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*越中防衛戦 '''越中防衛戦'''(えっちゅうぼうえいせん)は越中国舟橋において越後の大名[[長尾景虎>上杉謙信(長尾景虎)]]と[[姉小路良頼>姉小路良頼(三木嗣頼)]]の間で起こった戦い。 正式名称は富山合戦もしくは舟橋の戦いであるが、ここではより一般的な呼称である越中防衛戦として説明する。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵総勢13826 (2月15日-2月25日) 迎撃部隊:騎馬隊4500 :[[斎藤義龍]] 弾幕部隊:鉄砲隊500x5:[[博麗霊夢]]・[[リグル・ナイトバグ]]・[[明智光秀]]・[[霧雨魔理沙]]・[[明智秀満]] 奇襲部隊:足軽隊3000 :[[竹中重治]]      (2月25-3月20日) 奇襲部隊:足軽隊3000:斎藤義龍 迎撃部隊:足軽隊5000:竹中重治 弾幕部隊:鉄砲隊500x4:霧雨魔理沙・博麗霊夢・明智秀満・リグル・ナイトバグ 長尾・春日山城兵 先鋒隊:騎馬隊8000:長尾景信、[[村上義清]]、大熊朝秀 柏崎港守備兵 本隊:騎馬隊8000:[[宇佐見定満]]        騎馬隊5000:[[チルノ]]、他最上義守、色部勝長、佐瀬種常が従軍。 姉小路側は対越後防備として街道沿いに櫓を設置している。 長尾側は精強で知られる騎馬隊であるが、出撃地点の違いから連携の不備が見られる。 兵力はほぼ同数であり、以上の要素が戦局を左右する。 **概要 越後の大名長尾景虎は重臣である長尾景信を総大将に命じて越中に侵攻させた。先鋒として景信隊、中軍に[[宇佐美定満]]隊、後軍には新参の将であった[[チルノ]]隊として組織されていた。しかし、突出しすぎた景信隊が、斎藤義龍の足止めをうけているうちに竹中重治の奇襲を受けて恐慌状態に陥り、鉄砲隊によって討ち減らされ宇佐美定満隊が戦場に到着する前に全滅、長尾景信は捕虜になった。宇佐美定満隊は粘るもチルノ隊が斉藤義龍に奇襲されあっけなく壊滅、左右に櫓、前後に竹中隊と斉藤隊に挟まれ、さらに遠巻きから鉄砲隊による銃撃に襲われるという絶望的状況になり壊滅。後、禅僧の沢彦宗恩の仲介により長尾姉小路間で停戦協定が結ばれた。 **この戦いの影響 この戦いで長尾勢が敗れたが長尾家の規模から言えばこの戦いは小競り合い程度であり、さしたる損害ではなかったと 言われている。一方、姉小路家にとっては初の大規模な防衛戦であり万全を期して望んだ戦いであった。この戦いにお いて姉小路家の矢櫓は大いに威力を発揮し、その防衛力を大いに見直すこととなった。このことは後に一国を丸ごと要 塞化するという圧倒的大国に対する防衛思想に発展した。 **長尾軍の敗因 景信隊が突出したために中軍および後軍との連絡が悪く、各個撃破されてしまったというのが定説である。 本来の総大将は景信であるが適切な指示を出すことが出来ず、先鋒の実質的な指揮をしていた[[村上義清]]、中軍の指揮をしていた[[宇佐美定満]]、2人が各々全軍に指示を出してしまった為指揮系統が混乱してしまい、混乱につながってしまったという説がある。また、[[チルノ]]隊は元々は宇佐美の一部であったと言われており、チルノの独断で軍を割ってしまったという。さらに冬の積雪により行軍も困難であり、伝令を行き来させることすら困難であった。以上のような状況から士気も低く、こういった要素が敗北につながったと言われている。 要約するならば、冬季の長距離行軍による士気の低下、各軍の連絡不備と、姉小路側による鉄砲、富山城の要塞化(或いは野戦築城)、[[竹中重治]]の知略が合わさった結果だと言える。