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糸魚川の戦い - (2009/07/11 (土) 15:02:17) の1つ前との変更点
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*糸魚川の戦い
糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。
//南越後攻略戦の文章をこちらに引っ張ってきて大丈夫でしょうか?
//とりあえず隠したまま移しておきました。
//内容をこちらに移したのに伴って、南越後攻略戦の方は削除しました。
//あちらのページは春日山城攻略のときに再利用ということでどうでしょうかね?次々回くらいかな。
**参加兵力及び戦力評価
姉小路家
(永禄11年11月10日)
富山城兵
第一弾幕隊:鉄砲隊12500:[[柴田勝家]]、[[小島職鎮]]、[[鈴木重兼]]
第二弾幕隊:鉄砲隊15500:[[伊吹萃香]]、[[黒田孝高]]、[[鵜殿長持]]
先陣本隊:騎馬隊13377:[[朝倉宗滴]]、[[朝倉景紀]]、[[朝倉義景]]
火力本隊:鉄砲隊9500:[[鈴木重秀>鈴木重秀(雑賀孫一)]]、[[アリス・マーガトロイド]]、[[真柄直隆]]
第三弾幕隊:鉄砲隊9000:[[磯野員昌]]、[[レティ・ホワイトロック]]、[[鈴木重泰]]
第四弾幕隊:鉄砲隊4453:[[本願寺顕如]]、[[鈴木重意]]、[[原長頼]]
(11月15日)
築城隊:6500:[[海北綱親]]
(永禄12年1月15日)
援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:[[佐々成政]]、[[百々安信]]、[[天野景貫]]
(1月20日)
後詰本隊:騎馬隊6000:[[浅井長政]]、[[八雲藍]]、[[紅美鈴]]
後詰弾幕隊:鉄砲隊9500:[[十六夜咲夜]]、[[レミリア・スカーレット]]、[[朝倉景鏡]]
最終投入兵力88327
上杉家
春日山城兵 留守居厄:[[最上義光]](計略担当)
迎撃隊(12月10日)
[[上杉景勝]]、[[四季映姫・ヤマザナドゥ]]、[[富田氏実]]:騎馬隊14500
[[柿崎景家]]、[[斎藤朝信]]:騎馬隊9500
[[村上義清]]:騎馬隊9500
[[本庄繁長]]:騎馬隊8000
[[水原親憲]]、[[中条藤資]]:騎馬隊8000
(1月20日)
[[延沢満延]]:騎馬隊6500
2月10日
[[上杉景勝]]:騎馬隊6500
[[新発田重家]]、[[四季映姫・ヤマザナドゥ]]:騎馬隊6500
最終投入兵力69000
姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。[[第三次越中防衛戦]]の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。
越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。
数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。
//それにしても映姫様二度も出撃してたのか。そして小町の姿はない。やはりさぼりか。氏家はいるのが確認されているのだが。
**合戦までの経緯
富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった
しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた
これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えていた
しかし、姉小路はこの予測を裏切り、厳寒の時期に出撃を開始した
**概要
春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。
頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であった。 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金山の集積地点でもあった。
最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対しての、春日山の重要性に変わりはなかった。
度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。
まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。
その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。
揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。
特筆すべきは村上義清だろう。
経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。
姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、士気の低下、凍傷などによる戦闘力の低下。そして何よりも主力の鉄砲の信頼性の低下があった。
豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。[[山口館の戦い]]で得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。
このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。
解決策として、越後国境に新規の城を築く一方、姉小路軍は現地にて、上杉軍が蓄えていた物資の開始に動いた。
越中攻防戦のおり、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり多く備蓄しており、それらは取り残されたままであった。
これは受けた損害を回復した後、再度越中を狙おうとしていたためと思われる。
これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。
(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)
