朝倉家領の若狭の港に護送されている。これは身一つの降伏ではなく家臣団を率いての降伏という形にすることで朝倉家の体面を保てるようにする配慮である。朝倉宗滴については戦後敗走しているところを姉小路頼綱に発見されて説得を受けた後に、姉小路良頼に下った。明けて永禄6年に朝倉義景は姉小路家の降伏勧告を受諾した。ここにおいて朝倉家は姉小路家に完全に併呑された。 その際、朝倉家は越前一国を安堵されている。その後朝倉宗滴が朝倉家当主ということとなり、姉小路家を代表する将として前線において激戦を繰り広げることとなる。一方、元当主の義景は越前の統治に専念した。 なお、朝倉降伏直前に山名家が敦賀港を狙い出兵しているが、宗滴の奇襲により壊乱、撤退している。このとき、宗滴の実力を改めて姉小路家中に知らしめたのである。 **この戦いの影響 姉小路家は朝倉家を併呑し、朝倉家家臣団を吸収してより強大になった。この時点で日本の中で武田、上杉に次ぐ戦力といえる。 **逸話 一乗谷城は巨城であり多くの公家や僧侶、文人、学者たちがいたといわれている。その者達が落城後に京にてその攻撃の激しさを言い広めたため、京付近では義龍と光秀のことを鬼神と畏れられるようになった。 姉小路頼綱は朝倉宗滴が腹を切ることを予測しており、彼らの元へ文字通り飛んで行ったと言われている。彼が発見したとき、朝倉宗滴は[[真柄直隆]]の介錯でまさに腹を切ろうとしていたところであったという。 頼綱が説得に成功したことを聞いた良頼は飛び上がって喜び、宗滴が自身の館に来たときには門前まで出迎えたという。 その後、宗滴は家中第一の扱いを受けることとなる。 頼綱は非常に宗滴を尊敬しており師事している。 また、[[竹中重治]]や明智光秀が度々相談に訪れることもあったという。
*一乗谷城の戦い 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は永禄5年に朝倉家と姉小路家との間で起こった戦い。 **概要 [[大聖寺城の戦い]]で勝利した姉小路家は朝倉家に立ち直るための時間を与えないよう、間髪を入れず一乗谷城に攻撃をしかけた。軍を率いたのは[[斉藤義龍]]率いる9500の騎兵と[[明智光秀]]率いる8061の鉄砲隊であった。対する朝倉家当主[[朝倉義景]]はかろうじて6660の兵を掻き集め、一乗谷城に篭って抗戦した。しかし、実際は義龍、光秀の火の出るような猛攻になすすべもなく、ただただ城壁を頼っていただけであった。ただし、彼らの攻撃は頼りの城壁すら撃ち崩す勢いであり、日夜爆音や轟音が鳴り響く様子は城兵も住民もそろって怯えさせたという。あわてて停戦要請をするも姉小路良頼は受け入れず、12月20日に義龍が城内に突入し、義景を生け捕りにして一乗谷城は落城した。 **朝倉家の降伏 朝倉義景は捕虜になるもすぐに放たれて、朝倉家領の若狭の港に護送されている。これは身一つの降伏ではなく家臣団を率いての降伏という形にすることで朝倉家の体面を保てるようにする配慮である。朝倉宗滴については戦後敗走しているところを姉小路頼綱に発見されて説得を受けた後に、姉小路良頼に下った。明けて永禄6年に朝倉義景は姉小路家の降伏勧告を受諾した。ここにおいて朝倉家は姉小路家に完全に併呑された。 その際、朝倉家は越前一国を安堵されている。その後朝倉宗滴が朝倉家当主ということとなり、姉小路家を代表する将として前線において激戦を繰り広げることとなる。一方、元当主の義景は越前の統治に専念した。 なお、朝倉降伏直前に山名家が敦賀港を狙い出兵しているが、宗滴の奇襲により壊乱、撤退している。このとき、宗滴の実力を改めて姉小路家中に知らしめたのである。 **この戦いの影響 姉小路家は朝倉家を併呑し、朝倉家家臣団を吸収してより強大になった。この時点で日本の中で武田、上杉に次ぐ戦力といえる。 **逸話 一乗谷城は巨城であり多くの公家や僧侶、文人、学者たちがいたといわれている。その者達が落城後に京にてその攻撃の激しさを言い広めたため、京付近では義龍と光秀のことを鬼神と畏れられるようになった。 姉小路頼綱は朝倉宗滴が腹を切ることを予測しており、彼らの元へ文字通り飛んで行ったと言われている。彼が発見したとき、朝倉宗滴は[[真柄直隆]]の介錯でまさに腹を切ろうとしていたところであったという。 頼綱が説得に成功したことを聞いた良頼は飛び上がって喜び、宗滴が自身の館に来たときには、自ら門前まで出迎えたという。 その後、宗滴は家中第一の扱いを受けることとなる。 頼綱は非常に宗滴を尊敬しており師事している。 また、[[竹中重治]]や明智光秀が度々相談に訪れることもあったという。

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