なお、姉小路家はこのときの戦訓を最大限に生かし、後の[[第二次越中防衛戦]]、[[美濃防衛戦]]につなげていくのである。 このことを考えれば、この戦いはまさに新時代合戦の萌芽と呼ぶべき戦いである。 //書く欄が違うかも知れない。合戦の影響に書くことかも。  また、長尾家の敗退理由の一つに、当時の長尾家の状況もまた挙げられる。旧守護・上杉家の支配体制をそのまま利用している長尾家においては、中央集権化が未熟であり、依然として国人衆の力が強大であった。それゆえ、宇佐美定満は総大将に任じられていたとしても、その軍事行動には従軍する国人衆の意向を受け入れた上で行わなければならず、大きな制約があった。また、その諸国人衆が率いる兵は、夏季は農業で生計を立てる農民であり、専門軍人ではなかった。それゆえ、彼らの目的は農業生産の乏しい越後において安定的な生活を送るための、他国からの収奪であった。彼らにとっては生き残りさえすればよく、寝返り・逃亡が頻発した。これについて長尾景虎は、数々の法令を発布して略奪の防止に努めた一方、越後の貧しさも知っており、ゆえに侵攻先の村落から略奪をせぬ代わりの上納金を納めさせた。  一方の姉小路家は、飛騨を統一する過程において中央集権化を推進。飛騨を統一しさらに他国を下すその強大な軍事力と、自らの手で完全に掌握した飛騨の諸金銀山の財力を以て、すでに国人を家臣として城下に集住させ、所領の武士から農民まですべてを末端まで掌握できる体制を構築することに成功していた。  その点においてこの戦いは、中世的地方分権的支配の長尾家と、近世的中央集権的支配の姉小路家という側面を持ち、かつ体制的側面からは脆弱にすぎぬ長尾家を強国へと押し上げたカリスマ的支配者・長尾景虎の不在ということもあり、姉小路家の大勝に終わることはある意味、歴史上の必然であったといえる。 //歴史は人の動きの積み重ねですが、必ずしも一人の人間が歴史を大きく動かすことはできません。歴史には歴史の流れという必然があります。たとえば、謙信が史実ではいくら長生きしても信長に勝てないのといっしょです。それを表したいので、あえて社会史的側面から、様々なものを記述しようと思います。 //以下は有線個人の勝手な意見です。参考にしていただけるかどうかはもちろん自由です。 //おっしゃる趣旨には大いに賛同します。ですが元がゲームですし、世界観からもある程度『ファンタジック』さや、ゲームの展開に沿った書き方が求められると思います。謙信、信玄が史実でいくら長生きしても信長に勝てないことは私の認識と合致しています。しかし、この世界ではそうではありません。個人が神にも等しい力を持つ世界です。ですから、この作品を純粋な歴史として書くことは難しいでしょう。少なくとも東方キャラのおかげで史実では飛騨統一すらかなわなかった良頼が天下統一しかけています。要するに一人の人間が歴史を大きく動かしうる世界なのだと思います。 //具体的に申しますと、兵農分離は革新に『技術』として存在します。その技術を取得していないにも関わらず兵農分離に成功していたというのはいかがなものかと思うのです。(兵農分離して多くの兵を動かすには巨大な財力が必要ですが、史実で飛騨の金山銀山が江戸時代で三万数千石相当でしかないことを別にしてもです。) //また、ゲーム的に長尾家が強いことも説明せねばならないのです。うp主がラスボスとして扱っている以上、これを姉小路より弱いとすることは(少なくともまだ上洛すらすませていない序盤の段階では)演出上言及すべきではないと思います。 //他国からの略奪、苅田狼藉、誘拐等々については私は霧雨の野望のファンタジックな世界観にそぐわないとして意図的に言及してきませんでした。(少なくとも表現をぼかしたり限定的にしたり。)