少なくとも残された食料は姉小路側の兵站事情を少なからず助けることになった。しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなかった。
上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。冬がいよいよ深まってくる時期であった。
姉小路主力はこれを確認すると、可能な限り引きつけて 撃滅する為、一時西への撤退を開始、上杉もこれを追撃する様子を見せた。
しかし、積雪の為か朝倉宗滴隊に対する伝令が遅延し、取り残される形になってしまった。
当然ながら、上杉騎馬隊は宗滴隊に次々と襲いかかり始めた。
ここへ来て宗滴は後退は困難と判断し、突出した上杉軍の小部隊を漸減しつつ、堪え忍ぶ道を選んだ。
一方、後退していた弾幕隊は、宗滴救援の為、各自が次々と反転、再度越後への侵入を開始した。
歴戦の猛者、柴田勝家は鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった若き将の助力を得ながらも部隊を再突入させていった。
しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、真相は謎である。
鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の3隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。
特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。
まず、上杉の暴風のような攻撃によって本願寺隊が崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北であった。
同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕した。
しかし、この部隊は奇跡的に撤退に成功する。
機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず、撤退が成功した理由には磯野隊による支援射撃、そして柴田勝家の巧みな戦術判断によるたまものであった。
しかし、その中で柴田はたった1つ大きなミスを犯した。それは自らの後退を隣で陣を敷いていた黒田隊に知らせ損ねたことである。
柴田が意図的に知らせなかったのはまずありえないであろうから、恐らくは上杉方の謀略であろう。
左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。猛勇で知られる彼は、受ける損害を度外視し、姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。
黒田隊にとってこれは由々しき事態となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当する防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加えて、安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。
これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。
黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊による襲撃を駆使し、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。
しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。
後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待つべくもなく、黒田隊は崩壊。
黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。
//ここら辺でまた1つドラマがあったかもしれない
それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃、前線の完全崩壊だけは免れた。
これは黒田と伊吹の両名(とついでに鵜殿)の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。
//負傷したのが黒田だったら、史実と同じように脚を不自由にしようかと思っていたんだが…こればかりは仕方ないか
前線が崩壊すれば後方の親不知、子不知が出口を塞ぐ袋の口と化し、おびただしい損害を出すことは必定であった。
このとき、姉小路軍数万の命運は宗滴の双肩にかかっていたと言っても過言ではないだろう。
朝倉隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃に曝される非常に厳しい状況にあった。
//時間が欲しい…
//おお、早い!読ませていただきました。アドバイスとかそういうのではないですが、少しだけ。
//上段上杉家の状況、おもしろかったです。多少長くなっているように思うので、概要ではなく別項にまとめるほうがすっきりすると思います。加筆もしやすいですし。合戦までの経緯にまとめるということではどうでしょうか?
//武将の乱取りについては、これまで意図的に書きませんでした。本来、史実を重視するならその点を書かなければならないはずです。(藤木久志の雑兵たちの戦場とかが詳しいですね。)しかし、動画イメージや武将その他のキャラのイメージを著しく変えてしまう恐れを感じてあえて避けてきました。甘ったれた考えの一編集者の意見なのですが、どうでしょう?
//ありがとうございます。確かに別項にまとめた方が良さそうです。これは後編が出た時に合わせて編集し直しますね
//後者の乱取りの件、もっともなご意見ありがとうございます。確かに自分の作品ではないにも関わらず、略奪というのは問題ありの話でした
//個人的には姉小路占領後にフォローを入れるつもりでしたが、誤解を招く発言をしたのを申し訳なく思います
//言い訳になってしまいますが、今回の場合は意図的に上杉の城下町の破壊を行っている以上、自分の頭では乱取り以外の解釈ができませんでした。
//より良い形に纏められるよう、ご意見ありましたら引き続きしていただけると助かります
