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*飛騨川の戦い
'''飛騨川の戦い'''(ひだがわのたたかい)は弘治3年7月に美濃の国加茂郡の飛騨川の河畔で行われた合戦である。
飛騨川野戦、益田川の戦いとも呼ばれる。

**概要
飛騨出身の戦国大名である[[姉小路良頼(三木嗣頼)]]は越中国神保氏を打ち破り、美濃侵略を目的として13500の兵を
長男[[姉小路頼綱 (三木自綱)]]に預けて美濃に侵攻を命じた。対して美濃を治める[[斉藤義龍]]は[[遠山景任]]に8000の兵を
預けて迎撃を命じ、自身も3000の兵を率いて2度にわたって戦った。

戦闘は盆地での平地戦で、緒戦は三木軍の騎馬部隊が遠山軍の足軽隊を圧倒し続けていた。そのような時の[[斉藤義龍]]
による奇襲で姉小路軍がいったんは崩れるかに見えた。しかし知将[[博麗霊夢]]が奇襲を看破し、飛騨の悪魔こと猛将[[霧雨魔理沙]]
よって統率された精強の騎馬隊により少数の斉藤軍は混乱の後壊滅。結局奇襲は2度にわたって行われたが、2度とも奇襲隊
は壊滅させられた。孤軍となった遠山軍8000も壊滅。三木家の一方的な勝利に終わった。しかしながら三木側の負傷兵も多
く、稲葉山城攻略は断念せざるを得ない状況であり、三木自綱も飛騨に引き返すこととなった。

この戦いは戦術的に見て騎馬部隊の機動力打撃力を大いに示した戦いであり、その有効性を遺憾なく発揮した好例であろう。
三木氏は飛騨、越中の金山銀山によって経済的に富裕であり、多数の騎馬を揃えることができたのである。

**合戦の影響
この合戦による斉藤家がうけた被害は甚大で半数以上の兵を失った。この後は朝倉家との同盟に頼るも、斉藤家単独での
美濃防衛は不可能になり斉藤滅亡への流れを決定づけることになった。また、この戦で軍を率いた三木自綱の名は近隣諸国
に大いに知られることとなった。

**斉藤義龍の奇襲に関する説
後の活躍でも分かるとおり義龍は騎馬隊を巧みに扱う名将であり、なぜ自身は寡兵しか率いず、本隊を遠山景任に預けた
のかという疑問が残る。現在有力とされている説は以下のとおりである。

・義龍は先年に父である道三を破ったばかりであり、そのときの合戦で自身の直属兵の多くを失っているらしいこと。
・馬の多くを失ったが国内の混乱が収まっておらず財政基盤が脆弱であった為、馬を買い揃えることができなかったこと。
・この時点で義龍は国人衆もまとめきれていたわけではなく、実質的に国人連合の盟主にすぎなかったこと。
・遠山景任が率いていた軍も美濃の国人連合であり、兵の錬度も結束も悪かったこと。

これらの悪条件により、正面決戦を断念した義龍は自身のわずかな精兵による奇襲に一縷の望みをつないだという説である。

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