これは単なる好みかもしれないです。 //あと、謙信は義将でなければならないと思って書いてきましたw。(史実の彼を義将だなんてとんでもない話ですし、信玄もそう高く評価できない人だとは思いますけれどね。)作品のイメージや世間一般のイメージに反するような事は遠慮してきたつもりです。出来てないかもしれませんけどw。 //リアリティを求めるのには賛成です。私自身、戦国時代の専門家ってほどではないですし、こういった書き込みはありがたいです。しかし、同時に霧雨の野望という作品を尊重する点からいろいろと自主的な規制も必要ではないかとも考えます。もし、私の考えに賛同していただけるならとても幸いです。また、賛同していただけなくても所詮一編集者の勝手な思い込みにすぎないのでかまわないことだとも思います。 //つまらないことを長々と失礼しました。こんなことを書いた後に何を言っているんだと思われるでしょうが、どうぞ気楽にガンガン編集していってくださいm(_)m //p.s.洛南会戦の項の一次産業と二次産業の対立についてどなたかが質問なさっているので書いた方は対応おねがいします。 //ものすごい空白があってびびった。「//」を使う場合は改行で空白作らない方がいいみたいですね。 //城島的には長尾側の長距離行軍・連携不備、姉小路側の鉄砲の威力・半衛兵の知略による相乗効果だと考えています。軍神様が来てなかったのが最大の理由かも知れませんが。奇襲不可・足止め困難……。 //修正ありがとうございます。もう私どうしようもないなぁ。 //それもいいですねぇ。敗因とか勝因はいっぱいあったほうがリアルでいいっす。 //社会史云々書き込んだものです。有線氏のおっしゃることは、確かに理にかなっています。世界観を破壊しかかって申し訳ありませんでした。少々私の頭が固すぎたようです。すこし直しておきます。 **出兵の理由 長尾家の出兵の規模から言って、この戦いが越中国の制圧を目的としていたとは思われず、出兵理由としていくつかの説がある。 ・能登畠山家への援軍 当時、七尾城下の合戦が行われている最中であり、能登畠山家が危機に陥っているため、救うために姉小路領越中を 攻めたという説である。 ・長尾景信の暗殺 長尾景信は越後長尾家において元々は主家であり、景虎が後の憂いとなることを恐れて姉小路家の兵を使って暗殺し ようとしたという説である。その説によれば後に捕虜返還の使者を送ったのは家中の意見が強くやむを得ずだったと いうことになる。しかしながら景信が戦後も景虎に変わらず仕えていることからこの説は薄いとされている。 ・新たに仕官した武将の能力試し この戦いでは、チルノや村上義清、最上義守などの新たに長尾家に仕官した武将が主力として参加している。 長尾家での彼らの働きぶりを見定めるための戦いではないかという説である。 しかし、数万の軍を起こす理由としては例のないことで考えにくい。 ただ、軍の人選については、このような意図が働いたという可能性はある。  ただし、この出兵理由については必ずしも政治的理由のみならず、社会的理由も鑑みねばならない。すなわち、当時農業生産に乏しく収入の安定性を欠いた越後において、農民たちはその副収入を得る必要があった。その一つに他国への侵攻が挙げられる。ゆえにこの戦いの要因としては、農民たちの副収入を確保するため、ということがあげられるのである。この戦が農閑期である冬に行われているのは、その傍証であろう。 **姉小路家の対応 このときの富山城の兵は13000、対する越後軍は総勢21000であり、防御側の三倍原則に則れば、姉小路側が優勢と見られていた。しかし精強で知られる長尾騎馬軍が相手ではそれなりの損耗が覚悟された。しかし、結果を見れば敵軍壊滅、長尾景信捕縛、自軍の損耗はごくわずかという、大勝利であった。 