//破壊したのが櫓という防衛施設であるので、そのように解釈すれば良いのではないでしょうか?行軍の障害物を排除。
//どうしても民を話に絡ませたいのなら、領主に呼応した領民たちが山に籠って抵抗したってことにしてもよいですし。
//この戦いの為の妄想を練っている間に既にページが水面下で完成していた、何を言ってるか(以下ポルナレフAAry)
//というわけでお二方(?)以外の意見ですが、革新だと基本的に一国一城である事を考えると櫓=それ以外の山城や出城、という風に妄想も可能かと。
//更にネタ的な妄想ですが、糸魚川には根知城という城があるみたいでして、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%9F%A5%E5%9F%8E
//宗滴翁が先行して糸魚川を渡河及び南下し、少数しか守備兵が残っていなかった根知城を攻略したが、上杉側の出陣の知らせを聞き本隊に合流し、撤退しようとするも
//親不知を越える間に上杉側に追いつかれると宗滴翁は判断し、一戦交えた後に撤退を選択
//それを聞いた他の武将は宗滴翁を救出する為順次交戦を開始し乱戦に突入した。
//こんな妄想するは良いけど自分の筆力の無さに絶望orz
//私が言うのはなんですが、このページに限らず加筆ガンガンすればいいと思いますよw今なら武田攻めてきてるのを新たに書き下ろしてもいいですし。文才なんていらねーっす。いや、文才欲しいんですけど。一番必要なのは妄想力(キリ
//糸魚川の戦いの名称に異議なしです。問題となるのは破壊した櫓を城と解釈するか、小規模な砦、前哨基地とするかです。
//個人的には城を解釈するのは書きにくくなる気がするので、前哨基地とするのがベストだと思ってます
//冬期戦は個人的に大好物なので、この戦は頑張って面白い物にしたいですね。ナポレオンもヒトラーも真っ青の湿った日本の冬を思い知るがいい・・・
//しっかしこれ・・・動画でもありましたが"東方への猛撃"というよりもモロ"バルバロッサ"フラグですね・・・ザバイカルならぬ東北から謙信が帰還する前にモスクワならぬ春日山を占領しなくては未来はない・・・(大げさ)
//親不知、子不知はそんじょそこらの地形じゃないですからねぇw人一人が通るのがやっと。夏場ですら道の一部が常に波に襲われてて人足が肩組んで人間波消しブロック作ってようやく大名行列が通れるというほどの悪路ですw冬場なんてそんなレベルじゃないっすよ。雪降ってるわ、寒風が吹き付けるわ、波が荒れ狂うわ、体感温度は常にマイナスwそして抜けたと思ったら目の前にはどか雪と上杉軍。
//八甲田雪中行軍遭難事件に近いドラマが繰り広げられてもなんらおかしくない地獄…!湿気るどころか凍り付く弾薬、渡河中に心臓麻痺で大量死。
//暖をとろうと火を焚いたら上杉軍が奇襲攻撃、1日1度も温かい物を食えず、体力低下で行軍し、座り込んだらそのまま凍死
//冬が深まるに連れ晴れるどころか悪化する天候---、でもその雪が春になると解けて肥沃な土壌を作り出すと考えるならまたそれも自然の定めなり
//…雑談ですけど、ソビエト軍の訓練ってのはこれくらいの事平然とやるらしいです。トウモロコシひとつかみと水だけ渡して-50°の森林地帯に放りこむ
//ちなみに火を焚くの禁止でです。そのまま5日放っておいたら訓練終了、即最前線
//参考までに履歴をちょいちょいと。日付は年表基準ですが時系列は列挙順
//1220、宗滴隊罠にかかる。
//1225、宗滴隊上杉軍で接触。
//よくみると上杉は支城建設妨害に来ている(目標が海北)CPUはこれだから……
//1230、萃香隊戦闘加入
//0105、宗滴→本庄の後村上、柴田・萃香・孫市・磯野・坊主→景勝
//0110、孫市、義光の虚報をくらう。あと坊主が水原隊に捕縛。ドMである。
//0115,柿崎・本庄隊が柴田隊へ騎馬突撃。あと氏家が磯野への虚報失敗。村上隊、萃香隊へ突進。この時点で磯野の目標が柿崎に変わる。柴田in鈴木重兼、景勝隊を早撃ち。同時に磯野隊、柿崎隊へ早撃ち。景勝、宗滴へ先駆け
//なお、この時点での春日山城の兵12258。
//0120、中条隊→宗滴隊、柿崎・本庄隊→柴田隊 突進。柴田隊一時後退。この時点で延沢隊が出現。景勝隊撤退するも萃香隊により壊滅。映姫様と富田負傷。萃香→柿崎隊、磯野→村上へ目標変更。
//0125、村上→萃香に突進。柴田→本庄に目標変更。萃香in黒田→柿崎に早撃ち。磯野隊最上に虚報。柴田魚津城へ後退。これにより柿崎隊が萃香の後ろに。(左翼の撤退)
//0130、孫市、後詰と合流。延沢戦闘加入。磯野、虚報解けてるのになぜか富山城へ後退。本庄撤退開始。水原in中条→宗滴に突進。
//0205、村上→萃香に突進。柿崎in斎藤→萃香に突進
//0210、宗滴目標は水原に変更。村上隊撤退。磯野→柿崎早撃ち。景勝、新発田出現。水原in中条宗滴に先駆け。柿崎、延沢、それぞれ先駆けと突進・先駆けで萃香。萃香隊壊滅、萃香・鵜殿負傷。宗滴、水原に混乱。柿崎・水原・延沢隊混乱。
//0215、柿崎隊壊滅。景勝、戦闘加入。姉小路後詰戦闘加入。新発田戦闘加入。最上、孫市に虚報するも失敗。柴田in重兼早撃ちで延沢撃破。
//0220、宗滴、水原隊撃破。水原負傷。景勝撤退開始。そしてなにげに島津が長崎港制圧。長政in美鈴、新発田に突進。
//0225、新発田隊壊滅。映姫様負傷。いたのか。
//0230、全隊魚津城へ入場
//野戦終了時の春日山城兵13855+5000(上杉景信による増援)+景勝4600 柏崎実奈7100
//一月から二月あたりの位置関係は姉小路→左翼:柴田・磯野 中央:萃香 右翼:宗滴 上杉→右翼:柿崎、景勝 中央:本庄 左翼:村上、水原 後延沢中央と言った感じか。
//2月あたりを見ると村上・柿崎は萃香を攻撃、水原が宗滴に、当の宗滴は村上に。水原カワイソス。だが一番長く戦場にいたのは彼なのだ。
//しかしまあ、なんつー混戦。後詰めがついたときには新発田しか残ってなかったわけだ。
//あと孫市隊。特になにもしていない。おかげで無傷だったけど。
//あと景虎の下りはいらないんじゃないかと思います。出てこないし。書くとしても逸話向きじゃないかな。
//これは乙です。時系列で分かりやすい。これ書くの大変。
//北陸軍の総大将は立場上おそらく宗滴で主力の一人もまた彼だと思いますです。
//撤退を判断するのも彼の判断だし、どちらか言うと伝令で命令を出す側じゃないかぁと思ってます。
//宗滴の撤退自体に困難があったというのでいかがでしょう?