この戦いにおいて、各個撃破戦術を提案したのが[[竹中重治]]であることは[[姉小路良頼(三木嗣頼)]]や[[明智光秀]]らの日記からも明かであるが、驚くべきことに[[近衛前久]]などの公家、浅井朝倉を始めとする周辺大名など、この戦勝が竹中重治の知略によるものだと広く知られていた。 これは[[姉小路頼綱 (三木自綱)]]による宣伝工作であり、周辺大名に姉小路家が長尾家と抗する力を持つ認識させるのに十分な効果があった。同時に「姉小路に今孔明あり」とすることで竹中重治がいるだけで相手を威圧できる状態を作り上げていたのである。 なお、この戦いでの評価が後の武田包囲網に、上杉が姉小路を参加させようとする動きに繋がったと思われる。 **宇佐美定満の手記 この戦いに敗れた宇佐美定満は敗れた後の逃走劇について詳細な記録を残している。後に道中記としてまとめる意図があったと思われる。 味方がちりじりに散ってしまい、馬も失ってしまった宇佐美は徒歩にて逃走していた。「戦場からやや離れたある一村にたどりついたところでチルノを発見保護し、その後は孫づれの旅人として逃走した。」「二人連れになった後の道中でチルノがあまりに目立つ上に奇抜な行動をとったので大いに難渋した。」とある。自分が捕虜になった後のことを考えると「心を鬼にして見捨てるべきだとも思ったが、哀れではあるし、馬鹿な孫のようで本当に可愛くもあったので見捨てることが出来なかった。」と複雑な心境が切々と書き綴られている。 実際にチルノは各地で目立っていたようで、戦地から程近い村の農民の記録に「面妖ナル女童アリ。彼ノ者当家に食ヲ乞フ」という宇佐美との合流前の記録が残っているなど、彼女の逃走時の記録は多い。それにもかかわらず彼女が捕まらなかったのは、彼女があまりに目立ちすぎて落ち武者と認識されなかったが故である。ちなみに先程の農民もそれほど重大なことと思わずに、チルノと会った5日後に役人に問われて初めて妙な子供が居たと報告したそうである。 二人の旅の最大の難所は越中の越後口を固める宮崎城の城下町での出来事であった。多くの落ち武者を阻んだこの町であったが、定満の巧みな話術と孫連れの行商人風の外見から越後方の武将と怪しまれることはなかった。この町でチルノは風車を買ってもらって、それを回して遊んでいた。風車を持って走り回るチルノを見て、戦さで荒んだ人々の心も和んだようである。ところが、風車を回すのに夢中になり、よりスピードを求めてうっかり空を飛び回ってしまった。人々は驚いてあたりは騒然。定満は急いでこの町からでて北陸道を進んだ。後に国境を守るために城につめていた兵がこの噂を聞きつけて後を追ったが、親不知にさしかかった時に突如季節はずれの雹に襲われ、城兵は追跡を断念せざるを得なくなったという。 この記録はチルノ発見からその後の道中、最後にチルノが景虎に大いに叱られたところまでを詳細に記録しており、宇佐美定満の死後公開された。発表後、宇佐美定満の武将としての厳格な人柄に隠れた優しさとチルノのほほえましく愉快な行動が身分を問わず大いに人気となったという。 //僧侶は沢彦宗恩でした。沢庵ってwまだ登場してねぇっつの。恥ずかしいです。チルノのエピソード追加。土臭い感じに書けてたらいいのだけれど…。 **BGM おてんば恋娘 ~ the Foolish Gir dBu music「紅魔狂詩曲 Scarlet Rapsodia」
*越中防衛戦 '''越中防衛戦'''(えっちゅうぼうえいせん)は越中国舟橋において越後の大名[[長尾景虎>上杉謙信(長尾景虎)]]と[[姉小路良頼>姉小路良頼(三木嗣頼)]]の間で起こった戦い。 正式名称は富山合戦もしくは舟橋の戦いであるが、ここではより一般的な呼称である越中防衛戦として説明する。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵総勢13826 (2月15日-2月25日) 迎撃部隊:騎馬隊4500 :[[斎藤義龍]] 弾幕部隊:鉄砲隊500x5:[[博麗霊夢]]・[[リグル・ナイトバグ]]・[[明智光秀]]・[[霧雨魔理沙]]・[[明智秀満]] 奇襲部隊:足軽隊3000 :[[竹中重治]]      (2月25-3月20日) 奇襲部隊:足軽隊3000:斎藤義龍 迎撃部隊:足軽隊5000:竹中重治 弾幕部隊:鉄砲隊500x4:霧雨魔理沙・博麗霊夢・明智秀満・リグル・ナイトバグ 長尾・春日山城兵 先鋒隊:騎馬隊8000:長尾景信、[[村上義清]]、大熊朝秀 柏崎港守備兵 本隊:騎馬隊8000:[[宇佐見定満]]        騎馬隊5000:[[チルノ]]、他最上義守、色部勝長、佐瀬種常が従軍。 姉小路側は対越後防備として街道沿いに櫓を設置している。 長尾側は精強で知られる騎馬隊であるが、出撃地点の違いから連携の不備が見られる。 兵力はほぼ同数であり、以上の要素が戦局を左右する。 **概要 越後の大名長尾景虎は重臣である長尾景信を総大将に命じて越中に侵攻させた。先鋒として景信隊、中軍に[[宇佐美定満]]隊、後軍には新参の将であった[[チルノ]]隊として組織されていた。 しかし、突出しすぎた景信隊が、斎藤義龍の足止めをうけているうちに竹中重治の奇襲を受けて恐慌状態に陥り、鉄砲隊によって討ち減らされ宇佐美定満隊が戦場に到着する前に全滅、長尾景信は捕虜になった。 宇佐美定満隊は粘るもチルノ隊が斉藤義龍に奇襲されあっけなく壊滅、左右に櫓、前後に竹中隊と斉藤隊に挟まれ、さらに遠巻きから鉄砲隊による銃撃に襲われるという絶望的状況になり壊滅。 後、禅僧の沢彦宗恩の仲介により長尾姉小路間で停戦協定が結ばれた。 **この戦いの影響 この戦いで長尾勢が敗れたが長尾家の規模から言えばこの戦いは小競り合い程度であり、さしたる損害ではなかったと言われている。 一方、姉小路家にとっては初の大規模な防衛戦であり万全を期して望んだ戦いであった。この戦いにおいて姉小路家の矢櫓は大いに威力を発揮し、その防衛力を大いに見直すこととなった。 このことは後に一国を丸ごと要塞化するという圧倒的大国に対する防衛思想に発展した。 **長尾軍の敗因 景信隊が突出したために中軍および後軍との連絡が悪く、各個撃破されてしまったというのが定説である。 本来の総大将は景信であるが適切な指示を出すことが出来ず、先鋒の実質的な指揮をしていた[[村上義清]]、中軍の指揮をしていた[[宇佐美定満]]、2人が各々全軍に指示を出してしまった為指揮系統が混乱してしまい、混乱につながってしまったという説がある。 また、[[チルノ]]隊は元々は宇佐美の一部であったと言われており、チルノの独断で軍を割ってしまったという。さらに冬の積雪により行軍も困難であり、伝令を行き来させることすら困難であった。 以上のような状況から士気も低く、こういった要素が敗北につながったと言われている。 要約するならば、冬季の長距離行軍による士気の低下、各軍の連絡不備と、姉小路側による鉄砲、富山城の要塞化(或いは野戦築城)、[[竹中重治]]の知略が合わさった結果だと言える。 なお、姉小路家はこのときの戦訓を最大限に生かし、後の[[第二次越中防衛戦]]、[[美濃防衛戦]]につなげていくのである。 このことを考えれば、この戦いはまさに新時代合戦の萌芽と呼ぶべき戦いといえる。 //書く欄が違うかも知れない。合戦の影響に書くことかも。 また、長尾家の敗退理由の一つに、当時の長尾家の状況もまた挙げられる。旧守護・上杉家の支配体制をそのまま利用している長尾家においては、中央集権化が未熟であり、依然として国人衆の力が強大であった。 