**この戦いの影響
**逸話
この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。
北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。
これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、
冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。
そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。
これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。
姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、
前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。
この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。
第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。
多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。
姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。
そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した
竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。
明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、
水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、
移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。
その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、
それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。
魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。
この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、
実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。
魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。
また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。
このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。
しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。
これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、
魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、
城下町としていよいよ発展していくこととなる。
//直江兼続と上杉景勝の二人が固い友情で結ばれていた事は現在でもよく知られている
//景勝の父、長尾政景が野尻湖にて水死すると上杉景勝は春日山へ入城し、謙信の養子となった。その時に兼続も春日山へ入っている
//迎撃に赴く際、景勝が兼続に対し「この(豪雪)期に越後を狙うとは正気を疑う」と語った時、兼続は
//「姉小路は(14年前の)神保の際にもその手を使いました。けして驚くにはあたりません。兵は奇道と言いますが、過ぎればただの暴挙にしかなりませぬ」
//と言い切ったと言われ、彼の聡明さを裏付けるエピソードとなっている
//折角天地人がやっているので、兼続のエピソードをいれてみましたが、如何でしょう?
//ちょ、兼続8歳だよ! 景勝も12歳だ! その気になれば1歳でひげの景勝です。
//いっけねえ。年表の方を読み違えていた。直江兼続は1560年永禄3年生まれでした。すいません。更に考えたらこの時期の兼続はまだ坂戸にいますね。
//でも景勝が春日山にいるから小姓である彼も春日山にいても大丈夫なはず・・・
//しっかしあの顔はどうみても12歳じゃねえw
//まあ、口調とか変えれば良いんじゃないかと思います。8歳で兵法書を諳んじる子供ぐらいいたはず。たぶん。あとゲーム中でも最初は樋口姓ですね、兼続。御館の乱か既に直江姓のシナリオでない限りは樋口姓のはず。というか、イベントないと結婚せんのかあいつ。
//直江良いのではないでしょうか。旬のキャラは旬に使うが吉w。そう思えば勘助ももうちょっと扱ってやればよかった。
//しかし、あの大河はもうちょっとなんとかならなかったのだろうか・・・wと思ってしまう私は風林火山好き。
*糸魚川の戦い
糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。
//南越後攻略戦の文章をこちらに引っ張ってきて大丈夫でしょうか?