それを、長尾景虎という一人のカリスマ的指導者がそのカリスマ性によってまとめ上げておるにすぎず、長尾家はカリスマ指導者個人への崇拝とも言うべき忠誠心のみによって支えられているにすぎなかった。 それゆえ、そのカリスマ指導者が不在であり、総大将がやはり国人のひとりである宇佐美定満である今回の侵攻軍においては、宇佐美は本来同列である国人衆へと采配することとなるため、その軍事行動には従軍する国人衆の意向を受け入れた上で行わなければならず、大きな制約があった。 一方の姉小路家は、飛騨を統一する過程において中央集権化を推進。飛騨を統一しさらに他国を下すその強大な軍事力と、自らの手で完全に掌握した飛騨の諸金銀山の財力を以て、すでに国人を家臣として城下に集住させ、所領の武士から農民まですべてを末端まで掌握できる体制を構築することに成功していた。 その点においてこの戦いは、中世的地方分権的支配の長尾家と、近世的中央集権的支配の姉小路家という側面を持っていた。かつ、その体制的脆弱性を補い長尾家を強国へと押し上げていたカリスマ的指導者・長尾景虎が不在であったこの戦いにおいては、長尾家は体制的に先進国である姉小路家に敗北せざるを得なかったのである。 //歴史は人の動きの積み重ねですが、必ずしも一人の人間が歴史を大きく動かすことはできません。歴史には歴史の流れという必然があります。たとえば、謙信が史実ではいくら長生きしても信長に勝てないのといっしょです。それを表したいので、あえて社会史的側面から、様々なものを記述しようと思います。 //以下は有線個人の勝手な意見です。参考にしていただけるかどうかはもちろん自由です。 //おっしゃる趣旨には大いに賛同します。ですが元がゲームですし、世界観からもある程度『ファンタジック』さや、ゲームの展開に沿った書き方が求められると思います。謙信、信玄が史実でいくら長生きしても信長に勝てないことは私の認識と合致しています。しかし、この世界ではそうではありません。個人が神にも等しい力を持つ世界です。ですから、この作品を純粋な歴史として書くことは難しいでしょう。少なくとも東方キャラのおかげで史実では飛騨統一すらかなわなかった良頼が天下統一しかけています。要するに一人の人間が歴史を大きく動かしうる世界なのだと思います。 //具体的に申しますと、兵農分離は革新に『技術』として存在します。その技術を取得していないにも関わらず兵農分離に成功していたというのはいかがなものかと思うのです。(兵農分離して多くの兵を動かすには巨大な財力が必要ですが、史実で飛騨の金山銀山が江戸時代で三万数千石相当でしかないことを別にしてもです。) //また、ゲーム的に長尾家が強いことも説明せねばならないのです。うp主がラスボスとして扱っている以上、これを姉小路より弱いとすることは(少なくともまだ上洛すらすませていない序盤の段階では)演出上言及すべきではないと思います。 //他国からの略奪、苅田狼藉、誘拐等々については私は霧雨の野望のファンタジックな世界観にそぐわないとして意図的に言及してきませんでした。(少なくとも表現をぼかしたり限定的にしたり。)これは単なる好みかもしれないです。 //あと、謙信は義将でなければならないと思って書いてきましたw。(史実の彼を義将だなんてとんでもない話ですし、信玄もそう高く評価できない人だとは思いますけれどね。)作品のイメージや世間一般のイメージに反するような事は遠慮してきたつもりです。出来てないかもしれませんけどw。 //リアリティを求めるのには賛成です。私自身、戦国時代の専門家ってほどではないですし、こういった書き込みはありがたいです。