//とりあえず隠したまま移しておきました。
//内容をこちらに移したのに伴って、南越後攻略戦の方は削除しました。
//あちらのページは春日山城攻略のときに再利用ということでどうでしょうかね?次々回くらいかな。
**参加兵力及び戦力評価
姉小路家
(永禄11年11月10日)
富山城兵
第一弾幕隊:鉄砲隊12500:[[柴田勝家]]、[[小島職鎮]]、[[鈴木重兼]]
第二弾幕隊:鉄砲隊15500:[[伊吹萃香]]、[[黒田孝高]]、[[鵜殿長持]]
先陣本隊:騎馬隊13377:[[朝倉宗滴]]、[[朝倉景紀]]、[[朝倉義景]]
火力本隊:鉄砲隊9500:[[鈴木重秀>鈴木重秀(雑賀孫一)]]、[[アリス・マーガトロイド]]、[[真柄直隆]]
第三弾幕隊:鉄砲隊9000:[[磯野員昌]]、[[レティ・ホワイトロック]]、[[鈴木重泰]]
第四弾幕隊:鉄砲隊4453:[[本願寺顕如]]、[[鈴木重意]]、[[原長頼]]
(11月15日)
築城隊:6500:[[海北綱親]]
(永禄12年1月15日)
援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:[[佐々成政]]、[[百々安信]]、[[天野景貫]]
(1月20日)
後詰本隊:騎馬隊6000:[[浅井長政]]、[[八雲藍]]、[[紅美鈴]]
後詰弾幕隊:鉄砲隊9500:[[十六夜咲夜]]、[[レミリア・スカーレット]]、[[朝倉景鏡]]
最終投入兵力88327
上杉家
春日山城兵 留守居厄:[[最上義光]](計略担当)
迎撃隊(12月10日)
[[上杉景勝]]、[[四季映姫・ヤマザナドゥ]]、[[富田氏実]]:騎馬隊14500
[[柿崎景家]]、[[斎藤朝信]]:騎馬隊9500
[[村上義清]]:騎馬隊9500
[[本庄繁長]]:騎馬隊8000
[[水原親憲]]、[[中条藤資]]:騎馬隊8000
(1月20日)
[[延沢満延]]:騎馬隊6500
2月10日
[[上杉景勝]]:騎馬隊6500
[[新発田重家]]、[[四季映姫・ヤマザナドゥ]]:騎馬隊6500
最終投入兵力69000
姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。[[第三次越中防衛戦]]の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。
越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。
数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。
//それにしても映姫様二度も出撃してたのか。そして小町の姿はない。やはりさぼりか。氏家はいるのが確認されているのだが。
**合戦までの経緯
富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった。
しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた。
これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えており、受けた傷を癒す時間は十分にあると考えていた。
一方の姉小路は中国地方の制定をほぼ終え、その戦略的指針を東方へと向ける余裕が出来た。
上杉が未だ東北を制圧していない状況、春日山城の戦力低下と合わせて、攻勢に出る機と判断し、出撃を決定した。
**概要
春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。
頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であり、 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金の集積地点でもあった。
最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対して、春日山の重要性に変わりはなかった。
度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。
まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。
その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。
揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。
特筆すべきは村上義清だろう。
経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。
姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、寒波による総合的な戦闘力の低下が考えられた。
豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。[[山口館の戦い]]で得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。
このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。
姉小路軍は不足が懸念される糧食に関して、越後国境に新規の城を築く一方、上杉家の砦や城塞の食料の回収に勤めた。
越中攻防戦の際、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり多く備蓄しており、それらは取り残されたままであった。
これは受けた損害を回復した後、再度越中を狙おうとしていたためと思われる。
これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)。
残された物資は姉小路側の兵站事情を少なからず助けることになった。しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなく、多くの者は寒さに震える中での行軍となった。
上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。冬がいよいよ深まってくる時期であった。
姉小路主力はこれを確認すると、かねてからの作戦通り、可能な限り引きつけて撃滅する為一時西への撤退を開始。上杉もこれを追撃する様子を見せた。
しかし積雪の為か、朝倉宗滴隊への敵を発見したという伝令が遅延し、取り残される形になってしまった。
当然ながら、上杉騎馬隊は突出した宗滴隊に次々と襲いかかり始めた。
幸いこのときには宗滴隊にも上杉出撃の報は伝わっており、奇襲を受けるのは避けることができた。
宗滴は後退は困難と判断し、突出した上杉軍の小部隊を漸減しつつ、堪え忍ぶ道を選んだ。
一方、後退していた弾幕隊は宗滴隊が後退した様子がないことをここにきて認識し、救援の為、各部隊長の判断ごとに動き出した。
柴田勝家や鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった将達の判断力が優れていたことを証明している。
しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、真相は謎である。
鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の三隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。
特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。
まず、本願寺隊が上杉の暴風のような攻撃によって崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北を喫した。
乱戦に向かない銃兵で騎兵に立ち向かったのが敗因とされている。
同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕した。
しかし、この部隊は奇跡的に撤退に成功する。
機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず、撤退が成功した理由には柴田勝家と参謀、小島職鎮の巧みな戦術判断によるたまものであった。
しかし、その代償は大きかった。左翼を占めていた柴田隊の後退は隣で陣を敷いていた黒田隊が丸々孤立することを意味するからだ。
もちろん撤退することを柴田は黒田に連絡したが、乱戦の最中、伝令が届くことはなかった。
左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。猛勇で知られる彼は受ける損害を度外視し、姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。
黒田隊にとり、これは非常に驚異となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当すべき防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加え、本来安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。
これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。
黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊によって逆襲、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。
しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。
後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待たずして、黒田隊は崩壊。
黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。
//ここら辺でまた1つドラマがあったかもしれない
それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃し、前線が完全崩壊することだけは免れた。
これは黒田と伊吹と鵜殿の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。
//負傷したのが黒田だったら、史実と同じように脚を不自由にしようかと思っていたんだが…こればかりは仕方ないか
姉小路の後詰め部隊は既に戦場に加入したのはこの前後になる。上杉景勝も一時城へ退き戦力を立て直した後再度出撃。負傷しながらも四季映姫も新発田隊の与力として戦場へと舞い戻った。
宗滴隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃を受けつつも粘り強く抗戦を続けており、上杉方に損害を与え続けていた。
それどころか逆に宗滴は策を弄し、上杉部隊を攪乱し水原隊を崩壊させるほどの打撃を与えた。
村上、本庄もまた黒田隊を壊滅させる際に受けた損害が大きく、撤退。
再度出撃した新発田、景勝隊も疲弊しきった馬では状況を打破することができず、撤退した。
戦闘は姉小路の勝利だったが、受けた損害はあまりに大きく、春日山城の制圧は困難と判断し、新規に築かれた魚津へと撤退した。
多数の負傷兵を抱えた状況下の撤退は困難を極めたが、勝ち戦と各将の鼓舞も手伝い、最小限の被害での撤退に成功した。
魚津では部隊が帰還したとき、海北綱親の指揮のもと、温かい味噌汁と白米が待っていたという。
//時間が欲しい…
//おお、早い!読ませていただきました。アドバイスとかそういうのではないですが、少しだけ。
//上段上杉家の状況、おもしろかったです。多少長くなっているように思うので、概要ではなく別項にまとめるほうがすっきりすると思います。加筆もしやすいですし。合戦までの経緯にまとめるということではどうでしょうか?
//武将の乱取りについては、これまで意図的に書きませんでした。本来、史実を重視するならその点を書かなければならないはずです。(藤木久志の雑兵たちの戦場とかが詳しいですね。)しかし、動画イメージや武将その他のキャラのイメージを著しく変えてしまう恐れを感じてあえて避けてきました。甘ったれた考えの一編集者の意見なのですが、どうでしょう?
//ありがとうございます。確かに別項にまとめた方が良さそうです。これは後編が出た時に合わせて編集し直しますね
//後者の乱取りの件、もっともなご意見ありがとうございます。確かに自分の作品ではないにも関わらず、略奪というのは問題ありの話でした
//個人的には姉小路占領後にフォローを入れるつもりでしたが、誤解を招く発言をしたのを申し訳なく思います
//言い訳になってしまいますが、今回の場合は意図的に上杉の城下町の破壊を行っている以上、自分の頭では乱取り以外の解釈ができませんでした。