しかし、同時に霧雨の野望という作品を尊重する点からいろいろと自主的な規制も必要ではないかとも考えます。もし、私の考えに賛同していただけるならとても幸いです。また、賛同していただけなくても所詮一編集者の勝手な思い込みにすぎないのでかまわないことだとも思います。 //つまらないことを長々と失礼しました。こんなことを書いた後に何を言っているんだと思われるでしょうが、どうぞ気楽にガンガン編集していってくださいm(_)m //p.s.洛南会戦の項の一次産業と二次産業の対立についてどなたかが質問なさっているので書いた方は対応おねがいします。 //ものすごい空白があってびびった。「//」を使う場合は改行で空白作らない方がいいみたいですね。 //城島的には長尾側の長距離行軍・連携不備、姉小路側の鉄砲の威力・半衛兵の知略による相乗効果だと考えています。軍神様が来てなかったのが最大の理由かも知れませんが。奇襲不可・足止め困難……。 //修正ありがとうございます。もう私どうしようもないなぁ。 //それもいいですねぇ。敗因とか勝因はいっぱいあったほうがリアルでいいっす。 //社会史云々書き込んだものです。有線氏のおっしゃることは、確かに理にかなっています。世界観を破壊しかかって申し訳ありませんでした。少々私の頭が固すぎたようです。すこし直しておきます。ただ、まだまだ直すところがありそうですので、どんどん世界観に合うように成形していただけるとありがたいです。 //私のわがままを受け入れていただき、ありがとうございます。また、本当に申し訳ございませんでした。むしろ頭が固いのは私の方でしょう。こんなに面白いものを書いてくださったあとにだらだらとえらそうにかつわがままな文句をつけるなど、自分ながら酷い話です。それに自分で決めた制約ですが、自分で守れてないことも多々あったり…。恥ずかしい限りです。穴があったら入りたい…。ついでに謹慎したい…。成型については必要ないと思います。第一、私にはそんなことをできる立場も実力もないです。 **出兵の理由 長尾家の出兵の規模から言って、この戦いが越中国の制圧を目的としていたとは思われず、出兵理由としていくつかの説がある。 :能登畠山家への援軍|当時、七尾城下の合戦が行われている最中であり、能登畠山家が危機に陥っているため、救うために姉小路領越中を攻めたという説である。 :長尾景信の暗殺|長尾景信は越後長尾家において元々は主家であり、景虎が後の憂いとなることを恐れて姉小路家の兵を使って暗殺しようとしたという説である。 その説によれば後に捕虜返還の使者を送ったのは家中の意見が強くやむを得ずだったということになる。しかしながら景信が戦後も景虎に変わらず仕えていることからこの説は薄いとされている。 :新たに仕官した武将の能力試し|この戦いでは、チルノや村上義清、最上義守などの新たに長尾家に仕官した武将が主力として参加している。長尾家での彼らの働きぶりを見定めるための戦いではないかという説である。 しかし、数万の軍を起こす理由としては例のないことで考えにくい。ただ、軍の人選については、このような意図が働いたという可能性はある。  ただし、この出兵理由については必ずしも政治的理由のみならず、社会的理由も鑑みねばならない。すなわち、当時農業生産に乏しく収入の安定性を欠いた越後において、農民たちはその副収入を得る必要があった。 その一つに他国への侵攻が挙げられる。彼らは他国侵攻によって侵攻地域の集落から上納金を得ていたのである。ゆえにこの戦いの要因としては、農民たちの副収入を確保するため、ということがあげられるのである。 この戦が農閑期である冬に行われているのは、その傍証であろう。 **姉小路家の対応 このときの富山城の兵は13000、対する越後軍は総勢21000であり、防御側の三倍原則に則れば、姉小路側が優勢と見られていた。