//より良い形に纏められるよう、ご意見ありましたら引き続きしていただけると助かります
//破壊したのが櫓という防衛施設であるので、そのように解釈すれば良いのではないでしょうか?行軍の障害物を排除。
//どうしても民を話に絡ませたいのなら、領主に呼応した領民たちが山に籠って抵抗したってことにしてもよいですし。
//この戦いの為の妄想を練っている間に既にページが水面下で完成していた、何を言ってるか(以下ポルナレフAAry)
//というわけでお二方(?)以外の意見ですが、革新だと基本的に一国一城である事を考えると櫓=それ以外の山城や出城、という風に妄想も可能かと。
//更にネタ的な妄想ですが、糸魚川には根知城という城があるみたいでして、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%9F%A5%E5%9F%8E
//宗滴翁が先行して糸魚川を渡河及び南下し、少数しか守備兵が残っていなかった根知城を攻略したが、上杉側の出陣の知らせを聞き本隊に合流し、撤退しようとするも
//親不知を越える間に上杉側に追いつかれると宗滴翁は判断し、一戦交えた後に撤退を選択
//それを聞いた他の武将は宗滴翁を救出する為順次交戦を開始し乱戦に突入した。
//こんな妄想するは良いけど自分の筆力の無さに絶望orz
//私が言うのはなんですが、このページに限らず加筆ガンガンすればいいと思いますよw今なら武田攻めてきてるのを新たに書き下ろしてもいいですし。文才なんていらねーっす。いや、文才欲しいんですけど。一番必要なのは妄想力(キリ
//糸魚川の戦いの名称に異議なしです。問題となるのは破壊した櫓を城と解釈するか、小規模な砦、前哨基地とするかです。
//個人的には城を解釈するのは書きにくくなる気がするので、前哨基地とするのがベストだと思ってます
//冬期戦は個人的に大好物なので、この戦は頑張って面白い物にしたいですね。ナポレオンもヒトラーも真っ青の湿った日本の冬を思い知るがいい・・・
//しっかしこれ・・・動画でもありましたが"東方への猛撃"というよりもモロ"バルバロッサ"フラグですね・・・ザバイカルならぬ東北から謙信が帰還する前にモスクワならぬ春日山を占領しなくては未来はない・・・(大げさ)
//親不知、子不知はそんじょそこらの地形じゃないですからねぇw人一人が通るのがやっと。夏場ですら道の一部が常に波に襲われてて人足が肩組んで人間波消しブロック作ってようやく大名行列が通れるというほどの悪路ですw冬場なんてそんなレベルじゃないっすよ。雪降ってるわ、寒風が吹き付けるわ、波が荒れ狂うわ、体感温度は常にマイナスwそして抜けたと思ったら目の前にはどか雪と上杉軍。
//八甲田雪中行軍遭難事件に近いドラマが繰り広げられてもなんらおかしくない地獄…!湿気るどころか凍り付く弾薬、渡河中に心臓麻痺で大量死。
//暖をとろうと火を焚いたら上杉軍が奇襲攻撃、1日1度も温かい物を食えず、体力低下で行軍し、座り込んだらそのまま凍死
//冬が深まるに連れ晴れるどころか悪化する天候---、でもその雪が春になると解けて肥沃な土壌を作り出すと考えるならまたそれも自然の定めなり
//…雑談ですけど、ソビエト軍の訓練ってのはこれくらいの事平然とやるらしいです。トウモロコシひとつかみと水だけ渡して-50°の森林地帯に放りこむ
//ちなみに火を焚くの禁止でです。そのまま5日放っておいたら訓練終了、即最前線
//参考までに履歴をちょいちょいと。日付は年表基準ですが時系列は列挙順
//1220、宗滴隊罠にかかる。
//1225、宗滴隊上杉軍で接触。
//よくみると上杉は支城建設妨害に来ている(目標が海北)CPUはこれだから……
//1230、萃香隊戦闘加入
//0105、宗滴→本庄の後村上、柴田・萃香・孫市・磯野・坊主→景勝
//0110、孫市、義光の虚報をくらう。あと坊主が水原隊に捕縛。ドMである。
//0115,柿崎・本庄隊が柴田隊へ騎馬突撃。あと氏家が磯野への虚報失敗。村上隊、萃香隊へ突進。この時点で磯野の目標が柿崎に変わる。柴田in鈴木重兼、景勝隊を早撃ち。同時に磯野隊、柿崎隊へ早撃ち。景勝、宗滴へ先駆け
//なお、この時点での春日山城の兵12258。
//0120、中条隊→宗滴隊、柿崎・本庄隊→柴田隊 突進。柴田隊一時後退。この時点で延沢隊が出現。景勝隊撤退するも萃香隊により壊滅。映姫様と富田負傷。萃香→柿崎隊、磯野→村上へ目標変更。
//0125、村上→萃香に突進。柴田→本庄に目標変更。萃香in黒田→柿崎に早撃ち。磯野隊最上に虚報。柴田魚津城へ後退。これにより柿崎隊が萃香の後ろに。(左翼の撤退)
//0130、孫市、後詰と合流。延沢戦闘加入。磯野、虚報解けてるのになぜか富山城へ後退。本庄撤退開始。水原in中条→宗滴に突進。
//0205、村上→萃香に突進。柿崎in斎藤→萃香に突進
//0210、宗滴目標は水原に変更。村上隊撤退。磯野→柿崎早撃ち。景勝、新発田出現。水原in中条宗滴に先駆け。柿崎、延沢、それぞれ先駆けと突進・先駆けで萃香。萃香隊壊滅、萃香・鵜殿負傷。宗滴、水原に混乱。柿崎・水原・延沢隊混乱。
//0215、柿崎隊壊滅。景勝、戦闘加入。姉小路後詰戦闘加入。新発田戦闘加入。最上、孫市に虚報するも失敗。柴田in重兼早撃ちで延沢撃破。
//0220、宗滴、水原隊撃破。水原負傷。景勝撤退開始。そしてなにげに島津が長崎港制圧。長政in美鈴、新発田に突進。
//0225、新発田隊壊滅。映姫様負傷。いたのか。
//0230、全隊魚津城へ入場
//野戦終了時の春日山城兵13855+5000(上杉景信による増援)+景勝4600 柏崎実奈7100
//一月から二月あたりの位置関係は姉小路→左翼:柴田・磯野 中央:萃香 右翼:宗滴 上杉→右翼:柿崎、景勝 中央:本庄 左翼:村上、水原 後延沢中央と言った感じか。
//2月あたりを見ると村上・柿崎は萃香を攻撃、水原が宗滴に、当の宗滴は村上に。水原カワイソス。だが一番長く戦場にいたのは彼なのだ。
//しかしまあ、なんつー混戦。後詰めがついたときには新発田しか残ってなかったわけだ。
//あと孫市隊。特になにもしていない。おかげで無傷だったけど。
//あと景虎の下りはいらないんじゃないかと思います。出てこないし。書くとしても逸話向きじゃないかな。
//これは乙です。時系列で分かりやすい。これ書くの大変。
//北陸軍の総大将は立場上おそらく宗滴で主力の一人もまた彼だと思いますです。
//撤退を判断するのも彼の判断だし、どちらか言うと伝令で命令を出す側じゃないかぁと思ってます。
//宗滴の撤退自体に困難があったというのでいかがでしょう?
//上杉の迎撃は姉小路にとって想定の範囲内であると思います。そのため、あらかじめ対処法(この場合は一時後退)を決めていたと考えています。
//(ザリガニ(斥候)が敵を発見→各部隊への連絡→宗滴隊へ連絡だけなんらかの事情で遅延)が発生し、後退が遅れたという判断ではどうでしょうか?
//騎兵に比べて機動力の劣る鉄砲隊ですし、宗滴に、予定通り撤退すると連絡しながら動きだしておけば、撤退がスムーズに進むという気遣いが裏目に出たという考え方はどうでしょう?
**この戦いの影響
姉小路の目的が春日山城の制圧であったのならば、戦術的辛勝、戦略的敗北といえる戦であったといえる。
しかし、春日山城の戦力をすり減らすという目的ならば姉小路側の勝利といえるだろう。
上杉家は越中再侵攻はおろか、春日山の防御にも不安が残る程の損害を被った。再度姉小路が越後に侵入した際は城を盾に戦う策をとるしかなく、作戦の自由度を大きく失うことになった。
**逸話
この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。
北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。
これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、
冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。
そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。
これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。
姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、
前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。
この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。
第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。
多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。
姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。
そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した
竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。
明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、
水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、
移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。
その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、
それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。
魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。
この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、
実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。
魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。
また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。
このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。
しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。
これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、
魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、
城下町としていよいよ発展していくこととなる。
//直江兼続と上杉景勝の二人が固い友情で結ばれていた事は現在でもよく知られている
//景勝の父、長尾政景が野尻湖にて水死すると上杉景勝は春日山へ入城し、謙信の養子となった。その時に兼続も春日山へ入っている
//迎撃に赴く際、景勝が兼続に対し「この(豪雪)期に越後を狙うとは正気を疑う」と語った時、兼続は
//「姉小路は(14年前の)神保の際にもその手を使いました。けして驚くにはあたりません。兵は奇道と言いますが、過ぎればただの暴挙にしかなりませぬ」
//と言い切ったと言われ、彼の聡明さを裏付けるエピソードとなっている
//折角天地人がやっているので、兼続のエピソードをいれてみましたが、如何でしょう?
//ちょ、兼続8歳だよ! 景勝も12歳だ! その気になれば1歳でひげの景勝です。
//いっけねえ。年表の方を読み違えていた。直江兼続は1560年永禄3年生まれでした。すいません。更に考えたらこの時期の兼続はまだ坂戸にいますね。
//でも景勝が春日山にいるから小姓である彼も春日山にいても大丈夫なはず・・・
//しっかしあの顔はどうみても12歳じゃねえw
//まあ、口調とか変えれば良いんじゃないかと思います。8歳で兵法書を諳んじる子供ぐらいいたはず。たぶん。あとゲーム中でも最初は樋口姓ですね、兼続。御館の乱か既に直江姓のシナリオでない限りは樋口姓のはず。というか、イベントないと結婚せんのかあいつ。
//直江良いのではないでしょうか。旬のキャラは旬に使うが吉w。そう思えば勘助ももうちょっと扱ってやればよかった。
//しかし、あの大河はもうちょっとなんとかならなかったのだろうか・・・wと思ってしまう私は風林火山好き。