しかし精強で知られる長尾騎馬軍が相手ではそれなりの損耗が覚悟された。 しかし、結果を見れば敵軍壊滅、長尾景信捕縛、自軍の損耗はごくわずかという、大勝利であった。 この戦いにおいて、各個撃破戦術を提案したのが[[竹中重治]]であることは[[姉小路良頼(三木嗣頼)]]や[[明智光秀]]らの日記からも明かであるが、驚くべきことに[[近衛前久]]などの公家、浅井朝倉を始めとする周辺大名など、この戦勝が竹中重治の知略によるものだと広く知られていた。 これは[[姉小路頼綱 (三木自綱)]]による宣伝工作であり、周辺大名に姉小路家が長尾家と抗する力を持つ認識させるのに十分な効果があった。 同時に「姉小路に今孔明あり」とすることで竹中重治がいるだけで相手を威圧できる状態を作り上げていたのである。 なお、この戦いでの評価が後の武田包囲網に、上杉が姉小路を参加させようとする動きに繋がったと思われる。 **宇佐美定満の手記 この戦いに敗れた宇佐美定満は敗れた後の逃走劇について詳細な記録を残している。後に道中記としてまとめる意図があったと思われる。 味方がちりじりに散ってしまい、馬も失ってしまった宇佐美は徒歩にて逃走していた。 「戦場からやや離れたある一村にたどりついたところでチルノを発見保護し、その後は孫づれの旅人として逃走した。」「二人連れになった後の道中でチルノがあまりに目立つ上に奇抜な行動をとったので大いに難渋した。」とある。 自分が捕虜になった後のことを考えると「心を鬼にして見捨てるべきだとも思ったが、哀れではあるし、馬鹿な孫のようで本当に可愛くもあったので見捨てることが出来なかった。」と複雑な心境が切々と書き綴られている。 実際にチルノは各地で目立っていたようで、戦地から程近い村の農民の記録に「面妖ナル女童アリ。彼ノ者当家に食ヲ乞フ」という宇佐美との合流前の記録が残っているなど、彼女の逃走時の記録は多い。 それにもかかわらず彼女が捕まらなかったのは、彼女があまりに目立ちすぎて落ち武者と認識されなかったが故である。 ちなみに先程の農民もそれほど重大なことと思わずに、チルノと会った5日後に役人に問われて初めて妙な子供が居たと報告したそうである。 二人の旅の最大の難所は越中の越後口を固める宮崎城の城下町での出来事であった。多くの落ち武者を阻んだこの町であったが、定満の巧みな話術と孫連れの行商人風の外見から越後方の武将と怪しまれることはなかった。 この町でチルノは風車を買ってもらって、それを回して遊んでいた。風車を持って走り回るチルノを見て、戦さで荒んだ人々の心も和んだようである。 ところが、風車を回すのに夢中になり、よりスピードを求めてうっかり空を飛び回ってしまった。人々は驚いてあたりは騒然。 定満は急いでこの町からでて北陸道を進んだ。後に国境を守るために城につめていた兵がこの噂を聞きつけて後を追ったが、親不知にさしかかった時に突如季節はずれの雹に襲われ、城兵は追跡を断念せざるを得なくなったという。 この記録はチルノ発見からその後の道中、最後にチルノが景虎に大いに叱られたところまでを詳細に記録しており、宇佐美定満の死後公開された。 発表後、宇佐美定満の武将としての厳格な人柄に隠れた優しさとチルノのほほえましく愉快な行動が身分を問わず大いに人気となったという。 //僧侶は沢彦宗恩でした。沢庵ってwまだ登場してねぇっつの。恥ずかしいです。チルノのエピソード追加。土臭い感じに書けてたらいいのだけれど…。 **BGM おてんば恋娘 ~ the Foolish Gir dBu music「紅魔狂詩曲 Scarlet Rapsodia」

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